■フェイズ19「支那事変」

 1930年代後半、世界はどす黒い濁流となって動き始めていた。
 ヨーロッパでは、ドイツで1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を握ると、ドイツが急速に復活すると共に1935年にはヴェルサイユ条約の軍備縮小を破棄し、一気に膨張外交へと転じている。ドイツの動きは、イギリスとの間の海軍軍縮条約を結ぶことで一時沈静化したように見えたが、全くの偽りだった。ドイツ海軍は急速に規模拡大し、防共協定を結んだ日本から武器や艦艇までを輸入するほどだった。
 また最初にファッショ(全体主義)政権となったイタリアが、1935年秋に新たな植民地獲得を目指してエチオピア帝国に攻め込んで人々の不安を煽った。
 翌年の1936年には、春にドイツがパリ講和条約で非武装とされていたラインラント地方に国連と他国に無断で武力進駐し、秋にはスペインでファッショと人民戦線という社会主義的色合いの強い政府が内戦を始める。当然ドイツは、イタリアと共にフランコ将軍率いるファッショを支援した。そしてさらに「日独防共協定」が締結され、共産主義に対向するためという理由を表向きとして、ファッショもしくは軍国主義国家同士の連携が一層強まった。日本とドイツが手を結んだことを意外だと考える国家、外交関係者は多かったが、「持てる国」と「持たざる国」の関係を考えればそれほど不思議な事でもなかった。「持てる国」は、自らの余裕が無かったため、他者の事を余りにも疎かにしすぎたのだ。
 そして1938年春、ドイツは同じドイツ民族国家のオーストリアに武力進駐して、民衆の圧倒的支持のもとで併合してしまう。
 この中で、先の大戦の記憶が忘れれられないヨーロッパ列強は怯え竦んでしまい、アメリカでは国民の多くが対岸の火事として無関心だった。アメリカでは、誰もが大恐慌以後の不景気さえなんとかしてくれれば、自らの政府と大統領に特に反論はなかった。そうした無責任で無気力な世界的風潮が、「持たざる国」であるファッショの膨張を助長したとも言えるだろう。
 一方で、共産主義(コミュニズム)というイデオロギー(主義)の大きな潮流の源泉であるソビエト連邦内では、1937年6月から軍部に対する大規模という言葉すら不足する粛正が始まる。これも「軍隊」と主義というある種の主義のぶつかり合いとも言え、それ故にソ連赤軍は一時期足腰が立たないほどの打撃を受けることになる。イデオロギーとは、内であれ外であれ攻撃対象がなければ存在できない業苦を背負っているのだ。

 そして東アジアでは、事実上の全体主義と擬似的な軍国主義(ミリタリズム)がぶつかろうとしていた。
 事実上のファッショとは中華民国で、蒋介石という独裁者、国民党という排他的な一党独裁政党、独裁者と直結した直属の軍隊(親衛隊)、体制を支える資本階級(宋財閥など)という一通りのものを備えていた。擬似的な軍国主義とは、俄に軍部の発言力が増して暴走する日本帝国の事だ。
 中華民国の中核にして事実上の一党独裁政権である国民党は、ドイツ軍事顧問による教育と訓練、国内の共産党の撃滅、その後のソ連からの援助によって自らの軍備に一定の自信を持つようになっていた。贔屓目に見ても、第一次世界大戦型の軍隊として、国民党精鋭部隊はかなりの完成度にあった。装備の多くがドイツから輸入されたもののため、ドイツ軍独特の鉄兜姿もあって遠目にはドイツ軍にすら見えたかもしれない。上海にある一部新聞は、「黄色いドイツ軍」と海外に発信した事もあった。ソ連の供与品は、重砲や航空機中心だったからだ。日本がドイツに接近した主な理由の一つも、ドイツと中華民国の関係を断ち切らせる為だった。
 そうした軍隊が、1938年5月頃から上海近辺に徐々に増加。当時の国際法を破り、上海租界周辺の中立地帯に塹壕(クリーク)を掘り始めた。しかも塹壕は、租界中心部からやや突出した形になっている通称「日本租界」と呼ばれる地区を中心としていた。このため日本側の一部報道社が、世界中に中華民国の国際法違反を訴えた。少し遅れて日本政府も行動を起こし、欧米各国からも非難を受けたため国民党軍は一旦引き下がり、塹壕も見た目には埋め戻された。
 しかし今度は、中華民国内で在華日本邦人に対するテロ、暗殺事件などが続けて発生。日本軍人すら犠牲になり、国際問題となった。この時中華民国政府は、他国の人間、軍人がそもそも中華民国にいる事が問題なのだとして半ば居直り、日本の世論は「支那撃つべし」と激高した。日本の報道各紙も部数を伸ばすべく世論を煽り、産業界は中規模程度の軍事衝突は特需になるとして容認姿勢を示し、軍人達のかなりが既にやる気になっていた。国際世論も、日本に好意的な側と反発的な側に分かれて騒ぎ合った。この際、殆どの国にとって中華民国の事などどうでもよく、日本が何をするか、どうやれば日本の足を引っ張れるかが問題だった。
 結局のところ、日本以外の列強は自分たちの本国から余りにも遠いため、強い関心を示さなかったのだ。特にヨーロッパ諸国にとっては、中華民国の近代国家としてあり得ない野蛮な行動よりも、ナチス・ドイツの膨張とヒトラーの動きの方が遙かに高い関心事だった。
 そうした情勢の中、1938年7月に中華民国が、長年中立地帯とされていた満州帝国(王国)と中華民国の中立地帯の万里の長城以北への満州帝国軍及び日本軍の撤退を一方的に要求。万里の長城付近の北平(北京)郊外北方に自らの軍隊を大規模に派遣して、満州帝国を強く威圧する事件が起きる。また中華民国は、日本が中華の正当な領土である満州を好き勝手にしていると国際世論に訴え、日本の孤立化を画策。半ば意図的に踊ったアメリカでは、対日批判がイエロージャーナリズムと呼ばれる大衆新聞各紙を賑わせた。アメリカでは、中華民国の当時の国際慣例を無視した一方的過ぎる動きを報道する冷静な新聞も多かったのだが、日本によって満州から追い出された怒りが報道の公平さを失わせていた。
 その上で国民党は、ソ連に対して日本に対向するための支援を表だって要請。ザバイカル方面の軍隊を、いっそう積み上げるように求めた。そして、そうした上で非難の言葉を連呼しつつ再び上海に軍を進め、ついには自らの側から仕掛ける形で軍事衝突に至る。
 自らとソ連軍で満州を押さえ込んでいる間に、上海での軍事行動で日本に一定の軍事的勝利を得るのが政治的な目的だった。

 1938年8月7日に起きた「上海事変」は、当初は貧弱な上海の日本海軍海兵隊約2000名に対して、10万人以上の国民党精鋭部隊を投入した中華民国軍が圧倒的優位にあった。現地の日本海軍海兵隊は、精兵で知られ装備も充実していたが兵力差、戦力差が違いすぎた。
 このため紛争は短期間で終わり、日本の体面に泥が塗られ、中華内での日本の影響力が低下することで事件(紛争)は終息するのではないかと予測された。
 もっとも事件当初は、中華民国が強い排外主義に傾いたことに諸外国からは批判的な声が多く、特に欧州では中華民国の国粋主義化、全体主義化を危険視する向きが強かった。日本に満州から追い出されたアメリカですら、少なくとも表向きは中華民国の軍事行動を支持しようとはしなかった。また蒋介石が期待したソ連も、口では色々と言ったが、実際はほとんど具体的な行動には出なかった。それもその筈で、ソ連は自らの軍の大粛正の真っ最中で日本と睨み合うどころではなかった。
 そうした情勢を短期間で見極めた日本側は、邦人救援、上海の秩序と治安維持回復を旗印にした軍事行動と出兵を諸外国に対して表明。まずは国際的に評価も高い海援隊を送り込んで、次に国内で緊急動員された3個師団を送り込む事を議会で決める。当初日本行動は、全て諸外国に通達された。
 そして、傭兵組織である海援隊が、日本邦人救援のために上海入りしてなお中華民国軍が引き下がらなければ、日本は本気で中華民国に軍事的制裁を行うと発言したのだ。
 なおこの時期の日本の政権は、国民から圧倒的支持を受けて首相の座に就いた近衛文麿が、1937年6月から内閣を率いていた。この時の決定も、近衛にしてみれば単なる国内向けの人気取りの一環に過ぎなかった。また近衛だけでなく日本人のほとんどが、ちょっとした国内向けのガス抜き程度にしか捉えておらず、中華民国軍など鎧袖一触であると考えて歯牙にもかけていなかった。派兵そのものも、軽装備の傭兵部隊(海援隊)で十分という意識があった。

 しかし「上海事変」は、誰も望まないまま拡大の一途と辿った。まずは中華民国軍が、揚子江に停泊していた日本軍艦艇を空襲。空襲自体の損害はなく謀略説も飛び交ったが、青天白日旗を記した航空機の戦闘行為によって事態は拡大。空襲の様は、上海にいた世界中の人々に目撃され、外電として伝えられたからだ。
 しかも中華民国の予測を遙かに上回る早さで、日本の海援隊1個旅団4000名が上海に到着。迎撃準備を全くしていなかった中華民国軍は、何も出来ないままに橋頭堡を明け渡した。そしてこの段階で両者交渉を行うべきだったのだが、誰もが事態を楽観もしくは悲観し、そのまま戦闘は拡大していった。
 日本側は上陸した海援隊が相手からの通告もなく攻撃を受けると、大々的な対中華非難声明の後に、48時間の時間制限付きで台湾からの爆撃実施を警告。対する中華民国政府は、やれるものならやってみろと挑発するような声明を発表し、日本側は警告通りに爆撃を実施した。
 しかし日本の爆撃により、日本に対する国際世論も硬化。中華民国政府も国際情勢を眺めつつも徹底抗戦を表明し、その後は泥沼状態で、戦闘に一定の結果が出るまで誰も止められなくなってしまう。
 しかし現地上海での陸戦は、数で圧倒する中華民国軍が塹壕に籠もった戦いを前提としてまともに前進しないため、上海市外縁での小競り合いに終始した。中華民国軍に重砲兵火力が少ないこと、中華民国軍が国際世論を気にして大規模火力を上海に向けなかった事も原因していたが、とにかく日本人の住む地域の外縁を中心とした小規模な戦闘ばかりとなった。
 しかも上海の日本海軍海兵隊は地の利が豊富で、上陸した海援隊特別第二旅団は市街戦や不正規戦にも慣れていた。このため、日本軍の戦術的優位のまま、現地での戦闘は出口のないまま続いた。
 そこうしているうちに、日本陸軍の3個師団が日本海軍の護衛のもと上海に到着して上陸そして本格的戦闘を開始すると、中華民国は全国総動員令を下して大本営を設置した。さらに蒋介石自ら陸海軍総司令に就任し、全国を4つの戦区に分けて純然たる全面戦争体制を取った。対外向けでの声明でも、日本の侵略に断固戦うと、事実上の徹底抗戦を発表した。
 これで緊張は中華民国全土に広がり、軍事的緊張が高まっていた満州帝国国境でも散発的が銃撃戦が発生。既に「漢族撃つべし」の世論が燃え上がっていた満州帝国は、日本支持を打ち出すと共に国内に動員令を発令。万里の長城目指して大軍の動員と集結を開始する。こうなると現地日本軍(関東軍)も連動して動かざるをえず、ザバイカル方面のソ連を牽制しつつも中華民国方面にも軍を進めた。
 こうして満華国境線に日本軍、満州国軍が続々と集結し始める。しかしどの国も宣戦布告しなかったため、国際的には「紛争」もしくは「事変」として扱われる。これは、一部の国から軍事支援を受けたり国際貿易を続けるための方便でしかなく、事実上の全面戦争の勃発だった。また中華民国は、満州帝国の事を中華民国内の反乱組織だと言い張ったりもした。
 その後日本軍は、国内での一ヶ月の準備を経て新たに編成されたばかりの重機械化部隊を、上海郊外にかなりの苦労の末に上陸させる。同軍団は戦車師団と完全自動車化された歩兵師団、機械化砲兵など全ての部隊が車両編成されており、車両総数は1万両を越えていた。そしてこれらを運ぶため、臨時という名目で動員された揚陸艦艇や輸送船舶の数は100隻を数えた。
 これほどの部隊が迅速に移動、そして展開出来たのは、本来は満州への増援のため装備のかなりを、事前に軍が押さえた輸送船に積載して準備していたからだった。当然というべきか、十分な量の弾薬も戦場に持ち込んでいた。
 そして日本軍は、先の大戦で培った肉弾戦法(浸透突破戦術)も駆使し、ドイツ人の軍事顧問達が作り上げた芸術的なまでの完成度を誇る塹壕陣地を難なく突破。同時に行われた、周辺部を迂回する形での機械化部隊による迅速な陣地突破と進軍もあって、付近に展開していた約30万の中華民国軍のうち20万人が呆気なく包囲され、短期間のうちに降伏もしくは殲滅されていった。兵力数では依然として日本軍が不利だったのだが(日本軍の方が半数程度)、機動力と火力の違いが大きすぎたため、小数の日本軍に対して中華民国軍は為す術がなかった。
 かくして上海での戦闘は、第一次世界大戦型の戦術が次世代の戦術の前に敗れ去った最初の戦例となった。しかし上海での戦闘の詳細は、観戦武官などが双方の軍に伴われていなかった事もあり、諸外国に詳しく伝わることが無かったため、より規模を拡大した戦闘がその後ヨーロッパで予備知識が少ないままに行われることになる。
 それに前後する1938年9月、中華民国は首都を南京から重慶に移転した上で徹底抗戦を宣言。この時をもって「支那事変(中華紛争)」勃発とする。北部からも、先走った満州帝国軍が万里の長城を突破した。こちらも満州族の国土奪回をうたって戦争でないと定義したため、中華民国、日本、満州の全てが戦争でないと言った戦争が成立する。

 「上海殲滅戦」と呼ばれる戦いは、1938年10月に行われた。その後も、降伏せずにただ闇雲に逃げる国民党軍、中華民国軍兵士を、機械化された日本軍が背後から一方的に攻撃するという戦闘を継続しつつ前進。ここで現地日本陸軍は、ドイツ軍などが好んだ独断専行を大規模に実施。政府が求めた政治的な進撃停止線を、「現場の判断」により無視して前進し、首都南京目指して進撃を続行した。
 この時点で、日本政府が画策していた当面の幕引きは完全に破綻してしまう。しかも久しぶりの軍事的勝利に浮かれた国民に煽られた日本政府は、この時とばかりに中華民国に相手が簡単に受け入れる筈のない過酷な要求を「気分」のまま突きつけてしまい、事態をさらに泥沼化させてしまう。近衛政権、というより近衛文麿の無定見さが如実に現れた形だった。
 しかもこの頃は時期が悪く、ちょうどこの年の秋にヨーロッパで「ミュンヘン会談」が行われていた。そして戦争の危機が遠のいたと思った途端に、ドイツがチェコスロヴァキアのスデーデン地方以外のチェコもそのまま併合し、枢軸陣営がどん欲な侵略者で戦争も辞さない存在だと、欧米各国に決意を固めさせた頃だった。
 当然、中華民国に攻め込んでいる形の日本を見る諸外国の目は厳しくなり、各国との関係も関係も急速に悪化した。
 そうした中で日本政府は、1940年開催予定のオリンピック、エキスポ開催を自ら辞退する形で断念する事を決断。日本中に大きな落胆をもたらし、近衛内閣は紛争の早期収拾失敗と合わせて責任を取り、総辞職せざるを得なくなる。日本国民にとっては、支那事変拡大よりも五輪、万博の辞退の方が余程の落胆をもたらしていた。国民的人気の高かった近衛文麿の人気も、一気に地に墜ちた。この時の解散を、「五輪解散」や「五輪総辞職」と呼んだほどだった。
 その後の1938年11月、平沼騏一郎を総理とする内閣が成立。しかし内閣が機能するようになるまでに、中華民国領内の現地日本軍は進撃を続けてしまう。1938年11月10日には、中華民国の首都南京がほぼ何の抵抗もなく、ほとんど開城といえる状態で陥落。以後、重慶政府とも呼ばれる中華民国と日本の全面戦争が本格化する。
 また同時期の華北地域では、既に万里の長城を越えていた約15万の満州帝国軍が、現地の中華民国軍(軍閥)を蹴散らして北平(北京)へとなだれ込み、同方面の関東軍も準備を整えた上で迅速な進撃を開始していた。このため、南京が陥落する頃には、北平だけでなく天津も日満軍の手に落ちていた。
 なお、この時の満州帝国軍は、北平(北京)中心部の紫禁城など清朝時代の遺構や遺物に乱入。城は持ち出せないが、美術品や装飾品の多くが先祖伝来のものであるとして、多くを自国に持ち出している。こうした行動はその後も続き、中には先祖の墓をそのまま自国に移設する事も行われている。
 また、北部の中華民国軍(または軍閥)は、満州帝国軍ではなく日本軍に降伏することが多かった。満州帝国軍だと降伏を認めずその場で虐殺したり、降伏を受け入れてもその後虐待や即決裁判での射殺などが横行していたからだった。
 こうした側面からも、支那事変は単純な武力衝突ではなく、民族戦争的な側面も多分に持ち合わせていた。現地の日本兵が、呆然と眺める状況も多かったと言われる。

 「支那事変」もしくは「中華紛争」は、当事者の誰にとっても誤算の戦争だった。喜んだのは、軍需企業を例外とすると、満州帝国の満州族や貴族、清朝滅亡で不遇となった人々ぐらいだと言われた。彼らにとっては、またとない復讐の機会だったからだ。
 中華民国というより蒋介石は、日本の軍事力や経済力を完全に見くびっていた。というよりも、理解していなかった。日本人達の殆どは、中華民国もしくは漢族のナショナリズムを評価すらしていなかった。諸外国は、たいした理由もなく泥縄式に事実上の全面戦争になった事が信じられなかった。
 しかし諸外国は、軍国化が進み経済力、工業力を付けている日本の足を引っ張るまたとない機会と捉え、また同時に戦争特需にあやかる絶好の機会と捉え、中華民国への支援や武器輸出を行っていく。国によっては、日本への積極的な輸出も行っている。
 そして支那での紛争早期収拾失敗に焦った日本は、攻勢を強めて短期戦での屈服を狙うべく国内での動員を大幅に強化。兵器や物資の増産も急ピッチで進め、国内の総力戦体制が一気に進められた。このため日本国内では、俄に支那事変特需が発生し、莫大な税金を投入した戦争という特殊な公共投資によって、当時肥大化が進みつつあった重工業界を中心に大きな活況に包まれた。
 日本軍の動員は急速に進められ、1938年内に殆どの現役師団が準戦時状態にまで動員され、そのうち半数が同年内に戦時編制で戦場へと投入された。しかも先の世界大戦とその後の軍縮で作られた予備師団も急ぎ動員が進められ、上海事変から半年で日本陸軍の数は100万人を越えた。2年以内に最大200万人まで動員される予定で、戦費も2年で50億円(15億ドル)までなら容認できる予算枠と増税策も組まれた。なお、事変による経済効果としては、2年以内なら年率20%の成長が見込まれた。満州帝国でも、軍需産業を中心とした工業の拡大と、日本軍の策源地としての経済効果による経済成長が見込まれた。軍需関連企業では、先の戦争を見越して多くの設備投資が行われた。軍事を中心にして、株価も天井知らずとなった。
 そうした戦争の基盤を整える傍ら、続々と増強される現地日本軍及び満州帝国軍は、敵野戦軍撃滅を狙った攻勢を発起。日本軍は、整備されたばかりの大量の機械化戦力を大規模に投入して、1939年1月に「徐州殲滅戦」を、同3月には「武漢追撃戦」を実施した。
 この戦いでは、日本中から集めた多くの戦車、装甲車、自動車両が投入され、日本軍だけで総数5万両もの各種車両が中華の平原をうごめいていた。ソ連に備えて満州国内に備蓄されていた分と、日本国内から大量の船舶を動員して急ぎ送り込まれたものだった。
 この機械力と多数の航空隊がもたらした制空権が、日本軍による迅速な機動と包囲殲滅戦を可能としたのだった。そしてこの戦闘は、日本陸軍全体の機械化が進んでいることを示していると同時に、工業国の軍隊とそうでない軍隊の差を如実に示した戦いとしても注目された。また、中華地域中心部は比較的平坦で地形障害が少ないことが、機械化部隊の迅速な前進を可能としていた。北京周辺の大平原などは、世界的に見ても大規模な機械化戦にもってこいの場所だった。
 さらに日本軍は、海兵隊、海援隊を中心とした部隊によって、諸外国の中華民国向けの物資集積地となっていた広東一帯を奇襲的に占領。多数の兵器や物資を差し押さえると共に、兵器生産力のない中華民国の喉元を締め上げた。
 その後も日本軍は、常に圧倒的な機械力、航空戦力を投入して、中華民国軍主力を終始圧倒。半ば泥縄式の後退戦術を取る中華民国軍の大規模な逃走を許さず、開戦からわずか8ヶ月の戦闘で、約150万の中華民国軍を包囲降伏もしくは殲滅した。これにより国民党精鋭部隊は、重慶に逃れた一部を除いてほぼ完全に壊滅し、沿岸部の軍閥も半数近くが壊滅もしくは消滅した。沿岸部や平野部で生き残った軍閥の多くは日本におもねった軍閥で、以後中華民国軍の活動は極めて低調となる。国民党が300万と謳った軍隊は、その殆どが短期間で壊滅していたのだ。
 日本軍、特に日本陸軍としては、「武漢追撃戦」が80%以上の成功で終わった時点で、戦争にケリがついたと考えたほどだった。

 しかし、揚子江上流部の狭隘な地形の向こうに広がる盆地にある重慶を拠点とする蒋介石の重慶政府は、まともに戦う力を失ったにも関わらず徹底抗戦を唱え続けた。そうしなければ、諸外国からの援助が途絶え、国内で日本の勢力が増大するというマイナスの結果だけが残されるからだ。場合によっては、満州帝国に大幅な領土割譲される恐れもあった。蒋介石が失脚することは言うまでもない。
 また他方では、日本軍の高い戦闘力にソビエト連邦が驚き、シベリア方面での防衛的性質をいっそう強めた。このため同年春に起きた満州帝国軍とモンゴル人民軍による辺境での小規模な国境紛争は、主にソ連側の努力によって早期に収拾している。当時、粛正により軍の能力が大きく低下していたソ連は、事実上の全面戦争で一気に強大化した日本との本格的な対立を望まなかったのだ。そしてこの事件は、ソ連が中華民国を見限ったと捉えられ、特に中華民国政府を大きく落胆させている。
 だがこの時点で、日本も手詰まりとなりつつあった。
 臨時首都重慶への進撃は、揚子江上流部の狭隘な谷間を抜けなければならなず、当時の同ルートには鉄道が存在しない事から、短期間での侵攻が物理的にほぼ不可能だったからだ。進撃と補給のための自動車両と物資などを準備するにしても、最低半年が必要と考えられた。しかし日本には、事態収拾を急がねばならない理由があった。武漢での戦いが始まった4月、アメリカが「日米通商航海条約」の破棄を通告し、何もしなければ半年後には通告は実行されてしまうからだ。
 この時日本の駐米大使はアメリカ側に食い下がったが、選挙を控えていたルーズベルト政権は、日本政府に対して即座の停戦と撤退を求め、日本軍の残虐行為に対するアメリカの非難の態度だと短く説明。アメリカと中華民国の繋がりと、アメリカ現政権の中華民国に対する奇妙なほどの肩入れを、日本側に痛感させることになる。また同時に、ルーズベルト政権が日本との対立を故意に望んでいることも理解しなければならなかった。
 当然と言うべきか、日本人のアメリカに対する悪感情と敵意は増した。

 そして日本としては、アメリカの事はともかく中華民国との紛争状態を一日でも早く終わらせなければならないと、一層強く考えるようになる。事変が解決しなければ、他の外交問題に取りかかることも難しいと痛感したからだ。
 そこで日本は、水面下で進めていた和平に向けた計画を進めると同時に、強硬路線も実施した。
 強硬路線とは、臨時首都重慶に対する大規模な爆撃だった。都市爆撃以外に、日本軍が中華民国を効果的に攻撃して相手を降伏に追い込む手段がなかったからだ。
 5月に武漢一帯が陥落すると、すぐにも準備が開始される。
 日本各地、中華戦線各地、さらには満州からも陸海軍の航空隊が続々と集結し、翌月すぐにも爆撃が開始される。爆撃部隊の司令長官には海軍側の中将が立ったが、これは海軍の方が多数の長距離爆撃機を用意したからで、日本陸海軍合同作戦という点では高い評価を与えても良いだろう。
 しかし1939年6月に入ってすぐに行われた「第一次重慶爆撃」は、機体、爆弾など準備不足で失敗してしまう。また重慶に集結していた中華民国空軍の反撃もあって、予想以上の損害を出すことにもなった。このため日本軍は陸海軍合同での大規模攻撃の実施を決め、一ヶ月の準備期間を置いた上で、同年7月に「第二次重慶爆撃」を開始する。
 1939年7月3日、日本軍は300機以上の重爆撃機を投入した重慶総攻撃を実施した。都市無差別爆撃となった同爆撃で主力となったのは、新明和製の「九八式大攻(大型攻撃機)」だった。同機体は、航続距離1500キロで積載量4トンを誇る、当時としては大型で積載量も多い爆撃機だった。これを戦争開始以来増産と慣熟訓練を重ねた海軍は100機あまりを投入、当時としては圧倒的な戦略爆撃を実現してみせた。しかも日本軍は、大量に集積した物資と爆弾を用いて、何度も反復攻撃を実施。爆撃開始から一週間で、延べ2000機の爆撃機と1500機の戦闘機を投入。僅か1週間で、5000トン以上の爆弾を投下する。当時の日本中の航空爆弾をかき集めたと言われた戦闘だったが、航空機の国産が出来ず輸入機のみで戦闘を継続しようとする中華民国空軍が対処できる戦闘規模ではなかった。実際、中華民国空軍が用意できた航空機の数は、最大で約200機。ほとんどがソ連から供与された見た目も性能も悪い旧式の「I-16」で、新型機を多数投入していた日本軍戦闘機のいいカモに過ぎなかった。
 そして援護のため随伴した日本軍戦闘機隊の活躍によって、迎撃に出た中華民国空軍も壊滅的打撃を受けた。短期間ながら激しい空中戦も続いた事から、世界初の航空消耗戦だとも言われている。
 ちなみにこの時の戦いでは、日本軍の「九九式艦上戦闘機」が被撃墜なしで三倍の数の敵編隊を壊滅させるという華々しいデビューを飾っている。
 大規模な爆撃の結果、当時それほど都市規模の大きくなかった重慶全市は壊滅し、市街のうち半分以上(約70%)が全壊となった。死傷者の数は数万人に及ぶと言われるが、当時はまともな統計数字も無かったため、いまだ正確な数字は分かっていない。
 また、重慶から伸びる援助ルート(道路)の多くも、爆撃による破壊で一時的に途絶していた。
 これらの戦闘だけでも中華民国にとっては十分停戦を考えねばならない事態だったが、事態は一層深刻だった。爆撃によって蒋介石が死亡し、同時に国民党幹部や政府首脳部の多くが死傷したためだ。
 この時日本軍は、重量500キログラム、800キログラムの大型爆弾多数を、事前調査で突き止めた国民党の施設、避難場所に集中的に投下。地域一帯を「月面のような」と後に表現されるほど破壊している。このため、蒋介石の遺体はついに発見されていない。日本軍としては、大阪冬の陣での徳川方の大砲のように蒋介石を脅す程度の積もりの爆撃だったと言われているが、もしそうなら日本軍の方が中華民国を高く評価しすぎていたと言えるだろう。800キロ爆弾の連打に耐えるほどの重防空壕を建設するには、一定の能力がなければいけないのだ。
 なおこの爆撃により、世界の対日世論はさらに硬化し、アメリカの一部新聞などは日本の残虐非道な行為を激しく非難した。しかもこの重慶爆撃は、敵国元首を抹殺してしまった事から、ドイツが行ったスペイン・ゲルニカを越えるほどの悪行とされ、日本非難の絶好の宣伝材料として後々まで利用される事になる。死亡した蒋介石も、国際的な英雄に祭り上げられた。
 そしてこれ以後「チョンチン・ジェノサイト」は、常に日本非難の最右翼の言葉とされた。

 一方その頃、武漢が陥落した前後に、国民党内で蒋介石に次ぐ有力政治家だった汪兆銘が重慶を脱出。日華双方による丁々発止の暗闘を経て無事に日本の庇護下に入り、日中両国の和平交渉のための話し合いと準備を始める。
 そして上海にて、日本側特使となった幣原喜重郎(副特使には同期の吉田茂)と汪兆銘の間に、「幣原=汪会談」が開かれる。そこに重慶壊滅の報が舞い込み、事態は一気に進展する。
 重慶壊滅の同月21日、汪兆銘は重慶に帰還。各地に散っていた同士と共に重慶に入り、壊滅した重慶政府の残余もまとめあげて国民党を建て直し、尚かつ新たな政府を成立させる。そして日本との現実的対話について、政府内をまとめることにも成功する。党首と強硬派が爆撃で根こそぎ失われた国民党に、既に日本との戦争を続ける気力もなかった。
 アメリカなど中華民国を支援していた国々が慌てるが、多くの占領地を日本に委ね続けることは、今後の内政に致命的打撃を与えかねないとした中華民国政府は、即座に諸外国が日本に宣戦布告でもしてくれない限りこれ以上の徹底抗戦は不可能だと、半ば投げやりに諸外国の手を振り払った。特にアメリカについては、金と口しか出さずに犠牲だけを強要すると、強く非難したと言われる。
 これに対してアメリカでは、ルーズベルト大統領が、彼らにとって中華の民主化の予言者にして体現者である筈だった汪兆銘に酷く失望したと言われている。
 またこの中華民国の突然とも言える停戦そして講和に向けた動きは、アメリカにとって想定外の出来事だった。彼らの支援する蒋介石が最後の砦である重慶と共に滅び、彼らの「ゲーム板」は消滅。そこに日本が新たな「ゲーム板」を用意して、自分たちの都合でゲームを終わらせてしまったのだ。しかも短期間のうちに事態が進んだため、アメリカは干渉や介入することが出来なかった。その上、事が紛争終結でもあるため、アメリカも講和に対してすら文句が言いにくかった。表向き、戦争を止めるように言って、戦線を拡大する日本を最も非難していたのはアメリカだったからだ。
 アメリカが国家元首抹殺で日本を強く非難したのも、その後通商条約を破棄したのも、彼らにしてみれば当然の選択だったのだ。

 1939年8月8日、中華民国では正式に汪兆銘を首班とする新政権が成立。その後10日余り後の同年8月20日に、日華及び満州帝国は電撃的な停戦に合意。戦闘行為は、ほぼ1年間で終息する。
 そしてその翌日には、戦争ではなく事変のため講和会議ではなくあくまで会談とされた三国による会議が、依然日本軍が占領を続ける南京で開催された。ほぼ即日で決まった和解条件は、中華民国政府による満州帝国の承認並びに内蒙古割譲の承認。相互賠償なし。内蒙古以外の領土割譲なし。北支、上海、日本領海南島近辺での中立地帯、非武装地帯の再度の設定。中華民国領内からの日本軍、満州軍の早期撤退(3ヶ月以内・租界除く)。国交、通商の回復。捕虜の解放など、とされた。
 また同会議では、未だ完全には滅ぼされていない中華共産党並びに国民党に反抗的な軍閥への攻撃に対して、日本、満州が中華民国に協力することが決められた。さらに、中華民国がソ連との関係を絶つ代償として、日本が代わりに支援と戦災復興を約束。その証拠として、同会議において「日華合作協定」が結ばれ、日本は向こう3年間の間に7億円(2億ドル)の借款を約束。同時に中華民国への技術供与、工場建設なども約束した。
 一方で中華民国は、日本が勧めた防共協定への参加は見送り、真摯に検討するという言葉のみに止めた。

 なお、支那事変での日本兵一人当たりのキルレシオ(撃破率)は50対1とされ、本当の近代化された軍隊とそうでない軍隊の差が証明される。また、日本陸軍が体験した、「初めて」の総力戦、物量戦となるが、陸軍中枢では現実認識よりも自らへの奢りなどマイナス面が際だつ結果になる。
 一方では、日本軍の弱点や欠点、兵器や戦術の不備など多くの問題が浮き彫りにされ、それが順次改められたり改善された事は、その後の日本軍にとって大きな収穫となった。特に実戦経験を積んだ兵士を多数確保出来たことは、何にも勝る収穫とされた。

 支那事変終息に対して、世界は思ったより長引いたと考えた者が過半だったが、アメリカの落胆は大きかったと言われる。アメリカが本格的な対中華支援や援助を行う前に終わったため、ほとんどアメリカの政治、経済に影響がなかったからだ。しかも日本の国力を消耗させるという目算も外れ、むしろ現状での日本の軍拡が進んだ上に、日本経済も自らの戦争特需で大きく活気づいていた。日米の経済格差は、過去最高にまで狭まっていた。
 これは、向こう3年から最長5年ほどは、アメリカは日本に対して外交的不利を背負わなければならない事を意味していた。その後に大きく挽回できるのは確実だが、世界情勢が極めて不安定な時期の3年は大きすぎる失点ではないかという観測が、アメリカの中枢では行われていた。仮にアメリカで共和党が政権を奪回して軍縮にでも転向すれば、アメリカは向こう十年日本に軍事的に頭が上がらない可能性すらあった。
 そして世界の不安定さを象徴する事件が起きる。
 1939年8月23日、「独ソ不可侵条約」締結。日華の講和が成立した僅か3日後に、不倶戴天の敵同士、決して握手することはない独裁者同士と考えられていた、ドイツとソ連、ヒトラーとスターリンが握手するという歴史的大事件が発生したのだ。
 これは欧州情勢が次なるステージに進んだことを示すものであり、また日本の当時の為政者の言葉によって、日本の見識の甘さ、見通しの甘さを痛感させる事になる。
 支那事変をようやく収拾し一息ついた直後の世界的な変化に日本の平沼首相は驚くほど落胆し、8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した。
 そして海軍出身の米内光政が次の政府首班となって日本の行く末を舵取りしていくことになるが、それは血の河、血の海への船出であることを多くの人々が理解する船出であった。

●フェイズ20「開戦狂想曲」