■フェイズ21「日本参戦」

 第二次世界大戦初期の頃、世界は今回も先の世界大戦とたいして変わらない展開を予想していた。仇敵同士のドイツとソ連が一時的であれ手を結ぶという「ハプニング」はあったが、先の大戦の勝者であるイギリス、フランスが負けるという予測は誰もしていなかった。急速に軍事力を復活させ、ポーランドを一ヶ月と費やさずに滅ぼしたドイツの軍事力を懸念する声は小さくはなかったが、それでも先の大戦で勝利したイギリス、フランスが簡単に負けるという光景は想像し難いものだった。陸軍、海軍は英仏の圧倒的という以上の優勢であり、とかく脅威が言われていた空軍力については未知数が多かったからだ。
 そして実際の戦争も、西ヨーロッパでは少なくとも1940年春までは比較的のんびりしていた。しかし現実とは、時として人々の想像を遙かに超えてしまうものだった。

 1940年4月にデンマークが一瞬で占領され、ノルウェーを巡る攻防戦が始まる頃は、まだ誰もが連合軍の優位を信じていた。実際弱小なドイツ海軍は、侵攻した先のノルウェー各地で、ノルウェー軍の反撃と主にイギリス軍の攻撃で大きな損害を受けた。英仏がもう少し本腰を入れていれば、少なくともノルウェー北部での戦いの軍配は、連合軍に上がっていたと言われる事も多い。実際英仏にとっては、弱小なドイツ海軍がノコノコ外洋に出てきた形のため、ドイツ海軍撃滅の戦税一隅のチャンスと見て、さらなる増援投入の準備を急ぎ進めていた。
 しかし西部戦線が動き始めると、連合軍はノルウェーどころで無くなってしまう。
 それでも、5月10日にドイツ軍が一斉にオランダ、ベルギーに侵攻を開始しても、まだ世界は想定内だと事態を楽観していた。先の大戦の教訓を踏まえた軍備を整えた英仏軍の方が、ずっと有利だという意見の方が強かった。そして大方の予測通り、既にフランス国境に布陣していた英仏連合軍も、先の大戦を教訓とした行動を一斉に開始し、ドイツ軍を押し戻すべく迅速な進撃を開始したことも安心材料となった。この頃連合軍の諸国民が恐れていたのは、ドイツ軍が毒ガスを使用した無差別攻撃をするかもしれないという点だった。
 しかし僅か四日後の5月14日にオランダが降伏すると、事態が容易ならざるものである事が少しは理解されるようになった。このためイギリスでは政権交代が発生し、5月15日にウィンストン・チャーチルが新たに首相となって挙国一致内閣によって戦争を指導するようになった。
 一方フランスでは、ドイツ軍が今までとは大きく違う戦略と戦術を用いてパリを目指しているとして、首都のパリではパニックが起きた。しかし、共和国政府は適切な指導が出来ず、頑迷なフランス軍総司令部は誤った指示を前線に出し続け、5月20日に破局を迎える。大部隊の突破が不可能と判断されていた、アンデンヌと呼ばれるベルギー国境付近の森林地帯を突破したドイツ軍の機械化された主力部隊が、一気にフランス領内を突き進み、その一部が早くも24日にはドーバー海峡に達したからだ。
 ドイツ軍の包囲下には、自分たちに向かって進んできている筈のドイツ軍を押し戻すべく、またベルギー、オランダ救援のため前進した、英仏連合軍主力部隊の4個軍がいた。この部隊がフランス本土と切り離される事で、連合軍の戦線は早くも崩壊したも同然となった。
 5月26日からは、「ダンケルクの奇跡」と呼ばれるイギリス本土への脱出作戦(※「ダイナモ作戦」)が行われて大きな成功を収めるも、この時点でフランス戦役の大勢は決した。
 その後フランス軍は、大軍を動員してパリ前面に配置するのだが、前大戦そのままのような前近代的な軍隊では、機械力と空軍力を合わせた革新的戦術を確立したドイツ軍を押しとどめることは出来なかった。
 6月14日にパリは無血開城同然で陥落し、同22日フランスは降伏。第三共和制は呆気なく崩壊した。
 陸軍大国フランスは、僅か6週間で崩壊した事になる。
 パリ陥落から降伏までの僅かな日数の間に、フランス海軍とフランス本国にいた船の多くが、一旦は本国以外のフランス領やイギリスなどに逃れた。軍艦については殆どが逃れ、中には空母《ジョッフル》のように、辛うじて動ける程度の建造半ばの艦艇まであった。だが、だからといって何かが出来るわけでもなかった。新鋭戦艦の戦艦《リシュリュー》、同型艦で就役直前だった《ジャン・バール》もアフリカ西部のダカールへと逃れて情勢を見定めようとしたが、制空権どころか国家の支援すらない軍艦に出来る事など無かった。すぐにも亡命政権が出来て、力強く後ろ盾する国家でもあれば話しは別だが、そうしたことを期待することは難しい状況だった。同盟国イギリスも、ドイツに追いつめられていたからだ。
 そして、連合軍というより孤立無援となったイギリスの苦境は続いた。ドイツ軍は誰もが予測しなかった程強大であり、対するイギリスは大陸で陸軍装備の大半を失った上に、空軍も大きな劣勢にあった。
 だが、イギリスは屈することはなく、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが「イギリス政府の理性的反省にもとづく和平交渉に臨む用意がある」としたうえで、「この提案を無視すればイギリス本土での全面戦争も辞さない」と宣言するも、チャーチル首相以下イギリス国民はヒトラーの提案を一蹴。以後「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる、航空機を用いた大規模な戦闘がイギリス本土であるブリテン島南部を中心にして展開される。空での決戦が行われたのは、海軍力が劣るドイツはドーバー海峡とブリテン島南東部の制空権を得なければ、ブリテン島への侵攻を行い戦争を終わらせることが不可能だからだ。
 だがこの戦いは、空軍戦力において大きく不利だったイギリスに軍配が上がる。新兵器であるRDF(電探)と無線を多用した効率的な迎撃管制システムと、イギリス軍パイロットの不屈の闘志が、勝利をもたらしたとされた。だがその裏には、アメリカが輸出したオクタン価の高い航空機用ガソリンも影響していた。この事は、国際関係の変化を伝えるものであった。

 一方、戦争が始まってからというもの、日本はドイツとイギリスの間をノラリクラリと行ったり来たりして、中立国としての状況を巧みに利用していたが、徐々に外交が難しくなっていた。
 追いつめられたイギリスと、西ヨーロッパでの戦いにチェックメイト(王手)をかけつつあるドイツのそれぞれが、日本に自らの陣営に立って戦うことを強く求めてくるようになったからだ。
 イギリスの行動はドイツよりも早く、5月の第3週には日本に大使だけでなく外交特使を送り込んできた。
 そしてイギリスは、日本の前に並べられるだけの「アメ」を並べていった。三国同盟の空文化という日本にとって「苦い」提案と要望をまず行い、その上で各種資源の安価な優先的供給、期間を区切ってのアジア市場の関税開放、最恵国待遇、先端技術の安価な供与という「アメ」を並べていった。当然その先には、イギリスとの軍事同盟とイギリスの側に立っての参戦が待っているのだが、世界の四分の一を占めるイギリスの資源と市場を使えるという事は、日本にとっては願ったり叶ったりの条件ばかりで、目移りすらしそうだったと、当時の人々が述懐するほどだった。しかもイギリスの特使は、日本が正しい道に戻り全体主義を倒す一助をなすのなら、ドイツとの同盟を反故にしても戦後文句を言う国はないだろうとすら言ってきた。
 そして特使は言った。今は平時ではなく戦時なのです、と。
 だが外交常識や国家間の関係を考えると、三国防共協定を日本の側から簡単に反故にすることは、外交上得策とは考えられなかった。しかも同盟国を裏切ることそのもが、心理面でも大きなマイナス要因となる。戦時だからこそ、外交の原則を守る事に一定の価値があると考えられた。
 このため米内首相以下の日本政府は、即断することを避けた。しかし何もしないわけではなく、国内においてはどちら側で参戦するにせよ国内の戦争準備を進めるようになる。外交面では、イギリスとの交渉のパイプを確保しつつも、ドイツやアメリカに対する情報収集と接触を増やした。もっとも、この頃日本国内では、ドイツの勝利に幻惑された一部の軍人達と国粋主義者達が、「バスに乗り遅れるな」と積極的な主戦論を唱えるようになっており、日本国内の情勢は安易に同盟相手を変えられる状況ではなくなっていた。賢者だけで歴史は動かないのだ。米内内閣は、即断しなかったのではなく、即断出来なかったとも言えるだろう。
 そうしている間に、ダンケルクの奇跡が起きてフランスが降伏していった。しかもその間に、イタリアがドイツ側に立って参戦し、隣接する地域への侵攻を開始する。
 ここで日本政府は、戦争が短期間で終わるのではないかという予測を立てて、半ば期待を抱いた。フランス降伏とイギリスの大陸派遣軍の事実上の壊滅は、戦争終結に十分説得力があると考えられたからだ。
 このため日本政府は、米内首相の決断により一端中立姿勢を強めてしまう。これでイギリスの日本への態度は、以後硬化した。イギリスの変化にはアメリカが影響していたと言われる事も多いが、日本外交の失敗でもあったともされる。
 そしてイギリスは「ジョンブル」という二つ名の通りの不屈さを示し、降伏することなく徹底抗戦を選択し、ドイツと激しい戦いを開始する。この間日本は、念のため自らの戦争準備を進めつつも中立姿勢に終始した。唯一ソ連に対する警戒を強めたが、これはソ連がついにバルト三国に進駐したからだ。そしてここで日本政府は、ソ連軍進駐前のバルト三国の各国大使館に対して救いを求める全ての者への行動を命令する。本土の外務省の一部が反対したが、日本の中立性を宣伝するにはまたとない機会だとして、外務大臣自らの訓電で各大使館に行動を促した。この結果として有名なのが、各国のユダヤ人にビザを発行し続けた事だろう。
 しかし中立政策を軸とした外交ではどうにもならない事態が、刻一刻と近づいていた。

 ドイツはイギリスが徹底抗戦を決めると、日本への接近を極端なものとした。ドイツは、イギリスが本国を失っても戦い続けるという想定を新たに構築し、イギリスの後背や植民地を攻撃できる日本を戦争に引きずり込み、それによってイギリスとの戦争を一日でも短くしようと考えた。
 棚上げ状態になっていた軍事同盟の話しも、ドイツの側から積極化した。同盟の対価として最新兵器、技術の安価な供与や、戦勝の際の取り分を日本により多くするなど、イギリスに負けず劣らずな話しを持ちかけてくるようになった。
 この時の例えとして、ナチスドイツは日本に「世界征服」を持ちかけたとされる。まさに、悪魔の囁きだ。
 そしてこの交渉の中で日本は、ドイツが一日も早くイギリスとの戦争にケリをつけ、ロシア人に向き合いたいと考えていると当たり(予測)をつけた。そしてそれならば、日本も戦争に加わる意義が出てくるのではないかという意見が、内々で台頭する。外務省のごく一部では、日独伊に加えてソ連、中華民国による大ユーラシア同盟を結成してアメリカ・イギリスへの対向を唱える者もいたが、ドイツ人とロシア人の長期間の協調はあり得ないという意見が大勢を占めた。
 そしてイギリスとの戦争を可能な限り短期間で終わらせ、その果実を得た上でロシア人を東西から包囲するというのは、当時の日本人にとって甘美で危険な香りを放っていた。それに、そもそも防共協定とは共産化したロシア人に対向するための協定なのだから、1930年代の日本外交上では目的は完全に合致していた。そこに主戦派の声が重なり、日本はドイツとの軍事同盟の強化を足がかりとした対英戦争、そしてさらに本命の対ソ戦争を内々に決意するに至る。しかしこの事は、軍事同盟が結ばれるまでは内々の事であり、本来なら漏れる筈はなかった。
 だが、日本の中枢にまで触手を伸ばしていた共産主義者のスパイ網に情報は捉えられ、その情報はどういう経緯かイギリスへと短時間のうちに伝わる。そして事態を知ったイギリスは、日本との交渉を行いつつも対日戦の準備も進めるようになる。
 そしてイギリスは、ルーズベルト政権下のアメリカが緩やかながら着実に戦争準備を行いイギリスへの協力を強めている事で強気になり、日本を出汁にしてアメリカを裏口から戦争に引き込むことすら画策するようになる。
 そうした上でイギリスは、あえて日本を挑発するように東アジアへの軍備増強を開始する。主な戦力は、当時はドイツとの戦いにあまり必要ではない海軍の大型艦艇で、逆に海上戦主体となる日本にとっては大きな脅威だった。表向きは、ドイツの通商破壊艦艇に対する対処だったが、誰を目標としているかは問うまでもなかった。
 だがイギリスも、日本が敵となった場合の脅威を相応には認識していたため、片方では交渉も継続した。
 この時点で8月で、イギリス本土はまさに「バトル・オブ・ブリテン」たけなわだった。イギリスの受けるプレッシャーは極めて強く、日本との交渉もせっぱ詰まったものになる。

 そしてイギリスは、オランダなど自分達側に属する全ての国家(自由政府)が持つ資源カードを用いて、事実上最後の対日交渉を行う。日本側も、米内政権は可能ならばイギリスとの戦争は避けたいという向きが強かったため、イギリスとの交渉には積極的だった。
 この「日英交渉」でイギリスは以前より条件を厳しくし、日本に急ぎ変節を迫った。一方の日本側は、当面は中立以上の妥協はできないとして、両者の交渉は平行線を辿る。
 結局「日英交渉」は短期間で破綻し、日本は錫やボーキサイトなどの各種資源の入手先を事実上失い、日本とイギリスの関係は極度の悪化へと進む。しかも、イギリス、イギリスと共に戦う連合軍各国ばかりか、イギリスになびく中立国や自由政府までが、イギリスとその背後にいるアメリカの威(国力)を恐れて日本との貿易を止めるか縮小し、日本の海外貿易体制は短期間で破綻へと向かった。東インド(インドネシア)のオランダ領が対日輸出を止めたことは、当時の日本経済にとっては非常に大きな痛手だった。
 そして追いつめられた形の日本は、軍部に押される形でついに実力行使を開始。
 1940年9月にはヴィシー・フランスとの間にインドシナの保護占領を約束するに至り、11月から進駐開始する事を決定する。そして前後する9月27日には、遂に「日独伊三国軍事同盟」が締結され、事態は決定的局面へと足早に進んでいった。
 そうして日本は、明らかに戦争準備へと傾いた。
 1940年秋に成立した臨時軍事予算でも、今まで以上の航空機の大増産に加えて、海軍は多数の護衛艦艇などの補助艦艇を重視した建艦計画を立てた。世界最大の植民地を持つ海洋国家であるイギリスとの全面的な戦いでは、最低でもインド洋奥地か中東まで進撃しなければならないからだ。しかもソ連の脅威に備えるという表向きの理由で、支那事変後動員解除が進んでいた日本での徴兵、動員が再び強められていった。多数が必要となるパイロットの増勢も急速だった。
 これを受けたイギリスは、「日独伊三国軍事同盟」締結の数日後に日本との貿易を完全に停止し、日本資産の凍結と金融封鎖も実施した。外交関係も、交戦国一歩手前にまで縮小された。加えて、オランダなどイギリスに本国が亡命している国々もならった。
 だがこの結果、日本は戦争へと踏み出す事を完全に決意し、以後急速に戦争準備を急ぐ事になる。
 当然というべきか、アメリカも対日外交を硬化させ、日本との貿易を事実上停止し、地下資源などの輸出も止めていった。とはいえこの頃の日本は、既に製鉄用の屑鉄は不要だしアメリカ最強の外交カードである石油についても高純度揮発油(=安価な高純度ガソリン)以外では威力が小さく、日本にとってイギリス(+英連邦)との貿易が止まった事の方が打撃ははるかに大きかった。
 イギリスとの戦争を決意したのは、日本にとってはある意味自然な流れでもあったのだ。

 もっとも、二度目の世界大戦が始まってから以後一年以上の日本国内は、意外に平和だった。世界大戦が始まった時は、世界大戦が始まったことよりも、準備だけは進めていた万博が流れたことが残念がられた程だった。近衛政権も、万博の中止と五輪の開催辞退によって総辞職したのだ。
 しかも支那との戦争は大戦直前に終わり、150万も動員された兵士のうち半数以上が、出征して一年ほどで除隊して帰ってきた。残りの半数については、多くが満州へと駐留場所を変えたが、順繰りで一時帰郷を許されており、戦いで戦死するようなこともないので、日本国内では戦争の危険は過ぎ去ったという向きが強まっていた。それに支那との全面戦争自体が約一年で、戦死者の数も1万人程度と、全体として見た場合は十分許容範囲でしかない戦争だった。多くの軍人達にとっても、支那事変は武勲と勲章を増やしに行ったような気分が強かった。
 またヨーロッパでの大戦がまた始まったが、1940年春までは比較的平穏だったし、遠くヨーロッパでの出来事のため戦争特需以外での関心も低かった。
 そして欧州での戦乱で戦争特需が始まり、支那事変での戦争特需から続く好景気に日本中が沸いていた。各企業は、主にアメリカからの工作機械輸入に躍起になり、軍需の後押しを受けた日本中の好景気は、建設、サービスなど広範に波及した。
 また国内では俄に旅行が流行し、海外の日本領や日本の勢力圏にすら赴く人が多数出た。ハワイ王国へ向かう観光目的の豪華客船は、毎回満員御礼なほどだった。そこに1940年2月からの「紀元二千六百年祭」が始まり、日本中が浮かれた空気で包まれる。さらに1940年8月には、東京=大阪を5時間半で結ぶ夢の超特急、通称「弾丸列車」、正式名称「新幹線」がついに開通。大馬力ディーゼルエンジンを積んだ煙を出さない流線型の機関車が最高時速160km/hで走る様は、新たな日本の象徴だとして高額の乗車運賃を無視するかのように毎日満員御礼で人々が乗り込んだりもした。日本と満州の空路にも巨大な旅客機が就航して、人々の往来は一気に加速していた。家庭用自家用車も飛ぶように売れた。
 このためドイツがフランスを降伏させたという驚愕のニュースも、これでヨーロッパの戦争特需が終わると落胆したほどで、実際、兵器株と先物取引、輸出関連株が大幅に下落した。
 しかしヨーロッパの戦争は続き、しかもその戦争に日本も首を突っ込むことになりそうだと分かると、今度は再度の日本国内での戦争特需が起きるとして、産業界はむしろ元気になった。先を見越した設備投資も再び活発になった。
 そしてフランスが降伏した以上、ドイツと組めばイギリスは短期間で屈服させられるだろうと言う楽観論が多かった。この当時、多くの日本人が自らの経済力と国力に相応の自信を持つようになっていた。
 大戦勃発以後、何とか戦争を避けようとしていた米内内閣からしたら、こうした日本国民のある種脳天気さは恨みがましいほどだった。
 だが、中立を目指していた米内内閣が、フランス降伏以後外交姿勢を大きく変えて「日独伊三国軍事同盟」を結んだことは、ある種脳天気だった日本国民に冷や水を浴びせかけることになる。安易な予想や予測ではなく、列強との戦争が現実のものとして突然のように現れたからだ。
 そして工場生産の戦争状態への移行、軍の動員の強化、各地への軍の出発もしくは出発準備が進み、ついに1940年12月8日、日本政府は、イギリス、オランダ(自由政府)に対して宣戦を布告。自ら世界大戦へと突入する。

●フェイズ22「昭和15年度統計資料」