■フェイズ22「昭和15年度統計資料」

 長い戦争を見ていく前に、ここで当時の日本の状況について、できるだけ端的に見ていきたい。
 数字は主に1939年から1940年のもので、一部1938年度となる。1938年度も見るのは、戦争状態にない経済を見る上で恐らく戦前最後の数字となり、その数字しか正確には残されていないからだ。

 当時の日本領は、日本本土(日本列島とその周辺部)をいわゆる「内地」または「本土」と呼ぶ。しかし日本本国には、樺太島、千島列島、南西諸島までが含まれる。南西諸島には、沖縄県という本土と同じ行政単位も存在する。
 これに植民地である台湾、南洋諸島(太平洋島嶼地域=ミクロネシア全域)、パプア(東ニューギニア)、その東にある南十字諸島、最も南の新八重山諸島、さらに中華南部の海南島が加わる。日本本土に匹敵するパプアがあるため領土面積はかなりのものになるが、多くが峻険な地形の熱帯ジャングルであまり産業的に優れているとは言えず、人口もあまり多くはない。地下資源も豊富ではなかった。しかしサトウキビ、生ゴム、ココヤシなどの農作物は欠かせず、南方植民地群の存在が日本に生ゴムの自給ばかりか輸出すら可能とさせていた。
 また満州帝国は日本の経済圏(経済植民地)であり、大韓帝国はそれ以下の保護国状態だった。
 各人口をまとめると以下のようになる。
 
・日本国総人口:8430万人
・日本人総人口:7500万人
・本国:7140万人、他の地域の日本人:190万人
・日本本土にいる外国人:120万人(※殆どが北東アジア出身)
・満州、朝鮮、支那の在留邦人:170万人
・他民族人口 台湾:620万人、他の地域:310万人

・満州帝国:4100万人(※ロシア系約300万人)
・大韓帝国(保護国):1500万人

 総人口は、本国人で限ってしまうと、列強と言われる国の中ではソ連、アメリカに次ぐ数字になる。満州、朝鮮を含めると、ソ連、アメリカに匹敵するほどにもなる。
 しかし当時の日本の人口ピラミッドはほぼ三角形で、しかも当時は政府によって多産が奨励されていたため、若年比率が非常に高かった。街角や村落には、子供の姿ばかりが目立つような状態だった。このため成人以上の人口比率はやや少なく、労働人口の比率も欧米各国に比べるとやや少なくなり、当然だが兵士のなり手も減る。この補完としては、産業の発展に伴う機械化があったが、一人当たりGDPが欧州列強並となって間のない日本では、他国の優位に立てるほどの要素でもなかった。

 また、上記したうち大韓帝国は保護国のため、日本が徴兵できるわけでもないし、大韓帝国自体が国内警備以上の軍事力を有していないので、本来は数えるべきではない。だが、他の地域での移動型低賃金労働力として限定的に活用されており、また石炭を始めとする鉱物資源は日本経済の一翼を担っていた。さらに言えば、朝鮮半島内の領土と朝鮮系住民の数はイコールではない。
 ただし、旧来の職業貴族(両班)の内政支配が依然として続く大韓帝国では、日本からの自力での技術導入こそ若干見られたが、依然として土地の開発も遅れて民衆も国も貧しいままだった。日本が口酸っぱく言った近代化の第一歩である義務教育の普及すら、支配階級の「無理解」によりいまだ整えられていなかった。独自の文字というものがあると言われるも、いまだその姿は見られなかった。
 こうした点を言い出せばキリがないのだが、とにかく当時の朝鮮半島のほとんどの地域が、まだ中世のまどろみの中に眠ったままだった。日清戦争から約半世紀経っても、総人口が15%程度しか増えていない事で、多くの状況が理解できるのではないだろうか。そしてこれは、現地国家の無理解と日本の放置といえる植民地政策の結果だった。だがこうした状態は、欧米植民地ではむしろよくある光景であり、日本の責任は殆ど無かった。
 朝鮮半島内で発展しているのは、朝鮮縦貫鉄道を中心にした日本の利権内と日本資本が進出したごく一部だけだった。半ば冗談だが、二階建て以上の住宅は日本租界にしかないと言われていた。当時の朝鮮半島の一般的な経済力とは、それほど低かったのだ。主に日本からの債務の総額は3億ドル(約10億円)あり、到底短期間で返済できなかった。当然ながら、保護国なので債務不履行も出来ない。このため朝鮮半島内のなけなしの有益な資産については、徐々に日本に差し押さえられ、さらに貧しくなって借金を重ねるという悪循環が続いていた。つまり当時の朝鮮半島は、日本のマイナス資産の処分地の一つであり、ある意味日本経済の一翼を担っていたと言えるだろう。

 似たような事は、満州帝国にも言えた。満州は基本的に日本のブロック経済圏にあり、世界的に見た場合は経済植民地だったが、外交、軍事、徴税権は満州帝国自身が持っていた。1931年以後は、むしろ自立の傾向が強まりすらした。1930年代後半からの軍備増強は、東欧諸国を凌駕している。満州帝国の軍隊の整備も陸軍を中心にして進められ、侮れない戦力を有しつつあった。国家によって精力的な近代化が行われ、まともな軍隊がいる点は朝鮮半島との大きな違いだった。
 満州で日本が利用できるのは、ソ連や中華民国と向き合う防衛的な軍事力を別にすれば、主に経済力と生産力の面で、また市場としての価値も朝鮮半島よりずっと高かった。日本の軍需産業、各種重工業にとって、満州はこれ以上ない市場だった。
 両国を経済面以外で日本の戦力として数える場合は、「同盟国」として、つまり対等な国家としての関係と力になるだろう。例外は満州から日本への志願兵や移民だが、年々その数は減っていた。
 しかし満州帝国が独自の軍隊をかなりの規模で有する事は、周辺に同盟国のない日本にとって非常に価値があった。ソ連、中華民国と直接対峙するのが満州なので、その点の価値は計り知れなかった。日本が過剰に陸軍を揃えなくてよいのは、満州帝国が存在するお陰だった。
 また満州には、中華中央部からの移民、流民が毎年平均して百万人ほど流れ込んでいるため低賃金労働人口は豊富で、それを利用した国土開発、資源採掘、さらには工場労働などに活用されていた。また高価値労働者の数も朝鮮より比率的に多く、1912年以後の国土開発、社会制度の整備などの努力もあり、東ヨーロッパ諸国程度の経済価値を有していた。10年ほど前まで日本で盛んだった綿布産業は、この頃主に満州で行われていた。瞬く間に満州国の主力輸出商品となった工業綿布の低コスト化は、漢族の流民によって作られたものだった。「満蒙は日本の生命線」と言う言葉が唱えられたりもしたほどだった。

 次に経済力だが、1937年度の日本の名目GDPは710億円となる。支那事変前の円ドル交換レートから換算すると1ドル=3.3円となるので、ドル計算で約215億ドルとなる。この当時まだ不景気に喘いでいたアメリカのGDPが900億ドル台なので、日本の経済力はアメリカの4分の1から5分の1程度という数字が出てくる。
 アメリカと比較するので一見小さな数字だが、単純にアメリカが世界の30%の経済力を有すると想定すると、日本は世界の7%程度となる。しかも日本経済は依然として高い成長率を維持しており、しかもこの後は支那事変特需、大戦特需と毎年続き、38年から40年の三年間のGDPの伸びは平均8%を越えており、実質GDPも130%伸びている。また当時(大戦直前頃)のドイツとイギリスのGDPが、共に240億ドル程度だという数字を示せば、世界から見た場合の日本の経済力が見えてくるだろう。
 ちなみに、ヨーロッパ列強として常に半歩遅れているイタリアは、英独の3分の1程度のGDPとなり、国家を挙げて総力戦を行うには最低これぐらいの経済規模が必要とされる。
 そして1940年度の日本のGDPは、ドル換算で約280億ドルに増加していた。1940年度の交換レートが1ドル3.5円近くになっていたので、円換算だと980億円近くとなる。つまり円換算での経済成長率は、自らの戦争である支那事変を行うことで爆発的な伸びを示している事になる。しかも企業の設備投資の割合が非常に高く、日本の潜在的生産能力はGDP以上に伸びていた。このため、支那事変が僅か一年で終わったことは、日本の産業界に大きな落胆をもたらしたほどだった。
 また、実際の経済成長率は見た目のようにはいかないため、国際的には円の価値が若干下落して、ドルで換算するとかなり適正な数字となって現れる。これを単純に説明すれば、日本銀行が大量の紙幣を発行して戦争をした、という事になる。
 また1920年代半ばから以後15年ほどの間の経済成長の結果、日本人一人当たり所得は大きな向上を示した反面、一人当たり給与も大きく上昇しており、日本の強みだった労働コストの低さについてはあまり活用できない状況になっていた。日本人の一人当たり所得そのものも、統計数字上ではドイツに並ぶほどとなっている。綿布産業が満州に移転した理由も、日本経済の発展の影響だった。

 では、最低限の数字を見たところで、戦争に関わる他の統計資料を見ていこう。まずは、各種生産量からだ。

・国内原油生産量:約310万キロリットル(約2350万バーレル)
・海外原油生産量:約1500万キロリットル(約9400万バーレル)
・人造石油生産量:約130万キロリットル(約820万バーレル)
・石油関連輸入量:約150万キロリットル(主にガソリン、ナフサ)
・石炭生産量:約1億4000万トン(うち満州3500万トン、朝鮮半島3000万トン)
・発電力:約650億kwh(+満州:約120億kwh)
・粗鋼生産力:約1800万トン(+満州:約350万トン)
・セメント生産力:約1900万トン(+満州:約250万トン)
・船舶保有量:約1280万トン(※鋼船100トン以上)
・うちタンカー:約170万トン
・年間商船造船能力(1942年最大予測値):約540万トン(※軍艦建造分含む。実質数値は約360万トン)
・自動車保有台数:約180万台
・年間自動車生産台数(最大):約40万台

 上記の数字を、順番に解説と他との比較で見ていこう。
 まずは近代国家の血液である石油だが、総量約2100万キロリットル(約1800万トン)を消費している。世界で見ても、アメリカ、イギリス、ソ連に次ぐ数字となる。
 これは戦乱に伴う軍の需要増加もあるが、やはり北満州油田を自由に使えるという要素が大きい。重油とアスファルトなどの屑油は、国力を上回る量が贅沢に消費されている。何かにつけて重油ボイラーが稼働しているのは、1930年代の日本の一般的情景ですらあった。日本人一般の感覚としては、重油は文字通り掃いて捨てるほどあった。しかも産油量は、増産努力もあって年々大きく拡大していた。しかもこの数字は、満州での消費分を除いているので、北満州油田の採掘量はさらに数字が上積みされる。1943年には、3000万キロリットルの生産を目指していたほどだ。対英戦を全面的に行うならば、その程度の量が必要と考えられたからだ。
 一方、日本国内の石油のほとんどは北樺太油田が担っている。この頃既に一部浅瀬の海底油田の掘削も始まっていたが、生産量は1930年頃から微増の流れが続いている。一方爆発的に伸びているのが北満州油田で、油井の数の爆発的な増加に平行して産油量が増大していた。当然ながら、日本経済が飲み込む石油の量も、計数的と言われるほど伸びていた。重油に関しては国際標準よりも安価となったため、船舶運行、重油火力発電が大きな伸びを示していた。しかし北満州油田は、軽質油であるガソリン、軽油などの採油量が少ないため、基本的には半分以上を輸入に頼っていた。だが国際情勢の悪化に伴って、軍を中心に採算を度外視した人造石油に比重が高まり、ドイツから技術導入した大型のプラントが1930年代半ば以後急速に増えていた。1940年の時点で、現在消費量を十分賄えるだけの人造石油によるガソリンが採油可能で、一時期は非常に重用視されることになる。
 なお人造石油とは、主に石炭を原材料としてこれを化学的に水素と化合・蒸留するなどの処置を行う事で作られた、石油生成物とほぼ同じ人工化合物である。
 また日本の石油精製技術と能力だが、石油精製自体は北樺太油田の開発から同時に拡大しており、技術力も1930年代にはほぼ国際水準に達していた。1935年にはオクタン価96の航空ガソリンの大量生産にも成功し、1938年にはオクタン価99まで量産の目処が付くようになっていた。オクタン価100への到達は1940年だった。アメリカにはやや劣るが、この当時のアメリカは石油の生産と精製双方で世界ダントツであるので、この点は日本の力が不足している訳ではない。また日本の場合は、アメリカほど油質の高い油田を持たず、モリブデンなどのレアメタルが不足している事が、高いオクタン価の石油精製を阻んでもいる。
 一方、石油以前の燃料資源である石炭だが、国内の九州北部、北海道、樺太の石炭だけでかなりを自給が可能だった。南満州の撫順(フーシュン)炭田、朝鮮北部の炭田を加えると、平時なら輸出にすら回すことが可能だった。ただし1930年代の経済発展と折からの世界恐慌のため石炭はほぼ国内及び域内で全て消費されるようになっていた。高品質の石炭については、若干輸入されていた。

 次に発電力だが、単純な数字を比較するとアメリカの約3分の1となり、日本の産業電化率は1930年代に欧米先進国並に高くなっている。また家電製品の普及によって電力の一般消費も急速に拡大しており、電力消費量は年々高い比率で拡大を続けている。大量の家電製品の登場と普及が、女性を家事・家庭の重労働からの一部解放を可能とし、労働力に変化させつつあった。
 旺盛な電力需要を賄うため、1930年代に入ると大量の重油による火力発電が沿岸都市部で発展し、主に北満州で取れる安価な重油が利用された。また日本全体での社会資本開発として、山奥での大規模水力発電所建設計画も次々に行われ、大量の近代的土木機械と人員を導入して、世界に誇れるほどの水力発電施設が何カ所も建設されることになる。また、1937年に完成した黒部ダムなど巨大な水力発電所は、治水事業と水そのものの供給も兼ねており、建設そのものを含めて非常に大きな経済効果があった。
 発電比率は、火力が6割、水力が4割程度。安価な電力とアルミニウム工業がセットで設置され、1930年代後半から急速にアルミ工業も拡大していた。しかも巨大な戦争消費を前にして、施設は爆発的に拡張中だった。
 また火力発電の方は設備の拡充が行いやすい為、戦争中も施設が作られ続け、発電量自体も大きく拡大する事になる。

 そして工業化の一つの指標とされる粗鋼生産力だが、この当時日本の生産力はドイツやソ連とほぼ同じ数字にまで拡大していた。しかも、フランスやイタリアに匹敵する満州の鉄もかなりが自由に使えるので、実質はドイツを抜いて世界第二位の粗鋼生産力を有していた事になる。1940年のアメリカが約6000万トン(※1939年は5000万トンを切っていた)なので一位とは三倍の差があったが、それでも日本経済の躍進を示す数字である。しかも生産力、生産量共に拡大傾向にあり、1930年代は相次いで近代的な大規模製鉄所が開業していた。
 播磨の広畑、千葉の君津が1930年代前半までに開業もしくは完全操業(全力稼働ではない)に移り、1930年代後半に新たに大阪の堺に巨大な製鉄所が建設、そして稼働しつつあった。堺が全力生産を行うと、ここだけで当時日本最大となる一貫製鉄の形で年産600万トンの粗鋼が生産可能で、1942年には全力稼働に移る予定だった。また、この時期の各製鉄所は、後の産業発展を見越した規模で建設されていたので、まだ余力を十分に残して生産していた。敷地面でも、設備の拡大が可能なように事前に確保されていた。このため日本全体で見ると、1943年までに最大2500万トンまで生産力拡大が可能と見込まれていた。満州を含めると3000万トンに達する。これは軍需もさることながら、通常の日本経済の拡大を示す数字だと言うことを頭の隅に止めておいてもらいたい。これは粗鋼の次に示したセメント生産量でも分かる事で、当時の日本が社会資本を一つの軸として建設面で大きな躍進期に入っていた事を示すものである。
 なお、日本が自ら有する鉄鉱石の鉱山は、満州南部の鞍山鉄鉱山と海南島の石緑鉄鉱山だった。鞍山の鉄鉱石は量こそ多いが質はあまり高くなかったが、その分は良質の石緑が補っており、共に採掘量の限界はあったがほぼ自給を可能としていた。しかし2000万トンを越えると不足するため、経済発展の為には海外貿易の維持もしくは新たな供給地の自力獲得が必要だった。

 次に「乗り物」であるが、これも国力を示す一つの指標となる。ただし船舶保有量が高い国は、ノルウェーのように海運国家として国を成り立たせているという特殊な事情が無ければ、他の地域から本国に物資を運ばなければならない事を示している。イギリスがこの典型で、イギリスは連邦各地や植民地から大量の食料、資源を本国に運び込み、加工製品を出荷することで成り立っている。何しろ当時のイギリスは、世界最低の食糧自給率しかなかった。
 日本もイギリスとほぼ同じで、他からの資源の輸入と他国への輸出で国家経済が成り立つようになっている。このため多数のタンカーや鉱石バラ積み船が、1930年代に多数建造されている。食糧自給率も七割台まで下がり、多くを満州に頼っていた。日本列島内で全てを済まそうと思えば、ほぼ全ての面で江戸時代に戻るしかない。そして後戻りが出来ない以上、経済の拡大に伴って船の量が増えるのは必然だった。
 この顕著な例が、船舶の中でも用途が特殊なタンカー(油槽船)だった。日本は1930年頃までは北樺太から、それ以後は北満州から大量の石油を日本列島に運んでいた。また海外からの輸入もあり、日本経済の拡大を合わせるとタンカーについては幾らでも需要があった。
 そしてオホーツク海、日本海を効率的に行き来する1万トン級のタンカーが日本タンカーの主軸を占め、この頃既に100隻以上も運行されていた。しかも海軍は、一般とは別枠で艦艇と行動を共に出来る高速航行可能なタンカーを多数保有しており、数字以上の質と量を持っていた。この頃海軍は、商船以外の別枠として約30万トンの補給用船舶を有しており、開戦時の日本のタンカー保有量は約200万トンという事になる。一見大きな数字だが、タンカーだけに限った保有量だとアメリカ、イギリスがダントツに多く、日本の保有量は全体的な船舶保有量で大きく水を空けているノルウェーと同程度しかなかった。これは戦前の世界の石油輸送を、アメリカ、イギリス、ノルウェーが牛耳っていたからに他ならない。全てを自前で賄っていた日本は、異端だったとも言えるだろう。ただし、建造年の新しい船、しかも大型船が多い事は、日本の大きなアドバンテージだった。加えて、北満州油田の拡大に合わせて、タンカーも年間10万トン以上という爆発的な増加が続いていた。
 なお船舶保有量にカウントされるのは、排水量100トン以上の鋼製船舶の事で、それ以外の小さな船についても日本は他国を圧倒する量を保有している。主な用途は、沿岸部で使われる漁船や中小河川で使われる中小の運搬船で、太平洋広く領土を持つ日本にとって、小型船舶は無くてはならないものだった。排水量で示すと微々たる量にしかならないが、数で言えば日本が保有する船の多くがそうした小さな船だった。
 そして1937年には、船舶保有量でアメリカを抜いて世界第二位の量となり、その量は爆発的に増加中だった。これは支那事変以後の軍需景気への対応、戦争の始まったヨーロッパへの輸出を見越した発注、さらにはイギリスとの戦争を決意した段階での政府からの事実上の命令という経緯で爆発的に増えていたからだ。
 そして巨大な需要に応えるべく、日本の造船業界は爆発的な規模拡大を続けていた。しかも政府からの莫大な援助金もあって、戦時には「戦時標準船」を造ったり、助成金を出す代わりに戦時に命令に従うという条件で、日本中で造船所の強化や新設が行われていた。1930年代中頃既に官民合わせて100万トン以上あった年間建造力は、その後支那事変の頃までに50万トン拡大して150万トンとなる。これは戦時生産に移行した場合、さらに二倍の数字を示し、そのうち三分の二の量が実質的な商船建造量となる。つまりこの時点では年間200万トンの建造力があったことになる。
 しかも1930年代は、電気溶接の一般化、ブロック工法、ドック建造など新技術の一般への導入などもあり、戦時における建造効率の大幅な向上も見込めるようになっていた。そこに戦時体制での効率化や戦時標準船への特化、3交代24時間操業の実施などの効果によって、民間船だけを作った場合、年間最大540万トンの建造が可能という予測数字が出てきた。しかし戦争となれば大量の戦闘艦艇を作らねばならず、建造に手間のかかる戦闘艦の建造を行う施設を差し引くと、年間最大360万トンという数字が予測された。
 つまり毎月30万トン撃沈されても日本の船舶量は維持できて、戦争継続が可能という事になる。実際日本海軍の護衛艦隊では、毎月25万トンの建造が最低でも必要だと試算していた。これほど大きな数字が求められたのは、先の世界大戦にも参戦した日本軍が、敵の通商破壊戦を殊の外恐れていた事を示している。
 また日本の船舶用鋼材の限界供給量は1943年になると最大で600万トン見込めるので、建造施設と労働力さえ確保できれば、年産600万トンの船舶を建造することが数字上では可能だった。実際戦争が始まると、数万トンの鋼鉄を投じて造船施設が大幅に増強されている。

 一方陸上交通だが、急峻な山岳地帯の多い日本では、自動車の普及は遅れがちだった。大量の土木作業機械を投じたアスファルト舗装の道路は急速に拡大していたが、高速道路と呼べる自動車専用道路はまだほとんど無かった。1940年開業を目指していた帝都高速道路の一部(東京=横浜間)と、名阪高速道路が開業しているに止まっていた。日本列島の大動脈として大きな期待が寄せられていた東名高速道路は、弾丸特急と平行するように急ぎ工事中という段階だった。
 自動車保有台数については、満州の数字を含めるとドイツを越える統計数字となる。しかし当時の日本は、4輪自動車よりも、この統計数字には出ていない不整地走行能力の高い小型のオート3輪車と、さらにオート3輪車よりも2輪車いわゆる単車の保有台数が爆発的に伸びていた。日本人の乗用車台数は45人に1台だったが、自動貨車(トラック)を始めとする産業車が多く、まだ自家用車の時代ではなかった。自動車統計には含まれない大量のオート3輪車も、一部を除いて産業用しかなかった。だがオート3輪車を含めると、日本人の自動車保有率は一気に半分に縮まる。これは世界第二位の比率だった。そしてオート3輪車の生産工場は、戦時生産の中で軽トラック、軽自動車生産へと移行し、数字では見えなかった生産力を日本に発揮させることになる。
 しかし当時の日本の中流階級(=労働者階級)では、自動車よりも自転車や単車を持つのが経済上で最も効率的と考えられていた。だが各自動車会社では、アメリカから当時アメリカだけが生産できた薄板鋼板用のプレス機械を多数導入(輸入)するなど、小型軽量自動車の大量生産に向けた動きも見られており、この頃ちょうどモータリゼーションの次の過渡期にあった事を示していた。東京五輪と万博に合わせて、ドイツのような国民車の開発と量産の準備も日本産業界を挙げて作られつつあった。
 このため、自動車保有台数に含まれない動力付き車両の数は非常に多い。でなければ、大量のガソリン輸入は必要なかった。
 また一般に普及した動力付き機械としては、主に稲作を行う小型の耕耘機を持つことが農村で一般的になっていた。日本産の小柄な牛や馬を使うよりも、遙かに効率的で肉体的にも楽な耕作が可能であり、そうした機械の価格が、人々の手に届くようになっていたからだ。主に東北の名主や地主だった大規模農家、北海道、樺太さらに満州の一般農家では、アメリカ並みの大型トラクターの普及も進んでおり、単車と合わせて日本人が有する動力付き機械の数はヨーロッパの平均水準を十分に超えていた。
 土木作業機械の一般普及の拡大も継続中で、アスファルト舗装道路の整備拡大や各種インフラ整備、工場整備、沿岸部の埋め立て地造成など、様々な分野で多数の土木作業機械が活用されていた。排土車(ブルドーザー)やユンボは、当時の日本の工事現場では一般的に見られる車両の一つとなっていた。
 それでもアメリカには劣る各種車両の普及率なのだが、この時代アメリカだけが別格なのであり、日本での自動車の年間生産台数40万台という数字も、ドイツの50万台に匹敵する数字だった。オート三輪用を含めると、もっと大きな数字となる。また北海道や東北にある大型トラクター工場も、改装を施してラインを変更すれば戦車の生産も可能だった。
 そして自動車産業とは広範な機械、加工産業の集合体であるため、各種車両、動力生産は機械化工業全体を大幅に拡大させ、大量生産の進展が品質の向上をもたらしていた。日本が輸出する製品も生糸から綿布へ、綿布から各種機械製品へと移行しつつあり、強引な為替レート操作と労働コストの差を利用した輸出が盛んに行われ、これがヨーロッパ諸国から日本が嫌われる要因の一つを作り上げていた。
 
 なお、今まで上げた数字は、世界が比較的平穏で、日本が望む天然資源や食料を世界から十分に輸入できた場合という但し書きが付く。
 この当時日本が勢力圏を含めて自給できた天然資源は、石油、石炭、鉄鉱石、銅、生ゴムぐらいとなる。錫、鉛、亜鉛、水銀、マンガンなど一定量の採掘ができても、多くを輸入に頼っているものも多い。特にボーキサイト、ニッケル、綿花は全てか殆どを輸入に頼っており、クロムやタングステン、モリブデンなど希少金属の不足も多い。自給できる石油にしても、人造石油など採算面で不利な要素で補っているに過ぎず、経済的には足りているとは言い難い。鉄鉱石の供給量も、粗鋼生産量の拡大に伴い自力では不足気味だった。
 そして意外に思われるかも知れないが、日本は「塩」の輸入国だった。消費量全体の7割以上が、主に乾燥した地域から岩塩と言う形で輸入されており、多くが工業用の塩として使われていた。日本産の塩は基本的に海から精製したもので、食用としてはともかく、どうしても用途が限られていた。採算面まで考えると、生成量にも限界がある。塩の輸入を止められたら、ある意味石油以上に日本は苦境に陥ることを意味していた。そして岩塩の供給地は、乾燥した地域に多く、イギリスとの関係が断絶するとほぼ全ての塩の輸入も止まっていた。
 そうした資源の偏在という要素が、国内経済が好調な筈の日本が、戦争を決断しなければならなかった一番の理由だった。

●フェイズ23「日本の軍備計画(海上戦力)」