■フェイズ25「日本の軍備計画(航空戦力)」

 日本の航空戦力を持つ組織は、一つではなかった。
 日本の軍事組織は、陸軍と海軍がそれぞれ航空隊を有していた。先の世界大戦の頃に、軍事官僚集団の兵部省を中心にして空軍を作ろうという動きがかなり見られたのだが、今以上に予算を削られたくない陸軍、先に航空隊を拡充させた陸軍への対抗心を燃やした海軍双方の思惑が一致して、文官による空軍建設は阻止される事になる。
 その後大正軍縮の中でも兵部省を中心にして空軍設立の動きがあったが、やはり陸海軍の強い反発にあって実現していない。この時は、士官学校(兵学校)を統合しようという動きがあったので尚更反発も強かった。
 列強、大国と呼ばれる国の中で空軍を有していないのは、日本以外ではアメリカだけで、両国には陸海軍双方が空軍を持つ事を肯定する共通した理由があった。海洋国家だからではない。それならばイギリスも含まれてしまう。
 主な理由は、国内に航空機メーカーが多数存在するからだった。組織が多い方が平時に政府からの受注が多く、当時はまだ民間での航空機需要が少ないため、軍が主な顧客となった。特に日本ではその傾向が強かった。日本の航空機メーカーであまり軍需をアテにしなかった新明和(坂本財閥系)ですら、時代が進むと共に軍需が大きな比重を占めるようになっている。
 そして1930年代中頃になると、軍需を中心とした日本の航空機メーカーはほぼ出揃うようになる。
 東洋最大の航空機専門メーカーとして躍進しつつある「中島飛行機」、日本の軍需産業全てに手を出している「三菱重工」、この二社が規模における双璧だった。続くのは坂本財閥傘下の「新明和」と「川崎」で、それ以外は中小ばかりで、「愛知」、「立川」、「九州渡辺」などが存在する。また陸海軍双方が、独自に開発部門を持っていた。とはいえメーカー数も理由の一つでしかなく、要するに空軍を「作り損ねた」のだ。
 なお、各会社それぞれに特徴があり、中島は陸軍、三菱は海軍とほぼ棲み分けが行われ、新明和は大型機と水上機、川崎は陸軍向けで液冷発動機の機体を好んで開発した。
 また航空機の心臓部である発動機だが、規模の大きい上位4社が開発能力を有していたが、新明和は少し特殊だった。これは坂本財閥系の坂本重工が発動機開発を担っていたからで、航空機用として一貫していなかったため、一時期ライバル社の後塵を拝することになった。しかし油田、製油事業を重視した特殊鋼開発、様々な地上車用発動機、艦船用機関など裾野の広い開発能力を持ち、古くから積極的な最新技術の修得も得意としていた。このため、日本の殆どの航空機用発動機は、坂本重工製の高性能プラグを使用していた。エンジンと共に重要となるプロペラの開発能力も、既に日本随一だった。坂本重工の技術全般の裾野の広さと開発の歴史、規模も、三菱に匹敵した。 また、エンジンの製造用の素材そのものの供給にも広く関わっており、日本でのエンジン製造に坂本重工の存在は必要不可欠だった。
 これは航空機よりも地上車両に多く言えることだったのだが、航空機においても三菱以外のほぼ全ての日本企業が全面的に坂本重工を頼る構図が出来ていた。これは中島飛行機も例外ではなく、むしろ中島飛行機と新明和、坂本重工は強い連携を結んで発動機開発を行っている。中島飛行機も、こと発動機に関しては坂本重工に開発を一任するようになり、1930年半ばまでに自社の発動機部門と坂本重工の同部門を合併し、新たに「富士発動機」という会社を発足させている。こうして「光」に始まる「寿」、「栄」、「護」、「誉」、「勲」という名発動機が生まれていく事になる。
 また、坂本財閥が主導したハワイでのエアレースは、日本の航空機の先端航空技術開発に大きな貢献を果たしており、発動機、プロペラ、過給器など多くの開発で、エアレースの貢献は計り知れないとされる。
 ちなみに、三菱が坂本を嫌っているのは明治以来の両者の関係のせいだったが、上層部はともかく下の方は現場の判断でそれなりの関係を持っていたと言われる。

 なお日本の航空機が使用するガソリンは、1938年まではオクタン価96で統一されていた。これは国際水準にあり、特に優れても劣ってもいない。しかし支那事変中にオクタン価99の量産体制が整い、また大戦勃発に伴い少しでも性能を引き上げる必要から生産量も拡大し、開戦頃にはほぼ完全に99又は100のオクタン価ガソリンが、第一線部隊のほぼ全てで使われるようになっている。このため僅か数年間で、同じ発動機でも性能が3〜5%向上したとされる。
 そして開戦頃の1940年末頃の航空機だが、概ね以下のようになる。

・戦闘機

 「九六式艦上戦闘機」(海軍・三菱)
 日本海軍初の全金属製戦闘機。実際は1935年に初飛行している。優れた格闘戦能力を有していたが、航続距離が短く火力不足(7ミリ2門)が指摘されるなど、支那事変での活躍とは裏腹に次世代機への反面教師となった。支那事変までに改良型も多数開発され、落下増槽(ドロップタンク)を最初に装備した海軍機ともなった。
 既に第一線を離れ、一部が二線級の部隊と訓練用に残るのみ。しかし格闘戦を好む一部搭乗員からは、最高の機体だとして好まれた。

 「九七式戦闘機」(陸軍・中島)
 日本陸軍初の全金属製戦闘機。海軍との発動機、部品共用などが本格的に行われた初の機体だが、三菱の「瑞星」系エンジンではなく富士の「寿41型(810hp)」を搭載した。このため登場当時は、列強水準を超える速度性能と上昇速度を有していた。
 運動性能の高さ以外取り立てて突出する特徴はないが、涙滴型風防により閉鎖式操縦席となっているのが、海軍の九六式との分かりやすい違いとなる。開戦の頃は、支那事変の影響で落下増槽を搭載して航続距離を伸ばしたタイプが、かなりの数実戦配備されていた。
 また各飛行機会社に機体が供与され、発動機や武装、機体各所を改良した機体を製作させ、次世代機に向けての各種試験が行われている。
 なお、満州帝国にも少し遅れて大量採用されており、中島としては平時で最も生産された戦闘機となった。

 「九九式艦上戦闘機」(海軍・三菱)
 「ツクモ」や「クク」の愛称で親しまれた傑作戦闘機。支那事変後期にデビューし、その後の世界大戦で一躍有名になる。世界的に見た場合は軽戦闘機だが、日本海軍では当初重戦闘機と考えられていた。先行の研究機が、1938年の「ドラゴン・トロフィー」にも出場している。20mm機銃が特徴の一つとされ、アメリカ軍では「ニコル」と通称を付けて恐れた。また「ダブルナイン」と呼ばれる事もあった。
 航空母艦への搭載が大前提の機体で、比較的丈夫な機体構造を持ち、狭い場所に多数搭載するため翼が大きく折れ曲がる構造などを有している。このため、着艦用の重構造や機体内に浮力を与えるなど陸上機として不要な部分も多く、兵部省が画策した陸海軍共用という動きは実現しなかった。発動機は初期型で「金星11型(1120hp)」を搭載し、開戦時には既に「金星23型(1560hp)」を搭載した「22型」が一部配備されつつあった。比較的発達余裕を残していた事もあり派生型も多く、改良を続けつつ終戦まで二線級ながら使用し続けられた。また、複座型の練習機などの派生機も存在している。
 生産機数や前線で見かける頻度も高かった為、日本軍を代表する戦闘機といえばこの機体を指す。
 「21型」:自重2.3トン、最高速度540km/h・最大航続距離2800km。(21型)

 「百式戦闘機」(陸軍・中島)
 「栄11型(980hp)」という小型でやや貧弱な発動機を搭載するも、航続距離が長く運動性に非常に優れた機体だった。特に陸軍始まって以来の航続距離を持つ戦闘機のため、侵攻用の機体として戦争前半は重宝された。機体も軽いため、上昇速度もかなり早い方だった。
 しかし、防御力が低く火力が少なく急降下時の速度制限が厳しいなど、前線での評判は二分されていた。しかし複葉機並とすら言われた低空での格闘戦能力の高さは、全ての敵国から一目を置かれた。発動機を強化した改良型に「隼」という愛称が与えられているが、「百式」の方が有名だった。米軍通称は「ハル」。
 自重2.1トン、最高速度500km/h・最大航続距離2500km。

 「零式水上戦闘機」(海軍・新明和)
 過去に「九五式水上戦闘機」を送り出した新明和が、万全を期して送り込んだ野心的な水上戦闘機。機体性能を優先するため、発動機は三菱の「火星11型(1530hp)」を採用している。
 当時の日本機としては大柄で丈夫な機体構造は、水上戦闘機というよりは重戦闘機に当たる。機体重量は当時の日本機としてはかなり重く、フロートなしの自重だけで2.7トンもあった。実際同時並行で通常型(「一式局地戦闘機」)の開発も進められており、まずは手慣れた水上機という形で送り出して信頼を得ようとした。
 この背景には、同機の始祖が「ドラゴン・トロフィー」に出場して好成績を収め、通常型戦闘機の先行開発機として改良しても、日本で採用されなかったためだ。先行した最初の通常型は、資金回収のためすぐにも輸出用とされ、フィンランド空軍で「白熊」と呼ばれ活躍した。そして水上機型とされた同機は、まさに戦争に打って出ようとしていた海軍の目に止まり、前線を急速に拡大する際の局地防空を担うべく急ぎ正式化を受けて量産が開始されたという経緯がある。
 ちなみに「白熊」は満州帝国でも「天狐」という名で採用されており、ここでの運用が次の機体に大きく反映されている。
 フロート付きでも「九九式艦上戦闘機」を上回る急降下性能を持ち、緩降下爆撃も可能で、500kgまでの爆弾も積載可能な水上爆撃機でもある。フロートを飛行中に捨てる事も可能で、その際の速度性能は開戦頃の在来機ではトップクラスだった。また、不時着時の一定の浮力を有したり、カタパルト発進可能なだけの丈夫な機体構造を有するなど、他の用途で使う場合に不要な要素も多かった。
 運用実績は良好で、大戦半ばまで水上機母艦や各島嶼で広く活躍した。また、その後、純粋な陸上機(局地戦闘機)や艦上機型など、さらなる改良型が次々に開発される事になる。後に「紫雲」と命名された。

 「百式重戦闘機」(陸軍・川崎)
 支那事変で、高空性能と速度性能に優れた邀撃用の重戦闘機の必要性を感じた陸軍が急ぎ求めた機体。ドイツの「BD601」をライセンス生産した液冷式エンジン(アツタ)が特徴で、見た目にはヨーロッパ各列強が保有する戦闘機に似ていた。試作型の派生機が、最後の「ドラゴン・トロフィー」にも出場している。
 しかしまだ戦闘機製作の経験が少ない川崎の機体だったため、防御力、速度性能、上昇速度以外での性能は今ひとつという評価が多い。発動機についても、稼働率が高いとは言えなかった。しかし運用実績自体は悪くはなく、日本軍が液冷発動機の生産と前線での運用を行える事を示した例としても注目出来る。重戦闘機の基本戦闘である高空戦闘能力、一撃離脱戦闘能力も、世界水準に達していた。
 また、この機体を大幅に手直しした形で、次の「二式重戦闘機(飛燕)」が開発されている。
 なお、中島が対抗心を燃やして急ぎ空冷の重戦闘機「一式重戦闘機(鍾馗)」を送り出し、さらに三菱、新明和も海軍向けで重戦闘機(局地戦闘機)を開発していく事になる。

・爆撃機

 「九六式中型攻撃機」(海軍・三菱)
 当初は、長距離偵察機という名目で開発された研究機だった。「ドラゴン・トロフィー」の長距離飛行部門などにも何度か出場している。しかし、傑作機と言われる高性能が実証されると機体の改良が施され、雷撃能力を備えた陸上攻撃機として海軍が採用した。特徴は何と言っても雷撃が出来る中型陸上機という事と、異常なほど長い航続距離にあった。
 しかし元が爆撃機でないため積載量が少なく、また防御火力を含め防御力も低かった。この欠点は支那事変で明らかとなり、全ての欠点を克服する次世代機へと繋がっている。
 開戦時は、雷撃任務用としてかなりの数が配備されていたが、それでも徐々に二線級へと配備されつつあり、海上護衛艦隊が用いる対潜哨戒機型が開発されつつあった。

 「九七式艦上攻撃機」(海軍・中島)
 日本海軍の主力艦上攻撃機。開戦時の主力雷撃機だが、開戦時には既に生産は停止。「零式」の配備が進むと共に後方の任務に就き、練習機や対潜哨戒機、さらには連絡機としてかなりの期間活躍した。
 飛行性能が高く堅実で実用的な機体だったが、防御力がやや貧弱だった。性能自体も高く、開戦頃でも十分世界最高水準にあった。

 「九七式重爆撃機」(陸軍・三菱・中島)
 陸軍が採用した、初の近代的重爆撃機。
 1936年の試作型登場時は世界標準に達する高性能機だったが、当初から「重」と名付けるには爆弾積載量の少なさが懸念されていた。しかし爆弾積載量以外では、各方面から高い評価を得ている。開戦までに、発動機を換装して機体構造を若干強化した改良型が、量産配備されつつあった。
 なお同機開発の頃は、新明和が後の「九八式」となる革新的機体の開発を既に行っていたのだが、四発機で大柄しかも価格が高くなることが確実なため、陸軍は安い同機を採用したという経緯がある。

 「九八式軽爆撃機」(陸軍・川崎)
 陸軍の急降下爆撃機。急降下爆撃の角度が60度までと、他の急降下爆撃機と比べてやや不十分だったが、陸軍は特に気にしていなかった。
 日本では珍しい液冷発動機を搭載している事が特徴で、それ以外では大きな特徴もない平均的性能を持つ機体だった。
 支那事変で活躍したが、開戦頃はやや旧式化が見られていたため、後継機の開発が進められつつあるが、開戦頃は海軍機と統合されるとも言われていた。

 「九八式地上襲撃機」(陸軍・三菱)
 もとは、満州帝国が発注した、戦場での対地攻撃のみを考え防御力に重点を置いた単発の軽爆撃機。しかし「金星」発動機を搭載する比較的高性能の爆撃機で、急降下爆撃ができない以外は好評だった。
 1937年に満州帝国で大量採用され、性能の高さに目を付けた日本陸軍が改良型を採用した。
 支那事変でデビューし、その教訓を生かして発動機から搭載火砲、防御力に至る多くの面を改めた改良型が既に実戦配備されつつある。爆弾積載量は最大500キロとやや心許ないが、濃密な地上支援ができる上に、20mm口径の搭載火力と主要部で7mm弾を弾く直接防御力は、大戦前半大いに威力を発揮する。「アジアのシュツルモビク」と呼ばれる事もある。

 「九九式艦上爆撃機」(海軍・愛知)
 日本海軍の主力急降下爆撃機。外見は固定脚のためやや古くさく見えたが、高い命中精度を誇る高い角度からの急降下爆撃機が可能だった。1940年には、発動機を換装した改良型が既に出現。
 ただし、爆弾搭載量が改良型でも最大で310kgのままのため、支那事変中に火力が不足すると不評が立つようになっていた。このため次世代機の開発も空技廠で進展中で、1941年には実戦配備予定。
 なお、この機体の高性能に着目した兵部省は、陸軍の軽爆撃機としての採用も画策したのだが、陸軍は既に似たような性能の「九八式軽爆撃機」を運用していたため実現しなかった。一方では満州帝国が、次期主力急降下爆撃機として大量採用している。

 「零式艦上攻撃機」(海軍・中島)
 日本海軍の次期主力攻撃機。開戦時は実戦配備が始まったばかりで、大量生産と機種改変が急ぎ進展中だった。最高速度480km/hという高速力と長い航続距離が売り物で、世界水準を頭一つ抜きん出た高性能を有していた。日本軍としては、最大積載量1トンを越える(1.2トン)ことも特徴だった。しかし発動機の「護11型(1920hp)」の性能がやや不安定だったため、稼働率ではかなり苦労する事になる。このため艦上機としてしか採用されていない。
 またこの機体から、各種機材の技術発展により三座から複座とされている。この恩恵で速度や防御力は増したが、偵察機としての能力は低下しており、偵察専用機開発が少し遅れで開始される事となった。

 「九八式大型攻撃機」(海軍・新明和)
 本機の登場により、それまで日本軍が保有していた大型機を全て旧式へと押しやった機体。
 日本軍初の実用型の4発式大型陸上機で、「護11型(1920hp)」という当時としては非常に大型で大馬力の空冷エンジン4基を搭載した大型爆撃機。爆弾積載量は最大4.8トン、爆弾搭載量3トンで航続距離4500キロメートルを記録した。爆弾未搭載で機体内に増加燃料を搭載する偵察任務だと、航続距離は6500キロメートルに達した。新明和が得意とする飛行艇の構造を取り入れた丈夫な機体で、当時としては破格の馬力の発動機に頼った重防御と火力を含めた総合的な防御力にも定評があった。派生型に輸送機型もあり、大戦中は遠距離輸送にも活躍し、その後空挺用グライダーの曳航なども行っている。
 同機は支那事変を契機に大量生産され、今までとは全ての面で次元の違う能力によって、海軍の主力攻撃機の座を実力で獲得した。そして大型爆撃機のシェアを奪われた三菱や中島が巻き返しを計ろうとするが、古くから大型機開発で技術を蓄積した新明和の優位は終戦まで崩れなかった。しかし野心的な「護」エンジンは機械的な無理も多く、4発機という事も重なって、支那事変終盤でも稼働率は概ね五割程度で、新明和は予備の発動機と機体を大量に前線に持ち込むことで稼働率問題に対処しなければならなかった。
 また、魚雷2本を積載した雷撃が可能だったが、機体構造的に雷撃をするには無理も多かった。現場の将兵も、同機体での雷撃任務は嫌っていた。そこで三菱が起死回生を狙って、低高度での機動性、最高速力、そして重防御を兼ね備えた雷撃任務専用とすら言える中型攻撃機を開発し、これが「一式中攻(北斗)」としてその後採用されることになる。
 機体性能は、高度8000メートルからの水平爆撃から、低高度での雷撃も可能な柔軟性と丈夫さを誇る。雷撃の際は航空魚雷を2本を搭載できただが、雷撃機としてはやはり運動性には難があり、低空よりも高空での性能が高いという一般的な重爆撃として作られていた。
 なお陸海軍共用の機体で、陸軍機の場合は「九九式重爆撃機」と呼称したが、単に採用年度が違うだけで魚雷を搭載しない以外特に違いはなかった。
 1940年春には、安定した性能の「火星23型(1850hp)」発動機に載せかえた改良型が登場。同発動機が過給器を備えていた為、重爆撃機に本来必要な高空性能を大幅に向上した。さらに機体自体も改良を施した上で防御火力を強化した32型が生産開始され、その後日本軍の主力爆撃機として大戦後半まで活躍することになる。そして「火星」発動機を採用したことで、新明和、三菱の間に共通の利害関係が発生した事も、同機には良性に作用している。
 系列機として、本機の設計を流用した機体に「一式飛行艇」があり、開戦時既に増加試作機が作られ、試験飛行を繰り返していた。

・その他

 「九六式飛行艇」(海軍・新明和)
 四発式の大型飛行艇。新明和が開発した、二つ目の四発式の大型飛行艇でもある。先代の機体は、性能面から海軍に採用されなかったため、この機体では多くの性能過剰が見られた。
 軍の採用一年ほど前から民間用旅客機としても広く普及しており、開戦頃は日本勢力圏各地で一般的に見られる飛行艇の一つとなっていた。軍への発注も合わせて生産コストと合理化が図られ、機体の規模と価格の割にはかなりの数が配備された。太平洋各地の日本領では、新たな輸送手段、連絡手段として重宝された。
 基本的には偵察機や輸送機だが、旧式化した「九六式中攻」共々対潜哨戒機として護衛艦隊が多数保有した。
 しかし防御力、防御火力が貧弱なため、前線での運用には特に注意が必要とされた。

 「百式司令部偵察機」(陸海軍・三菱)
 当時としては世界的にも珍しい「戦略偵察機」で、世界的にも傑作機とされる事が多い優秀機。
 その名の通り、戦略レベルでの偵察を行うことを目的として開発された機体で、長い航続距離、高い巡航速度、最高速力が特徴だった。巡航速度よりも航続距離を重視する海軍型では、増槽が搭載できるように改良されており、4000キロ近い航続距離を持っていた。海軍は、強引に艦載機型を開発しようともした。
 その後大幅に改良され、さらに性能を大きく向上させている。

 その他多数の機体が存在するし、この時期はちょうど機体の更新時期にもさしかかっていた事もあり、1941年の量産開始を目指した機体も多数存在している。
 しかし、全ての準備を整えて戦争に挑むという贅沢な事が許される筈もなく、日本は戦乱に突き進んで行く事になる。
 だが日本は、1938年の支那事変という準備運動を行って問題点を洗い直し、尚かつ新兵器開発の時間まで得ることが出来たのは望外の幸運だったと言う研究家も多い。
 日本の緒戦の勝利も、そうした時間の積み重ねによる背景が無ければ難しかったのも確かだろう。

 一方日本の航空部隊だが、先にも紹介したように「海軍航空隊」と「陸軍航空隊」が存在した。しかも海軍は、母艦航空隊、基地航空隊、護衛艦隊所属と実質三系統存在しており、非常に複雑化していた。用途に応じて専門化したといえば聞こえはいいが、軍組織が官僚的特性を見せた一例でもある。それでも海軍は、航空母艦固有の航空隊といったものは設けず、母艦や基地と各航空隊を切り離して運用し、支那事変以後は交代用の航空隊や機体、搭乗員を揃えるようにしていたのは、先見の明があったと言えるだろう。これは兵部省という統一された文官組織が存在したおかげでもあり、陸軍航空隊でも基地と航空隊を分け、柔軟に運用していた。
 そして部隊の基本は、航空隊(大隊)だった。1個航空隊は、3個中隊から編成され、1個中隊は3個小隊、1個小隊は2〜3機で編成されていた。名称と部隊編成の基本は、兵部省の決定により陸海軍で統一が行われており、機体はともかく各種部品は可能な限り共通部品が規格化され、燃料も統一されていた。このため陸海軍部隊の合同は、実際はともかく物理的には行いやすいようにされていた。共通規格化には企業側の抵抗も大きかったが、強い行政指導によって支那事変中に完全実施されている。
 なお航空戦隊以上の部隊は、航空隊3個を束ねて航空戦隊(連隊)、さらに航空戦隊3個束ねた航空団(旅団)として、最上単位は「航空師団」又は「航空艦隊」だった。この名称だけは陸海軍共に譲らず、それぞれの名称が許されることになっていた。
 単純に表現にすると「航空師団又は航空艦隊(729機)→航空団(旅団)(243機)→航空戦隊(連隊)(81機)→航空隊(27機)→中隊(9機)」となる。
 全て3の倍数で編成されているため、1個航空師団の定数は最大で729機になるが、先にも上げたように2機で小隊を編成する部隊もかなりあり、欠番となっている部隊などの事も考慮すると実際の定数は600機程度となる。
 そして1930年代前半までは、陸海軍それぞれ実質的に1個の師団もしくは艦隊しか保有していなかった。機体性能、軍の予算規模、航空機の重要性から師団規模でも大きすぎるほどだったからだ。1930年代前半までの航空師団、航空艦隊という呼称は、海軍の連合艦隊のような象徴的意味合いの強いものだった。
 しかしソ連の脅威増大と日本の国力拡大、軍部の台頭に伴って軍備拡張が行われるようになり、師団又は艦隊の複数設置が開始される。これが海軍の場合は、それぞれの組織が実質的な航空艦隊を有する形になっていった。陸軍の場合は単に第一、第二と航空師団が設置された。
 そして支那事変により部隊の急拡大が実施され、搭乗員の不足に悩みつつも部隊が大幅に拡大された。また支那事変での大規模な実戦経験は、多くの教訓を日本軍全体にもたらしていた。
 職人芸レベルの訓練を施す事ができない規模に組織が膨れあがると、3機で1個小隊とする編成(=3単位編成)に無理が出てきたのだ。そこで注目されたのが、ドイツが取り入れていた2機を分隊とする最小単位(=4単位編成)で、これを陸海軍共に新たに導入することになる。これにより、2個分隊で1個小隊を編成する方式が採用された。
 この編成なら大量養成された搭乗員でも無理なく対応できるため、支那事変の末期から実験的に取り入れられた。特に海軍では、常に継子扱いされている護衛艦隊が4単位編成の取り入れに熱心となり、次いで大型爆撃機で取り入れられた。特に重慶爆撃では、4単位編成が大幅に取り入れられて効果が立証された。
 このため1939年末から抜本的な組織改編が開始され、以下のような編成が急速に取り入れられていった。

 航空師団又は航空艦隊(2個航空団・864機)
 航空団(3個飛行戦隊・432機)
 航空戦隊(3個航空隊・144機)
 航空隊(3個中隊・48機)
 中隊(4個小隊・16機)

 これはあくまで基本編成で、航空戦隊ごとに編成が異なるのが一般的だった。戦闘機、爆撃機などは航空戦隊で区分され、各戦隊中で2個が主力で、残り1個は偵察や補給の支援部隊というのが基本編成だった。希に偵察隊、補給隊などの支援部隊が別に付随する場合もあり、中には偵察専門の航空隊や航空戦隊もあった。こうした事から航空戦隊は120機程度が基本編成で、1個航空師団は概ね650機〜700機程度が定数となる。また海軍の場合は、航空戦隊単位での運用が基本で、基地、母艦、護衛各組織がそれぞれの任務に特化した編成の部隊を運用した。1934年以後に3つに分割した航空艦隊という呼び方も、母艦部隊が第一航空艦隊、基地航空隊が第二、海上護衛艦隊が第三と便宜上呼称されていたに過ぎず、その編成も1938年ぐらいまではそれぞれ1〜2個のしかも定数未満な航空団を有するに止まっていた。
 1940年末頃の航空部隊の総数は、陸海軍それぞれ約2500機で、直接的な練習機が別にそれぞれ1000機以上あった。日本全体で見ると、総数7000機以上の軍用航空機があったことになる。しかもこの数字には予備機と初頭練習機は含まれていないため、航空機の実数は1万2000機以上あった。機体と搭乗員のほとんどは、支那事変以後急速に膨れあがった数字だった。
 しかも支那事変での搭乗員大量養成はほぼそのまま拡大継続されているため、練習航空隊は幾何級数的に増大し、航空機の大増産も進んでいた。組織規模、予算規模も陸海軍の中では航空隊が一番大きい。これを海軍予算内で少し見てみよう。

 1931年当時、日本海軍の航空機部隊数は17個中隊しかなかった。この年の3カ年計画でも、14個中隊の増勢が行われたに過ぎない。機数にすると約300機である。増勢のための予算も6000万円に過ぎなかった。1934年の3カ年計画でも、増勢規模はほぼ同程度だった。増えたのも、空母の数だけ母艦航空隊が増えただけだった。機体の性能がまだ全般的に低かったため、航空機の重要性そのものが低かったのだ。航空機の実数も、1937年で400機程度でしかない。
 これが1937年の3カ年計画になると、予算枠も1億4000万円となって一気に30個中隊が増勢された。空母を一度に4隻も就役させ、旧式空母の大改装などが行われた事が原因の一つだったが、個々の機体性能の向上によって航空機そのものの重要性を増した証拠だった。
 また練習航空隊は、次世代の軍拡を考えて常に一般航空隊の需要よりも先に数を増やす傾向が1930年代半ばに形成され、兵部省の指導により陸海軍一定の協調と妥協のもとに進められていた。1930年代は、民間パイロットの養成に対してもかなりの助成金が出されている。
 そして合わせて75中隊、約650機の編成ができる前に支那事変を迎える。しかし戦争規模に対して現状では全く規模と戦力が不足しており、臨時予算と戦争中の1939年度の海軍整備計画で、航空隊の大規模増強が急ぎ足で実施された。
 この時の緊急計画では、一度に従来の二倍に当たる150個中隊、8億円以上の航空隊増設予算が計上される。あわせて、約2000機の第一線用航空機が必要となる大規模な計画だった。陸での戦いが主軸のため、艦艇の増勢よりも航空隊が必要だったからだ。ここで海軍は、予算獲得の意味も含めて大量の大型陸上攻撃機いわゆる重爆撃機を多数導入した。
 そして本来なら、支那事変終息とともに軍の予算、部隊規模を削減する筈なのだが、すぐにも第二次世界大戦が始まったため部隊規模はむしろ拡大される事になり、支那事変で消耗(損害など)を予測して発注していた航空機の生産も多くが継続された。練習航空隊の増勢と、搭乗員養成の規模拡大も続いた。政府と兵部省が策定した航空機と搭乗員の増勢も、大戦に対応する長期計画として策定され直した。
 結果その後一年間は、戦争をしていないのに部隊の肥大化と再編成が進み、消耗もしないため搭乗員の安定供給も続いた。当然ながら部隊規模は膨れあがり、陸軍航空隊はほぼ完全編成の三個航空師団を有する大組織(※第一線用航空機数はそれぞれ約2500機)へと成長している。部隊数に比べて機体の数も増え、どの航空隊も定数の半数近い予備機を抱えるようになっていた。
 そうした時期に日本の参戦を迎えることになる。

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