■フェイズ26「東南亜細亜作戦」

 西暦1940年12月6日、日本時間の午前0時、グリニッジ時間の5日15時、日本政府はイギリス、自由オランダ両政府に対して宣戦布告を実施。他の主な国々に対しても、各大使館から日本がイギリス、オランダと戦争状態に入ることが通達された。
 そして宣戦布告文書にも明記された通り、外交儀礼である丁度48時間後に、日本軍はいっせいに戦闘行動を開始した。誰も文句が言えない、堂々とした宣戦布告と戦争開始だった。
 日本国内での議論段階では、日本陸海軍が攻撃開始30分前の宣戦布告を求めたりもしたが、今後の外交も考慮して正々堂々と宣戦布告を行うという方針が政府によって示されたため、軍の提案は却下されていた。この時政府は、戦争は個人の喧嘩や博打ではなく国家が総力を傾けて行う外交であり国家事業であると、軍の一部を厳しく批判したといわれている。
 そして日本が宣戦布告してからの48時間の間は、前線では戦争準備が、後方では各国の外交合戦が熱く行われる事となった。

 なお日本政府は、自らの戦争理由を同盟国であるドイツ、イタリアに対する責務を果たすためと、国家生存のためとした。植民地の解放などといった表向きのきれい事については、少なくとも開戦当初に唱えられることは無かった。
 事実、イギリスが態度を硬化して日本への資源輸出を止めた時点で、日本はイギリス領内などから足りない資源を入手しなければ、近代国家として死命を制されたも同じだった。資源輸入が止められた時点で、日本政府はこの事を世界中に触れ回っていた。さらに宣戦布告後に行われた日本政府による声明でも、連合国による日本に対する経済封鎖が日本の戦争原因だと強調して説明され、自らの戦争の正当性を世界に訴えた。
 イギリスとしては、日本を自分たちの側に無理矢理にでも呼び込もうとしたのかもしれないが、その場合逆効果になったと言えるだろう。しかし一方では、日本が既にドイツとの同盟関係にある以上、早々と日本を敵に仕立て上げたのかもしれないとも考えられている。
 だが、日本を敵とした国は、相応の報いを受けなければならなかった。
 大量の資源を必要とする国家に成長した日本の軍事力は、ヨーロッパ諸国が予想していたよりもずっと大きかったからだ。

 1940年9月の時点で、同年12月初旬の開戦を決めた日本だが、取りあえず近場の資源地帯を全て奪い取るための作戦を詳細に立案していた。その程度で奪わないと、一年もすると国家運営そのものがままならなくなるからだ。
 第一目標は、英領マレー、蘭領東インドの電撃的な占領。さらに、フランス領インドシナの保護占領になる。同時に別働隊を仕立て、オーストラリアに対する航空撃滅戦と通商破壊戦を仕掛けつつ、仏領ニューカレドニア島の保護占領も計画された。これでも工業塩など足りない資源もあったが、全てを一度に手に入れる事は不可能だった。
 そして東南アジアを占領した上で、インド洋の通商破壊戦を始めると同時に、オセアニア作戦が予定されていた。これほど戦争展開を急いだ背景は、日本がアメリカの早期参戦を殊の外警戒している証拠でもあり、アメリカに橋頭堡となる場所を事前に与えないためでもあった。オセアニア作戦では、良質の鉄鉱石などの資源獲得はどちらかと言えば副次的な要素だった。敵に日本攻撃の橋頭堡を与えないためという要素の方が、はるかに比重が大きかった。
 それに、インドはイギリスが死にものぐるいで守ってくると予測されていたため、侵攻するにしても十分な準備を進める必要があると判断されていた為でもあった。
 しかし日本軍、アメリカが参戦しない限り戦争自体には不安を感じてはおらず、客観的に見ても当面の侵攻作戦の主軸となる海軍力はあまりにも圧倒的だった。
 開戦時、戦艦16隻、中型以上の空母7隻を中心とした日本の海軍力は、当時世界最強と言っても間違いなかった。2年前の支那事変で実戦経験も豊富に積んでおり、新鋭艦の割合が高いため、量だけでなく質の面でも非常に高かったからだ。16インチ砲搭載戦艦を8隻も保有すると言うだけで、諸外国からすればどうにもならない相手に等しかった。
 イギリスですら例外ではなく、大艦隊を前面に押し立てて侵攻してくる日本軍に、どう対処するか頭を悩ませていた。正面から戦うには、イギリス軍の全力すら必要と考えられたが、ドイツと戦っている現在、イギリスに十分な余剰戦力は少なかった。当時の戦況は、9月半ばにドイツ軍の英本土空襲が一段落し、ブリテン島侵攻は無期延期となって、夜の空での両者の戦略爆撃へと移行していたが、海ではドイツ海軍のUボートに対して厳しい劣勢を強いられていた。
 幸いというべきか、比較的余裕のあるのは大型水上艦だった。特に同年11月11日に、イタリア海軍主力のたむろするタラント湾を攻撃してイタリア海軍に大打撃を与えたため、取りあえずかなりの数の艦艇をアジアに回せる目処が付いていた。
 ちなみに、イギリス海軍によるタラント湾攻撃は、空母複数を用いた敵重要拠点に対する航空奇襲攻撃であり、空母の威力を世界に知らしめた戦いとなった。この戦いでイギリス海軍は、新鋭空母の《イラストリアス》と旧式空母《イーグル》を動員し、二度の攻撃でのべ38機の「ソードフィッシュ攻撃機」が攻撃に参加した。そして照明弾で照らされた中で高い練度を必要とする夜間雷撃を実施し、新旧4隻の戦艦に大破着底の大打撃を与え、うち旧式戦艦2隻を事実上の廃棄に追い込んでいた。この結果、イタリア海軍の稼働戦艦は6隻から2隻に落ち込み、重巡洋艦1隻も修理に半年以上かかる損害を受けていた。イタリア海軍にとっては、様々な要素と共に大規模な空襲はないという油断が重なった末の悲劇だった。
 このため、以後しばらくイタリア海軍の活動は大幅に低下し、時間的にギリギリではあったが、イギリスが日本にある程度対向できる艦隊を送り込める目処が立ったという事になる。
 地中海での戦いの結果、地中海には《R級》と呼ばれる旧式戦艦数隻を備えに回し、地中海艦隊のほぼ全力がインド洋、そしてイギリス東洋支配の牙城であるシンガポールに回航されることになった。アジア方面の指揮官(提督)も「タラントの英雄」であるソマーヴィル提督で、艦隊としての練度も高く、戦力以上の活躍が期待されていた。

 しかし一定量の戦力を東アジアに回せるようになったからと言っても、日本海軍の最低半分を相手にすることを想定すると、日本軍と正面から渡り合うことは不可能だと考えられた。実際、もっと多くの戦力を東南アジアに回そうという動きもあったが、いまだ新鋭戦艦を迎え入れていない状況もあり、追加の増援は断念されていた。
 当時のイギリス軍は、白人一般の価値観に従って日本と言うより有色人種全般を見くびっていたが、主要艦艇の数だけは相応に評価していた。それにイギリス海軍は、20年ほど昔の日本海軍の姿を多くの者が直に見てもいる。故に、他の欧米諸国に比べれば、日本を高く評価していた。
 だからこそ、大規模な近代改装を施したとはいえ旧式戦艦5隻に加えて、空母が現地合流を含めて3隻、重巡洋艦など巡洋艦も増強された。だがそれでも、どう考えても戦力は足りないと考えていた。このためオランダとの強い連携が考えられた。
 当時のオランダ海軍は、1930年代のオランダ経済が東インド(インドネシア)からの対日輸出で潤った事、その日本の脅威が高まった事を受けて、主に植民地の東インドで大幅に強化されていた。その象徴が、オランダ海軍が初めて保有した近代的戦列艦の《セレベス》だった。
 同艦はもともと2隻計画されたが、予算などの都合で1隻となり、予定されていた2番艦の《ボルネオ》は建造されなかった。その上、オランダは自力での大型艦建造能力がないため、発注はフランスに行われた。1935年に正式発注された同艦は、フランスが整備中の《ダンケルク級》戦列艦の準同型艦で、副砲以下の装備が他のオランダ艦艇と出来る限り共通化されるなどの仕様変更がされている。また、旗艦機能と水上偵察機運用能力が若干強化されるなどの違いが見られる。
 この時オランダは、巡洋艦整備の時の経緯などからドイツへの発注も考えていたが、英独海軍協定締結以前のドイツに大型艦の建造を頼むわけにもいかなかった。また、あまり感情的に外交関係が良好とは言えないフランスからの積極的な売り込みもあったため、《ダンケルク級》がタイプシップに選ばれていた。そしてフランスは、受け取った代金の多くを軍備に回し、特に海軍艦艇の建造促進に振り向けていた。
 1939年春に就役した《セレベス》は、世界情勢が風雲急を告げる中、同年夏頃に東インド(インドネシア)へと回航された。オランダが国力不相応な艦艇を整備し東インドに送り込んだのは、ニューギニアを日本と分け合って領有するという要素も大きいと見るべきだろう。
 オランダにとっての近代日本とは、資源輸出のお得意さまである反面、前世紀にニューギニアの半分以上を奪った相手であり警戒すべき国なのだ。
 そして日本との開戦時のオランダ海軍は、戦列艦(戦艦)1隻と各種巡洋艦5隻、駆逐艦、潜水艦など若干数を保有していた。この戦力は、当時のオランダ海軍のほぼ全力でもあった。
 日本軍に対して積極的な行動が取れるほどの戦力ではないが、戦列艦を有する事から使い方によっては大きな戦力になりうる可能性を有していた。この時のイギリスにとっては、非常に頼りになる戦友だと言えるだろう。

 しかしイギリスの懸念は、水上艦ばかりではなかった。
 支那事変の情報がある程度伝わっていたため、日本の航空戦力が侮れないと判断されていたからだ。ヨーロッパ一般の価値観として、日本の航空戦力そのものは大きく侮られていた。だが、前大戦の記憶があるので、無力ではないと考えられていた。加えて「支那事変」の情報が半ば噂の形で伝わっていたので、それなりの戦力と規模と考えられていた。何しろ自分たちには、アジアにまともな航空戦力はほとんどなく、慌ててアメリカから若干旧式でも構わないので緊急輸入していたほどだった。
 ヨーロッパならいざ知らず、というわけだ。
 そして攻撃の主体となるイギリス海軍が選択した戦術は、日本軍の急所を突いて攻撃し、インド防衛の為にも日本の侵攻を少しでも遅らせることだった。主に狙うのは、日本側の輸送船団や補給艦艇。東アジアに配備できる艦艇数や補給物資の量から、ドイツのように大規模に潜水艦を活用することはアジアでは殆ど望めなかったが、航空機などと連携して偵察力を強化することで日本軍を十分翻弄できると判断された。何しろ日本は侵攻してくる側で、自分たちには地の利があったからだ。
 またイギリス人にとっては、11月のアメリカ大統領選挙の結果、親英的で参戦に前向きなルーズベルトが再選を果たしたことは大きな希望と考えられた。このため、積極的な防戦による時間稼ぎにも有効性があると考えられた。
 一方日本にとってアメリカ大統領選挙の結果は、凶報に他ならなかった。アメリカの選挙結果が、日本の参戦時期を前倒しさせたほどだった。本来日本政府は、自らの開戦時期を戦争準備が十分整えられる1941年初頭から春と考えていたからだ。
 しかし全ての人の思惑などあざ笑うかのように、日本は戦争へと突入していった。

 1940年12月8日未明、日本軍は予定通り戦闘開始と共に各地の爆撃を実施した。
 シンガポール、スラバヤ、クアラルンプール、ブリズベーン、タウンスビル、ポートダーウィンなど東南アジア各地、オーストラリア南東部などが、堂々とした大編隊を組んだ大型爆撃機による象徴的な意味合いの爆撃を受け、大艦隊を前面に押し立てた大渡洋部隊が侵攻を開始した。
 現地イギリス軍などは、既に日本の宣戦布告から丸二日を過ぎているため出来る限りの臨戦態勢に入っていたが、シンガポールへの爆撃を予期していなかったなど油断も目立ったし、何より戦力が違いすぎて互角の戦闘とはほど遠かった。日本の航空機は、予想したよりもはるかに高性能で、旧式機では歯が立たなかった。
 そして空以外からも、日本軍は既に保護占領したインドシナ、海南島からとニューギニア島の二つの策源地から主な侵攻部隊を出発させ、開戦から三日以内にマレー半島基部、ボルネオ島、西部ニューギニア、モルッカ諸島へ陸戦部隊を上陸させた。
 またタイ王国との間に軍事同盟を締結するが早いか、既にインドシナ半島南部に展開していた陸軍部隊が、マレー半島とビルマを目指してハーフトラック、トラックに揺られながら足早に進んでいった。
 これに対して、現地連合軍で最大の軍事力を持つイギリス東洋艦隊は、上陸作戦中の日本軍侵攻船団を撃滅するべく宣戦布告直後からシンガポールを出撃していた。
 艦隊陣容は、戦艦が《クイーン・エリザベス》《ウォースパイト》《バーラム》《マレーヤ》《ヴァリアント》という《クイーン・エリザベス級》の同型艦が5隻、空母が《イラストリアス》《ハーミーズ》の2隻、以下重巡洋艦3隻などを従えた堂々とした大艦隊だった。艦載機の数も50機を数えていた。マレー半島に展開する空軍の援護も期待できた。これだけの戦力があれば、ヨーロッパでは十分以上の戦力だった。イタリア海軍の全力とすら戦えただろう。しかもオランダ海軍が、ボルネオ島南方で同方面の日本軍に対する牽制行動を取っていた。南太平洋でも、オーストラリア、ニュージーランドの艦艇が、現地の日本軍に対する牽制を目的とした作戦を実施中だった。空母《イーグル》がインド洋で航空機輸送任務の途中だったのが残念だが、当面の作戦には影響がないと判断されていた。
 これに対して日本海軍は、マレー方面に「第二艦隊」、「第一航空艦隊」、「南遣艦隊」を派遣。護衛艦隊も大挙出動し、万全の体制で上陸作戦を支援していた。海軍の全力を出撃させないのは、次の作戦を考えているためと、念のためアメリカを警戒しての事だった。
 第二艦隊は、主力に機関の換装を含めた徹底した近代改装を終えたばかりの戦艦《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》を中核に、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻から編成されていた。第一航空艦隊は、主軸となる第一航空戦隊の空母《赤城》《加賀》と実戦配備に就いたばかりの大型空母《翔鶴》《瑞鶴》に、護衛の重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻から編成されていた。南遣艦隊は旧式戦艦の《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》、重巡洋艦4隻を中核とした艦隊だが、あくまで輸送船団の護衛と上陸前の艦砲射撃が主任務だった。
 近代戦史上始まって以来の大渡洋作戦に相応しい、堂々たる布陣と言えるだろう。
 一方、空母《蒼龍》《飛龍》《雲龍》を中心とする「第二航空艦隊」が南太平洋で作戦中で、軽空母の《鳳祥》《龍驤》《飛祥》《瑞祥》も、それぞれ2隻で航空戦隊を編成し、ボルネオ作戦、モルッカ作戦に従事していた。どちらの方面にも、巡洋艦を中核とする水上艦隊も配備されていた。
 上記の編成からも分かるとおり、海上からの遠距離侵攻に際して、日本軍は空母を縦横に駆使して作戦に臨んでいた。大型爆撃機、飛行艇なども多数が作戦参加していたが、遠方の敵地上空で速やかに制空権を奪うためには多数の戦闘機が必要であり、移動航空基地である空母には打ってつけの任務だったからだ。この日本海軍の方針は、支那事変初期の上海作戦で確認されたことで、第二次世界大戦で航空機が果たした役割から大幅に強化されていた。
 第一、第二航空艦隊という空母を中心に据えた新機軸の艦隊も、1940年初めの海軍演習の際に編成されたばかりで、この時の戦いでもとにかく敵地上空の制空権を奪うことが重視されていた。ただし、空母を集中する艦隊の編成と訓練はまだ未熟であり、大編隊の運用など多くの試行錯誤や問題を抱えての出撃でもあった。
 なお、主力戦闘機となった「九九式艦上戦闘機」は、翼が途中から大きく折り曲げられる構造を有しているため空母への搭載量は多くなり、翼を折り畳めない同程度の機体よりも50%も多く搭載できるとされていた。また機体の大量生産と搭乗員の大量養成がある程度間に合ったため、各大型空母での戦闘機数は27機搭載が標準的となっており、圧倒的性能もあって戦争初期の制空権奪取に絶大な効果を発揮する事になる。

 開戦当初の戦いでも、航空機が最も大きな役割を果たした。
 これは、制空権奪取のための航空撃滅戦だけではなかった。
 日本軍が張り巡らせた航空機と潜水艦の偵察網に、シンガポールを出撃したイギリス艦隊が絡め取られたからだ。
 日本軍の上陸地点を目指すイギリス東洋艦隊は、まずは現地(マレー北部)イギリス空軍の貧弱な戦力をほぼ一日で壊滅させた第一航空艦隊の洗礼を受けることになる。大型空母4隻、それぞれ70機以上の艦載機を搭載する母艦ばかりで編成された第一航空艦隊は、300機近い艦載機を擁していた。しかしマレー半島北部での制空権獲得競争、上陸した部隊の支援などの任務があるため、全体の半分程度の航空戦力しか接近中のイギリス東洋艦隊の攻撃に向けられなかった。この点では、イギリス側の目論見通りだったと言えるだろう。
 このため第二艦隊、南遣艦隊が、迎撃のため進路をイギリス艦隊に向ける。しかし位置の関係から、南遣艦隊が水上艦隊として最初にイギリス東洋艦隊にぶつかりそうだった。戦艦の個艦性能では似たようなものだが、数で劣るため不利であり、万が一の事を考えた現地司令部は空母部隊による攻撃を決定。午前と午後の二回に分けて、のべ150機の攻撃隊を送り込んだ。いまだ航空機の威力が疑問視されていた時期としては、かなり大胆な戦力投入だったと言えるだろう。
 イギリス艦隊上空へと至った日本軍攻撃隊は、まずは制空権を獲得するべく相手空母に狙いを定める。この時、大編隊を組んでの攻撃には、進撃前の集合に手間取ったり進撃中に編隊がばらけてしまうなどの齟齬が付きまとったが、大軍という要素が欠点を補った。
 東洋艦隊の全力出撃でないため別任務の《イーグル》がいなかったが、《イラストリアス》《ハーミーズ》の2隻に対して、急降下爆撃機、雷撃機合わせて23機が攻撃。英艦隊の前面には21機の「フェアリー・フルマー戦闘爆撃機」が防空のため展開していたので、先行した形の日本軍攻撃隊の「九九式艦上戦闘機」27機のうち18機が襲いかかった。
 空での勝負は10分程度で決着がつき、イギリス側が一方的に10機以上を落とされ残りも逃げ回るという完敗で、日本軍攻撃機は易々と敵艦隊へと接近し攻撃位置に着いた。フルマー戦闘爆撃機は、戦闘機としても爆撃機としても中途半端な性能しかなく、相手戦闘機の影が少ないヨーロッパの海上ならともかく、専門の強力な機体を有する日本海軍には通用しなかったのだ。
 しかし、先行していた戦闘機隊に随伴できた日本軍攻撃機の数は、全体の約半数程度だった。残りは飛行中に離ればなれになったり、自軍艦隊上空での空中集合の時間までに間に合わず、後から追いかけていた。
 しかし半数でも、イギリス軍にとってはほぼ初めて体験する、大編隊による艦隊攻撃だった。しかもイギリス艦隊の対空戦闘は、自軍のソードフィッシュに合わせて訓練していたため、こと雷撃に関する限り迎撃がまるで対応できなかった。しかも攻撃が五月雨式に続いたため、イギリス側の陣形も乱れ、小数の日本軍攻撃機が艦隊の中心にまで入り込むことを防げなかった。
 そしてイギリス海軍の各艦艇は、小型で俊敏な日本軍雷撃機を避ける操艦にも不慣れだったため、次々に魚雷が命中。ドイツ軍の急降下爆撃は耐え抜いた重装甲空母の《イラストリアス》だったが、自らの重装甲が徒となって大きく傾いてしまう。旧式空母の《ハーミーズ》に至っては、多数の魚雷と爆弾を一度に受けたため、30分という短時間で沈没していた。これも、今までドイツ、イタリア両軍に雷撃機がまともにいなかった事からきた悲劇だった。
 油断と言えば油断かも知れないが、人や組織は教訓がなければ先に進むことは難しく、また当時のイギリス軍は常にギリギリの戦争を強いられていたので、気を遣う余裕がなかった結果とも言えるだろう。
 しかし日本海軍には相手の事情など関係なく、2時間半後にさらに70機の日本軍攻撃隊が、イギリス艦隊を攻撃する。先の失敗もあるため、編隊もほぼ固まって行動していた。
 この時《イラストリアス》に止めを刺す部隊以外は、前方を進む戦艦部隊に狙いを定めた。集中的に攻撃を受けたのは戦艦《バーラム》で、同艦は唯一近代改装されていないため対空射撃が貧弱だったのが、攻撃を受けた原因だった。そして複数の魚雷と爆弾を回避出来なかった《バーラム》は魚雷2本を艦首付近に受けた事もあって大破し、駆逐艦1隻の護衛を受けて後退を余儀なくされる。
 しかしこの時点で既に午後4時を越えており、次の航空攻撃がないと判断したイギリス東洋艦隊は、予定通り日本軍上陸拠点の攻撃を決定。さらに進撃を続行する。
 イギリス艦隊としては、夜陰に紛れて日本船団を攻撃し、夜の闇が支配するうちに日本軍の制空圏から離脱しようと言う目論見だった。空母二隻を一度に失ったのは大きな痛手だが、だからこそ戦果をもぎ取らなければならないと考えていた。

 海岸線がはっきりし始めた頃、イギリス東洋艦隊は日本海軍独特のパゴタマストを確認する。別方向から沿岸沿いに進んできた、南遣艦隊の戦艦《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》の姿だった。
 両艦隊共に、今時大戦初となる「まともな」艦隊決戦に戦意を昂揚させ、セオリー通りの艦隊決戦を行うべく互いに適切となる進路を取る。
 両軍の戦力はほぼ互角だが、粘れば援軍が期待できる日本艦隊の方が有利だが、突破されると上陸船団が蹂躙されるため、日本艦隊の取れる行動は限られていた。
 そして当日は戦場の視界も良く日もまだ出ていたため、両者はかなり遠距離から互いの姿を確認していた。さらに、日本側は航空機で、イギリス艦隊は自慢のRDFで相手を捉えていたので、相手を逃すことはなかった。イギリス軍のRDFは、さらに遠方にたむろする日本軍の輸送船団の影も捉えていた。
 両者の砲撃は、距離30000メートルで開始される。メートルとヤードという単位の違いで日本側の発砲がやや早かったが、すぐさまイギリス艦隊も発砲開始したため大きな違いはなかった。
 なおこの時、日本艦隊は45口径14インチ砲48門、イギリス側は42口径15インチ砲32門を有していた。主砲の大きさではイギリス艦隊が有利だが、42口径と砲身が短いため、主砲威力はほぼ互角だった。高い角度から砲弾が落下する状況だと、砲弾重量が重い分だけイギリスが有利だった。しかし日本の旧式戦艦は、イギリス側より建造年が若干若かった。先の世界大戦でのユトランド沖海戦の影響を受けて水平防御力を軒並み高めた上で就役している上に、機関の換装すら含む過剰なほどの大規模な近代改装も施されていた。このため防御力ではむしろ日本艦隊が有利で、排水量の大きさと手数の多さも合わせれば数字の上では、日本の優位だと考える方が妥当だった。しかし日本側の旧式戦艦は技術的にも様々な問題を抱えていたので、機械、兵器としての信頼性や安定性はイギリス側が勝っていた。

 両者が遠距離からそれぞれ砲撃開始するも、遠距離での砲弾命中すは滅多に起きる事ではなかった。このため、イギリス艦隊が沿岸に迫るのを日本艦隊が逸れさせるように運動しながら急接近する形で、両者の間に無数の水柱が林立した。
 そうして30分近く併走(同航)しながら砲撃戦を続け、開始10分頃から少しずつ両者の砲弾が敵艦を捉えるようになる。距離も20000メートル辺りになり、日英双方が想定した砲撃戦の間合いとなっていた。戦闘の様相は、これほど教科書通りの戦艦同士の砲撃戦もないというほどだった。
 この時点で双方それなりに被弾したが、近代改装を施されて爆沈の危険が遠のいた戦艦はタフネスだった。被弾により黒煙を上げ、艦によっては主砲の一部が粉砕されていたが、どの艦も屈する様子はなく戦闘は続いた。だが両者の距離が20000メートルを切ったあたりで変化が訪れる。
 もともと巡洋艦以下の戦力では日本側が有利だったため、戦艦同士の砲撃の傍らでの戦闘で日本艦隊が順当に敵を突破したからだった。このためイギリス艦隊の主力部隊は、雷撃を気にして戦闘しなければならなくなり、距離1万9000で一度砲撃を中止して進路を大きく逸らす事になる。これで戦艦同士の砲撃戦は、諸元が大きく狂って一旦停止。そこに、当時イギリス海軍だけが運用していた水上艦用の電探(RDF)が、別方向から迫りつつある日本海軍第二艦隊を捕捉。戦機を逸したとして、イギリス艦隊が撤退を開始してしまう。
 そして後は、夕闇の中に消えるイギリス艦隊の追撃が始まるが、日本側は艦載電探(RDF)をまだほとんど実戦配備していなかったため、煙幕などのイギリス側の妨害とスコールなどの天候も重なり取り逃がしてしまう。
 戦艦同士の水上砲撃戦の結果は痛み分け。双方の全ての戦艦が、最大で中破程度の損害を受けたに止まった。同程度の戦艦同士の戦いとしては、やはり教科書通りの結果だった。ただし、戦艦が戦艦を防いだという点では、価値のある戦いだったとも言えるだろう。また戦略的には、突破を許さなかったので日本側の勝利でもある。

 しかし敵主力部隊を取り逃がした日本艦隊は、船団を守ったことよりも敵を逃した事を非常に悔しがり、また今後の作戦の支障になるとして徹底した追撃を決意。最後の盾となる現地の護衛艦隊からの要請も聞かず、殆どの艦艇が追撃任務に転じてしまう。このお陰もあって、翌朝黎明に潜水艦によってイギリス東洋艦隊を捕捉すると、稼働全戦力での攻撃を開始する。
 ここでマレー沖海戦の第三幕となるが、この時日本側は第一航空艦隊のほぼ全力と、インドシナ南部に展開していた「九六中攻」、「九八式大攻」合わせて1個戦隊の過半数が出撃した。
 対するイギリス艦隊は、既に空母と共に艦航空戦力を失っていたが、既にシンガポールにかなり接近していたため空軍機が出動を決定。シンガポール防衛の切り札として開戦前に急ぎ送り込まれていた「ハリケーン戦闘機」のうち1個大隊が、イギリス東洋艦隊を守るべく出撃した。
 そして友軍艦隊へと到達したイギリス空軍のハリケーン約30機は、100機以上の大編隊で迫る日本軍艦載機群を肉眼で捕捉し、すぐにも日本側の制空隊との戦闘に突入する。そして今度の空戦も、前日ほどではなかったが日本側の勝利に終わった。もともと第一航空戦隊は、日本海軍の中でも最精鋭の搭乗員が所属しているため、ある程度の機体性能の差に加えて搭乗員の腕の差が如実に現れた形だった。それでもワンサイドゲームとはならなかったし、ハリケーンの一部は乱戦のスキを付いて日本軍攻撃機への攻撃も行った。だが基本的に多勢に無勢で、4発機の「九八式大攻」の群が少し遅れてやって来ると、空は日本機で埋め尽くされることになる。
 後は前日と同じ情景の繰り返しであり、生き残ったイギリス軍艦艇は激しい空襲を受けた。そして、ドイツ空軍と違って雷撃を重視する日本軍の前に損害を重ね、12月10日午後3時頃にはイギリス東洋艦隊は空襲によって壊滅的打撃を受けることになる。
 また先に離脱した戦艦《バーラム》だったが、複数の被雷で速度が大きく落ちていたためシンガポールへの待避が遅れ、夜半に半ば偶然に日本海軍の第二艦隊と遭遇。《バーラム》と駆逐艦《ヴァンパイア》による小さなイギリス艦隊と、ほぼ全力の第二艦隊の夜間戦闘へと発展する。両者電探(RDF)がないため混乱するが、第二艦隊は夜間戦闘の訓練を積んでいる部隊だけにイギリス艦艇は逃げるに逃げられるず、日本側は《バーラム》に狙いを定めて包囲戦を実施。これに対して《ヴァンパイア》が煙幕を張るなど孤軍奮闘し、与えられた名に恥じない夜間戦闘を見せるも多勢に無勢すぎた。

 都合四カ所での断続的な海戦の結果、日本側は駆逐艦1隻の沈没と戦艦3隻が判定中破したのを最大の損害としただけだったが、イギリス側は戦艦《バーラム》《マレーヤ》《ヴァリアント》、空母《イラストリアス》《ハーミーズ》、重巡洋艦《エクセター》他多数を喪失した。生き残った戦艦《クイーン・エリザベス》《ウォースパイト》も大破と判定してもよい中破の損害を受け、イギリス東洋艦隊は文字通り全滅した。なお、別任務だった《イーグル》とその護衛艦は、その後すぐにシンガポールを脱出してインド洋へと逃れている。
 「マレー沖海戦」の結果は、世界では衝撃的に受け止められた。戦艦同士の艦隊戦の結果ではなく、例え損害が積み重なったものであっても、航空機が洋上で作戦行動中の戦艦多数を含む艦隊を完全に撃滅してしまったからだ。一月ほど前のタラント沖海戦と合わせて考えると、海上戦闘の主役が戦艦から空母へと移り変わりつつあることを印象づける結果となった。

 「マレー沖海戦」後の東南アジアでは、守りの要となるイギリス艦隊が敗退して壊滅したため、イギリス軍を初めとする連合軍は総崩れとなった。マレー半島の付け根当たりの各地に上陸した日本軍は、本国からの増強がされないままの植民地警備軍でしかないイギリス、オランダの各部隊とは比較にならない重武装で、しかも驚くほど機械化、自動車化されていた。火力も、歩兵から砲兵に至るまで圧倒的だった。近代戦に不可欠とされる戦車も十分に有し、開戦数日で圧倒的となった制空権もあり、熱帯ジャングルの中で強引な電撃戦を展開した。
 マレーとシンガポールには、開戦までに慌てて送り込まれたオーストラリア第8師団と英印軍が合わせて4万名が守備していた。だが、もともと英本土やヨーロッパを優先してマレーでの防備体制を整備すのが意図的に遅らせられていた事も重なり、瞬く間に地図が塗り変わっていった。防衛線や要塞線とでも呼ぶべき陣地も作る予定になっていたし、実際工事も開始されていたが、不十分な陣地と戦力では圧倒的優勢な日本軍に歯も立たなかった。イギリス側の僅かな戦車も、殆どの場合が性能と数の差で日本軍戦車に圧倒された。重砲火力などは、比較にもならなかった。
 蘭領東インドは、マレー半島よりもっと酷かった。既に根無し草ながらも、オランダ軍4万、現地兵4万がジャワ島を中心に展開し、オランダ艦隊の主力部隊もいたのだが、戦闘は全く一方的だった。
 ボルネオ島南方海上に展開していたオランダ艦隊は、マレー沖での戦いの結果を知る前から及び腰になっていた。しかもイギリス海軍が、撃滅された上に残存戦力がインド洋に後退したという報告もあって、士気がさらに落ちた。そこにロンドンに亡命中のオランダ自由政府から、戦列艦の損失はドイツ軍占領下にある国民の士気に関わるとして、海軍の脱出が命令される。
 このためオランダ海軍は、圧倒的優勢を誇る日本艦隊の姿を見ることなく、ボルネオからジャワ、ジャワからインド洋へと逃れることになった。なまじ有力な艦艇を持っていた為、軍人としての最後の任務である「戦って死ぬ」事を戦略的に許されなかったのだ。
 そして海での抵抗をほとんど受けなかった日本軍は、容易く蘭領東インド各地へ上陸。原住民が日本軍に積極的に協力した事もあり、約5000万の人口がいるジャワ島ですら一週間で勝負が付いた。しかも日本軍は、侵攻を急ぐために現地侵攻部隊に機械化部隊を重点的に充て、さらに日本陸軍唯一の空挺師団すら投入して、オランダ軍が石油採掘及び精製施設を破壊する前に一気に奪取していった。
 蘭領東インドでの戦いの多くは年内にほぼ決着が付き、総人口の殆どを占めるジャワ島も、年初にはオランダの支配から解放された。マレー半島はそれよりも頑張ったのだが、基本的に防御力不足な上にイギリス兵そのものが戦前日本を侮りすぎていたため、実際の日本軍を前に士気が崩壊し、すぐにもシンガポールへと籠もってしまう。日本軍の進撃はドイツ軍を凌ぐもので、地上での車両移動と海上機動を駆使することで、一ヶ月半でマレー半島を踏破し敵を蹂躙した。
 1941年1月20日からは、シンガポール島攻防戦が始まる。戦闘は一週間近く続き、イギリス兵とオーストラリア兵はようやくの事で奮闘したが、不利な状況を覆すには至らず1月26日にシンガポールは陥落した。ここでも、日本軍の空襲と重砲による砲撃は、イギリス軍の予測を大きく上回っていた。
 この時の言葉として、「まるでドイツ軍を相手取っているようだ」というものがある。そしてそれは、物理的にもほぼ正しかった。それだけ日本軍は重武装だったのだ。

 一方、開戦と同時に、日本軍の南太平洋方面軍は、自国領のニューギニア島東部からオーストラリア北東部に対する航空殲滅戦と、ニューカレドニア島を目指した島嶼攻略戦を開始した。
 こちらに充てられた艦隊(南洋艦隊)は、全般支援を受け持った第二航空艦隊を例外とすると、重巡洋艦を最大として軽空母と水雷戦隊から編成されていた。しかし、長距離侵攻用と水上作戦用の航空隊を、日本領の新琉球諸島などの前線基地に多数用意していたため、作戦は順調に伸展した。島嶼に対する上陸作戦では、連隊戦闘団の編成をとった海兵隊が合わせて旅団規模で投入され、ほとんどまともに防備されていない英領ニューヘブリデス諸島を開戦すぐにも攻略。多少の戦力を持つオーストラリア海軍は、自らに対して圧倒的な日本軍を前に本国奥地に籠もりきりだった。
 その後日本軍では、年初すぐにもヴィシー・フランス政府に話しを着けた上で、ニューカレドニア島の保護占領を実施するための攻略作戦が行われる。もっともニューカレドニア島の総督府は反英感情が強く、現地フランス兵は総督以下日本軍をほぼ無条件で歓迎し、すぐにも現地で採掘されるニッケルを満載した輸送船が日本との間を行き交うようになる。ただしフランス人は、日本に対してニッケルの代金をちゃっかりと戦時の割増料金で求めていた。
 一方資源奪取という面では、東南アジア地域の方が重要だった。スマトラ、ボルネオ各地の油田、パレンバンをはじめとするロイヤル・ダッチ・シェル社などの油田及び製油施設、セレベス島南部の鉄鉱石、ビンタン島のボーキサイト、各地の天然ゴム、錫、マンガン、金などの鉱山が差し押さえられていった。油田や精油所にはアメリカ系資本もあるため、一部では外交活動すら伴う慎重な作戦ともなった。
 同時に港湾や鉄道、道路の復旧と接収も急がれ、日本本土からは多数の工兵と軍属扱いの民間業者が入って、現地の人々に発展した日本の土建技術の高さを見せつけた。なお道路や鉄道と同様に、破壊された油田や精製施設かなり見られたが、油田と精油所の運用経験は日本も十分持っているし、多数の資材と人員を送り込んだため、半年もするとほぼ完全に復旧し、日本の戦争経済に貢献するようになる。
 そして東南アジアの制圧で、自存の為の最低限の戦争は早くも多くが終わりを告げたのだが、戦争はまだ始まったばかりで、イギリスを屈服させるのはまだまだ長い道のりが必要だった。

 なお、日本がイギリスに対して宣戦布告したとき、同盟国のドイツではそれほど日本をアテにしてはいなかったとされる。ヨーロッパ一般の価値観では、日本はもちろんのこと有色人種とは、自分たちより劣った存在でしかなかった。たとえ日本が先の世界大戦に大軍を派遣していたとしても、列強屈指の大海軍を有していようとも、それは一般のヨーロピアンにとってどうでもよい知識でしかなかった。アメリカなどでは、日本人はまともな戦闘機を自力で作れないと、一般的に認知されていたほどだ。かのドイツ総統も、かつての自らの著書で日本人をこき下ろしていた。
 このためドイツも、精々イギリスの退路を断って戦力を引きつけておけばという程度の期待しか日本軍にしていなかった。このためドイツのヒトラー総統は、日本の参戦のおりにドイツ国民に対して、「2000年の歴史上で一度も敗北したことのない国家だ」と日本を持ち上げて、ドイツ国民の士気を無理にでも上げようとしたほどだった。
 しかし参戦壁頭での華々しい勝利、短期間での東南アジア制圧は、日本の評価を一変させる事になる。
 無論、日本に来た事のある一部の者は日本の発展を知っていたし、軍事に多少なりとも詳しい者は、少なくとも日本海軍の強大さは知っていた。日本海軍は、ワシントン会議以後世界の三大海軍の一つだったからだ。またドイツの一部シンクタンクや企業は、日本の正確な統計情報を持っていた。そうした所からの情報を、ヒトラー総統も遅ればせながら急ぎ仕入れた。このためドイツの一部では、日本の参戦で戦争が加速する事を見越し、戦争スケジュールの変更が行われるようになっていく。
 そして戦争を急いだのは、日本も同じだった。

●フェイズ27「豪州侵攻(1)」