■フェイズ27「豪州侵攻(1)」

 日本は、1940年12月8日にイギリス、オランダに宣戦布告すると、東南アジア、南太平洋地域に一斉に侵攻を開始した。主に資源地帯奪取を目的としていたが、両国はまともに増援が送り込めず、相手が植民地警備軍がほとんどなので、一部を除いて鎧袖一触だった。この事は日本軍も折り込み済みで、すぐにも次の段階へと移行しつつあった。

 インド侵攻の準備段階といえるビルマへの侵攻は、早くも開戦二週間目に開始され、タイの参戦、イギリス軍の準備不足、ビルマの現地住民の協力、そして強大な日本軍の軍事力によって瞬く間に進展した。
 不整地突破能力を高めた日本軍の各部隊は、機動力、機械力に任せて突進を続け、貧弱という言葉すら不足する現地イギリス軍(殆どがインド兵)を蹴散らすように進んだ。ビルマの中心都市ラングーン市は、1941年2月16日には陥落した。世界最強級の雨期が訪れる前の天長節(4月29日)までに、北西部のアキャブやマンダレーといった都市も日本軍の手に帰した。
 しかも現地イギリス軍は、数が少ない上にインド兵がほとんどだったこともあって全軍崩壊に近い状態に陥り、日本軍は予定を早めてインド領内への一部侵攻を実施。山間部からインドに入ってすぐのインパール市が、天長節の日に陥落していた。ビルマに進んだ日本軍は3個師団、7万人程度だったのに対して、英印軍は泥縄式に送り込まれた10万以上がいたのに、そのほとんどが殲滅されるか、退路を断たれて捕虜となった。中には進んで降伏したインド兵も多く、この点は日本側の宣伝工作の勝利と言えるだろう。
 そして東南アジア諸地域を開放すると、日本はすぐにも現地住民による自治政府を設立させ、これを完全な独立に向けた準備段階だと内外に向けて発表した。間違いなくこれは、ヨーロッパから日本が勢力圏として完全に奪い取るという宣言だった。国力を持つようになった日本は、列強間外交ではなく覇権外交を展開したと言えるだろう。勝者総取りの代わりに、一切の面倒を見るののだ。
 なお、各植民地独立のための準備期間は2年から3年を目処として、その間に政府組織、独自の軍、その他独立国家が必要とする様々な文物を整えるものとした。そしてその手助けの一切を日本が請け負い、当面は防衛も担当するともされた。
 そして各地域は日本の貢献の対価として、日本が戦争に必要とする様々な資源や物資を、格安の有償ながら日本が求めるだけ提供することが約束された。ただし、提供物のうち食料は余剰分のみとされた。またヴィシー・フランス政府が行政権を持つインドシナ、ニューカレドニア島は、日本の行政権が及ばないため独立や軍政の対象外とされた。
 こうしてインドネシア、マレー、ビルマに早々に自治政府が作られ、防衛や民族の問題もあるためニューギニア島西部とその周辺部は、現地インドネシア組織の渋々ながらの合意の上で日本に併合されることになった。そしてタイ王国同様に、それぞれの政府(※当面は自治政府や独立準備委員会)は枢軸へ参加して連合軍に対していく事になるが、これまで植民地支配を受けていた地域では、独立戦争だとして特に異存はなかった。

 しかし日本による解放とその後の戦争は、良い面ばかりではなかった。現地駐留軍は可能な限り現地に対して便宜を図るも、基本的に個々の日本人が現地民を自分たちより格下に見ることがあった。いや、多かった。この点、日本政府は慌てるように軍と国民への啓蒙活動を強力に行ったが、これは日本という国家にとって戦争の正義を作り出すための方策であり、解放した地域を考えての事ではなかった。
 また、日本が総力戦を行っていてあまり余裕のない状況のため、国家間の約束は必ずしも守られてはいなかった。日本が現地に権利を与えて懐柔したのは、とにかく先に進まねばならないので、自分たちの兵力を削りたく無かったというのが一番の理由だった。特に一部軍人や国粋主義者の目算としては、戦争が終われば態度を変える積もりだったとも言われる。
 しかしそんなことはおくびも出さずに、初戦の快進撃が進むに連れて「大東亜共栄圏」という標語が大々的に出てくるようになり、ヨーロッパ帝国主義国家からの植民地解放こそが今戦争の日本の目的だという向きが、主に政治的に強められていく事になる。
 こうした動きは、植民地帝国主義を否定するアメリカに対するメッセージでもあり、特にアメリカ市民に対して日本に敵意を向けさせない政策でもあった。アメリカは日本の宣伝を国内には余り伝えていなかったが、それでもドイツのように全てを飲み込んでいくような戦争をするよりは効果が見られた。さらに日本政府は、軍の一部の思惑はともかく、日本国民に対しては啓蒙を行い、世界及び占領地に対しては宣伝に務めるようになる。そうする方が、戦費が安く抑えられるからだった。
 そして一部軍人の横暴で強硬な態度が目立つと、政府は占領地行政を次々に理由を付けて日本軍を中心とした軍政から現地の民政へと移管し、軍人達を前線か国内に追いやっていった。各地に軍関係者がいても、多くが生粋の兵部省関係者とされた。軍の人事権の多くを兵部省が握っていたので、文官集団がそうしたことも出来たのだ。
 こうした事に一部の無理解な軍人から反発が出たが、出過ぎた者もは最前線送りなど厳しい処罰が行われる事が日常となっていった。軍人の移動が激しい戦時では、軍人(将校)同士のコネや繋がりもあまり効果は無かった。また、軍民問わず、占領地での専横と私腹を肥やす行為が行きすぎた者も、半ば見せしめとして容赦なく処罰された。中には、現地での民心を得るため、公開銃殺刑という極めて厳しい処罰が行われた事もあった。
 政府としては、国家が総力を挙げて戦争をしているので、国内の愚か者につき合っている余裕がなかったからだ。
 日本は、戦争に勝利するためにも、一刻も早く確実に先に進まねばならなかった。

 一方戦争そのものだが、太平洋戦線が1941年3月に新たな段階へと突入する。インド洋東部やベンガル湾では、日本の小規模な艦隊と潜水艦による通商破壊戦が活発になっていたが、日本軍全体としての主作戦地域はオセアニア地域だった。
 オーストラリア、ニュージーランドという二つの英連邦国家を、イギリスから引き剥がしてしまうのが目的だ。
 また、自治確立以後のオーストラリアは、明治以後日本との関係がとかく悪かった。これも感情面で、日本のオーストラリア侵攻を肯定させていた。
 関係が悪い理由は主にオーストラリア側にあり、オーストラリア人としては東洋人の列強など到底受け入れられないという強い人種偏見によるものだった。加えて、日本がオーストラリアのすぐ隣にあるパプア島や南太平洋の島々を保有している為、日本とオーストラリアは「隣国」であり、何もかもがオーストラリア人の気に入らなかった。「グレート・ウォー」でも、何度か問題を起こしていたほどだ。日本が国際的に非難されるときも、常にオーストラリアが先鋒となった。この時期でいえば、アメリカのルーズベルト政権と最も歩調を合わせていた政府の一つがオーストラリアだった。
 そして日本も、一方的に嫌われ続けている現状に対して、オーストラリアに対してあまり良い感情を抱いておらず、軍事的に一度叩いておく事は外交政策においても民意においても合致する事だった。

 オーストラリアに対する攻撃では、開戦当初からオーストラリア北東部に対する航空殲滅戦が行われていた。空襲だけで相手が手をあげてくれるなら、それが一番楽だからだ。
 何しろオーストラリアは、当時の総人口は700万強程度しかいないのに、領土の広さは世界最小とはいえ大陸一個をまるまる抱えていた。ほとんどが砂漠や草原で人が多く住む場所は南東部沿岸を中心にして限られていたが、攻める側にとって戦争したい場所でもなかった。
 だからこそ日本軍は、まずは空襲による屈服を狙った。オーストラリア、ニュージーランド政府にも、再三再四枢軸諸国との停戦と講和を呼びかけてもいた。だが、オーストラリアは頑なであり、イギリスなどからの軍事援助を求めつつ、国内に向けては徹底抗戦を唱えていた。まるでヒトラーのように、日本と日本人を悪し様に罵ってもいた。
 このため1941年に入ると、日本軍は占領したティモール諸島からの爆撃も開始し、オーストラリア北部一帯が航空戦の舞台となった。こうした空の戦いを、オーストラリアでは本国に倣って「バトル・オブ・オージー」と呼んだりもした。
 日本側の空襲は主に海軍航空隊が担当したが、これは陸軍が念のためソ連に備えた兵力を引き抜くことが難しく、またオーストラリアの次に来るであろうインドでの作戦に備えるためだった。そして爆撃では、日本領モレスビーと占領地のティモールから行われ、東部沿岸ではブリズベーンにまで「九八式大攻」が爆撃した。「九九式戦闘機」を主力とした航空撃滅戦では、開戦から約三ヶ月の戦闘で決着がついた。当初から戦力が不足し、さらに航空機補充能力に欠けるオーストラリア空軍を壊滅状態に追い込んだ。自力で航空機を作れないと言う点では、オーストラリアも中華民国と似たようなものだった。
 無論だが、日本軍はオセアニア地域に対する海上通商破壊戦も熱心に行った。このため、イギリス本国からの武器の輸送も思うに任せなかった。
 しかしオーストラリア政府は、容易に屈服しなかった。航空撃滅戦では呆気なく敗退して、オーストラリア北部の都市は軍事施設、重要施設を中心に激しい爆撃に晒されていたが、北部は基本的に辺境で重要な場所と言えば北西部の鉄鉱石地帯ぐらいしかなかった。当時はボーキサイト、ウランといった資源は採掘もしくは発見されていなかった事もあるが、人が大勢住める環境ではなかったからだ。またオーストラリアは食料輸出国のため、取りあえず食べていく分には不足が無かった事も、オーストラリアの強気の原因だと日本では考えられた。
 だがオーストラリア政府は、日本が参戦した時から常に断末魔のような叫びをイギリス本国に発していた。植民地根性ここに極まれり、というわけだ。
 なお、なけなしの自前の空軍は、機材、物量、練度の全てにおいて日本軍に大きく劣っていたため、ほとんど一方的に落とされてしまい、日本軍パイロットに撃墜数を増やさせただけに終わった。開戦三ヶ月目には、北東部でまともに稼働する航空機はほとんどなくなり、海外からオーストラリアに小数だけ流れてくる機体も、アメリカから本国が輸入して直接輸送してもらったものだった。しかし、アメリカの「P-39」「P-40」「F2F」といった機体も、ほとんどの場合日本軍機の敵ではなかった。住民に見せるため迎撃を行っても、練度が低く数も少ないため落とされるために出撃するような有様だった。当然と言うべきか、オーストラリア国民の士気はさらに落ちた。
 一方空軍以外の軍備だが、海軍は重巡洋艦2隻を中心にした植民地警備海軍以上の存在ではなかった。一時期、戦艦を有するオランダの東インド艦隊が南西部のパース立ち寄っていたが、それも春までにはインド洋の奥地に移動していた。このため頼みの綱は陸軍なのだが、こちらも安心できなかった。
 イタリアに備えてエジプトに派遣されていた陸軍師団は、イギリス本国の言うことを殆ど振り切るように戻している最中だった。それ以外で海外に展開した部隊のうち、シンガポールでは第8師団が、ジャワ島ではオランダ軍の救援に行った3000名ほどの雑多な部隊が共に現地で降伏を余儀なくされていた。しかもインド洋を渡って帰投途中の輸送船舶が日本海軍の通商破壊に捕まり、2000名以上の将兵が無為に失われていた。
 このためオーストラリア陸軍は、ただでさえ少ない正規戦力のうち2割ほどを本土決戦を行う前から失った状態だった。
 そして1941年までにかき集められた陸軍部隊だが、編成表の上では正規師団で8個師団あった。うち1個は、編成上は機甲師団という事になっていたが、ほとんど装甲車両を有さないため、旅団編成の自動車化部隊程度の戦力しかなかった。他の師団も急ぎ編成が開始され、対日戦が始まってからはオーストラリア全土で民兵の編成も始まった。
 オーストラリアを先進国と仮定した場合、約50万人の兵士が動員可能だった。根こそぎ動員すれば100万以上の数字も見えてくる。しかし広大すぎる国土、不足する重工業生産、主にやたらと広い地域での農業主体の産業構造、短い準備期間などのため、戦力を揃えようにも揃わなかった。1941年春の段階で動員できた兵力は、民兵を含めて30万人ほどになったが、半数以上が鉄道以外だと個人が持つ車や馬以外での移動手段がなかった。これは広大な国土防衛を考えると、致命的な問題だった。オーストラリア軍は広く広大な領土の防衛が、事実上不可能なことを表していたからだ。装備についても、正規師団ですら武器弾薬が不足していた。民兵の装備も、旧式銃や猟銃、手斧や鉈、大型スコップ、手製の原始的な武器が主体という有様で、民兵には制服(軍服)すらなかった。
 もちろんだが、重砲、戦車も不足というレベルではなかった。

 一方日本軍だが、開戦当初から陸軍がオーストラリアへの地上侵攻に反対していた。日本陸軍の主敵はあくまで赤いロシア人であり、イギリスとの戦闘となればインドが主戦場だと考えていた。加えて、オーストラリアでの戦闘はほとんど考慮していなかったため、一般に売られている地図程度しか持っていないとすら言われた(※外務省や兵部省は、以前から十分詳細な地図を持っていた。)。また侵攻のためには最低でも200万トン分の輸送船舶が必要とされ、船を用意できるにしても疲弊も消耗もするので、次の作戦、つまりインド作戦に大きな支障が出るとしていた。また侵攻そのものには、最低でも方面軍単位の軍事力が必要な上、広大な地形を考えると可能な限り自動車化、機械化された部隊が必要なため、その点でも陸軍は嫌がっていた。
 しかし、アメリカが戦争を決意する前にイギリスを屈服させるには、オセアニア地域の脱落が何としても必要だと、政府と軍の総参謀本部は考えていた。万が一、アメリカと戦争になった場合にアメリカに巨大な橋頭堡を渡さないためにも、オーストラリア侵攻が必要と考えられた。
 それでも事務と後方での兵站業務、そして軍事予算を握る兵部省がオーストラリア侵攻に大きく傾くと、やむを得ず侵攻作戦を承諾する事になる。
 陸軍の豪州方面軍は、先の大戦でも武勲を持つ歴戦の板垣征四郎大将のもと4個軍(軍団)が予定された。兵力の中心は、東南アジア侵攻で活躍した師団が、内地から派遣された留守師団と交代するのを見計らって準備されていった。戦車師団1、機械化師団(甲)2、自動車化師団(乙)6、師団(丙)3、重砲兵旅団2、空挺旅団1、海兵旅団1が麾下に入る全戦力で、後方部隊を可能な限り減らしたにも関わらず総数40万人を越えた。
 豪州作戦は、日本軍始まって以来の大渡洋作戦であり、先に行われた東南アジア作戦を規模の面でも上回るものだった。
 もっとも、全てが一度に行われるわけではなく、まずは北西部、北東部への補助的な侵攻が先に行われ、次の段階で南東部のオーストラリア心臓部への侵攻が実施されることになっていた。この時点でオーストラリア政府に降伏を求め、それでも駄目な場合は残る南西部やその他辺境の制圧が計画された。つまりオーストラリア全土を占領するのではなく、首都を含めた主要部と戦争に必要な場所だけの占領が目的とされた。そうすれば、都市化の進んでいるオーストラリアは、国家として降伏を選ばざるを得ないと考えられたからだ。
 またこの作戦は、次の大作戦となるインド作戦に向けての教訓を得るための作戦とも捉えられ、実戦部隊には多くの調査隊も同行していた。

 日本軍によるオーストラリア作戦は、1941年4月15日に開始された。
 それぞれ大艦隊に支援された大船団が、オーストラリア北西部のポートダーウィン、北東部のタウンスビルに侵攻。まともな沿岸防御ができないオーストラリア軍に対して、ほぼ無血の上陸作戦を行う。ある程度の抵抗を想定していた日本軍としては、陸海軍共に非常に拍子抜けを味わうことになった。
 なお、どちらの地域も、広大で人口希薄なオーストラリア大陸という地理的状況から、陸の孤島のような存在だった。タウンスビルには南東部から伸びる鉄道があったが、現地守備軍は地理的にはほとんど孤立していた。しかもどちらの地域も既に爆撃によってかなり破壊されており、制空権、制海権は最初から全く存在しなかった。
 それでもそれぞれ守備軍や民兵が都市などに籠もり、それぞれ2個師団の機械化もしくは自動車化された日本軍と対峙する事になる。しかし当初の士気を空襲と艦砲射撃で砕かれ、さらに高度に機械化された日本軍を目にすると、民兵レベルではすぐにも士気が萎えてしまう。自分たちはまともな戦車をほとんど持っていないのに、日本軍は野砲クラスの大砲を備えた重装甲の戦車を備えているのだから、戦闘自体も勝負にならなかった。しかも市街地や一部の森林以外は開けた土地が多いので、機械化された日本軍にとっては非常に戦いやすい戦場だった。
 また日本軍は、都市や街に近づくと必ず一度降伏の使節を送っていた。この時降伏しないまでも、軍が町からの退去を邪魔しない事を交換条件に、市民の安全を保障する無防備都市宣言の提案も実施している。小さな村に対しても同様のことを出来る限り実施し、侵攻のための時間短縮を計ろうとした。この日本軍の方策は、沿岸部では艦砲射撃の音、重砲の音、大艦隊の姿が威圧となり、空を飛ぶ日本軍機が各地で同様の役割を果たした。大都市に対しては、ビラがまかれたこともあった。このため、恐慌状態になって徹底抗戦を選ぶ町や村もあったが、何もしないまま降伏した都市の方が圧倒的に多かった。オーストラリア軍が後退していなくなった地域では、特に降伏を選ぶ事が多かった。
 双方での戦闘は4月半ばまでに終息し、多くのオーストラリア兵は日本軍に包囲されると降伏し、日本軍はハーグ協定やジュネーブ条約を出来る限り守って行動した。またダーウィンでは逃げ場がないため、多くの者が降伏を選ばざるを得なかった。内陸の草原や砂漠に逃れても、飢えと渇きが彼らの生命を奪うからだ。
 その後日本軍は、タウンスビルに上陸した部隊は後続の警備部隊に治安維持を委ねると、接収した線路沿いに南下を始める。ダーウィンの方は、あまりにも孤立しているため拠点が設営され、上陸した部隊は数日鋭気を養うと、交代の警備部隊と入れ替わりに再び船へと戻っていった。こうした戦闘を、現地日本兵は「飛び石戦法」と呼んだりもした。オーストラリア大陸とは、それだけ島づたいでの戦闘に近かったのだ。

 この時点で日本政府は、一度オーストラリア政府に降伏を打診した。国家同士の戦闘で見ても勝敗の結末は既に見えており、これ以上の抗戦は無益だとしたのだ。しかし日本の行いは、かえってオーストラリア人の戦意を昂揚させてしまい、オーストラリアでの戦闘は続く事になる。有色人種「ごとき」に負けることは、白人のエリートを自認する彼らには到底受け入れられなかったのだ。
 そしてオーストラリア存亡の危機に直面したイギリス本国も、日本軍の侵攻が明確になった頃から、本格的なオーストラリアへの増援と救援策を開始する。イギリス本国としては、インド防衛の時間を稼ぐため少しでも日本軍をオーストラリアに止めるという本音もあったが、それ以上に同胞が多く住むという感情がオーストラリア防衛に力を入れさせることになる。
 だが海軍は開戦当初に東南アジアで叩かれたばかりで、ヨーロッパから動かせる戦力は限られ、その戦力では日本の侵攻を阻止するだけの力は望めなかった。出来るのは、日本を泥沼の地上戦、消耗戦に引きずり込む事だが、それをするにも兵器、物資が相当量必要だったし、戦闘経験豊富なイギリス本国兵を多数投入する必要性もあった。
 しかし、既にオーストラリア大陸を囲むように日本軍潜水艦が展開し、中立国としての振る舞いをしない船は片っ端から沈めていた。主に南太平洋側では、出来る限り艦艇や航空機を入れて、アメリカ船籍の船を間違えないようにしている念の入りようだった。そして、多くの航空隊と艦艇が通商破壊戦に参加しているのがドイツ軍との違いで、長大な航続距離と積載量、そして頑健さを備える「九八式大攻」は、連合軍にとって悪魔の使いに他ならなかった。そしてインド洋のシーレーンすら脅かされているイギリスに、オーストラリアに十分な増援と兵器、物資を送り込むことは物理的に不可能だった。このためアメリカからもらい受けた兵器を、直接アメリカの手でオーストラリアに届けて貰う事になった。だが、自国の為でもないのに危険の多い海に出たがるアメリカの民間人はまだ少なく、またアメリカ自身も兵器や物資の生産、大量の船舶の用意などを十分できる生産体制になかった。実質的には、「ないよりまし」という程度の物資しかオーストラリアには渡らなかった。
 なお日本政府からアメリカに対しては、戦場となるオーストラリアに近づかない旨が強く通告されていた。近寄る場合は十分な期間を取った事前の通知と、アメリカ船、中立船と分かるような標識や電灯を行うようにも重ねて要請していた。
 これに対してアメリカは、同年3月に「武器貸与法案」を通したばかりで、少なくとも外交面では日本政府に対して強気だった。このため日本は、オーストラリア侵攻を急ぐことにもなっている。

 1941年5月6日、日本海軍の大艦隊がオーストラリア南東部沖合に姿を現した。
 同艦隊は、就役したばかりの巨大戦艦《大和》が艦隊旗艦に就き、制空権奪取のために必要な航空母艦も、《翔鶴級》が4隻全て揃い踏みしていた。戦時建造の高速タンカー改造の小型低速空母も姿を見せ始めており、作戦に参加した航空母艦の総数は、実に15隻を数えていた。空母艦載機の数も800機を数え、シドニーから直線距離で1400kmほどのタウンスビルには、既に日本軍の重爆撃機が展開していた。ただし、度重なる作戦のため、艦隊将兵と艦艇の多くが少しばかり疲労していた。
 日本軍としては出来る限りの体制を敷いたのだが、この戦場は今までとは少し違っていた。
 イギリス本国が、本国の守りやドイツへの爆撃、インドへの増援を減らしてまでして、有力な航空隊を送り込んでいたからだった。その数は、途中の3割近い輸送船舶の沈没を差し引いて200機程度だが、訓練の行き届いたイギリス本国のRAF精鋭と「スピットファイア」、「ハリケーン」をはじめとする戦闘機、「ウェリントン」、「ボーフォート」などの爆撃機が送り込まれていた。
 しかしイギリス側の日本軍に対する認識は、まだ甘かった。
 日本軍の戦力は、東南アジアでの報告が過小だったと思われるほど圧倒的だった(※事実、本国では過小にしか評価されていなかった。)。日本側は、急な侵攻のためかフロート付きの戦闘機すら制空戦闘に投入してきたが、その戦闘機ですら最高速度以外ほとんどの面で通常の戦闘機以上の戦闘力を有し、主に爆撃機を好餌としていた。
 しかし日本軍は、イギリス側の夜間爆撃と日本側もスキを突かれるなどの結果として、無視できない損害を主に上陸作戦中と橋頭堡を築く間に受け、海軍艦艇、地上部隊など多くの部隊で対空装備を増強させる一つの切っ掛けとなっている。
 中でも日本海軍にとってショッキングだったのは、一発の1000ポンド爆弾で小型とはいえ空母が一隻、呆気なく沈んでしまった事だった。この空母はタンカー改造の低速空母だったが、それでも爆弾の1発程度では沈まない船体構造と応急対策体制が取られている筈だった。しかし実際は、艦載機の補給中に爆撃を受けて各所に誘爆が広がり、応急対策を取る余裕もなく全艦火だるまとなって短時間で沈没していた。この結果を重く受け止めた海軍は、その後ハード、ソフト両面で不燃不沈も十分な対策に務めるようになる。
 艦艇、特に航空母艦が危険物の固まりのため非常に燃えやすい事を、日本海軍も実際の教訓として得た初めての事例だった。
 一方のイギリス、オーストラリアは、初めて日本軍の有力艦艇を沈めたと考えて、それが焼け石に水でしかないと分かっていても少しばかり士気を高めた。

 なお、日本軍の上陸作戦を挫折させるほど、イギリス軍・オーストラリア軍の抵抗は強くはなかった。個々の戦意や技量はともかく、やはり戦力、物量が決定的に違っていたからだ。確かに「スピットファイア」は強かったが、「九九式艦戦」ならば1対1でほぼ対等で、2機がかりでならまず負けなかった。そして数的優位は、ほとんどの場合日本軍にあった。
 そして橋頭堡を築いてしまえば、後は日本軍の一方的展開だった。先にも書いたように、オーストラリア軍は国土面積に対して余りにも軍備が足りていないため、後退しながら敵の消耗を強いて、相手の侵攻が主に補給面で限界に達した時点で反攻するという戦術以外に取りようがなかったからだ。
 そして日本軍は作戦を急いでいるのに、上陸から一週間ほどは空母艦載機以外の航空支援といえば、時折遠路はるばるやって来る大型爆撃機しかなかった。このためオーストラリア軍としては、日本軍が内陸に侵攻して自分たちが地の利を活かせる場所に来た時点が、反攻のほぼ唯一のチャンスだった。
 もっとも、シドニーからメルボルンにかけてのオーストラリア南東部は、オーストラリアでは最も社会資本(鉄道や道路など)が充実した地域だった。土地そのものも、比較的平坦で地盤もしっかりしていた。このため機械化の進んだ日本軍にとっては、進軍しやすい土地だった。少なくとも、支那事変での中華地域よりも、移動などは遙かに簡単だった。無論道路を外れれば地雷がこっそりと仕掛けられていたり、軍服すら着ない民兵の狙撃兵がいたりしたが、どれも全体から見れば嫌がらせ以上ではなかった。ただし、民兵を「便衣(ゲリラ兵)」とするかどうかでは非常に苦労が伴われ、以後の抵抗を低下させるためという理由で、正規兵の捕虜(軍属又は訓練兵扱い)として扱う事を日本軍内で取り決められている。
 それよりも日本軍が初期の頃に困ったのは、無防備都市宣言を出したシドニー市の存在だった。広大な都市で市街戦をしないで済むのは有り難かったが、初期の段階でオーストラリア最大の都市を日本軍が丸ごと面倒見なければならないのは、半ば誤算に近かった。無論シドニーを脱出した市民も多数いたのだが、輸送力の限られたオーストラリアでは大量の人員輸送はしたくてもできなかった。広大な国土に相応しく個々に自動車を持つ者も多かったが、そうした人々の多くは白人一般の偏見による日本人への恐怖心から脱出するも、軍隊の移動を妨げる大渋滞を作り上げただけになった。日本軍偵察機は、半ば呆然と都市から逃げる人と車の列を眺めるより他無かったほどだった。
 このためシドニー市長は、オーストラリア政府と計った上で無防備都市を宣言し、オーストラリア軍は兵站面の負担を日本軍に強いることを戦術の一つとした。
 もっとも日本軍は、侵攻に際してかなりの量の補給物資を持ち込んでいた上に、想定した以下の損害しか受けていないので、当座の物資や食料は自分たちの分を差し引いても何とかなった。しかし一ヶ月以上となると問題が出るため、日本本国には物資の追加発注が大量に行われ、後回しの予定だった農耕地帯の占領も急がれるようになる。
 だが農村部では、世界共通の田舎的要素から海外情報が限られているので、人種偏見が殊の外強かった。猟銃や鉈などで抵抗するという情景が日常的に見られたため、日本軍はシドニーなどから連れてきたオーストラリア人に説得して回らせるなど、戦闘とは呼べないところで、思わぬ苦労をさせられることになる。
 そしてオーストラリアという白人国家への侵攻作戦は、日本人の多くに世界を覆う白人一般による根強い人種差別というものを思い知らせる事にもなった。

●フェイズ28「豪州侵攻(2)」