■フェイズ28「豪州侵攻(2)」

 日本軍の電撃的な侵略に対して、とにかく首都キャンベラを守らなければ話しにならないオーストラリア軍は、レスリー・モースヘッド中将を司令官とした第一軍団6個師団を擁して、日本軍に対向しようとしていた。しかし6個師団といっても、うち3個は戦争が始まってから編成された訓練不足な寄せ集め部隊で、装備も全然足りていなかった。中にはオーストラリア軍唯一の機甲師団もいたのだが、戦車どころか装甲車すら定数を遙かに下回る数しか無く、一般車に薄い鉄板(※鋼板ではない)を張ったような車までが動員されているような有様だった。僅かな数の戦車も、日本軍の「九七式(乙)」より劣る程度のもがほとんどだった。
 対する日本軍は、南東部に戦車師団1個を含む5個師団が上陸を済ませていた。そしてさらに3個師団が輸送途上にあり、支援部隊を含めると10個師団分の戦力が集中される予定だった。他にもタウンスビル方面から遠路陸路を進んでいる2個師団が、各地を半ば無血開城しつつブリズベーンにまで到達しつつあった。最低でも自動車化されている日本軍の各部隊は、抵抗さえなければ一日に200キロから300キロも前進できたし、想定内の抵抗や妨害の中でも、一日最低50キロは前進していた。異常なほどの攻略ペースだが、オーストラリアは、日本人の常識からは考えられないほど人口密度が低かったからだ。
 進軍する日本兵は、とんだ過疎地だと驚いたと言われている。
 航空隊の方も既にシドニーに大挙進出を開始しており、航続距離の長い「九八式大攻」はオーストラリア南東部一帯をその翼下におさめていた。またこの時、陸軍が開発した機体が新たに戦場に投入されていた。陸軍が次期主力の中型爆撃機として開発していたものの先行型にして派生型で、試験を兼ねて投入されたものだった。
 同機体は、支那事変の教訓を受けて製作された双発機による地上襲撃機で、「百式重襲撃機」と呼称された。
 同機は、まず本来の搭載機銃の全てを武式12.7mmに換装し、出来る限り銃弾も搭載。機体前面と下面を中心に防御力も強化。機体の一部には7ミリ弾を弾く装甲も備えられた。
 その上で機体前面の各所、爆弾槽から機体下面に張り出す形でのバルジに、搭載できる限りの機銃や機関砲を搭載した。本来の砲塔以外の武装は、37mm機関砲2門、20mm機関砲4門、12.7mm機関銃6門で、前面に対してだが暴風雨のようなと表現されるほどの圧倒的火力を発揮することができた。
 搭載銃弾を減らすことで爆弾は外に吊す形で搭載する事も出来たが、基本的には載せられるだけの砲弾、銃弾を載せ、圧倒的火力で敵を圧倒することが目的とされた。なお同機体は、火力の大きさを買われ、一部改修して武装を減らした上で夜間戦闘機にも派生しているし、インド洋では船舶攻撃にも活躍した。
 この機体は、実験的に臨時編成の1個中隊9機が投入されていたに過ぎないが、初陣の戦場で大きな効果を発揮した。しかも日本軍は支那事変から「九八式襲撃機」という小型の専門機も投入しており、この戦いでは発動機を換装した改良型も投入されていた。他にも急降下爆撃機も投入していたし、戦術偵察機も十分な数が展開していた。そして当然だが、海軍の空母艦載機もまだまだ飛び交っており、戦闘機も地上銃撃や対地爆撃を行うなど傍若無人な状態だった。
 こうした機体による露払いと掃討のため、オーストラリア軍主力部隊は、オーストラリアからキャンベラへの撤退途上で大きな損害と移動の妨げを受けてしまう。戦い慣れていない事もあり、殿の一部がシドニーからキャンベラへと向かう日本軍先鋒に、まともに任務が遂行できないまま捕捉殲滅されるなどの醜態も目立った。
 基本的に日本陸軍将兵の多くは、先の支那事変で十分な実戦経験を積んでおり、陸軍全体はその戦訓を出来る限り反映させて今時大戦に望んでいた。三日間にもわたる長時間戦闘でも、十分な経験と対策を持つ日本軍は十分に戦えた。
 対するオーストラリア軍は、士気こそ旺盛で勇敢だったが、装備だけでなく戦術、経験の面で不足するところが大きかった。それをイギリス本国の将校が補うはずが、根本的な数の不足などもあってうまくいっていなかった。
 オーストラリアの戦闘は、植民地軍が列強の攻撃をまともに受ければどうなるか、という典型的な戦場だった。

 日本軍の素早い進撃、激しい空襲に焦ったオーストラリア軍は、日本軍は空母艦載機の支援が十分できないと判断し、キャンベラ前面での反撃を企図する。
 戦闘は5月15日に始まり、地の利を得て日本軍先鋒を誘い出し、抜け道などを使った自動車化部隊による戦術機動により日本軍補給線の寸断を行うなど、当初はオーストラリア軍の優位に戦闘が進んだ。日本軍の側も、オーストラリア軍の初めて組織だった大規模な攻撃に当初は混乱した。しかし経験の差、装備の差、制空権の差などから大きな混乱や潰走に至ることなく立ち直り、体制を立て直すと果敢に反撃に転じた。
 しかも、本格的な反撃のため前線の少し後方で集結していたオーストラリア軍主力4個師団は、これを発見した日本軍の猛烈な空襲を受けることになる。そして密集した敵の攻撃、隠蔽した敵の攻撃は、日本軍にとって既にお馴染みだった。支那事変では、逃げる、隠れるを常套手段とした中華民国軍で十分に経験を積んでおり、支那での戦訓から産み出された重襲撃機という切り札も持ち合わせていた。それにキャンベラが内陸部、山間部と言っても、沿岸から100キロほどしか離れいないので、少しだけ南に移動した日本海軍の強大な空母機動部隊にとっては、地上を動き回っているオーストラリア軍は格好の獲物でしかなかった。百機単位の戦爆連合が一日に何度も飛来し、反撃のため居場所を自ら晒したオーストラリア軍を空から叩き続けた。
 そして空襲により反撃もままならなくなった所を、戦車部隊を先頭に立てた日本軍が一斉に反撃に転じた。戦闘開始から一日もすると、日本軍の後方に位置していた重砲兵部隊も布陣を完了して激しい砲火を浴びせかけた。長時間の戦闘も、支那事変などで馴らした日本軍に対して、訓練の足りないオーストラリア軍は劣勢だった。火力、機動力、装甲など全ての面で劣るオーストラリア軍は、地の利を活かした後退を選ぶより他無かった。
 しかし全ての面で勝る日本軍の追撃は続き、オーストラリア軍の主力部隊は半数以上の戦力が殲滅もしくは降伏を余儀なくされ、残余がさらに奥地へと逃げのびていく事になる。

 決戦と呼べる地上戦の三日後、オーストラリアの首都キャンベラは無血開城。その前に、オーストラリア政府はメルボルンに逃亡した。このためオーストラリア政府はまだ降伏を決断していないと判断した日本軍は、メルボルンへの艦隊の派遣を決定。そこには大西洋やインド洋から駆けつけたイギリス海軍、イギリス船舶が日本軍の間隙をついて多数集っており、捲土重来を期した脱出を画策していると判断されたからだ。
 この時イギリス海軍は、一度も戦わなかったオーストラリア海軍、ニュージーランド海軍だけでなく、イギリス、英連邦各地からも多数の艦艇が集っていた。日本に決戦を挑むためではなく、日本軍の攻撃を受けた場合に、盾となって脱出船団を守るためだった。
 しかしこの頃のイギリス海軍は、窮地に立っていた。
 ドイツ海軍の最新鋭戦艦《ビスマルク》がいよいよ本格的活動を開始しようとしており、半年前に叩いたイタリア海軍もそれなりに復活しつつあったからだ。これに対してイギリス海軍は、最新鋭の《キングジョージ五世》こそ迎え入れるも、既にそれぞれ4隻の戦艦と空母を失っていた。
 だが、強大な日本艦隊からオーストラリアの「明日への希望」を守るためには、何としても戦艦と空母、そして空母に乗せる精強な戦闘機隊が必要だった。そして戦艦は、船団護衛を止めて地中海の制海覇権を低下させることで捻出するにしても、艦隊随伴可能な空母の数が不足していた。
 《フェーリアス》《イーグル》《アークロイヤル》《ヴィクトリアス》《フォーミダブル》が、この当時イギリス海軍の手にはあった。だが日本艦隊相手に、インド洋にいる《イーグル》では搭載機数の面でも役者不足なのは明らかだった。そして地中海のマルタ島維持のために最低数の空母は必要不可欠で、《ビスマルク》に備えるためにも本国艦隊、H部隊の双方に高速発揮可能な空母があった方が好ましかった。しかし大戦力を有する日本軍相手には、多数の艦載機が必要だという認識もあった。
 このため日本軍のオーストラリア侵攻が判明した4月頃から、イギリス海軍は戦力の大幅な移動を実施した。インド防衛も兼ねてインド洋に空母2隻を派遣し、インド洋の《イーグル》を地中海で航空機輸送に充てる事にした。インド洋に来たのは、《アークロイヤル》と《フォーミダブル》で、《ヴィクトリアス》が本国艦隊、旧式の《フェーリアス》がH部隊へと移動となった。
 戦艦については、やはり《ビスマルク》などのドイツ軍艦艇が気になるため、稼働状態の《R級》が根こそぎ派遣されることになった。数は3隻で、既にインド洋にいた《リヴェンジ》に加えて新たに《レゾリューション》《ラミリーズ》が加わった。速力、火力などほとんどの面で日本海軍の戦艦に劣勢だが、守る戦いなら十分戦えると判断されての事だった。
 チャーチルは、本当なら最新鋭戦艦やより有力な戦艦を派遣したかったと回顧録の中で述懐しているが、派遣する側もされる側もスケープゴートである事を理解しての出撃だったという意見が圧倒的に多い。
 なお作戦には、インド洋に逃れていた自由オランダ艦隊も参加しており、東インド、豪州北西部方面を中心にして、日本軍に対する牽制を行うことになっていた。

 そして短期間でのオーストラリア降伏を狙う日本軍としては、メルボルンに集まっているイギリス艦隊は、是非とも捕捉撃滅したかった。またメルボルン近辺の制海権を得てしまえば、残すはオーストラリア主要部はパース市を中心とする南西部だけで、実質的に勝負が付くからだ。
 戦闘は時間を争うものとなった。日本軍が、イギリスのメルボルンからの脱出作戦を察知したのが5月23日。通商破壊戦に従事していた潜水艦が半ば偶然に発見したもので、戦艦と空母を伴ったイギリス船団は南極寄りに大きく迂回してメルボルンに急ぎ近づきつつあった。しかしこの段階では、南西部のパースに向かう可能性もあったため、当初は防備を固めるための増援艦隊ではないかとも考えられた。しかし艦隊速力は、多数の輸送船を伴っているのに12ノットを越えていた。このため潜水艦の追跡も失敗し、日本海軍は決断を迫られる。
 しかし、メルボルンが本命だと半ば希望的観測に基づいて当たりをつけ、またどうせメルボルンも近いうちに攻撃しないといけないので、ものはついでとばかりにメルボルンへの空襲と艦砲射撃が急ぎ決定された。
 日本艦隊は、シドニー港の泊地から5月25日にあわただしく出撃し、日本海軍にとって記念すべき日にメルボルン沖合にさしかかる。もっとも、強大な日本の空母機動部隊は、1個航空艦隊がオーストラリア大陸南東端のハウ岬沖合を遊弋して空襲の機会をうかがっていた。シドニー郊外に進出していた海軍航空隊も垂涎の獲物を得るべく活動しており、イギリス海軍はまさに決死の状態でメルボルンからの脱出作戦を行っていた事になる。
 そして夜陰を突いて突撃してきた日本艦隊は、夜間戦闘を旨とする最精鋭部隊の第二艦隊、開戦壁頭で英東洋艦隊という獲物を逃した艦隊だった。
 戦艦《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》に加え、さらなる大改装を実施した《長門》《陸奥》を加えた旧式戦艦部隊だが、戦意と技量は高かった。このオーストラリア侵攻では、アメリカを牽制する意味も込めて第一艦隊が参加し、第一艦隊の方は《大和》を筆頭に新鋭戦艦で固められていたため、ライバル心を燃やしていたからだった。しかもこの頃になると、日本海軍の艦艇にも初期的な電探が広く装備され始めており、イギリス海軍への電子戦での劣勢もなくなったと考えられていた事も、日本側の積極姿勢を助長していた。
 なお戦闘は、5月27日早朝から開始されている。
 無論と言うべきか、手ぐすね引いて待ちかまえていた日本海軍による空襲が初手に行われた。夜陰を突いてメルボルンに入ったイギリス船団を、入った翌日の夜明けすぐに日本軍偵察機が捕捉。盛んに電波を飛ばして味方を呼び始めた。これが戦いの突撃ラッパとなり、その日一日絶えることなく日本軍機がメルボルンの港に襲来した。爆撃は大型機よって夜間も行われ、そこはまるでロンドンの夜のようだったと述懐されたほどだった。
 イギリス側も懸命に迎撃し、各空母の甲板一杯に搭載された「スピットファイア」や「ハリケーン」は、「シー」の文字が付く空母用の機体ではなく急ぎ集められた陸用で、飛び立ったら最後、空母には戻れない機体だった。
 空中戦は、イギリス軍、オーストラリア軍の航空隊を前に日本軍は思わぬ苦戦を強いられ、港に据えられた高射砲、高射機関砲の数も、これまでにないほど濃密だった。このため現地の制空権が得られず、艦隊の突入も延期を余儀なくされた。
 そして稼ぎ出した2日間で、イギリス側はオーストラリアから脱出する人々の乗り組みを完了する。イギリス側がメルボルン港で受けた損害も、空襲だけでは僅かな数の輸送船が損傷を受けただけだった。
 ここでイギリス軍は若干安堵していた。深夜のうちに船団はメルボルンを離れ、翌朝日本軍の偵察機が現れた時には、メルボルン港はもぬけの空となっているからだ。

 しかし相手を侮っていたのは、イギリス軍も同じだった。
 戦意旺盛な日本艦隊が、夜間に艦隊を突撃させてくるとは予想もしていなかったからだ。だがこの頃のイギリス軍は、オセアニア地域での偵察能力を著しく低下させていたため、一概にイギリス軍の油断とも言えないだろう。また日本側も、「獲物」が逃げるという焦りがあったのも確かであり、本来なら混乱と危険の多い夜間突撃は選択されにくい筈だった。
 だが、日本艦隊がメルボルン沖合へと突撃してきたのは確かであり、出航したばかりのイギリス船団のRDF(電探)に映る日本艦隊を前に混乱するイギリス艦隊を後目に、日本艦隊は艦隊を二手に分けて照明弾の落ちる場所へと突撃を開始する。
 空には、一度飛び立つと二十四時間以上飛行できると言われる、試作型の航空電探と特設増槽付きの「一式大艇」が飛び、艦隊を誘導し続けていた。このためイギリス艦隊は夜陰に紛れて逃げることができず、当初の予定通り旧式戦艦部隊が盾となるべく日本艦隊の前に立ちはだかった。
 もっとも日本艦隊は、《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》が高速に任せて迂回しつつイギリス船団へと突撃し、《長門》《陸奥》を中心とする打撃艦隊が、《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》を中心とする艦隊へと進んできた。
 このため戦闘開始前は、イギリス艦隊には各個撃破の好機とも映ったとも言われる。先に二隻の敵戦艦を後退もしくは戦闘不能に追い込み、船団の直衛が敵戦艦を抑えている間に挟撃できる可能性があると考えられたからだ。
 しかし《長門》《陸奥》は十年以上日本の主力艦であり、そして旧式艦であるため練度も高かった。個艦戦闘力も圧倒的に上であり、《陸奥》に至っては長らく世界最強と言われた16インチ砲を10門も搭載していた。その上2隻は最新の技術を用いてさらに改装されているため、ほとんど旧式のままだった《R級》戦艦との戦闘力の差は、建造年差ほど狭くはなかった。加えて、照明弾をやたらと落とす日本機が複数いるため、砲撃戦は夜間にも関わらず2万メートル程度から開始されていた。

 一方イギリス側は、砲撃戦で相手を撃退するのが任務ではなかった。船団を守るのが任務で、最後まで殿のつとめを果たすことが任務だった。
 このためイギリス艦隊は、日本艦隊とまともには組み合わず、進路もたびたびジグザグで変更したため、まともな砲撃戦は成立すらしなかった。遠距離砲撃戦は、両者が一定の距離をまっすぐ進む事で主に成立するからだ。
 しかし速力差、補助艦艇の規模の違いから、徐々にイギリス艦隊は追いつめられていった。《長門》《陸奥》を船団から引き離す事には成功したが、自分たちも度重なる進路変更で船団から離れてしまい、《金剛級》を追うことも叶わなかった。
 そして戦艦同士の距離も1万5000メートル以下になり、流石に逃げ切るのが難しくなると、《長門》《陸奥》に気を取られすぎていたことが徒となる。
 急速接近を続けていた日本軍水雷戦隊が距離6000から放った魚雷が、相次いで《R級》戦艦に命中。酸素魚雷のため航跡が発見しにくいことが、夜間戦闘と言うことも重なって、イギリス艦隊による魚雷発見はほとんど出来なかった。このため戦闘開始から36分で《リヴェンジ》が大破、《レゾリューション》が中破した。2隻は速力を大きく落としてしまう。そしてさらに5分もすると諸元を調整した《長門》《陸奥》の砲弾が各戦艦の周囲に落ち始め、イギリス側も戦闘力を残していた《レゾリューション》が反撃して《陸奥》に命中弾を浴びせるも、無傷な戦艦が《ラミリーズ》の1隻だけでは出来ることも限られていた。その後《ラミリーズ》以下の残存艦艇は戦闘を中止して、煙幕を展開しつつ闇夜の中に消えていくしかなかった。
 そしてこの時点で既に勝負はついていたのだが、この頃には《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》が有利な位置から船団への砲撃を開始し、船団の方は軽巡洋艦を中心とした護衛艦隊が短時間で叩きのめされるのを見て、急ぎ船団を解いて各船は思い思いの方角に逃げのびつつあった。
 そして任務を半ばまでしか果たせなかったイギリス残存艦隊も、小型艦艇が後退戦闘を行いつつも撤退を開始。2時間以上続いた夜間戦闘も終幕する。
 しかし戦闘自体は、深夜ばかりでなく翌朝も続いた。

 深夜のうちは、付近に急ぎ展開した日本軍潜水艦が、散り散りになった英船舶を散発的に追い回していたが、密度が低いためあまり大きな戦果を挙げることは出来なかった。
 そして次は空母対空母の戦いとなった。
 メルボルンに戦闘機隊を送り届けた《アークロイヤル》《フォーミダブル》だが、まだ格納庫には本来の航空隊も乗せていた。戦闘機の方も、「フルマー」だけでなく「シーハリケーン」を含んでおり、戦闘機の数も全体の7割を占めていた。つまり70機近い戦闘機を擁していることになる。またイギリス空母部隊の近くには、昨夜の混乱から逃げのびた輸送船の生き残りが単独もしくは小規模な船団を作りつつ航行しており、周辺海域には散り散りになった友軍船舶が数多くいた。これらの船を守りきるのが、この時のイギリス軍空母の任務だった。また、大陸沖合を航行していたため、場合によっては昨日送り込んだ航空隊の支援を受ける事も可能だった。
 これに対して日本海軍は、昨日メルボルンを空襲した第二航空艦隊が、速度を上げて追撃任務に就いていた。
 第二航空艦隊は、高速空母《蒼龍》《飛龍》《雲龍》《神鶴》《千鶴》を中核とする大艦隊で、艦載機総数は予備を含めると約400機もあった。この大戦力だからこそ今回の任務に選ばれたのだが、最新鋭の《神鶴》《千鶴》は、戦闘機と急降下爆撃機が正式化されたばかりの新型を導入しており、その実戦評価をするという目的も副次的に含まれていた。
 新型機は、戦闘機の方が新明和の「紫電」、急降下爆撃機の方が空技廠の「彗星」だった。今までの皇紀による単純な名称と違い愛称が付けられているのが一つの特徴でもあるが、次世代機であり扱いにくい機体ともされていた。
 「紫電」はその名が示すとおり、本来は局地戦闘機として開発されたもので、派生機、兄弟機にフィンランドに行った「白熊」や「零式水上戦闘機」などがある。そして同機は、三菱と新明和が新型局地戦闘機の座を争った末、双方採用されたという経緯がある。「紫電」は上昇速度など性能面で三菱の試作戦闘機(後の「雷電」)に若干劣る点があったものの、「自動空戦フラップ」と通称される装置による格闘戦能力の高さと、今後の改良を受け入れやすい機体構造、何より艦上機としても使える要素が海軍に受け入れられることになった。実際この時は、「紫電12型」と呼ばれる艦上機型が空母《神鶴》《千鶴》に搭載されていた。母艦航空隊の拡充と戦争の拡大に対して、急ぎ新型機を求めた末の選択でもあった。しかし翼を大きく折り曲げる構造を持たないので、この点だけは艦上機としての欠点だった。
 「彗星」は急降下爆撃だが、日本海軍としては珍しい液冷エンジンを搭載していた。最高速度は当時の多くの戦闘機を上回り、急降下爆撃時の爆弾搭載量も500kgと「九九式艦上爆撃機」を大きく上回っていた。また艦上機として嫌われる可燃性の強い液冷エンジンの液冷材についても、ブースト圧を高めた上で単なる水を使う形にしたタイプが使われていた。また同機は翼を大きく折り曲げる事のできる構造を持ち、従来の五割り増しの搭載が可能という利点を有していた。「紫電12型」と「彗星」が同じ母艦に乗せられたのも、搭載の際のスペースの問題も関係していた。
 そして新鋭機による戦闘だが、日本側は圧倒的多数の艦載機をイギリス機動部隊に送り込んだ。第一、第二次攻撃隊共に130機以上の編成で、最初から数で押しつぶすつもりだった。30機以上が上がってきた「シーハリケーン」に対しても、各18機の「九九式艦戦32型」と「紫電12型」で圧倒し、一部制空隊を突破した「フルマー」に対しても「彗星」の高速がものをいった。大編隊による攻撃も、戦訓を踏まえて能力や効果が向上していた。
 そして日本軍攻撃隊の威力は圧倒的であり、《アークロイヤル》はまず無数の500kg爆弾を受けて全艦火だるまとなり、急降下爆撃を何とか耐え抜いた《フォーミダブル》には片方から集中的に魚雷が突き刺さった。
 第一次攻撃隊だけで空母には引導が渡され、第二次攻撃隊は上空を待っている「一式大艇」からの無線情報に従って、半数近くが付近を航行している艦隊と輸送船に狙いを付けた。
 この時点でオーストラリアでの戦いは、イギリスの惨敗という形で事実上終わりを告げていた。
 第一次から第二次攻撃隊の間に、ブリズベーン辺りから約20機のイギリス空軍機が援護にやって来たが、日本軍側の損害が若干増えただけで戦いそのものに大きな変化はなかった。最初から空軍機が英機動部隊上空にいても、大きな変化は無かっただろうとも言われている。

 「タスマニア沖海戦」または多少無理がある「南氷洋海戦」と呼ばれた戦いにおいて、イギリス海軍は戦艦2隻、空母2隻、重巡洋艦2隻を失い壊滅した。大型艦では、戦艦《ラミリーズ》が何とか逃げのびただけだった。これに対して日本海軍は、戦艦2隻が中破、空母も最後にイギリス海軍が放った攻撃隊の空襲を受けた第二航空艦隊が、電探の覆域の超低空から進入した「ソードフィッシュ」の群に気付くのが遅れ、2隻が魚雷と爆弾を受け1隻大破、1隻中破という思わぬ大損害を受けていた。ここでも空母の脆さが露呈され、日本海軍に不燃不沈対策、対空火力強化を行わせる一押しとなった。
 一方イギリス側の脱出船団は、総排水量30万トン近くが投入されたうち、実に70%以上が南アフリカのケープなど友軍の安全圏にたどり着く事が出来なかった。途中から自由オランダ艦隊も護衛や支援に就いたのだが、多勢に無勢で僅かな船を守りながら逃げるのが精一杯だった。それでも、日本軍空母の損傷がなければ、イギリス軍の被害はもっと大きくなっていたことは間違いない。
 また、随伴したイギリス軍の護衛艦艇も全体の半数以上が沈められており、損傷のない艦艇を探す方が難しい状況だった。これは日本側が、オーストラリア大陸を包囲するように通商破壊戦を仕掛けていたのに加えて、脱出船団を重点的に狙ったからでもあった。乗っている人々や物資の価値もさることながら、船そのものも高速発揮可能な優秀船が多いため、出来る限り沈めておきたかったからだ。

 メルボルン脱出作戦の3日後、6月2日メルボルンに脱出していたオーストラリア政府は、現地日本軍を通して日本に対して全面的な停戦と軍の降伏を打診。これに対して日本側は、基本的にオーストラリアの降伏を受け入れる旨を通達。6月4日正午をもって、日本軍とオーストラリア軍の戦闘に停止命令が出される。
 なお日本側は、基本的には一時的な間接統治の実施、無賠償、無割譲を、停戦及び講和条件として先に提示していた。加えて、オーストラリア政府の存続を認める代償として、オーストラリアとイギリス及び連合国各国との関係断絶、海外派兵されている全ての軍隊の引き上げ、枢軸同盟への参加を求めた。またイギリスなど連合国との国交、通商の断絶と、逆に枢軸各国との国交、通商の復活を要求。さらに今戦争が終了するまでの日本による間接統治と、首都キャンベラを始め需要都市数カ所への日本軍の駐留を認める事も求めた。
 これに対して停戦後の交渉でオーストラリア政府は、一時的な間接統治や海外派遣軍の引き上げなどは受け入れるが、枢軸への参加と英連邦からの完全離脱の拒絶を絶対条件として譲らなかった。
 結局日本政府も、時間と兵力を惜しんだ事もあり、オーストラリア側の最低条件のみを認め、局外中立を否定して日本による軍政統治、日本軍の駐留を要求。これをオーストラリア政府も受諾。オーストラリアの戦争は取りあえず終了した。
 しかしオーストラリア国内では、「自分たちよりも劣る」有色人種による軍政支配を断固拒否するという人々が奥地や平原で抵抗運動を続け、これを日本側が武装を一部戻したオーストラリア軍に鎮圧させるという不毛な戦いが長らく続いた。この禍根は戦後長らく残り、オーストラリアに深い傷跡を記す事になる。
 もっとも、オーストラリア国内でオーストラリア人同士が勝手にいがみ合う事は、日本への反抗力を減らす事になるとして、日本側も抜本的な対策は遂に取らなかった。

 なお、もちろんというべきだが、オーストラリア降伏後に、ロンドンには自由オーストラリア政府が樹立され、英連邦と連合軍の中ではオーストラリアは存続し続ける事になる。この点は、メルボルンからの脱出を完全に阻止出来なかった日本の政治的な敗北と取られることもある。

●フェイズ29「最初の転換点」