■フェイズ29「最初の転換点」

 オーストラリアを下した日本の次の目標は、もちろんインドだった。次と言うよりは対イギリス戦争の本命であり、陸軍は総力を挙げた電撃的な短期決戦によってインド全土を「解放」する積もりだった。
 しかもイギリス本国がドイツとの戦いに拘束され、イギリス海軍が次々に減退している今こそがインド侵攻の好機であり、今を逃せば永遠に機会は訪れないかも知れないと日本軍内では考えられていた。
 だがインド侵攻には電撃的であるだけに入念な準備が必要だし、侵攻のための橋頭堡となる場所も必要だった。橋頭堡の一つがビルマで、ビルマはベンガル湾一帯の凶暴な雨期が来る前に所定の作戦を終えることが出来た。しかし雨期が来てしまうと、特にガンジス川河口部は手の出しようがなかった。ヒマラヤ山脈の麓にあるアッサムという今では紅茶で有名になった地域は、世界最高の雨量を誇る地域で、アジアモンスーンの影響で主に5月から10月にかけてが亜熱帯特有の雨期だった。その後11月からは乾期が訪れるのだが、少なくともこの雨期が落ち着くまでは、この地域での大規模な軍事行動は非常に難しかった。特に激しい雨のため航空機が使えない事が多いという状況は、侵攻する側にとっては不利な要素が多すぎた。
 このためビルマ作戦を終えた日本軍は、先にオセアニア地域の完全制圧に向かったとも言える。

 1941年6月4日にオーストラリア政府は降伏したので、オーストラリア戦はあしかけ二ヶ月かかったことになる。拠点や都市が極めて限られた総人口700万人の国家が相手だとしても、広大な領土を考えればそれなりに短期間の作戦だったと言えるだろう。
 その間南太平洋では、巡洋艦を中心とした艦隊と日本海軍所属の海兵旅団が、英領となっているフィジー諸島に侵攻。まともな軍事力のない同地域を短期間で占領し、フィジーの解放を宣言した。さらに、現地で新たに作られた暫定政府との間に協定を結び、日本軍が駐留を開始。飛行場を中心とした基地を設営し、そこには6月に入ると続々と日本海軍の「九八式大攻」が進出し始めた。
 フィジー侵攻の目的は、言うまでもなくニュージーランドへ圧力をかけることだった。日本にとって、当時の総人口170万人程度のニュージーランドを軍事的に降らせることは簡単だった。
 日本陸軍は、一週間で戦いを終わらせてみせると豪語していたし、実際主要な戦闘期間についてはその通りだと予測された。根こそぎ動員しても10万程度の兵士しか揃えられない上に、まともな空軍も無かったからだ。海軍だって、イギリスから貰ったような軽巡洋艦が数隻あるだけだった。しかもニュージーランドは、先の大戦での人的、財政的消耗からまだ立ち直れていないため、人口以下の戦争遂行能力しかなかった。
 しかしニュージーランドにも白人国家、英連邦国家としての誇りと面子もあり、日本軍が本格的に攻めてきてもいないのに停戦や降伏するわけにもいかなかった。
 このため日本軍は、シドニーに工作艦などを入れてまでして空母機動部隊を整備し、戦艦部隊の補給を急いだ上で、ニュージーランド政府に勧告を送る。ニュージーランドに絞った海上封鎖作戦も実施された。
 ニュージーランドへの勧告も、少し前にオーストラリア政府に突きつけた条件とほぼ同じだった。そして受け入れないならば、大規模な空襲の後に侵攻部隊を送り、一気に全土を占領すると脅した。
 実際、西太平洋のパラオ諸島には、日本本土を起った大船団が寄港しており、無数の船舶の腹の中には機械化された1個軍団の将兵とその装備が満載されていた。オーストラリアでも、作戦を終えた兵士達がシドニーに停泊する輸送船に乗り込んでいた。この情報は事前に連合軍にリークされ、特にニュージーランド政府の耳に入るように仕向けられた。そして脅しでない証として、潜水艦を中心とした海上封鎖の強度が増された。
 これに対してニュージーランド政府は、日本政府に対してニュージーランドの連合軍からの離脱と全ての国家に対する局外中立を対案として提示。しかも期限を5年と区切ることで、自分たちの立場を表明した。この事はイギリス本国との間でもやり取りされた結果であり、守ることが全く出来なくなったイギリス本国も、ニュージーランドの立場を尊重するという言葉で一時的であれ切り捨てることを決意する。
 その後シドニーで両政府代表の協議が本格的に開始され、6月12日にニュージーランドは連合国から離脱、各国とも停戦した後に局外中立を宣言するに至る。
 この結果に目くじらを立てて怒ったのは、宗主国となるイギリスではなく、主にアメリカのイエロージャーナリズム(大衆新聞)だった。オーストラリアへの侵攻と合わせて、日本は強欲な侵略者であり、大東亜共栄圏や植民地解放などの言葉に惑わされてはならないと強い論陣を張った。無論その後ろには、アメリカの主戦派がいることは明らかだった。
 そして日本は、アメリカの低俗な低俗なマスコミの言葉に耳を貸すことはなく、自らの目的に向かって歩みを進める。

 日本軍の次の目標は、インド半島の先に浮かぶ島、セイロン島。ここを占領することで、インド洋の制海権、制空権を得て、インド南部並びに西部侵攻の橋頭堡とするのが目的だった。
 しかしイギリスの決死の反撃が予測されるため、今まで以上の戦力を投入することが決められ、オーストラリア作戦に従軍した多くの艦艇が一旦日本本土や大規模な港湾設備のあるシンガポールなどへと向かった。整備と補給、乗組員の休養、そして部隊の再編成を行うためだ。
 また新規兵力の受け入れもさらに行われ、陸軍将兵は続々と各種揚陸艦や兵員輸送船、輸送用客船などに乗り組んでいった。
 しかし日本がインド作戦の準備の最中にあった1941年6月15日、驚天動地の事件が発生する。
 ドイツが、不可侵条約を結んでいるソビエト連邦に、突如侵攻を開始したのだ。

 日本が参戦してからニュージーランドを降伏させるまでの約半年間、世界情勢も激変を続けていたが、ドイツがソ連に攻め込んだ事は中でも一番の変化となった。
 日本が開戦壁頭にイギリス艦隊を簡単に粉砕し、1941年2月までに日本が東南アジア占領を終えると、世界は日本という国家を再評価するようになった。二年ほど前の「チャイナ紛争」は、所詮有色人種国家同士の低レベルな戦争であり、日本が大勝したからと言ってそれほど驚くべきニュースではなかった。アメリカのルーズベルトとその一部取り巻きは、チャイナの降伏に大いに落胆したと言われているが、世界的な変化はほぼゼロだった。精々、日本が周辺情勢の一つを整理したに過ぎない。しかも、ギリギリとはいえ大戦勃発前の出来事だった。
 しかし1940年12月7日(グリニッジ時間)をもって参戦した日本は、欧米白人世界を瞠目させ続けていた。開戦壁頭に有力なイギリス艦隊を一方的に破り、イギリスの東洋支配の牙城シンガポールを呆気なく陥落させ、東南アジアを短期間で占領した。インド洋も大西洋同様に安全な海ではなくなり、春になると日本軍の矛先はオーストラリアへと向かった。
 まさに破竹の進撃、鎧袖一触の戦いぶりだった。
 抑圧に苦しむアジアの人々は日本の快進撃に喝采を送り、ヨーロッパの人々はドイツが同盟した日本という国が、実はとんでもない国力と軍事力を有していることに震撼した。今まで日本の軍事力は、海軍の規模はともかく全体としてイタリアより下だと一般的には見られていた。まともな航空機の自力開発が出来ないとまで、盲信されていたほどだ。そしてイタリアは、参戦以来不甲斐ない姿ばかりを見せており、日本が参戦してもたいしたことはないだろうというのが、ヨーロッパ一般での評価だった。同盟国のドイツ中枢ですら、ほとんどが同じように考えていた。
 しかし現実は大きくくい違っており、イギリスは押されっぱなしだった。しかも陸ではなく海で負け続けていた。インド洋も安全ではなくなった。インドそのものが安全でなくなるのも、もはや時間の問題と予測された。春に入るまでの時点で、オーストラリアは早くも青息吐息な状態だった。
 このためイギリスの軍事力に対する不信が広がるのに平行して、枢軸国への軍事的脅威が主に心理面で大きな高まりを見せた。これは特にドイツの脅威に怯えている国々に顕著で、殆どの国が右に倣えでドイツ(枢軸)に与していった。民族問題から国内が分裂しがちなユーゴスラビア王国も、例外ではなかった。ごく一部の者が軍事クーデターを画策して徹底抗戦しようとしたが、国内で十分な賛同者を得られずに挫折し、小数の人々だけが山間部へと逃れてその後ゲリラ活動を行う。しかしユーゴスラビアそのものは枢軸へと与して、ユーゴスラビアを素通りしたドイツ軍はそのままイギリス側に与したギリシアへと進撃し、イギリスがギリシアの防衛体制を固める前に一気に侵攻した。
 そして東ヨーロッパを安定させたドイツは、イギリス軍を地中海に追い落としてクレタ島を奪い取ったように、今度は北海、そしてブリテン島で同じ事をするのではないかという見方が大勢を占めた。
 特に6月に入る頃に、その一般論はピークを迎える。

 まずは北アフリカで、ドイツ軍が3月末日に攻勢を開始し、小数の戦力な上に疲れ切っていた現地イギリス軍を呆気なく撃破し、僅か10日ほどの戦闘でリビアの北アフリカ戦線を大きく押し返していた。その上でギリシャに電撃的に侵攻し、5月にはクレタ島が占領された。地中海情勢は、一気に枢軸優位へと傾いた。
 日本の軍事力への手当のため、地中海でのイギリスの戦力も大幅に低下し、それは地中海の真ん中に浮かぶマルタ島の抵抗力が低下している事で象徴されていた。
 そしてイギリスは、全ての戦線を支える事が出来なくなり、故にどこを救うため増援を派遣するかの選択を迫られ、エジプトが事実上切り捨てられた。
 この決断の直前の北アフリカ戦線で、現地イギリス軍が無理を押して消耗している筈のドイツ軍を攻撃したが、DAK(ドイツ・アフリカ軍団)を率いるロンメル将軍の巧みな戦法と増援で到着した第15師団の機動戦術に翻弄されてしまい、リビア東部の要衝のトブルクすら失うことになった。これでドイツ軍はトルブク港から補給路を伸ばす事ができるようになり、戦場はリビアからエジプトへと移っていた。
 そしてアンザック諸国を失い、インド防衛のため有力部隊までも引き抜かれたイギリスのアフリカ軍団は、この時期極めて危機的状況にあった。このため付近の戦力が、根こそぎエジプトへと集められた。イラクがイギリスに反抗していたにも関わらず、イギリスは当面のエジプト防衛のために中東にあった兵力を全て振り向けなくてはならなかった。しかしこれはエジプト防衛のためではなく、インド防衛の為に少しでも長くスエズ運河が使うためのものだった。
 一方5月5日にブリテン島を出発した船団は、一つはインドへと向かい、もう一つは、オーストラリアのメルボルンを目指した。
 このうちインドに向かった船団には、当時重装甲で知られた「マチルダII」戦車240両、「スピットファイア」を中心にした航空機150機を始めとする増援用の装備が満載されていた。護衛は軽巡洋艦を中心にした、潜水艦を警戒した布陣が敷かれていた。この船団は、ドイツから日本に行動が逐一通達され、日本はインド洋西部での通商破壊戦を強化する事を決め、ベンガル湾で活動中だった軽空母《龍驤》と重巡洋艦を中心にした水上艦隊を西進させ、潜水艦1個戦隊を送り込み撃滅を企図した。
 インド洋上で艦載機の偵察と空襲を受けたイギリス船団は、被害が少ないにも関わらず浮き足立ち、そこに日本軍艦載機が呼び寄せた潜水艦が周囲から襲いかかった。潜水艦と雷撃機の同時攻撃は大西洋でも体験したことがなく、イギリス船団は立体攻撃に翻弄される事になる。
 それでも、沖合での雷撃機の襲撃、敵艦隊を気にしての航海、対潜水艦戦と様々なストレスを背負いつつも船団は維持され、結局3割近い損害を受けつつ何とかボンベイへと入港する。一見少ない損害だったが、急な通商破壊戦だった事を思えば日本軍としては十分以上の成果だった。
 ただし、航空機のほとんどは危険を避けるためアデンで荷揚げされ、そこからは自らの翼でアラブ地域を越えてインドへと到達している。航続距離の短い「スピットファイア」でも、何とかアラビア半島からインド西部のカラチに飛ぶことが出来た。

 そしてオーストラリアでは、メルボルン沖合で日本海軍にイギリスの「オーストラリア脱出艦隊」が手ひどく叩かれて大損害を受け、さらに大西洋ではドイツ海軍の新鋭戦艦《ビスマルク》が空母《グラーフ・ツェペリン》と共に出撃した。
 5月18日から5月28日にかけてのいわゆる「ビスマルク追撃戦」では、イギリスが長らく国家の誇りとしていた巡洋戦艦《フッド》が《ビスマルク》の攻撃によって爆沈の憂き目を見て敗北を喫した。イギリス海軍は、復讐を果たすべく総力を挙げて《ビスマルク》を執拗に追撃したのだが、重巡洋艦と共に別行動した空母《グラーフ・ツェペリン》の艦載機がイギリス軍艦載機の行動を邪魔をしたため、《ビスマルク》は損傷しつつもフランスのブレスト港へと帰投した。一方その後も戦闘を継続した空母《グラーフ・ツェペリン》は、イギリスのH部隊を攻撃する好機に恵まれて航空攻撃を実施。英空母《フェーリアス》に500キロ爆弾3発を浴びせかけ、これを沈没に追い込んだ。艦載機の出撃直前を狙われた旧式空母は、艦載機の誘爆が起きて為す術もなく沈んでしまった。これも、戦争の勢いを物語る逸話と言えるだろう。
 そして東西での戦闘の結果、イギリスは戦艦3隻、空母3隻を喪失し、大型艦は半身不随の状態に追い込まれる事になる。しかも稼働空母は、旧式の《イーグル》を除けば本国艦隊の《ヴィクトリアス》ただ一隻という有様で、急ぎ艤装最終段階だった《インドミダブル》を加えても3隻にまで激減してしまう。戦艦、巡洋戦艦の方も修理中の艦を入れても数で二桁を割り込み、北大西洋航路の船団護衛に戦艦を投入できなくなっていた。このため、旧式巡洋戦艦《タイガー》は機銃を少し増設したような状態で第一線任務に当時られ、半ば練習戦艦となっていた旧式戦艦の《アイアン・デューク級》戦艦4隻を現役復帰させる作業が開始されたほどだった。
 しかしイギリスには、守るべき場所が多すぎた。本国近海、地中海、大西洋、そしてインド洋。全てを守るのは既に不可能で、特に自らより強大化した日本海軍を相手に出来るだけの戦力は、たとえ全力を以てしても無くなっていた。
 そうした状況だからこそ、イギリスはもうひと突きで降伏するという雰囲気があったのだ。ドイツが今度こそブリテン島本土を全面攻撃し、日本がインドを攻め落とすのだ。そうすれば本国と力の根元を失ったイギリスは、流石に降伏を選択せざるを得ないだろうというのが一般評だった。カナダとアフリカの植民地がそれでも残されるが、それらは大英帝国という巨木の枝に過ぎず、幹と根元を失えば巨木といえど枯れるより他無い筈だからだ。
 しかし現実は違っていた。
 日本がオセアニア方面での戦いを終えた約10日後の6月15日、ドイツ軍を中心にした148個師団、総数約300万を越える大軍がソ連国境を突破し、ソ連とヨーロッパ枢軸諸国との戦いが始まる。

 ソ連戦が始まった時、日本の中枢は大混乱に陥っていた。
 ドイツからの対ソ戦開始の通達はほぼ前日にもたらされ、そこには日本もソ連を後背から攻撃して欲しいという要請も添えられていた。当然だが、日本にとっては寝耳に水であり、侵攻準備など何もしていないので出来る筈もなかった。
 しかし国内の論調は、陸軍の多くが今こそ千載一遇の好機だと唱えた。日本人一般の考えでも、ロシア人、共産主義者こそが第一の敵であり、イギリスに対して開始された戦争は、名目上は有色人種解放だったが、あくまで資源を手に入れるための自存のための戦争でしかなかった。
 そして三国軍事同盟では、自動的に戦争に加わるという条項はないので、選択権、決断はあくまで日本政府の手にあった。
 この当時の日本の首相は、米内光政だった。
 彼は「独ソ不可侵条約」締結の余波で首相となり、この時点での在任期間は1年9ヶ月ほどだった。戦時だと言うことを考えれば既に長いと言えるかもしれないし、激しく変化する外交情勢、そして戦争決断を行うなど、平時では考えられないほどの激務をこなしていた。内閣もまだ挙国一致とはいえなかったままだったため、国内の政争に一定の努力を傾けなければならなかった。そこに今度は、突然ドイツが不可侵条約を結んでいた筈のソ連へと攻め込むという事件が起きた。
 日本政府は、常にドイツに振り回されている形であり、この時も日本政府の苦労は非常に大きかった。特に米内首相の負担は大きく、彼はソ連情勢に対する静観を発表した翌日、心労が原因で倒れて緊急入院してしまう。
 戦争継続中での首相の入院という不測の事態に対して、病床の米内は任務継続が不可能と自ら判断して辞職を決意。
 早くも6月20日には、新しい内閣が発足する。
 組閣の大命は、陸海軍の権力バランスと意外にも米内が推薦した事もあり、米内内閣での兵部大臣だった永田鉄山が就任することになる。そして永田の下には、兵部大臣に海軍を辞職して完全に政治家となっていた堀悌吉が就き、外務大臣には英才を謳われる重光葵が就任した。また軍を統括する総参謀長には、永田の懐刀と言われる東条英機が兵部省から舞い戻り、既に軍神とあがめられていた連合艦隊司令長官の山本五十六を押しのけ、まるで横滑りの形で9月の人事異動で就任することも決定した。イギリス海軍に対して華々しい勝利を飾っていた山本にとっては残念だっただろうが、海軍全体としてはちょうど良い人事異動だったと言えるだろう。なお、この時に前後した人事異動によって、山本も連合艦隊司令長官から軍事参議官という退役手前の役職となり、その後予備役編入を経て政治家に転向している。

 なお次の連合艦隊司令長官には、山本五十六と同い年の土方歳一大将(1884年生まれ・就任当時56才)がやや高齢ながら就くことになった。
 ちなみに、彼の素性は不確かな面があるのだが、一説には幕末にその名を轟かせた新選組の副長土方歳三の隠し子もしくはその孫だと言われている。ただしこの説には年齢的に厳しい面があるので、名前と風貌が似ている事で広まったあくまで噂でしかない。もし彼が土方歳三の息子なら、函館で死んだはずの土方歳三は、明治16年頃まで生きていなくてはならないからだ。ただし、海軍内での彼のあだ名は、常に土方歳三にちなんだものだった。
 土方は北海道出身の孤児ながら、預け先の寺で育てられた頃から神童と謳わた英才で、海援隊から奨学金を受けて学歴を積んで、海援隊幹部隊士となるため海援隊幹部学校に入学。学業優秀のため特進を重ね、3年の飛び級をしての入学だった。つまり、当時の日本の教育制度では最高の、15才での入学と言うことになる。
 初陣は、海援隊学校の学生時代に軍属扱い(軍曹待遇)で参加した北清戦争で、卒業後に海援隊に正式入隊。その後は海援隊幹部として経歴を積み重ね、日露戦争では船団護衛と偵察任務、平時の航路防衛などの現場で過ごした。日露戦争では1905年5月頃に彼の乗る船は南シナ海にいたため、バルチック艦隊を日本人で最初に確認したとも言われている。
 また日露戦争までの間に、海援隊からの勧めもあって一般大学に入り直したりもしている。海援隊は、幹部隊士の視野を広くすることにも積極的だったからだ。
 第一次世界大戦では、人手不足の海援隊内での戦時昇進もあって若干30才で提督(戦時准将→少将)となり、ドイツ海軍との死闘を演じている。上陸戦で陸戦も経験しており、ガリポリ戦にも参加した。そして同戦争では、イギリスからビクトリア勲章を授与されるほどの活躍を示した。かのチャーチルとの知古を得たのも、この戦争の頃だと言われる。
 戦後は海援隊の海軍編入に伴い、海軍大佐として正規の海軍軍人に転進。その後、昇進には酷く苦労するも、日本海軍高級将校としてのキャリアを積み重ねる。
 そして早くから航空機に注目しており、先の世界大戦後すぐにもパイロット資格を取得し、護衛艦隊にもいち早く航空機を導入したことでも知られている。そして航空機に明るい人物と言うことで、常備艦隊(連合艦隊)の航空機関係者とも関係を深めている。そうした経緯と才覚もあって、1930年代になると護衛艦隊を離れて海軍の航空関係を歴任し、先任の山本五十六と少し似た経歴を歩む。支那事変では、重慶爆撃の現場司令官として重要な役割を果たしている。
 そして第二次世界大戦の開戦からこの時まで、ようやくの中将への昇進後に統合参謀本部の次長職にあって、作戦全般を指揮していた。
 しかし土方は、先述した通り海軍の正規将校出身でない事など、連合艦隊司令長官に相応しくない経歴が多かった。当然というべきか、海軍内での出世も遅く、海軍大学も出ていなかった。だが戦時という状況と、連合艦隊、護衛艦隊、海軍航空隊、さらには海兵隊の全てが力を合わなければいけないという戦時下にあって、最も実戦経験と指揮経験の豊富な提督を遊ばせて置くこともできず、海援隊出身者初の現役での海軍大将昇進と共に連合艦隊司令長官に就任する事になった。
 なお土方は、数多の実戦経験に裏打ちされた合理主義者で知られ、さらに日本的ではないトップダウン式の命令系統を好んだ。また彼は出自の影響もあって、山本がとかく冷遇しがちだったとされる護衛艦隊と連合艦隊の関係修復にも積極的で、そうした面がこれからの海軍全体に必要だった事を物語る一例と言えるだろう。
 そうした人々が、これからの戦争を指導していくことになる。
 しかしこの内閣が出来る前後、事件が起きる。
 事件を起こしたのは、日本の衛星国である満州帝国だった。

 満州帝国は、1912年に成立した満州王国が国号を1932年に変えたもので、帝権が増して軍国主義化した上に日本軍部の影響がいっそう強まった国家だった。しかし建国から既に四半世紀以上が経過しているため、国家制度は比較的整っていた。国土の開発も比較的順調で、日本とアメリカ、ロシアなどの投資と開発により、当時の東アジアでは日本に次いで発展していた。軍隊も相応の規模があり、1930年頃既に陸軍を中心に15万人あった。
 そして軍国化して以後は、中華民国、ソビエト連邦との対立を強め、日本が軍事力を増強するのに平行して、自らも軍備増強に励んだ。結果、1938年の支那事変が起きるときには、30万の兵力を抱えるようになっていた。装備は主に日本から中古兵器を輸入し、訓練も多くは日本から取り入れられていた。将校は満州族を一応の中心とするも、多くの日本人が入り込んでいた。また旧ロシア極東を取り込んでいるため、元から住んでいるロシア人や赤い祖国から亡命してきたロシア人の姿もあった。さらには、満州に移民してきた旧アメリカ人の姿もあった。
 こうした雑多な人々にとっては、基本的に日本の傀儡になってもあまり気にはならなかった。自分たちの住む場所を、主に赤いロシア人と南の漢族から守ることが彼らの共通した目的であり、意外に強い結束があった。
 そして反共産、反ロシア感情がいっそう強まったのが、独ソ不可侵条約が結ばれてからだった。しかもその後すぐにポーランドが蹂躙され、フィンランドが一方的に攻められると、満州に住む人々の反ロシア感情はピークに達した。
 満州帝国もロシア革命すぐにロシアから領土を奪回しており、その事を赤いロシア人が酷く恨んでいることを熟知しており、次の目標は自分たちだと信じて疑わなかったからだ。
 それでも、すぐにはロシア人が攻めてこない事ぐらいは彼らも知っていた。宗主国といえる日本の存在が、赤いロシア人の歩みを躊躇させているからだ。満州にとって、日本との関係は死活問題だった。このため日本人が多少大きな顔をしていても、気にしない事にしていたのだ。
 しかし自らの軍備を疎かにする気はなく、日本にせっついて新兵器を多数融通してもらうと同時に、自分たちの軍の増強と動員を進めた。そうして1940年夏頃には、中華民国側に3万が配備されているだけなのに、赤いロシア人の国境線には約50万の満州帝国軍が展開するようになっていた。
 軍のほとんどはマンチュウリと呼ばれる平原に広がる国境地帯で、後方にあるハイラルの街共々完全に要塞化されていた。しかも大興安嶺山脈の通路となりうる場所もことごとく要塞化が進められ、1920年代から開発されていた鉄道、舗装道路には、軍用列車、車両が無数に行き交うようになった。
 なお日本の関東軍は、1940年夏頃には1個方面軍9個師団、動員戦力30万人が配備されていた。主に機械化、自動車化が進められた精鋭部隊で、歩兵中心の満州帝国軍の弱点をカバーする形で配備されていた。合わせて80万の大軍であり、日本陸軍を中心とする空軍と後方の支援部隊を合わせると、約100万人にもなる大軍だった。
 これに対してソ連側も、日本(満州)がしかけたゲームに乗らなければならなかった。地上の兵力数はやや勝る約100万人で、1940年に従来の小型編成からの改変を経て、約30個ライフル師団、戦車12個旅団を中心にした大軍をザバイカル軍集団として配備するようになっていた。

 事件は1941年6月17日に起きた。
 満州帝国に所属する航空隊(満州では、空行騎兵や天龍兵と呼ばれていた。)のうち2個中隊ほどが、国境を越えた上にソ連空軍の飛行場に爆撃を仕掛けたのだ。これは現地軍の独断専行であり、ソ連が攻めてくる前に叩かねばならないという強迫観念から出てきた行動だったと解釈されている。また前後して、散発的な砲撃、銃撃事件も発生し、満ソ国境は俄に緊張の度合いを高めた。
 しかしソ連政府、特にスターリン書記長は、日本及び満州の挑発には絶対に乗ってはいけないと言う強い命令を現地軍に発しており、日本側も軽はずみな行動は厳に慎むようにと命令を出していた。また行動を起こしたのが満州帝国という一つクッションを挟んでいた事は、日ソ双方にとって交渉を進める一つの安心材料となった。
 なお、当時の日本とソ連との間には、通常の外交関係以外はなかった。日本のごく一部には、独ソ不可侵条約後に日独ソに加えてソ連、中華民国を含む「大ユーラシア同盟」を形成してアメリカ=イギリスのアングロ連合に対向するべきだという意見があった。しかし、そもそも三国同盟が共産主義を対象としていたのと、当時の外務大臣坂本譲二の判断と行動によって、ソ連と日本が何らかの形で手を結ぶという事にはならなかった。
 日本が1941年に大規模な外交、軍事使節をドイツに派遣したときも、ソ連のシベリア鉄道を経由するもソ連との関係を深めるような行動は一切行われなかった。ソ連側が歓待したいと伝えても、日本側はイギリスを始め多数の国々と交戦中だという理由を盾に、ソ連との親睦や友好を深めることはなかった。
 そしてドイツが攻め込んで直後の満州帝国軍による突発的な攻撃は、ソ連指導部に大きな焦りをもたらした。極東から日本軍が攻めてくる可能性が、改めて示されたからだ。
 このため安易にシベリアから兵力を引き抜くことが難しくなり、早くも崩壊の兆しを見せるヨーロッパ戦線に対して、ソ連指導部はその後も焦りを強めるしかなかった。

 一方、ドイツがソ連に攻め込んでからの日本は、今後の方針をすぐには決めかねていた。
 インドを攻めてイギリスを追いつめる行動を緩めるべきではないが、やはりソ連の動きは気になったからだ。また気になったと言えば、アメリカの動きも気になっていた。
 アメリカは1940年11月にフランクリン・ルーズベルトが三度大統領に選ばれ、彼は選挙での言葉など忘れたかのように、アメリカを戦争へ向けようとしていた。
 先年の1940年7月には「スターク案」もしくは「両洋艦隊法」を可決し、選挙に勝利した年初すぐに「民主主義の兵器廠」の言葉を発表した。そして3月に「武器貸与法(レンド・リース法)」が可決し、アメリカは連合国に対する事実上の武器援助を本格的に開始する事になる。
 しかも自らの軍隊も、色々と理由を付けてグリーンランド、アイスランドへと進め、大西洋上で自国商船の護衛も始めようとしていた。
 太平洋は一見平穏だが、アメリカ西海岸にはシアトルを中心にしたアメリカ太平洋艦隊が編成され、アメリカ海軍内で最も大きな兵力を有していた。さらにフィリピンにはアジア艦隊も編成され、兵力は限られたものだったが日々日本の動きを監視ししていた。
 アメリカが日本に対して慎重だったのは、現状での日本海軍の戦力が事実上アメリカを追い抜いている事と、ハワイの存在があった。
 ハワイ王国は、1920年代から永世中立国として国際的に認められており、北大西洋中部に軍事力を進めることそのものが最早タブーとなっていた。1920年代前半の思惑としては、日本とアメリカの軍事対立を減らす為の秘策であったが、あまりにも有効に機能し過ぎていた。ハワイに軍艦を進めただけで、どれほどの理由があろうとも先に進めた側が国家として外交上の正当性を失うことを意味するようになっていたからだ。アメリカはハワイの東側にミッドウェー諸島を領有していたが、小数の監視要員以上を置くことは自らの外交的敗北を意味しているため、それ以上の事はしたくてもできなかった。
 アメリカ国内の一部には、ハワイ王国といっても半分は日本人、日系人なので何をしても構わないという意見もあったが、それが出来れば苦労しないと言うのがアメリカ政府の本音だった。加えて、仮に自分たちが軍事的、外交的に圧倒的優位を得られるのなら話しは違ってくるが、現状は優位とは言いかねる状態が続いていた。
 そうした状態から、日本にとってアメリカの動きはある程度楽観できる状況が続いていたが、日本がオセアニア地域を征服した事は、アメリカを強く刺激してもいた。
 比較的近在のサモア諸島はアメリカの植民地であり、日本の勢力圏を挟んでいない事もあり、アメリカの軍事力は日々増強されつつあった。既に艦隊も巡洋艦クラスが配備され、潜水艦がかなりの数進出していることも確認されていた。
 しかし日本では、多くの情報、総力戦研究所の結果などから、今後一年間アメリカの自発的な参戦はないという判断が行われていた。そして日本としては、出来る限りイギリスを追いつめ、アメリカが参戦できない物理的状況を作り出す事を決める。
 そう、日本は進むしかなかったのだ。

●フェイズ30「インド侵攻(1)」