■フェイズ30「インド侵攻(1)」

 日本にとってのインド侵攻は、イギリスと戦うことを決めた時点で決まったも同然だった。日本の国力では、イギリス本土に攻め込むことは物理的に極めて難しかった。だからこそ、日本がイギリスを屈服させるには、イギリスの有力な植民地を出来る限り奪い取るしかなかった。そしてインドこそがイギリスの力の根元であり、植民地支配の象徴だった。日本としては、必ず攻めなければいけない場所なのだ。
 しかしインドは広大で、さらに3億人以上の人口を抱える大地だった。イギリスも死にものぐるいで防衛に出てくるだろうとも予測されたし、長期間イギリスの支配が続いたインドでは、現地インド人の反応も不確定要素が大きかった。
 このため日本軍は、インド侵攻に慎重を期した。オーストラリアを先に攻めたのも、オーストラリアの防衛体制が整う前を狙った事や、アメリカの横車を早期に押さえ込むといった理由や目的は、実のところ二次的に過ぎなかった。
 インド侵攻のための準備期間が欲しかったというのが、日本軍全体での本音だった。
 1941年春までに、インドの東の外郭地であるビルマを先に攻め、インド洋の主に東部での通商破壊戦を実施し、ビルマからはガンジス川河口部の主にカルカッタを目標とした陸軍航空隊による航空撃滅戦も開始された。オーストラリアを攻めている間も、陸海軍共に出来る限りイギリスのインドの防衛力を削ることに腐心し、さらには自らの侵攻準備も余念がなかった。
 これは日本での兵力動員を見ても、端的に知る事ができる。

 日本軍では、基本的に日本民族からしか徴兵を行っていなかった。最低でも、日本国籍を取っている必要があった。これは、先の世界大戦などでヨーロッパ列強が植民地から兵力を動員した事と一線を画している。海援隊が一部例外なぐらいだった。
 しかし、支那事変で大きな変化が訪れた。総人口4億人を抱える国家との事実上の全面戦争に際して、兵士の動員数に不足を感じた兵部省が制度を改めた。この結果、志願の上、兵部省が選抜した者に限り、日本人以外の日本勢力圏の住民の兵役が可能となる。これを「外地選抜志願制」と呼ぶ。
 そして日本の外郭地の各地で志願兵を募集したところ、関係者が驚く程の志願者が押し寄せた。想定の100倍というところも珍しくなかった。これは日本が、自らが領土とした地域を植民地と言うよりは日本の一つの地域とする政策を重視した結果であり、多くの地域の先住民達が近代文明と文化的生活をもたらして日本という国家に対して、強い帰属意識を感じる者が多かったからだ。そうした人々は、遂に自分たちが日本の為に戦えると喜んだというのが、大量志願の背景にあった。日本兵として戦えることは、彼らにとって日本国民の仲間入りをするだけでなく、自立の一歩を示すための名誉な事だったのだ。
 特に台湾や南洋の一部地域では志願者が多く、結局兵部省は現地の声に押される形で、当初予定の五倍、連隊の筈が師団規模で現地志願兵を日本軍として組み入れていく事になる。この結果、日本陸軍の編成の中に、台湾第一特設師団、南洋第一特設師団が誕生した。海軍では特に組織はできなかったが、海援隊時代から日本人以外も多数受け入れてきた歴史のある護衛艦隊が、組織拡大に合わせてその受け皿となった。また傭兵組織である海援隊そのものも、志願兵の受け皿となった。
 こうして支那事変の間だけでも、全軍あわせて3万人の志願兵が誕生した。しかし将校教育が全く出来ていないため、将校は基本的に日本人で志願兵の当初の最高階級は曹長までだった。
 そして支那事変終了と次の戦争の間に制度と組織を整備し、世界大戦が開始されてからも規模拡大が続いた。組織も志願兵の受入数も拡大され、志願者が20万人を越えた台湾では、軍(軍団)司令部までが設立されることになる。将校、下士官の数も大量に必要になったため、志願兵の下級将校も一般的に出現するようになった。このため、場合によっては台湾人下士官が日本兵を指揮するという状況も生まれるようになり、多少の人種的軋轢も産んだ。日本軍と兵部省では、地域ごとに部隊を編成することが基本で、アメリカのような人種ごとに部隊(連隊や大隊)を作ると言う考えがあまりなかったのだ。
 また、台湾、南洋ともども赤道近くのジャングルや島嶼地域での活動に慣れているため、専門の部隊育成も開始されたり、従来から存在する日本軍部隊に下士官以下の扱いながら編入されれていった。
 そうして1941年夏までに、約30万人の日本人以外の兵士が日本軍に動員されるようになる。当時の日本軍全体が450万人ほどだったので、全体としては一割に満たない数だったが、十分に日本軍の一角を担うまでに急拡大していた。
 それもこれも、インドでの戦いで大量の兵力が必要と判断されたからだった。

 一方、戦闘の主役となる日本陸軍自体も、その規模を拡大していた。開戦当初の地上戦力は、49個師団を中心としていた。ドイツやソ連などと比べると師団数が非常に少ないが、師団そのものの規模、師団の火力が大きいためで、また日本が海洋国家のためだった。兵員数も師団などの戦闘単位だけだと150万程度と、陸軍国家に比べて少なかった。
 しかし開戦が決まると師団の増設が決まり、戦車第五、第六、空挺第二、それに200番台の主に後方警備を行う師団が10個編成されることになる。イギリスとの戦いでは広大な占領地を得る予定のため、そうした警備用師団が必要と判断されたからだった。また外郭地の部隊も正式に日本軍に組み込まれることになり、台湾5個師団、南洋2個師団が編成内に入った。
 合わせて20個師団で、各師団もさらに様々な兵力が追加されて人員が増え、機械化の進展と進撃地域の拡大と遠隔化に伴い後方部隊も強化され、日本陸軍の地上部隊も後方を含めて約300万人にまで強化されることになる。これは陸軍航空隊を含まない数であり、含むとさらに50万人が増えることになる。また海軍でも島嶼戦、上陸作戦のための海兵隊の強化が行われ、旅団を最上単位とするも、合わせて5個旅団が編成された。いまだ存続していた海援隊も日本軍の一翼として増強が行われ、こちらも3個旅団編成をとって各地の戦場に投入されていた。合わせて10万の地上兵となる。
 なお、当時の海軍が、航空隊と海兵隊を含めて約100万人までの増強を予定していたので、合わせて約450万人の動員という事になる。これを1941年内に達成する予定で、戦争の拡大に伴い外郭地を含めてさらに100万の動員が計画されていた。
 しかし550万人という数字は、日本国内の一般経済と戦時生産力を十分に維持できる限界に近い数字だった。何しろこの上に、軍属がさらに150万人も加わることになる。そしてこれ以上の兵力を必要とする状況は、健全な状態を維持できる限界を超えた状況という事になる。
 そして500万もしくは600万でも兵力が不足する事が明らかなため、満州帝国をはじめ同盟国、衛星国の兵力も有効活用されることになり、日本で生産された兵器が多数それらの国や地域へと渡されていく事になる。
 この中には、マレーで降伏した多数のインド兵も多数含まれており、ビルマやインドネシアでも現地で編成された自治政府軍にも、どんどん武器弾薬が渡されていった。日本兵は前線でこそ必要であり、占領地の警備は可能な限り現地に委ねる形がそうさせていた。
 こうして戦争中に動員された日本以外のアジアでの兵士、軍属の数は、満州帝国を合わせると約200万人にも達する。

 そうしてオセアニア地域での戦いが終わった1941年6月頃、外地に派兵されている日本軍は、明確にインドを指向するようになっていた。オーストラリアに侵攻した約12個師団の兵力も、交代の警備師団が到着するが早いか戦時徴用の客船や兵員輸送船に乗り込んで、足早にオーストラリアを後にした。またニュージーランドが地上侵攻前に降伏しなかった場合に備えていた1個軍・3個師団の戦力は、パラオを発つと乗せられている船団ごとシンガポールへと向かった。
 日本軍の次の大規模な攻撃が開始される予兆だった。
 しかし猛烈な雨期のベンガル湾方面は、航空撃滅戦すら散発的にしか行えないような戦場のため、最初の日本軍の目標とはされなかった。日本軍の目標とされたのは、インド半島の先にある島、セイロン島だ。この島はインド南部及び西部への侵攻の橋頭堡となるばかりか、インド洋全体で見ても中心的な航空基地、洋上拠点として機能しうる地理的条件にあった。ここを押さえてしまえば、インド洋での活動はずっと簡単になり、インド洋を海と空か締め上げるのも容易と考えられた。
 しかしそれだけにイギリス軍の抵抗が予測された。
 5月には、損害を受けつつも大規模な増援が行われている。しかも、インドへの増援そのものは、日本との戦争が始まってから継続的に実施されており、イギリス本国の守りやドイツへの夜間爆撃の密度を低下させてまでして実施された。
 当然だが日本軍も黙って見てるわけではなく、シンガポールやジャワ島を落とす頃から、インド洋での積極的な通商破壊戦を実施していた。特に日本軍も、潜水艦による通商破壊戦を重視した。流石の日本海軍も、方々での作戦のため水上艦艇が不足していたし、日本海軍の航空機が長大な航続距離を誇ると言っても、インド洋は広すぎた。

 開戦時、日本海軍には65隻の潜水艦が現役艦艇として所属していた。ほとんどが大型の水上速力に重点を置いた艦隊決戦用で、通商破壊戦に必ずしも向いているとは限らなかった。しかし、一部に搭載されていた水上偵察機は、どのような場合でも偵察や捜索に有効で、広い海での通商破壊戦にも応用できた。
 しかも日本海軍は、遠隔地での長期活動のため潜水艦母艦の整備も行い、開戦してからは臨時の潜水艦母船も多数投入した。遠隔地での活動能力はドイツ海軍よりも高く、しかも日本海軍の場合豊富な水上艦艇やさらには飛行艇、大型攻撃機の支援もアテに出来た。場合によっては、空母とすら連携作戦の実施が可能だった。そうしたことを考えると、水上速力に秀でた潜水艦の有効性も高まると言えるだろう。
 しかも日本海軍は、イギリスとの戦争が決まると、中型空母に始まる大量の遠距離侵攻用戦力の中に、通商破壊戦用の中型潜水艦を組み込んだ。また第四次計画成立から半年後に二度目の世界大戦が発生した段階で、中型潜水艦の量産に着手していた。
 この中型潜水艦群の建造は急がなければならないとして、専用の造船施設が充てられ、一度に10隻単位での量産が1940年初頃から開始されていた。また日本海軍全体での潜水艦建造速度も、平時とは比べものにならないほど早められ、どの造船所も三交代24時間操業に次々に突入していった。
 この結果、開戦時既に10隻以上の潜水艦が艦隊編入前の訓練途上にあった。しかも毎月最低でも5隻が編入予定で、その数は時間を経るごとに増加する予定だった。
 新規に建造される潜水艦も、ドイツからの技術を大幅に取り入れたもので、中型潜水艦はドイツの「VII型」や「IX型」の影響を強く受けていた。潜水艦の建造も昭和十年頃までとは全く異なり、全てが電気溶接で作られ日本海軍にまだ不足していた静粛性も向上していた。
 そうして日本の参戦から8ヶ月が経過して、日本が本格的にインド侵攻の準備に入る頃、日本海軍が保有する潜水艦総数は100隻を越えていた。損失を差し引いて約110隻だったので、三分の一が常に最前線にあると想定すると、37隻が任務に当たっていることになる。実際、この時期インド洋で活動する潜水艦の数は30隻を越えており、1個戦隊3隻単位で行動して、総数1000隻、500万トン以上の商船が活発な活動を行っている筈のインド洋を狩り場としていた。何しろイギリスは、インドからの輸出入がなければ生きていけないため、戦時であっても船舶の運航を止めるわけにいかなかったからだ。無論イギリスも相応の海上護衛活動を行っていたが、何しろ圧倒的に戦力が不足しているため、日本側の一方的優位で戦局は推移した。
 通商破壊戦の実績の方も、1941年春以後は毎月平均で15万トンを記録していた。12月の開戦から8月までの日本軍に受けた損失も、拿捕されたものを合わせると100万トンに達していた。ドイツとの水面下での戦いに多少明るい兆しが見え始めていた時期だけに、イギリスの受けた打撃は大きかった。

 開戦当初2100万トンの船舶保有量(※鋼船100トン以上)を誇っていたイギリスだが、年間の船舶建造量に先の大戦頃の面影はなく、無理を押しても100万トン程度。これに対して開戦から1941年を折り返した時点での損失は、日本軍によると思われる損害を差し引くとおおよそ450万トンに達していた。つまり差し引きで200万トン以上、開戦時の一割以上も船舶の総量が減少している事になる。そしてドイツとの水面下の戦いが激化していた頃に、日本の参戦を迎えた。しかも日本は、イギリスがこれまで防備を全くしていなかった東南アジア、太平洋、そしてインド洋での通商破壊戦を、かなりの熱心さで行った。これが100万トンの戦果に結びついている。そしてインド洋での損害は、少なくとも今後半年間急上昇を続けると考えられていた。
 イギリスは何としてもインドとインド洋を防衛しなければならないため、船の通行量は今までより増やさなければならなかった。戦争そのものを続けるため、インドから英本土への物資輸入も必要不可欠だった。そして航路を破壊する側の日本は、潜水艦に加えて水上艦艇が戦隊や艦隊単位で押し寄せて、イギリスの海上交通路を破壊すると見られていた。オーストラリアでの戦いでも見られたように、通常での破壊や拿捕も多数発生すると見られていた。加えて言えば、日本の戦時生産は軌道に乗り始めたばかりで、建造に手間のかかる潜水艦はこれから続々と就役する。
 またイギリス側としては、日本のインド侵攻を阻止するために、日本に対する通商破壊戦を強化したかったし、するべきだった。しかし潜水艦の数は全然足りていないし、自慢の水上艦隊は減る一方で、日本海軍との格差は時間と共に開いていた。潜水艦の出撃拠点にも事欠いた。
 しかも日本の建造力は、明らかにイギリスを凌いでいた。
 この頃の日本の船舶量を見てると、開戦時は1280万トンあった。建造量自体は、1938年の支那事変の後半から大幅に引き上げられ始め、世界大戦勃発と共に急上昇を開始した。戦争に備えたというよりも、戦争特需に乗っかるための建造であり、この頃はまだ戦時標準船は建造されず、運行上での経済効率を重視した船が多かった。しかし1940年秋に日本が対イギリス戦を決意すると、日本政府が戦時標準船の規格を決定し、1941年に入ると本格的な建造が開始される。建造施設の数も大量の鋼材を投入してさらに増やされ、各工場は24時間操業体制に向けて進んでいった。当然だが、労働者の数も非常に多く増やされた。この結果、1939年に月産平均10万トン程度だった日本の一般船舶造船量は、1940年には13万トン、1941年は一気に24万5000トンに増えた。つまり1941年に建造された日本の船舶は、約290万トンという事になる。これは同年のイギリスの二倍以上だった。
 また戦争が始まると、東南アジア、オセアニア地域では、イギリス、オランダを中心とした船舶が多数拿捕された。タンカーだけでも15万トン近くが拿捕され、一気に30万トンの船舶が日本の旗を掲げるようになる。中には、港で身動きできなかった豪華客船などというものもあった。
 これに対して日本が戦争で受ける損害は、月平均2万トン程度だった。開戦から7月一杯までに受けた総被害量も15万トンを越える程度で、被害の十倍以上の船が増えていた事になる。しかも日本の護衛艦隊の戦力も着実に増強されており、イギリス軍が仕掛けた小規模な通商破壊戦程度では、ほとんど効果がなかった。日本が受けた損害の多くも着上陸作戦時が多く、航行中での損害は極めて少なかった。一方でイギリス海軍が受けた潜水艦の損害は開戦以来10隻を越えており、とてもではないが費用対効果に似合う損害比率ではなかった。
 1941年中頃の船舶量の日英比較は日:英=1450:1750で、アメリカが法外な量を貸与しない限り、1942年に入る頃は日本が船舶量で世界一となるという統計予測が立てられた。世界最大の工業力を有するアメリカも、1941年はそれほど戦時生産に傾いているわけでもなかったし一般建造施設の増勢もほとんど無かったので、この見通しはアメリカが全面参戦しないという前提で戦争が続く限りほぼ確実とされていた。
 つまり、インドでの戦いが終わる頃、イギリスの戦略的敗北が確実になるということだ。むろん、アメリカが参戦しなければという付帯条件が付く事になるが、枢軸各国にとって勝利が現実的になってきたという点は、将兵の士気を高める大きな要素となった。
 そして開戦以来連戦連勝を続けている日本軍は、遂にインド洋へと大挙押し寄せる。
 セイロン島攻略作戦の発動だった。

 セイロン島攻略作戦は「SE号作戦」と呼称され、イギリス海軍を押しのけるための海軍の大艦隊と、上陸戦を行う海兵隊1個旅団、陸軍3個師団が充てられる予定だった。
 この作戦での懸念は、大きく二つ。一つはイギリス海軍が大規模な艦隊を派遣して阻止に出てくる事。もう一つは、インドの航空戦力がインド南部とセイロンに集中される事。
 この懸念を払拭するため、ビルマ=東インドの間では、雨期の無理を押して航空撃滅戦が強化された。イギリス海軍に対する備えとしては、相手を遙かに上回る規模の艦隊をもって対処することとなった。
 艦隊は、豊富な戦艦戦力と空母機動部隊を中核とすることが決まっていた。そして秋にも行われるインド本土への本格的侵攻を前にして消耗を避けたい日本海軍は、シンガポールに大量の支援艦艇、工作艦などを進出させる体制を夏から秋にかけて構築して、全戦力を半年間活発に活動させる体制を構築しようとした。
 つまり日本海軍のうち連合艦隊のほぼ全力が、インド洋で活動することになる。これはアメリカの当面の参戦はないという想定に基づいたもので、この間日本本土には北方警備の小規模な編成しかない第五艦隊以外は、艤装中、修理中、訓練中の艦艇以外ほとんど残らないことになる。それだけインド作戦を重視していたと言えるだろう。

 なお、この当時の日本海軍は、1937年度計画の大和級戦艦のうち巨大戦艦の《大和》《武蔵》が既に実戦配備済みで、同型艦の《信濃》《甲斐》は艤装最終段階か既に訓練に入り、共に年内には就役、実戦配備の予定だった。翔鶴級空母の全ては既に艦隊に編入済みで、他の艦艇も全て各艦隊で活躍していた。
 1939年度計画は同年5月頃から各艦艇の建造が始まり、巡洋艦以下の艦艇は戦時建造の中で続々と各艦隊に編入されつつあった。建造の簡単な海防艦については既に全艦就役済みで、既に次の計画が大幅に進展していた。駆逐艦は、当初甲型と呼ばれる高性能艦36隻の建造を予定していたが、日本の参戦が決まってからは簡易建造型への移行が決まった。このため、直線構造を大幅に取り入れ各所の構造を簡略化したタイプの建造が進んでおり、同タイプも既に艦隊への編入が始まっていた。
 日本海軍の建造計画はこれだけではなく、第二次世界大戦勃発を受けて1939年10月には緊急計画が立案された。また日本の参戦が決まった1940年10月にも、大規模な拡張計画の実施が決まった。
 前者は通常の軍備拡張計画では足りない艦艇の補充を目的としたもので、計画上では海上護衛艦艇と中型潜水艦の整備を目指した。海上護衛艦艇は新たに設計された簡易型の中型駆逐艦で、中型潜水艦はドイツ海軍を参考にした通商破壊戦を目的としたものだった。共に数は36隻で、艦の性能はともかく規模の面では取りあえず建造してみた、という程度でしかなかった。これは予算面での制約もあったが、日本の戦時建造能力を測るという意味もあったからだ。そして簡易型であるため既に実戦配備が始まっており、日本海軍の有する駆逐艦と潜水艦の数は、戦争開始当初から俄に増え始めていた。
 一方後者の計画は、本格的なイギリスとの戦争を前提とした大規模な計画だった。消耗が見込まれる艦艇全ての建造が計画され、建造に手間のかかる戦艦や大型空母以外の全てが、大量に建造される予定だった。この計画については後述するが、この時期の日本海軍はまだそうした戦時艦艇を本格的に受け取る前の最後の姿だったと言えるだろう。
 しかし1941年7月頃からシンガポールに続々と集結した日本海軍は、壮観の一言に尽きたと言われた。
 動員される戦力は、主要水上艦艇だけでも以下のようになる。

 第一航空艦隊
 第一機動部隊(艦載機:約300機)
CV:《赤城》《加賀》
CV:《翔鶴》《瑞鶴》
BB:《金剛》《霧島》
CG:2 CL:1 DD:12

 第二機動部隊(艦載機:約310機)
CV:《飛龍》《雲龍》 CVL:《瑞祥》
CV:《神鶴》《千鶴》
BB:《比叡》《榛名》
CG:2 CL:1 DD:12

 第一艦隊(主力艦隊)
BB:《大和》《武蔵》
BB:《伊豆》《能登》《長門》《陸奥》
CG:4 CL:1 DD:16

 第二艦隊(前衛艦隊)(艦載機:28機)
BB:《肥前》《岩見》《周防》《相模》
CVL:《飛祥》
CG:4 CL:3 DD:15

 遣印艦隊(船団護衛)(艦載機:約50機)
CVL:《大鷹》《雲鷹》
CG:1 CL:2 DD:8 DE:14

 南遣艦隊(偵察・通商破壊)(艦載機:24機)
CVL:《龍驤》
CG:4 CL:3 DD:8

 南洋艦隊:在シドニー
BB:《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》
CG:1 CL:3 DD:11 DE:9

 なお上記編成はあくまで編成上で、損傷や要修理など不測の事態で作戦行動できない艦艇も含まれている。また軽巡洋艦以下の艦艇は、通常の任務での疲労があるため、100%の戦力が前線にあることはあり得ない。この編成表には殆ど出ていない護衛艦隊だと全体の三分の一、それ以外でも多くても8割程度となる。実際には兵器そのものの稼働率など様々な不確定要素も加わってくるので、入念に準備をしても保有艦艇数と作戦参加可能な艦艇数には開きが生まれる。
 この時期の日本海軍が、ほぼ保有量通りの艦艇を前線に送り込めたのは、基本的に戦争全般での消耗が少なかったからで、運が良かったと言うべきだろう。何しろこの時期に大型艦で第一線にいなかったのは、損傷修理中の空母《蒼龍》だけといえた。

 一方、何としてもインド洋の制海権を維持したいイギリスだが、日本に対向するのはほぼ不可能だった。ドイツが突然ソビエト連邦に戦争を仕掛けたため、イギリス全体での負担は大きく軽減されたのだが、海では違っていた。水面下の戦いはますます激しさを増しており、度重なる戦闘による消耗のため水上艦艇は危機的状況に陥りつつあった。
 イギリスの戦艦数は、旧式の石炭混燃艦5隻を除くと総数で9隻、作戦行動可能なのはうち7隻しかなかった。高速空母に至っては、わずかに2隻。しかもうち1隻は旧式で速力も遅い《イーグル》のため、実質的には《ヴィクトリアス》ただ一隻といえた。大型艦の数だけならドイツ、イタリア海軍を併せた数とほぼ同じでしかなかった。
 その少ない戦力で、北海、北大西洋、地中海、そしてインド洋を守らねばならなかった。ナポレオン戦争でも英蘭戦争でも、これほどの窮地はなかっただろう。
 そしてイギリスにとって正念場となる何度目かの戦いが始まる。

●フェイズ31「インド侵攻(2)」