■フェイズ31「インド侵攻(2)」

 1941年7月24日黎明、日本海軍の艦載機約200機とスマトラ島西部を離陸した日本海軍航空隊の重爆撃機約100機が、セイロン島に襲来した。日本軍の第一目標は、セイロン島の中心のコロンボ市。
 1時間後にはほぼ同規模の戦力が反復攻撃を実施し、さらに3時間と4時間後にも艦載機のみながらほぼ同規模の攻撃隊が襲来した。のべ1000機以上の空襲により、セイロン島の防御力は格段に低下してしまう。
 セイロン島への空襲を十分以上に予期していたイギリス軍は、現地に「ハリケーン」と「スピットファイア(Mk-V)」を中心に、約200機の戦闘機、50機の爆撃機や攻撃機を配備していた。
 本来なら、この倍以上の航空戦力がインドにはあったが、残りの多くはカルカッタ方面で日本陸軍航空隊との航空撃滅戦に明け暮れていた。総督府のあるカルカッタの守りを疎かにすることは、イギリスの沽券に賭けてできなかった。でないと、インドでのイギリス支配そのものの、精神面で揺らぎが大きくなってしまうからだ。
 しかしセイロン島に加えられた攻撃は、イギリスの予測を大きく上回っていた。確かに、日本軍空母の数は把握していたし艦載機数も予測範囲内だった。しかし艦載機の能力は予測を上回り、バトル・オブ・ブリテンの救世主となった「スピットファイア」ですら、日本の新型戦闘機「紫電」には劣勢だった。
 さらに日本軍の重爆撃機の航続距離を甘く見ており、1500km以上離れた場所からの大規模空襲は予想外だった。これは日本側が、今までは「九八式大攻」のエンジントラブルを恐れて長距離攻撃を可能な限り控えていた事も影響しており、これがエンジンの換装で改善した事が影響していた。そしてこの作戦以後、「九八式大攻」は日常的に1500km圏内をその翼下とするようになる。

 セイロンに対する攻撃は、翌日もその翌日も続いた。翌日はトリンコマリーなどが攻撃を受け、セイロン島内の航空基地の殆ども大打撃を受けた。イギリス軍の稼働機も初日の250機から80機へと大きく減らしていた。イギリス側は、日本軍上陸部隊に備えて攻撃隊を温存していたが、それも既に半数近くが飛行不能に陥っていた。
 そして作戦開始から三日目、上陸予定地点の空襲と空軍基地へのさらなる攻撃が行われ、夕方にはセイロン島沖合に日本軍の輸送船団が姿を現した。既に、セイロン及びインド半島南端でのイギリス軍機の姿は殆ど見られなくなっていた。
 侵攻開始四日目には、早朝から戦艦部隊による艦砲射撃が始まり、18インチ、16インチという巨砲がセイロン島を揺るがした。
 セイロン島には、イギリス(本国)軍1個師団、英インド師団2個を中心に約10万の兵力が展開していた。戦車も「マチルダ(Mk-2)」「バレンタイン」「クルセイダー」などとにかく補給と増援が間に合った分が、合わせて150両近くが配備されて各師団の戦車連隊に属していた。
 これに対して日本軍は、セイロン島に上陸したのが3個師団と海兵1個旅団。うち1個師団が、上陸作戦にも慣れた精鋭の第五師団で、残りが自動車化師団だった。師団で戦車連隊を持つのは第五師団だけで、他に合わせて3個中隊の軽戦車があった。しかし日本側も機甲戦力を疎かにしたわけではなく、独立戦車旅団1個を編成表に組み込んでいた。同旅団は2個戦車連隊を有し、他にも機動歩兵大隊、機動砲兵大隊などを組み込んだ、「軽戦車師団」だった。他にも最初に敵前に上陸する海兵隊1個旅団にも戦車中隊が所属しており、地上戦力の面でもイギリス軍を大きく上回っていた。
 そして広い海岸線を自由に選択できる日本軍は、呆気なく上陸作戦を成功させ、その後機械力を縦横に駆使してセイロン島を瞬く間に制圧していった。現地イギリス軍は、日本軍先鋒が内陸に至った時点での反撃を考えていたが、それもうまくはいかなかった。イギリス軍の局地的な反撃の時に戦車戦も発生したが、重装甲の「マチルダ」はかなりの活躍を示すも、日本側の主力戦車がほぼ全て75mm砲を搭載しているため、ほとんど一方的だった。「マチルダ」の重装甲も、当時日本軍戦車の切り札だった75mm砲用の徹甲弾によって、距離500メートル辺りの戦闘距離で相次いで撃破されていた。また一部の「マチルダ」は、この戦場でも「アハトアハト」に対面することになり、日本陸軍でも88mm砲の威力が認識されることになった。対するイギリス軍戦車の2ポンド砲は、日本の新型戦車の前には完全に非力だった。
 戦車戦以外にも、住民のサボタージュと内通、日本軍の執拗な空襲などほとんど全ての面で敗北していた。島と言ってもかなりの面積のあるセイロンでの戦だったが、結局、約二週間でほぼケリが付いた。一部の戦力が、日本海軍に封鎖されたポーク海峡を強引に渡ってインドへと逃れたのが、戦いの終幕だった。
 その後もセイロン島での散発的な戦闘は続いたが、日本側が住民への宣伝と慰撫に務めた事もあり、つるし上げられたり降伏する形で、各地に散っていたイギリス軍も活動を止めていった。
 そしてセイロンに進出した日本軍は、早速大規模な航空基地の拡張に乗り出し、次に訪れた船団は多数の土木機械と航空基地運営のための部隊が含まれていた。
 8月も半ばを過ぎると、日本軍の機体が多数離発着を繰り返すようになり、各種任務に就くようになる。
 この結果、セイロン島から半径1500キロは日本軍機の空襲圏内となり、潜水艦や水上艦艇の前線基地ともなったため、インド洋の中東とアフリカ東岸以外は、ほぼ日本軍の行動圏内となった。インド自身に対しても、早速半島南部に対する空襲が開始され、象徴的な意味合いを込めてインド西岸中部の要衝ボンベイも空襲された。

 しかし、順調にインド作戦を進める日本には、焦りがあった。
 理由はアメリカだ。
 1941年8月12日に「大西洋憲章」が発表された。これはアメリカが世界に向けて行動を起こすという宣言に等しく、アメリカの参戦がまた一歩近づいた事を伝えていた。
 無論日本も無策ではなかった。
 セイロン島を開放するが早いか、インド独立の闘士チャンドラ・ボースを首班としたインド臨時政府を発足させ、さらには年内に「大東亜会議」を行い「大東亜宣言」を採択することとなる。これは大西洋憲章とよく似たものだったが、この時点では大西洋憲章が白人だけを対象としてたのに対して、大東亜宣言は全ての国家、民族と定義している点で優れていた。また現在進行形として、日本がイギリスを中心とするヨーロッパ列強の植民地を次々に開放して独立に向けた動きを行っている点において、日本のアドバンテージは大きかった。
 日本としては、先に進むためと、どうぜ自分達のポケットに収まらないからこそ、占領した植民地を次々に独立や自治させていっているのであって、結果としての行動が優れているにすぎなかった。また日本の戦争理由が、主に資源の確保と、できれば自分の市場を得ることであり、自らの勢力圏とすることが出来るのならば、無理を押して植民地を得る事は目的ではなかった。この点もイギリスとは大きな違いがあり、日本の方が外交面で有利だったと言えるだろう。
 しかし、アメリカが参戦して踏みつぶされては元も子もないので、日本は行動を急ぐことにした。何しろアメリカは、早くも9月28日にソ連に対する援助船団の第一弾を送り出していた。太平洋でも、シアトルに艦隊を集結し、アラスカやダッチハーバーなど日本に近い拠点を着々と強化していた。
 だが、先に日本がゴールに飛び込んでしまえば、どれほどの力を持っていようともゲームに参加していないアメリカに何かを言う権利はないのだ。

 そして今度はインド本土への侵攻、いや解放である。
 作戦はベンガル湾一帯の雨期がさる9月から予備的な行動が開始され、乾期の来る少し前の10月に一斉に侵攻作戦を実施する予定だった。
 侵攻作戦のためにインド総軍(軍集団)が用意され、その隷下に約30個師団が所属する事になった。作戦は東部侵攻の第一段階、全体の解放を狙う第二段階から成り、それぞれ2ヶ月の作戦期間が予定されていた。
 また別働隊としてビルマ作戦を行っていた2個軍6個師団もあり、日本陸軍の総力を挙げた作戦といえた。
 なお当時の日本軍は、まだ開戦初期の49個師団体制だった。戦時編制師団20個は、訓練と編成、装備の受領などでまだ正式な編成表には組み込まれていなかった。
 師団の配属先を簡単に記すと以下のようになる。

 配属地概略
内 地 :G1、甲:2、乙:2、丙:3
関東軍:T1、甲:4、乙:3、丙:1
東南アジア他:T4、乙:1、丙:4
豪州方面軍:乙:2、丙:1
ビルマ方面軍:甲:1、乙:4、丙:1
インド総軍:G2、G3、T2、T3、SS1、甲:5、乙:7

・戦車師団(T1〜T4) ・第一空挺師団(SS1)
・近衛師団(G1〜G3) ・甲師団(1〜12)
・乙師団(13〜21・101〜110) ・丙師団(111〜121)

 上記したうち、総数17個師団のインド総軍は移動中の部隊も含まれている。また内地では戦車師団2個、空挺師団1個、丙師団10個、台湾5個師団、南洋2個師団が編成途上で、うち半数は41年以内に実戦投入を予定していた。東南アジア各地の各民族による軍隊も編成は順調に進んでいた。このため東南アジアと内地にいる師団のうち2個軍6個師団は、順次インド総軍に編入予定だった。台湾師団のうち1個も、試験的にインド総軍に編入予定だった。またビルマ方面軍も順次インドへと侵攻する予定のため、インド作戦に準備された師団数は、30個師団ということになる。その上インド国民軍が、戦列に加わることになる。
 1個師団の平均が後方部隊、支援部隊を含めて約3万とすると、師団だけで合わせて90万人。当然重砲兵旅団や工兵隊、輸送部隊、鉄道連隊など様々な支援部隊を加えるので、総数は約100万人を越える。前線で銃を取って戦う数は多く見ても60万人ほどだから、戦闘力を維持するためにいかに多数の兵員が必要かが分かると思う。しかもこれだけの数を、短期間のうちに投入しなければならないのだ。
 さらに陸海軍の航空隊が約3000機作戦参加予定で、海軍もほぼ全力をインド洋に投入する。このため日本の軍事力の殆どが一時的であれインドに集中される予定で、戦力密度はヨーロッパロシアを抜いて、世界で最も高くなる予定だった。

 日本軍に対して、ウェーベル将軍率いるインド軍及びリンリスゴー総督麾下のインド帝国は、出来ることが限られていた。正直、強大な事が分かった日本軍に対してインド防衛は不可能で、どれだけ粘れるかというのが、セイロンでの戦いが始まった頃の現有戦力と情勢から導き出された答えだった。
 当時インド帝国全体には、3億8000万人の住人がいるといわれ、これを僅か約25万のイギリス人が統治していた。
 しかし統治のための兵力の主体は、将校以上がイギリス人というインド師団がほとんどで、グルガ兵と呼ばれるネパールの一部に住む人々が強力な傭兵として使われているのが例外なぐらいだった。またイギリスの統治が巧みだったのは、支配する民族を対立させたり少数民族を優遇して利用しいるからであり、有事には大きな弱点になる可能性を持っていた。
 それでも動員すれば200万以上の兵力と、さらにインド国内の戦いともなれば、65万を数えると言われる鉄道労務者も軍属的に動員が可能と考えられていた。鉄道組織は、軍隊と似通っていたし、当時は軍事とも密接に結びついていたからだ。
 しかしそれらは、あくまでインドの民衆の意志を受けたものではならず、インドを「解放」しにきた日本軍と戦うのかという点で不安要素が非常に大きかった。また200万の兵力が動員できると言っても、近代戦の軍事訓練を受けていない者がほとんどだった。装備の面でも、小銃や小火器程度はともかく、重装備はほとんどなかった。慌てて北アフリカのインド師団を呼び戻しているほどだから、その装備状況や兵力規模も分かるだろう。
 しかもイギリス総督府は、インドの民から慕われるという点からは遠い場所にいた。それでもイギリスは、戦争協力による平和的な独立という条件で、1939年9月の段階ではインド国民会議を戦争へと動員することには成功していた。だが、リンリスゴー総督は保守的な人物で、行える施策も限られていた。そこに東南アジアを開放した日本が、インドに向けた宣伝を開始する。
 ビルマに入った1941年春頃からは、日本軍の重爆撃機がカルカッタの街に大量の宣伝ビラをまいたこともあった。ラングーンからは、インド国民軍が大電波でラジオ放送を開始した。短波ラジオ放送は、毎日決まった時間に行われ、チャンドラ・ボーズの声(主に録音)を響かせていた。
 そうした情勢を受けて、インド国民会議派の勢力は徐々に勢力を広げ、「非暴力・非協力・市民不服従」を掲げて行動を起こしたため、インド全体が総力戦へと移行することは、日を重ねるごとに極めて難しい情勢となっていた。
 このためインド総督府は、インド議会の分裂を画策してその片方を利用することを考える。
 具体的にはインド国民軍のボーズは、インドの統一的支配が目的で、イギリス支配下でも特権と富みを維持していた藩王国は全て解体されるだろうと煽ったのだ。この宣伝は一定の効果があり、インド各地の藩王国支配層、藩王国主義者はイギリスに協力的となった。また州会議派も、イギリス寄りの姿勢を示した。しかし彼らの多くはイギリス支配の元で、インドの中での特権階級や限られた数の富裕層が中心で、インドの民意からは大きく離れていた。そしてボーズと基本的意見を共にするインド国民会議派は、自然と民衆の支持を増やして勢力を拡大した。当然だが、インド総督府からインド民衆の民心はいっそう離れた。
 そして日本軍の侵攻が差し迫った1941年7月、イギリス本国の意を受けたインド総督府は、インド国民会議に対して正式にイギリス連邦内での自治権拡大を、文書の形で了承するという交渉を始める。口約束ではなく公文書である点が重要で、それだけイギリスが追いつめられている証拠だった。しかしここで、イギリスは交渉に失敗してしまう。
 もしイギリスの軍事的敗北によりインドが独立したとしても、イギリスはインドに対して債務を支払う可能性が低いだろうと付け加えたのだ。要するにインドが有する莫大なイギリスの債務を支払って欲しければ、日本と戦えと言っているのだ。
 この事はインドの人々のプライドを著しく傷つけ、服従よりも反抗の心を人々の深く植え付けることになった。

 そしてインド民衆の反抗心が高まるにつれて、日本軍は攻勢を強化。遂にセイロン島を奪取するに至る。
 イギリスにとってインドへの大規模な増援は急務であり、秋までに大量の輸送船団がイギリス本土と、レンドリースを運ぶアメリカ東部海岸で準備された。アメリカのレンドリースは、ブリテン本土に運ばれる予定だった丸々1個船団で、34隻の各種輸送船には各種兵器と物資が合わせて30万トン積載されていた。この中には「M3軽戦車」や多数の戦闘機が含まれており、運ぶのはイギリス船籍の船だったがイギリスの決意を見せるものだと言えるだろう。この物資は、本来ならイギリス本土と北アフリカ、地中海の軍事力強化に使われる予定だった物資だったからだ。そしてイギリス本土からも約40隻、10万トンの物資と3万の援軍が乗り込み、南アフリカのケープで護衛艦隊と共に合流することになる。
 時期にして1941年9月末。日本軍は、いよいよベンガル湾への一大上陸作戦を決行しようとしていた。
 そしてイギリスとしては、ここからが問題だった。50万トンの船舶と40万トンの物資、3万の兵力を、日本軍が見逃すとは思えなかったからだ。実際、ドイツから日本には分かる限り詳細な情報が送られていたし、ケープ近辺では日本軍の潜水艦が放ったと思われる電波を頻繁に捉えていた。ドイツ海軍の攻撃と妨害もあった。このためイギリス海軍も、許す限りの海上戦力を護衛艦隊として伴わせることにした。
 この時期は幸いな事に、ブレスト港のドイツ艦艇は軒並み損傷していて活動できる状態になく、あの《ビスマルク》や《グラーフ・ツェペリン》も例外ではなかった。イタリア海軍も石油不足のため、タラントの打撃から損傷復帰した艦艇の活動は低調で、しかもイギリスが一時的に地中海、北アフリカ、中東を切り捨てているため、特に大規模な戦力を置く必要がなくなっていた。
 かくして大規模な護衛艦隊が編成され、ボンベイもしくはカラチを目指し、日本軍が待ちかまえるインド洋へと乗り出していく事になる。
 この時のイギリス海軍の戦力は、護衛本隊が戦艦《ネルソン》《ロドネー》《ロイヤル・ソヴェリン》《ラミリーズ》に空母《イーグル》、重巡洋艦3隻と水雷戦隊が付属する。船団護衛は軽巡洋艦2隻と10隻以上の駆逐艦や各種護衛艦艇が担った。輸送船団の護衛としては、破格の戦力と言えるだろう。また自由オランダ海軍の《セレベス》と巡洋艦5隻も護衛艦隊に随伴し、途中まで護衛任務に就くことになっていた。
 もっともこれ以上の戦力は、本当にイギリス本国を空にしない限り他に出せるカードがなかった。
 他の戦力、新鋭の《キングジョージ五世》と巡洋戦艦《レナウン》《レパルス》は流石に英本土から離れられず、《クィーンエリザベス》《ウォースパイト》がジブラルタル海峡にあった。修理が終わったばかりの《プリンス・オブ・ウェールズ》は大西洋上で、既に風前の灯火となりつつあるアレキサンドリアには、既に有力なイギリス艦艇は存在しなくなっていた。北大西洋上の洋上護衛には、石炭混燃の旧式戦艦、旧式巡洋戦艦が動員されている有様だった。
 空母については、唯一の高速空母となった《ヴィクトリアス》に就役を繰り上げた《インドミダブル》が新たに加わっていたが、まだ訓練中のため出撃できる状態にはなかった。
 以上が、1941年夏頃のイギリス海軍が切れるカードの全てだった。
 そしてイギリス海軍は、日本海軍が上陸作戦を開始してから、この船団をアラビア海に入れる予定で行動していた。そうすれば日本海軍の主力は上陸作戦に拘束され、少なくとも空母と戦艦が徒党を組んで船団を殲滅に来る事が現実としてあり得ないからだった。また航路には出来るだけ東アフリカ沿岸を通る予定で、各地には許す限りの対潜水艦用航空隊、戦闘機隊を配備して、日本軍の襲来を防ぐ予定だった。実際東アフリカ航路と呼ばれるルートは、日本がセイロンに攻め込んでから使われるようになっていた。無論日本軍潜水艦も出没するため危険も大きかったが、相応に日本軍にも損害は与えていたし、作戦時はらさに戦力を増強する予定だったので、輸送作戦の勝算はかなり高いのではないかと考えられていた。

 対する日本海軍は、先にも示した通り、当時のインド洋には日本海軍主力艦艇の殆どが集結していた。そしてセイロン島は既に日本の手にあり、既に東から南インドは空襲圏内としていた。潜水艦の拠点もセイロン島に移り、既に活発な活動を開始していた。インド洋で活動する潜水艦の数は大西洋のドイツ軍よりも多い約30隻で、3隻ずつの戦隊を組んで活発な通商破壊戦を繰り広げていた。また 水上艦隊の南遣艦隊は通商破壊戦も行っており、先の5月のインドへのイギリス軍の大規模増援の際には、相応の戦果を上げている。加えて日本海軍は、既にベンガル湾やインド西部にイギリス艦艇はほぼ皆無であるため、第二艦隊を丸々イギリス船団にぶつける算段を行う。
 加えて偵察には、航続距離7000kmを誇る「一式大艇」を16機を投入予定で、同機は場合によっては空襲も行うことになっていた。またイギリス側が有力な艦艇を伴っている可能性が極めて高いため、その他投入できる限りの戦力がアラビア海に向けられる事になる。それでもベンガル湾への上陸作戦を延期したりするつもりはなく、日本軍はあくまで強気だった。
 そしてベンガル湾が騒がしくなった10月初旬、それぞれの陣営は行動を開始する。

 インド洋での大補給作戦を巡る戦闘は、全ての者の予想通りまずは水面下から始まった。しかし開始時期と規模、密度は、イギリスの予測を上回っていた。これは日本が、ヴィシー・フランス統治が続くマダガスカルの一部の湾を極秘に借り受ける事に成功していた事から発生していた。現地に、貨客船改造の特設潜水母艦を入れた日本海軍は、大型潜水艦5隻、中型潜水艦4隻からなる臨時戦隊を集め、相互連携の形で波状攻撃させた。攻撃は主に夜間行われ、予期せぬ密度の攻撃によってイギリス海軍に出血と疲労を強いた。潜水艦による攻撃は水上打撃艦隊にまで行われているが、これは大金星を狙ったのではなく、司令部がイギリス艦隊の疲労と消耗を求めたが故だった。このためイギリス艦隊に対する攻撃は、過度の危険な攻撃は手控えられている。
 この攻撃は日本軍潜水艦群を振り切るまで、約二日間継続された。この時点で日本軍は3隻の潜水艦を喪失する損害を受け、イギリスの損害は輸送船3隻・約2万トンと護衛駆逐艦1隻で、どちらかと言えばイギリス側の勝利だった。
 これはイギリス本国でドイツ海軍を相手にしていた将兵が多いことが、イギリスの有利に働いたと言えるだろう。しかし大西洋しか知らないイギリス軍将兵が、日本海軍がドイツ海軍と違うことを知るのは、これからだった。
 しかもソマリアの手前で、自由オランダ艦隊は護衛任務を終了して反転離脱。自由オランダ艦隊のドールマン提督は最後までの護衛を強く希望したが、ロンドンでの政治的決断と命令により、反転離脱を余儀なくされていた。

 ソマリア沖合を過ぎてアラビア海に入ると、最初の夜は日本軍潜水艦群の襲撃を受けた。ここでもイギリス海軍優位の戦闘が続いたのだが、今度は空からも襲いかかってきた。艦載機以外の空襲はないと思いこんでいた所に、大型機複数が飛来。敵襲はRDF(電探)に捉えることが出来たが、夜間のため艦載機の発艦ができないところに、高々度からの水平爆撃で多数の爆弾が投下される。同時に照明弾も落とされ、闇夜の中に船団が丸裸にされてしまう。付近の日本軍潜水艦からは、これで丸見えだった。しかもその後も大型機は艦隊の周囲に止まって、頻繁に無線情報を発していた。RDF(電探)波を発していることも分かった。
 日本艦隊を呼び寄せているのは間違いなかった。業を煮やした空母が、夜間飛行可能な「ソードフィッシュ」を3機出撃させたが、強力な防御機銃を持つ日本軍大型機の返り討ちにあっただけだった。
 このためイギリス艦隊は、護衛艦隊の駆逐艦を抽出して東の三カ所にレーダーピケットを置いた。朝になれば偵察機、艦載機も飛ばす予定が組まれた。当然だが、潜水艦に対する厳重な防衛体制が敷かれた。
 イギリス軍将兵は、休まる暇がなかった。
 
 日の出前の早朝、イギリス軍のRDFのスコープに映ったのは、水上艦隊と航空機だった。一方、昨夜爆撃を仕掛けてきた大型機は目視により飛行艇であることが分かり、それらは《イーグル》が飛ばした「シーハリケーン」が近づくと強力な防御砲火をまき散らしつつ退散していった。だが、強固な防御力と防御砲火のため撃墜することはできず、逆に「シーハリケーン」2機が落とされた。
 そして飛行艇を撃退したすぐにも、次なる敵手が襲来する。航空機の数は50機程度と判断され、一時イギリス艦隊では日本海軍の空母機動部隊が出現したとして混乱が見られた。それでも全力での迎撃が決意され、《イーグル》は残る6機となった「シーハリケーン」と何かの役に立つだろうと対潜水艦用の「ソードフィッシュ」を12機全機発艦させ、ソコトラ島やアラビア半島のオマーンには緊急の救援要請が出された。
 しかし、早朝に各基地を離陸した筈の英空軍の飛来よりも、日本軍機の襲来の方が早かった。
 襲来した日本機は、複数機種が含まれていた。
 今やイギリス軍にもお馴染みとなった「九九式艦戦」12機と「九七式艦攻」が6機、それに加えて、というより数における主力は残る2種類だった。飛来したのは水上機で、既に各地の戦場に出没している「零式水上戦闘機」と実用試験中だった「瑞雲 水上爆撃機」だった。数は共に24機ずつで、合わせると66機もの大編隊だった。
 この大量の水上機運用を可能としたのが、日本海軍が誇る高速水上機母艦群だった。彼女たちはもともと「空母補助艦」枠で建造された、軽空母への改装を前提とした艦艇だった。しかしそれ故に高速発揮が可能で、また空母への改装を前提としていながら補給艦から揚陸作戦まで様々な任務に対応可能な汎用性を持っていた。実際、東南アジアと南太平洋での作戦では、水上機母艦と高速揚陸艦として臨時に使われて活躍している。
 しかし艦艇が揃い始め、オーストラリアやインドでの大規模な作戦が始まると、水上機母艦の役割も少なくなった。このため空母への改装が取りざたされたが、建造施設、改装施設がいっぱいのため見送られ、取りあえずの活用方法として通商破壊戦が言い渡された。
 他の艦艇に燃料を補給できるほど燃料積載量が多く、元々ディーゼル機関のため航続距離も異常に長い。さらに火砲もある程度搭載しているので、水上機と合わせると遊撃的な通商破壊戦にはもってこいではないかという意見が採用された形だった。
 実際は専門艦艇でないのでかなりの苦労が伴われたが、やはり航空機を多数運用するだけの事はあり、他と連携することで一定の戦果を挙げていた。そこに今度は、イギリスの大船団を攻撃セヨという命令が下り、水上機機動部隊のような形で臨時運用されることになる。
 臨時の「水上機艦隊」は、水上機母艦が《千歳》《千代田》《日進》《瑞穂》の4隻で、護衛に駆逐艦4隻が付いていた。これ以外には《高千穂》《浪速》が別の場所で通商破壊任務や輸送任務に就いていたが、様々な要素でこの時の作戦には間に合わなかった。
 なお、それぞれ16〜20機程度の各種水上機を搭載しており、各6機が「零式水上戦闘機」と「瑞雲水上爆撃機」だった。
 「瑞雲」は当時まだ空母を持たなかった護衛艦隊が、水上船でも運用できる対潜機として愛知飛行機と兵部省に開発を急かせたもので、また護衛艦隊と連合艦隊の軋轢を物語るものでもあった。
 この時も所属は護衛艦隊で、母艦群も本来は護衛艦隊に属しており、商船を守る立場の艦艇と組織が商船への攻撃を行うという奇妙な事態でもあった。
 しかしこの時は、攻撃力としての効果は大きかった。
 「瑞雲」は急降下爆撃が可能な水上機で、そのうえ運動性も高いという特徴を備えていた。主翼には20ミリ機関砲も装備している。予想していた以上に性能が高かったため連合艦隊が欲しがったり、登場すぐにも艦上機として作り直す構想も持ち上がっているほどだった。
 そして「九九式」や「零式水上戦闘機」がイギリス軍艦載機を押さえ込んでいる間に、「瑞雲」が急降下爆撃を行い、僅か6機の「九七式艦攻」が雷撃を行う。英空母《イーグル》には、「九七式艦攻」全機と「瑞雲」6機がほぼ同時に殺到し、魚雷2本、250kg爆弾2発を受けて大破。もとが戦艦で2万トンを越える巨体ながら、旧式艦と度重なる任務で酷使されていた影響もあり、通常なら耐えられたかも知れない打撃に耐えきれなかった。取りあえずその場での沈没はなかったが、その後ノロノロとアラビア半島方面への待避中に、日本軍潜水艦に沈められている。
 また他の「瑞雲」は、主に整然とした隊列を組んで航行していた輸送船をそれぞれ2機で狙い、無闇に列を乱すことも出来ず、あまり濃密でない対空砲火を打ち上げてくる鈍足な輸送船をのうち、8隻の船に命中弾を浴びせることに成功する。

 その後水上機の攻撃は、洋上での困難な収容作業のため連続しては行われなかったが、艦載機の方はその後も2度攻撃が行われ、さらに3隻の輸送船に命中弾を浴びせている。水上機部隊の方も、午後になるともう一度攻撃隊を繰り出して、再び輸送船団に大損害を与えた。
 そして本命の日本艦隊が、空襲で陣形が乱れて逃げることも難しくなった輸送船団との間に割り込んできたイギリスの護衛艦隊に突撃しつつあった。
 英戦艦《ネルソン》《ロドネー》《ロイヤル・ソヴェリン》《ラミリーズ》に挑んだのは、第二艦隊の戦艦《肥前》《岩見》《周防》《相模》、重巡洋艦《妙高》《那智》《羽黒》《足柄》、軽巡《能代》以下第二水雷戦隊の主力が属する攻撃的な艦隊だった。
 これに対してイギリス側も、戦艦以外に重巡洋艦3隻と駆逐艦6隻を有していたので、日本艦隊は駆逐艦の数だけが優勢だった。しかし日本海軍で二番目に新しい戦艦群である《肥前級》戦艦は、実質的には条約排水量を大きく凌駕する戦闘艦だった。
 表向きの性能は、基準排水量3万5000トン、最高速力26ノット、45口径16インチ砲3連装3基9門とされていた。しかし実質的な排水量は4万トンを越える4万2500トンもあり、速力も正式な計測において最高で28.5ノットの発揮が可能だった。集中防御型のやや寸道な印象もある船体だったが、高温高圧ボイラーと高出力機関を搭載することで、小型でコンパクトな船体と速力を達成していたためだった。装甲も十分な16インチ砲防御が施され、先の《伊豆級》戦艦の教訓も十分反映されているため、非常に完成度が高かった。似た構造の艦にはアメリカの《サウスダコタ級》があるが、《肥前級》の方が艦の船体規模の面で余裕があるため、艦としての総合的な完成度は高いという評価が多い。
 そしてその戦艦4隻が、速力26ノットで突進してきた。すぐにも砲撃のため24ノットに減速したが、それは距離3万5000メートルの距離にイギリス艦隊を捉えたからだ。
 大戦以来何度目かとなる、戦艦同士の砲撃戦だった。また同時に、重巡洋艦同士、水雷戦隊同士の戦いも開始され。この大戦で、最も密度が高くしかも双方が真正面から戦う戦闘となった。
 戦闘は約1時間に渡って行われ、双方に被害が続出した。
 日本側は、《肥前級》戦艦の能力に信頼を置いているため積極的で、速力の優位もあるため斜めから接近しつつ激しい砲火を浴びせかけた。
 距離3万メートル辺りから挟叉弾が出始め、2万7000メートルで最初の命中弾が発生する。最初に命中したのは、イギリス艦隊の放った15インチ砲弾だった。比較的高い角度からの命中弾だったが、170mmのやや傾斜した甲板を貫くには至らず、《周防》の一部を破壊しただけだった。その後激しい砲撃戦が実施され、全ての戦艦に次々と命中弾が炸裂する事になる。
 最初に脱落したのは《ラミリーズ》だった。オーストラリアで生き延びた同艦は、複数の砲弾に装甲を貫かれたため機関を大きく損傷し、最初に戦列を離脱していった。そしてその後は、日本艦隊が数の優位を活かしていく。《周防》と《相模》が、既に砲火を交わしていた《周防》の情報により統制射撃を実施すると、命中弾が多発した《ロイヤル・ソヴェリン》は僅か数分で戦闘不能に追い込まれていた。
 前大戦に建造された旧式戦艦では、多数の16インチ砲弾を防ぎようもなく、瞬く間に大破、そして傾いて砲撃能力を喪失してしまう。そして次は《ネルソン級》2隻の窮地だった。
 《ネルソン》《ロドネー》と《肥前》《岩見》の砲撃戦は、当初はほぼ互角だった。しかし位置の関係で真横に撃ち合うようになると、イギリス側は交互射撃以上しなくなる。砲撃時の爆風の問題から全砲門を用いた射撃ができないからだ。とはいえ、これがイギリス側の不利に繋がる事はなかった。
 しかし日本の方が性能面で全て勝り建造年が10年違う差は、やはり小さくはなかった。また双方ともに幸運又は不幸な一弾というものがなかったため、イギリス側が徐々に力負けという状態に追い込まれつつあった。噴き上がる黒煙は、イギリス側の方が多かった。しかも砲撃戦開始25分の段階で、日本の戦艦は1隻の脱落もないまま、イギリス側は半数が既に大破もしくは戦線離脱していた。
 このためイギリス艦隊は、船団の逃亡に十分な時間を稼いだと判断したこともあって、戦闘の中断と戦線離脱を決意。
 しかし、既に機関にも損害を受けていた《ネルソン》の離脱は最初から無理があるため、艦隊司令部は自ら殿を行うことを各艦に通達。艦隊旗艦だった《ネルソン》は、その場で沈められるまで日本艦隊の前に立ちふさがり、その後魚雷攻撃を受けて波間に沈んでいった。それでもイギリス側の決死の戦闘により、日本の第二艦隊の阻止にはほぼ成功したと言えた。《ネルソン》の活躍もさることながら、巡洋艦、駆逐艦も劣勢ながら奮闘し、船団が逃げる時間を十分に稼いだからだ。
 戦闘がこれだけならば、日本の戦術的勝利、イギリスの戦略的勝利という判定がくだっただろう。
 しかし日本側にもう一枚カードがあることが、勝敗の決め手となった。

 重巡洋艦4隻《白根》《鞍馬》《蔵王》《乗鞍》を中核とする日本海軍南遣艦隊が、空母《龍驤》と護衛艦艇を分離して戦艦同士の艦隊戦が行われている所を高速で迂回し、30ノットを超える速度で輸送船団に襲いかかった。洋上での艦隊追撃は非常に難しいのだが、飛行艇による深夜からの誘導の賜物だった。
 イギリス船団側は、RDFによって寸前で急接近する敵影を捉えるも、逃げ場のない船団は僅かな護衛艦が盾となっている間に、船団を解いて独航でインドを目指させることになる。途中まで同行していた自由オランダ艦隊がいれば、状況は大きく変わっていた事だろう。
 これで、イギリス軍による輸送作戦の結果は出たといえる決断だった。イギリス側が最後に行った決断が、殲滅か壊滅かの二者択一だったからだ。
 その後南遣艦隊は、立ちふさがり付きまとう貧弱な英護衛艦艇を撃破し、ばらけつつある輸送船団の一部に襲いかかり、数時間にも及ぶ戦闘の末に船団の約2割を沈めることに成功する。いかに高速輸送船が多いとは言っても、相手は航空機の偵察支援のついた重巡洋艦群だった。
 またこの段階で、南遣艦隊に属していた空母《龍驤》の艦載機が一番遠い船から順に襲いかかり、さらに戦果を拡大。そして朝から戦闘を続けていたイギリス艦艇の多くも、日本艦隊から逃げのびるかまともな戦闘続行能力を失った午後からは、再び十数機の「一式大艇」が爆撃に現れ、さらに船団が崩れるのを待ちかまえていた潜水艦群の本隊が昼間から襲いかかった。
 潜水艦群と南遣艦隊、第二艦隊の一部は、「一式大艇」がもたらす偵察情報に従ってさらに追撃戦を実施し、その後全体の七割近い船を沈めるか拿捕してしまう。生き残った三割も、うち半数はアラビア半島やペルシャ湾方面に逃れ、ボンベイやカラチなどインドにたどり着いたのは全体の約15%、11隻にすぎなかった。しかもボンベイに着いた3隻には、その後セイロンから猛烈な爆撃が行われ、船はもちろん多少陸揚げした分を含めて物資のほとんどが失われていた。
 戦闘艦艇の損害も、日本側が戦艦4隻が中破、重巡洋艦1隻が大破、4隻の潜水艦を失う損害を受けたものも、水上艦の損失は駆逐艦2隻に過ぎなかった。これに対してイギリスは、戦艦2隻、空母1隻、重巡洋艦1隻を始め多数の艦艇を失い、壊滅的打撃を受けることになる。艦艇だけの損害で、約10万トンも失った事になる。砲撃戦を何とか生き延びた戦艦《ロイヤル・ソヴェリン》も撤退途中を潜水艦に狙われ、速力が衰えていたところを護衛していた駆逐艦共々沈められていた。何とか安全圏に離脱できたのは、戦艦《ロドネー》と《ラミリーズ》だけだった。
 そして何より船舶36万トン、物資31万トン、兵員1万4000名、艦船乗り組み員7000名をイギリスは失うことになる。
 最終的に、秋までにインド軍に渡った今回の船団による増援と物資は、兵員6000名と物資約4万トンに過ぎなかった。

 この時の大損害にイギリスは大きな衝撃を受け、以後日本軍が執拗に狙うことが確実となった大規模な船団による増援は行われなくなり、小規模な増援や高速発揮可能な艦艇や船舶を利用した小規模な輸送作戦が頻繁に行われるようになる。航路も、アラビア半島からペルシャ沿岸を抜ける航路が多用され、周辺部の空と海で小規模な戦闘が頻発することになる。
 しかしもう、日本の大侵攻部隊はすぐそこまで迫っていた。

●フェイズ32「インド侵攻(3)」