■フェイズ36「枢軸側の一押し」

 1942年7月22日にアメリカ合衆国が遂に参戦したが、それは枢軸諸国にとって遂に来るべき時が来たと言う風に捉えられる事が多かった。そして自分たちが敗北しないために、アメリカに対して全力で当たれる体制を作ることが心がけられた。
 二正面戦争は何としても避けるべきだし、枢軸側が体勢を整えてしまえば、アメリカに事実上の二正面戦を仕掛けることすら出来るからだ。
 アメリカが自らの防備体制を整えるまでに、参戦から約半年。限定的攻勢に出られるようになるまで約1年。全面攻勢に出てくる可能性が出てくるまでに、約1年半から2年。
 これまでにアメリカ軍を受け止められる戦略体制を作ることが、主にドイツ、日本にとっての大きな課題だった。そして枢軸が「負けないため」の分水嶺は、アメリカが参戦した時既に過ぎつつあると考えられていた。

 インド洋とアジア全域は、既にほんとど全てが日本ものだった。オセアニア地域も、僅かなアメリカ領以外は同様だ。
 一方ドイツ、イタリアを中心とした攻勢により、地中海、北アフリカ、中近東のほとんども枢軸の手に帰していた。スエズ運河は既に枢軸の大動脈として活用されており、両者の往来が活発化していた。地中海の出口であるジブラルタル海峡はまだイギリスが保持していたが、スペインが枢軸国に参加すればそれも潰え、それも遠くない事だと予測された。ヴィシー・フランス政府を含めたフランスの完全な枢軸参加も時間問題だと考えられていた。
 これに対して、イギリスの衰退は目を覆わんばかりだった。
 イギリスの生命線である植民地のうち、無事なのはカナダとカリブ海、アフリカ中部以南のみ。その生命線と本国をつなぐ船舶も、既に開戦頃の半分にまで激減していた。イギリス本土に運び込まれる物資の量は、開戦前の約4割。既に贅沢品など望めず、とにかく最低限の食料以外は、生命線であるベネズエラの石油を始めとする各種資源に集中されていたのだが、それでも全然足りていなかった。アメリカのレンドリースも、開戦までは基本的にイギリスが運ぶ事になっていたので、物資の量はともかく負担はあまり変化なかった。開戦までのアメリカは、船舶の建造も戦争当事国に比べると不熱心だったため、イギリスが購入を望んでもあまり沢山受け渡してもらえなかったからだ。
 当然イギリス本土での戦時生産は大きな滞りを見せており、兵器の生産と部隊への配備は常に遅れていた。
 その上、日本軍相手のインドでの戦いで酷く消耗しており、ほとんど唯一の反撃であるドイツへの夜間爆撃も十分には行えていなかった。
 象徴的な出来事が、ドイツに対する夜間爆撃だった。

 1942年2月、イギリスではハリス将軍がロイヤル・エア・フォース爆撃軍団の司令官となった。彼は、当時疑問視されていた戦略爆撃の効果を証明するために、集中爆撃を計画した。しかし、当時イギリス本土のイギリス空軍は、200機程度が北フランスやライン川河口部などへの爆撃任務に就いているだけだった。これでは100機程度の出撃を繰り返すのが精一杯で、損害に対して効果が疑問視されるのも無理ない状態だった。これを6月頭に、イギリス本土の全ての爆撃機を集中する。集められた機体数は約500機。これは沿岸警備や哨戒任務、さらには一部の訓練部隊すら集めたものだった。しかも既にインド洋、中東の戦いも終わっていたので他から戦力を回すことは出来ず、イギリスがこの時切れるカードのほぼ全てでもあった。
 そして大規模夜間爆撃が実施され、この時ドイツ軍に対して主に心理面で大きな衝撃を与えた。当時ドイツは、最大300機程度の夜間爆撃に対応できるだけの防空網を整備しつつあり、ルール工業地帯や北ドイツの防空には自信を持っていた。
 ハリス将軍が指揮をするようになってもドイツ側の認識は変わらず、ドイツ空軍の一部ではそろそろ大規模なイギリス本土爆撃を再開する準備を始めようという動きも出始めていた。
 そこにイギリス空軍の大規模爆撃は、かなりの衝撃となった。しかし500機では、衝撃は物心両面でいまひとつだった。ドイツ側の迎撃網がかなり整っていたため、イギリス空軍の損害もかなりに登った。このためイギリス空軍による大規模爆撃は、半月ほどの間に3回行われた段階でうち切られた。イギリス空軍の損害は予測以上に大きく、この時の損害だけで帰投後の破棄を含めて100機近くになった。もし効果的な爆撃を行うのなら、より大規模、出来るなら1000機単位の飽和爆撃が必要という研究結果が出たのだが、それだけの戦力をイギリス空軍は持たなかった。イギリスの戦時生産も、倍の数を揃えることが既に不可能だった。
 そしてこの後の夜間爆撃も、再び100〜200機程度に落とされる。イギリス空軍の技術向上、重爆撃機の増加などで精度と実質規模を向上させるも、ドイツ側が防衛体制を強化したこともあって、イギリス側の犠牲と損害ばかりが目立つものになった。それでも中止できないのは、夜間爆撃だけがイギリスの攻撃手段であり、国民の士気を保つためにも、出来る限り攻撃を行わねばならなかったからだ。
 そうした負の循環が続き、その傾向は日を重ねるにつれて強まっていた。これは戦争に敗北しつつある事を現しており、アメリカの参戦は崖っぷちに追い込まれた時に行われたと言える。
 このためアメリカの参戦に対するイギリス国民の喜びは大きく、戦争は大きく転換するだろうと言う楽観論が早くもロンドンの街角を賑わせた。
 しかし、いまだ平時状態だったアメリカが全力で戦争を出来るようになるまで、まだ長い日数が必要だった。
 そしてその間を、枢軸諸国は存分に利用する。
 その際たる戦場が、ロシア戦線だった。

 ロシア戦線では、1942年3月までにソ連赤軍の冬季反抗が目的を達成する事なく終わっていた。ソ連赤軍は、結局モスクワを奪回できず、とぎれがちの中央からの命令によりしゃむに攻撃を続けたため消耗を重ね、多くの部隊が編成表から姿を消すことになった。ドイツ軍も厳冬のロシアで大きな損害を受けたが、基本的にモスクワを守りきったドイツ軍の方が傷は浅く、余力も多かった。
 そしてその間ドイツ中枢部では、次の夏に実施する作戦について激論が交わされていた。
 多くの意見は、初期に策定された「AAライン」、つまりアルハンゲリスクとアストラハンを結ぶ線への到達を目指すというものだった。これならレニングラードを完全に封鎖し、連合軍の北大西洋航路の到達港とバクー油田地帯の双方をソ連軍中枢から切り離すことができる。モスクワを落とした現状から考えれば、当然目指すべき目標だった。
 しかし、今までの自軍の消耗とソ連軍の予想以上の頑強さのため、全面攻勢は厳しいと判断された。そこで、南部から二個軍集団が突撃し、まずはスターリングラード=アストラハンのラインへと突進。ソ連軍主力とバクー油田を遮断。その後主力が一気に北上し、モスクワ正面からの攻勢も実施して臨時首都のクイビシェフを突き、同時にボルガ川流域の工業都市も落とし、ソ連の戦争継続能力の過半を奪うことが目標とされた。
 そして秋以後に、ウラルもしくはバクーへと進撃し、戦争を決定づけるものとされた。
 この時ヒトラー総統は、バクー油田の奪取を何度か口に乗せている。将軍達と激しい議論になった事もあった。得意の「あなた方は戦争経済をご存じでない」という言葉も飛び出したと言われる。しかし、既にペルシャのアバダン油田が枢軸側の手により一部操業を再開し、石油の過半がヨーロッパへと注ぎこまれ始めていたので、当面の燃料不安が和らいだ事から、政治目標を重視する方針が貫かれることになった。
 またモスクワを奪った将軍達を前に、ヒトラーが譲歩せざるを得ないというドイツ内での政治的駆け引きも、戦術の健全さを優先させる事になる。

 「ジークフリート作戦」と命名されたドイツ軍を主軸とした大攻勢は、1942年6月22日に開始される。
 同年5月に先手を打ってハリコフ方面で反撃して、これを呆気なく撃破されたソ連赤軍は脆く、一年前のような快進撃が展開された。一ヶ月でスターリングラードが呆気なく陥落し、その二週間後にアストラハンもドイツ軍の手に帰した。これでバクー油田とコーカサス方面のソ連軍はソ連中枢と分断され、その中枢に対してドイツ軍主力が総攻撃を実施しようとしていた。
 その一週間前にアメリカが宣戦布告を実施するが、その時までにドイツ軍は中部の要衝ヴォロネジと陥落前にボルゴグラードと改名されたスターリングラードから、一気にボルガ川中流の都市サラトフに迫っていた。臨時首都のクイビシェフまで、あと350キロメートル。このまま進撃すれば、二週間後には中間にあるサラトフ市に迫ることが出来る予定だった。しかもソ連軍が中央の誤断により南部に多くの部隊を移動させたため、中部のゴーリキーまでが危機に瀕しようとしていた。
 しかもこの時、ソ連軍は遂に四面楚歌に追いやられていた。
 日本が遂にソ連に宣戦布告したからだ。

 日本と満州は、ドイツが攻勢を開始した1942年6月22日に、ソ連政府に対して宣戦布告を実施。両軍合わせて約120万の大軍が、シベリアとモンゴル人民共和国に侵攻を開始した。そしてモンゴルは何も遮るもののない平原で、シベリアも鉄道が合流するチタ市の街辺りまでは平原が広がっていた。
 これに対して当時の在シベリアソ連赤軍は、約40万人にまで減少していた。バイカル湖近辺のモンゴル国境の兵力は、貧弱な国境警備隊しかいなくなっていた。しかも兵士の質は最低で、戦車、重砲、航空機といった近代戦争に不可欠な兵器は、日満連合軍に対して僅かな量しかなかった。
 全ての有力な戦力が、モスクワの戦いに投入されて消えていったのだ。
 しかも進撃する日本・満州連合軍は一年かけて侵攻準備をし、迅速な進撃のために無数の輸送車両を準備していた。まともな鉄道路線がシベリア鉄道一本しかないので、進撃したければ大量の自動車両を用意するしかなかったからだ。満州北部を貫く旧東清鉄道も、輸送力を確保するため一部が複々線に改造されていた。自動車両が通るための道路も、日本中から工作機械を集めて集中工事が実施された。このため、インドに回す車両が不足したほどで、それほど日本陸軍は対ロシア(ソ連)戦を重視していた。
 なお、自動車化以上の師団なら、1個師団当たり2500両の車両を有していた。重装備の戦車師団や機械化師団になると3000両を越える。支援部隊を含めた1個軍だと約1万両、1方面軍で10万両となる。日本からのバーター取引と大量供与により、数における主力となる満州帝国軍も著しく強化されていた。
 この時、機械化もしくは自動車化された日満連合の方面軍は4個あった。それ以外の師団や部隊も半分は自動車化され、残りは半自動車化の上に、1個師団当たり5000頭の馬が重装備や馬車などを引いていた。補給部隊にも馬車が多数あった。馬の数は意外に多く、騎馬民族が依然として支配する満州帝国からは30万頭もの馬が、この戦いに動員されていた。そしてモンゴルの平原は、馬での戦いに向いているので、近代戦においても馬の存在はある程度有効だった。
 しかも輸送専門の部隊には、15万頭の馬以外にも約5万両の専門の輸送車両が用意された。この数字は、1941年夏にソ連に攻め込んだドイツ軍よりも多い数だが、シベリア鉄道一本しかない補給路を考えると、これでも100万の軍隊が進撃するには少ないぐらいだった。さらに道路整備為の専門の工兵部隊、鉄道の強化及び修復のための鉄道連隊が多数投じられ、補給を軽視しがちと言われる日本陸軍内においてすら、補給線の維持こそが戦いを決すると言われた。
 だが、インドから急ぎ戻してきた分と、損害が少なかったためインドへの投入予定が不要になって回された分を含めても、現状がこの時の日本の限界だった。
 しかし120万の軍隊に、50万両の車両と30万頭の馬たちは、シベリアとモンゴルの草原を快調に進撃した。(※鉄道輸送員と、輸送のため動員された軍属扱いの苦力は除く。)
 上空には約3000機の機体が支援にあたり、圧倒的戦力により約三日で東シベリアの制空権を獲得し、開戦初日から一週間ほどは西シベリアの奥地にまで爆撃に出向く機体もあった。
 こうした数字を少し後に聞いたドイツの将軍達は、「日本軍が東部戦線にあれば、1941年のうちに我々はウラル山脈に到達していただろう」と残念がらせたという。
 日満連合軍は、アメリカが宣戦布告するまでには東シベリアの要衝チタ市を包囲下に置き、奇襲的に進撃したモンゴル方面では先遣隊がソ連国境へと迫っていた。シベリア奥地の要衝ノボシビルスクを最初に爆撃したのも、アメリカが宣戦布告する4日前の事だった。しかもインド、中東から引き上げる軍隊が、再編成と新装備受領後に続々と満州帝国入りしていた。満州帝国でも、日本で無尽蔵に生産される兵器を利用して、幾つもの新規編成部隊や、既存部隊の機械化が進められていた。
 日本は、一夏で宿敵ロシアとの戦いを終わらせる予定だった。
 そうした決意は、中東、ペルシャ方面でも影響を与えていた。

 1942年春に中東まで進撃した日本軍は、現地駐留の部隊を除く多くの戦力を急ぎ引き上げさせていた。この時兵士達は、接岸した兵員輸送用に改装された大型客船に乗り込み、足早に日本へと帰って行った。この時ペルシャや中東には、3個師団分の装備と弾薬、それに最初からドイツ軍に引き渡される予定の約300機の航空機、5000両のトラックが残されていた。
 これら全てはドイツ軍もしくはイタリア軍に引き渡され、ドイツ・アフリカ軍団から、枢軸中東軍に改名されていたロンメル軍団に新たな力を与えていた。また日本が引き渡した航空機は、三分の二が重爆撃機の「九八式大攻」で残りは雷撃機だった。このうち雷撃機は、輸送船などで地中海へと運ばれていったが、重爆撃機はそのまま飛行してドイツへと至り、モスクワから直接ウラル山脈方面を攻撃するための攻撃部隊としても使われる事になっていた。
 モスクワからウラル山脈のスベルドロフスクまでは、約2000キロメートル。「九八式大攻」ならば、軽荷状態なら十分攻撃圏内だった。
 一方、日本軍装備を受領して戦力の補強を行ったロンメル軍団は、イラクとペルシャの陸路進んでソ連国境まで至る。ペルシャ方向からバクー油田を奪取するのが目的だった。
 また現地駐留の日本軍は、自らの参戦と同時にペルシャやイラクのペルシャ湾岸に設けた航空基地から、多数の「九八式大攻」もしくは「九九式重爆」を出撃させ、バクー油田を始めとしてアストラハンやスターリングラードまで爆撃している。その他カスピ海沿岸の港湾を破壊して、カスピ海にある僅かな数の艦艇とタンカーを攻撃し、ソ連に石油を渡さないようにすると共にドイツ軍を側面援護した。
 そしてコーカサス方面、バクー方面のソ連軍は、北をドイツ軍主力に遮断され南部から日本軍を加えた枢軸軍に圧迫されたため、動くに動けなかった。バクー油田の損害は限定的だったが、コーカサス方面に閉じこめられた形のソ連軍8個軍・約70個師団、約60万人の戦力は、移動も反撃もままならないため、暢気に爆撃してくる日本軍機に怯えながら過ごすだけの日々を送らねばならなかった。日本軍がオーストラリアで初めて投入し、インドで大戦果を記録した大型地上襲撃機は、制空権の得られる戦場では絶大な戦果を記録し続けていた。あまりの戦果に、搭乗員の中には機体の撃破記録の表示を止めてしまったものがいたほどだった。
 そうした枢軸優位の状況もあって、トルコの対ソ宣戦布告も間近いと言われた。

 そして主戦場であるロシアとドイツの戦いだが、ドイツ軍が夏季攻勢を開始すると同時に、東からドイツが日本の重爆で、南のバクダッドから日本軍がクイビシェフを爆撃し始めると、ソ連指導部は再び疎開を決断する。このため、ドイツ軍の夏季攻勢開始という大事な時間に、再び指揮系統の混乱を産んでしまう。疎開では中央官僚団と軍中央も疎開しなければならず、生産、流通、移動、そして全ての命令系統が大きく混乱する。どれほど努力しようと、入念な準備をしようとも、円滑な戦争運営など望むべくもなかった。しかも各種生産施設や生産に携わる人々も東への疎開を続けていたため、生産力自体もがた落ちだった。無敵と宣伝された優秀な「T-34」戦車も、数が揃わなければ優秀な兵士を多数抱えるドイツ軍に太刀打ちできなかった。
 しかもスターリン以下のソ連指導部は、相変わらず前線に死守命令を出していたため、各所でソ連赤軍は簡単に包囲殲滅されていった。夏季攻勢開始から一ヶ月で、6個軍が編成表から消えた。おかげで各地のソ連軍は、ドイツ以下の枢軸軍よりも少ない兵力で防戦に当たらねばならなかった。ドイツ軍としては、臆病で猜疑心の強い独裁者こそが最大級の味方といえる状況だった。
 この間にソ連指導部は、ウラル山脈の東側にあるチャリャビンスクへと疎開を実施し、さらにシベリア奥地のオムスクまでの疎開すら検討していた。オムスクまで下がることを予定して、シベリア鉄道沿線のあるチャリャビンスクに疎開したのだった。しかも暗殺を恐れたスターリンらは、自らの疎開そのものは極秘で実施しており、一時的な独裁者の不在は当然混乱の広がりを助長した。

 そしてドイツ軍の進撃、各地での軍の壊滅、二度目の首都疎開などの悲報が続く中で、さらに悲報が飛び込む。連合軍が、北大西洋周りでのレンドリースを無期延期するという決定だった。
 これでアイスランドやアラスカを経由する細々した航空機のレンドリース以外、アメリカからの援助は完全に途絶する事になった。イギリスの援助は既に先細りしつつあったが、生産量が半壊して少しでも何かが欲しいソ連にとっては十分な痛手だった。そして何より、心理面での衝撃が大きかった。
 アメリカの参戦という朗報はあったが、それは当面の枢軸軍がソ連に対する攻勢を強めることも意味していた。ドイツや日本は、アメリカと正面から向き合うため、二正面戦争を避けるため、既に傾いているソ連にトドメを刺そうするに違いないからだ。
 そして現状は、それを肯定していた。
 そして首都の度重なる疎開と無茶な戦争指導は、指導部、共産党への求心力を日に日に減少させ、大粛正で忠実となっていた筈の赤軍も強い疑問を抱くようになっていた。民衆はもっとストレートで、ドイツ軍占領地では民衆がこぞってドイツ軍に協力し、兵站面での負担を請け負ったり、ドイツのために製品を製造したり、共産党と軍が送り込んだレジスタンス組織を摘発していた。義勇ロシア軍の編成も順調に進んでいた。ドイツ占領地は、共産党員とユダヤ系にとってもはや地獄だった。
 ドイツの占領統治は、一般親衛隊の「悪行」に代表されるように決して良くはなかったのだが、これまでの生活の基盤だった宗教(ロシア正教など)を真っ向から否定する共産主義よりもましだったのだ。またソ連領内に住んでいたロシア人とは言えない人々は、ロシア人に対してかなりの恨みを持ってもいた。その中でも秘密警察、NKVDは蛇蝎のように嫌われ、組織の中に多数のユダヤ人がいるという事で、ドイツ軍占領地内のユダヤ人はユダヤ人というだけで真っ先に逮捕されていった。
 ユダヤ系ロシア人の事はともかく、ロシアの民衆の動きはドイツの勝利とソ連共産主義体制の敗北を既に規定のものとして受け入れていたが故と言えるだろう。もしソ連が盛り返すと予測されたならば、ドイツ軍に対する抵抗運動が大きくなっていた事は間違いない。
 そしてクイビシェフに迫ったドイツ軍も、補給ラインを整え9月に攻勢を再開。ロシアの泥の海が到来するまでに、ボルガ川流域をほぼ制圧した。しかも秋の時点で、ソ連領のほぼ全てがドイツ軍か日本軍の重爆の空襲圏内で、事実シベリア奥地のオムスクにすら日本製重爆撃機は飛来した。
 国家の動脈となる鉄道のダイヤグラムも既に無茶苦茶で、疎開中の官僚団を満載した列車が丸ごと爆撃を受けるような悲劇も、最早日常と言える状態だった。
 1942年秋、ソ連という人工国家は明らかに崩壊しつつあった。
 そして1942年9月28日、クイビシェフがドイツ軍の包囲下に置かれ、重要な工業都市であるゴーリキー、カザンもスターリンからの死守命令によって戦場となった。錯綜していた北部戦線からは、ソ連軍が引き抜かれて各所の防衛に回されたが、このためレニングラードは枢軸軍の完全な包囲下に置かれてしまう。結果としてレニングラードは、降伏を選ばない限り春を待たずして全市民が餓死する以外での選択肢を失ってしまう。
 そうした中で、事件が起きる。

 1942年11月19日、シベリア鉄道上でとある列車が爆破される。列車は完全に破壊され、その後軍の一部が動き出した。
 ソ連赤軍によるクーデターの勃発だった。
 クーデター自体は、大ざっぱながらかなりの部隊が参加したため、瞬く間に要所を制圧していった。臨時首都チャリャビンスクでは、政府組織、議会、共産党本部とその組織、軍司令部、秘密警察(NKVD)などが次々に制圧され、「ロシア救国政府」と名乗るジェーコブ将軍を中心とする軍が権力を掌握。秘密警察は即時解体され、政治士官、政治委員もその場で拘束された。共産党も臨時本部ごと完全制圧され党の活動と資格が停止され、この段階では保留されていたが、短期間のうちに共産党自体が解体されることになる。
 また民衆に対しては神の復活を全面的に認め、祖国を守るために救国政府への協力が呼びかけられた。
 そして11月22日に行われた宣言の時に、秘密裏にチャリャビンスクを脱出しようとしたスターリン書記長とベリアを国家反逆罪の罪、敵前逃亡の罪で殺害した事が公表され、同時に枢軸国と停戦の用意があることを発表した。
 このクーデターは衝撃をもって全世界を駆けめぐり、イギリスとアメリカなどの連合国は、何としてもソ連を、いやロシアを戦争に留め置こうとした。しかしチャリャビンスクのアメリカ大使、イギリス大使は、ロシア人から色好い言葉を貰うことが出来なかった。特にアメリカは、戦争を傍観し続けた事をロシア人に強く非難され、アメリカ「だけ」の勝利のために国と民族を破滅に追い込むわけにはいかないという言葉を聞くことになった。
 枢軸国とロシアとの停戦は12月10日に正式成立し、同月12日に両者の停戦は完全発効した。

 停戦までそれなりに時間がかかったのは、枢軸側がロシア人に求めた停戦条件と、ロシア側が提示した停戦条件の埋め合わせのためだった。
 そもそもドイツは、ソ連・共産主義をイデオロギーでの宿敵と考えて戦争を引き起こしていた。このためスターリンが死んで共産党とソビエトが解体されるのなら、戦争目的の半分は達成できた事になる。しかしナチスが唱えた「生存圏(レーベンスラウム)」を造るためには、ヨーロッパロシアをドイツ人の植民地とする必要があった。一方、東から攻め込んだ日本は、戦争中の軍事占領は別として、ロシアからの領土割譲を極端に求めていなかった。一番に求めたのは、今後の戦争での完全中立だった。既に一部で入り込んでいるアメリカ人をロシア人が追い出してくれるなら、この戦争中に多くの文句を言う積もりはなかった。日本としては、ドイツに対する同盟の履行ではなく、ソ連を戦争から完全に脱落させるために戦争を吹っかけたに過ぎない。
 日本と一緒に攻め込んだ満州帝国は、モンゴル共産党政府の解体を最優先とし、さらにチタ市以東のシベリア鉄道沿線地域の割譲などを求めていたが、それもドイツに比べれば大したことではなかった。
 結局、話しはロシアとドイツ中心の話し合いとなり、ロシアは当面ボルガ川以西はドイツ及び枢軸国の占領統治を受けることで妥協しなければならなかった。
 また、ドイツにとっては半ばついでだったが、ドイツとの戦いが始まる以前にソ連が侵略した地域は、全て手放すことが最優先で決められた。この結果バルト海諸国が独立復帰し、ドイツはポーランドの残りとベラルーシ、ウクライナを事実上併合してしまう。フィンランドも多くの領土を得ることになった。
 一方アジアでの取り決めでは、日本、満州がバイカル湖(イルクーツク)以東の占領統治を行うことになり、ロシアから日本への当面の賠償としてカムチャッカ半島とその周辺部を充てることになった。これは日本とアメリカが直接国境を接することになるが、当時の日本はアメリカ軍が同半島に先にやって来ることを警戒していた。また、日本北端の防衛拠点、外郭地としてのカムチャッカ半島に魅力を感じていたため、何となく言ってみたらロシア側がすんなり割譲した、という経緯がある。この時東シベリア全土の割譲もいちおう話されたが、日本軍による占領統治という以上は、以後の話し合いや決定に持ち越された。
 一方満州帝国に対しては、モンゴルの非共産化と優先権の譲渡、ヤブロノイ山脈以東(チタ以東)の割譲で片づけられた。百年後ならともかく、今のロシアには広すぎる領土は過ぎたる財産だったからだ。

 かくして枢軸陣営は、ユーラシア大陸の完全制覇を成し遂げると、返す刀でアメリカとの総力戦へと挑んでいく事になる。
 ロシア人は倒れたが、大戦の出口はまだ誰にも見えていなかった。

●フェイズ37「初期の対アメリカ戦」