■フェイズ37「初期の対アメリカ戦」

 ソビエト連邦という人工国家が音を立てて崩れ始め、イギリスが首を締め上げられている時に、アメリカは参戦した。
 参戦直後に、映画での騎兵隊のように大軍を以てドイツ軍、日本軍を攻撃して、窮地に立たされているイギリスやソ連を助ける事ができればよかったのだが、現実はジョン・フォードの西部劇のように甘くはなかった。戦争準備が全く整っていなかったのに参戦したアメリカ軍に出来た事と言えば、日本の一部を爆撃して日本人を不用意に怒らせたぐらいだった。
 そしてアメリカ軍が具体的に何かを出来るようになるより先に、既に全力で戦争を実施している枢軸軍が動き始める。

 アメリカ参戦初期に日本軍、ドイツ軍が中心となって行ったのは、アメリカ本土近海での通商破壊戦だった。
 一ヶ月ほどで急いで準備と展開を終えた戦力は、日本海軍が約30隻(正確には28隻)、ドイツ海軍が9隻の大型潜水艦だった。日本海軍の場合は、北太平洋上には潜水母艦や特設潜水母艦が、さらに補給専門の潜水艦3隻が少し遅れて展開しつつあった。これらの潜水艦群が、参戦したばかりのアメリカに冷や水を浴びせかけるような攻撃を実施した。
 しかも開戦当初に損害が無かったことが、アメリカに多少の慢心をもたらし、そして悲劇を大きくした。開戦当初は、急いで港に逃げ込んだアメリカの船だったが、一週間、半月と経過してもほとんど被害を受けないため、多くが日常へと戻っていたのだ。このため、突如損害を受け始めると、それは大きな悲劇となった。
 特にアメリカの太平洋岸は恐慌状態に陥り、アラスカからパナマ運河に至るほぼ全ての航路は、一時断絶状態に陥ったほどだった。あまりの攻撃の激しさに、一時期アメリカでは日本軍がハワイを秘密拠点として利用しているという説が流布したほどだった。僅か一ヶ月で約350隻、約200万トンという信じられないほどの商船が沈められた。しかも半数以上が、アラスカ方面や南太平洋に軍需物資や兵器、兵員を運ぶ船だったため、多くの兵器と物資、そして兵士も犠牲となった。また犠牲の一部は、ビクトリア湾に入り込んだ潜水艦が敷設した機雷によるものであり、アメリカの無防備さを伝えるものとなった。
 そして大動脈であるパナマ運河からアメリカ西海岸に至る哨戒機の航続距離外の海は、アメリカ船の墓場となった。日本海軍には大型潜水艦が多かったので、日本本土から1万キロ以上離れた海での作戦も十分可能だったのだ(※実際は、南太平洋からメキシコ沖に展開していた)。
 しかも日本軍は、潜水艦が浮上して、搭載偵察機が小規模な爆撃を行ったり、アメリカ本土を砲撃するという大胆な攻撃も行っていた。中でも、日本軍が条約時代に建造した大型潜水艦《伊40》《伊41》は、備砲の8インチ砲2門で30分に渡る一方的な艦砲射撃を実施し、サンタバーバラにあったエルウッド精油所に壊滅的打撃を与えている。この攻撃は、潜水艦が行った水上戦としては最大規模のものであり、世界中に潜水艦の戦略性を認識させることになったと言われている事も多い。
 なお同精油所は、世界的にも良質のカリフォルニア油田の製油を一手に引き受けていた巨大精油所で、オクタン価100のガソリン燃料を一手に精製していた精油所でもあった。このため、以後半年ほどアメリカ軍及び連合軍ではオクタン価100のガソリン燃料が不足するという、大きな影響を及ぼしている。
 通商破壊戦がお家芸のドイツ海軍も負けてはおらず、同じく一ヶ月で約60万トンの商船を沈めている。東部沿岸やカリブ海は特に往来が多いため、ドイツ軍潜水艦は獲物に事欠かなかった。
 その後も日本海軍は、インド洋の獲物が極端に少なくなったので、続々と潜水艦をローテーションを変えてアメリカ近海に送り込む。そしてアメリカ海軍が体制を立て直す開戦から半年ほどの間に、累計で約500万トンもの商船を沈める事となる。
 艦艇に対しても大きな打撃を与えており、アメリカ参戦初期の一ヶ月で、大型空母《レキシントン》、重巡洋艦1隻、駆逐艦8隻を沈め、戦艦2隻、空母1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦2隻を損傷させていた。大型空母《レキシントン》は、魚雷によって艦載機用ガソリンタンクに亀裂が入り、気化したガソリンが引火することで全艦火だるまとなって沈んでいた。新鋭戦艦の《ワシントン》は、3発の魚雷を受けて危うく沈むほどの大損害を受けていた。
 これに対して日本海軍の損失は、最初の1ヶ月で限れば僅か潜水艦4隻に過ぎなかった。
 大西洋側でもドイツ軍が猛威を振るい、半年間で商船300万トン、艦艇では空母《レンジャー》、巡洋艦1隻などが沈めており、開戦初期のアメリカ海軍の対潜水艦戦術の稚拙さを暴露する結果となった。空母が呆気なく沈められている事が、当時のアメリカ軍の有様を物語っていると言えるだろう。
 ドイツ海軍がアメリカに与えた損害が日本より少ないのは、日本軍の方が投入した戦力が大きかった事と、一時期大西洋を航行するアメリカ船舶が減少しすぎたせいである。

 なお、アメリカ西海岸もしくはパナマと、サモア諸島を結ぶ航路及びサモア諸島近海は、日本海軍潜水艦の格好の狩り場となった。ここでの攻撃が、アメリカの損害を上積みさせることに大いに貢献している。
 サモア近辺には、既に南太平洋に警戒配置についていた1個潜水戦隊が直ちに出動し、これまで監視に止めていたサモア近辺でのアメリカ艦船の攻撃を開始する。攻撃には、潜水艦隊旗艦任務用に建造された巡洋艦《大淀》《仁淀》や大型高速潜水母艦の《大鯨》《白鯨》も参加し、優れた偵察能力と補給能力を駆使して、右往左往するアメリカ軍を効率よく攻撃した。巡洋艦《大淀》が、直接砲撃で商船を相手を沈めることもあった。このためアメリカ軍は、日本が南太平洋で大型の通商破壊艦を出撃させていると勘違いしていた。
 なお、日本海軍の潜水艦戦は、基本的に集団戦法だった。既に数が多い事と戦訓から導き出された戦法で、航空機や水上艦艇と連携するといっそう効果が高まると、臨時発行された戦術教本には強く記されていた。
 そして開戦初期に主にサモアを目指すアメリカ船舶は、単独行動が基本だった。イギリスは注意を呼びかけていたが、これまでアメリカは平時のため経済効率の低下を嫌ったからだ。しかし単独行動する商船は、日本軍の格好の餌食とされた。これはアメリカの全船舶に対して言えることで、開戦当初は艦艇すらが単独行動していたため、日本とドイツは多くの戦果を初戦で挙げることができたのだ。
 しかも日本海軍は、インド洋から続々と兵力を引き抜き、あっと言う間にサモア近辺とアメリカ本土から伸びる航路を押さえ、ほとんど封鎖状態に置いてしまう。
 これに対してアメリカは、参戦するまでに1個師団をサモアに進出させ、航空隊も大幅に拡張された飛行場に200機近くが駐留していた。オセアニア地域の日本軍に対する抑止力という名目で、旧式戦艦と重巡洋艦を中心としたかなり有力な艦隊と、かなりの数の潜水艦も進出していた。小さな諸島を守るには過ぎた戦力だったが、アメリカにとって本国とつながる太平洋上でほぼ唯一の拠点のため、過剰でも軍備を整えざるを得なかった。

 しかし、サモア以上に過酷な状況に置かれたのが、東アジアにあるフィリピンだった。
 グァム島は、アメリカ参戦からちょうど一週間後に襲来した日本艦隊が、少しばかり砲撃した後に降伏勧告の使者を送り、それを受諾することでアメリカの手から放れた。
 一方フィリピンには、既に2個師団の地上部隊を中心に5万のアメリカ軍と現地フィリピン軍(7万〜8万)が駐留していた。航空機も約400機あり、艦隊も巡洋艦を中心とした水上艦隊と、30隻もの潜水艦が配備されていた。戦車や重砲も、かなりの数が持ち込まれていた。
 アメリカ軍の戦略としては、マニラ湾を中心にして半年程度持久しながら日本に対する通商破壊を想定してた。半年もすれば、アメリカ本土からの救援が到着する予定とされていたからだ。また、フィリピンから無制限通商破壊戦を仕掛けて、日本を締め上げる予定だった。
 だが日本に対する戦力見積もりは極めて甘く、見通しも戦略も甘かった。この事は大戦が始まってからアメリカ軍も多少は気づき、現地のマッカーサー将軍が強く求めたほどではなかったが、多数の兵器と部隊をフィリピンに送り込んだ。しかし結局の所、日本軍を過小評価していたため、フィリピンを軍隊と兵器で埋め尽くす事はなかった。またフィリピンには、日本を挑発するという役目もあったが、アメリカが十分と感じた戦力では、日本は必要以上に警戒する事もなかった。
 そして開戦を迎えたのだが、開戦第一撃を担ったアメリカ陸軍航空隊の重爆撃部隊による台湾空襲は、見るも無惨な結果に終わった。「B-17」爆撃機2個大隊の半数以上が、迎撃に出てきた攻撃側に倍する数の日本軍迎撃機により一回の空襲で失われた。翌日からは、散発的に飛来する日本軍の夜間爆撃機に悩まされることになった。既に戦力に余裕のあった日本軍は、フィリピンの周辺にも一定の戦力を置いていたからだ。
 しかし日本軍は、しばらくフィリピンを本格的に攻撃する事はなかった。他の方面での攻撃を重視し、フィリピンの軍事力に対する防衛的な戦力しか置いていなかったからだ。
 だが一ヶ月もすると、続々と航空隊を中心にフィリピン周辺に集まり始める。既にインドでの戦いが終わっていた事が、戦力の転用と集中を容易としていた。日本軍による最初の大規模な攻撃は、アメリカ参戦から半月ほど後に訪れた。マニラ軍港が日本軍の未知の空母機動部隊によって叩かれ、在泊していた多数の潜水艦と身動きできない水上艦艇に損害を与えると同時に、潜水艦用に備蓄していた全ての魚雷を破壊する。
 この時一度に破壊された潜水艦用魚雷の数は約200本。日本の海上交通を破壊するために、アメリカ中から集められたものだった。そしてこの破壊により、以後フィリピンを中心とした潜水艦の活動は低調となるばかりか、本土の備蓄の多くをフィリピンに持ってきていたため、以後半年ほどのアメリカ軍潜水艦は魚雷不足に悩むことになる。
 もっとも魚雷の有無に関わらず、アメリカの日本に対する通商破壊戦は、全くと言っていいほど機能しなかった。

 アメリカ参戦時のアメリカ海軍太平洋艦隊には、フィリピンに30隻、サモアに10隻、ダッチハーバーに20隻の潜水艦が配備されていた。参戦と共に60隻の潜水艦の半数以上が、一斉に通商破壊戦に入ったのだが、戦果よりも損害を積み上げていった。
 日本海軍の対潜水艦戦術は、イギリス軍との戦いと占領地などのイギリスからの情報収集によって、この当時イギリス海軍に次いで高く、戦力はイギリス海軍以上に充実していた。このため、参戦したばかりの未熟なアメリカ海軍潜水艦は、次々に撃沈されていった。
 しかも日本海軍には、護衛艦隊という純然たる護衛組織が戦前から存在し、その母体は19世紀後半から存在していた海援隊である。そして彼らは、そもそもが海上護衛専門の組織であり、また先の世界大戦でもドイツ軍に苦しめられているため、海上交通防衛に対する重要性を十分に認識していた。
 日本海軍・護衛艦隊が得意としたのは、両大戦の間に原型が編み出された対潜哨戒機と水上艦艇を連携させた戦術で、戦争中に電探を導入するなどして非常に洗練されていた。このため不用意に日本船に近寄ったアメリカ海軍潜水艦は、次々に攻撃を受けて多くが沈められた。
 開戦から半年間のアメリカ海軍潜水艦の累計損害は、潜水艦34隻、戦死者は約2500人。アメリカ海軍全体の三分の一に達した。この大損害のため、アメリカ海軍の潜水艦部隊は一時的に壊滅状態に陥り、その後1年以上も活動が低調となってしまう。
 しかもフィリピン・キャビテ軍港の破壊によって大量の備蓄魚雷を破壊されたため、残る潜水艦の活動も非常に低調となる。その上、アメリカ海軍の潜水艦魚雷は、秘密兵器という名の欠陥兵器だった。日本海軍の海上護衛艦隊では、アメリカ海軍の潜水艦戦術には何か決定的な欠点か欠陥があるのではないかと調査すら行い、アメリカ軍よりも早く魚雷に致命的な欠陥があることを突き止めていた。日本の海上護衛艦隊は、不発だったため大型タンカーに突き刺さったままのアメリカ製魚雷を複数回収し、綿密に調査する事ができたのだ。
 だが秘密兵器であるが故に魚雷の欠陥に気付かないアメリカ海軍は、フィリピンに物資を満載した潜水艦を向かわせ、大西洋艦隊からも増援を送り込み、フィリピンを軸とした通商破壊戦を展開。戦果の挙がらないまま、無為に損害を上積みさせることになる。

 そしてそのフィリピンだが、開戦から一ヶ月もすると日本軍による本格的な航空撃滅戦と、フィリピンの軍事施設と軍隊に対する継続的な爆撃が開始される。
 日本海軍は、制空権獲得のため8月末に空母機動部隊を送り込み、ほぼ一週間でルソン島の制空権を獲得。約400機あった在フィリピンのアメリカ軍機は、ほとんどが破壊されるか故障で飛べなくなっていた。
 その間日本陸軍と海兵隊が上陸作戦の準備を急ぎ、9月25日にルソン島に最初の一歩を記す。
 その後日本陸軍は、4個師団の重武装師団と海兵2個旅団を投入してフィリピン各地を占領していき、2個艦隊と1500機の機体が援護した。このため約1ヶ月で、主要な地域は日本軍の占領下となる。だが、現地アメリカ軍で戦略的後退は折り込み済みで、アメリカ軍とフィリピン軍の主力部隊12万は十分な備蓄物資を整えたバターン半島とその先にあるコレヒドール島(=要塞)へと後退する。この島が健在な限り、日本軍は重要港湾となるマニラ湾を自由に使えないからだ。
 しかし日本側もある程度状況を理解しており、早くから現地に対する猛烈な爆撃を行っていた。全島が要塞化されていたコレヒドール島に対しては、当初から500kg、800kgの大型爆弾が使用され、硬目標や弾薬庫破砕のため46cm砲弾を改造した特注の1200kgの大型徹甲爆弾も使用された。
 そしてアメリカ軍がバターン半島に閉じこもった段階で、日本軍は半島の封鎖作戦に転じて、アメリカ軍を間断ない爆撃と砲撃で疲弊させる戦術に出る。これは日本側が、相手が降伏した場合の捕虜輸送経路の確保のため、準備に一ヶ月程度必要と試算したため、その時間を確保するための一時的な戦術だった。しかし相手を元気づかせてもいけないため、攻撃自体は手抜きされなかった。攻撃を始める前から、日本軍は現地アメリカ軍が降伏した後のことを考えていたのだ。
 しかし日本軍は、その後長らくバターン半島攻撃を実施せず、封鎖作戦に終始した。南太平洋での戦闘が激しくなった事と、少しでも犠牲を減らす為の方策だった。一部では、フィリピンの米軍将兵を人質としてアメリカ軍を救援に焦らせる為だと言われることがあるが、日本軍側にはそんな考えはなかった。
 だが海上封鎖も同時に実施してたところ、思わぬ事件が起きる。アメリカ軍では、大統領命令によってフィリピン軍司令官のダグラス・マッカーサー大将の脱出が命令された。このため、夜陰に魚雷艇による脱出が試みられたのだが、潜水艦すら出入りできないほどの封鎖をしていた日本軍に捕捉され、同大将以下脱出した人々が日本軍の捕虜となったのだ。アメリカ陸軍大将の捕虜はアメリカ史上初めての事であり、同大将の責任ではないにせよ大きな衝撃となってアメリカ本土にも伝わる事になった。

 一方その頃、日本軍ではアメリカに対する一つの攻勢計画が準備されていた。
 攻撃対象は、南太平洋のサモア諸島。ここを奪ってしまえば、アメリカは太平洋上にまともな島嶼拠点を失い、特に南太平洋で攻勢に転じることが著しく難しくなると考えられていた。フランス領のタヒチなどが拠点として使えなくもないが、タヒチからサモアですら2000キロ以上離れ、タヒチ以外に大規模な拠点となる島があまり存在しないので、前線拠点としてのサモアは非常に重要だった。それにフランス領の南太平洋地域は、現時点ではヴィシー・フランス政府に属している事になるため、やぶ蛇となることを警戒していた。
 対するアメリカ軍でも、開戦当初からのフィジー奪回作戦が考案されていた。フランス領南太平洋地域の「保護占領」も計画していた。しかしアメリカ軍の場合は、日本海軍の最低でも三分の一が他の地域に拘束されている事が前提だった。でなければ、アメリカ海軍の全力を投じても勝利がおぼつかないからだ。
 このためアメリカは、同盟国となったイギリスや自由フランスなどをつついて、日本軍を他方面、具体的にはインド洋に拘束しておこうとする。
 しかし、当時のイギリス海軍には大型艦艇が不足していた。
 戦艦は、アメリカ参戦の契機となった戦闘で2隻が失われ、その前後に2隻の新鋭戦艦《アンソン》《ハウ》を迎え入れていたが、まだ練度が不足していた。旧式の《ロドネー》など3隻は、まだ修理中だった。だいいち、現状のイギリス海軍の力では、ドイツ海軍すら押さえ込めない状況だった。何しろ、新鋭戦艦4隻、巡洋戦艦1隻、旧式戦艦5隻にまで稼働戦力が激減している。まともな大型艦の数では、ドイツ海軍と同程度だった。日本とのインド洋での戦いのため、巡洋艦の数も開戦前の半数近くにまで減り、さらに酷使されているため稼働率もガタ落ちだった。正直、ジブラルタル海峡すら保持できないまでに戦力を低下させていた。おかげで地中海では、ペルシャからの豊富な燃料を得たイタリア海軍が元気に動き回っていた。
 ならば他の艦艇がないかと探したが、自由フランス海軍の戦艦《リシュリュー》《ジャン・バール》は、アメリカの参戦でようやく戦場に出られるようにするための改装工事が始まったばかりだった。また自由オランダ海軍の戦艦《セレベス》が、疎開を兼ねて南アフリカに展開していたが、自由オランダ海軍全てを合わせても、現地日本海軍に対しては大きく劣勢だった。
 このためアメリカは、自らの大西洋艦隊の旧式戦艦から《ニューメキシコ級》3隻に空母《ワスプ》を加えた艦隊を編成し、南アフリカのケープに派遣することを決める。この時、僅かな数の自由フランス軍も付け、枢軸にあえて知られるように連合軍がマダガスカル島を奪回しようとしているという情報を流した。
 戦艦4隻、空母1隻となると流石に無視できる戦力ではなく、この情報は見事に効果を発揮し、日本海軍は占領したばかりのチャゴス諸島に第二艦隊、第二機動部隊を緊急配備。インド洋での通商破壊戦を請け負う形になっていた遣印艦隊も、活動を活発化させた。潜水艦の一部は、喜望峰を超えて大西洋での偵察活動すら行われた。間借りしている形のマダガスカル島からは、大型飛行艇の「一式大艇」によるケープ偵察も実施された。また、マダガスカル島のヴィシー・フランス軍に対する武器供与も行われ、自分たちも緊急展開できるように航空隊と逆上陸用の上陸部隊の準備が、セイロン島やシンガポールで開始される。一部の潜水艦が拠点ともしている。

 そしてアメリカ軍では、シアトルやダッチハーバーに一部の艦隊を集めつつ欺瞞行動を行いつつ南太平洋へと戦力を集中し、奇襲的にフィジー諸島へと侵攻しようとした。この作戦は、日本がフィジー諸島を占領した頃からアメリカ軍で研究され、ある程度の準備も行われていたため、早期に作戦が発動できた。
 しかし日本軍も同様にサモア諸島侵攻を企て、開戦と共に準備を始めて、大規模な艦隊と侵攻部隊を用意しようとしていた。そして双方共に開戦前から準備を始めていたため、同時期に両者の侵攻スケジュールが重なるという、戦争においてありがちな状況が発生する。
 なお、相手よりも大きな戦力を揃えたのは、当然と言うべきか日本軍の方だった。
 これは、単に使用できる艦艇が多いだけでなく、アメリカ軍が既にサモア諸島に旧式戦艦4隻を配備しているため、確実に戦艦同士の戦闘が発生すると予測していたためだった。
 一方のアメリカ海軍は、日本軍潜水艦によって戦艦《ワシントン》と《コロラド》が損傷修理中だった。空母も《レキシントン》が沈められ、《サラトガ》が大破していた。《レキシントン》は、艦内に充満した気化したガソリンが誘爆して短時間で沈んだため、犠牲者も非常に多かった。アメリカ海軍全体の潜水艦による損害が多かったのは、イギリス海軍同様に準備を整え対策を取る前に敵の攻撃が殺到したからだ。この点日本海軍は、既に弱りつつあったイギリスが相手だったので幸運だったと言えるだろう。
 またシアトルには、日本軍の牽制と戦力吸引を目的に戦艦《ウェストヴァージニア》《メリーランド》《カリフォルニア》《テネシー》の戦艦4隻を中心とする艦隊が置かれ、さらにアラスカ各地とアリューシャン列島東部のダッチハーバーには、航空隊が大幅に増強された。潜水艦の活動も活性化した。
 このためフィジー作戦に従事する艦艇は、新鋭戦艦の《サウスダコタ》《インディアナ》《アラバマ》《マサチューセッツ》《ノースカロライナ》と空母《エンタープライズ》《ホーネット》《ヨークタウン》が中核となる。《ヨークタウン》は、開戦時に潜水艦の雷撃で失われた《レキシントン》の穴埋めで急ぎ太平洋に回されたものだった。また従来からサモアに駐留している旧式戦艦の《ネヴァダ》《オクラホマ》《ペンシルヴァニア》《アリゾナ》も、侵攻時には攻略船団の護衛と上陸支援で出撃する予定となっていた。
 これに重巡6隻、軽巡2隻など多数の艦艇が、艦隊と2個師団を乗せた約70隻の船団を守ることになる。この中には、自由オーストラリア海軍も含まれていた。

 一方日本海軍は、南太平洋に順次基地航空隊の進出を実施。この点既に戦争を行っている有利を活かしていた。しかもフィジーとサモアの最短距離は1000キロ以下なので、中型以上の爆撃機なら最大積載量でも爆撃半径内だった。場合によっては、小型戦闘機ですら往復できる。このためアメリカ軍は、自らの参戦時にフィジー爆撃を行ってもいる。しかし多くの戦闘機の航続距離では往復と戦闘をこなせる距離ではないため、多数の航空母艦が動員される事になる。幸い当時の日本海軍には、非常に豊富な航空母艦が存在していた。インド洋と日本近海にある程度の戦力を置いても、攻略に十分な数が揃えられた。
 そして日本海軍は、第八艦隊と第三機動部隊、第四機動部隊を新たに発足させ、第一艦隊、第四機動部隊を本土に留め置いて、第八艦隊、第一機動部隊、第三機動部隊と海上護衛艦隊が護衛する3個師団を乗せた攻略船団を中心とした艦隊をサモア侵攻へと振り向ける。
 陣容は以下のようになる。

  第一航空艦隊
 第一機動部隊(艦載機:約300機)
CV:《赤城》《加賀》
CV:《翔鶴》《瑞鶴》
CG:2 CL:3 DD:14

 第三機動部隊(艦載機:約360機)
CV:《大鳳》《海鳳》《瑞鳳》《祥鳳》
CG:2 CL:2 DD:16

 第八艦隊:
BB:《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》
SC:《剣》《黒姫》
CG:4 CL:2 DD:12

 南遣艦隊:在シドニー
BB:《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》
CG:1 CL:3 DD:11 DE:9

 サモア攻略船団:(艦載機:約130機)(予定)
CVE:5 CL:2 DD:8 DE:16 他多数
輸送船舶、揚陸艦艇など約100隻。
甲師団:1、乙師団:1、独立戦車旅団:1、海兵旅団:1

 見て判るとおり、日本軍の方が圧倒的優勢だった。特に制空権を得るための母艦航空戦力が圧倒的だった。サモアには開戦後の増援を含めて300機の機体がいると日本軍では考えられていたが、十分に圧倒できる戦力が投じられていた事になる。アメリカ軍の空母部隊に連動して、さらなる空母部隊の投入も急がれていた。戦艦も、アメリカ軍が最新鋭戦艦を投じてくる可能性を考慮して、最も強力な第一戦隊が第八艦隊に臨時編入されており、日本海軍が自らの犠牲を最小限にするために大兵力を投入していたことを伺わせる。《大和級》から編成される第一戦隊の投入には反対も多かったが、土方長官の鶴の一声で決したものだった。
 そして日本軍では、サモア沖合での大規模な戦闘をむしろ望んでおり、多くの戦力を投入する準備を進めていた。
 だが、先に動いたのはアメリカ軍だった。

 1942年9月20日、日本軍は友軍潜水艦の情報によってアメリカ軍の大艦隊がタヒチ方面からサモア諸島を目指しているのを知る。
 この時日本軍は、10月初旬の作戦発動を目指して南太平洋のラバウルに戦力を集めつつあり、陸軍部隊を乗せた船団は中部太平洋で上陸作戦の訓練と最後の調整を行っているところだった。またアメリカ軍がサモア近辺に多くの戦力を集めつつある情報はつかんでいたが、サモアの防衛のためだと考えていた。
 そして最初は、アメリカ軍の動きはサモアへの大規模な増援だと判断して、作戦の延期と見直しと戦力の再構築のための準備に入っていた。また、万が一の事態を想定し、フィジー諸島に対する防空戦闘機隊の増強も実施された。陸軍の防御施設強化も、住民の疎開に平行して急ぎ足で実施された。
 これに対して、秘密裏に行動していると信じていたアメリカ軍は、9月24日にフィジー諸島に襲来。戦闘初日に、偵察機の報告によって既に臨戦態勢にあった日本軍防空戦闘機隊との間に、熾烈な制空権獲得競争を開始する。
 当時フィジー諸島には、約200機の日本海軍機が駐留していた。うち半数が各種戦闘機で、特に局地戦闘機と呼ばれる重戦闘機が多数配備されていた。他は重爆撃機2個大隊、飛行艇1個大隊など、偵察と対潜哨戒、遠距離爆撃のための機体ばかりだった。
 そして侵攻したアメリカ海軍艦載機との戦闘に入ったのだが、日本側が性能と戦術、そして戦訓の差で圧倒した。
 日本側が既に電探(レーダー)と無線を活用した航空管制を実用の域まで持ってきていたし、マイクロ波レーダーにより相手高度すら把握できるようになっていた。また洋上には電探を搭載した哨戒機、重爆撃機が扇状に二重の偵察網を張っていたため、多少相手が進撃路を迂回したところで、アメリカ海軍の大艦隊を事前に捕捉する事は容易だった。アメリカ側も侵攻前日には察知されるだろうと考えていたが、日本側の発見は予測よりも早い侵攻2日前の事だった。巨大な飛行艇は電探で相手を完全に捉え、迎撃に出てきた戦闘機を何とか振り切って第一報をもたらしていた。付近に展開していた潜水艦も続々と集まった。
 この時点で作戦を中止するべきだという意見が、アメリカ側の各所で議論された。しかし日本側は、アメリカ軍の侵攻場所が特定できないため、ニューヘブリデスやニューカレドニア島などの防衛準備を行わねばならず、この事をアメリカ軍も掴んでいた。そしてアメリカ軍内では、被発見の一日の誤差で作戦を遅延できないという判断が下る。
 だが日本側は、さらに数日前の20日に南太平洋での米軍の増援または侵攻を察知していたので、日本軍の迎撃準備と迎撃体制は、アメリカ軍が想定していたよりも分厚くなっていた。
 また侵攻初日の制空権獲得競争では、アメリカ軍艦載機の「グラマン F4F ワイルドキャット」に対して「三菱 九九式艦戦」の改良型と「新明和 紫電」は圧倒的な戦闘力差を見せつけた。両機の存在は既にアメリカ軍も知っていたが、場合によっては全力を投入できる日本側に対して、空母というハードを使うアメリカ軍は、船団及び艦隊の護衛もあるため、戦力密度での差による不利を強いられた。
 辛うじてアメリカ側が戦闘を有利に運べたのは、苦労してサモアに運び込んだ「B-17F」2個大隊が戦闘に加入して、フィジー各所の日本軍基地を爆撃したおかげだった。「B-17F」は防御力を大幅に増した機体のため、迎撃戦闘機としても優秀な機体だった「紫電」でも、慣れない相手に攻めあぐね防御砲火によってかなりの損害を受けるほどだった。

 なおアメリカ軍が上陸したのは、フィジー本島といえる丸い形のヴィティレヴ島ではなく、東側にあるヴァヌアレヴ島だった。フィジー諸島は、諸島中心の二つの島はどちらも100キロを越える幅を持つ島で、南東部には無数の小さな島々と珊瑚礁が広がり、コロ海という内海すら有するかなりの規模の諸島だった。原住民とインド系移民を中心に、総人口も50万人以上いた。
 当時日本軍は、フィジー全体で陸軍1個師団と1個海兵連隊の戦力を防衛任務に投じ、中でも西側のヴィティレヴ島に主力部隊を置いていたため、ヴァヌアレヴ島が比較的手薄だったからだ。フィジー全体での防御陣地構築や要塞化もヴィティレヴ島中心に進んでいたし、航空隊の主力もヴィティレヴ島にある中心都市のスバにあった。しかし、本格的な大規模侵攻を受けた場合、1個師団程度で全てを守ることは難しかった。この時の日本軍は、防衛よりも侵攻を考えていた何よりの証拠と言えるだろう。
 かくして、何とかヴァヌアレヴ島を中心とした北東部の一時的制空権を確保したアメリカ軍は、上陸作戦を決行して橋頭堡を築く事に成功する。中心都市にして日本軍最大の拠点となっているスバから、約200キロメートル離れた場所だった。
 だが制空権は絶対ではなく、日本側はヴィティレヴ島の基地から夜間爆撃まで行ってアメリカ軍に対する攻撃を実施した。しかも日本軍の反撃は、まだ始まったばかりだった。
 既にニューヘブリデス諸島まで進出していた日本海軍・第八艦隊は、フィジーへの米軍襲来の報告を受けると緊急出撃を実施。アメリカ軍の哨戒網に捕捉されることなく、26日深夜にフィジー諸島北東部へと至る。米軍の上陸したヴィティレヴ島の橋頭堡は、すぐ先だった。
 「第一次フィジー沖海戦」もしくは「コロ海海戦」と呼ばれる戦闘は、アメリカ軍が何とか橋頭堡の拡大を実施している時に起きる。この時アメリカ軍は、空母部隊は一時沖合に避難していた。在フィジー日本軍戦闘機との戦闘で戦闘機隊の約半数が失われたため、消耗と損害を恐れた艦隊司令部が戦闘空域からの離脱を計ったためだ。このため周辺海域の制海権維持は、水上打撃艦隊に委ねられていた。
 艦隊の中核は、新鋭戦艦群と巡洋艦。巡洋艦の中には、日本に降伏する前に脱出した自由オーストラリア海軍の巡洋艦の姿もあった。
 新鋭戦艦《サウスダコタ》《インディアナ》《アラバマ》《マサチューセッツ》《ノースカロライナ》、旧式戦艦《ネヴァダ》《オクラホマ》《ペンシルヴァニア》《アリゾナ》、重巡洋艦《ヴィンセンス》《アストリア》《クインシー》《シカゴ》《キャンベラ(豪)》《オーストラリア(豪)》軽巡洋艦《サン・ファン》《ホバート(豪)》、駆逐艦8隻という大戦力が、フィジーの内海であるコロ海の東西それぞれの側で警戒配置についていた。日本軍航空機の妨害のため、まだ上陸作戦は途中であり、動くことができなかったからだ。だが、これだけの大戦力が展開していれば日本軍も不用意に攻撃してこない筈だ、という油断が連合軍側には存在した。
 そしてそこに、第八艦隊が北方から突き上げるように突進する。
 第八艦隊は、もともとは南太平洋のサモアを牽制するために設けられた臨時の艦隊で、急ぎ分派された主力艦艇と駆逐艦以外は、それまであまり重要な任務をあてがわれていなかった巡洋艦が中心の、どちらかといえば寄せ集めの艦隊だった。
 具体的に名を挙げると、戦艦《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》、超甲種巡洋艦《剣》《黒姫》、重巡洋艦《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》、軽巡洋艦《天龍》《夕張》、駆逐艦8隻となる。艦隊司令官は、猛将としても知られる三川軍一提督。

 日本側の第一撃は、完全な奇襲となった。
 外側を警戒していたアメリカ海軍の駆逐艦は、まだレーダー及びレーダーの逆探知装置を装備していなかった事もあり、日本艦隊が完全な灯火管制をしながら2列に分かれて突撃していくのを完全に見落としてしまう。
 そして双方の相対距離が距離二万メートルになった時点で、既に展開していた日本軍の水上偵察機が照明弾を突如投下。距離1万8000メートルで、日本艦隊は一斉に砲撃を開始する。対するは、アメリカ海軍が就役させたばかりの新鋭条約型戦艦5隻。
 日本側は、既にマイクロ波電探も装備していたため敵艦隊を十分捕捉しており、照明弾と観測機による効果もあって戦闘開始初期から高い命中率を発揮した。砲撃は《大和級》戦艦がそれぞれが1隻ずつを狙い、超甲種巡洋艦2隻が最後尾の戦艦を狙った。また巡洋艦は突撃を続けて、相手巡洋艦への攻撃を開始する。
 そして砲撃戦そのものは、主導権を握りなおかつ圧倒的な戦闘力を持つ第一戦隊を投じた日本艦隊優位で動き続けた。精神的、物理的に不意を打たれたアメリカ艦隊は、最初から消極的な防戦一方だった。砲撃戦開始までに、各艦はボイラーの圧力すら臨界にまで上げられていなかったほどだ。
 当然ながら、アメリカ軍艦艇が一方的に叩かれた。
 最初に大破したのは、アメリカ軍の主力で最後尾を航行していた戦艦《ノースカロライナ》だった。同艦は、2隻の超甲種巡洋艦が15秒間隔で矢継ぎ早に繰り出す14インチ砲弾を比較的近距離から大量に被弾し、反撃もままならないまま戦闘開始12分で完全に沈黙、大破してしまう。早くに艦橋を破壊されて命令系統と統一射撃能力を失ったため反撃もままならず、その後漂流を続けてフィジー内海であるコロ海内で自沈処分とされている。しかし浅瀬だったため完全に沈没せず、甲板を波が洗う座礁したような姿で沈んだ。その気になれば、サルベージも可能なほどだった。
 また戦艦部隊の戦闘から若干遅れて、アメリカ軍の巡洋艦群も奇襲による総攻撃を受けた。相手の事は確認して戦闘態勢に移行していたのだが、3隻の重巡洋艦が初手の雷撃で相次いで被弾、損傷した。航跡が見えにくく速度の速い酸素魚雷の面目躍如だった。インド洋では、イギリス軍艦艇が何度も苦汁をなめているが、アメリカ軍は初めて体験する事だった。
 そして《大和級》戦艦の砲撃を受けた《サウスダコタ級》戦艦4隻だが、大口径砲で撃ち合うには近い距離から46センチ砲弾を受け、短時間のうちに次々に戦闘力を奪われていった。《サウスダコタ級》戦艦は、アメリカ海軍伝統の重防御で攻撃力も高い戦艦で、条約型戦艦としては最小サイズながら極めて完成度の高い艦艇だと考えられている。しかし船体が小さすぎるため余剰浮力に余裕がないなど、通常なら無視できる程度の欠点も見られる。そしてこの時は、何より相手が悪かった。
 基準排水量6万5000トン、45口径46センチ砲3連装3基9門を装備する、自らの姿を二周りも大きくした巨大戦艦が相手だった。世界的に見ても破格の規模で、この時点では無敵という言葉を冠しても構わないほどの戦闘力を有していた。
 しかも主砲発射速度も最短で30秒に1発と、巨弾を打ち出すにしては非常に速く、対艦戦闘に勝利する事を突き詰めた建造コンセプトを持つ艦の防御力も極めて強固だった。主防御区画ならば、距離2万メートル以下でも16インチ砲弾を弾くことができた。実際、主砲塔、舷側装甲帯に命中した《サウスダコタ級》戦艦の16インチ砲弾を、何発も弾き返している。アメリカ側の記録にも残されているように、文字通りのモンスター(怪物)だった。
 対して《サウスダコタ級》戦艦は、距離1万8000メートルから1万6000メートルで飛来した46センチ砲弾に全く耐えられなかった。戦艦は自らの主砲に対する対応防御が基本なので、当たり前と言えば当たり前であり、奇襲に近い強襲効果も相まって基礎戦闘力の違いが如実に現れた戦闘となった。
 戦闘は約30分で終了し、5隻いたアメリカ軍戦艦はどれも大破するか既に沈んでいた。酷い艦になると、《インディアナ》のように弾薬庫に命中した砲弾で誘爆を起こして短時間で爆沈している。アメリカ艦隊も不利と分かった時点で後退しようとしたのだが、その行為は陣形と進路の変更による砲撃戦の一時中断と、若干の戦闘時間の延長をもたらしたに過ぎなかった。しかも一部の艦艇は、混乱のスキを突かれて駆逐艦から雷撃を受けている。
 連合軍側の巡洋艦群も、初期の段階で雷撃を受けて大損害を受けたところに、後半の戦いでは超甲種巡洋艦も加わった砲撃で散々に撃破されていた。

 そして、敵をあらかた撃破した日本艦隊が、次に備えて隊列を整え直そうとしている時、東側で警戒配置に付いていた連合軍の艦艇と、輸送船団の近くにいた旧式戦艦群が救援に現れる。ただし時期は既に逸しており、日本艦隊を撃滅するためと言うよりは船団を守るための戦闘に入ろうとしていたと言えるだろう。実際、艦隊には悲壮感が漂っていたし、悲観的考えはほぼそのまま現実によって肯定されることになる。
 そして強引な2連戦を求められた日本艦隊だが、その時別働隊がフィジーの二つの大きな島の間にあるヴァトゥイラ海峡を突入してくる。旧式戦艦《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》、重巡《鳥海》を中核とする、南遣艦隊の姿だった。
 南遣艦隊は、第八艦隊と敵を挟み撃ちするつもりで海峡に突入してきたのだが、その敵は電探の表示板の上で次々に意味のない光点になるか、動きを止めるか、または消えていった。このため次の獲物へと、第八艦隊と共に突撃することになる。
 戦闘初期は、互いの位置の関係から旧式戦艦4隻同士の戦いとなり、マレー半島沖と同様にほぼ互角の戦いが続いた。1910年代にお互いライバルとして建造されたのだから、当然と言えば当然の状況だった。しかし日本側の方がやや有利だった。就役を遅らせて水平防御を増している上に、1930年代に大規模な近代改装が施されているからだ。電探の装備率でも日本側が上回っているし、乗組員が実戦を何度も経ているという違いもあった。水上偵察機と照明弾という差もあった。
 だが、砲撃力や防御力など基礎戦闘力に大きな違いがないので、通常なら長々とした砲撃戦を行わなくてはならなかっただろう。そうなれば、艦艇としての基本的な完成度が低く、防御力が不足する日本側の旧式戦艦が不利になったかもしれない。しかし、その横合いから、世界最強を実証したばかりの日本海軍第八艦隊が突撃を開始。戦闘加入から10分と経たずに、何とか船団の脱出時間を稼ごうとするアメリカ軍の艦列を無茶苦茶にしてしまう。旧式戦艦では、46センチ砲弾に耐えようもなかった。ここでも一発の46センチ砲弾で轟沈する戦艦が出た。
 その後は、数を増した日本側の一方的戦闘となった。旧式戦艦では速力の問題から逃げることも出来ないし、上陸船団が後ろにいるため逃げることも許されなかった。敵の進路を逸らして、僅かに時間を稼ぐのが精一杯だった。
 さらに約45分間の戦闘で、戦場を離脱した艦艇を除いてアメリカ艦隊は壊滅。アメリカ海軍の戦艦は全て戦闘力を失い、破壊されるか沈められた。運のいいもので、浜辺への乗り上げだった。そしてさらに約一時間後には、ヴァヌアレヴ島の海岸部にいて何とか逃げ出そうとしていた輸送船団もほぼ残らず沈められ、海岸に陸揚げされた物資と逃げ損ねた兵士達も、戦艦の主砲により吹き飛ばされた。
 連合軍にとっては、相手戦力と積極性を完全に見誤ったが故の悲劇だった。

 翌朝になると、フィジーに着陸する予定で飛来した日本軍の航空機多数が多数到着。そして、周辺海域を含めて取りこぼしを隈無く沈めていった。しかも日本海軍の強力な空母機動部隊がラバウルを出撃したという報告が、アメリカ軍に舞い込んだ。このためアメリカ軍に出来ることはなく、空母3隻を中核とする艦隊は撤退する他の艦船を支援しつつサモアに引き下がるより他なかった。
 しかもそのサモアには、一週間後の10月2日に日本海軍の2個空母機動部隊が襲来。600機以上の艦載機を有する圧倒的戦力で、サモア諸島の基地に二日間かけて反復攻撃を実施。基地施設の殆どを壊滅させると共に、現地の航空隊も空中待避を含めて三分の二を撃破した。
 なおこの戦いでは、日本海軍は新型艦載機を投入していた。
 「二式艦戦」とも言われる「烈風」の名を与えられた新型の艦上戦闘機で、「九九式艦上戦闘機」の後継機にあたるれっきとした艦上機だった。最大の特徴は、他の列強に先駆けて2000馬力級空冷エンジンを搭載している点だった。三菱重工が開発機体のため、三菱の「木星」発動機を搭載したかなり大柄な機体だったが、事実上世界に先駆けて配備された2000馬力級戦闘機の能力は圧倒的だった。第一航空戦隊という最精鋭部隊が使用していたこともあって、この時のサモアの防空戦闘機隊は迎撃するどころか逃げ回ることしか出来なかった。
 そして新型戦闘機の存在に、アメリカ軍は衝撃を受けた。
 イギリスからの情報で、既存の日本機なら在来機でも何とかなるし、新型機なら十分圧倒できると考えていたところに、日本軍の新型機だったからだ。特に艦載機の不利は深刻で、早急にグラマン社の試作機の実戦配備とチャンス・ヴォート社の「F-4U コルセア」の改良を急がせる事になる。
 遅れて参戦したばかりのアメリカは、何から何まで後手後手だった。

 かくして、アメリカ軍による冒険は失敗したが、置きみやげもあった。
 フィジー諸島のヴァヌアレヴ島に上陸した2個師団の生き残りだ。上陸したのは第1海兵師団と第24歩兵師団で、本来なら2個戦車大隊と3000両以上の車両を持つ大部隊だった。先遣隊として上陸したため戦闘部隊ばかりだったが、兵士の数も2万5000名を越えていた。しかし一夜の戦闘で、輸送船と海岸部にいた3000名ほどが戦死。2000名が戦闘続行不可能なほど負傷していた。また上陸した物資のほとんどが吹き飛ばされ、重装備のほとんども失っていた。
 また70隻の輸送船、揚陸艦のうち、フィジーに止まっていた約八割の艦船のほぼ全てが、フィジーかその周辺の海域で沈められた。フィジー脱出に成功した艦船の多くも、その後の空襲で失われたのだった。しかも戦艦9隻、重巡洋艦6隻を中心とした護衛の水上打撃艦隊も、文字通りの全滅状態だった。当然ながら、人的被害も甚大だ。輸送船もただの物資運搬船ではなく、半数は揚陸作戦用の兵員輸送船などのため船員の数も多く、その分犠牲も増えた。しかも戦死していなくても、その多くは日本軍の捕虜となるか、島に上陸した部隊に無理矢理合流するしかなかった。
 失われた艦船の乗組員数は合わせて約3万名になり、その6割以上が行方不明、つまり戦死者だった。何とか生き延びた者も半数は負傷者で、残りも重油の海を無理矢理泳がされて消耗していた。そして生き延びた多くは、フィジー諸島のどこかに上陸して助かったものだった。救命ボートなどで脱出してその後アメリカ軍に救出されたのは、ごく少数派だった。
 しかも日本艦隊の一部は、フィジー西部を根城として止まり、アメリカへの嫌がらせを継続しているため、救援作業は事実上出来ない状態だった。

 かくして参戦初期のアメリカ軍による野心的作戦は完全に失敗し、アメリカは多くの負担を抱えたまま初戦の戦いを続けなければいけなかった。

●フェイズ38「南太平洋の死闘(1)」