■フェイズ41「窮乏するイギリス」

 参戦後のアメリカ軍は、1943年始めにはイギリス本土からドイツに対する大規模で継続的な都市爆撃を計画していた。しかし戦争は、アメリカの初期の想定から大きく離れ、思わぬ方向へと進いんでいく。アメリカ政府が求めた、開戦初期の分かりやすい大きな戦果を求めて軍が冒険を行い、南太平洋で日本軍との間に予期せぬ消耗戦になったからだ。
 しかも戦術、戦略双方で日本軍に惨敗を喫し、アメリカ軍は日本軍に数倍どころか十倍以上の犠牲と損害を出すことになった。海外での戦争を支える筈の海軍と海運は、一時的に壊滅状態だった。
 通商破壊戦を含めた戦死者の数は、開戦から半年で12万人に達していた。輸送船1隻当たり30人の戦死者が出るとしても、1500隻も沈めばその数は万の単位となる。航空機についても、海で落とされた機体、敵地で墜落した機体が多いため、たとえ脱出できても良くて捕虜、悪ければ鮫の餌だった。敵地や危険地帯での墜落が多いため、友軍に救出される可能性はかなり低い。その上戦域が広い南太平洋では重爆撃機を多用せざるを得ず、1機当たりの人員の損害はなお多くなった。
 船も戦艦や空母が大爆発して一瞬で沈めば、それだけで1000名単位の戦死者が出てしまう。兵員を輸送中の揚陸艦艇が攻撃を受けても同様だ。最新鋭の大型空母でそのような悲劇が起きれば、戦死者の数は3000名にもなってしまう可能性も存在する。こうした人的損害は、少なくとも戦前のアメリカ人が予想していた損害ではなかった。多くのアメリカ人は、強大だと言われるドイツ軍を蹴散らすための陸戦で多くの戦死者が出ることは予測していたが、まだ「何もしていない」段階での損害については、「たいした事はない」と考えていた。前の戦争がそうだったからだ。だが損害は多発し、しかも損害の多くはドイツ軍ではなく日本軍との戦いで出ていた。
 そして日本とアメリカが激しい戦争していることも、多くのアメリカ人にとっては違和感のある状態だった。アメリカはナチスの暴虐から世界を守るために立ち上がったのであり、日本など最初から眼中になかった。世界の端にある有色人種の国など、ドイツを倒してしまえば勝手に白旗を振ってくるとすら考えていた。しかし日本軍はアメリカ軍を次々とうち破り、ついにはパナマ運河まで破壊し、アメリカ本土である西海岸すら爆撃した。
 日本人に対する敵愾心は、そうして受けた損害の中で高まりを見せたし、日本人が有色人種であるという点でも敵愾心を高めやすい相手ではあった。しかし釈然としないものがあった。
 それが、為す術もなくパナマ運河を破壊された時のアメリカ人一般の感情だった。
 ただ日本に対する敵意と屈辱感は、パナマ運河破壊で大きく高まった。パナマ運河が、準アメリカ領と言える場所である事、パナマで勤務していた多くの民間人が犠牲になった事が、アメリカ人の戦意をかき立てた。それ以上に、アメリカ西海岸というアメリカ本土が攻撃を受けたことの衝撃と屈辱は大きかった。
 だが逆に、大きな怯えも感じていた。
 日本人は、あえて最も遠い場所、最も重要な場所、最も攻撃の難しい場所をわざわざ徹底的に破壊したのだ。そしてその上で、さらにアメリカ西海岸の重要拠点を破壊していた。
 実際、アメリカ海軍は、パナマ運河破壊後さらに西海岸へと攻撃した日本艦隊を、追撃出来るのにも関わらず、ほとんどまともに追撃しなかった。いや、出来なかった。太平洋艦隊は急ぎ洋上に出撃したが、日本艦隊の追撃というアメリカ政府の表向きの発表とは異なり、出撃自体は港内で攻撃を受けないための予防措置に近かった。それを現すように、洋上に出たアメリカ太平洋艦隊は沿岸近くを行動し、その上空には各基地から飛来した無数の航空機が舞っていた。
 それでも一部の潜水艦が日本艦隊を追跡はしたが、接触によって何隻も沈められると、それすらほとんど行わなくなった。
 そして一方では、日本人が何を考えているか理解できないと言う、恐怖にも似た感情も高まりを見せたので、日本軍のパナマ破壊と西海岸攻撃は複雑ながらもアメリカ人の日本に対する敵意を昂揚させる事になる。
 しかし今は、ヨーロッパでの戦いを何とかしなければならなかった。でなければ、イギリスがナチスドイツに押しつぶされそうだったからだ。

 1942年晩秋から以後半年間は、連合軍が最も苦況に立った時期だった。
 先にも紹介したように、とにかく船舶が不足していた。1943年始めの船舶量は、イギリスが1200万トン、アメリカに至っては600万トンにまで減っていた。1943年上半期の平均船舶建造量は、月平均でイギリスが8万トン、アメリカが50万トン強。合わせて約60万トン。下半期にはアメリカの数字がどんどん伸び始めるが、枢軸側の攻撃がなくても1300万トンの船舶「しか」1943年内には受け取れない事を示していた。それでは、英米双方の開戦前の船舶量にすら足りていなかった。
 また、1943年の1年間に枢軸国が連合国に与えた商船の損害の方は、下半期になると多数の潜水艦を失いながらも健闘し、総量1100万トンを沈めた。1944年になると枢軸側の戦果は激減するが、1943年のアメリカはまともに戦争させてもらえていなかった事を、船舶の損害量が示している。
 ナチスドイツの支配から逃げ出したヨーロッパ諸国の船舶のかなりも使える状況ではあるが、最大量を誇るノルウェーの主な船は、経済効率を重視した低速タンカーばかり。通常物資の輸送には使えなかった。ノルウェー同様に多くの船を本国から脱出させていた自由フランスも、自らの権利や損害に何かとうるさい。
 英米としては、浮かべた分に匹敵する量の船が結果として沈んでいるので、イギリス本土の窮状はほとんど改善しなかった。何しろ1943年だけで、短期間でも浮かんでいる船の三分の一は沈んでいるのだ。
 そしてイギリスは、本土に運び込まれる物資が減った分だけ戦時生産が滞っており、最重要の兵器や船舶ですら達成目標を大きく下回っていた。最優先されている船舶建造ですら、十分な船舶用延圧鋼材やエンジンなど各種部品の供給ができないため、計画の75%程度しか建造できなかった。
 護衛艦艇も不足が続き、イギリス海軍の艦艇は浮かべる側から沈んでいる有様だった。頼みの綱のアメリカで大量の護衛空母、駆逐艦、護衛駆逐艦が就役し始めるのは、早くても1943年中頃からだった。まともに数が揃うのは秋以降となり、乗組員の訓練と熟練度を考えると1944年に入らなければ効果は限定的だった。
 アメリカが戦時生産に入ったからといって、艦艇の建造には準備段階の時点から多くの手間と手順を必要とするからだ。兵器を実戦配備するとなると、さらに訓練などの手間も必要となる。
 1943年初頭頃の僅かな救いは、レンドリース法案が通った辺りから建造が始められた護衛空母の最初のグループが就役し始めた事だった。だがこれも、南太平洋での死闘が始まるとアメリカが悲鳴をあげてしまい、都合12隻建造されたイギリス向けのうち4隻はアメリカ海軍に編入され、そのうち3隻は日本軍に短期間のうちに沈められた。アメリカは、それ以上護衛空母をイギリスから取り上げなかったが、それは南太平洋での戦いが自らの敗北という形で終わったからに過ぎない。
 そしてイギリスに引き渡された8隻の護衛空母も、安泰ではなかった。
 当時のドイツ海軍主力は、1942年冬に入るまではノルウェーに居座って、ソ連に援助物資を送り込む船団を阻止していた。しかし12月にソ連が崩壊してロシアが降伏すると、艦隊は一旦本土へと帰投。整備と補修、バルト海での訓練の後に、再びノルウェーへと進出した。
 この時空母の数も増え、《グラーフ・ツェペリン》以外に軽空母《ザイトリッツ》も加わっていた。大型艦も修理中の多くが戦列に復帰したため、戦力はこの時期のイギリス本国艦隊に匹敵する規模となっていた。
 しかもこの時期の地中海には、日本からドイツに売却された中型空母2隻《アトランティカ》《パシフィッカ》が存在して、3隻目の新造戦艦を迎え入れたばかりのイタリア海軍と共に行動していた。そしてそのイタリア海軍も、ペルシャからの燃料で息を吹き返し、ドイツや日本からの技術供与で艦艇の戦闘力を大幅に向上させていた。イタリア海軍自身も枢軸側優位の戦況を前に腹をくくり、かなり戦闘に前向きとなっていた。
 そして枢軸国側の次の目標は、ジブラルタルだった。
 
 言うまでもないが、ジブラルタル海峡は地中海の出入り口となっている海峡だ。両岸のジブラルタルとセウタはイギリス領で、常時艦隊が駐留していた。1942年半ば以降は航空隊もかなりの数が進出するようになっていた。
 中東まで進撃したロンメル将軍が、今度は西に攻め掛かる可能性があったからだ。幸いその年のロンメル将軍は、中東からロシアのコーカサス方面に執心していたため事なきを得たが、ロシア人が白旗を振ってしまうと状況は大きく変化する。それ以前に、ロシア戦線でのドイツの優勢が確実となると、秋頃から地中海での動きも活発化していた。主に功名心に駆られたイタリアのムッソリーニの命令によるものだったが、新たに参戦したアメリカの動向が気になるドイツとしても、何らかの手を打っておきたかったが故の行動でもあった。
 そして中東が陥落する前後から、ドイツはヴィシー・フランス政府と軍との交渉を進めて、北アフリカ北西部の進駐許可と協力を取り付けることに成功する。ヴィシー・フランスにほとんど拒否権はなかったのだが、物事を円滑に運べる利点は大きかった。
 ドイツ軍のアルジェ進駐は1942年11月8日に開始され、かなりの航空機はジブラルタル海峡を射程圏内に捉えた。アルジェリアの拠点オランからジブラルタルまでは直線距離で500キロメートルもなかった。単に往復だけなら、増槽付きの「Bf109G」にも出来ることだった。「Fw190A」なら十分作戦圏内だ。このため1942年晩秋くらいからは、ジブラルタルとオランの間で英独間の航空戦が展開されるようになる。
 しかもここで、オランにいた現地フランス艦隊が、イギリスと戦う場合に限るという条件で枢軸軍への参加を表明する。1940年7月の「メルセルケビルの悲劇」という、イギリス海軍によるオラン近辺での攻撃を酷く恨んでいるフランス人が、遂に枢軸側に立つことになったのだ。
 このためイギリス海軍は、ジブラルタルのH部隊を増強するか撤退させるかの選択肢を迫られていた。既にジブラルタルが空襲すら受けている事を考えると、修理施設に事欠くジブラルタルに艦隊を置いておくのは危険だった。狭いジブラルタルでは逃げ場もないし、防空体制も有力な敵が相手となると十分とはいえない。
 
 そしてロシア人との戦いにケリが付くと、ドイツ人は順次地中海へと戻ってきた。特にドイツ空軍の第三航空艦隊の再配置は早く、シチリア島やチュニジア、さらにアルジェリア各地に進出した。ドイツ人の当面の目的は、ジブラルタルではなくマルタ島だった。
 既に沈黙状態のマルタ島だったが、とにかくまだイギリス軍が頑張っていたので、この「棘」を取り除くのが地中海制覇を目指す枢軸側の新たな出発点だった。
 そしてマルタ島は脆かった。イギリス軍の制空権、制海権は既になく、増援どころか補給すらインドでの戦いが本格化してからまともに送れていないため、抵抗力が大きく低下していたからだ。
 1943年1月半ば、空挺師団と海上からの強襲によりマルタ島は呆気なく陥落。この戦闘ではイタリア海軍も大挙作戦参加しているため、クレタの悲劇のような事も起きなかった。マルタは、まるで大海の小石のように砕け散るより他無かった。
 この間、イギリス海軍にできる事はなかった。無理を押して本国艦隊から引き抜いた戦艦をH部隊に合流させたが、イタリア海軍は新鋭戦艦の数を3隻に増やしてサルディニア島の沖合に展開させていたからだ。しかもオランのフランス艦隊も一部艦艇が活動しており、もはやジブラルタルがイギリス海軍の安住の地でない事は明らかだった。
 幸い冬の北大西洋で活動しようと言うほどドイツ海軍も酔狂ではなかったが、アメリカ海軍もアテにならない以上、これ以上危険を冒すわけにはいかなかった。
 そしてジブラルタルの危険度は、マルタ島陥落後に一気に高まった。ドイツ空軍の第三航空艦隊が、十分な補給を受けてオラン方面に集中され、ジブラルタルへの空襲を日常化させたからだ。
 しかもヴィシー・フランス政府とドイツの交渉はさらに進み、モロッコへの枢軸軍の進駐許可も下りていた。噂レベルだが、スペインのフランコ政権が枢軸に参加するという話しまで飛び交っていた。
 イギリス人としては、参戦以来ヨーロッパで何もしていないアメリカ人のせいだという気持ちがあったとも言われているが、実際この頃のアメリカは軍事的にほとんど何も出来ない状態だったので、その優位を枢軸側が利用したに過ぎない。
 ドイツ軍のモロッコ進駐は2月14日に開始され、軍団規模の戦力に陸上から攻められたセウタはほとんど抵抗もできずに陥落。ジブラルタル海峡の半分が枢軸のものとなった。この時点でもスペインは枢軸参加しなかったが、2月中頃からはジブラルタルは空襲を受けるだけの場所に落ちぶれていた。ドイツのモロッコ進駐が決まった時点で、H部隊は遂に英本国に後退。ジブラルタルにいた非戦闘員もこの時一緒に後退した。
 そしてそれからは、ジブラルタルの籠城戦となる。セウタからジブラルタルまでは海峡を挟んで30キロほど離れているため対岸からの砲撃こそ受けなかったが、ドイツ空軍は一日何度もジブラルタルを空襲し、近寄る船を手当たり次第に沈めた。このため現地イギリス軍は、備蓄物資で食いつなぎながら粘れるだけ粘ることにしたが、日に日に高射砲や砲台が破壊され、死傷者の数も増えていった。露出している地上施設はほとんどが破壊され、攻略する必要がないほどとなっていた。
 それでも勝利を求めたドイツは、1943年5月5日に集められるだけの空挺部隊と空軍部隊、イタリア艦隊の艦砲射撃による総攻撃を実施。クレタの戦いのように激しい戦闘となるも、空挺部隊が降りる場所に困るほど狭いジブラルタルでは、イギリス軍による抵抗も限界があった。
 結局一週間の戦闘が続いたが、同年5月12日にジブラルタルは陥落した。
 これによりドイツは、ヨーロッパ大陸の全てを制圧したと言えるだろう。残すはイギリス本国のみだ。
 そして1943年春以後のイギリス本土は、3年前の窮状が再び襲いかかることになる。
 イギリス空軍によるドイツに対する大規模な戦略爆撃は、1943年1月以内に停止状態に追い込まれた。しかしこの時のイギリスには、アメリカという力強い味方がいた。

 イギリスを助太刀するアメリカ軍は、船に乗らねばならない者のうち半数が「海水浴」をしながらやって来ているといわれ、その数字は少なくとも1943年内はかなり真実を突いていた。少し違っているのは、「海水浴」した者のうちの何割かは、水死もしくは凍死という形で戦死している点だ。
 だが「B-17」「B-24」といった大型の重爆撃機は、無着陸で大西洋を横断していた。カナダのニューファンドランド島からブリテン島までは直線距離で3500キロほどのため、そうした兵力の空中移動は日常的に行われていた。機体によっては双発の中型機でも、大西洋を自力で越えることがあった。手紙や重要人物の移動も、航空機で行われていた。船舶を用いた英本土への物資輸送がままならないので、爆弾槽に輸送用の燃料などの貨物を積載した機体もかなりの数に上った。
 このため重爆撃機をイギリス本土に展開させるのは容易な筈だったのだが、南太平洋での予想外の戦闘により多数の機体が投入され、参戦から半年ほどの間は生産された分もほとんどが南太平洋へと向かった。このため1943年においても、イギリス本土に展開したアメリカ軍重爆撃機の数は、部隊としては数えるほどという状態だった。
 しかも燃料や弾薬を積んでブリテン島に向かう船は容易く沈められてしまうため、イギリス本土への物資の備蓄も思うに任せなかった。あっと言う間に船舶建造量で日本を追い抜いたが、それ以上にドイツと日本が沈めて回っていたからだ。
 しかもドイツ海軍は、4月半ばになると再び水上艦隊を大西洋に出撃させていた。これを阻止すべきイギリス本国艦隊には、既に往年の力はなかった。アメリカ海軍は、低速の旧式戦艦しかないため追撃はままならなかったし、日本との次なる消耗戦に備えて船団に張り付かせる以上で戦艦を活用しなかった。
 このため空母と戦艦を組み合わせた二つの部隊を編成したドイツ海軍は、英本国艦隊を翻弄しながら春の出撃だけで二つの大規模船団を血祭りにあげ、護衛していた護衛空母や軽巡洋艦すら始末していた。護衛に付いていたアメリカ海軍最古参の戦艦も、護衛中に大きな損害を受けて長期の修理ドック入りを余儀なくされた。
 この時の戦闘を、それぞれ「グリーンランド沖海戦」、「アイスランド沖海戦」と呼ぶ。ドイツ海軍がアイスランド沖合まで近づけたのは、ドイツ空軍がノルウェーから長距離爆撃機「He177」と日本軍から入手した「98式重攻撃機」で、アイスランドの連合軍を何度も攻撃していたからだった。
 そして頼りとなる筈のアメリカは、4月18日にパナマ運河を日本軍の手で破壊された時の混乱がまだ残っていたため、いっそうの醜態をさらしていた。

 そして5月になるとジブラルタルが陥落。6月には早くもイタリア海軍がジブラルタルに進出し、しかもそこには日本がドイツに売却した中型空母が存在した。ご丁寧に攻撃機も付けた上での売却なため、地中海で訓練していたドイツ軍の新鋭空母はすぐにも活動が可能だった。これにより北大西洋の戦力バランスは、大きく変化する。
 単純に戦艦や空母の数で言えば、戦艦の数はドイツ・イタリアを合わせると9隻。これに枢軸側に付いたフランスの旧式戦艦2隻が、ヴィシー本国やイタリアで整備中だった。対する連合軍は、イギリスが新鋭戦艦4隻と旧式戦艦1隻、巡洋戦艦1隻が戦力の全てだった。他にイギリスは、13.5インチ砲装備の旧式戦艦4隻、旧式巡洋戦艦1隻をアメリカに回航して、石炭・重油混燃機関の丸ごと換装を含む大改装工事を順次行っていたが、それ故に実戦参加には1年以上かかる見込みだった。
 アメリカは、開戦時は旧式戦艦7隻を大西洋に配備していたが、うち有力な3隻を1942年内に太平洋に回してしまったため、残ったのは12インチ砲装備の最も旧式の4隻な上に、どれも速力が遅いためあまり脅威ではなかった。
 空母については、ドイツが各種高速空母4隻、イタリアが低速空母1隻を有している。対するアメリカは、現状でゼロ。中型空母《レンジャー》は、参戦初期の頃にUボートに沈められていた。イギリスは唯一の高速空母となった《ヴィクトリアス》以外に、中型の《ユニコーン》が加わろうとしていた。だが《ユニコーン》は、速力も十分でない上に元々が広大な植民地を持つイギリスらしい航空機整備用の空母だった。連合軍には既に護衛空母が多数いたが、高速貨物船や高速タンカーからの改造とはいえ軍艦としては低速のため、船団護衛以外では上陸作戦の支援任務程度までしか使えなかった。
 そして総合的に判断すると、補助艦艇はともかく主要艦艇での優位は枢軸側が持っていた。しかも通商破壊戦を仕掛けるという点で、戦闘のイニシアチブも枢軸側が握っており、守りに徹しなければいけない連合軍は戦力の不足もあって著しく不利な状態にあった。
 そしてイタリア艦隊がジブラルタルに進出したという事は、北大西洋の危機が一層増したことを現していた。中立国のポルトガルもすっかり怯えてしまったため、連合軍に基地となる大西洋上の島の使用をさせないようになった。5月末からは連合軍でも予測された通り、ドイツ、イタリア艦隊による大規模な水上艦隊の出撃が行われた。しかも、スカパーフローやブリテン島南西部に対するドイツ空軍の大規模な空襲も実施され、イギリスの制海権を脅かし、対潜防衛網をズタズタに引き裂いていた。
 そして北太平洋を荒らし回ったドイツ艦隊のうちの片方が、今度はジブラルタルへと入り、現地を拠点としていた日本製空母と合流。いっそうの脅威となっていた。
 空と水上からの脅威が大幅に減少したため、ドイツ海軍のUボート、新たに大西洋の戦いに参戦したイタリア海軍の潜水艦も活発な活動を行い、マダガスカルに駐留する日本海軍の潜水艦までが大西洋南部での活発な通商破壊戦を実施した。
 なお、航続距離が短く波の荒い海での運用能力の低いイタリア戦艦でも、戦艦は戦艦だった。だから連合軍としては近づいてきたら逃げざるを得ないし、イタリアも自分たちの欠点をある程度知っているので、洋上に補給のタンカーを出すことぐらいはしていた。そしてノルウェーのドイツ艦隊がイギリスの本国艦隊を常に牽制するため、他の場所で暴れる枢軸軍艦艇をどうにかすることができなかった。
 しかも連合軍にとって悲報は続く。
 ソ連との戦いが終わると、ドイツは生産力の再配分を実施して、航空機生産と潜水艦建造を最優先としていた。その上あいている建造施設では、新たな大型水上艦の建造が何隻も始まっており、1946年頃に続々と姿を現すのではないかと見られていた。
 潜水艦の数と稼働率も高まり、小数ながら誘導魚雷という新兵器も登場し、ドイツ空軍機が海で活動することが増えたため、連合軍の制海権が維持できない場所や状況も増えていた。すでにビスケー湾ではまともな対潜水艦活動ができず、ここを根城として船を狙うUボートの活動は一層活発になっていた。
 1943年の春から夏にかけては、イギリス本土の海上交通線が最も危機に瀕していた時期であり、もう一押しあればイギリスの脱落も可能なほどだった。そうした状況が少し変わるのは1943年夏以後になるが、それまでにイギリス本土での戦いも加熱していた。この時期のドイツは、本気でイギリスの戦争脱落を狙っていた事が原因していた。

 1943年春には、少し前までロシアにいたドイツ空軍部隊が休養と再編成、新兵器の受領を完了し、数年ぶりにイギリス軍と向き合った。3個航空艦隊の合わせて2000機の作戦機が、イギリス空軍に対して牙をむく時が再び訪れたのだ。
 とはいえ、1942年は防空に専念することが多かったため、以前よりも戦闘機の比率が増えていた。爆撃機の種類も、ソ連赤軍部隊を吹き飛ばす為の戦術的な各種対地攻撃機が主体で、重爆撃機の数は不足していた。またドイツ空軍は、上層部の無理解もあって重爆撃機の機体開発に恵まれず、他の列強のような満足しうる四発重爆撃機がほとんどなかった。このためロシア戦の最後では、日本で多少余剰となっていた重爆撃機の供与を受け、ドイツ空軍将兵の間でも重爆撃機の効果は体験として培われてはいた。また日本からの機体や図面の購入も行われ、急ぎ研究と開発が進んだ。ロシア人との戦いが終わって後は、日本からの大量購入と供与も受けた。
 そうした状態で、現在ある機材を用いたイギリス本土爆撃は順次強化され、状況としては規模以外の面で1941年春頃に近くなった。これは、イギリスが夜間の大規模爆撃は停止するも、散発的な爆撃や戦闘爆撃機による低空攻撃など出来る限りの攻撃は行っていたためでもあり、両者とも引き下がる気のない激しい空の戦いは続いた為だ。ドイツもイギリスも空軍に出来る限りの努力を傾注し、激しい消耗戦を演じることになる。
 この結果、海上交通線が危機に瀕していたイギリスの戦争遂行能力、備蓄物資、兵器生産の全てが下降線を辿ったため、一時期は秋の英本土上陸という噂がドイツ軍内部で囁かれたほどだった。これがイギリスだけが相手ならば、この噂も実現していたかもしれない。
 しかし相手はイギリスだけではなかった。
 1943年春頃には、初めてアメリカ陸軍航空隊がヨーロッパの爆撃に参加するようになる。
 1個大隊48機の「B-17G」が、イギリス軍と共にフランス沿岸の航空基地を空襲。初めて戦うドイツ軍は、日本軍と同程度に強力な機体であることを体感的に知ることになる。そして、以後アメリカ軍の爆撃は継続して行われ、5月には単独での爆撃も開始する。しかも重爆撃機の防御陣形であるボックスフォーメーションが、苛烈な防空戦を行われるとあまり通用しないことが既に日本軍との戦いで立証されていたため、最初から「P-38」などの援護を伴った爆撃を行う。しかしドイツ空軍は、既に万全ともいえる防空体制をヨーロッパの空で実施していたので、アメリカ軍は出撃のたびに大きな損害を受けた。
 だがドイツ軍にとって、「B-17G」「B-24」という攻撃力の大きな爆撃機の存在は無視できず、今までのイギリス空軍のように自らが不利な場合は敢えて戦闘を挑まないと言うわけにもいかず、防空戦では十分な主導権(イニシアチブ)を得られないと言う事を思い知らされる事になる。
 だが幸い1943年の間は、アメリカの爆撃が大規模化する事はなかった。アメリカ本土では機体の置き場にも困るほど生産は順調だったが、英本土に持ち込んでも長期間全ての機体の腹を満たすだけの燃料と爆弾がなかった。通商破壊戦が有効に機能している証拠であり、初戦での日本との戦いの後遺症をまだ引きずっているからだった。
 しかし1943年後半に入ると、少しばかり状況に変化が訪れる。
 アメリカ東海岸で、続々と戦時計画の護衛艦艇が就役し始めたからだ。それでも1943年内は、それ以後と比べると数は一段と少なく、枢軸側は潜水艦を主軸とする通商破壊戦を継続できるレベルだった。しかも日本軍などは、水上艦隊で圧倒的優位にあるため、強力な護送船団を空母機動部隊で叩きつぶすというような乱暴な戦法を選ぶこともできた。
 そしてドイツは戦時生産がピークを示していた時期のため、300隻ものUボートが投入可能だった。このため1943年下半期は、主に大西洋での海上交通路を巡る戦いは一進一退で続けられることになる。
 だが、まだ戦争の転換点は到来しておらず、アメリカは反攻の為の準備期間の中でもがき続けていた。
 

●フェイズ42「日米戦・第二幕」