■フェイズ42「日米戦・第二幕」

 日本とアメリカの戦いは、水面下の戦いが全般を通して行われた。そして1942年秋からは南太平洋で消耗戦が実施され、準備不足のアメリカは先手を打ったが故に敗北した。その上1943年4月にはパナマ運河が再起不能なまでに破壊されたため、アメリカの海運と物流網は大混乱だった。戦争経済にも大きな影響が出ており、1943年の上半期までは生産高の下方修正が続いた。しかも運河の破壊により、東海岸と西海岸の間を船で運ばねばならない物資や製品について、太平洋側では常に不足していた。
 インド洋のマダガスカルや南太平洋のサモアを拠点とした日本軍潜水艦は、南アメリカ大陸を回ってくる連合軍船舶を狙いうちにして、中には軽空母を伴った空母部隊までが長躯襲撃に参加するため、アメリカの海上交通維持は常に困難を伴っていた。しかも海上戦力では依然として劣勢のため、アメリカ側から反撃なり攻勢に転じることはほとんど不可能だった。
 幸いと言うべきか、日本とアメリカが直接向き合う戦場がほとんどなくなったため戦線は安定していたが、戦力面で勝る日本がアメリカ本土を攻撃していない事が主な故だった。日本海軍主力が不気味に日本本土近辺に集結しているため、アメリカはシアトル近辺に艦隊と戦力を固めたまま、身動き一つ取れない状態が続いていた。
 そしてアメリカの恐れていたより悪い結果として、パナマが破壊され、防備の薄い西海岸南部が襲撃を受ける。
 その次に日本軍が行動を開始するのは1943年7月頃とアメリカでは考えらていたが、それより早くに日本海軍が動いた。

 この時期の日本海軍は、間違いなく世界最強だった。
 アメリカは戦時生産への移行が参戦の関係で遅れた上に、日本海軍を気にして条約型戦艦を多数建造した挙げ句、無理な作戦で無駄に消耗していた。このためこの戦争で重要度が大きく増した大型空母の整備が遅れ、1943年内に4隻、1944年春までにさらに2隻の就役が精一杯だった。自らが参戦したぐらいから、慌てて計画を変更した上で大量建造に着手し、建造中の戦艦2隻を空母に改装することを決めたが、それらが姿を現すのは1945年に入ってからで、現状ではとても間に合わなかった。
 しかもアメリカ海軍は、超大型戦艦の建造計画そのものは日本海軍の影に怯えながら継続したため、大型艦の建造競争で日本に後れをとるという事態に陥っていた。このためアメリカは、有り余る資材を投じて新たに8基もの大型艦用船台を作り始め、ここで建造する空母も1945年に入ると続々と就役する予定だった。1945年以後は、それこそ月産で基準排水量2万7000トンもある《エセックス級》空母が就役する予定だった。
 だが現状では全く足りないため、慌てて先に9隻が決っていた巡洋艦改装の軽空母建造をさらに10隻増やしていた。当然巡洋艦の建造数が減っていたが、もはや多少のアンバランスを気にしている場合ではなかった。現状では、アメリカが不利なのだ。後の侵攻よりも、今の防衛を考えるべきだった。そして海での戦いには、制空権の確保が必要不可欠だった。 
 そしてそうしたアメリカの恐怖を具現化したような存在が、当時の日本海軍だった。

 日本海軍では、1943年春に1939年度計画の20インチ砲搭載型の超大型戦艦2隻を新たに迎え入れ、戦時建造の艦艇も無数に就役、艦隊へと編入されつつあった。短期間のうちにあまりに多数の艦艇が就役するため、海軍は水兵(兵員)の質の低下を酷く気にしていたほどだった。ある程度沈む予定で兵員養成と艦艇の建造を進めていたのに、予想を遙かに下回る損失しかないため、そうしたある種贅沢な悩みを抱けるほどだった。兵部省も、インドでの戦いが終わるが早いか、陸軍から海軍へと人の流れを増やしていた。
 また当時の日本海運は、完全に世界一に躍り出ていた。船舶の建造数は1941年380万トン、1942年490万トン、そして1943年は600万トンという数字を示しそうだった。これも全国で多数の船台や船渠を作っていたお陰で、日本の造船能力は最大650万トンまで拡大される予定だった。これはアメリカの最盛時予測の三分の一に匹敵する。
 船舶保有量も、開戦時1280万トンだったものが1943年上半期が終わった段階で2400万トン近くを示していた。この数字は、第二次世界大戦が始まる前のイギリスの総量を一割以上上回る数字になる。このため、一般船舶でもかなりの人手不足が起きていた。
 日本海軍、特に海上護衛艦隊が殊の外連合軍の通商破壊戦を警戒して戦前から準備して、そのために莫大な投資をしていたとはいえ、イギリス、アメリカの通商破壊戦があまりにもお粗末だったため、日本の予測を遙かに下回る戦果しか得られていなかったのが原因だった。
 イギリスは技術はともかく、年々窮乏が進んだため日本に対する通商破壊どころではなくなり、アメリカは自らの失態(秘密兵器扱いの欠陥魚雷)が原因である事が分かっていた。
 だが、いずれ来るべき時が来るという確固たる予測を立てていた海上護衛艦隊は、連合艦隊からの横やりをかわしつつも、自らの体制造りに余念がなかった。画期的な新兵器である「磁気探知装置」も既に実戦配備され、1943年春には最初の戦果を記録していた。電探搭載の哨戒機はもはや当たり前で、大型航空機用の対潜水艦用爆雷だけでなく、ロケット弾型の投射装置もあった。
 イギリス海軍をまねた前方投射型の小型爆雷散布装置も、順次護衛艦艇に搭載されつつある。日本のものはやや大型で弾を筒に入れたかさばる形状だが、1発当たりの威力が高く深い水深でも十分な効果が得られし、装備する際に束ねる数を調整できる利点があった。
 細かい装備の事はともかく、当時の日本海軍の海上護衛艦隊は、海上護衛組織として世界最大規模の陣容を誇っていた。しかも、「航路帯戦法」と呼ばれる大規模な防御形式を東アジアの海で取っていた。多数の対潜哨戒機を要所に配備し、狭くて浅い海峡には機雷で堰を作り、広い海峡には重厚な布陣の対潜水艦部隊を常に配備して、地形を利用する形で日本が使う海に敵潜水艦を入れないというものだ。この効果は図上演習(シュミレーション)上では絶大で、既に半分以上の完成を見ていた。実戦での結果と戦果も十分な数字を示していた。
 他の地域では、通常の船団方式を中心とした海上護衛体制だったが、護送船団の編成は日常だったし、多くの航路がインド洋にあって連合軍が容易く手が出せないため、北大西洋と違って平穏だった。しかし南アフリカのケープが、連合軍にとってのインド洋攻撃のための出撃拠点となり、この地そのものはインド洋にかなり近いため、アメリカ軍の戦力が充実してからが正念場と考えられていた。
 もっとも、太平洋上のアメリカ軍が日本を攻撃するための潜水艦出撃拠点は、アリューシャン列島東部のダッチハーバーぐらいしかなかった。現地はまるでドイツ海軍のノルウェー沿岸のように強化されつつあったが、それはこの地が直線距離で最も日本本土に近いからだった。防御が厚いのも、日本軍の攻撃が予測されたからだ。何しろカムチャッカ半島は1943年から日本領であり、霧の多いアリューシャン列島の西部は、開戦初期の頃から双方の偵察機や爆撃機が日常的に飛び交う、地味ながら重要な最前線となっていた。
 そしてアメリカの恐怖を具現化した世界最強の艦隊こそが、この時期の日本海軍・連合艦隊だった。
 アメリカとしては、正直1937年の無条約時代が到来した頃は、日本海軍がこれほど強大化するとは考えていなかった。経済学者の一部や経済から軍備を考える一部の例外はいたが、多くは日本の国力や生産力を軽視して、アメリカの経済力、生産力を過信していた。人種差別がそれに輪をかけていた。
 日本軍が次々にイギリス軍を破ってからは認識も多少改まったが、それでもアメリカが後れをとるとはまったく考えていなかった。自らが南太平洋での戦いで蹴散らされ、水面下の戦いで苦戦を強いられ、パナマ運河までが破壊されて、初めて日本軍に対する認識を改めたと言えるだろう。

 なお、1940年末の開戦時、日本海軍は16隻の戦艦と7隻の大型高速空母を有していた。重巡洋艦の数も、列強第三位の20隻の陣容を誇っていた。条約時代の条項を利用し、無条約時代に入ってからも建艦競争で努力した結果だった。アメリカに対する劣勢を確信している日本は、出来る限りの努力を傾けていたのだ。そうしていれば、アメリカが不用意に日本に戦争を仕掛けることはないと考えていたからだ。だがアメリカは、半ば不用意に日本に戦争を吹っかけてきた。
 しかし恐怖心からくる日本海軍の整備状況は、アメリカの予想や一般的な想定を遙かに越えていた。加えて、イギリス軍に対してもアメリカ軍に対しても常に優勢な状況で戦い、大型艦の損失を出すのはほとんどの場合連合軍だった。
 開戦から今までの日本海軍の大型艦艇損失は、実質的には大型空母1隻に過ぎない。常に相手を大きく上回る戦力を投入して有利に戦った結果であり、ランチェスターモデル上では当たり前すぎる結果だった。
 しかし全てが積み上がった結果は、敵から見た場合恐怖に値する状況の現出となった。この頃の主要艦艇を見れば、それが多少なりとも実感できると思う。

 ・日本海軍主要艦艇(1943年6月1日現在)
BB(戦艦):23隻(※実働:18隻)
紀伊級:《紀伊》《尾張》
大和級:《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》
肥前級:《肥前》《岩見》《周防》《相模》
伊豆級:《伊豆》《能登》
長門級:《長門》《陸奥》
伊勢級:《伊勢》《日向》(※改装中)
扶桑級:《扶桑》《山城》
金剛級:《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》(※《比叡》《霧島》修理・改装中)
ノースカロライナ級:ノースカロライナ(※捕獲艦。修理・改装中)

SC(超甲種巡洋艦):4隻
剣級:《剣》《黒姫》《蓬莱》《富士》

CV(航空母艦・大型):9隻(艦載機:常用80・補用10程度)
大鳳級:《大鳳》《海鳳》《瑞鳳》《祥鳳》
翔鶴級:《翔鶴》《瑞鶴》《神鶴》《千鶴》
赤城級:《赤城》

CV(航空母艦・中型):13隻(艦載機:常用60・補用10程度)
蒼龍級:《蒼龍》 飛龍級:《飛龍》《雲龍》
昇龍級:
 《昇龍》《天龍》《瑞龍》《大龍》《海龍》
 《蟠龍》《白龍》《紅龍》《黒龍》《水龍》
(※《蛟龍》《蜃龍》はドイツに売却)

CVL(軽空母):9隻(艦載機:常用25・補用5程度)
《千歳》《千代田》《日進》《瑞穂》《高千穂》《浪速》
《飛祥》《瑞祥》
《龍驤》
(※《鳳祥》は練習空母化。護衛空母は割愛)

 まさに恐るべき戦力だった。同時に、日本がアメリカという国をどれだけ恐れていたかを垣間見ることができる。イギリスを目的とした戦争を行い、そのために整備した戦力が半数近くを占めてはいるが、元々はアメリカに備えるためのものだったからだ。
 しかも日本海軍は、アメリカが自分たちの三倍の海軍を編成できる能力があると想定しており、自分たちの海軍もさらに増強中だった。際限ない軍備の拡大という情景に他ならなかったが、まさに恐怖こそが人を狂気に走らせると言えるだろう。
 感情的な言葉を並べ続けても仕方ないので、上記の戦力の編成に移ろう。
 日本海軍は大型、中型合わせて22隻の高速空母を5つの空母機動部隊に分けていた。これらの過半の戦力が、パナマ運河に襲いかかったことになる。またほとんどがディーゼル機関を持つ軽空母は、基本的に2〜3隻で1個戦隊を編成し、これに小数の巡洋艦や水雷戦隊、高速補給艦などを伴い、遠距離通商破壊艦隊を編成している。「遊撃艦隊」とも呼ばれる軽機動部隊は4つあり、この時期はインド洋に1つ、南太平洋に2つ、残り一つが本土で整備と休養中だった。また空母機動部隊の一つも、通商破壊戦に投じられている。これはアメリカに有力な艦隊が少なく、相手が空母多数を伴って出撃する可能性が低いという判断があった。
 一方戦艦群だが、当時の日本は世界の半分近くの戦艦を保有していた事になる。まるで往年のイギリス海軍のようだった。そしてイギリス海軍のように、各地に戦隊単位で戦艦部隊を派遣していた。このためインド洋、南太平洋には1個戦隊が艦隊の中核としてあった。だがそれだけ配備しても、まだ余力があった。このため空母部隊の護衛にもかなりの数が割かれている。
 そうした中で最精鋭の第一艦隊には、6万トン級の超大型戦艦と《剣級》超甲種巡洋艦の全てが集中配備されていた。
 配備先は、通常は横須賀。この最精鋭の大艦隊が、1943年夏の始めに蠢動を開始したのだった。

 アメリカが、日本海軍の第一艦隊が出撃したという正確な情報を知るのは、この艦隊の襲来を受けてからの事となる。
 この時期最初に攻撃を受けたのは、アメリカ領のアリューシャン列島の最も西側に位置するアッツ島とキスカ島に駐留するアメリカ軍だった。現地には雨天でも運用可能な飛行場が開設され、大規模な桟橋も造られ、それぞれの島に連隊規模の地上部隊も配備されていた。日本がロシア(旧ソ連)からカムチャッカ半島の割譲を受けていたため、無理を押して急ぎ防備が強化されたものだった。
 日本側もカムチャッカ市(旧ペトロパブロフスク・カムチャッカスキー市、通称カム市)に春頃から本格的な進出を始めており、アッツ島とカムチャッカ市の距離が1000キロメートル程度のため、既に双方の爆撃機が偵察などで飛び交い、時折爆撃も行われるようになっていた。そして日本の方が本土から近く補給ルートが確保しやすいため、両軍の戦力比は日に日にアメリカ軍が不利となっていた。アメリカ軍は、日本軍に対する恐怖心から何もない最果ての島に軍隊を置き、少ない船舶や艦艇を割いて増強と補給を行っていたが、その努力の多くが日本軍が執拗に仕掛ける通商破壊戦によって北の海に飲み込まれていた。
 なお、現地の冬は世界最高度の悪天候な上に流氷が出て、夏には異常に霧が多くなる。アリューシャン列島地域で戦闘したければ、とにかく堅牢で気象の変化に強く信頼性と稼働率の高い兵器を使い、電波を用いた目と耳を持っていないと話しにならなかった。当然だが、まともな戦場として設定することが極めて難しいのだが、日米双方にとって相手領土の最短ルートとなるため、無理を押してでも軍の駐留と戦闘が行われていた。ただし、現地両軍の暗黙の了解として、遭難信号を受信した場合は敵味方を問わず救助することが日常化するほど過酷な自然環境だった。
 そしてアメリカの恐怖通り、日本の艦載機が襲来した。
 アメリカ軍の予測よりも少し早い1943年5月20日、霧の合間を突いて空母艦載機の群が何度もアッツ島、キスカ島を空襲した。しかもカムチャッカ市からも重爆撃機の群が飛来し、激しい爆撃を行った。2日後には重巡洋艦を中心とする艦隊も沖合に現れ、艦砲射撃も行われた。このためアッツ島、キスカ島の米航空戦力は、ほぼ即日に壊滅。現地駐留軍は、辛うじて残っていた無線機を使い状況を伝えるのが精一杯だった。現地には、アメリカ海軍の駆逐艦戦隊が警戒配備に着いていたが、圧倒的な戦力の日本艦隊に蹴散らされていた。守備隊も、待避壕や防空壕に籠もるしかなかった。
 日本軍の攻撃に多数の空母艦載機が含まれていた事を重く見たアメリカ軍は、日本軍による大規模な侵攻作戦の前兆と判断。偵察を一層密にすると共に、アラスカ、アリューシャンに出来る限りの増援を送り込み始める。しかし日本軍は三日ほど攻撃して満足したのが、その後姿を消してしまう。周辺に偵察機を多数放ったが、艦隊の姿はどこにもなかった。
 周辺に配備された潜水艦も、予測された場所に敵艦隊の姿を見ることはなかった。
 しかし、ちょうど一週間後の5月27日深夜、ダッチハーバーが艦砲射撃を受けた。陽動任務に、第五機動部隊と北方警備の第五艦隊をかり出してアッツ島、キスカ島を攻撃し、アメリカ軍の目がそちらに向いている間に、第一艦隊は誰にも気付かれず北太平洋上を進んだのだ。ダッチハーバーにはアメリカ海軍の水雷戦隊も常駐していたが、この日は日本軍の空襲を警戒して活動を控えた為、ほとんど無防備だった。
 そしてダッチハーバーには、これまでの潜水艦などによる偵察で、主砲射程圏内まで機雷堰などに触れることなく近づけることが分かっていた。この海の道を第一艦隊も利用し、この日の艦砲射撃となった。
 この時実戦初参加となる《紀伊級》戦艦は、大きさと見た目は《大和級》戦艦に酷似していた。船体の形状もほぼ同じで、艦橋構造物もマストなど一部を除いて似通っていた。
 しかし外観上は、多少の違いを見ることができる。
 見た目での大きな違和感は、《紀伊級》には副砲が搭載されず艦中央部の構造物が広く取られ、《大和級》独特の後方に傾斜する特徴的な後部マストが存在しない。
 そして実質的に大きく違うのが主砲で、《紀伊級》戦艦は世界最強の45口径51センチ砲を連装にまとめた砲塔を3基搭載していた。主砲6門の戦艦は一見貧弱な武装にも思えるが、重量約2トンの砲弾ともなると話しが違う。しかも船自体も基準排水量で7万トンを越える重量級であり、単純な装甲厚を始めとする防御力も《大和級》戦艦より強化されていた。このため、機関出力を上げたのに《大和級》戦艦より最高速力が1ノット低下していたが、それでも27ノット出るので日本海軍は特に気にしていなかった。一撃で数的優勢な筈のアメリカ艦隊を粉砕する能力こそが重要だったからだ。そのための巨砲であり、世界最強の51センチ砲だった。しかも1隻当たりの門数の少なさも、装填装置の半自動化による発射速度の向上と、最大4隻による戦隊射撃で補う予定だった。《紀伊級》戦艦は、間違いなく世界最強の戦艦だった。
 そして《大和級》戦艦の《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》、《紀伊級》戦艦の《紀伊》《尾張》、さらに《剣級》超甲種巡洋艦の《剣》《黒姫》《蓬莱》《富士》が順次砲撃を開始。約一時間の砲撃で、各砲門50発程度、合わせて4000トン近い巨弾によってダッチハーバー基地は完全に壊滅した。
 ドイツ軍をまねた作ったばかりの重厚な潜水艦用ブンカー(ヘビーシェルター・ドック)も、46センチ砲、51センチ砲の前には為す術もなく破壊された。そればかりでなく、飛行場、泊地、各種倉庫、その他諸々ほとんど全ての設備が破壊された。しかも、当時港内に停泊していた14隻の潜水艦のうち12隻も、再生不可能な状態まで破壊された。強固な鉄筋コンクリー製の潜水艦基地も、破壊の際に自重に押しつぶされて瓦礫の山と化していた。基地への補給などのために在泊していた船舶の損害も20万トンを越えた。
 飛行場を含めて比較的小さな基地だったダッチハーバーは、完全に壊滅していた。強固な筈の地下深くに設けられた司令部用施設すら、もとが何だったか分からないほどのクレーター群となっていた。あまりの惨劇のために、すぐには無線連絡すらできなかったほどだ。

 ダッチハーバー壊滅。この悲報はアメリカ軍に衝撃をもたらすと同時に、別の基地を飛び立った偵察機が、さらに一つの報告がさらなる衝撃をもたらした。
 日本艦隊が依然として東進を続けているというものだ。
 次の目標は、ほぼ間違いなく前回春に攻撃されなかった西海岸北部のシアトルだと考えられた。
 シアトルにはアメリカ太平洋艦隊が集結していたが、戦艦は新旧合わせて12隻。質はともかく、数の上ではやや有利だった。高速空母は、新鋭の大型が2隻、小型が4隻あった。相手が水上艦だけならある程度の勝機はあるが、どこかに強大な空母機動部隊がいるのは確実だと考えられた。水上艦隊を囮として、シアトルを人質とすることでアメリカ海軍に決戦を強要して、戦略的に水上戦力のさらなる優位を得るのが目的だと考えられた。
 一番の悲劇的観測は、パナマを攻撃した大機動部隊が一旦中部太平洋なりに帰投して補給を行い、第一艦隊の近在を行動しているというものだった。もしそうなら、のこのこ出撃した太平洋艦隊は包囲され袋叩きとなる。
 シアトルやバンクーバーなどでの住民の疎開も強化され、既にボーイング社が国内の内陸部奥地に移転していたタコマなどは、まるでゴーストタウンのようだった。またシアトルを中心としてワシントン州やカナダのブリティッシュ・コロンビア州には、戦闘機や攻撃機、対潜哨戒機など1000機以上の機体が配備され、高射砲も無数に据えられていた。しかも春以後は、さらに大幅な増強が行われつつあった。彼らは当初予定されていたヨーロッパに行くこともなく、日々日本軍が来ることを念頭とした訓練と陣地構築に明け暮れていた。
 沿岸砲台も続々と強化されており、随時強化鉄筋コンクリートの分厚いトーチカで覆われていった。山をくりぬくような砲台や陣地、要塞も、アメリカの土木技術を見せつけるかのように数多く建設されている。退役した旧式戦艦の主砲が、そのまま据えられた砲台も見られた。工事は1943年に入る頃から本格化し、1943年初夏の頃はまさに工事の最盛期だった。西海岸北西部の鉄道や道路などのインフラは、これまでとは比較にならないほど整備されたのもこの時期の事だ。
 陸軍部隊も、開戦時には州兵1個、連邦陸軍1個師団だったものが、1942年晩秋ころから俄に強化されて1個機甲師団を含む1個軍10個師団にまで増強されていた。カリフォルニア州でも、兵力に多少の差はあるが似たような有様だった。
 明らかに、日本軍の上陸を警戒した配置だった。
 アメリカ本土の状況は日本軍も無線傍受などからある程度掴んでおり、自分たちがアメリカ西海岸に押し掛ければ激しい抵抗に合う事は十分に理解していた。春の攻撃でも、それは実感出来る事だった。故にこの時も、遂にシアトル沖合に日本の大艦隊が出現する事はなかった。それどころか、アラスカのアンカレッジにすら現れなかった。その後日本艦隊が行った事は、アリューシャン列島に建設されていたアメリカ軍基地を再建不可能なほど徹底的に破壊する事だった。
 アリューシャン列島にあったアメリカ軍の基地は、ほぼ全てが日本海軍第一艦隊の艦砲射撃を受けるか、最初にアッツ島の空襲を行った第五機動部隊の空襲を受けて壊滅した。カムチャッカ市に進出していた日本海軍の重爆撃機部隊も、現地アメリカ軍が制空権を失うのを見計らってから、2000キロ近くも進出して爆撃を行った。攻撃は反復したため、一からの再建が必要な場所ばかりとなった。
 そしてアリューシャン要塞と呼ばれていたアメリカ軍基地群の完全破壊こそが、「い号」作戦に続く「ろ号」作戦の目的だった。
 日本軍としては、アメリカが太平洋に限りアメリカ大陸に逼塞していてくれれば、当面はそれで良かった。シアトルのアメリカ太平洋艦隊については、不用意に出てきてくれれば儲けものという程度に考えていた。

 この時期の日本軍は、主に戦力の再配置と太平洋各地の重要島嶼の要塞化、航空拠点の設置、対潜水艦戦略の完成を目指していた。そして海軍による派手な活動は、あくまでアメリカ人の日本列島への歩みを遅らせるためであり、目立たないながらも通商破壊戦も熱心に行われていた。
 一方では、インド作戦や対ソ連戦のために作りすぎた陸軍師団の一部は解体して、兵士の一部を海軍に回した他は、多くを国内での総力戦を支えるための労働力として復帰させていた。特に内地での農業生産の低下が懸念されていたため、農業の機械化と肥料の配給増加だけではしのげないと判断され、一部の動員解除が行われた。また解体した師団の装備を他の部隊や、解放した旧植民地で編成された現地軍、さらには満州帝国などに分配されていた。されに多数生産された兵器のかなりが、この頃盤石な状態だったインド航路を使い、続々とヨーロッパへと注ぎ込まれていた。石油を始めとするヨーロッパで不足する地下資源も続々と送り込まれ、中にはドイツ国民を心の底から喜ばせたコーヒー豆などの嗜好品も含まれていた。軍艦や潜水艦までが、ヨーロッパに赴いてそのまま売却されてもいる。1943年の春頃からは、シベリア鉄道を使った物資輸送も日常化している。シベリア鉄道については、ロシアに通行料を払って行われており、代金は主に日本や満州で生産された軽工業品や食料品が充てられていた。
 こうした日本によるヨーロッパに対する援助や支援、そして輸出は、1945年に入るまでアメリカ軍が太平洋を押し渡ってくる可能性が低いという観測が影響していた。
 そもそもアメリカの第一の戦闘目的は、ドイツに勝ってヨーロッパ市場を得ることであり、旧植民地帝国の植民地すら勢力圏に飲み込んでしまうことにあった。日本を始めアジアはあくまで第二の目標であり、日独双方の戦力が大きいうちはアジアをヨーロッパより優先する可能性は低かった。しかも、日本海軍の戦力がアメリカ海軍を上回り、日本の海上護衛体制が崩れない以上、尚一層アメリカが攻勢に転じる可能性は尚更低かった。
 そして日本としては、アメリカを一日でも長くヨーロッパに留め置くため、太平洋を安定させつつヨーロッパ諸国への支援と援助を行っていたという事になる。
 第二次世界大戦は、まさに国家を挙げた総力戦だった。

●フェイズ43「海と空の戦い(2)」