■フェイズ43「海と空の戦い(2)」

 1943年秋になると、枢軸側による潜水艦を中心とした通商破壊戦は、徐々に苦戦するようになっていた。当然ながら、北大西洋を押し渡る連合軍の無数の護送船団(コンボイ)の生存率も上がり、イギリス本土に持たらされる物資の量も徐々に改善の数字を示すようになっていた。
 しかし改善しただけで、イギリス軍が局所的でも攻勢に転じるほどの量ではなかった。それどころか、窮状の改善すらほど遠かった。
 実際イギリスの船舶量は、1944年に入った時点でついに1000万トンを割り込んでいた。開戦前の半分以下の数字であり、もう独力では戦争を継続するどころか、イギリス本土が必要とする最低限の物資を運び込むことすら不可能だった。それ以前の問題として、既にジブラルタル海峡から東側の海の向こう全てがイギリスの経済圏ではなくなっていた。アメリカが参戦していなければ、イギリスは降伏なり停戦を自ら持ちかけなくてはならなかっただろう。
 世界最大の造船量の記録更新を続けているアメリカも、枢軸側の激しい攻撃の前に現状維持が精一杯だった。1944年に入った時点では、稼働実数では500万トン程度の船舶量しかなかった。二国合わせても、同時期の日本の船舶保有量2600万トンの六割でしかない。この時期の日本が戦争を優位に運んでいるのは、当然と言えば当然の状況だったのだ。
 だがアメリカは、船舶量の不足を何とかやりくりしていた。国内移動は可能な限り鉄道や自動車、トラック、そして航空機を使っていた。大陸反抗の為に大増産された筈のトラックは、旧大陸に注がれることなく国内流通の強化に使われていた。少なくなった輸送船舶も、出来る限り北大西洋航路に乗せて、イギリス本土に物資と兵器を少しずつでも蓄積していった。しかも護衛艦艇の充実に比例して損害は減少しており、1944年半ばまでには少なくともヨーロッパ沿岸部以外のUボートは封殺できるだろうと言うほぼ確実とされる予測が立てられていた。

 一方で、日本に対する通商破壊戦は、その時々の躓きと拠点から敵主要航路の遠さから、思うに任せなかった。
 連合軍内には、イギリス軍の一部を中心にインド洋に対する限定攻勢を主張する声も強かったが、そんなことをすれば自分たちでは対処不可能な規模の日本の大艦隊が殺到する事は目に見えているので、とても了承できるものではなかった。攻勢防御や限定攻勢の戦略は、自分たちが敵の攻撃に対処できるから選択できる戦略なのだ。
 しかもインド洋の日本軍の要地は、小規模な攻撃を跳ね返すだけの防備が施されており、距離の問題も合わせると安易な作戦を選択できる場所ではなかった。
 このためインド洋に対しては、南アフリカから散発的な通商破壊戦やマダガスカルへの限定的な空襲を仕掛けるのが限界で、太平洋や他のアジア航路、オセアニア航路についても似たような状況で推移した。しかし、ようやくアメリカ軍潜水艦の使う魚雷が完全な状態となり、改良により爆発威力も大幅に向上したため、通商破壊戦の効果も少しずつだが上がりつつあった。参戦から一年半ものあいだ、参戦まで使われない秘密兵器のため欠陥が分からなかった魚雷のため苦渋を舐めることが多かったが、それもようやく転機が訪れたのだ。
 ただ、日本の航路攻撃に出向いた潜水艦の中で辛くも帰投した潜水艦からの報告で、無音で深く潜っていても長時間追撃され続けたという報告が相次いでいた。前方投射型の爆雷兵器も、枢軸側の潜水艦同様の苦闘をアメリカ軍潜水艦に強いていた。
 当然未帰還と損失も多く、連合軍は日本軍の秘密兵器とすら言える磁気探知装置に、大戦中ずっと苦労させられる事になる。しかも日本の海上護衛艦隊が数年ごしで構築した重厚な海上護衛体制は、一度に100隻の大型潜水艦が襲ってきたとしても、日本が必要とする船舶量を維持するように組み上げられていた。このため、この頃のアメリカ軍潜水艦の質量(投入可能数)では、嫌がらせ程度でしかなかった。しかも損失が多いため拡充も思うに任せず、ここでもアメリカ軍の戦時計画は齟齬をきたしていた。潜水艦の建造には一定の手間と時間がかかり乗組員も同様なため、大量生産を得意とするアメリカですら短期間の大量整備には苦労する兵器だったのだ。
 それでも時間が十分あったのだから、日本の国力と軍事力をアメリカが侮っていたと言えばそれまでだが、そのツケは非常に大きかったと言えるだろう。アメリカ軍潜水艦はブラック・ウィドー(黒い未亡人)とすら言われ、将兵からも嫌われた。

 一方ヨーロッパだが、徐々にイギリス本土に展開するアメリカ陸軍航空隊の威力が増しつつあった。
 1943年夏は、ドイツ空軍も積極的にイギリス本土爆撃するまでになっていたが、戦略爆撃が効果を発揮するには力量が不足していた。重爆撃機運用のお陰で、英本土全域はおろかアイスランドにまで防空体制を作らせる負担を強いたが、出来たことと言えばそれだけとすら言えた。
 ドイツ空軍のゲーリング国家元帥は、今度こそブリテン島を空軍の力で沈めて見せると息巻いていたが、それが出来ると考えているドイツ人はごく少数派だった。ドイツ軍の中でのイギリス本土爆撃は、つまるところ少しばかりの余裕を活用した時間稼ぎでしかなかった。
 そして秋になると、アメリカ人の「B-17G」「B-24C」の数が増え始める。だが、ドイツ空軍が約2000機の各種戦闘機をヨーロッパの空に展開しているため、アメリカも出来ることと言えばブリテン島近在のヨーロッパ沿岸部の爆撃程度だった。
 何度か300機程度の大規模昼間爆撃も行われたが、その時はドイツ空軍も大挙出撃して多くの損害をアメリカ軍に与えたため、まだ補充能力が十分ではなかったアメリカ軍の大規模昼間爆撃も長続きしなかった。
 なおアメリカ軍は、優れた爆撃照準器(ノンデル)に高い信頼を置いており、また編隊防空にも自信があり、さらに戦闘機の「P-38」や「P-47」を随伴させる事で大規模な昼間爆撃に固執していた。それに昼間なら、随伴戦闘機の数が増やしやすかったり、事故の件数を大きく減らすことが出来るなどの利点も多かった。それでも護衛が難しいので、露払いに「P-51」部隊を置いてみたりもした。
 アメリカ陸軍航空隊に対して、ドイツ空軍も通常の戦闘機を多数出撃して対処した。メッサーが護衛戦闘機を蹴散らし、フォッケウルフが爆撃機を攻撃した。しかもドイツ空軍で、アメリカの爆撃機が容易ならざる敵として認識されると、南太平洋の日本軍のように危険を冒した突撃を日常化させたため、アメリカ空軍の損害は上昇した。
 ただこの頃のドイツの主要都市には、俄に高射砲塔と呼ばれる、鉄筋コンクリート製の強固な構造を持つ高層建築が出現しつつあった。同施設の屋上には海軍艦艇用の高射砲が複数据えられ、他にも多数の機銃で防御されており、光学、電波双方の情報を優れた計算機で処理した艦艇を上回るほどの高度な防空戦闘が可能となり、多数が建設されたハンブルグやブレーメンでは、それなりの威力を発揮していた。後にアメリカ軍が行ったベルリン爆撃でも、予想以上の戦果を記録した。
 高射砲塔の存在は、総力戦そのものから見ると取るに足らない事だったのだが妙に両軍首脳部の注意を引き、ドイツ軍にとっては最後の守り、連合軍とっては最後の強敵として注目を集めるようになる。

 対するドイツのイギリス本土爆撃だが、皮肉な事にドイツ空軍の主力重爆撃機は、日本から大量に飛んで運ばれるようになった「九八式大攻改」だった。既に日本で新型機が配備されているため、日本軍から溢れた中古機も供与され、1943年以後はシベリアを横断して届けられた。
 このためドイツ軍に引き渡される飛行場には、日本本土から飛んでくる日本人搭乗員が常に滞在するようになったほどだった。日本からは、1943年の一年間だけで2000機の「九八式大攻改」をドイツに供与もしくは輸出し、この機体でドイツ空軍はブリテン島などに対する爆撃を行った。しかも「九八式大攻改」が洋上作戦能力に優れているため、一部の機体は大西洋を望むフランス西部、北アフリカ、ノルウェーに配備されたりもしている。もともと洋上飛行を念頭として雷撃も可能なため、通商破壊戦でもその威力を発揮し、連合軍からはアルバトロスと呼ばれ、都市爆撃以上に恐れられた。連合軍は、護衛艦艇の大型高射砲の搭載強化や、中規模以上の船団に随伴する護衛空母に一定数の戦闘機を配備しなければならないなど、少なくない負担を強いることにも成功していた。
 日本の機体を使う事をヒトラー総統は気に入らなかったと言われるが、空軍元帥以下ドイツ空軍のどこかちぐはぐな兵器開発のため、ドイツにはブリテン島に沢山の爆弾を落とす能力を有する機体がなく、その開発を厳命する以外では当面は日本機を使うより他無かった。
 しかし「九八式大攻改」は、最大作戦行動半径が2000キロを越え、ほぼ最大積載で1000キロ近い作戦行動半径を有するため、イギリス本土の全てが射程圏に入っていた。大西洋深くにも進出可能だった。防御火力の不足は、ドイツ製高性能機銃で補った。
 このため「九八式大攻改」をヨーロッパで使うようになったドイツ空軍は、特に使用初期は奇襲的にイギリス北部や北アイルランドを攻撃している。しかも、その気になればノルウェー各地からアイスランドすら攻撃可能で、実際何度か夜間爆撃が実施されており、アメリカ軍が慌てて防空体制を整える事態になっていた。
 そしてイギリス本土の事となるとイギリス軍が対処しなければならず、多くの戦争資源をイギリス本土全ての防衛に費やさなくてはならなかった。戦闘機隊、高射砲部隊などが目立つところとなるが、防空戦には様々なものが必要であり、イギリスはかつてのバトル・オブ・ブリテン以上の範囲を守らねばならず、ドイツに対する攻撃が尚一層停滞していた。人的資源の拘束も大きな負担だった。
 それでもイギリス空軍は、1943年5月に一時中止に追い込まれていた大規模夜間爆撃を再開する。規模は300機程度で、ドーバーや北海の沿岸部中心、また地道な夜間爆撃を行うようになった。しかもイギリス空軍も、いつまでも同じではなかった。爆撃機は全て大型の四発機で、「ランカスター」「ハリファックス」などの新型機が多くを占めるようになっていた。また重爆撃機の生産については、イギリス本土での生産を一部見限ってカナダでの生産を行っていた。このためイギリス本土の窮状に関係なく機体生産が可能のため、搭乗員が再び揃うと根気強い夜間爆撃が行えた。
 しかしその爆撃は、苦難の連続となる。
 ドイツ側にとっても、昼はアメリカ、夜はイギリスとやって来るため、ブリテン島への爆撃や侵攻よりも、まずは敵爆撃機の撃退と爆撃阻止に力を入れざるを得なかった。
 しかしドイツ空軍が防空を重視すると、その力関係は国力のほぼ全てを防空に割ける事ができるドイツ優位となるため、連合軍は激しい損害を受けながら爆撃を続けなくてはならなかった。
 だだし、イギリス軍をアメリカが支えたように、1943年の春頃からは、日本からドイツ及びヨーロッパに大量の航空機や防空戦に必要な機材、物資が運ばれるようになっていた。このためドイツ軍はかなり優位に戦闘を進め、英米軍は多くの犠牲を出すことになる。
 「バトル・オブ・ユーロ」は、世界最高度の航空消耗戦の舞台だった。

 またドイツ軍側の爆撃の努力の方については、ビスケー湾でのUボートの防空と共に、爆撃機による輸送船攻撃がいっそう重視されるようになった。これまでもビスケー湾とその少し沖合での戦いは熾烈だったが、ドイツ側の機材充実によりいっそう激しさを増した。またノルウェーとジブラルタルにいる艦隊を使った通商破壊戦もたびたび実施され、たとえ襲撃そのものが失敗しても連合軍に脅威を与えた。何しろイギリス海軍、アメリカ海軍の双方に、有力な艦艇が乏しかった。特に大型艦艇が不足しており、巡洋艦クラスも今まで沈んだうちの半分以上が日本軍にやられていた。
 ただこの頃は、ドイツ海軍の《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》が主砲換装を含む大規模な改装中のため、戦艦よりも空母が脅威だった。何しろ南北双方に展開するドイツ艦隊は、どちらも空母2隻が属した空母機動部隊となっていたからだ。攻撃の手法も水上打撃戦となるのは希で、たいていは空襲で連合軍の護衛艦艇が撃破され、その時点で船団は解体して独自にイギリスを目指した。最終段階で水上艦艇が突撃して蹴散すのは、かなり希な事例だった。だが、制空権のない海域でバラバラになった輸送船団はUボートの格好の標的で、開戦頃のように餌食とされた。
 こうした状態が続いたため、30隻以上の船団には通常2隻の護衛空母が随伴して、艦載機の半数も戦闘機とされた。とはいえこの編成でも、空母艦載機型の「Fw190」の前に「F4F」が蹴散らされて艦隊と船団双方に大損害を受けたため、護衛空母の数が増えると共に3隻編成という、ミニ空母機動部隊の様相を呈していた。当然護衛効率は落ち、船団を組む暇のない船は単独もしくは小数で出航して損害を受けた。
 またアメリカ海軍の巡洋艦が充実し始めたので、巡洋艦を集中してドイツやイタリアの大型艦を撃退しようと言う作戦が練られたが、航空偵察も電波で敵を捉えることも出来るドイツ艦隊は、連合軍巡洋艦の数が多いと手は出さなかった。これは一度手ひどい損害を受けた結果でもあったが、連合軍も輸送船団に贅沢な護衛を付けなければならないので、効率の低下が甚だしかった。しかも、護衛を重視して第一線級の艦隊に巡洋艦や大型駆逐艦がなかなか配備できなくなるため、流石のアメリカも国力の優位を活かせないジレンマに苦しんだ。

 なお、太平洋でも同様の重編成の護衛艦隊が編成され、パナマ運河閉塞後に何度か南米周りで派遣され、最初の戦闘におけるアメリカ軍の反撃では、日本側に大きな損害を与えることに成功していた。
 この時の戦闘では、日本軍の空襲をアメリカ側の3隻の護衛空母の艦載機隊が耐えきり、その後の反撃で軽空母1隻、駆逐艦1隻の撃沈を記録していた。日本の軽空母は基本的に空母補助艦から改装された軽空母のため防御力に難点があったので、攻撃と損害には非常に脆かった。さらにアメリカ軍は、焦って夜間突撃してきた日本軍巡洋艦にも沈没を含む大きな損害を与え、襲撃そのものを失敗に追い込んでいた。
 アメリカ海軍としては、開戦以来初と言えるほどの海の上での勝利だった。
 だが、相手は日本海軍だった。
 次の重護送船団は、情報収集を入念に行った日本海軍の「本当の」空母機動部隊の襲撃を受けることになった。タヒチを根城として南米周りの大船団が来ることを狙っていた高速空母4隻を中核とする日本海軍の空母機動部隊が、事前情報、ドイツからの情報をもとに、潜水艦などと連携して綿密に攻撃計画を練って襲撃してきたのだ。場所は南アメリカ大陸西岸沖合のため、アメリカ本土からの救援も間に合わなかった。重護送船団は、要の護衛空母を最初の襲撃で全艦撃破され、その後も三度に渡って激しい空襲を受けてこの時点で船団は半壊状態に陥った。そしてその後は、激減した護衛艦艇をあざ笑うように多数の日本軍潜水艦が襲撃し、さらに翌日に空襲が三度襲いかかった。最後には、機動部隊から離れて突撃してきた戦艦を中心とした水上艦隊が残余の護衛艦艇をほとんど蹴散らした。
 少し強引に「ペルー沖海戦」と命名された戦いでは、アメリカ軍は護衛艦艇を含めて50隻近かった船団の90パーセント以上を失うという悲劇的な大損害を受けた。損害は輸送船だけで26万トン。これに護衛空母3隻と軽巡洋艦2隻、各種駆逐艦5隻の沈没が加わり、総量約30万トンの大損害となった。
 当然排水量に見合うだけの高価な物資と、兵員、船員を失っている。しかも、護衛艦隊は全艦損害を受け、沈んだ以外でも軽巡洋艦1隻と各種駆逐艦3隻が何らかの損傷を受けていた。生き残りは、船団を解散して後に運良く生き延びた、リバティー級輸送船1隻だけだった。
 要するに、壊滅ではなく撃滅もしくは殲滅されてしまったのだ。アメリカ軍としては、日本軍がまさか本格的な空母機動部隊を通商破壊戦に本格投入するとは考えていなかったが故の悲劇だったと言えるだろう。
 これが1943年も夏の終わりの出来事で、ほぼ同時期にはパナマを襲撃した日本海軍の4個空母機動部隊が、今度は南アフリカ一帯の連合軍拠点や各地港湾を空襲して周った。これが日本海軍の次の作戦となる、「は号」作戦だった。南太平洋にいた空母機動部隊は、どちらかといえばアメリカ太平洋艦隊を拘束する為に置かれていたようなものだった。

 「は号」作戦は、「い号」、「ろ号」に続く作戦で、三つの作戦は一見バラバラながら、一つの戦略目的があった。
 戦略目的とは、連合軍を大西洋に封じ込めることだ。
 パナマを破壊し、潜水艦の出撃拠点を叩き、太平洋艦隊をアメリカ西海岸に釘付けにし、後方となったインド洋の安定化をさらに進めようと言う魂胆だった。そうして稼いだ時間で、自らの今までの連戦の消耗を癒し、来るべきアメリカ軍の大攻勢に備えようと言うのが、大戦略上での意図だった。
 もっとも最後の「は号」作戦は、作戦ギリギリまで日本軍内でもめることになった。原因は、日本陸軍だった。
 この時期日本陸軍は、軍上層部の一部視点から見ると暇を持てあましていた。東南アジア、オーストラリア、インド、中東、ソ連極東、さらには南太平洋と戦場を拡大し続けた日本軍は、突然のように防衛体制へと舵を切ろうとしていたからだ。暇と言うよりは、直接陸で向き合う敵がほぼいなくなったと表現するべきだろう。
 そして陸軍の一部の者は暇になったと考えていたが、実際は来るべきアメリカ軍の反撃に備えるための防衛網の構築、各部隊の再編成と新兵器受領など、やるべき事はいっぱいあった。「絶対防衛領域」や「太平洋要塞」と言われる、アメリカ軍の進撃を押しとどめるための壮大な防衛構想の構築と実現には多くの時間が必要だった。このためには、陸軍航空隊では洋上訓練を一から行わねばならない部隊も非常に多く、訓練だけで通常なら数年は必要とするものだった。
 また、日本軍全体が兵站の限界、膨張の限界を超えつつあったのだから、これ以上戦線を拡大しないのは当然の結果なのだが、そうとは考えていない短絡的な人々も大勢いた。
 そうした人々が、兵部省と海軍が「派手な作戦」を次々と立案するため不公平感を募らせ、南アフリカの空爆ではなく占領を画策したため起きた混乱だった。
 そして「は号」作戦という作戦名から分かるとおり、作戦は海軍主導の作戦で、機動部隊による南アフリカに対する空襲とマダガスカル諸島からの、大西洋南端部での大規模な通商破壊戦が行われる予定だった。しかしそこに、陸軍が「南アフリカ占領」という要素を盛り込もうとした。
 占領の目的は、イギリスの降伏促進、ドイツの側面援護、インド洋の出入り口を完全に押さえる事、大西洋での通商破壊戦の拠点を得る事など様々な戦略目的が掲げられていた。実際ケープ方面からは英米の潜水艦がインド洋に入り込んでいたし、南アフリカはイギリス五大連邦の一角だった。陸軍の言う通りの目的が、ある程度なら達成出来るかもしれなかった。兵部省や日本海軍の中にも、一部賛同者が現れた。
 だが、日本政府並びに軍の官僚組織である兵部省は、「南アフリカ上陸作戦」を許さなかった。財務省と兵部省の言葉を極論すれば、「そんな金はない」と言うことになるからだ。
 上陸作戦となれば、概算だけでも陸軍の増強2個軍(軍団)、総数約30万人が必要だったし、海軍も三個空母機動部隊、戦艦部隊、第二艦隊、遣印艦隊の全力が必要となる。さらにマダガスカル島には、1000機以上の大規模な航空隊を進出させなければならない。100万トン以上の輸送船舶も別に用意しなくてはならない。
 そして、仮に侵攻のための出費には耐えられても、長期の占領と維持までは金が回せないというのが、戦争を運営している側の本音だった。しかも南アフリカは遠隔地過ぎるため、敵の本格的反攻を受けた場合に撤退は難しく、駐留部隊に全滅か降伏かの選択を行わせるような作戦を認めるわけにはいかなかった。
 それに、現状の拠点や勢力圏を守るために攻め続けていては際限がない。その事は、インド洋と南太平洋を隈無く占領したことで日本軍は既に実感している事であり、これ以上何かを抱えた込みたくはなかった。
 実際南太平洋でアメリカ軍の本格的侵攻があった場合、フィジーまでは計画的に後退する計画が組まれていた。このため撤退予定の各地の守備隊は既に最小限に減らされており、当然現地への補給もあまり行う必要もなく、アメリカ軍が苦労してサモアやタヒチなどに進出してきても、獲物となる日本商船の姿を見ることはほとんど無かった。タヒチなどに進出している日本軍も、偵察機、水上機、潜水艦関連の部隊がほとんどで、維持のために大量の物資を必要とする陸上部隊は、欺瞞の陣地構築をして回っている工兵部隊以外、事実上ほとんど置かれていなかった。アメリカ軍の目を欺くために、さも陸軍部隊が駐留しているように見せるため、欺瞞工作だけが行われているだけだった。アメリカの空母部隊が復活する数年先まで、日本軍にとって南太平洋はそれで十分だったからだ。
 話しが少し逸れたが、とにかく南アフリカは日本本土から遠すぎた。単純に言えば、地球のほぼ反対側に位置している。とてもではないが、まともに兵站が維持できる場所ではなかった。

 だが作戦をごり押ししようとした陸軍の一部は、部隊の移動準備を始め、陸軍枠で船舶の確保まで行い始めていた。だが幸いなことに作戦は正式に中止となり、当初目的通りの作戦が実施されることになる。
 しかし連合軍では、日本軍が南アフリカ侵攻を準備中という情報が飛び交う事になる。しかも日本陸軍の準備が早かったため、連合軍は比較的早く「情報」を掴んでいた。そしてイギリスが大きく騒ぎ立てた事もあって、日本海軍の「い号」、「ろ号」両作戦の情報があまり掴めなかったという背景にもなった。
 そして連合軍では、南アフリカに攻め込んでくる日本軍への対処が議論されたが、早々に洋上での阻止は不可能だという結論に至る。いまだイギリス本土の海上交通路の危機が続き、しかも連合軍全体の船舶量が不足したままだからだ。しかも南アフリカは、北アフリカの戦いに2個師団を出して壊滅しており、インドでも1個師団を失っている。このため現地では、イギリス系市民で兵士に出来る男性の数は激減していた。しかもイギリス本国やアメリカからの武器や工業製品の供給も酷く滞っており、インド洋を失って危機が増して以後も防衛部隊の編成は今ひとつ進んでいなかった。イギリス系以外の住民(オランダ系移民の子孫など)の反感も日に日に増している。
 だが何もしないわけにはいかないので、アメリカが臨時に大量のレンドリースを運ぶことにする。30隻程度のコンボイ1個船団を送り込めば、かなりの期間日本軍を苦しめるだけの兵器や物資、燃料は十分賄える筈だからだ。そしてこの船団は、ドイツやイタリア艦隊の襲撃を受けないように、出来る限り両アメリカ大陸沿岸近くを通って南アフリカへと至る。
 しかし、イギリス本国もアメリカも、負けると分かっている遠隔地に増援部隊はほとんど派遣しなかった。僅かに航空隊が進出したに止まり、南アフリカのイギリス系市民を落胆させた。
 そうしたところに、連合軍の「予測通り」に日本海軍の大機動部隊が襲来する。

 南アフリカ東岸沖合に出現した日本海軍の大機動部隊は、ほとんどがパナマ運河を攻撃した時の強力な艦隊だった。高速空母17隻、戦艦6隻を中心とした、艦載機1200機以上を抱える大部隊だ。日本本土からの新規合流を含むため、1個機動群を南太平洋に置いてきたにも関わらず、パナマの時と同規模なっていた。
 同艦隊は、4月半ばにパナマ、アメリカ西海岸を攻撃し、5月半ばに中部太平洋のサービス艦隊の待つ中部太平洋のとある環礁に移動。そこで整備と補給、そして休暇と短期間の再訓練を実施、さらには増援部隊の合流を受け入れる。その上で再度出撃し、連合軍から姿をくらました。そこで分かれた1個機動部隊が、南米沖で連合軍護送船団を殲滅している。
 日本艦隊の出撃は7月に行われ、その後連合軍は次にどこが攻撃されるのかと疑心暗鬼に陥る事になる。アメリカでは、今度こそ西海岸が襲撃を受けるのではないかという予測すらされた。これは南アフリカに侵攻する筈の日本陸軍の部隊が揃うのが秋、10月から11月と判断していたためだ。このためアメリカ西海岸では、市民のさらなる疎開が実施され、陸軍の増援が続々と到着した。軍備増強のため、無理を押して南米周りで艦艇と護送船団が送り込まれ、案の定日本軍の苛烈な襲撃を受け、何度目かの海戦が南米大陸の沖合で発生した。
 これが「ペルー沖海戦」で、重護送船団の約50隻もの艦船が徹底的に攻撃を受けたことに、アメリカは大きな衝撃を受けることになった。先の戦いで日本軍の軽空母を中心とする通商破壊艦隊を返り討ちの形で撃退してただけに、日本軍の方針転換とも言える大規模な攻撃に色を失った。
 しかも攻撃してきたのは日本軍機動部隊の一部でしかなく、同じ事を日本海軍全部が行ってきたら、太平洋東岸全ての制海権が失われると予測された。
 そしてこの襲撃により、アメリカは日本が西海岸を叩こうとしていると考え、太平洋艦隊はかなり悲壮な決意を以て、日本軍の大艦隊襲来を待ちかまえた。
 だが日本海軍の大機動部隊が出現したのは、南アフリカ沖合だった。

 8月6日、航海の難しい南氷洋ギリギリで迂回接近してきた日本艦隊は、いきなり南アフリカ最大の港湾であるケープタウンに襲来。大規模な増援を受け取り400機近い航空機を擁していた連合軍の航空部隊との間に、激しい空中戦が行われる。ただし、大規模な空襲を察知したのは、ケープタウンに据えられた大型対空レーダーだった。黎明に600機近い雲のような機影を捉えたケープタウンはパニック状態に陥り、とにかく迎撃戦闘機を発進させると共に、爆撃機や飛行艇の避難を開始。かなりの数の機体には、偵察のための出撃が命令された。
 最初に現れた攻撃隊の約半数が、艦上戦闘機の「烈風 艦上戦闘機」だった。これに対してケープタウンの戦闘機数は約250機。しかし、うち50機はまだ発進途中だった。しかも連合軍の航空機の多くは、数に劣る上に性能面でも「烈風」には敵わず、住民に見せるために1個大隊ずつが配備された新鋭の「P-51 マスタング」と「P-47 サンダーボルト」がそれなりに奮闘しただけだった。数あわせに配備されたような中古の「ハリケーン」では、手も足も出なかった。それでも午後に一度、50機程度の攻撃隊が日本艦隊に対して送り込まれたが、重爆撃機で編成された部隊でも、無数の艦載機と地上の都市など比較にならない防空弾幕の前に、ほぼ全滅の損害を受けることになる。付近にいたかなりの数の潜水艦も何隻かが接近を試みたが、艦載機型の対潜哨戒機と護衛の駆逐艦の前に阻止され、3隻撃沈、2隻損傷の損害を受けただけに終わった。そしてどれも、敵に与えた損害はほぼ皆無だった。
 日本軍の空襲は、その日だけで5回行われた。ケープタウン近辺の連合軍航空隊は壊滅し、飛行場は全て破壊され、港湾機能も失われた。港にいた8隻の潜水艦も餌食となり、同様に停泊していた旧式巡洋艦や駆逐艦、さらには総量10万トン以上の待避の遅れた輸送船も空襲の犠牲となった。またケープタウンには、こちらも南アフリカの住民に見せるために戦艦《セレベス》を中心とする自由オランダ艦隊が依然として頑張っていたが、この空襲で軽巡洋艦2隻を失い、損害を受けた残存艦艇もアメリカ大陸への待避を行っている。そして移動が早かったため、この後の悲劇を回避していた。
 深夜になると、日本軍第二艦隊が沖合にまで襲来。《肥前級》戦艦4隻で固められた同艦隊の16インチ砲弾による艦砲射撃によって、港湾部は護岸の基礎部分から破壊されてしまう。状況としては、ダッチハーバーと同じだった。
 空襲は翌日にも行われ、都市部こそ誤爆と高射砲弾の落下以外の損害はなかったが、軍用施設、軍用に転用可能な施設はことごとく破壊された。
 そうして満足した日本海軍は引き上げたが、その翌々日の8月10日に再び南アフリカ沖合に現れ、今度はインド洋寄りの港湾都市ポートエリザベスを空襲した。こちらは二波に分けた艦載機による空襲で壊滅。同日午後には同じく港湾都市のイーストロンドンが空襲を受け、翌日にインド洋に面したダーバンがマダガスカル方面から基地航空隊の重爆撃部隊約300機による激しい空襲を受けて、一連の攻撃の仕上げとなった。
 マダガスカルからの日本軍による爆撃はそれ以前から行われていたが、これ以後規模を大きくし、今まで爆撃されなかったプレトリアやヨハネスブルグにも飛来するようになる。
 かくして南アフリカの港湾都市は壊滅的打撃を受け、日本の大艦隊は意気揚々と引き上げていった。

●フェイズ44「戦時政治と戦争経済」