■フェイズ44「戦時政治と戦争経済」

 《ガトー級》と呼ばれるアメリカ軍の大型潜水艦が、太平洋各地に苦労して再度進出するようになる頃、時間は1944年へと入ろうとしていた。
 アメリカは、参戦の遅れを取り戻すように、猛烈な勢いで艦船を建造していた。参戦から1年半ほどしか経っていないとは、とてもではないが信じられない規模と勢いだった。
 同年2月には、一年間で50隻も建造された《カサブランカ級》護衛空母がほぼ毎週1隻のペースで就役を始め、毎日のように各種駆逐艦が就役するようになった。商船の建造量も、日産平均で4万トンを記録するようになる。航空機や戦車などは、数え切れないほどの量が生産された。
 対して、まだ枢軸諸国の通商破壊戦は大規模に続けられていたが、制空権、制海権の無い場所での潜水艦の損害は既に限界を迎えつつあった。
 このため1944年のクリスマス(もしくは正月)が、戦争経済面から見た場合の戦争の分岐点になるだろうと1944年の年初の頃から言われていた。
 ただし1944年初めの船舶量は、イギリス900万トン、アメリカ800万トンに対して、日本は2600万トンといまだ日本の圧倒的優勢にあった。1943年のインド洋と太平洋の支配者は、間違いなく日本だった。
 しかし1944年のアメリカの造船業界は、民間船舶だけで1700万トンを建造する事になる。イギリスも苦しみながらも、100万トン近い商船を浮かべている。アメリカの艦艇建造については上記した通りだ。これに対して枢軸軍が1944年に連合軍に与えた船舶の損害は、全てを合わせて500万トン。その戦果のため多数の潜水艦が犠牲になり、1944年後半以後は自国の制空権下でない限り、潜水艦による通商破壊戦は事実上出来なくなった。
 一方日本が建造した船舶は、この年遂に600万トンを突破した。 加えて日本の近辺では、満州国も沿岸部で船の建造を日本から技術を輸入して積極的に実施するようになっていたため、アジアでの枢軸側の建造量はさらに50万トンほど上乗せされる。またソ連崩壊以後、ドイツ、イタリアも船舶建造に力を入れており、ヨーロッパ全体で100万トン以上の船が一年間で就役していた。
 だが、今まで枢軸側がたいして損害を受けなかったのに対して、1943年秋頃から主にアメリカ軍から受ける損害が増加した。これを予測していた日本海軍は、自らの対潜水艦対策をひたすら強化し、さらに1943年のうちに連合軍の各前線拠点を大規模に破壊したのだが、それも1944年に入ると物量によって覆されるようになっていた。このため、1944年に受けた日本の船舶損失量は、150万トンを記録した。単年度で今までの損害全てを越える数字だった。
 これはアメリカが潜水艦の建造と戦力整備に大きく力を入れた事も影響していたし、日本の海上護衛艦隊の奮闘とそれまでの日本軍の努力が損害を押さえ込んでいた双方の結果だった。アメリカ海軍がこの時までに失った潜水艦は、大型ばかり80隻にも登っていた。これは毎週1隻を失っている計算になる。
 そして差し引きで見ると、1945年に突入した段階で日本は3100万トンの船舶を保有し、連合軍は英米併せて2900万トンで、数字上ではほぼ拮抗している事になる。しかしこれは、枢軸側が日本だけとなるので、公平ではない。ドイツ、イタリア、そして両国に使用されているヨーロッパ各国の船舶を合わせると、1945年初めの時点で1000万トン近くになる。ヨーロッパ域内での運行用や大型河川を遡る船が多いため河川用の船や小型、中型船が多かったが、数は力だった。1942年夏以後は、スエズ運河を使い日本やアジア各地との間を運行している船も大幅に増えていた。
 イギリス人が紅茶を飲めなくなって、ドイツ人が代用コーヒーを飲まずに済んでいるのが戦争の現状だった。日本では、インド国民政府が兵器の代金として寄越した大量の紅茶が、消費しきれずに倉庫で山積みとなっていた。仕方ないので第三国を経由して輸出し、第三国からアメリカ、アメリカからさらにイギリスへと渡っていたほどだ。
 連合軍が、船舶量で枢軸全治を完全に越えるようになるのは、英米以外の船舶を入れても1946年春以後となる。圧倒できるのは、さらに翌年の1947年に入ってからだった。アメリカは、造船に振り向ける国家リソースを他の兵器や物資の生産をかなり抑えて回していたが、数字に表れているのが現実だった。アメリカは他国に懸絶するほどの圧倒的経済力と生産力を持つ国だったが、絶対的ではなかったのだ。
 それでも現状ではアメリカの勝利が動かしがたいとは言えないので、枢軸に破れた国の態度も日に日に連合国から離れていった。アメリカは長期戦になればなるほど絶対に自らが勝てると言っていたが、様々な理由でアメリカの勝利を待てない国も既に数多かったのだ。

 中華民国は、大戦前の支那事変で日本に負けて以後ずっと中立的立場をとり続けており、アメリカの押しつけがましい「参戦すれば〜」という言葉にもほとんど耳を貸さなかった。お陰でというべきか、イギリスのアジア最果ての拠点香港は、いまだイギリス総督が細々と統治を続けている。流石に日本軍によって各租界からは連合国は追い出されていたが、それは中華民国が日本を利用したようなものだった。現に、日本とイタリアの租界は維持され続けていた。
 そしてその中華民国は、軽工業製品や食料、各種資源を日本に輸出して、足りない工業原料や資源、工業製品とのバーター取引をしていた。これは日本の戦争経済運営にも十分に役立っていた。しかも中華民国は外交面では強かで、連合軍との秘密交渉に際しては、日本から受ける脅威を少しでも和らげるため仕方なく行っているというポーズをとり続けていた。アメリカなりイギリスなりが、日本に対して圧倒的優位を得るようになれば寝返るとすら言っていた。一方で日本や枢軸各国に対しては平身低頭状態で、バーター貿易でも日本の我が儘を聞くことが多かった。実際問題、日本または満州で生産される各種加工品が中華民国には必要だった。

 共産主義を捨ててしまったロシアは、広大な地域が枢軸諸国に占領されたままだったが、とにかく宗教を否定する共産主義が消えたことと、何であれ戦争が終わった事で住民は多少安堵した。終戦のおかげで、敵味方の機関銃に挟まれながら前進しなくても良くなったのだから当然だろう。1000万人も動員された兵士も、運が良ければ自分たちの故郷や農場に戻れた。それでもヨーロッパロシア各地では、ドイツによる搾取と厳しい統治が行われていたが、一時期以後のドイツは飴と鞭を使い分けてウクライナの生産力をそれなりに立て直しつつあった。1942年にチェコから移動してきた一般親衛隊のラインハルト・ハイドリヒ将軍は、極めて優秀で合理性を持った「ロシア総督」だった。影で「ツァーリ(皇帝)」と呼ばれたほどだ。
 このため、かつてソ連が持っていた工業生産力のうち、三分の一程度はドイツの戦争遂行とヨーロッパ経済維持のために使われていた。バクー油田も、すでにドイツ及び欧州全土の生命線状態だった。捕虜となっていたロシア人の多くも、今度はドイツのためにウクライナなどでドイツ向けの兵器や製品を作った。ドイツに各種労働のため連れて行かれたロシア人(主にもと兵士)の数も、100万の単位に及んでいた。
 しかもボルガ川以東に押し込められた形の新生ロシア政府は、枢軸各国に兵器を売却する事で自分たちに足りない工業製品や資源を得ていた。ヨーロッパ各国のマーキングをしたロシア製のミグ戦闘機は、1943年下半期になるとヨーロッパで一般的に見られるほどだった。
 単純な統計数字上では、ロシア戦役(独ソ戦)が始まる前の旧ソ連領内の工業力の約40%が、1944年のドイツの総力戦に貢献していた。おかげで、大西洋沿岸に張り付け状態の移動力に欠ける歩兵師団すら、ドイツ人の注文で改良されたロシア製の戦車(※主に「T-34D」)を大隊規模で持つようになっていた。さらにロシアは、日本とヨーロッパの貿易のためにシベリア鉄道や国内の飛行場を貸し出し、一定の利益を得るような事もしていた。
 このため日本人が量産を始めたばかりの「三式中戦車」も、続々とヨーロッパに送り込まれた。1944年半ば頃のヨーロッパでは、全ての師団が「戦車師団」になってしまうと言われたほどだ。
 このため、連合軍がフランスなどで機甲戦の優位を得たければ、単純に比較して3万両以上の戦車を一度に用意しなければならなかった。
 日本に占領もしくは解放された国も、まずは食べるために日本との取引を行っていた。英連邦のオーストラリアやニュージーランドですら例外ではなく、日本に地下資源や羊毛、食料と交換で工業製品を得ていた。日本船を使って、ヨーロッパに輸出されるものもあった。何しろ港に入ってくるのは、一部の中南米諸国の船を例外とすると、高射砲を備えた日本の戦時標準船ばかりだった。アメリカのレンドリースを満載したリバティー船は、一度も来たことがなかった。
 アジア諸国についても、戦争中は極力協力するという一文や、現金後払いという約束はあったが、基本的には貿易という形で日本とのやり取りが行われていた。
 しかも、植民地支配から解放されたアジア各国は、日本から知識や技術、教育を導入して国造りを進めている段階なので、少なくともイギリスなどの支配よりは日本人の多少無理な言葉を聞く事がマシと考えていた。これは、日本のアジアに対するガバナンスが、各地に自主独立というアメを与えて戦争に協力させるとうい方針を堅持していた事も影響していた。イギリスとの戦争を決めた時点で、アジア全域の占領は可能でも軍政による統治は極めて難しいという判断のもと、今後の国家百年の大計のためという長期的視野に立ったものだった。
 結果はそれなりに良好で、外相の重光葵が中心となった「大東亜会議」というアジア諸国間会議の開催も1942年から頻繁に行われ、イギリスなどの植民地列強とそれに荷担したアメリカに戦争の正義がないことを発信し続けていた。日本も結果として欧米諸国と似たようなところは多々見られたが、とにかく大盤振る舞いで独立や自立の芽を与えたことは、これまで植民地支配に甘んじざるを得なかったアジアにとって重要だった。

 そうした世界情勢で揺れ動いていたのが、中立状態のスペインとヴィシー・フランス政府だった。
 スペインはフランコ総統を中心としたファッショ政権ながら、終始中立という立場を堅持していた。ドイツ軍のジブラルタル攻略でも、それは変わることなかった。
 連合軍が本格的反抗に転じたときに、自国が戦場となる可能性を警戒していたからだ。アメリカ軍が本格的に反攻できるようになれば、アメリカ本土から直接イベリア半島に押しよせる可能性すらあると考えられたからだ。
 このため枢軸国との貿易は行っていたが、武器に関する貿易は基本的には行っていない。またドイツも、スペインを枢軸とした場合、イベリア半島にアメリカ軍を引き寄せることになる事を警戒していたため、スペインの中立を肯定していた。スペイン、ポルトガルは、中立を維持することでドイツによる大西洋の防波堤を形成できるのだ。
 一方スペイン以上に複雑なのが、ヴィシー・フランス政府だった。フランス降伏以後、フランスは本土南部のヴィシー・フランス政府とドイツの占領地、そして亡命した後に作られた自由フランスに分かれていた。そして戦争が進むと、旧フランス植民地の多くが枢軸の勢力圏となった。連合側に属しているのは、広大な砂漠である西アフリカの南部と、中南米の僅かな場所だけだった。カナダのケベックのフランス系住民も利用できたが、自由フランスの持つフランス領はごく僅かとなっていた。
 過半の海外領土を名目上は自らの統治下に戻したヴィシー・フランス政府だったが、それは薄氷の上の統治だった。枢軸の機嫌一つで変化するものだからだ。しかも日本は、アジア中の占領地に独立を与えて回っているので、その政治的影響がフランス領各地にも波及しつつあった。インドシナでは、日本が仲介に入って共産主義的なベトナム独立勢力を抑えていたが、裏を返せば日本の言葉一つもしくは日本の失策により、ベトナムが独立運動に傾くことを示していた。しかしヴィシー・フランス政府に出来ることは少なかった。出来るとするなら、枢軸へ全面参加して軍事面から政治的発言権を強化する事だが、簡単に決断できる状況ではなかった。
 何しろ、連合軍が本格的反抗を実施すればフランス本土が主戦場となるのは確実で、相手はイギリスよりもアメリカだった。枢軸に肩入れした次の瞬間に叩きつぶされたのでは割に合わない事、甚だしかった。
 故にフランスは身動き出来ず、ツーロンの艦隊はいまだ凍結状態を守っていた。

 もっとも、圧倒的優位に戦争を進めている枢軸国、特にドイツと日本だが、現状に満足している訳ではなかった。
 正直なところ、戦争をそろそろ止めたいというのが本音だった。
 勝つだけ勝ったし、欲しいものはほぼ全部手に入れたので、後はイギリスが停戦の言葉に対して首を縦に振れば済む話しだとすら思っていた。
 戦後はアメリカとの対立は残るだろうが、アメリカという「共通の敵」が存在し続ける限り、枢軸陣営の結束は維持されるし、独立を得たアジア地域は枢軸に属し続ける可能性が高かった。現状はある意味において、理想的な政治・戦略環境が整いつつあることを示していた。
 アメリカの圧倒的優位にあるという経済状況も、現状のまま勢力圏が固定するなら戦後五年以内に拮抗状態に持ち込めるという試算も出ていた。何しろアメリカには、市場がなかった。そして特に工業生産では、十分に拮抗できる目算は既に立っていた。現状でも枢軸国側の粗鋼生産力はアメリカの70〜80%で推移しており、この数字上からはアメリカが枢軸全部を攻めきる事は計算上不可能だという事を示していた。
 後は勝ち逃げするだけだったのだ。
 それに枢軸側は、自国の戦争経済を見る限り、まともな経済運営自体が限界にさしかかりつつあった。
 それ以前の問題として、財政的裏付けに欠けるドイツの国家財政は常に自転車操業状態で、今すぐにも戦争を止めてヨーロッパ中から金と資源を集めた上で国家としての休養期間に入りたい程だった。
 日本もそうだった。
 少し細かく見ておこう。

 日本は、自らの参戦頃のGDPは約980億円(約280億ドル・1ドル3.5円)程度だった。それが巨大な戦争による莫大という言葉すら不足する政府資金の投入により、大きく上向きだった経済と産業に火がついた。
 そして1941年の経済成長率は、実に170%を記録。日本国内の余剰生産力が、巨大な財政投資によってまるごと全て生産に回った結果だった。生産品の多くは兵器や軍需物資だったが、生産は生産だった。好景気に乗った大量の設備投資された工場や施設が、未曾有といえる生産高の拡大を現実のものとしたのだ。
 大量の円の増刷のため為替レートは1ドル=4円程度に下落したので、ドル換算でのGDPは約415億ドル。この年のアメリカの約三分の一の数字となる。イギリスが既に落ち目だったので、この年の日本がアメリカに次ぐ世界第二位の経済力を持つことを示していた。そして戦争経済の拡大と国民所得の向上は、翌年も続いた。
 戦争前に不足していた各種資源が円滑に流れ込むようになり、イギリス領などの占領地との貿易利益が入ったからだ。しかも日本は、国家の戦争リソースの20〜30%を自国経済の維持に費やす努力を続けていたため、これも日本経済の良性な拡大に大きく貢献していた。
 このため1942年の経済成長率も、実質成長率で20%を記録。GDPは500億ドルを僅かながら突破した。円換算だと約2000億円。2年で二倍という数字を達成した事になり、さらには関東大震災頃(20年前)の約10倍、10年前の三倍以上の数字となる。史上空前という言葉すら不足する経済成長だった。
 しかしこの辺りが、総力戦という特殊な状況における強引すぎる経済成長の限界だった。
 戦費は、戦場の拡大と戦争の巨大化に伴い増加の一途を辿り、民需生産は戦時生産に転換が進み、戦争が経済に与える悪影響も増えた。自動車工場ではトラックばかりが生産され、小さなオート三輪車を大量生産していた工場は、軽トラックや四輪軽自動車を無尽蔵に吐き出していた。大型トラクター工場も、生産ラインを強化・変更して戦車や装甲車ばかり造っている。民生品の供給は何とか維持されているが、ガソリンなど重要資源は配給制で、贅沢品はかなり影を潜めていた。街には贅沢を慎めと言う主旨の横断幕や看板が、そこかしこに掲げられている。まさに戦時だった。
 航空機産業は、本土近辺での総力戦に備えて山をくりぬいて建設した疎開工場を含めて、工場そのものの建設が相次いでいた。このため建設業界、工作機械業界も、大きな活況を示し続けていた。日本全国の造船所は文字通りの不夜城で、3交代24時間操業で常にまばゆい照明の光を放っていた。工業生産の原動力となる製鉄所は、深夜でも高炉の蓋を開けて鉄を作り夜空を赤黒く照らしていた。日本での粗鋼生産は、1944年に2600万トンを記録したが、これが既存施設でのほぼ限界だった。この時点での日本には、流石に新しい製鉄所や高炉を作る余裕はなかった。近在の満州が600万トン以上の鉄を作っていたが、こちらも現状での生産限界に達していた。
 経済と戦争の血液である石油生産は、北満州油田の生産拡大が続いていたし、インドネシアの石油が全て使えたため不足することは無かったが、総量4500万キロリットルを越えた辺りから製油の方が追いつかなくなり始めていた。
 戦争経済自体はあと3年程度維持できるが、さらにその先2年を越えると今までの積み上げた資産を食いつぶして戦争をするしかなかった。そうなっては、戦争で負けなくても国が立ちゆかなくなる。戦争に勝っても、国民全員が貧乏になるという未来だ。
 そうした未来は、先の世界大戦でヨーロッパ諸国が体験した未来でもあった。
 そして日本よりも早くそして激しく戦っているドイツやイギリスは、既に経済破綻の兆候が出始めていたが、日本にはまだ辛うじて踏みとどまれるだけの余裕があった。戦争に出遅れたアメリカは日本以上に余裕があり、最長で以後5年間も全力での戦争が可能だった。
 アメリカの場合は最後に参戦した上に、他国に対して抜きん出た経済力、生産力があるので、その分国家としての体力が違っていた。イギリスが最も疲弊していたが、アメリカの経済力なら戦争が続く限り自らの助力で立たせて置く事は可能だった。その場合戦争継続能力そのものは多少低下するが、アメリカの優位を崩すほどではなかった。
 だからこそアメリカは、交戦国に対して「無条件降伏」などという一方通行の宣言を出すことが出来たと言えるだろう。講和とまではいかなくとも停戦を望んでいるのはむしろ枢軸側だが、「無条件降伏」などとは言われては、たとえ国家が破産すると分かっていても戦い続けざるを得ない。「無条件降伏」などしてしまえば、国家としての名誉と尊厳を失い、魂までが消え得てしまう恐れがあったからだ。故に「無条件降伏」という言葉は、既に息切れしつつある枢軸国を戦わせ続けるための最高の政治的手段だという評価も出来るだろう。

 だが、全ては数年後に怒りうる可能性のある未来の一つに過ぎなかった。
 1944年に入った頃は、アメリカにとっての全般的戦略状況は非常に悪かった。
 アメリカが弱いと考えていた日本に対する攻勢は、海軍力と海運力の双方で必要量を越える事できるようになる1946年を待たねばならなかった。通商破壊戦も、自分たちが仕掛ける方の成績が極めて芳しくない。しかも日本軍は、日本本土から太平洋の重要島嶼に対して強固な防衛体制を黙々と構築していた。小さな島一つ取るだけでも、報告に上がっているだけでも、どれだけの血が流れるか想像もつかない状態だった。
 しかも日本海軍は、現状で圧倒的優勢にある艦隊を使った攻勢も、南太平洋航路に中規模の機動部隊が出現し、1943年夏に南アフリカを叩いた後は、日本の勢力圏でしか大規模艦隊の目撃例がなかった。連合側にとって潜水艦拠点、護送船団の壊滅は痛い打撃だったが、太平洋では日米どちらも本気で攻める気のない戦争、「フォニー・ウォー」とすら言われる状態が続いていた。
 日本とアメリカが直接向き合う場所と言えば、アメリカ軍が壊滅したばかりの北太平洋の僻地だけで、こんな場所ではまともな総力戦は成立しなかった。敵と戦う前に、現地の厳しい自然との戦いをしなければならないからだ。
 このため日本は直接の圧力を受けることなく、余裕のある戦略的状況を利用して戦費を節約し、来るべき時に備えた防衛網の構築に勤しんでいた。
 だが一方で日本は、膨大な兵器と軍需物資をヨーロッパに注ぎ込んでいた。特に航空機材、高射砲などの防空兵器が多く、鋼材などの中間資材も大量にドイツ、イタリアに送り届けている。高純度燃料すら送り込んでいる。これはドーバー海峡を挟んでの航空戦と、ヨーロッパ近海での通商破壊戦を支援するためだ。
 何しろ、通商破壊戦以外で大規模な消耗戦を行っているのは、今のところヨーロッパ正面だけだからだ。そして連合軍が海と空でドイツを攻めきれない限り、ヨーロッパ大陸には上陸はできない。ヨーロッパ大陸に連合軍が上陸しなければ、ドイツが敗北する事もなく戦争はアメリカの思惑通りに進まなくなる。そしてヨーロッパで勝てる目処が立たない限り、日本を本格的に攻めるなど計画表の落書きでしかなくなる。
 そして日本の思惑が分かっていても、太平洋で押し出すことは現状のアメリカ軍には出来なかった。
 第二戦線の開設論はそれなりに強かったが、北太平洋を押し渡って日本本土北部に戦線を構築するか、南太平洋で橋頭堡を一から作るかという過酷な二者択一な上に、攻め込む前に現状では自分たちの数倍の規模と戦力を持つ日本海軍を相手取らねばならない。このため、とにかくある程度の艦隊が揃う1945年の夏以後でなければ、日本に対する攻勢は物理的に不可能だった。
 また、ルーズベルト大統領や側近の一部、アメリカの内務省、外務省の一部官僚以外は、ヨーロッパこそが主戦場だと正しく認識していたので、日本が後回しになる事そのものに反対はなかった。
 それに日本の事などよりも、アメリカ政府中枢の殆どの人々にとっての懸念は、アメリカ国内で厭戦気分が高まることだった。攻勢ができず停滞し、その上犠牲が積み上げられるばかりでは、国内にいまだ多数いる非戦派だけでなく好戦派までが戦争を否定しかねなかった。実際、大統領支持率は、南太平洋での惨敗以後は常に50%〜60%程度で推移しており、ルーズベルト政権の戦争始動に対しても疑問視する声が多かった。
 そしてアメリカ政府としては、アメリカ国民の支持を得るために攻勢に転じざるを得なかった。

 

●フェイズ45「アメリカの憂鬱」