■フェイズ45「アメリカの憂鬱」

 1943年下半期、ヨーロッパ上空と北大西洋では熾烈な戦いが続.いていたが、他は比較的平穏だった。
 主に枢軸側の勝利と戦線整理によって地上での戦いはほぼ皆無となり、兵士達の過半数を占める陸軍は、どの国でも将兵を怠けさせないように苦心していた。
 特に日本とアメリカの戦いは、日本の攻勢が1943年の上半期中に一段落していたため、水面下での戦いとアリューシャン列島の一部で散発的な空中戦が行われるだけで、停滞もしくは小康状態だった。これは日本の決定から、アメリカ西海岸、つまりアメリカ本土に上陸する気がないためだった。アメリカ本土に上陸などした時点で、アメリカとの戦争が感情的、政治的に解決できなくなる事を恐れていたからだった。日本軍(陸海軍問わず)の一部からアメリカ本土攻撃を求める声があったが、首相の永田鉄山以下首脳部は頑として認めず、強硬な者は辺境への最前線送りなどのパージまで実施した。
 日本は、自らの態度によって「限定戦争」をアメリカに強要していたとも言えるだろう。
 一方では、主に南太平洋の南米側では、秋以後アメリカの太平洋に向かう大規模護送船団と、日本の通商破壊艦隊の駆け引きが続いていた。だがアメリカは、経済効率を無視して国内の鉄道輸送で西海岸への輸送を代替し、さらに本来なら鉄道で運べない大型物資の多くも分解運搬で無理矢理鉄道で運ぶようになった。このため、艦艇や船舶を大規模に回航する以外で、戦闘らしい戦闘もあまり発生していなかった。それに連合軍の限られた量の船舶は、イギリスへの輸血を行う北大西洋航路でこそ必要とされ、アメリカ西海岸の海路は二の次でしかなかった。時折発生するのも、大規模な護衛を伴った大船団を日本の遊撃艦隊と潜水艦数個戦隊が襲いかかるという、鯨の群と鯱の群の戦いのような様相を呈していた。
 そして43年下半期に入ると太平洋に日本海軍の獲物はほとんどなくなったため、日本海軍は東アフリカの仏領マダガスカル島に主な拠点を置いて、喜望峰を越えて南大西洋での通商破壊戦を行うようになっていた。だが南大西洋を航行する連合国側の船の数は基本的に少なく、日本にとってはアメリカの不気味な沈黙の続く期間だった。このため日本では、ヨーロッパへの派兵が検討、そして準備が進んでいた。日本にとっては、自分が休む事よりも相手を休ませることが、後の不利をもたらすという恐怖感があったからだ。
 とはいえ、連合軍と言うよりアメリカが日本海軍に対して感じている警戒感と恐怖に比べれば、取るに足らない事だった。

 アメリカは、いつ何時日本の大艦隊がアメリカ西海岸に襲来し、上陸部隊を送り込んでくるのかと、戦々恐々の毎日を送っていた。日本海軍もそれを知っているので、無理を押してでも北の僻地に艦隊の一部を常に配備していた。
 だが、南アフリカ作戦を終えた後の日本海軍の主要艦艇は、主に空母を中心に順番に改装工事や長期整備に入っていった。主要艦艇の多くは、一連の大規模作戦の連続で文字通りの東奔西走で疲れているものが多かったし、乗組員にも休養と再訓練が必要だった。それが、かつての日本海海戦前のような来るべき戦いまでの僅かな時間だったとしても、休養を取り訓練を行わないとでは肉体面、精神面双方で大きな違いが出る。また、新たな艦艇を加えた上での再編成や、大規模化した連合艦隊の統合的な訓練や演習も必要だった。さらに艦載機隊には、新型機への機種転換訓練もある。他にも、各艦艇の改装も加わってくる。戦争とは、常に準備に最も時間のかかるものだった。
 一見暇な陸軍も、装備の更新や訓練の毎日であり、戦闘する機会が少ないだけで暇という事はなかった。
 日々の戦いが忙しいのは、アメリカ海軍の潜水艦との死闘が徐々に加熱している海上護衛艦隊と、ヨーロッパに兵器や物資を送り届ける者たちだった。運ぶ手段は主に船舶とシベリア鉄道関連となるが、航空機をユーラシア大陸横断で送り届けている人々は、毎日のようにシベリアの空を飛んでいた。この副産物で、ロシアやヨーロッパの土産が日本のお茶の間や市場に持ち込まれたりもした。
 また通商破壊任務と偵察任務を請け負っている潜水艦隊も、日々緊張した毎日を送っていた。特に通商破壊任務は、連合軍が多数の護衛空母や護衛駆逐艦を配備して危険度が大きく増したため、常に死と隣合わせという厳しい緊張下にあった。それでも彼らは任務に精励し、貴重な情報を日本にもたらしていた。
 そうした中で、一つの奇妙な状況が現れた。1943年秋以後、アメリカ海軍の新造艦艇が、ほとんど太平洋に入ってこなくなったことだ。これは輸送船団を護衛する艦艇だけでなく、日本海軍主力に立ち向かえる大型戦闘艦艇についても同様だった。
 アメリカ太平洋艦隊主力も、シアトルのピージェットサウンド海軍工廠のあるビクトリア湾にほとんど逼塞したままだった。時折訓練のために外洋に出てくるが、その時は無数の対潜哨戒機やハンターキラーと呼ばれる護衛駆逐艦の群が先駆けとなっていたので、攻撃どころか詳細を知ることは殆どできなかった。しかし、太平洋艦隊が新規艦艇を受け取っていないのは確かだった。大きな軍艦を大陸横断鉄道で運んでいるのなら話しは別だが、シアトルの海軍工廠では精々巡洋艦の建造が関の山で、それらの施設も戦争が始まってからは修理、補修用に常に空けられていると考えられていた。シアトルやサンディエゴなどで、新規の大型艦建造施設が作られたという動きや情報もなかった。大型ドックが作られたという情報はあったが、あくまで修理や整備用だった。
 確かに、シアトル、サンフランシスコ、サンディエゴでは、パナマ壊滅以後施設の拡充が急ピッチで行われているが、施設が稼働するだけで1年以上必要だし、艦艇が建造されるのはそれ以後の話しだ。入手される物資の移動を示す数字からも、アメリカ西海岸での大量の艦艇建造を行っている兆候はなかった。それ以前の問題として、西海岸には大きな製鉄所がないので、艦艇を建造する効率が非常に悪かった。
 実際、太平洋艦隊は現状維持のままだった。以前から配備されている数の多い戦艦はかなりあったが、相対的に見て日本海軍の半分以下で戦闘力に劣っていた。高速空母は僅かに2隻。歴戦の《エンタープライズ》と《エセックス》のみだ。パナマ運河には《ヨークタウン二世》が激しく破壊された無惨な姿をさらしたまま、修理不可能な「元」運河の栓になっている。それ以外に高速軽空母が2隻ほど護衛船団随伴の形で回されていたが、全てを合わせても日本の機動部隊1個群程度の戦力しかない。陸軍航空隊と濃密な連携をとっても、アメリカ西海岸沖合での戦いですら太刀打ちが難しい戦力でしかなかった。
 故にアメリカは日本海軍を恐れているのだが、日本にはアメリカ西海岸を本格的に攻撃する気がないので、静かな睨み合いが続いているに過ぎない。
 しかしアメリカ東海岸では、新たな軍艦が続々と誕生しており、その中には戦艦や大型高速空母も含まれている。巡洋艦改造の軽空母などは、それこそ毎月のように就役していた。駆逐艦の数については、枢軸側が考えたくないほど浮かび始めていた。大型空母を作るために新たに8基もの大型船台を作ったという情報には、日本海軍の関係者が目を丸くしたほどだった。
 またイギリスの海上戦力だが、確かに既に往年の勢いは全く無くなっていた。空母はほとんどなく、戦艦についても新鋭戦艦が4隻、旧式戦艦が各種合計3隻、巡洋戦艦1隻にまで減少していた。幸いと言うべきか、アメリカで大改装工事が行われていた13.5インチ砲装備の旧式戦艦4隻、巡洋戦艦1隻が装いを一新して再就役したが、高速戦艦に生まれ変わった巡洋戦艦《タイガー》以外は船団護衛や上陸作戦支援程度にしか使えなかった。そしてイギリスは、ヨーロッパと北大西洋以外で主要艦艇を運用する気を無くしていた。
 つまり日本海軍と対するのは、アメリカ海軍しか無かったわけだ。そしてアメリカ海軍が、新たに就役した艦艇群を太平洋に回さない可能性は、大きく二つあると日本は考えていた。
 一つは南米周りの回航を日本軍に察知され、各個撃破されるのを恐れている。もう一つは、大西洋で何かを企んでいる。さらに別の意見として、全ての空母をイギリスに航空機を運び込むことに使っているというのもある。北大西洋の安定化のため、ドイツ艦隊を叩こうとしているという意見もあった。

 これに対して日本海軍は、1944年春頃までに各艦艇の改装、艦隊の再編成、整備補修、そしてかなりの数の乗組員の休養と再訓練を終えていた。
 新規艦艇の方も、《紀伊級》戦艦の残り2隻と、新鋭の大型装甲空母の《龍鳳級》空母の就役と実戦配備が始まっていた。同級空母は、44年内に6隻全てが実戦配備予定だった。艦艇の損傷が戦前の予測を遙かに下回っていたので、そこでの余力によって新規艦艇の建造も予定を前倒し出来るほど順調だった。
 新たな艦艇整備計画も1942年に予算通過しており、《紀伊級》を凌ぐ排水量10万トンを越える巨体とそれに似合う戦闘力を持つ超戦艦と、《龍鳳級》の拡大型となる次世代型の大型空母が共に4隻起工されていた。新規の巡洋艦も多数起工された。どの国を目的とした艦艇整備かは問うまでもなかった。他にも1943年度、44年度に、対潜水艦艦艇を数の上での中心として多くの艦艇が計画されていた。そして規模はともかくアメリカに次ぐ日本の造船業界は、膨大な量の艦艇を次々に前線に送り出していた。兵部省と日本海軍の関係者は、口を揃えてこれでも足りないと言っていたが、作っている側としては俄に信じられなかったと言う証言が非常に多いような状態だった。その証拠とばかりに、柱島は旭日旗を掲げた艦艇で埋め尽くされていた。
 こうした日本の情報は、ある程度アメリカも掴んでおり、アメリカ海軍の焦りを強まらせていた。現状でのアメリカ海軍の唯一の攻撃手段である潜水艦は、常に過酷な戦いを強いられていた。損耗率は、日本の主要航路を狙う場合50パーセントを越えている。2隻に1隻は、出撃したら戻ってこなかった。
 また日本海軍では、新型の各種戦闘機、爆撃機も43年頃に相次いで大量生産が始まった機体の配備が進み、第一線部隊のかなりの数が新型機に更新されていた。どれも戦訓を踏まえて開発された強力な機体ばかりで、アメリカ軍にとっては大きな脅威だと考えられていた。
 一方日本陸軍では、各師団の装備充実が進むと同時に、アメリカを中心とした連合軍の反撃に備えた地域への再配置が進んでいた。特に日本北部、南太平洋の日本領が重視され、島嶼や沿岸部の要塞陣地化も進められていた。島によっては、長期持久戦を前提として全島が要塞化されたり、地下陣地だらけという状態のものもあった。これらの島は、大規模に毒ガスを使わない限り完全攻略は事実上不可能とされていた。
 南太平洋各地やオーストラリアにも、再びかなりの部隊が派遣されていた。インド洋方面では、一部島嶼が太平洋と同じように要塞化、拠点化された他は、やはりセイロン島が防衛の要だった。また、インド洋で最初に戦場になる可能性が高いマダガスカル島には、ヴィシー・フランス政府との合意によって島の南部に旅団軍団の守備隊と共に特殊戦部隊が多数投じられ、駐留する航空隊の規模も1000機を越えていた。周辺島嶼を含めると、インド洋南西部全体で1500機にも上る。そしてここが、日本軍の終着駅だった。これでも事務方の兵部省としてはかなり無理をしているのだが、容易くインド洋に敵を入れないためには仕方なかった。そして、現在進行形として連合軍を疲れさせる為の攻撃及びその為の拠点も必要だった。
 南アフリカのダーバンなどの都市には、マダガスカル島南端から重爆撃機による空襲も定期的に実施されている。現状では、日本にとって最果てといえるマダガスカルと南アフリカの間での航空戦が、ほぼ唯一のまともな戦線だった。そして日本軍に半ばつき合うかのように、アメリカ軍も南アフリカに一定の戦力を注ぎ込んで、両者共に予想外の戦場で不毛な消耗戦を行っていた。
 このため日本陸軍は、マダガスカル方面に次々に新兵器を送り込み、特に航空機の実戦実験場としていた。「百式」、「一式」、「二式」、「三式」、「四式」と毎年のように誕生する各種新型戦闘機は、地上戦を行えない陸軍のジレンマを現しているかのようだった。
 なお、陸軍航空隊での機体の開発と更新も進んでいたが、インドやロシアでの戦いのように大量に運用する必要が大きく低下しているのが現状だった。このため航空機については、多くがドイツを始めヨーロッパ諸国に大量供与されていた。
 1943年春から一年の間に、日本からヨーロッパへ供与もしくは輸出された機体の数は5000機を越えている。大規模な航空消耗戦が行われているのがヨーロッパだけだった事と、太平洋で「いんちき戦争」状態が続いている為だった。また日本軍としては、自分たちの開発した兵器の実験と教訓入手も目的としていたため、余程の機体でない限り、ほとんどの機体がドイツやイタリアに供与や輸出されていた。中にはドイツなどの技術をフィードバックやキャッチアップして開発した機体や、ドイツ製のエンジンを搭載した機体もあり、実に様々な日本機が違う旗を掲げてヨーロッパの空を飛ぶことになる。
 日本が生産した機体の多くは、ヨーロッパの液冷エンジンとは違って空冷エンジンが多かったが、性能的には互角でほとんどの場合航続距離の面で大きなアドバンテージがあった。ヨーロッパ各国からの評価としては、航空機を生産できない国からは特に有り難がられていた。何しろドイツは、他国に供与する余裕を徐々に無くしていたからだ。またドイツなどには、防空戦に必要な高射砲、砲弾なども輸出又は供与され、日本でライセンス生産されたドイツと同じ高射砲と砲弾は、ドイツ軍でも有り難がられていた。

 一方では1943年に入る頃から、ドイツから日本に対する海空戦力の大規模な派兵要請が何度も行われていた。いまだリッペントロープを頂点としているドイツ外務省の言い分をそのまま訳せば、連合艦隊の半分と3個航空艦隊(実働2000機)の戦力を派兵してくれれば、ドイツ軍はイギリス本土に対する上陸作戦が決行できるというものだ。
 パナマ運河破壊以後、派兵要請は日々強まっていた。同時に、アメリカ西海岸に対する侵攻の要請も出ていた。相手がアメリカでも、押しまくれば勝てるとでも言いたげな要請で、そうした要請の多くは主にドイツ外務省が行っていた。強硬な意見の多い親衛隊の方は、基本的に有色人種を蔑んでいるためか、日本軍の動きをほとんど無視していた。
 これに対して日本政府は、イギリス本土侵攻は既に時期を逸していると考えていたし、仮に英本土を落としてもイギリス政府はカナダに亡命するだけで政治状況はむしろ悪化するだけと考えていた。当然だが、際限ない戦線の拡大にも強く否定的だった。
 日本政府は既に勝だけ勝ったと考え、後は連合軍に大きな消耗を促して国民の間に厭戦感情を作り、戦争そのものをドローに持ち込むことを主眼に戦争計画を進めていた。また、アメリカ国民の厭戦感情醸成の為には、アメリカ本土に対する本格的な攻撃は可能な限り行うべきではないと言う考えを持っていた。
 そして日本としては、アメリカがヨーロッパで消耗戦をしているにしても、なるべくアメリカに余裕を与えないことが大切だという認識があった。このため1944年春の発動を目安に、再び攻撃的な作戦が立案される。
 作戦名は「あ号」作戦。作戦自体は単純で、再び北太平洋で連合艦隊が暴れ回るというものだ。混乱を利用して、潜水艦による大規模な通商破壊戦も一時的に実施される。
 前回との違いは、今回は全ての主要艦艇を北太平洋上に出撃させること。そしてあくまで欺瞞だが、日本本土に1個方面軍、10個師団以上の陸軍部隊と大規模な基地航空隊、それらを乗船させる300万トン分の輸送船舶を揃えることだった。当時の日本には、それだけを欺瞞行動として行える力があった。
 作戦そのものも偽の作戦が作られ、北海道に司令部も開設され、アメリカに情報を掴んでもらうための暗号無電も飛び交った。「北号作戦」という作戦名称までが与えられた。そして連合艦隊主力が北太平洋方面で作戦行動するのは事実なので、こちらの方の準備も入念に行われた。
 なお用意された陸軍部隊と輸送船舶は、欺瞞作戦終了後に他の重要拠点などに配備される予定になっていた。

 当然と言うべきか、アメリカでは大混乱が発生する。
 言うまでもなく、日本軍が遂にアメリカ本土を狙っている可能性が高まったと判断されたからだ。昨年夏からの沈黙も、このための準備だったと一般的には解釈された。
 上陸作戦については、欺瞞行動の可能性が最初から指摘されていたが、空前の大艦隊、世界で最も戦闘的で凶暴な艦隊がアメリカ西海岸を目指す可能性については否定しようがなかった。それに欺瞞でなかった場合に備え、シアトル方面を中心とした防備も固めなくてはならなかった。
 混乱が始まったのは、1944年に入ってすぐ。大人しかった日本の暗号無線の数が極端に増えたのを発端としている。
 しかしこの時期のアメリカ及び連合軍は、ヨーロッパ方面での作戦準備が進んでいたため、太平洋方面への軍備増強が進んでいなかった。そして議論が重ねられたが、結論は現状維持という名の傍観に等しかった。可能な限り地上部隊や航空機は増やすが、太平洋艦隊については本当に敵の上陸船団が北太平洋を押し渡らない限り待避。取りあえずサンディエゴまで後退し、必要ならさらに逃げる予定も組まれた。日本軍の西海岸攻撃中に横合いから殴りかかっても、「奇跡」でも起きない限り勝てる見込みがないからだ。
 高速空母数は4倍、艦載機数は5倍以上、戦艦数も2倍以上の差がある。戦艦については個艦性能の差が加わるので、実際は三倍以上の差だ。現状の太平洋艦隊では奇跡が起きても勝てないというのが、アメリカ海軍内での評価だった。1年半から2年後には正面から決戦を挑めるようになるが、それまでは忍従するしかなかった。
 仮に大型空母の数が一定数あれば話しも変わってくるが、参戦前の戦艦重視の建造計画のせいで、各大型艦用造船所では建造に手間のかかる戦艦ばかり作っていたため、それも叶わぬ夢だった。しかもせっかく作った新鋭戦艦も浮かべたうちの半数以上が既に沈み、戦闘をすれば戦力差のため負けてばかりのため、海軍内の士気も落ちる一方だった。
 そうした中で、日本の侵攻もしくは大規模な攻撃が明らかとなると、アメリカ海軍内で大西洋艦隊の全兵力を太平洋に回航するという案が浮かんでくる。大量の軽空母と4隻の大型空母、2隻の新鋭戦艦を回せば、戦いようによっては勝機が見えるとされたからだ。

 1944年春のアメリカ大西洋艦隊には、4隻の《エセックス級》空母と11隻の《インディペンデンス級》軽空母と、700機近い艦載機が配備される予定だった。戦艦も予定を早めて建造した新鋭の《ミズーリ》《ウィスコンシン》が実戦配備される。大西洋の制海権を、完全に連合軍が握れるだけの戦力だった。1箇所の造船所で50隻も建造された護衛空母の80%以上も大西洋に配備され、枢軸側の潜水艦を制圧しつつある。
 なお《インディペンデンス級》軽空母は、50隻以上も大量建造計画が立てられた《クリーブランド級》軽巡洋艦の船体を利用して建造された、高速発揮可能な軽空母だった。
 本来なら《エセックス級》空母の補助用として運用される予定だったが、日本海軍が異常なほど艦艇を建造した事と日本海軍に対する初戦での敗退、さらにアメリカの大型艦建造施設の多くが戦艦建造で埋まっていたため、大型空母を補うためにより多くの建造が計画された。建造総数は二度の計画で合わせて19隻で、1944年3月時点で13隻が就役し、うち11隻が稼働状態にある。そして建造場所が東部沿岸地域ばかりなので、このうち9隻が大西洋艦隊に所属していた。
 また同級は、艦載機搭載数が45機と資料などに明記されることが多いが、これは飛行甲板上に置いたり多数のスペアを含んだ場合で、通常は24機の戦闘機と9機の雷撃機を運用する。運用機数が大きく違うのは、巡洋艦改造の空母のため艦内空間(格納庫)が狭く、飛行機の搭載は出来ても運用が難しいからだった。日本海軍の改装軽空母も同様の問題に苦しんで、結局激しい戦いが予測される空母機動部隊から外している。しかし台所事情の厳しいアメリカ海軍では、主力艦艇として運用せざるを得ず、非効率を甘んじて受け入れて運用が行われることになる。しかも日本海軍と対する場合、攻撃力を重視しなくてはいけないアメリカ海軍は、危険を甘んじて受け入れ12機の急降下爆撃機をさらに搭載していた。故に搭載機数は45機だった。
 なお、小型空母は飛行甲板が短く狭いため、主に着艦時の事故の発生確率が高くなる。加えて、艦内空間が狭いため航空機用の弾薬や燃料を多くは搭載できず、さらに船体規模の関係から艦としての基礎的な防御力が低い。無理に艦載機用の物資を大量に搭載すれば格納庫にも置かねばならず、当然被弾したときに危険が増す。物資を減らせば、戦闘継続能力が低下する。こうした弱点を克服するため、日本海軍は可能な限り設計を簡略化した戦時急造用の《龍級》中型高速空母の大量建造に踏み切ったが、そこまで航空母艦の研究がなされていなかったアメリカとの違いを見ることが出来る。

 アメリカ海軍は、そうした母艦群を日本海軍にまとめてぶつけようと言うのだ。また太平洋、大西洋両艦隊を合わせれば、艦載機数は1000機近くになる。沿岸に大量配備され対艦攻撃の訓練を積んだ航空隊と連携すれば、作戦さえ妥当なら撃退できる可能性があると考えられた。また、日本軍が本当に西海岸侵攻を行った場合、分かった段階から大西洋艦隊を回航したら間に合わないという論陣も張られた。何しろパナマ運河が使えなかった。
 一方では、全てを投じて大敗したら、さらに一年も日本に対する反撃を遅らせねばならず、それは戦争全体のスケジュールから許容できる損失ではなかった。数的劣勢での戦闘は敗北の可能性も高く、投機的な作戦は許容できないと言う意見も多かった。しかも、サモアで行われたのと同じ形態の戦闘であるため、日本側も対策を取ってくる可能性が高いし、アメリカ側の意図は見抜かれているという意見も多かった。
 また反対派は、ヨーロッパこそが主戦場で、すぐ先に反撃作戦の第一撃(=北アフリカ作戦)が始まろうとしているので、太平洋での作戦には否定的だった。
 しかし、日本軍にアメリカ本土に上陸されたらどうするのか、という大きすぎる問題が横たわっていた。
 そして無視できないのが、アメリカ国民の意見だった。1944年秋には、アメリカ大統領選挙まで存在している。
 太平洋の西海岸、中西部地域では日本軍が明日にも上陸して来るというので、冬の間からデマや嘘が飛び交っていた。高射砲が友軍機を落とす事件も起きた。西海岸に上陸した日本軍は、アメリカ全土を爆撃できるという噂(物理的には事実)も飛び交った。アメリカ軍が日本軍を引き入れてから反撃するという噂も飛び交い、アメリカという国家に見放されたと考える人々は政府と軍を一斉に非難した。西海岸とロッキー山脈近辺の州では、大統領支持率、民主党支持率の双方が急落した。既に日系アメリカ人は全て強制収容所に入れられていた事が逆に幸いして人種的な混乱は少なかったが、アメリカ政府としては何の慰めにもならなかった。そして上陸されないまでも、大規模な空襲を受けた場合のアメリカ国民への心理的影響を政府は強く気にしていた。
 しかし当時アメリカ西海岸の人口は、アメリカ全体の5%程度でしかない。ロッキー山脈の諸州だけだと、もっと少なくなる。つまり、西部より中部や東部の国民の意見が過半となる。
 究極的な選択肢としては、西部10州ほどの意見を押しつぶしてでも、ヨーロッパに対する1日でも早い攻勢を取るか、あくまでアメリカ本土防衛を重視して出来る限り守りを固めるか、という意見に集約される事になる。そしてアメリカ政府中枢が気にしたのが、同年11月に迫った大統領選挙だった。そして秋ではなく7月までには、現政権への支持率を上げる事を重視しなければならなかった。でないと大統領選挙で、民主党が、何より現職大統領であるルーズベルトが勝てる可能性が大きく低下する。
 そうして下った政治的な結論が、本土防衛だった。
 ヨーロッパに対しては重爆撃機をさらに送り込み、ドイツに対する爆撃を強化することで当面は対処し、全力を挙げて日本軍のアメリカ本土侵攻を阻止する事が決まった。この決定はほとんどアメリカ独断で行われたため、イギリスからは強い抗議が寄せられた。自由フランスのド・ゴール将軍も、面会したアメリカ政府高官を口汚く罵った。
 しかし戦争の現状がアメリカの国力によって行われている為、イギリスは事後承諾で受け入れざるを得なかった。しかし、当然ながらイギリスのアメリカに対する不信が強まることになる。この事で英国宰相のチャーチルは、後に「この時アメリカは、戦争全体を捨てて祖国防衛と、何より大統領選挙を選んだ」と記している。

 アメリカの方針が決まったのは、1944年1月末。3月までに大西洋艦隊主力を回航し、西海岸には戦闘機と陸軍部隊を送り込めるだけ増強することになる。
 これまでもシアトル、タコマを中心とするワシントン州には、1個軍、10個師団の陸軍部隊が配置に付いていた。航空機の数も、空母機動部隊を除いて各種合計2000機に達している。しかもこの数は、予備機を除いた数字だ。ただし、重爆撃機の一部は逆にヨーロッパ方面に回されたため、遠距離攻撃能力が若干低下していた。
 そして短期間の間に、イギリスに派遣予定だった陸軍2個軍団と戦闘機・戦術爆撃機合わせて500機の実働部隊がアメリカ国内を移動してシアトル方面に増強されることになる。同時にオレゴン州、カリフォルニア州の地上兵力も増強され、従来のものと合わせて西海岸全体で陸軍が28個師団、正面戦力90万、作戦機数約4000機が配備されることになる。しかも兵員数は第一線の師団のものだけなので、陸軍の支援部隊、支援要員、航空隊の要員合わせて40万人、さらに各都市の膨大な数の高射砲部隊を加えると、300万人近い兵力が配備されることになる。28個師団という陸軍師団数も、全軍で74個のうち本土にいるほとんど全てが西海岸に集められる事になる。部隊の移動の手間と経費だけでも、相当な浪費だった。鉄道運行の変更だけで、アメリカの戦争経済に若干ながら悪影響を与えたほどだった。
 ちなみに当時のアメリカ西海岸の総人口は700万人程度だったので、この頃アメリカ西海岸に溢れた軍人達の数がいかに多かったかが分かるだろう。おかげでというべきか、西海岸の経済発展が大きく促されるという副産物まで産んだほどだ。
 本来、これだけの陸軍、空軍戦力を配備すれば、いかに世界最強とされる当時の日本海軍・連合艦隊でも、短期的にはともかく長期的に攻めきれるものではない。局所的に戦力を集中投入するなどして、一時的な上陸には成功するかもしれないが、消耗戦に巻き込まれて大損害を受けて短期間の内に撃退されるのはほぼ確定事項だった。
 要するに、過剰すぎる戦力といえる。
 しかしアメリカでは、戦略よりも政治、しかも国内政治を重視しなければならなかった。これが一年前なら海軍の迎撃は行われなかったかもしれないが、政治の季節の到来がアメリカの戦略をゆがめていた。だが一方では、日本軍が本気で西海岸に攻め込んだ場合、アメリカの長期戦略に間違いはなく、通常の海上戦闘の連続よりも短期間でアメリカは太平洋での制海権を奪うことが可能だった。故に、一概にアメリカの当時の戦略を否定することも難しい。
 だがこの時ばかりは、結果的にアメリカは自作自演を演じることとなる。

●フェイズ46「東太平洋海戦(1)」