■フェイズ50「終幕に向けた一歩」

 1944年、ヒトラーの強制退場で世界が政治の季節に入る少し前、ヨーロッパに本格的な春が到来しようとしていた頃、ドーバー海峡を新たな飛翔物体が飛んだ。
 飛翔物体の名は「フィーゼラー Fi103」。新たな推進方法を持つも、最高速度は当時のレシプロ戦闘機でも追いつける程度だった。だが、パルス・ジェット推進、無人という2点が最大の特徴で、何よりコストが安価で量産しやすいという利点を備えていた。
 そして4月30日深夜、「V1作戦」が発動される。
 「V1作戦」のVとはドイツ語の「復讐」の頭文字をとったもので、今までドイツが連合軍から受けた戦略爆撃に対する報復を意味していた。しかしあまりに露骨過ぎる作戦名ため、現場などでは攻撃開始日にあやかって「ワルプルギス(魔女)の夜」と呼ばれる事もある。この名は、パルスジェットの耳障りなエンジン音と合いまって、その後兵器の俗称としても広く用いられる事になる。
 ヒトラーが直々に命じて行わせた大規模な作戦で、「大西洋の壁」各所に秘密裏に設置された専用発射施設、車積型の移動発射設備など、一度に300機の発射が可能となっていた。しかも航空機のカタパルト発進とほぼ同じ機構のため、連続発射もできる。
 この作戦に用意された「フィーゼラー Fi103」は3000発。
 一部航空機の生産ラインを変更してまで、三ヶ月で急速生産が行われたものだった。しかし既存の航空機より遙かに生産が簡単でコストが安いため、短期間で多数を揃えることが容易だった。
 しかも「フィーゼラー Fi103」は、弾頭に最大850キロの爆弾を搭載できる。そして無人のため、自らの犠牲は皆無という全ての面でのコストパフォーマンスに優れた兵器だった。爆撃精度は期待できず精密爆撃にはまず使えないが、都市や大きな目標に向けて大量に撃てば、十分な効果が見込めた。この作戦以後も量産と投入が続けられ、迎撃のために多数の連合軍機をイギリス本土上空に縛り付けることになる。

 そして4月30日の夜、無人のジェットミサイルが一斉に発射される。
 発射の様は、イギリス軍のレーダーに直ちに捉えられ、緊急迎撃命令が出される。しかし今回のドイツ空軍の出撃は、何も知らない連合軍から見て異常だった。まずは、空軍基地を飛び立つ機体が少ない事。逆に飛行場ではない場所からの発進が異常に多い事。一度に発進する機体数が異常に多い事。全て低空を飛んでいる事。そして数が異常だった。僅か30分ほどで、ドイツ軍の「秘密基地」を飛び立った小型機の数は1000機を越えた。しかも徐々に加速を強め、ドーバー海峡を越える頃には時速600キロに達していた。巡航速度としては考えられないほどの高速で、イギリス空軍の防空組織、中でも夜間戦闘機隊は大きなとまどいに直面した。相手が小型機なので、危険を押して昼間用の小型戦闘機までが多数発進した。
 そして目標上空に行って照明弾を投下すると、地上すれすれといえる低空を噴煙と奇妙な音をあげながら飛翔する超小型のジェット戦闘機が、無数に飛翔しているのが確認される。しかも時速600キロ近くあるため、不意の攻撃だったこともあり迎撃は難しかった。高射砲弾幕やサーチライトも、この夜は対応があまりできなかった。戦闘機の最高速度に近い速度で低空飛行するため、従来の方法では捕捉しきれなかったからだ。当日の夜で一番有効だったのは、直近を通過する際に咄嗟射撃ができた20ミリ程度の単装高射機関銃だったと言われてる。
 そして超小型機は、そこかしこに墜落して爆発した。まさに墜落であり、有人機の機動とは思われなかった。だが落ちた場所は限られていた。南東部各所の規模の大きな空軍基地や、野営の大規模物資集積所、そして主な目標は王都ロンドンを初めとする南東部沿岸の都市だ。
 その夜のイギリス本土南東部一帯は、3000発の「フィーゼラー Fi103」によって大混乱に見舞われる事となった。
 まさに「魔女の夜」だった。
 そして翌朝、墜落した破片の取りあえずの解析から真実が判明した。それよりも早く、翌朝すぐにも大規模な報復爆撃が計画されるが、行ってみるとドイツ空軍の「大歓迎」を受けて大打撃を受けることになった。
 アメリカ空軍は、こちらも新兵器で応えるべく新型重爆撃機の「B-29 スーパーフライングフォートレス」を実戦初投入したが、ドイツ空軍は世界初の実用ジェット戦闘機「Me-262 シュワルベ」を多数投入してそれに応えた。それ以外の航空機の数も非常に多く、完全に連合軍の物量を圧倒していた。それだけ、この作戦にドイツが準備をしていた証拠だった。

 この夜と翌日の戦闘は、戦争が新たな次元へと移行しつつある前兆を示すものだった。しかもドイツの後方では世界初の実用ロケット、準中距離弾道弾「A4」の最終テストと量産が進みつつあり、アメリカでは砂漠の真ん中に世界中の科学者を集め、究極の破壊兵器の開発を進めていた。日本海軍では、陸上攻撃機に搭載することを前提としたロケット式精密誘導兵器の始祖が、プロトタイプから量産への階段を着実に上っていた。
 そうした兵器が使われる戦争は、従来の戦争を越えた「最終戦争」を予感させるには十分なものばかりだった。
 そして新時代の兵器による爆撃を受けたロンドンでは、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが、本格的な活動を開始しようとしていた。チャーチルを動かせたのはヒトラーの死ではなく、アメリカの裏切りとも言える祖国防衛戦となった大規模海上戦闘でのアメリカの惨敗だった。
 彼の行動は、戦後のイギリスの地位を少しでも引き上げるためのものであり、単純な戦争の勝者や敗者になるためのものではなかった。
 そしてほぼ同時期、枢軸のそれぞれの国の一部でも、戦争を終わらせるための努力が行われていた。枢軸陣営としては、何とかして勝ち逃げを図りたかったからだ。
 しかも同時期、イタリアでは「我らが頭領」を政治的に引き下ろすための裏工作が進められ、日本では政府を挙げて本格的な講和の模索が実施された。そして最も苛烈だったのが、ドイツ国防軍の一部の行動だった。7月15日にヒトラーが暗殺されナチスが消滅した事で、世界政治が一斉に動き出すことになったのだ。
 例外はアメリカ合衆国だった。
 アメリカは、口先では枢軸の完全な打倒や無条件降伏など景気の良い言葉を連発していたが、その実は1944年11月に行われる大統領選挙に全ての行動が集約されていた。参戦時期すらも、一部では中間選挙を狙ったものだったと言われていたほどだった。
 これを現すかのように、6月のヨーロッパの空ではアメリカ軍によるヨーロッパに対する激しい爆撃が行われることになる。
 アメリカは、6月初旬からドイツのジェット爆弾への対向から、ついに「1000機爆撃」に踏切り、犠牲を省みないような激しい空中戦が毎日のように実施された。しかも6月6日には、ベルリン大爆撃が実施されていた。この爆撃は、ドイツ空軍の犠牲を省みない断固とした防戦によって完全に失敗して、攻撃側の30%撃破という極めて高い犠牲を出していた。だが、沿岸部を中心とした爆撃は以前よりも規模と密度を拡大して継続された。当然ながら、連合軍特にアメリカ軍の犠牲も大きかった。
 ヒトラーが暗殺された日も、アメリカ軍の半ば常軌を逸した無差別爆撃への対策が主な議題で、さらには準中距離弾道弾「A4」による対向爆撃に対する最終命令が出される予定だったと言われている。
 そしてルール工業地帯やハンブルグなどの北部沿岸都市上空で激しい戦いが行われている中で、ヒトラーの死、ナチスの消滅、ドイツ新政府の誕生と7月後半は毎日のようにニュースが飛び出し、世界中は驚愕に包まれた。
 枢軸側はただちに対応協議に入り、遠く日本も特別機を仕立ててベルリンに重光外相が特使として飛んだ。
 そして7月28日、新生ドイツと日本、イタリアなど枢軸諸国による初めての国際会議、戦略会議が行われ、会議場となったウィーンから世界に向けて新生ドイツとそれを認めた国々の最初の戦争終結に関する方針が発表される。
 発表は「ウィーン宣言」と呼ばれ、大きくは連合国に対して名誉ある停戦と講和会議開催を呼びかけるものだった。
 しかも枢軸側共同での停戦、講和条件においては、今までのドイツとは全く違う方針が示されていた。
 大きくは以上の項目からなる。

 ・不賠償、不割譲。
 ・占領地からの撤退と各国への領土の返還。
 ・占領地の独立復帰。
 ・旧植民地地域の独立承認。
 ・旧ドイツ帝国領(1919年まで)の承認。
 ・以上を前提とした即時停戦と講和会議の開催。
 ・国際連盟に代わる、全ての主権国家が参加した国際組織の設立もしくはそのための準備会議の開催。
 ・通商国交の回復と、公正な自由貿易体制の確立。

 ここでドイツは、第二次世界大戦前に併合したり独立を奪った地域のほとんどからも可能な限り早く軍を撤退させると宣言し、既に単独で停戦、講和しているフランス、ロシアなどにも適応すると発表。その上、戦争遂行中も自分たちだけで出来ることは直ちに実施するとすら明言していた。当然だが、上記の行動は枢軸全体での取り決めのため、日本、イタリアも同様の行動を取ることを宣言上で明記していた。
 また同会議には、枢軸主要国に呼ばれた形で多くの国、民族が代表を送り込んでいた。枢軸同盟に参加している国、旧植民地などから独立した国の代表達の姿だった。ほとんどがオブザーバーという立場だったが、中立国の姿もあった。そうした中に中南米の国々も一部加わっていた事は、特にアメリカに大きな衝撃を与えた。
 そして枢軸側主要三国以外も含めた会議がその後開催され、アジア諸国は基本的に大東亜会議の理念をこれからも守っていく事を確認し、全ての国が連合軍の大西洋宣言の理念も尊重し、受け入れる用意があるという宣言が出された。
 そして宣言を出した上で枢軸三国は、仮に今すぐ講和や停戦が不可能であっても、今までの様々な戦争と同様に、交戦中であっても外交の断絶をせずに講和に向けた対等な国家関係上での話し合いは行うべきだという意見を発表。中立国での枢軸、連合による会議の開催を提案していた。
 ヒトラーとナチスが突然消えた事への反動と言えるドイツの動きであり、最初ドイツ代表が提案したことは日本やイタリアの代表すら慌てさせるものだったとも言われている。

 連合軍は、枢軸側の一連の行動に大きく動揺した。
 ヨーロッパの人々にしてみれば、悪魔や魔王とすら恐れたヒトラーとナチスがなくなってドイツが正気に戻ったのなら、戦争を続ける理由がほとんど存在しないのではないかと言うのが一般論だった。しかもドイツが占領地から引き上げて独立も返すと言っている以上、尚更だった。実行されるかどうかの不安は大きかったが、ヒトラーとナチスが消えて戦争終了に向けた大きな可能性が明示された事は明るい兆しと捉えられた。
 そして枢軸側、枢軸に解放された側からすれば、枢軸側が明確なカードを、しかも交渉上で極めて重要なカードを切った以上、今度は連合側が単なるおきまりの拒絶ではない行動をするべきだというのが一般論だった。
 そして何より、多くの人が既に戦争に飽きていた。特にヨーロッパの人にとっては、戦争は既に5年も続いていた。前の大戦でも4年だったのだ。人も国も疲れていて当然だった。
 しかし連合の為政者達は、簡単には相手に握手を求められなかった。
 イギリスとしては、戦争の正義などは国家として半ばついでだが、少しでも優位な講和条件を作り出したかったし、何より戦争で大きく傾いた経済のためにもインドなどの植民地の権利を出来る限り取り戻さねばならなかった。そうしなければ、戦後国が立ち行かなくなってしまうからだ。
 だがイギリスの首相チャーチルを始め多くの者は、今更植民地が元通りになるとは考えていなかった。既に日本の侵攻と占領で自由と独立という種は蒔かれ、既に育ち始めているからだ。気の早い植民地では、既に日本人を蚊帳の外にして近隣民族同士の争いすら始まっていた。日本の行いは、イギリスにとってパンドラの箱を開けたようなものだった。
 このためイギリス連邦の解釈を改め、植民地「だった」地域に対しては自らの政治的影響力を確保する事に腐心するべきだという意見が、主に水面下で了解されつつあった。
 一度は世界を制したイギリスの為政者は、「ジョンブル」と揶揄される心意気と、現実を見据える目を持っていなければ務まらないのだ。

 そして世界大戦によって次の世界制覇を目指していたアメリカだが、極めて強硬な態度を取り続けていた。
 ドイツのクーデターが成功した直後も、ドイツのクーデター政権は直ちに戦争を止め旧ドイツ政権の罪を精算する為にも、直ちに無条件降伏を受け入れるべきだという主旨の言葉が発表されている。
 既に自らが示した条件は、独裁者が消えて政権が変わっても一切妥協しないと言う意思表示だった。
 またアメリカ国民に対しては、既に20万人以上の戦死者を出しているのに、何らまともな反撃が出来ていない以上、現状のアメリカ政権が講和を求められる訳がなかった。不用意に参戦した罪を、現行のアメリカ政府が国民から問われる事が間違いないからだ。
 それに、戦争はようやくアメリカにとって上向きとなってきているので、戦いはこれからだという雰囲気も強かった。アメリカ産業界も、自分たちの懐の為にも、もう二年程度は戦争を続けてほしいというのが本音だった。
 そして全ての意見を突き詰めてしまえば、ある程度の犠牲を甘受してでも、アメリカが勝利するまで戦争を続けるべきだというのが、この時点でのアメリカの意志だった。
 それにアメリカの思惑としては、後3年から4年戦争を続ければ確実に勝てるのに、物理的要素として戦争を止める理由はない筈だった。
 だが、世界情勢とアメリカの思惑には明確な温度差が出つつあった。アメリカ、イギリスによる会議でもこれは現れ、ルーズベルトとチャーチルの意見に食い違いが出ていた。
 チャーチルは、とにかく相手国の真意を知るべきだとして、場合によっては中立国での話し合いの場を設けるべきだと提案したが、ルーズベルトは悪辣な侵略国家対する妥協は連合軍の弱腰を見せ、結束を弱めることになると強く否定的だった。

 一方、主にアメリカに対する庇護を求めていたヨーロッパの各亡命政府は、強いジレンマの中にあった。
 このままドイツが戦争中に各国の独立を返還して、戦争自体が枢軸の勝利で終わってしまえば、自分たちぼお払い箱となってしまう可能性が高いからだ。「旗」や「御輿」としてあった方が良い王家や貴族などは例外かもしれないが、戦後もドイツの影響が強くなる事が確実なヨーロッパ地域では、アメリカの影響が強い自分たちは排除されるのが確実だからだ。このためある国は、イギリスの提案に賛成した。またある国は、一日も早いヨーロッパへの反抗作戦実施をアメリカに強く求めた。そしてまたある国は、中立国やかつての植民地などを介して、水面下で枢軸側との接触を図ろうとした。
 そして水面下で動いた国の中に、イギリスの姿があった。
 イギリスの行動は、世界で最も露見しにくい形で進められたが、その手は最も遠くまで伸びていた。ドイツ、イタリアはもちろん、日本の中枢にもイギリスの声は強く届いた。
 そして俄に、水面下での外交が中立国で活発なものとなる。
 ヨーロッパでの中立国と言えば、永世中立国のスイスとスウェーデンになるだろう。またスペイン、ポルトガルも交渉の舞台となった。何しろイベリア半島は、連合、枢軸双方が最も訪れやすい地理的条件にあったからだ。
 いっぽうアジアでの舞台は、現状では中立を維持している中華民国となった。
 ただし中華民国政府自体は、あまり大きな役割が果たせなかった。政府首班の汪兆銘の病状が悪化して、代わりを担える者がなく外交能力が大きく低下していたからだ。
 このため再び中立地帯となっていた上海を舞台にして、日本、イギリスなどの国々の代表が接触や会合を持った。上海には、様々な中立国を経由してアメリカ人も入り込み、ヨーロッパと同様の駆け引きと情報収集合戦が繰り広げられることになる。この中には、その後世界的に有名になるダレス兄弟の姿もあった。
 なお、日本及び枢軸関係者以外が中華民国に入るに際して利用されたのがロシアルートだった。既にソ連が崩壊して枢軸側と単独講和していたロシアは、親枢軸姿勢ながら中立国となっていたからだ。このため英米は、北極回りで空路ロシアに入り、そこから鉄路中華民国に入っていた。また、一部の接触や会合はロシアのシベリアや満州帝国でも行われているが、やはり東アジアでの国際舞台といえば上海だった。
 そしてイギリスは、上海での活動によって日本を介してアジア、オセアニア各国との接触に成功。インドなどに対して、戦争債務の責任問題などで自らの側にインドの意見を持ってくることに成功し、日本との直接交渉でも植民地の独立や返還、その他戦争で起きた諸々の問題が話し合われた。ヨーロッパ的列強均衡外交の中で苦労してきた日本だけに、独善的なアメリカよりも交渉は行いやすかった。
 一方ヨーロッパでは、ドイツが各国の独立復帰を行うに際して、各自由政府の合流を求める形が作られた。特に王族が亡命している状態の国に対しては、全面的な合流を求めている。連合軍の離散とアメリカ孤立化の為なのは明らかだった。

 こうした秘密交渉を、アメリカは苦々しく眺めていた。苦言や恫喝、さらにはあからさまな妨害も行われたが、民意と自由政府の合意を受けた政府が復活してしまえば、基本的にアメリカの出る幕はなくなってしまう。
 既にファシストを倒せというスローガン自体が、ほとんど成立しなくなっている。軍国主義者を倒せというスローガンを代わりに掲げようとしたが、ヒトラーという分かりやすい「敵」が消えてしまうと全てが霞んでいた。もはやイタリアとムッソリーニでは、役者不足も甚だしい。日本に対しては首相の永田以下首脳部の政府多くが軍人で、日本の軍国主義は倒さねばならないと言う論陣が張られたが、アメリカ国民は日本に対して相対的に希薄な感情しか持っていなかった。西海岸ではそうでもないのだが、とにかくインパクトに欠けていた。アメリカにとって第二の魔王とでもすべき永田首相も、さえないアジア的外見な上に首相となってからは背広を着ることが多かったので尚更だ。
 そして宣伝や外交が難しいのなら実力行使といきたいが、戦争は膠着状態だった。このため、ヨーロッパに対する戦略爆撃以外に手段がなかった。連合軍では、依然として艦艇、船舶共に不足しており、イギリス本土を支える以外では爆撃を実施する程度の力しかなかった。とにかく侵攻可能な艦艇が不足している点が痛く、大型艦艇が充実され始めるのは1945年の下半期以後という状態では、実質的に打つ手なしだった。
 このためアメリカは、とにかく自らが出せるカードをちらつかせつつ連合国各国の説得、ロビー活動に力を入れた。
 あと半年待てば、少なくともヨーロッパに対する本格的反抗ができると言って説得した。統計数字や兵器の生産、兵力の備蓄予測など様々な数字で説得したかいもあり、説得には一定の効果があった。各自由政府への支援や援助も、あからさまに増額した。連合軍が勝利した後の「報償」についても大盤振る舞いした。
 しかしやはり、ドイツがすぐにも各国の独立復帰を行おうとしている事がネックとなっていた。

 アメリカにとっては時間さえあれば何とでもなるのに、最も肝心な時間そのものが無くなりつつあったのだ。

●フェイズ51「ルーズベルトの賭け」