■フェイズ51「ルーズベルトの賭け」

 1944年8月1日、アドルフ・ヒトラーとナチスを排除したドイツ政府は、枢軸及び中立各国合意のもとでヨーロッパ各国の独立復帰と領土返還の実施を決定した。
 また平行して、ソ連崩壊後のロシアとは再度の交渉に及び、占領地からの引き上げ、領土の返還、新規独立を含めた新たな国境線の確定、相互自由貿易条約の締結、新たに独立する地域のロシアの承認などを踏まえた「ペテルブルグ条約」を結ぶ。ヴィシー・フランス政府に対しては、エルザス=ロートリンゲンのドイツへの割譲など第一次世界大戦前のドイツ領の復帰をもって、フランスの復活、領土の復帰と捕虜の釈放などの合意がなされた。
 他の国については基本的に独立復帰し、王族など国家元首が亡命している場合も主権の返還が行われ、それぞれの国では首相などの代行者が立った。ドイツに併合された形のポーランド、チェコの独立復帰も認められた。大戦前に併合されたオーストリアでも国民投票が実施され、戦争終了後時期を見てという但し書き付きで再び主権を取り戻すことになった。
 そして全ての強制収容所の即時解体と収容者の解放、関連する罪の裁きも、ドイツ新政府によって国際的に確約、そして実行された。
 この結果、ドイツ及びイタリア占領した全ての国家が再独立し、それぞれの国とドイツなどが協定を結び、連合軍との戦争が終わるまでの軍の駐留、物資の援助などの約束が交わされる事になる。しかし名目だけの独立返還ではなく、解体されていた各国の軍隊も復帰され、政府も活動を再開した。そして中欧を中心に多くの国が連合国に対して中立を申し入れた。
 また、ヨーロッパ以外でも、エジプトや中近東地域も枢軸国と現地国家の関係が改められ、それぞれの国家、政府は独立性が強くなった。連動して、日本によるアジア、オセアニア各国との関係も改められることになる。
 しかも日本は、思い切って旧来からの自国領以外のオセアニア地域からの軍備の完全撤退を宣言し、順次実施に移した。合わせてオセアニア各地は、独立を宣言した上で局外中立を宣言。自ら、これ以後の第二次世界大戦に関わらない事を宣言する。アジア地域の多くからも、各国の軍事組織の編成が概ね済んだところからは、治安維持用の部隊すら引き上げ始め、戦火から遠い国からは改めて中立宣言が出された。
 枢軸が行った行動は、まるで連合を無視した戦争状態の幕引きのようですらあった。

 これに対してアメリカ政府は、敵国、枢軸国の手による主権返還もしくは独立は、傀儡国家、傀儡政権であるため承認しないと一方的に表明。当然だが、中立やその他の国家としての権利も認めない事を意味するとも発表した。また、自由フランス、自由オランダなど植民地を持つ連合側の亡命政府も、ほとんどが植民地の独立は認めないと発表している。もっともフランス領に関する限りは、ヴィシー・フランス政府時代から占領や解放、独立は行われていないので、自由フランス政府の発表は多分に政治的要素を含んだものだった。これはアメリカが、自由フランスこそがフランスの正当な政府だと認めた事になるからだ。
 しかしフランスの実質を握っているのはもはやフランス本土であり、遂にツーロンで凍結されていたままのフランス海軍も、領土を復帰させたフランスへの帰属を決めて、数年ぶりに活動を再開していた。北アフリカのフランス軍も、自らの国軍としての活動を再開していた。
 また、ロシアは枢軸陣営の発表を承認したが、中華民国は国内の混乱を理由に一部態度を保留。スペインも、態度を鮮明にはしていなかった。これはひとえに、アメリカの本格的な攻勢がこれからだと見越しての事で、アメリカが矛を収めない限り枢軸の勝利が砂上の楼閣だと判断しての事だった。
 とはいえ、圧倒的国力を持つアメリカも、軍事的作戦を含めて軍事的な現状は手詰まりだった。ヨーロッパに対する戦略爆撃も損害ばかりが多く、ドイツ軍などの迎撃が激しいため爆弾を落としても爆撃精度はほとんど求められない状態だった。しかもドイツの生産拠点のかなりが、連合軍爆撃機の手が届きにくい東欧やウクライナにまで疎開しているし、迎撃に出てくる航空機の何割かは日本とロシアが輸出して補っていた。現状の比率で推移する限り、ドイツは防戦に徹し続ければ負けることはないという数字すら示していた。しかもこれからは、フランス軍など連合軍の爆撃を受けているヨーロッパ諸国が国防を理由に本格的に戦闘参加してくる可能性があった。
 そしてドイツでは、ヒトラーやナチスを排除して政治と戦略、軍事がかなり健全化されたため、余程のことがない限り戦略を誤る可能性も低くなっていた。しかも、陸軍はマンシュタイン元帥、空軍はケッセルリンク元帥、海軍はデーニッツ元帥がそれぞれの長に就任しているので、連合軍は今まで以上に苦戦する可能性が高いと予測された。
 アメリカの日本に対する攻撃は、日本の強大な連合艦隊を前にむしろ自分たちが怯えている状態が続いていた。潜水艦による通商破壊戦も、一定程度の成果こそ出るようになっていたが、損耗率40%以上という数字を前に将兵の士気低下すら見られた。
 日本軍は、潜航中の潜水艦すら見つける秘密兵器を早くから持ち、規模をますます拡大する(海上)護衛艦隊が濃密な対潜作戦を実施するため、拠点からの距離の問題もあって、アメリカの対日通商破壊戦は戦略的に見る限り嫌がらせ以上には機能していなかった。しかも太平洋では、1944年春に海軍が本土近海での戦闘で惨敗を喫している。アメリカでは、聯合艦隊を率いる土方提督こそが、天皇よりも永田首相よりも恐れるべき悪魔や魔王のような敵手だった。
 そうした戦略的に不利な状況を前に、ルーズベルト政権は焦りを強めていた。外交的には強気の姿勢を崩していないが、アメリカ国内にすら厭戦感情の高まりと共に停戦論、講和論が台頭しつつあり、徹底抗戦を唱える政権への支持率はヒトラー暗殺がアメリカ国内に伝えられて以後、ジワジワと下がり続けていた。
 しかも共和党が、戦争の打開と新たな時代の世界構築を旗印に選挙運動を展開し、着実に支持を伸ばしていた。

 そして進退窮まりつつあったルーズベルト政権は、自らの手による戦争継続のためにも選挙に勝利しなければならず、国民の支持を得るためのアクティブな行動を決定する。
 それは延期されていたヨーロッパに対する大規模な攻勢作戦で、アメリカが短期間で戦争に展望を開けることを国内外に見せることだった。それに短期的にも、講和するにしても攻勢に成功すれば有利になる。長期戦を戦うならば、それこそヨーロッパへの橋頭堡としてドイツを追いつめる第一歩になる。また、いまだまともに勝つことが出来ていない軍は、多少なりとも面目が施せる。
 攻勢が成功さえすれば、誰も文句はない筈だった。
 しかし現状では兵力が不足するため、まずはすぐにも太平洋艦隊の機動海上戦力が、日本軍を欺きつつ急ぎ大西洋へと回航されることになった。また、少しでも日本軍の動きを、というより日本海軍が地中海や大西洋に向かうことを牽制もしくは阻止するべく、アラスカ、アリューシャン方面の戦力を増強して行うことになる。とはいえ、主要艦艇は大西洋に回すので、巡洋艦以下の艦艇以外では航空機と言うことになる。
 この時日本海軍は、アメリカ海軍の行動が太平洋に対するゲリラ的な遊撃作戦でも行うのではないかと警戒した。このため主に北部の航空隊を増強し、整備と休養、さらには装備更新が終わったばかりの機動部隊群の半数を洋上に配備できる体制に移行し、南太平洋での臨戦態勢も強化された。警戒用の潜水艦の配置も増やされた。だが、各所の警戒体制を引き上げる以上の行動に出なかった。現状の戦力面で圧倒的に不利なアメリカ海軍が能動的に動く筈ない、大西洋に根こそぎ艦隊を回す筈ないという、固定観念をうち破られたため起きた混乱だった。
 そしてアメリカ海軍の本当の動きを知った日本は、慌ててインド洋南部への有力な艦隊の派遣と、一時的でジブラルタルまでという制限付きながら、遂に地中海への大規模な艦隊派遣を行うことを決める。同時期に北太平洋上が少しばかり騒がしくなったが、1個機動部隊と旧式戦艦を増援用に振り向けた以外、聯合艦隊の主な水上艦隊は西に向けた動きを始めた。
 この点、アメリカ軍の意図は完全に外れた事になる。というよりも、この頃の日本軍は、アメリカ海軍の戦力をかなり低く評価していたが故の結果と言えるだろう。加えて、ドイツが「まとも」になった事も、ヨーロッパへの艦隊派遣の政治的な大きな要因となっていた。ヒトラーやナチスなら、一度欧州に派遣された日本艦隊を返そうとしなかったり、不用意に戦線を拡大する恐れが強かったが、まともな国なら同盟国に無茶は行わないだろうと常識的に考えられたからだ。
 同時に行われた日本とドイツの交渉でも、日本艦隊の扱いについては何度も確認が行われていた。

 日本海軍のうち急ぎ地中海に送り込まれるのは、洋上に展開したばかりのそれぞれ2個機動部隊と1個水上打撃艦隊。さらに準備が出来次第、シンガポール方面に連合艦隊の多くを配備することも決めた。戦況によっては、より多くの戦力にスエズ運河を越えさせる計画も急ぎ作り始められた。日本陸軍も、一応の期間を区切ってかなりの規模の航空隊を地中海とマダガスカル島にまで進出させる事にした。それだけ送り込めば、現状の連合軍だけだと、損害を恐れて動けない筈だからだ。連動して、非常に多くの支援艦艇や燃料と弾薬などの物資を満載した船舶が、重厚な護衛艦艇を伴われてヨーロッパ方面へと続々と向かった。
 しかし日本軍の動きと戦力の移動は一歩及ばず、8月末にアメリカは自らの艦隊のほぼ全てを大西洋西部へと送り込む。

 1944年9月3日、戦艦と空母多数を含む連合軍の大艦隊が、北アフリカ西部のカサブランカ沖合に現れる。
 「灯火作戦(オペレーション・トーチ)」の発動だった。
 この作戦には、アメリカ海軍を中核としつつも、イギリス海軍だけでなく自由フランス海軍、自由オランダ海軍も参加していた。このため、実戦配備して間もない大型空母を含め、大型空母4、高速軽空母12、護衛空母18隻という大艦隊が作戦参加していた。戦艦の数も、新旧各国合わせて14隻になる。
 太平洋から回航された艦隊は、アメリカ本国に一旦寄港する事無く、カリブ海で補給と簡単な整備の後に作戦に参加していた。そして作戦そのものは、もともとは44年春頃発動を目指して準備が進められていたため、一旦発動すると決めるとその行動は早かった。この上アメリカは、イギリス本国艦隊や北大西洋で船団護衛をしている旧式戦艦群など、連合軍として動員できる限りの洋上戦力を根こそぎ動員しようとしたのだが、イギリスの極めて強い反対によりイギリス艦艇の大量参加は断念している。
 それでも艦隊が擁する艦載機総数は1300機に達し、作戦開始の黎明からカサブランカのあるモロッコに駐留するドイツ空軍第三航空艦隊と熾烈な航空戦に入った。連合軍の大規模な拠点が設けられたアフリカ西部のダカール方面からも、既に進出していた多数の重爆撃機が出撃した。対する現地のドイツ空軍、イタリア空軍は、事前の情報を受けて現地へ多数の増援を送り込み、ジブラルタル海峡方面を含めると併せて500機近くが駐留していた。しかし敵の戦力が予想を超えた攻撃のため対応仕切れず、また現地司令官がちょうど本国に戻っていた事もあり、対応が後手後手に回ってしまう。
 このため初期の制空権獲得競争に枢軸側が敗北し、三日間続いた激しい航空撃滅戦の後に、自由フランス軍を名目上の先頭としたアメリカ軍はモロッコ西部、正確にはカサブランカ近辺への強襲上陸作戦を開始する。
 第一波の上陸部隊は、名目上の自由フランス軍部隊を例外とすると、アメリカ海兵隊とアメリカ陸軍がそれぞれ1個師団。侵攻部隊全体では、自由フランス軍を含めて6個師団以上の戦力があり、総兵力18万の大軍だった。カナダ軍の独立大隊の姿はあったが、英本国軍の姿は特殊任務に就く精鋭部隊を除いてなかった。
 加えて二週間以内には、アメリカ東部とダカール方面から増援部隊がほぼ同じだけ投入される予定で、ダカール方面に既に待機している多数の基地航空隊の空路での進出も予定され、増援についてはその後も続々と続く予定だった。何しろアメリカ国内には、動員の済んだまま待機状態に置かれていた数百万の陸軍部隊が溢れていた。西海岸への対日警戒用と英本土に進出している部隊を除いても、200万もの兵力が短期間で派兵可能だった。輸送船舶についても、補給を含めて既に何とかなる程度には増えつつあった。そしてその一部は、既にアフリカ西岸のダカール近辺に溢れていた。今までアメリカ軍は何も出来ていなかったが、何もしていなかったわけではなかったのだ。
 そうした戦略的状況のおかげもあって、戦術的には電撃的な侵攻作戦が立案され、戦略的には一気に北アフリカ西部を制圧して枢軸軍に地中海方面から圧迫をかけるのが目的とされていた。
 しかし実際の所は、アメリカ国民の戦意を昂揚し、現政権の支持率を上げるのが第一の目的だったのは間違いないだろう。同じ作戦を行うにしても、もう半年程度待って海上戦力を増強してから行うのが常道だったと言われる事が多い。

 そして予想外の時期に突然の大規模な侵攻を受けた現地枢軸軍だったが、モロッコでの制空権獲得に苦労しつつも徐々に体制を立て直していく。
 既に制空権を失ったカサブランカを一旦放棄することも決められ、少し内陸部に下がったところまで現地軍を後退させて損害を最小限に止め、とにかくあるだけの増援が短期間のうちに送り込まれる事になる。水際撃滅が諦められたのは、現地に駐留する兵力が大きく劣勢なのと、連合軍が頻繁に艦砲射撃をしてくるのに対して、沿岸砲台などがほとんど整っていなかったからだった。同じ大西洋要塞でも、モロッコはドーバーとは違うと言うことになるだろう。努力のおかげで戦車は博覧会ができるほど沢山あったが、だからといってどうにかなるものでもない。
 そしてドイツ空軍はともかく、ドイツ陸軍全般はソ連との戦いが終わって以後訓練と陣地構築ぐらいしか仕事がなかった。当座の仕事がないので、防空部隊や爆撃の損害復旧の為の工兵隊に回された兵士の方が多いほどだ。そしてドイツ参謀本部は、緊急事態にすぐにも展開できる部隊を余剰戦力の中から編成して、その一部にはフランス沿岸で装備を船に載せた上で待機させていた。今で言う緊急展開部隊のようなもので、戦争経費削減のため取られていた措置だった。ドイツ空軍についても同様で、半個航空艦隊に匹敵する戦力が、すぐにもどの前線にでも派遣可能だった。
 また地上戦が予測されたのが、フランス北部沿岸、ノルウェー沿岸、そして北アフリカ西部だったため、当初からドイツ軍だけで約20万の兵力がモロッコへの駐留を続けていた。これにイタリア軍、ヴィシー・フランス政府軍が合わせて10万ほど加わるので、おいそれと連合軍も侵攻してくることはないと考えていた。
 一方で、北海、北大西洋北部では、緊急事態を受けてドイツ海軍の大艦隊(本国艦隊)が久しぶりに活発な活動を起こしていた。イギリス本国艦隊を出し抜いて、あわよくば北アフリカの救援に行くためだ。しかし新鋭空母を加えたばかりのイギリス本国艦隊も容易にスキを見せず、両者の睨み合いが北の海で続く事になる。イギリスとしては、モロッコの事よりも北大西洋の海上交通路維持の為にも、ドイツ艦隊の動きを押さえる必要があったのだ。
 また大西洋及び北海北岸では、連合軍の爆撃がいつもより50%以上熾烈に実施され、激しい防空戦が展開された。

 以上のような情勢の中でモロッコに上陸したアメリカ軍は、橋頭堡の確保もそこそこに、局所的な物量の優位を活かして、ものすごい勢いで前進しようとした。無理を押して動員した輸送船や上陸艦艇によって、大量の車両、補給物資を持ち込んでいるため、社会資本の不足する地域でも侵攻能力は非常に高かった。機械力に優れた、アメリカ軍の面目躍如たる姿と言えるだろう。
 だがドイツ空軍増援部隊の展開は、連合軍の予測よりもかなり早かった。しかも戦闘機隊だけでなく、対艦攻撃部隊、対地攻撃部隊が続々と北アフリカ西部へと渡り、次々に連合軍への攻撃に参加した。地上上空にはロシア製の、海上を飛行する機体の中に日本から輸入された機体も多数飛び交っていた。
 また1944年頃からジブラルタルから再びイタリアのタラントに移っていたイタリア艦隊も、念のための連合軍のジブラルタル海峡突破に備えるため出動。オランにいたヴィシー・フランス政府艦隊も、枢軸側としての行動を開始していた。北アフリカ西部には、瞬く間に枢軸軍の戦力が満ちていった。
 それでも大規模な艦隊で強引に制海権と制空権を奪ったアメリカ軍の侵攻速度は非常に早く、ドイツ軍が増援部隊をモロッコに送り込むまでに、ジブラルタル海峡のアフリカ側にまで迫った。上陸した兵力も予定通り35万名を越え、陸軍航空隊も現地で活動を開始していた。

 アメリカ軍の上陸戦以後の米独両軍の初の本格的地上戦となる戦いは、9月下旬に開始される。これまでにドイツ軍も大量の機甲戦力をモロッコに送り込み、連合軍のモロッコ侵攻に前後して激化した無差別爆撃を凌ぎつつも航空隊が増強された。
 そしてモロッコの地中海側へと抜ける地峡の出口付近にあるメクネス近辺で、ドイツ軍とアメリカ軍による大戦始まって以来の大規模な地上戦が行われる。
 ジブラルタル方面では、両軍合わせて20万近くがしのぎを削っており、アメリカ軍がさらなる増援部隊をカサブランカに上陸させつつある中での戦闘だった。モロッコのアメリカ軍を過半とする連合軍は、さらなる増援が送り込まれたため航空隊や後方支援部隊の兵員を含めて既に50万人に迫っていた。師団数も、海兵隊を含めて13個師団。すべての師団が戦車大隊を持ち、うち3個が機甲師団になるので、予備を含めた戦車の数も既に2000両近くあった。アメリカ軍の数は、三ヶ月後には100万人に達する予定だった。このため戦車の数よりも、ガソリン輸送車の数の方が多いほどだった。
 対するドイツ軍を中心とする現地枢軸軍の方が戦力的には劣勢で、兵力数は航空戦力を含めてアメリカ軍が30%ほど優位な状況にあった。その30%の優位を一点に突っ込む事で、アメリカ軍はインフラが十分ではない地域での快調な進撃を続けていた。
 アメリカ軍の航空戦力がそれほど多くないのは、侵攻した艦隊がドイツ空軍の空襲とドイツ海軍がこの年の6月頃から投入を開始した革新的な新型潜水艦(水中高速型・XXI型Uボート)の前にかなりの損害を受けて、艦隊のうち機動部隊が船団護衛に集中して地上支援任務を補助的なものに切り替えていたからだった。またドイツ空軍機の中には、誘導能力を持つ爆弾を投下する機体も少なからず含まれており、アメリカ軍は局所的物量で勝りながら苦戦を強いられていた。中には、新兵器の誘導爆弾1発で爆沈した護衛空母もあった。
 しかも、地上に進出した陸軍航空隊の活動がまだ活発でなかった。翼下にロケット・ランチャーを並べた戦闘爆撃機仕様の「P-47」は強力だが、数が揃わなければ効果は限定的だった。このため、ロシア戦線のように純粋に地上での戦いが大勢を決する事となる。
 そして地上戦、特に激しく機動する野戦となれば、当時のドイツ軍に勝る軍隊は存在しなかった。しかも上陸したアメリカ陸軍部隊は、殆どの者が初陣だった。そしてさらに、機動戦の主役である戦車の性能差が勝敗を決する事になった。ドイツ軍は、ロシアとの戦いに勝利するべく新たに作ったは良いが当面使い道があまりなくなった新鋭戦車を、ここぞとばかりに投入していた。
 それがこの戦いで一躍有名となった、「VI号・ティーゲル」、「V号・パンター(G型)」という勇ましい獣の愛称が贈られた鋼鉄の猛獣たちだった。一般師団が持つ「IV号戦車」各種や「T-34D」、「三式戦車」、砲兵扱いの各種突撃砲(対戦車自走砲)でも、連合軍車両と互角に戦えるだけの能力があった。
 これに対してアメリカ軍は、参戦頃でも日本軍の「百式中戦車」にもやや分が悪かった「M4 シャーマン」の、主砲や砲塔の装甲を強化した改良型を主力として投入していた。「M4」は当時のアメリカにとって船舶輸送に向いていたので、大量投入しやすかったからだ。また一部では、イギリスから給与を受けた17ポンド砲装備の車両もあったが、これはイギリスでの生産数とアメリカへの供与数の双方が限られていたため小数に止まっていた。急な大規模反攻作戦で開発中の重戦車が間に合わないため、90mm高射砲を改造した砲を搭載する車両(「M36 ジャクソン」など)も急ぎ作られつつあったが、一部にしか間に合っていなかった。
 それに当時のアメリカ軍は、対戦車戦闘で戦車戦力をそれほど重視していなかった。敵戦車を撃破する仕事は、航空機と重砲の役割と割り切っていたほどだ。自軍での戦車の役割は、主に動く歩兵砲、動くトーチカという古い考えに止まっていた。それでも新型の重戦車は開発中だったが、輸送効率、地上戦全体の効率を考え、開発もあまり熱心ではなかった。
 だが、アメリカ陸軍の戦略は、敵を圧倒する豊富な空軍力と砲兵があって始めて成立するもので、戦車を中心とした機械化部隊による瞬間的な戦闘力が、この時の戦いの鍵を握ることになる。なぜなら、反撃する側のドイツ軍がそうなるように戦力を用意して、補給路を準備し、反撃のための作戦と戦術を組み立てたからだ。そして2年近く大規模な地上戦をしていないドイツ軍には、遠隔地に十分な機甲戦力を即時に用意出来るだけの余裕があった。
 加えて言えば、アメリカ軍はドイツ軍機甲部隊の情報が不足していた。

 戦闘の結果は問うまでもないほどなのだが、「アトラスの戦い」とも呼ばれる戦闘はアメリカ陸軍の歴史的惨敗となった。
 アメリカ陸軍の機甲部隊は、ドイツ国防軍との正面からの戦車戦、機甲戦で完敗した。アメリカ軍は、個々の戦車の性能差、戦車兵、部隊全体の練度の差、各レベルでの指揮官の能力、そして全体の戦術、ほとんど全てでドイツ軍に劣っていた。勝っていたのは、兵器の機械的な信頼性だけと言われたほどだ。
 ドイツ側の前線指揮官は、「韋駄天ハインツ」や「砂漠の狐」から多少世代交代しつつあったが、機甲戦に精通したドイツ軍の将帥なら誰が相手でも、アメリカ軍は敗北しただろうと言われている。なぜなら、常識的な戦闘を行うだけで、ドイツ軍は十分に勝利できたからだ。しかも地上戦の指揮をとったのは、防戦に定評のあるモーデル元帥だった。
 とにかく、制空権獲得競争の続く空の下で行われたほぼ同程度の数で行われた機甲戦は、一方的結果に終わった。
 アメリカ軍の前衛を構成していた2個機甲師団は、初戦で保有戦車の半数近くを撃破されてドイツ軍の機構突破を許し、小数の90mm砲以外の対戦車砲もほとんど用をなさず、まるごと潰走する事態に陥った。
 1個機甲師団の戦車部隊が、狭い場所(山間部の狭隘な街道)で防戦任務に就いていた1個増強大隊の重戦車部隊に対して、一方的に敗れてしまうような信じられない光景も出現した。損害比率で言えば1対4以上となる。ドイツの虎を狩るために、アメリカのシャーマン将軍4人以上が必要だったというわけだ。この時の戦いでは、数台の重戦車のために1個戦車大隊が一方的に撃破されるとうい伝説も生まれていた。
 そして前線を突破してしまえば、後はドイツ陸軍(国防軍)がこの大戦で見せた行動の焼き直しといえる情景が広がることになる。熟練したドイツ軍を止める事ができるのは、強力な対戦車部隊か大量の重砲弾幕、多数の爆撃機、地上襲撃機なのだが、そのどれもがこの時のアメリカ軍には欠けていた。限定的な重砲などの弾幕射撃ぐらいしかアメリカ軍にとっての効果的手段はないのだが、それすら局所的にはともかく全般的な劣勢の前には効果も限られていた。ドイツ軍には瞬間的破壊力のあるロケット砲部隊が多数いたが、アメリカ軍にはそういった部隊は数えるほどしかなかった。これも戦訓の差だった。かつてロシア戦線でドイツ軍を苦しめたソ連の「カチューシャ」は、今度はドイツ軍の手でアメリカ軍を粉砕した。

 アメリカ軍が橋頭堡の完全な確保とさらなる増援の追加投入まで防戦に徹していれば、戦局と戦略的状況が大きく変わっていたとも言われる。だが全ての想定は、後世の評価と判断でしかない。状況は、進撃に逸ったアメリカ軍の敗走もしくは潰走だった。
 ドイツ軍の追撃と進撃は三日間止まることはなく、モロッコ内陸部に進みつつあったのアメリカ軍は蹂躙され、包囲され、そして敗走を続けた。3日目には主力部隊の一部が包囲降伏した上に、ジブラルタル方面とカサブランカ方面に分断されてしまう。前線に30万いた兵力も、既に20万を切っていた。
 それでもアメリカ軍は、到着したばかりの新規戦力を投入して巻き返しを計ろうとするが、今度はドイツ空軍の増援部隊の方が前線での活動を活発化させてきたため、アメリカ軍航空隊の援護能力が低下した。まだアメリカ軍の側で使える現地での飛行場が限られてたため、なおいっそう活動能力を低下させていた。そこに補給と再編成を終えたドイツ機甲部隊が再び突破戦闘を仕掛けてくると、主力部隊の大打撃のため防衛戦構築が遅れていたアメリカ軍の前線では、先日の戦闘の焼き直しとなった。
 粉砕、突破、前進、包囲。このプロセスでアメリカ陸軍はまたも敗退し、策源地となっているカサブランカに逃げ込まざるを得なかった。なおドイツ軍による機動戦で活躍したのは、機動性に優れる「パンター」戦車と「三式」や「T-34D」、「IV号H型」などの中戦車の方だった。もともと強固な陣地突破か防衛戦用の「ティーゲル」戦車は、一部で常識を越えた大活躍を示すもジブラルタル方面のアメリカ軍を前後から挟撃するために向かっていた。車体重量が重すぎるため機動性が悪く、整備が異常なほど大変だったからだ。
 もっとも、どちらの戦車部隊が突っ込んできても、アメリカ軍機甲部隊の不利は変わらなかった。既に士気の面でも大幅な劣勢にある以上、覆しようがなかった。アメリカ軍将兵の間では、戦車よりバズーカ砲(=携行型筒状簡易奮進砲)の方が役に立つと言われていたほどだ。
 そしてこの時アメリカ軍の戦線を支えたのは、歩兵達がかついで回っていた無数のバズーカと、かつてのドイツ軍同様に重高射砲の水平射撃だった。

 そしてここでアメリカ軍が橋頭堡すら失いそうな危機に瀕したため、一旦待避していたアメリカ艦隊が救援のため沿岸部近くにまで接近した。とにかく制空権を確保して時間を稼ぎ、場合によっては艦砲射撃を実施し、その間に増援を送り込んで戦線を立て直さなければならないからだ。既に艦隊の方も約20%の艦艇が沈むか損傷などで後方に下がり、艦載機の数も後方からの補充を含めても80%を切っていたが、それでもドイツ軍の1個航空艦隊以上に匹敵する数そのものが力だった。アメリカ陸軍や海兵隊の基地航空隊の数も、遅蒔きながら確実に増えていた。
 しかし再度の接近は、アメリカ艦隊にとって仇となった。
 日本艦隊が、既に西地中海での活動を開始していたからだ。
 日本艦隊の先発した2個空母機動部隊は、急ぎスエズ運河を通過して地中海に入り、この日アメリカ艦隊の再度の接近を聞くと、危険を冒してジブラルタル海峡方面にまで進み、アメリカ軍に気付かれる事無く地中海の側から攻撃隊を放つことに成功していた。
 アメリカも、日本海軍の大艦隊がヨーロッパ方面に派遣されつつあることは掴んでいたが、戦闘当時はまだ数日から一週間程度の余裕があると考えていた。この間隙を改善と努力によって埋めた日本艦隊が、敵の予測よりも早く戦場に到着したのだった。
 このため日本軍艦載機群による突然の攻撃は、アメリカ軍にとってはヨーロッパからドイツ、イタリア軍の増援部隊が現れるよりも衝撃が大きかった。しかも日本軍の2個機動部隊と言えば、ドイツ空軍での1個航空艦隊にも匹敵する艦載機数を有している。対艦攻撃力の面での戦闘力となると、間違いなく1個航空艦隊以上あった。
 そし日本軍機動部隊の攻撃に呼応して、現地のドイツ第三航空艦隊、イタリア空軍、さらにはヴィシー・フランス政府軍の航空隊も戦闘に加入。付近に展開していた枢軸側の潜水艦も、再び攻撃を試みた。
 こうなると、洋上航空戦力の数においてほぼ互角となり、アメリカ海軍の機動部隊は地上支援や制空権獲得どころでなくなってしまう。しかも、早朝から地上の制空権獲得やドイツ軍の爆撃にかなりの機体を出撃させ、さらに低速の護衛空母群と高速機動部隊は100キロ以上も離れた場所に位置していた。ついでに言えば、最も高い攻撃力を有する日本艦隊は地中海側にいるため、その間の枢軸軍の存在のためアメリカ側が日本艦隊を奇襲や強襲することが極めて難しかった。
 しかもアメリカ軍は地上支援か艦隊攻撃かで混乱し、敵の突然の増援のため互いに十分な支援を行うことも出来ず、空母部隊の攻撃に手慣れている日本軍機動部隊の激しい空襲を受けることになる。

 戦闘の経過は割愛するが、10隻の高速空母から編成された日本軍機動部隊を中心とした枢軸側の攻撃は、夕刻までに日本艦隊だけで第五次まで行われた。そして激しい攻撃の結果、アメリカ海軍の高速機動部隊(※総数15隻・既に1隻脱落)の三分の一が沈むか傷つく事になった。この戦いでも、数の上での主力空母となっていた巡洋艦改装の軽空母は、防御面での脆弱性を晒すことになったのだ。また他の枢軸軍の航空隊は、艦載機の面でも防御力の弱い護衛空母部隊を主に攻撃して数隻の空母を沈めるか損傷させ、こちらも後退に追い込んでいた。当然ながら、アメリカ機動部隊は地上支援もままならなず、もと来た道を引き返さざるを得なかった。
 しかしアメリカ機動部隊が再びアフリカ沿岸から離れようとしていた時、この日最後の日本軍の空襲が行われる。この空襲は、半年ほど前に北太平洋で大戦果を記録した、航空戦艦《比叡》《霧島》さらには、アメリカから捕獲して再生した元《ノースカロライナ》の航空戦艦《樺太》を擁する第三遊撃艦隊だった。
 《樺太》は、日本軍が《ノースカロライナ》を捕獲後に浮上復帰して研究後に再利用を図ろうとするも、主砲塔の一基が完全に破壊されていたため完全修復は不可能だった。さらに主砲、機関など多くの規格が日本とアメリカではかなり違うため、本来なら《比叡》《霧島》に先駆けた改装の実験艦として再利用されることになった。だが、結局機関も換装せざるをえなかったため改装工事が長引き、この時の戦闘が日本軍艦艇としての実戦初参加だった。
 ちなみに《樺太》の名は、捕獲大型艦に対して新たに定められたもので、日本以外の日本領の旧名を与えるというところからきている。
 なお、広い海洋での通商破壊戦を主な任務とした艦船攻撃のエキスパート集団といえる彼らは、新たなローテーションでインド洋、マダガスカル方面での作戦行動中のところをヨーロッパ派遣の命令を受けたため、臨時補給の後に高速補給船を伴って南アフリカ周りで大西洋に入り、新たな「狩り場」での活動を始めようとしていた矢先だった。これを聯合艦隊司令部が、そのまま北進を続けてジブラルタル方面に新たに派遣される友軍に合流セヨと命令を変更した結果だった。
 そして余りにも大胆な行動だったため、連合軍はほとんど存在を察知していなかった。まさか、戦艦複数を擁する艦隊丸々一つが大西洋のど真ん中を横断してくるとは考えなかったからだ。
 この時の戦闘で第三遊撃艦隊は、連合軍を出し抜いて大西洋を南から北へと一気に横断し、大西洋上からアメリカ艦隊を攻撃したのだった。そして本来は大西洋上での攪乱と大規模な通商破壊戦を行うつもりが、アメリカ軍の急な行動を前に作戦を変更し、アメリカ軍の予期せぬ方角から空襲を仕掛ける形になった。そして、敵が居るはずのない南からの攻撃を全く予期していなかった連合軍は、既に当日の戦闘は終了したという油断も重なって為す術がなかった。
 第三遊撃艦隊は、半年ほど前の東太平洋での戦闘と同様に、各種情報から自らが捉えた護衛空母群に後先考えないような一度限りの全力攻撃を実施。約100機の戦闘攻撃機が放つ魚雷やロケット弾によって、二つの護衛空母群に属する護衛空母の半数以上の撃沈を含めた壊滅的打撃を与えていた。防空能力の低い艦隊、防御力の低い護衛空母は、輸送船並かそれ以上に脆かった。しかも護衛空母は、艦の大きさ、飛行甲板の規模、航空機運用能力の限界から「F4F」戦闘機しか搭載していなかったため、遅れて迎撃を行った機体にも多くの損害を受けていた。何しろ「陣風」と「F4F」ではほぼ2世代もの開きがあるので、まともな空中戦で勝てる道理がなかった。

 そして、母艦群の壊滅によって制空権を失った連合軍が最も恐れていた事態が、その夜訪れる。
 夕刻に、掃海と潜水艦掃討が済んでいるジブラルタル海峡を通過した日本艦隊・第二艦隊とイタリア艦隊主力が、ジブラルタル海峡を抜けてカサブランカ沖の艦砲射撃に出現したのだ。
 だが、アメリカ側も枢軸側の水上艦隊襲来を予期していたし、集められる限りの大型戦闘艦を用意していた。
 連合軍が用意できた戦艦は、アメリカ軍からは新型が6隻、旧式の最古参が4隻、それにイギリス海軍、自由フランス海軍、自由オランダ海軍がそれぞれ1隻から2隻だった。さらにアメリカ艦隊には、戦艦に匹敵する艦艇として最新鋭の戦闘巡洋艦が2隻あった。
 アメリカ軍の短期予測では、襲来する可能性があるのがイタリア艦隊だけだったので、本来なら戦闘になっても十分撃退出来る目算を立てていた。そして日本艦隊の襲来も空襲を受けた時点で覚悟していたが、既に切れるカードもなく引き上げることも出来ないため、かなりの覚悟で枢軸側艦隊の襲来を待ちかまえていた。それでも新鋭戦艦の存在もあるため、水上での撃退は十分に可能と考えていた。アメリカ側も、恐るべき《大和級》とその眷属は大きすぎてスエズを越えられないと考えていたからだ。
 これに対して日本艦隊は、第二艦隊に属している戦艦《伊豆》《能登》と超甲種巡洋艦の《剣》《黒姫》。これに地中海派兵が決まってから再び第二艦隊に戻された《長門》《陸奥》を加えた6隻。本当なら日本海軍は《大和級》《紀伊級》を送り込みたかったが、簡単にスエズを越えられないため断念されていた。その補完として、機動部隊にも必ず戦艦を随伴させ、さらにそこから《肥前》《岩見》がスエズを越えると決まった時点で第二艦隊に臨時編入されていた。
 イタリア艦隊は、《リットリオ級》戦艦3隻に旧式戦艦が2隻。艦の規模的には、ほとんどの戦艦がいわゆる「条約型」に含まれる規模だった。つまり、合わせて13隻の戦艦と言うことになる。(※超甲種巡洋艦は、ここでは戦艦に含める。)

 この時の戦闘では、連合、枢軸双方ともに艦隊を二分させ、高性能になった電探(レーダー)も装備しているため、互いを正確に認識しての戦闘を開始する。アメリカ側は日本艦隊の詳細について知ることが出来なかったが、数が多い方が日本艦隊だというぐらいの予測は簡単についた。何しろ日本は、今や最も多数の戦艦を保有している国なのだ。このためアメリカ艦隊は、数の多い方に有力な艦隊を向けるように艦隊運動を実施し、イタリア艦隊は突進を継続して奥にいる各国混成の戦艦群に向かった。
 なおアメリカ側の新鋭戦艦群の詳細は、日本の《大和級》に衝撃を受けて予定を大幅前倒しして就役したばかりの超大型戦艦の《モンタナ》、《アイオワ級》戦艦の《アイオワ》《ウィスコンシン》と《サウスダコタ級》戦艦最後の《コネチカット》《バーモンド》、さらに《ワシントン》となる。他の《アイオワ級》戦艦は、前の日本との戦いで受けた傷がまだ癒えず西海岸でドック入りしていた。また、戦闘巡洋艦の《アラスカ》《グァム》も、この時打撃艦隊に編入されていた。
 この中でアメリカ海軍が期待していたのが最新鋭の《モンタナ》だった。基準排水量6万トンを越える巨体に8門の48口径18インチ砲、そして自らの砲弾を防げるだけの十分な防御力を備えた戦艦の存在は、日本海軍の《大和級》に正面から対向できる艦として大きな期待が寄せられていた。
 ただし、これがアメリカの切れるカードの全てだった。《モンタナ》の姉妹達は東部沿岸各地で多数建造中だが、他の艦の就役は早くても半年以上先の事だった。

 連合軍艦隊は、レーダーでの探知で枢軸軍の戦艦数が自分たちとさして変わらない事を掴んだため積極的な迎撃を決意する。海岸には船も多数停泊しているし、港は物資の山だった。兵士達も、慌てて沿岸部から避難しつつある。逃げるわけにもいかなかったというのも、連合軍側の積極的な迎撃の理由だった。加えて、狭い場所に追い込められたら、よけい不利にもなるという理由もある。
 そうして距離2万5000メートル程度から、電探(レーダー)を使った戦艦同士の夜間戦闘が本格的に始まる。夜間での戦いでも、完全な遭遇戦という時代は完全に過ぎ去っていた。
 日本側は、同型艦同士が2隻で組んで1隻を狙って混乱を避けるように戦い、夜間戦闘に対する慣れと戦術の違いを見せた。何しろ第二艦隊は、古くから夜間戦闘を中心に訓練を積んできた部隊で、艦艇が頻繁に入れ替わろうともその精神は受け継がれていた。各戦艦も、既に夜間戦闘は何度も経験済みだった。臨時編入の《肥前》《岩見》も何度も実戦を経験し、古強者の《長門》《陸奥》は日本海軍で最も腕が良いとされていたので、相手が最新鋭艦でも戦闘力に不安は感じていなかった。そして第二艦隊の本領は、夜間戦闘の中でも水雷戦にこそあった。相手主力艦隊と同数の6隻もの戦艦を揃えたとは言え、トドメを刺すのは魚雷だとこの海に来た日本人達は考えていた。これがこの時のアメリカ海軍と日本海軍の意識の違いだった言えるだろう。

 戦闘は、流石と言うべきかアメリカ艦隊の優位に進んだ。
 《モンタナ》の48口径18インチ砲、《アイオワ級》戦艦の50口径16インチ砲は強力で、他の16インチ砲搭載戦艦も十分な戦闘力を発揮した。今までの戦闘ように安易に突撃した日本側は、撃沈や大破こそ無かったが、短時間のうちに多くの損害を受けてしまう。そしてアメリカ海軍唯一の18インチ砲と50口径16インチ砲によって激しく黒煙を吹き上げる《伊豆》と《陸奥》が、致命傷を避けるべく相次いで戦列を離脱。戦艦同士の戦いは、アメリカ軍が優位に運んだ。正確無比な《長門》の砲撃も焼け石に水だった。
 序盤の戦いで日本艦隊が優位に戦闘を運んでいたのは、遂に実現した「超巡洋艦」同士の戦闘だけだった。実質的には高速戦艦の《剣》《黒姫》に対して、「大きな巡洋艦」でしかなく艦の形状のため戦場での小回りも利かない《アラスカ》《グァム》は脆く、14インチ砲弾によって短時間で撃破されていた。とはいえ、排水量差でも1万トンもあるのだから、アメリカ側が不利なのも当然だろう。
 一方、海岸部の輸送船団へ突撃を実施しようとしたイタリア艦隊も押されていた。
 戦艦5隻を擁するイタリア艦隊の前には、アメリカ軍の旧式戦艦を中心にした連合軍の雑多な戦艦が、かなりの距離を空けて2群に分かれて布陣していた。アメリカ海軍による旧式戦艦《テキサス》《ニューヨーク》《アーカンソー》《ワイオミング》を中心とする上陸支援艦隊と、英仏蘭の雑多な連合艦隊だ。これは、枢軸側がどこから突入してくるのか分からなかったのと、連合軍の橋頭堡が大きく二カ所に分散していたためだ。
 そして英仏蘭の連合艦隊は、ほとんど数あわせや艦砲射撃用と考えられたため独立行動を取っていたが、このためアメリカ軍の命令に邪魔されずに有利な位置からイタリア艦隊をそれぞれ迎撃できていた。イギリスの《ウォースパイト》、自由フランスの《リシュリュー》《ジャン・バール》、自由オランダの《セレベス》という新旧、国籍、性質も違う艦だったが、イタリア艦隊に痛打すら浴びせ、戦力面での優位もあって互角以上の戦いを演じていた。そしてイタリア艦隊には、アメリカの旧式戦艦群も鈍足ながら急ぎ近寄りつつあった。
 このまま戦闘が推移すれば、枢軸側は数多くの損害を受けて数十分以内の後退を余儀なくされていただろう。

 そうした枢軸側の劣勢を覆したのが、別方向から新たに戦場に突入してきた艦隊だった。突撃してきたのは、第三遊撃艦隊の航空戦艦《比叡》《霧島》《樺太》に護衛の軽巡洋艦2隻と駆逐艦6隻という第三遊撃艦隊の水上打撃戦力のほぼ全力に、途中合流したドイツ海軍の通商破壊艦《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》だった。
 同艦隊は、後方警戒していた僅かな数のアメリカ軍駆逐艦を短時間で蹴散らし、射程圏内に入ったアメリカの巡洋艦隊列を短時間の砲撃で撃破。そのままの勢いで一斉雷撃を実施して戦線を突破し、日米の戦艦同士の戦いに割り込んでいった。この時の戦闘加入によって、《樺太》と名を改めた旧《ノースカロライナ》と《ワシントン》は、同型艦として第二次世界大戦で唯一本当の姉妹艦対決を行った艦艇となっている。
 この予期せぬ方向からの攻撃に混乱したアメリカ艦隊は、優位に進めていた砲撃の陣形を解いて建て直しを計ろうと進路を大きく変更する。ここで日米艦隊の一旦砲撃戦は中断され、戦況不利な日本側が撤退するか両者仕切直すかのどちらかに見えた。イタリア艦隊の方も、新たな変化を受けて一旦進路を沖合の方向に変更していた。これに連合軍側もそれぞれで対応して動いたため、一瞬戦場は砲撃戦を止めたにも関わらず大きく混乱した。戦場に溢れた戦艦の数は、双方合わせて30隻にも上った。
 だが、多数の艦艇が入り乱れた状況を、絶好の機会と捉えた部隊が存在した。
 この混乱を日本軍水雷戦隊は逃さず、友軍の攻撃で敵巡洋艦、水雷戦隊の隊列が大きく乱れていた事も重なって、敵主力艦隊の隊列に対してお家芸の夜間統制雷撃戦を展開。夜間の接近戦のため既に相対距離が6000メートルに迫っていた艦もあったため、近在のアメリカ軍水雷戦隊から順に大きな水柱が次々に奔騰。さらに、多数の照明弾に照らされた闇夜を背景として、新たに砲撃体制整えつつあったアメリカ軍の新鋭戦艦部隊に多数の水柱が高々と噴き上がるのが見え、これで戦闘の帰趨は決した。
 いかに最新鋭戦艦の群れであろうとも、複数の酸素魚雷を水面下に受けて無事では済まなかった。
 雷撃したのは、日本海軍最強を謳われる第二水雷戦隊。接近しすぎた事による損害も小さくなかったが、自らの勇気を戦場の女神に認められた結果となった。
 多数の被雷によって《モンタナ》を始め大きく傾いた戦艦の多くが砲撃戦能力を既に失っており、そこに損傷から復帰した戦艦を加えた第二艦隊の戦艦群が砲撃を再開。別方向から第三遊撃艦隊なども砲撃戦に加わり、体勢を立て直せられないアメリカ軍の戦艦隊列を痛打。さらなる雷撃が、傾き激しく黒煙を吹き上げるアメリカ艦隊主力にトドメを刺した。
 アメリカ海軍の期待を担って就役したばかりの《モンタナ》も、戦艦との砲撃戦ではなく雷撃によって致命傷を受け、片舷に61センチ酸素魚雷が集中して命中したため横転沈没。敢えなくモロッコ沖の海に沈む事となった。
 これで両者の戦力比は枢軸側に大きく傾き、残存する連合軍艦隊は全滅を避けるべくカサブランカ沖から撤退するより他無くなってしまう。
 それでも輸送船団の離脱を支援するべく、連合軍の残存艦隊は奮闘した。むしろここからの方が、連合軍艦隊は奮闘したとすら言われたほどだった。
 あまり期待されていなかったアメリカの旧式戦艦群と英仏蘭連合艦隊が、日本艦隊、イタリア艦隊相手に意外なほど奮闘して時間を稼ぐ中で、既に脱出中だったアメリカ軍船舶が護衛も伴わず隊列も作らずに我先に外洋に逃走。地上の連合軍兵士達も、沿岸砲要員以外は出来る限り砲撃されそうな場所から車や徒歩で離れていった。
 そしてその後、連合軍艦隊がいなくなった後のカサブランカ沖に日本、イタリア、ドイツ合同の艦隊が並び、既に判明している目標に対して一方的な艦砲射撃を開始。
 この時点で、モロッコに上陸した50万の連合軍、いやアメリカ軍の命運は風前の灯火だったと言えるだろう。

●フェイズ52「最後の戦い」