■フェイズ54「停戦会議」

 第二次世界大戦は、戦闘停止という意味では1945年1月15日に終了した事になる。しかしこの時点では講和条約の調印や降伏調印が行われた訳ではないので、正確には終戦ではない。講和条約が結ばれて、始めて戦争状態が正式に終了するのだ。故に1月15日は、「停戦記念日」とも呼ばれる。
 なお停戦会議開催前に、問題が一つ起きた。会議の開催場所だ。
 戦争の勝敗が明確に決まっていれば、勝った側が自分たちの首都か相手の首都かを選択するなどが出来た。しかし今回の大戦では、負けた国は既に一度は単独講和を結んでいる。最後まで土俵に立っていた国は、どこも負けてはいなかった。強いてい言えば、時間制限付き勝負での判定勝ちで枢軸側の勝利、という程度のものだった。
 このため中立国での開催が相応しいのだが、多くの国が参加した戦争であるため、開催場所は中途半端な場所を選ぶことも出来なかった。
 これまでの国際会議の舞台と言えば、ヨーロッパのパリ、ウィーン、ジュネーブ、となる。アジアの東京、アメリカのワシントンやニューヨークなど開催出来るだけの施設が整っている都市もあったが、ヨーロッパ全ての国の代表を集めるとなると経費を含めて面倒だった。また、ほぼ全ての国が、アメリカでの開催はあり得ないと考えていた。結果論的ではあるが、アメリカの参戦は戦争をより激しくさせ長引かせた原因でしかなかったため、アメリカに好感情を持つ国が少なかったからだ。
 結局、各国が集まりやすい中立国、国際会議都市という条件を満たすとなると、ほぼ一カ所となる。1939年まで国際連盟の本部があった(この時点でも形式上では存在していた)、スイスの都市ジュネーブだ。
 このためスイスとの調停が終わると、すぐにも各国は首相や全権大使を続々とジュネーブに送り込み、「現代のヴェスト・ファーレン会議」とも言われる同会議は「ジュネーブ停戦会議」と呼ばれる事になる。

 「ジュネーブ停戦会議」は、1945年3月6日から開催される。会議に参加資格があるのは、世界大戦勃発時に独立国で最後まで降伏しなかった国とされ、さらに各国間の間で宣戦布告文書など外交文書の交換が行われた事が条件とされた。これは連合国側が提示した条件で、筋の通った話しでもあった。だがこの結果、日本が独立を大盤振る舞いしたアジア諸国は、会議への参加条件を満たさなくなる。アジアから枢軸陣営として会議に参加したのは、日本以外では満州とタイだけだった。
 一方ヨーロッパからは、イギリス、ドイツ、イタリア、それに親枢軸の東欧諸国が数カ国、中東からも数カ国、これにアメリカと、英連邦のカナダ、南アフリカを加えたメンバーが、停戦会議参加の権利を持っていた。枢軸側の強い要求によって、自由政府は一切認められなかった。植民地同然の、各国支配下にある保護国についても同様だった。
 会議には意外に多くの国が参加する事になるが、会議の主な参加国となると、極めて限られる。連合からはイギリスとアメリカ、枢軸からは当時の国力順に日本、ドイツ、イタリアとなる。他の国が戦争に果たした影響や役割は小さいし、国力の問題から発言できるほどの力もなかったからだ。
 そしてそれ以外の国は、自主的に参加する国のみオブザーバーとしての資格を認められていた。このオブザーバー国は非常に多く、ロシア、フランスを筆頭にヨーロッパの国々の殆ど全てが参加し、中華民国も当然面で顔を並べた。中米、南米からの参加も多かった。
 他にもアジアからも、日本が援助金を出す形で多くの国がオブザーバーの資格すら得られないので傍聴席に顔を並べていた。
 要するに世界中の代表が集まった会議であり、この会議こそが次の世界の趨勢を決めるもしくは占う為の会議だと認識されていた証だった。

 会議は停戦会議なので、まずは何を最低条件として正式停戦するかが交戦各国の間で議論された。
 真っ先にアメリカは、世界に戦争を仕掛けた枢軸各国が戦争の全責任を負う形で連合国に無条件降伏するべきだと発言。停戦を話し合う時に降伏を持ち出した事で、会議は最初から紛糾した。
 もっとも、枢軸各国もイギリスも、アメリカが最初に無茶を言ってくる事は折り込み済みだったので、紛糾はしたが混乱はしなかった。
 そして会議を主導したのは、老練な政治家であるイギリスの首相ウィンストン・チャーチル首相と、場数も践み怜悧な頭脳を持つ日本の永田鉄山首相だった。先にも挙げたように、ドイツのゲルデラー首相は力不足だった。イタリアのムッソリーニ頭領は、事が外交となったのでかなり元気を取り戻していたが、イタリア自身が主要国の中で最も戦争に与えた影響が小さかったため、発言力も必然的に小さくなっていた。アメリカは大統領に就任したばかりのデューイのため、彼も大規模な国際会議の場では経験が不足していた。
 永田鉄山は、晩年に記録した回顧録にこう記している。
 「会議場を見渡すと、顔ぶれに違和感があった。戦争を始めた人物、戦前、戦中に様々なイデオロギーを唱えた人物がことごとく姿を消していたからだと気付いたのは、会議が始まってしばらくしての事だった。残っているのは、ムッソリーニ総統しかいない。私(永田)やチャーチル氏ですら、途中から戦争を引き継いだに過ぎない。そう考えると、実に奇妙な気分だった」

 永田鉄山首相の述懐にもあるように、会議の主要参加者ばかりか既に降伏した列強の中にも戦争を起こした人物はいなかった。中には、ヒトラーやスターリンのように自国民の手で暗殺された為政者までいた。ここに国力や国際的影響力の高さも加わって、日本の永田とイギリスのチャーチルが会議を主導したのも、ある意味当然だったと言えるだろう。

 話しを会議に戻すが、アメリカのデューイ大統領が言った「無条件降伏」は、アメリカとしては引っ込めていないため言ったという程度でしかなかった。そもそもアメリカでは既に政権交代が行われており、政府内が大きく変化して政策の変更も行われていた。しかも戦争が力技で済む段階を過ぎている以上、今更「無条件降伏」など唱えても仕方ない事ぐらい誰もが理解していた。それでも外交上でのアメリカは、そう言わざるを得なかったから言ったのだ。またアメリカとしては、相手を少しでも怒らせることが出来れば儲けものぐらいに考えていた。
 外交では、怒った者、感情的になった者が敗者となるのが世の理だからだ。
 しかし各国代表は冷静で、アメリカはむしろ最初に失点をさらけ出す事になった。だが、会議をどう始めたら良いものかと悩んでいた者達にとって、最初の紛糾は一歩を踏み出すという点で利点と考えられた。会議自体も、多少奇妙ながら勢いがつくことになった。
 そうした中で日本の永田は、枢軸側が最初の停戦を提案したときに提示していた案件を停戦の条件として検討するよう、各国というより連合国側に求める。
 そして枢軸側が提示していた、「不賠償、不割譲」については概ね了承が得られた。既に確定した新国境線、国民投票、統治能力といった例外項目もあったが、極端な領土割譲などは行われない事が取り決められた。
 一部小国は、自分たちは一方的な被害者だとして大国からの賠償を欲しがる発言をしたが、誰も負けていないのに誰が払うのかという議論が出たあと、全ての主要国が参加した戦災基金を作る話し合いをするという案が出ただけで次へと移った。当然だが、連合国が一時期言っていた「戦争責任」や「戦争犯罪」については、まともに議論もされなかった。敗者のいない戦争では、議論を始めると際限が無くなってしまうのが分かり切っていたからだ。加えて言えば、事後法で裁くことなど通常なら出来る筈がなかった。かつてのアメリカの発言を、「幼稚」の一言で片付けた政治家もいたほどだ。
 「犯罪」や「責任」の中で唯一各国が合意を得たのが、「戦争行為以外での犯罪の国際的処罰」だった。しかしこれも、ナチス親衛隊や秘密警察の強制収容や各国の政治将校、イデオロギー団体が行った虐殺事件など数え上げたらキリがないため、別の会議と国際的な調査組織を作って追求、実行する事とされた。また、旧ソ連の共産党やNKVDの所行についても、同様に処置する事が決められた。もっとも、犯罪について最も追求されるべきナチスそのものは、既にドイツ人の手で葬り去られていたので、追求が中途半端に終わるだろうと最初から予測されていた。

 「占領地からの撤退と各国への返還」、「占領地の独立復帰」、「旧植民地地域の独立承認」については、連合国各国が条件などについて事前に用意してきたり文句を付けた。
 しかし突き詰めてしまえば、イギリスなど欧州諸国は植民地を手放したくなくて、アメリカは自分たちの「正義」を立証する為にも自分たちの手で解放して独立を与えなければ内政的に問題がある、というだけに過ぎなかった。その証拠と言うべきか、ドイツが戦争終結の最低条件として求めた「旧ドイツ帝国領の承認」については、あからさまに文句を言う国は連合国にもなかった。ヨーロッパの問題についても、ドイツの勢力圏が改めて示されただけで、外野状態のアメリカ以外が文句を言うことも少なかった。
 そうした中で多少紛糾したのが、やはり旧アジア植民地地域の独立問題だった。特にアメリカが、フィリピン独立で殆ど難癖を付けていた。しかし会議の流れはアジアの自主独立であり、経済植民地的色彩の強い、アメリカが独立予定としていたフィリピン政権が成立することはなかった。会議では、アメリカの強欲さが表に出て恥をかくだけに終わっただけだった。
 ただし、日本とアメリカの間で、日本軍占領下だったグァム島の返還が少し問題となった。日本としては賠償でアメリカから奪えない以上、周辺部を含めて独立と言う形に持っていきたかった。しかし形式上でも独立すれば、グァムが日本の影響下、勢力圏になるのは既定路線だった。このためアメリカが猛烈に反発。ならばと、返還の条件としてグァムを含めた周辺部の非武装を持ちかけるが、ここでもアメリカが猛烈に反発したため、独立どころか他の地域を含めて太平洋の非武装化は全く成立しなかった。

 なお、停戦会議上で枢軸、連合双方が提案した案件に、既存の軍事同盟、事実上の軍事同盟の解体があった。枢軸、連合という枠は、今後の世界情勢に対して相応しくないし、軍事同盟の集合体があったため再び世界大戦をもたらしたという反省があったからだ。本来なら、枢軸側、連合側それぞれは自らの陣営そのものを軸に新たな国際組織を作る目論見を持っていたのだが、それがどう考えても叶わない以上、全てを一度解体する方が手っ取り早かった。
 アメリカは、大西洋憲章を盾に連合国を中心にすべきだという傲慢さを何度か見せたが、名称と理念の一部以外で残されることを全ての主要国が否定した。また、双方の陣営にとって、別の大きな枠組みを作るということは、大戦中に提示された大西洋憲章、大東亜会議それぞれを有耶無耶に出来るので、どちらにとっても利益であり不利益であった。特にドイツにとっては、利益は非常に大きかった。
 このため痛み分けといえる妥協により、全ての国家間関係を一度解消して、全てを次の会議で設立予定の新たな国際機関に集約する事とされた。

 そして会議は、様々な議題が提案され議論が重ねられたのだが、停戦そのものについては殆ど議題に上らなかった。既に停戦は事実上実行されているので、会議は事実上の講和会議となっている事を誰もが理解していたからだ。
 そもそも会議自体が「停戦会議」とされたのは、あまりにも巨大な戦争に勝者と敗者を決めないための詭弁に過ぎない事は、全ての国が理解していた。
 そうした状況を前に、本来なら先に降伏したフランスやロシアが筆頭となって文句を言い立てそうだが、どちらもドイツから無血で殆どの領土を返還してもらえることが既に決まるか実施されつつあるし、文句を言う気力すら無くすほど国力を疲弊しているので、あからさまに文句を言うことはなかった。オランダやベルギーのように、植民地無くして国が立ち行かないと言うヨーロッパの中小国もあったが、そうした国に発言権がある筈もなかった。ヨーロッパの中小の国々は、ヒトラー暗殺とナチス解体の「ご祝儀」で独立と本国領土を返して貰っただけに過ぎない存在だったからだ。
 そして歴史上空前の軍隊が世界各地で静かに睨み合った状態での停戦会議は、今だ立ち続けて剣を振り上げる力を持つ国でなくては、発言権を持つことが出来なかったと言うことになる。力が会議と政治を支配していたという言う意味では、やはり停戦会議と呼ぶべきなのだろう。
 だが、会議そのものは実質的には講和会議のそれであり、ドイツで全てをひっくり返す政変が起きてすぐに枢軸側がまとめた講和案に沿う形で話しは進んでいた。既に案件が出されて数ヶ月立っているため、連合国各国、イギリスばかりでなくアメリカですら対応策を事前に用意していたためだ。
 そうした連合国側の対応では、イギリスは独立を宣言した地域の独立を認める代わりに、少しでも自らの影響力を強めるもしくは残せるよう腐心した。アメリカは、共和党の党是である自由放任主義を前面に出す事と、枢軸側が先に提案していた「通商国交の回復と、自由貿易体制の確立」という項目を受け入れる自らの条件として、ヨーロッパやアジア各地、新たに独立する地域に対する経済の自由参加を求めた。
 そしてドイツ、日本としては、戦後自分一人で全てを背負い込めるわけでない事は殆どの者が理解していたので、相手の条件をある程度受け入れる前提で各国と交渉を重ねた。
 力の均衡が、誰もを正気に戻させた会議だったと言えるだろう。

 しかし、話しは賢者だけで進むものではなかった。
 各国それぞれに、国内に保守派、強行派が存在し、無視できない勢力を持っていた。
 アメリカでは、無定見に正義と平和を言い立てる人々が、「悪の枢軸(イービル・アクシス)」との妥協はあり得ないと連日のデモでシュプレヒコールを上げていた。中には、民主党、共産主義、社会主義のシンパ、さらにはユダヤ団体の姿もあった。民主党以外の多くは、ドイツに同胞もしくは同士が酷い目に合わされた人々だった。しかし最も大きな声は、産業界が裏で豊富な資金を供給している様々な団体だった。アメリカの戦争経済は今のところ順調で、凄まじい発注が舞い込み続けているので、最低でももう少し戦争が続いて欲しいからだ。また彼らは、突然戦争を止めても、それにかわる需要先が誕生しないような状況を決して看過しないと言う意味での圧力をかけてもいた。こうした人々が水面下で糸を引いて、デューイ大統領を暗殺しようとしたり、停戦会議を失敗に持ち込もうとしたという話しは枚挙にいとまないほどだ。実際、政治家や経済界の著名人が突然死した例もあった。
 また、白人こそが正義を実現しなければいけないと言う一種の原理主義が、日本という白人国家、キリスト教国家でない国が実質的な戦争の勝者となることに強く否定的で、尚かつ日本に異常な敵意を見せていた。
 日本でも、他国同様に戦争継続を求める産業界の声はかなりあったが、既にそれは静まりつつあった。日本という国家そのものが、既に限界を超えるギリギリの線にいることを、産業界の中枢を含めて賢明な人々は理解していたからだ。このため主戦論を唱えるのは、遺族会の一部を別とすれば、主に目先の事しか見えないパラノイアか、何も考えずに敵を倒せと唱えるだけの無責任な人々となっていた。このため日本での政治的コントロールは比較的容易だったと言える。裏で資金を提供するような者も少なかった。
 一方ヨーロッパは、誰もが既に疲れ切っていた。しかも地上戦をしていない国でも、相互の爆撃合戦で殆どの国民が無差別に犠牲になっているので、既に戦争そのものに飽きていた。
 ある意味アメリカと日本は、国土が戦場とならなかった為に、この時点で主戦論が出る大きな要因となっていたと言えるだろう。
 そしてどちらかの陣営が負けるという第一次世界大戦のような戦争でなく、疲れ切ったので握手するという戦争は、アメリカが実のところ体験したことがない戦争だった。日本の場合は、日露戦争が実質的に双方疲れ切った末の講和だったが、いちおうは日本が勝ったことになるので、日本人たちにとっても初めての経験と言えた。
 また日本もアメリカも、今までの戦争では必ず勝者の側であり、今回も勝つのが当たり前だと言う意見を平然と唱える者も多かった。「神国日本」、「神に選ばれた国アメリカ」などという言葉を、そうした人々が好んで使った。
 そして、ちゃんと前が見えていない人々の意見や思惑とすら言えないものが、賢者達が選ぼうとしていた選択を徐々に歪めようとしていた。特にアメリカにおいて、それが顕著だった。

 停戦という名の実質的な講和条件が固まろうとしていた時、アメリカは自由貿易体制の国際的枠組みと組織編成の提案を行う。「国際通貨基金(IMF)」と仮称する組織で、表向きは戦災復興と自由貿易体制を補完する組織とされたが、その本部をアメリカに置くべきだとしたのだ。アメリカの論なら、世界経済の3分の1以上を持つアメリカの適所に本部を置くことが相応しいとされた。経済力に応じて各国が資金を拠出して、その中心となるのは必然的にアメリカとなるからだ、という傲慢なものだった。
 そしてこの傲慢は、アメリカが国力を笠に着て戦争での漁夫の利を得ようとしていると主張する各国の強い反発にあう。旧植民地での影響力確保を狙うイギリスを始め、オブザーバーのヨーロッパ各国からも強い非難と反発が出た。アメリカも、各国の反発を受けて態度を頑なにして会議は紛糾する。
 結局、アメリカの提案は棚上げ繰り越しという事になり、まずは停戦条件を固めることに集中する事で衝突や会議の空中分解は回避された。
 そして1945年4月8日、「ジュネーブ停戦会議」は停戦合意を経て、講和条約の調印にまでこぎ着ける。
 この日をもって、歴史上「第二次世界大戦」と呼称された戦争は終わりを告げることになった。
 ヨーロッパでは本格的な春の到来には少し早いが、日本では桜が満開になろうという時期であり、心理的情景として日本人に強い印象を持たせる日となった。

 そして一つの会議が終わるとすぐに、次の会議が始まる。
 このためオブザーバーに甘んじていた国だけでなく、会議に来ていなかった国も正式に呼ばれた。
 次の会議とは、二度と破滅的な大規模戦争を起こさない為、国際連盟に代わる強力な国際機関を設立するための会議だったからだ。
 会議場所は引き続きジュネーブとされ、ここに当時独立していた全ての国が参集した。「停戦会議」では独立国扱いされていなかった主にアジアの国々も、この会議には晴れて独立国として参加できる事になった。
 この会議では、「大西洋憲章」と「大東亜会議」双方の理念を組み合わせた形で新たに「国家連合憲章」が作られ、「国家連盟(LN)」に代わる新たな国際機関として「国家連合(UN)」(日本語通称は「国連」のまま)が設立されることになる。名前だけは英米の言い分を枢軸側が受け入れた形だが、ドイツなど欧州諸国の日本に対するやっかみと取るのが正しいと言われている。
 会議には全ての独立国の参加が認められたが、総会とは別に安全保障理事会という一つ上の会議が設立される。この会議は、投票権2票分を持つ常任理事国と数年(5年)単位で代わる投票権1票の非常任理事国によって行われる事になる。ここでは、アメリカが一時求めた常任理事国の「拒否権」付与については、反対多数で採用されなかった。
 そして、強大な権限が与えられる常任理事国には、幾つかの規定があった。経済力、軍事力、人口、これらが一定の水準に達している事と、国際貢献を果す能力を持つ事だ。また常任理事国は、国力配分とは別枠で国連拠出金を出す義務を負うことにもなった。そして義務を怠り拠出金を長期間滞納した場合は、常任理事国でも会議によって罷免されることが定められた。加えて、実際の行動においても負担を分担することが義務とされた。
 とはいえ常任理事国の椅子は、最初から決まったようなものだった。常任理事国7カ国、非常任理事国10カ国に対して、常任理事国は国力順にアメリカ、日本、イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、イタリアだった。上記の国は、戦争の勝ち負けは別にして大戦で主要な役割を果たした国ばかりで、総力戦を行えないような国に権利を与えないという宣告に等しかった。このため中華民国やインドという、国内に大人口を抱える国が一方的な理由で抗議したが認められなかった。欧米白人国家ばかりだという声も、日本が加わっているという事でかわされた。ただし、日本などの提言により、時代と共に組織改革や追加を検討するという言葉が盛り込まれる事にもなった。

 国家連合の組織自体は国際連盟よりも強化され、各国間の問題に様々な形で介入できるようになっていた。この場合、金融支援から軍事介入など大きな影響を与える権限も持たされており、そうした行動が行えるように常任理事国には能力が求められていた。また組織には、総会、安全保障理事会以外にも、各種組織を持った事務局、国際司法裁判所、経済社会理事会が設立された。この中で、領土を管理する信託統治に関する組織を作ろうという話しも出たのだが、領土問題は複雑な要素が含まれすぎるというので、今後の課題として設置は持ち越されていた。
 また国家連合の成立に伴い、ほとんど名前だけとなっていた国際連盟は正式に解体される事になった。
 なお、国連再編時の独立国は、約80以上を数えている。大戦前はヨーロッパと中南米以外の独立国は殆ど皆無だったが、大戦によってアジア諸国がのきなみ独立を果たし、またソ連が解体された影響だった。

 こうして停戦と講和は成立し、新たな国際組織も立ち上げられたが、世界は順風満帆ではなかった。
 国家連合の後に行う予定だった世界規模での軍縮会議については、準備の予備交渉の段階から紛糾してしまい、結局各国の裁量に任せるという残念な結果に終わっている。各国とも軍縮そのものについては大賛成だったのだが、枠を設ける事に抵抗があったのだ。何しろ昨日まで戦っていた者同士が顔を合わせているのだ。20年ほど前の海軍軍縮条約のように、簡単に事が運べるはずも無かった。このため軍縮については、会議開催まで各国の裁量に任せるという程度に落ち着いたのだ。
 そして多くの人々にとっては、先に進む為にも、あまりにも巨大化した戦争の後始末をしてしまわなければならなかった。

●フェイズ55「総決算」