■フェイズ57「戦後すぐの日本(1)」

 1945年1月15日に停戦が成立したとき、現実を見ることの出来る日本人達は一斉に安堵した。
 戦争そのものが終わった事。しかも、国家経済が破綻する前に終わった事。アメリカに対して、事実上の勝ち逃げが出来た事。共産主義が消えた事。ついでに、ナチスドイツまでが消えた事。その全てに安堵した。
 泥縄式に拡大した戦争の幕引きとしては、日本にとって望外の幸運と称して良い結末だった。
 日本がイギリスに宣戦布告してから約4年。それ以前、早くは1938年の支那事変から総力戦に傾いていた国家経済は、1年ほどの中休みがあったとはいえ、1945年に入る頃には既に軋み始めていた。戦争終盤も、見かけ上は圧倒的優勢で艦隊戦力も敵に対して懸絶していたが、アメリカの底力を数字の上で把握している人々にとっては、自分たちの現状が砂上の楼閣である事を自覚していた。
 日米単独だと依然として1対3以上の国力差があるので、総力戦が長引けば負けることは確実だった。もし戦術的勝利を積み重ねて戦略的に負けなくても、戦争が長引きすぎた場合には戦争経済が破綻して国家が崩壊するとうい研究結果すら出ていた。1946年か47年には、史上空前の大決戦が太平洋上で何度か行われたかもしれないが、それは日本という近代国家が存在した事を示す最後の煌めきとなっていただろう。日露戦争での日本海海戦のような栄光と勝利は、もう過去の話しなのだ。
 だからこそ、戦争が終わったことに人々は安堵した。

 戦争中の占領地に対する「大盤振る舞い」や停戦会議での日本の「弱腰」にも、日本の中枢を担う人々は殆ど文句は言わなかった。文句を言ったのは、偏狭な帝国主義者や拝金主義者、国粋主義者、扇動家、後ろや影から文句を言うだけの卑怯者か寄生虫、それに軍の一部を占める「秀才馬鹿」だったが、政府の対応は賢明で迅速だった。
 総力戦という容赦のない戦争を逆に利用して、まずは国民に現実を可能な限り知らせる啓蒙活動に務めた。そうすれば、口先だけの偏狭な帝国主義者や拝金主義者、国粋主義者、それに卑怯者や寄生虫の多くは、社会から自然に排除、淘汰されていくからだ。また政府は、安全な場所から戦争を賛美したり煽るだけの人間を、戦時法を盾にして事実上の粛正を実施し、実際はともかく社会的に抹殺していった。そうした人々は、逆に自分たちが「国賊」とされていったのだ。
 戦時内閣となっていた当時の日本政府としては、1930年代の日本を覆った全体主義、軍国主義的な悪い風潮を、総力戦という嵐の中で吹き払おうとしたのだ。これは、戦争自体が圧倒的優位で進んだ事と、日本本土が戦場から遠かった事が利点となって作用した。国民に戦争の事実を伝えてもも、基本的に勝ち戦ばかりなので政権運営に悪影響は与えないからだ。
 また日本政府は、先の世界大戦での日本が一等国を目指して戦った事を国民に思い出させ、今時大戦の目的についても日本を一等国中の一等国とする戦い、世界から尊敬受けるに足る日本を目指すものだという風潮に軌道修正していった。
 イギリスなどに対する戦争も、自国本意の資源と市場の獲得が目的ではなく、植民地の解放と自由な世界の実現にすり替え、実際出来る限りその通りの政策を実行した。
 また、アメリカの参戦に際しては、アメリカの圧倒的な国力、経済力を改めて国民の前に示して、日本の独立を守る自衛戦争である点を強調した。この点アメリカが先に宣戦布告した事、ごく僅かだが日本領内(台湾)が開戦当初に爆撃を受けた事が、日本国民の間で自衛戦争という意識を高めさせた。何しろ日本は、日露戦争の時でも日本領が攻撃を受けたことが無かったのだ。
 そしてアメリカ参戦以後は、亜細亜に自由をもたらし、それを守るための戦争という側面も持たせた。
 自由と正義という国民が喜びやすい甘美な言葉で、軍国主義、帝国主義、全体主義という悪霊を退散させてしまった、という事になるだろう。
 そして戦争の結果も、おおむね日本政府が国民に見せた通りに幕引きすることができた。日本国民の中には、アメリカはあまり大した敵に映らないまま戦争が終わってしまったが、それはそれで政府にとっては実に有り難い結果だった。

 しかし自由や正義を振り立てて国内を掃除をしてもなお、社会の各所には澱みがあり、戦争を食い物にする者もいた。そして無軌道な国民、寄生虫や扇動家よりもある種厄介だったのが、戦争の立て役者の日本軍そのものだった。
 このため総力戦の中で計数的に拡大した軍組織を活用して、大きな改革が断行されていった。
 もともと日本軍、特に日本陸軍は、幼年学校から学ばせて秀才を作り上げる教育制度を持っていた。国が貧しく国民の高等教育者比率が低い時代には国家政策と合致した制度だったが、昭和に入ると綻びが見え、1930年代の悪行の数々を作り出す温床となった。それが陸軍で「天保銭」、海軍で「恩師の短剣組」「金時計組」などと呼ばれる、悪し様に言うところの「秀才馬鹿」になる。
 しかし総力戦による計数的な軍の肥大化が、純粋培養された視野が狭く融通の利かない秀才将校集団を隅に追いやっていった。戦争で圧倒的多数派となったのが、大学、専門学校(私大)出身の予備士官たちだったからだ。政府と軍の人事権を持つ兵部省は、先の世界大戦での将校不足を教訓にして、予備士官制度(旧「短期現役士官制度」)を作った。彼らは、大学または高等師範学校、一部専門学校(私立の高校+短大のような学校)の教育課程で軍事教科を履修する。そして召集令状を受けるか平時に自ら志願すると短期間の士官教育を受け、各種少尉または主計中尉として任官できる。
 同じ大学や専門学校出でも、何も履修せずに卒業して招集を受けると、三等兵となって兵営に入って三ヶ月後には二等兵として前線配備となる。例外は訓練時から軍曹(二曹)待遇となる航空兵だが、知力と体力さらに素養が問われる航空兵になるのは、航空戦力の肥大化が進むまで狭き門だった。
 大学出身の予備士官の多くは、その頭脳を活かして主計士官となるが、各種兵科にも広く人材が必要なため、制度自体も整えられていた。航空兵となると、在学中の学業が空く時間を、ほとんど飛行訓練に費やす必要がある難しい道だった。
 そして万が一戦争が起きたら、という事で取りあえず教科を履修する者はかなりの割合となった。この傾向は支那事変で一気に高まり、1939年以後に在学中もしくは進学した大学生達は、こぞって軍事教科を履修した。予備でも将校の方が二等兵よりはるかに命の値段が跳ね上がることを知っていたからだ。
 そして日本が大戦に本格参戦すると、多くの学生達は予備士官として招集されていった。この予備士官は、後方勤務のみだが女学生にも門戸が開かれているのが一つの特徴で、戦争中に女性将校が日本中で誕生する事になる。後方任務の多い海上護衛艦隊では、戦争後半になると艦船(※後方配備の女性用設備のある大型艦船のみ)に乗り込む者まで現れた。
 またこれは男性の話だが、支那事変初期に予備仕官の少尉として兵役についた者の中には、二度目の大戦が終わった時点の最後の「万歳昇進(全将兵の無条件一階級特進)」を含め、僅か7年の軍役で大佐にまで上り詰めていたものまで出た。まさに「20代で大佐」という、冒険小説のような展開だ。前の大戦ぐらいに、短期現役士官制度を用いて予備士官(短現士官)となりその後も軍に残った者の中には、将軍や提督にまで昇進した者もいた。学生艦長や学生将軍という言葉も生まれたりした。
 総力戦に必要とされる士官を、特に中堅士官を多数揃える為と、戦争中に限り武功による臨時昇進(特進)の影響もあったが、時代の変化の一つの形でもあったのだ。
 そして政府は、膨大な数の予備仕官達を利用する形で、前線にまともに出ることもないような「秀才馬鹿」を次々に中央(陸海軍総司令部や総参謀本部など)から排除していった。これには自分たちの領分を食い物にされていた文官組織の兵部省も協力し、国家から与えられた力という事を理解できない者を、容赦なく人事異動させていく。予備士官と侮ったり問題を起こした正規将校も、事実確認の上で容赦なく裁かれた。
 また士気高揚という建前で、戦場での武功を階級や恩給として反映させる事を増やし、武功勲章こそ最も国民に敬われる勲章だという風潮を強くさせた。そして前線に出て功績を残さない限りほとんど武功勲章は得られず、後方でふんぞり返るだけでは尊敬と出世双方を得られなくなった。
 正規将校、特に秀才将校たちからは強い反発が出たが、それなりの飴と鞭で対応された。また予備将校に対しても、問題を起こせば軍として厳格な対処が行われてもいる。それに戦争が終われば、予備士官の殆どが軍を去っていく事が正規将校側の思惑にあったので、極端に根深い問題とはならなかった。
 しかし明治以来溜まった軍の膿を出すのに、予備士官達の果たした役割は大きかった。

 そして戦後すぐ、軍の大幅動員解除に連動して、軍の大改革実施が政府から軍に対して3つの大きな法案が強引に国会を通過した。
 一つ、現役軍人武官制度の廃止と禁止。一つ、陸海軍から航空隊、防空部隊を切り離して「空軍」を新設。一つ、空軍士官学校は置かず、さらに陸海軍の士官学校(兵学校)を統合し、これに空軍のものを加えた合同の将校教育施設の新設。
 これが軍の大反発へとつながらなかったのは、法案が提出される直前に戦後の軍務を行う人材を選ぶためとして、現存する全ての将校に対して、抜き打ちの試験が実施された事が影響していた。
 試験は軍務とは関わりがない、得意な語学、高等数学、一般教養を中心としていた。高等教育の基礎すらできない軍人に、戦後の軍と政府には用はないという事だった。そして試験の結果、有名大学や帝大出の予備士官の方が余程良い成績をおさめ、口先だけの威勢の良い秀才将校達は、一部の本物の将校を除いて軒並み酷い成績を出してしまった。しかも試験には例外がなかったため、将軍や提督達も自分たちの素養を世間に晒すことになり、かなりの数の者が面目丸つぶれ状態だった。
 そして戦勝に浮かれていた将校達のプライドが全面崩壊状態なのを利用して、明治以来の軍の大改革が実施され、停戦、講和と動員解除を行った永田内閣は、もう「戦時内閣」の必要性はないとして総辞職。
 日本全土が総選挙へとなだれ込んだ。

 ちなみに大戦中の日本は、不思議な事に正確には挙国一致内閣ではなかった。
 「二・二六事件」以後が軍国主義内閣だと言われるが、せいぜいが軍備拡張内閣程度でしかなかった。連合国が怯えた軍事独裁という虚像に対して、その実体の平凡なことこの上ない。ましてや挙国一致内閣にはほど遠く、官僚としての軍の権限拡大だけが行われた卑小な存在だった。
 1939年9月の大戦勃発直後に成立した米内内閣は、総辞職した平沼内閣の後に成立した、閣僚に軍人が多いだけの内閣だった。主要政党も大きくは政友会と民政党で分かれたままだった。しかも1925年に婦人参政権までができたので、かなり早い時期に男だけが政治に参画する時代が終わり、その分政党は増えていた。それでも、日本の大戦への参加が政権を長期化させ、1941年6月に永田内閣へと引き継がれた。
 永田内閣は、総力戦体制の一層の促進のため全ての国力の糾合を唱え、各政党は戦争に勝つことに対して連携した。これを「翼賛連合」と呼ぶことがある。しかし別に一つの政党ではなかった。連合、連携はしたが、政党の合体や合流は行われていない。しかも戦争半ばに為政者どころか内閣の顔ぶれまで代わってしまったため、連合国側は日本の独裁者探しに苦労したほどだった。ルーズベルト政権は、取りあえず米内より軍人らしく見える永田を軍国主義者と責め立てたが、彼は軍人であり優れた戦略家ではあったが軍国主義者ではなく、怜悧な唯物論者であり現実主義者だった。国会は言うに及ばず、各種国際会議や講和会議でも、政府の代表という立場から背広姿で出席していた。
 そして選挙などに興じることなく、戦争と戦争の最低限の後始末を終えると、さっさと首相の座と軍人の座の双方から降りてしまう。
 それが、アメリカのルーズベルトが異様な敵意を見せた、軍人宰相の永田が取った政治家としての最後の行動だった。永田の退陣と退役を病床で聞いたルーズベルトは、虚ろな目を話し主に向けただけとされるが、何を語りたかったのかは謎である。

 そして1945年8月15日、日本全土で総選挙が実施される。
 なおこの前後に、日本は主に連合国各国から日本の植民地を独立させるべきだと強く言われていた。
 その回答の一つが、この時の総選挙と同時に実施されていた。
 日本領土のうち「本国領」と定められている場所では総選挙が、国際的に日本の植民地とされている地域では住民投票が行われたのだ。住民投票の中身は、自らの帰属を決めるものだった。大きくは、日本領に止まるのか独立または自治の拡大を望むのかを住民自らに選ばせるもので、結果を見てどうするかを決めると日本政府は停戦会議中に各国に宣言していた。また住民投票は保護国扱いの朝鮮半島でも実施されており、流石のアメリカも取りあえず文句が言えなかった。
 もしアメリカで同じ事をしたら、南部が独立するなど国がバラバラになりかねないような事だったからだ。
 住民投票の結果は、ほぼ全ての地域が自治の拡大を求めるも、そのまま日本領に止まる選択だった。地域によっては、国家再編成の好機に、植民地ではなく日本本土と同列に扱えと大量の署名や血判状を集めて直談判に行ったところもあったほどだ。こうした親日姿勢は、本土との大きな違いがあるも、日本政府が一定の統治、教育、税制、そして何より近代文明の建設を行っていた効果だった。現地の公用語は日本語が主で、古くから日本領の太平洋の一部と台湾島ではほとんど日本化が完了していたほどだった。多くの者が、日本兵としての誇りを胸にして戦争にも積極的に参加していた。日本政府としても、兵士として従軍した人々への報償として、日本人としての権利を与える準備があった。
 また、日本の統治開始が最も浅い中華南端部の海南島でも、時間にして既に四半世紀経っている。停戦会議の後で中華民国が返還を求めたが、住民投票で圧倒的多数で否定されてはどうにもならなかった。
 しかし一部の国は、住民投票には不正があるとして疑い、ヨーロッパの国の一部は日本が引き続き植民地を持ち続けることを自分たちの統治にも政治利用した。
 そうした中で日本が改めたのは、朝鮮半島の統治だった。
 1910年以後、保護国状態に置かれていた朝鮮(大韓帝国)に主権(外交、軍事、中央徴税)を戻し、日本が持っている現地の基幹的な社会資本については売却による大韓政府への譲渡を決める。これで日本に反発していた一部の国の声も若干小さくならざるをえず、日本は30年を越える厄介者を追い出せることになる。
 もっとも、朝鮮半島住民の一部(かなりという説もある)からは、独立とは真逆の日本への併合を求める意見が一時強まったりしたとされる。

 そして住民投票の結果、台湾は戦争参加への報償という点も踏まえて、正式に日本領台湾州とされた。他にも中部太平洋、南十字諸島も同列とされ、南洋州が成立することになる。そして地方の大きな拡大に伴い、日本本土の地方自治も大きく改めるべきだという潮流が出来る。
 まずは帝都東京市が周辺部を合併し、一時36区も持つ巨大都市となり、名称も東京特別市に改名して世界最大の都市となった。これに伴い東京府は消滅し、さらに明治の頃の大都市を意味する「府」を完全に改め、全てを「県」に改名。大阪、京都の名称が県となり、これはこれで一時現地で大きな反発が出ることになった。また北海道は北海県となるも、樺太、千島、カムチャッカを合併して事実上の北海州に昇格。そして周辺部の「州」成立に伴い、日本本土の「州県制」導入の道筋が作られていく。移行は段階的に行われ、この時は各地の市町村統廃合、大都市の周辺部合併による特別市化などである。そして各地方の「府」と呼ばれる事になる特別市を中心にして最終的に「州」としてくくり、中央から地方への財源の委譲が実施される予定が組まれた。なお、州の区割りは、明治初期の頃の学区や師団のものに近い。特別市も、一部を除き帝国大学の存在する都市となった。

 一方、総選挙の結果は、戦前と同様に二大政党の政友会と民政党の一騎打ちだったが、軍人系議員は多くが選挙で敗北した。「戦勝」を利用して選挙戦を戦った者よりも、戦後の経済、外交について明確かつ具体的に語った者が概ね勝利した。また戦争中の軍を含む社会全般での女性の社会進出が進んだため、女性の得票率の大幅増進に比例するかのように女性議員の数も大幅に伸びた。
 軍人達には、既に感謝の拍手と歓呼の声、凱旋式、それに勲章と恩給を贈った。それに今まで同様に軍人として尊敬もする。しかし、安易に政治に関わらせてはいけない。それが1930年代の混乱と、それがもたらした大戦争を経た上で日本人達が朧気ながら学んだ事だった。
 しかし選挙は、少しばかり複雑な結果を残した。
 自由な選挙が心がけられた結果、政友会が勝利して第一党となったのだが、俄に勃興した小規模政党や無所属議員のため、過半数に達しなかったのだ。簡単な数字で言えば「政友会:民政党:その他=9:8:3」。つまりその他大勢を全て取り込めば、民政党が政権を握れることを意味していた。
 このため数日間、永田鉄山は予期せぬ実質的な首相延長期間を過ごさねばならなかった。
 そして数日間の間にまとまった答えは、政友会と民政党による大連立内閣だった。その他大勢には、緩められた戦後の思想統制を受けて社会主義政党など革新系の政党が多かったためだ。
 しかし今度は、誰が総理になり誰がどの大臣になるかで大もめとなった。若手では古株政治家達が納得しないし、新たな時代に古い人間を総理とすることにも抵抗感が強かった。一時は元海軍軍人の堀悌吉が能力面から総理に有力視されたが、戦後すぐの総理に元軍人は国際政治上好ましくないし民意にも反するとして、幣原喜重郎を推す声が強くなる。しかし幣原は戦前に親英米派と目されていた上に、単独はともかく連立内閣を率いるには力不足と考えられた。それに幣原は政友会主流のため、民政党が反発した。
 結局、政治力の高い老練な政治家を持ってこなければ収まらなくなった。
 昭和の元老とも言われる人の中では、終戦時には犬養毅、高橋是清が存命でいまだ壮健だったが、両者共に90才を越えては流石に年がいきすぎていた。近衛文麿ではまだ若いぐらいだし、既に当人の欠点もさらけ出していたので彼を総理にという声もあまり無かった。他の総理経験者、有力政治家のうち軍人を除いてしまうと、求心力に欠ける人物が多かった。
 そこで最も老齢な二人より少しばかり若い、坂本譲二に組閣の大命が下る。
 この時坂本は、満年齢で74才。犬養毅が首相となった時よりもほんの少し若い年齢での首相就任だった。
 そして幕末、明治に活躍した坂本龍馬の息子の首相就任は、報道機関によって「昭和の薩長同盟」と揶揄されることになる。つまり戦後政治は、昭和の維新というわけだ。

 首相就任後の坂本は、その年齢に似合わず精力的に活動した。
 何しろ戦争が終わったばかりの日本には、まだまだ問題が山積みだった。永田が動員解除や軍の改革を断行したことは助かっていたが、他にもやることは山のようにあった。
 このため坂本は、組閣の際に特設大臣を増やして対応した。また副首相職を設けて堀悌吉を据え、彼に実務の多くを行わせた。堀は軍人を辞して既に10年以上が経過していた事もあり、予想されたほど反対や反発もなく、むしろ高い実務能力を期待された。また、閣僚には出来る限り若手や新手を抜擢するべきだという意見が強く、外務大臣に坂本の子飼いでもあった吉田茂が、兵部大臣には元軍人ではなく文官官僚をという声も合わせて、癖の強い岸信介が抜擢された。内相には首相経験者唯一の大臣として近衛文麿が坂本に請われる形で選ばれたが、これは旧勢力(華族など)の安定のための入閣でむしろ例外的だった。
 他にも、今までにない特設大臣が設置され、新政府が経済と外交に重点を置いた内閣であることが強調された。
 そして新内閣は、永田内閣は大方針を決めた動員解除を横目で見つつ、大戦後初の内閣運営を開始する。
 しかしその運営は、軍縮と動員解除こそがキーでありネックだった。

 停戦時、日本軍は総数550万人を数えていた。陸海軍の比率は概ね2対1。海軍が異常に多いのは、主に海軍航空隊と海上護衛艦隊が空前の規模に膨れあがったためだ。航空機1機を作戦運用させるためには100人の支援がいると言われるが、実際日本陸海軍それぞれが1万機以上の航空機を運用していた。海上護衛艦隊も、「千々艦隊」と言われたように、千隻の艦艇と千機の対潜哨戒機を以て、日本の海上交通を守り通した。実数は、それ以上の数だ。海軍の主戦力である連合艦隊にしても、停戦時には戦艦と中型以上の空母をそれぞれ28隻を基幹とする、10年前からは想像も出来ないほどの大艦隊だった。
 陸軍の実戦部隊だって負けてはいない。花形の戦車師団の数こそ最終的に6個だったが、平時の常設師団全てが機械化師団とも呼ばれる、戦車師団とは戦車連隊と歩兵連隊の比率が違うだけの強力な師団となっていた。師団数も、戦争中に若干減らしても合わせて60個を越えていた。支援部隊を含めた地上部隊総数は250万人に達する。しかもこれでも戦時中は数を絞りに絞った末であり、日本の場合は満州帝国や独立した亜細亜諸国に軽武装の陸軍部隊の過半を任せていた。さらに日本軍の場合は、ドイツ軍のように地上の防空組織に大きな人数を割かずに済んだので、軍の動員数を大幅に押し下げる要因となった。
 また軍人以外にも、軍属など後方支援に当たる人数もあり、まさに国家そのものの規模を有する組織だった。
 しかし戦争が終われば、解体して動員解除しなければならない。軍隊とは極めて金食い虫だからだ。何もせずとも、550万人を食べさせるだけで一大出費となる。
 このため戦後日本は、部隊や艦艇の多くを予備役として、多くの装備を保管状態として、80%以上の動員解除を実施した。
 軍に残るのは、約110万人。これですら1920年代の3倍以上で、十分強力で尚かつ金食い虫だったが、この程度は残しておかないと、戦後外交に支障が出ると考えられていた。同時期のドイツで120万、アメリカも80万にまで動員解除と軍縮を実施している。
 陸海空軍の兵員割り当ては、「陸:海:空=2:1:1」。50万の陸軍と、それぞれ30万の空軍と海軍となる。1920年代の陸海軍が陸軍22万、海軍5万だったので、変化と違いの大きさが分かるだろう。
 これだけ多くの軍が残されたのは、一つには日本の経済力、税収が以前に比べて遙かに巨大化していた事と、アジア・西太平洋全域に十分なプレゼンスを行わなくてはならなくなっていたからだ。この点、勢力圏に大きな変化のなかったアメリカとは事情が大きく違っていた。

 なお、新軍種の空軍だが、大きくは陸軍の戦闘機隊と爆撃機部隊、輸送機隊、さらに地上の防空隊、海軍の海上護衛艦隊、母艦及び艦艇航空隊を除く基地航空隊のほぼ全てから構成されている。これに広域防空を行う高射砲部隊が加わる。要するに陸軍の戦術空軍と海軍の戦略空軍を合わせたような形になる。また陸軍も全ての航空隊を手放したわけではなく、戦術偵察機と一部の地上攻撃機(襲撃機)だけ手元に置いていた。陸軍に残ったこれらの航空隊は、順次新兵器の回転翼機に置き換えられていく。また海軍は、上に挙げたように海上護衛艦隊、母艦及び艦艇航空隊を握り続けた。このため戦後すぐの日本軍全体では約5000機の第一線機があったが、「陸:海:空=500:1500:3000」という構成になる。
 陸軍は兵員数50万で、師団は半分予備役状態を含めて21個師団が残された。戦車師団4、師団16、空挺1で、これに重砲兵旅団などの支援部隊が残る。近衛師団は、歴史上の役割を終えたとして師団単位での解体が決まる。この結果近衛は、名誉部隊としての宮城警護と儀典部隊となり、戦闘部隊としての一部が教導旅団の形で残された。また戦時中の台湾、南洋師団は、部隊の多くを残すも旅団編成として志願兵による地方軍にまとめ直されている。
 このうち戦後も海外展開する部隊は、全体の3分の1。多くが満州に置かれ、それ以外では台湾、海南島とイギリスから正式に割譲されたシンガポール一帯に置かれた。またイギリスからは、インド洋のチャゴス諸島も正式に割譲を受けているが、そちらには海軍の下部組織である海兵隊が駐留した。南太平洋地域についても同様に、基本的には海軍(海兵隊)の領分だった。また師団の三分の一だけが準動員状態を維持するも、他は平時状態として兵員の多くが即応予備役で招集される形にされていた。

 そして軍縮で大鉈が振るわれたのが、停戦時世界最大規模となっていた海軍だった。
 終戦時、戦艦と中型以上の空母がそれぞれ28隻も保有していたし、巡洋艦以下の艦艇となると、数えるのすら億劫となる程だった。この世紀の大艦隊が一同に介したのは、後にも先にもただの一度だけだった。それは実戦ではなく、1945年10月の「戦勝記念特別大観艦式」においてのみだった。この時の観艦式は、余りにも参加艦艇が多かったため異例の二日に分けて行われ、前夜祭のような各港湾での賑わいを含めると、都合2泊3日状態で浦賀沖の海域を占有して盛大に行われた。
 海軍将兵が一丸となって開催と艦艇の参加を求めて実現されたもので、この時海軍将校達は艦艇の退役や予備役手続きをこの観艦式のためだけに変更させていた。さらには財務官僚が参加艦艇数や予算を渋ったので、自分たちで膨大な金額の献金を集めて挙行している。昭和天皇の御座船を含めた観閲艦隊を含め、都合300隻の艦艇と500機の航空機が参加した空前の観艦式となり、観覧者の数も洋上だけで20万人、横須賀など艦艇が在泊した南関東沿岸での見学者を含めると200万人が押し寄せたと言われている。記録映像も多く、金をかけられる限り撮影され、今日にもフルカラー映像を含めて数多くの記録が残されている。

 そして海軍の祭りが終わると、容赦のない一斉退役、一斉処分が開始される。
 旧式戦艦は、一部を地方自治体を募った上で記念艦として全て退役させ、事実上の同盟国に払い下げの売却を持ちかけた後、残りはすぐにも解体していった。この結果、半数以上の旧式戦艦が原型を留めて日本各地の港での余生を送ることとなった。これらは呉の《長門》、大湊の《陸奥》、舞鶴の《山城》、大阪の《金剛》など、現在も残存している戦艦になる。
 1930年代以後に作った戦艦も全て予備役に編入され、《大和級》以後の大型戦艦8隻と実質的には中型の高速戦艦である超甲種巡洋艦4隻だけがアメリカへの対向上現役で残された。空母も似たようなもので、旧式艦のうち一部を記念艦として保存。それ以外では既存の大型艦だけを全て残し、中型艦のかなりが各国に予備部品と合わせて安価で売却に出され、残ったもののほとんどは別任務か予備役とされた。
 中型空母は意外に「人気商品」で、すぐにもドイツ、イタリアに2隻ずつが予備部品や機体、さらには訓練教官付きで売却された。その後も満州帝国、フランス、スペイン、インド、中華民国と売却先が増えた。最終的には、日本海軍が使い直したものの再売却すら行われ、建造されたうちの8割に当たる10隻が何らかの形で日本海軍以外での第二の人生を送ることになった。停戦すぐの時点では、4隻が売却、1隻が練習空母、1隻が揚陸支援用の母艦への改装、2隻が対潜水母艦への改装、4隻が予備役、そして最も古い《蒼龍》が名目上の保管艦を数年経た上でそのまま退役している。ただし記念館として現在まで残ったのは、最古参の大型空母《赤城》だけだった。
 無数に建造された《東海道級》や《鷹級》護衛空母も、容赦なく予備役入りとされた。戦争中盤以後、鋼鉄の鯱、もしくは現代の海賊として世界の海を駆け回り続けた改装軽空母群は少しばかり幸運で、再び改装工事に着手して全て高速補給艦としての第二の人生を送ることになる。これは海軍が、戦争中に多数の高速補給艦の必要性を痛感した影響だった。
 また軍縮の査定で、機動部隊所属の艦載機総数の平時定数はほぼ1000機とされたが、そんな数字は無条約時代以後に作った《翔鶴級》以後の大型空母14隻だけで埋まってしまう程度の規模でしかなかった。日本海軍は、それほど沢山の艦艇を作っていた。
 巡洋艦や駆逐艦の軍縮はもっと酷く、旧式艦は容赦なく退役、性能の高い艦と建造年の新しい中でも状態の良い艦を選んで残し、他はほとんどが予備役へと追いやられた。しかも旧式艦は、退役後即解体が基本というすさまじさだった。しかし巡洋艦以下の艦艇も輸出品としては人気商品で、一部の艦艇は輸出や供与に回され、さらに一部の巡洋艦はかなりの期間、他国で第二の人生を送ったりもした。特に、《妙高型》《高雄型》のような見栄えのよい重巡洋艦は人気だった。
 この時問題となったのが、建造中だった大型艦艇だった。
 1942年計画で超巨大戦艦4隻、大型装甲空母4隻の建造予算が認められた。そして日本海軍の艦艇の損害が比較的少ない事もあり、42年秋頃から順次建造が開始されていた。1943年には、さらに大型装甲空母8隻の予算が通っていた。全てアメリカ海軍と雌雄を決するための、「決戦艦艇」だった。
 1945年1月の停戦時には、超巨大戦艦2隻、大型装甲空母4隻の建造はかなり進んでおり、早いものは既に進水式を終えていた。しかしどれも完成には至らず、建造にはまだ多くの予算と時間が必要だった。このため取りあえず建造が停止され、1945年末には一度全艦廃棄が言い渡される。だが、アメリカ海軍の一定の復活と再編成が分かると変更される。まだほとんど建造が進んでいない超巨大戦艦2隻は建造中止とするも、資材流用の形で超巨大戦艦2隻を完成させ、大型装甲空母4隻は建造ペースを大幅に落とすも新技術を取り入れつつ建造が続行される。そうして建造された艦は、1950年代前半に相次いで就役し、新時代の戦闘艦としてお披露目される事になる。

 なお、大戦を戦い抜いた艦にとってはある意味過酷な現実だったため、こうした艦艇整備を一部の海軍軍人は「軍艦大粛正」と呼んだほどだった。
 一方陸軍や空軍の装備面での軍縮は、海軍よりはマシだった。それにもともと固有の装備への愛着が海軍ほどではないため、すんなりと対応出来たし、多くの装備が友好国へ大量に供与されたので無駄も少なかった。

●フェイズ58「戦後すぐの日本(2)」