■フェイズ60「鉄のカーテンと核開発」

 1949年になって民主党の新政権が本格的に動き始めても、アメリカの不景気は収まらなかった。まさに負の連鎖だった。
 確かにトルーマン大統領率いる民主党政権は、始動を始めると矢継ぎ早に景気対策を打ち出した。トルーマン政権は、先の政権の自由放任主義を大幅に改めて、大量に国債を発行して大きな予算を編成した。取りあえずの雇用と需要を作る公共投資も、大幅に増額された。政府主導による積極財政政策によって、当面の不景気を脱しようと試みたのだ。
 そして公共投資重視の積極財政だったため、ルーズベルト時代のニューディールにちなんで「セカンド・ニューディール」などと呼んだりもした。
 だが、積極財政をするには既にアメリカ経済が成熟し過ぎている事、現状のアメリカには海外市場が乏しい事、国際関係が良好でない事、そしてアラブで巨大油田が見つかり採掘を始めた事、全てがアメリカ経済にとって大きなマイナスだった。突然のように、世界(主にヨーロッパ)がアメリカの石油を買わなくなったことも、経済的には大打撃だった。
 加えて言えば、アメリカが有する巨大すぎる生産力は、アメリカ経済だけでは捌ききれない。しかもアメリカの生産業は、短い戦争の間にさらに拡大していた。このため大戦後は、大戦前のような遊休状態の工作機械や工場が無数に出ていた。事は既に、半ば無用となった造船や航空機の生産だけでは済まされない事態に移行していた。この事は、経済のバロメーターである鉄鋼生産量に如実に現れていた。1944年に8000万トンを記録した粗鋼生産は、再び5000万トン台に低下していた。廃業に追い込まれる大規模製鉄所も出ていた。生産量第二位となった日本が常時3000万トン以上を生産するようになって、しかも生産を年々拡大しているというのに、である。
 民主党政権内では、選挙に勝ったはいいが既に1950年の中間選挙を危ぶむ声が出ていたほどだ。
 名目上の自由貿易体制の世界が用意されたとは言っても、アメリカの巨大な生産力を受け入れるだけの能力が、そもそも現在の人類社会には存在していないのだ。それなりの自由であっても、意味がなかった。アメリカが戦争に勝利して、人類社会を実質的に独占しなければ、アメリカの繁栄は無かったのだ。それが分かっていたからこそ、ルーズベルト政権はアメリカ以外の生産力を大幅に減退させるべく「無条件降伏」という言葉を口にしたのだろう。
 しかし現状は、戦争の手打ちとアメリカの停滞だった。
 しかも日本やドイツが生産力を年々拡大しており、それぞれ戦争中に作り上げた勢力圏と市場を席巻しつつある。他のヨーロッパ諸国の生産力、経済力も既にかなり復活している。
 何しろ戦争が終わって、既に4年が経過していた。

 そして世界は、停戦という名の終戦から4年という歳月を経て、大きく変化し始めていた。
 ヨーロッパでの経済関係での連携の強化が、その始まりだとされる。ついで、アラブでの超巨大油田の日本主導での国際共同開発は、世界の石油地図を激変させただけでなく、世界情勢の全てに大きな変化を強要する事になる。
 日本、ドイツ、イギリス、オランダそしてヨーロッパ社会の後ろにいるロスチャイルドなどの巨大財閥は、アラブの油田で強引に呉越同舟となっていた。船頭と船主は日本だが、その日本ですら一人では船の行く先を決められないほどだった。
 そしてそうした状態を敢えて作った所に、日本外交の成功があったといえるだろう。これでヨーロッパは、今後日本に安易な戦争を吹っかけられなくなるし、アジア問題でも強く言えなくなってしまった。経済問題についても同様だ。加えて、アメリカと対向し続けなくてはならなくなる。
 しかし、一つの疑問もあった。
 アラブの油田に、なぜアメリカを巻き込まなかったのか。巻き込めば、アメリカも呉越同舟の仲間入りとなり、世界の誰も戦争が出来なくなるのではないか、という疑問だ。
 この疑問に対する反論としては、アメリカの巨大な経済力、巨大な石油企業を恐れたというのが一番の理由だ。これは恐らく真実だろう。日本人達にとって、戦前、戦中のアメリカの巨大な国力、石油生産力は、最早トラウマになるほどの印象として刷り込まれている。加えて言えば、日本にとっての20世紀前半は、アメリカの巨大すぎる国力を横目で眺めながらの成長だった。むしろ恐れて当然だろう。
 そして、ある政治家が語った一つのフレーズが、アメリカが世界から排除された現状を的確に突いていた。

 「鉄のカーテン」。
 この言葉は、早くも1946年に英国宰相でなくなったばかりのウィンストン・チャーチルが、公演先で語った言葉の一節だ。
 もう少し長く抜粋すると、「大西洋と太平洋には鉄のカーテンがおろされ、ブリテン島(英本土)とハワイはその中間で門扉となっている」となる。
 先の世界大戦と停戦会議の結果を端的に語った言葉で、アメリカと旧枢軸諸国による旧大陸(ユーラシア)列強の対立が継続していることを指している。この中でイギリスは、英連邦として世界的に展開し、旧連合国としてアメリカ寄りであるが、地理条件的にヨーロッパとしても生きねばならないジレンマが語られている。また言葉の中でハワイが出たのは、裏付けの少ない永世中立国の危うさを語るものだったと言われている。飛行機レース一つで世界が平和で永世中立が保てるなら誰も苦労などしない、ということだ。当然だが、ハワイに対しては日本とアメリカの対立が揶揄されている。さらに加えれば、ハワイは有色人種国家であり、アメリカにとってはドル札で買い叩くか、自らの軍靴で蹂躙しても問題ない国の一つだったのだ。
 また、二つの巨大な海洋を隔てたこの分け方は、日本すら含め旧大陸はいまだ帝国主義が続いており、アメリカだけが自由主義と民主主義という二つのイデオロギーを掲げている事を指してもいる。
 チャーチルの分けかけたに、ドイツの独自の地政学を唱えたカール・ハウスホーファーの考えを持ち出すものもいたが、的を得ているとは言えないだろう。
 地政学で当てはめるなら、旧大陸列強(旧枢軸陣営)の集まりは海洋国家でも大陸国家でもない。様々な国家の緩やかな寄り集まりでしかない。それに、経済的利権で擬似的に連携しただけで、運命共同体となったわけでもない。
 これに対してアメリカは、巨大な国土を持つ反面、国土の両側を巨大な海洋に挟まれた一種の海洋国家だった。そして大航海時代以後、世界を制したのが海を制した国であるという論の上に立つ地政学に従えば、二つの海洋を挟んだ争いも海洋国家同士の争いと見る事も出来る。この場合の旧大陸代表は、この時点では間違いなく日本となる。
 少し前なら対抗者は「太陽の沈むことのない帝国」だったイギリスとなるが、大戦で大きく疲弊したイギリスに半世紀前のような勢いはなかった。ドイツは基本的に大陸国家で、海洋国家ではない。もう大海軍を作る気もない。それに大戦でアメリカを旧大陸に一歩も近寄らせなかったのは、間違いなく日本が作り上げた強大な海軍だった。そして世界第一位の経済大国と第二位の経済大国は共に海洋国家であり、世界の覇権を賭けて争うに相応しい国だと表現できるかもしれない。現代のローマとカルタゴと表現した研究者もいたほどだ。
 「鉄のカーテン」も、次の覇権争いを揶揄した言葉だと取る方が自然かもしれない。そしてその「鉄のカーテン」を極めて強固にする発明が行われる。
 原子爆弾、つまり核兵器(NUKE)の発明と開発だ。

 特殊なウラン原子またはプルトニウム原子の核分裂反応を利用した爆弾が、いわゆる原子爆弾(原爆)で、全ての核兵器の基本となる。最初に開発された頃の爆発威力は、TNT火薬で15キロトンから20キロトン程度。1キロトンは1000トンだから1万5000トンから2万トン分の火薬の爆発に匹敵する破壊力ということになる。この破壊力は、中規模の都市を一撃で壊滅的打撃を与えるだけの威力を持つ。
 爆弾一発当たりの重さは、概ね5トン。開発当時の技術で小型化し、ロケットの弾頭部用として投下爆弾用の余計なものを可能な限り取り除いても、最低で3トン半はある。運搬手段は、開発当初はほとんど大型の重爆撃機しかなかった。ドイツが既に保有していた準中距離弾道弾(弾道ロケット)を挙げる方もいるだろうが、有名な「A4」の積載量は1トン程度しかないので、ロケットを大型化するか原爆の小型化に成功しない限り搭載は難しい。ならばドイツの計画にあったように、大型のロケットを開発すれば良いという言葉もあるだろうが、この頃のドイツには金がなく、他の列強はこの当時は弾道ロケットにあまり興味を抱いていなかった。当のドイツも、開発意欲をほとんど無くしていた。
 当時の技術では兵器として精密誘導能力に難点があるし、航続距離(到達距離)も短かったからだ。その点大型の重爆撃機なら、敵の迎撃さえ排除すれば目標選択や攻撃の最終決定の有無に至るまで選択肢も広がる。爆撃精度も高い。敵の迎撃さえ考えなければ、ほぼ理想的な運搬手段だった。特にアメリカと日本が戦後になって相次いで開発した超重爆撃機は、自らの本土から地球のほとんどの場所に爆撃する事が出来るという破格の能力を備えていた。

 そして爆弾本体となる原子爆弾だが、開発は大戦中から各国で行われている。
 開発に着手したのは、早い順にドイツ、アメリカ、日本、イギリスとなる。イギリスは大戦中の資金不足で一時リタイアし、その後1948年頃から開発を再開している。またフランスやロシアが大戦後に研究に入っていたが、ドイツからの厳しい監視があるため研究以上に進んでいなかった。ロシアがソ連時代に行っていた研究や開発の成果についても、ほとんどがドイツに接収されていた。科学者についても同様だ。この辺り、ナチスが無くなってもドイツ人はロシア人に容赦なかった。
 そして開発をリードしていたのは、ドイツ、アメリカ、日本の順になる。特にアメリカは、ナチスドイツの迫害を逃れたユダヤ人を始めとする世界中の科学者を集め、大戦に参加してから半年ほど経過した1943年に入る頃から、20億ドルという他国を圧倒する開発費を投入して精力的な開発を行っていた。しかしアメリカは、ルーズベルト政権の崩壊と停戦によって開発が停滞した。科学者の多くも、ヒトラーとナチス、さらには共産主義者まで消えたというので開発に対する熱意が大きく下がり、考え方の違いや使用目的に対する反発から、開発から降りる者、アメリカを去る者が続出した。停戦後の開発についても、開発者、資金、双方の不足で停滞した。もし順調に開発が行われていれば、1946年春頃に最初の原爆が完成していたと言われている。
 それでもドイツ、日本が開発を継続しているという情報を得て、1946年頃に本格的に再開。遅れを取り戻すように巨額の資金を再び投じ、アメリカ合衆国が1948年7月26日に世界初の実験に成功する。そしてこの事をいち早く世界に向けて発表したのだが、これがやぶ蛇となってしまった。
 他国の核兵器開発実現に口実を与え、先に開発したアメリカの攻撃性が目立ってしまったからだ。当時、日本、ドイツ共に既に開発は最終段階だったが、共に実証実験をするかどうかの最後の迷いを振り払ったのがアメリカの実験だったと発表している。

 ドイツは高い技術を持ち、いち早く核兵器開発に取りかかった事もあって、大戦中は最初に核兵器を開発すると考えられていた。そしてナチスとヒトラーに究極の破壊兵器を渡すことは世界の破滅を意味するとして、アメリカでの開発が促進された。ナチスに迫害されたユダヤ系を始め世界中の科学者も、アメリカに力を貸したのだ。
 しかし戦争中のドイツは、技術的に肝心なところでつまづいて先に進めなくなっていた。その上ナチス政権が崩壊して停戦が実現すると、新政府の命令によって開発は一時中断。戦後も、一年ほどは殆ど何も行われない状態が続いた。だが戦後のドイツは、金のない状態でヨーロッパの軍事的プレゼンスを実施しなければならないという難題に直面していた。このため、いまだ国防軍の軍人達が幅を利かせるドイツ政府は、効率的な戦略的軍事プレゼンスとしての核兵器に注目。通常軍備を削減してでも、多くの予算と最新の研究を投じて一気に開発を進める。
 かくして1948年10月に開発に成功し、北極近辺のロシア人から奪った荒涼たる島で実験に及んだ。

 そして日本だが、日本では仁科、湯川といった世界的な科学者や博士達を中心にして、戦争前から研究と開発が進んでいた。開発資金もかなり豊富に投入された。日本での開発は、資源小国に相応しく、爆弾ではなく発電を目的としていた。だからこそ、戦前から研究が盛んだったと言えるだろう。
 だが日本の場合は、他の二国よりも困難が多かった。
 まず、ウラン鉱山が域内にほとんど無かった。保護国の朝鮮半島北部に若干見つかった程度で、それも苦労して採掘しても実弾数発分というレベルしかなかった。このため、まずは研究という面で開発が進んだという背景もあった。戦争中の原材料問題が解決したのは、日本の占領地が拡大して各地に資源調査団が赴いた結果だった。1942年春頃、オーストラリア北部で鉄、ボーキサイトなどの鉱産資源を探していた一団が、半ば偶然にウラン鉱山を発見。しかもかなり大規模だったので、日本はオーストラリアから引き揚げるまでに多数の工作機械を導入して、大量のウランを日本に持ち帰った。戦後は、各国から様々なものと引き替えに、大量に入手もしている。オーストラリアとの取引も、アメリカの横やりをかわしつつ行われた。
 日本での開発そのものは戦前から戦中、戦後にかけて継続して行われたが、ドイツと同様に技術的に肝腎なところでの停滞が続いた。このため、ウランが大量に取得された頃は、プルトニウム型ではなくウラニウム型爆弾を作ろうという意見が台頭した。ウラニウム型は極めてコストパフォーマンスが悪いが、極論不安定なウランを一定量集めるだけで爆発する(臨界に達する)代物だったので、大量(万の単位)の遠心分離器さえ揃えれば何とかなるからだ。実際アメリカは、そうして1発のウラニウム型爆弾を製造している。
 しかしアメリカほど予算が潤沢でない日本は、結局は原子力発電所を作りプルトニウム型を作ることにする。当時世界的にも進んでいた原子力発電所を作り、そこでプルトニウムを集めている間に技術的問題もクリアーし、アメリカに遅れること約10日後の1948年8月6日に、中部太平洋の兵器実験場にて日本初の原爆実験に成功する。
 施設から運ぶ段取りなどを考えると、実験用爆弾が完成したのはアメリカとほぼ同じだったと考えて良いだろう。実際、実験のための実験用爆弾を積んだ船が日本を離れたのは、アメリカの実験よりも半月ほど前の事だった。アメリカが世界初の名誉もしくは不名誉を得た事は、一部の科学者が悔しがっただろうが、日本政府にとっては渡りに船と言ったところだっただろう。

 経緯はともかく、極めて短期間の間にアメリカ、日本、ドイツの順番で核兵器実験が成功した。これが戦争中なら、次は生産力の問題となりアメリカが最も優位に立っただろうが、もう戦争中ではなかった。取りあえずは、自力での開発能力と1発でも実弾を持っているという事が重要となっていた。
 このためどの国も、心血と莫大な予算を注いで作った核兵器を、絶対的な外交カードとして使うことが出来なかった。
 落胆の度合いは、最初にゴールしたアメリカが最も大きく、しかも先にゴールしたことが外交的失敗へと結びついた事も落胆をより大きくした。
 その上、日本、ドイツ双方は、艦艇特に潜水艦に原子力機関そのものを搭載することに対して爆弾開発よりも熱心で、開発速度はアメリカを大きく引き離していた。特に大型潜水艦を好む日本海軍は、早くも1950年に世界初の原子力潜水艦「伊400」を就役させている。この潜水艦は、原子炉を搭載していることもあって水中での騒音は酷かったが、それを補って余りある利点を有していた。水中に長時間潜ったまま行動が可能で、しかも水中での馬力(機関出力)も確保出来るので水中速力が格段に早かった。従来の安価な護衛艦艇では、対処が難しい性能だった。
 この状況の差は、三国の通商破壊戦の成否の結果がもたらした影響だとされる。日本とドイツは、通商破壊戦の成功が戦略的勝利に大きく貢献したが、アメリカによる主に日本に対する通商破壊戦は、停戦時まであまり有効に機能しなかった。この事が、アメリカ政府内、軍部内で、原子力機関搭載型潜水艦開発の優先順位をかなり下げさせていた。日本の潜水艦が完成しても、あまり大きな衝撃は受けなかった。
 そして海軍に潤沢な予算を投じることが出来る日本が、動力機関としての原子力開発で世界を大きくリードする事になる。また日本では、商業電力としての原子力機関に大きな期待を寄せていたことも、開発の促進を促していた。日本は地震大国のため発電所の設置には細心の注意が必要だったが、この事も安全性と技術の向上という面ではむしろプラスに働いていた。

 原子力の動力利用の件はともかく、究極の破壊兵器と言われた原子爆弾の開発競争は、戦略的、政治的にはほぼ同時となったが、生産競争ではアメリカがリードした。これはアメリカ政府が、空軍戦力に大きな期待を寄せていた事が影響する。当時のアメリカの国防の基本は巨大な戦略爆撃機で、これらに核兵器を搭載すれば国家安全保障は安泰、というわけだ。
 日本、ドイツでも同様の考えはあったし、それぞれの空軍は大量装備を主張したが、ドイツでは伝統的に戦略空軍と呼ぶべき組織は貧弱で、日本は戦争中に戦略爆撃をあまり行っていない上に、戦争に勝ったのは陸海軍そのものだという意識があった。また日本軍の場合は、戦後の世界各地でのプレゼンスのためには、軍艦という便利でプレゼンス効果の高いものを持つ海軍が重要な役割を果たしていた。破壊効果、政治効果はともかく、兵器として使い勝手の悪い破壊兵器は、少なくとも当面は政治的効果を持った兵器としてあれば十分と言う考えが強かった。自分も有することで相手が使わなければ、従来の兵器で勝てるという自信が日本にはあったからだ。
 しかし、軍事戦術的にはともかく、政治的に核兵器のもたらした効果は大きかった。
 チャーチルの言った「鉄のカーテン」は間違いなく強化され、先の戦争の対立構図のまま状態は先鋭化してしまった。単に大きな爆弾、使い勝手の難しい爆弾という程度の認識しかなかったが、1発で都市中心部を壊滅でき、戦略爆撃機を使えば相手首都すら直撃できるという点は極めて重大だった。
 しかも、爆発実験はその後もそれぞれの国で何度も行われ、より破壊力の大きな次世代の核兵器を作り、いっそう戦略兵器としての効果を高める努力が行われる事になる。

 そして次の対立、次の戦争を考えるような事態が、大戦が済んだばかりの世界には、徐々に吹き出しつつあった。

●フェイズ61「新たなくすぶり」