■フェイズ61「新たなくすぶり」

 ほぼ地球全土を舞台とした二度目の世界大戦は、実質的には引き分けで終わった。ヨーロッパだけで見れば、ドイツの判定勝ちながらほぼ痛み分けでもあった。
 アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、イタリアは、勢力図こそ変化したが戦争を戦い抜いた。一方で、ソビエト連邦は崩壊、解体されてロシアに戻り、フランスは親ドイツ、親枢軸国として再編され、それぞれ国威は落ちた。ヨーロッパでの敗者は、ロシアとフランスの二国だったと言えるだろう。イギリスもアジアを失ったので、やはり敗者側とするのが適切かもしれない。アジアでは、中華民国が敗者と言えば敗者だった。
 そして戦後世界は、アメリカとそれ以外という構図が徐々に現れつつあったのだが、世界はそれほど極端に二色に色分けされたわけではない。アメリカ政府は、自由主義、民主主義の自分たちとそれ以外で色分けしたがったが、先進国や列強と呼ばれる国では、戦後どの国でも多党制による民主選挙が行われ、そこで選ばれ大統領や首相(内閣総理大臣)が政権を担った。王様を頂く国も随分残っていたが、ほぼ全てが立憲君主国だった。
 列強で独裁者と言えるのは、イタリアのムッソリーニ総統ぐらいだった。
 しかしそのイタリアは、国王がいるうえにムッソリーニがいる上に、ムッソリーニの権威は日に日に落ちていた。ムッソリーニが失脚するのも時間の問題と言われていた。ナチスドイツの魔の手から一度は逃げ出したヨーロッパ各国の王族も、既にほとんど全てが祖国に帰還していた。凱旋でないため権威も人気も落ちた場合が多かったが、立憲君主制なら特に問題もないと考えられていた。アメリカが、「天皇」という「皇帝」がいる日本帝国の体制を強く非難したが、ヨーロッパ諸国からはむしろアメリカが不評を買ってしまう程だった。日本は「帝国」と国号を定めていたが、別に悪の侵略国家ではなく、実質は大衆迎合政府が国政を担っているに過ぎなかった。
 また一方でアメリカは、旧枢軸国の実体が依然として軍国主義的だと強く定義していた。流石に全体主義とは言えなくなっていた事から来る変更だったが、国ごとに軍事色の広がりだけ見るなら、戦争中に軍を極度に肥大化させたアメリカも十分に軍国主義的となる。この論法も、アメリカ一流のダブルスタンダード(二重規範)でしかなかった。
 世界は依然として複雑な要素を持っており、アメリカ政府が国民に見せたがった色分けはまず無理だった。
 そして国によって様々な色があるため、大国同士による戦争が一定の決着を見ても、世界各地に別の理由による争いの火種は耐えなかった。

 第二次世界大戦後、中華民国では争いの火種が再燃した。大きく国威の落ちたフランスは植民地の維持に躍起になったが、中でも周りの全てが独立したインドシナでの独立運動の泥沼にはまり込んでいた。アラブ地域では、第一次世界大戦頃からパレスチナ地方に集まり始めていたユダヤ人が、ナチスドイツが現地に進撃すると共に多くが離散したため争いの火種の一つは消えた。だが、ユダヤ人が消えた事で、アラブ内での対立はむしろ先鋭化していた。石油欲しさにアラブ地域に進出した列強に対する反発を強める国もあった。
 中部アメリカ(+カリブ)では、依然として列強の植民地だった地域の独立運動が盛んになり、それぞれ敵対的な列強が足を引っ張り合っていた。既に独立している国は、他の国を利用する形でアメリカやヨーロッパ列強からの経済的支配を脱する動き、経済植民地からの脱却を計る動きが起きていた。当然、中米に対するアメリカの締め付けが強まり、アメリカへの反発も強まった。そして中米での混乱の為、アメリカは身動きが取りづらくなっていた。
 インドでは、インドとパキスタンの宗教を主な理由とした国家分裂の過程で大規模な紛争が起きて、その後の両者の根深い対立が始まっていた。
 ドイツが一度は支配したヨーロッパでも、旧ユーゴスラビア地域では、反ドイツ運動、各民族、宗教を巡る争いが起きていた。ロシア人の勢力が大きく減退したため、チェコとスロヴァキアもそのまま民族集団ごとに分離独立していた。
 当時世界で最も元気な国は日本だったが、日本はまだ完全な先進国ではないと見られていたし、基本的にはアジア、太平洋地域限定の広域覇権国家でしかなかった。実際問題としても、世界の様々な問題に対処できるだけの能力がないし、その意思にも乏しかった。世界各地の問題は、国連で対処するべきだという姿勢を維持してもいた。
 そうした中で、日本が重視したのが近隣の中華問題であり、また当時最も火種が燃えさかっていたのも中華地域だった。

 中華民国は、1938年夏から約一年間行った日本との事実上の全面戦争に一方的に敗北し、その中で政府及び国民党指導者の蒋介石が戦死という形で退場していた。その後は汪兆銘が国民党を再編して無難な国家運営を続け、大戦では中立を貫くも主に日本への輸出で外貨を稼ぎ、国の建て直しにもある程度成功していた。外交面でも、中立を売り物にすることで悪くない位置を占めることができた。
 しかし汪兆銘が1944年秋に病死すると、俄に雲行きがおかしくなる。
 中華民国というより中華地域は、清朝が崩壊して以後は地方軍閥に括られた旧時代的な豪族のような集団の寄り集まりだった。その中で国民党が頭角を現して、曲がりなりにも国家を統一した。漢字で総統と書く指導者を頂くが、これは日本語に訳せば大統領に当たり、他国語でも大統領と訳される。
 しかし余りにも国家体制が未熟なため、蒋介石、国民党、国民党軍という親衛隊による、ほぼ全体主義といえる体制となっていた。そして蒋介石政権は、他国の介入をアテにして日本との間に安易な全面戦争を行って破れた。その後の汪兆銘による国民党政権は、蒋介石派の国民党幹部の多くが死亡したため、中道派、現実主義派によって構成された。このため、大戦中は無難な政権運営が行えたといえるだろう。
 一方で、国民党の直属部隊は、日本軍によって一度壊滅していた。同時に他の主要軍閥の多くも壊滅していた為、世界大戦中は特に大きな国内問題とはならなかったが、軍の中核部隊の再編成は大戦が終わってもあまり進んでいなかった。
 そして汪兆銘の死去により、事態は変化する。
 中華民国もしくは国民党内に、汪兆銘の次を担えるだけの大物政治家がいなかったのだ。
 中華域内の政敵の多くは、蒋介石が排除していた。共産党すらほぼ全滅し、その後歴史の表舞台に出てくることはなかった。生き残った軍閥の頭領はどれも人物として小粒な上に視野狭窄で、国政や外交が出来るだけの力量も無かった。一方の国民党内にも、国家を率いることが出来るほどの人物がいなかった。国を運営できるだけの官僚組織は相応に有していたが、地方を押さえ込めるだけの権威と軍事力に欠けていた。
 あまりの不甲斐なさに、満州帝国がいらぬ野心を燃やし始めたほどだった。

 しかも二度目の世界大戦が終わると、再び諸外国が中華地域に戻ってきた。
 戦争が終わり日本が通行を邪魔しなくなったので、ヨーロッパ各国は利権の復帰と滞っていた借金の返済を迫る。また上海、天津などの租界にも、再び軍艦や海兵を送り込んできた。戦争で散財した国々は、少しでも金が欲しかったからだ。
 また国民党、中華民国中央の統治能力が低下すると、チベット、東トルキスタン(ウイグル)の自主独立気運が高まりを見せた。その後ろには、それぞれ国家も付いていた。中華を不倶戴天の敵と見ている満州帝国も、周辺国の抱き込みなどの外交攻勢を強めた。万里の長城付近に軍隊を並べる点については、今更言うまでもないと言える状況だった。日本との間にも、直接的には海南島の帰属問題などが横たわっていた。
 内憂外患に際した中華民国政府は、国連の席においてアメリカ的な正論を並べた上で、諸外国に対して租界の返還と中華辺境地域に対する不干渉を要求した。さらには、外国資本による鉄道などの国内社会資本の返還も要求する。
 これに対して諸外国は、既に中華市場が植民地帝国主義に合致しないことを理解していた事もあって、行動は比較的穏やかで開明的だった。社会資本に関しては、国際通貨(ポンド、ドル又は円)もしくは金銀など現物による買い取りを行うならば受け入れる用意があることを通達した。租界に関しても、返還を受け入れる用意はあるが、時期についての文句を並べた上で、不動産などの社会資本の正価での買い取りを求めた。売却に関しては、常に中華民国の肩を持っていたアメリカですら、それとこれとは別問題とばかりに他国と同じようなことを言っていた。
 また各国は、内政干渉については強く否定した。しかも隣国の満州帝国は、自分たちの方が中華民国からの干渉を受けていると反撃し、中華民国政府に北方軍閥の統制強化を強く求めた。さらに列強たちは、チベットはインド、パキスタンの問題、東トルキスタンについてはカザフなどと貴国の問題と、自分たちに関係がないと言った。
 これに対して中華民国政府は、強く出る事が出来なかった。水面下では、列強から様々な武器が中華各地に流れ込んでもいたが、その一部は国民党も資金的援助と共に受けていたし、列強が本気で殴りかかってきた場合の末路は、大戦直前に思い知らされたばかりだった。アメリカをアテにしようと言う動きも強かったが、アメリカも自らの利権に関しては五月蠅く、少なくとも現時点では日本などとの対立も望んでいないため、他力本願にも限界があった。
 そこで中華民国政府は、別の方向で列強に嫌がらせをすることにした。簡単に言えば、インドシナ(ベトナム)で独立運動をしているホーチミンへの支援を増やしたのだ。

 インドシナは、19世紀末頃からフランスの植民地だった。
 しかしホーチミンらは、フランスが一旦降伏して日本軍が入ってくると、フランスおよび日本の支配に反対する各層を結集し、「ベトミン(ベトナム独立同盟会)」を組織してベトナム独立運動を開始していた。
 その後ホーチミンらベトナム独立運動家達は、ソ連が崩壊すると共産主義者であることをほとんど止めてしまうが、実質面では大きな変化とはならなかった。ベトミンも、共産主義を棄てられる者は棄てて「愛国者」となり、狂信的な者、意固地な者が排除されただけだった。世界の潮流が変わったので、コミュニズムから純粋なナショナリズムに転向したのだ。
 もっとも一部に進駐してきた日本軍は、インドシナを殆ど素通りしてしまい、戦争中は一部の拠点をヴィシー・フランス政府から借り受けたに過ぎない。統治はそのまま現地のフランス人が行った。しかし日本は、他のアジア地域では独立を売って回るような状態のため、現地フランス総督府との関係は常に好ましくなかった。このためベトナムの独立組織は、統治能力の落ちた現地フランス総督府相手に有利な独立運動が展開できた。
 しかしスエズが枢軸の手に落ちると、フランス人はインドシナの統治を強化し、ほぼ以前の状態に戻った。
 そこでベトミンは水面下で日本と接触を持って、アジアが独立しつつある中でインドシナの現状が好ましくないとして支援を要請する。日本側は、同時期に共産主義が滅びたこともあって警戒感も低くなり、ベトミンが共産主義と完全に決別するのならという条件で水面下での支援を開始する。
 そして停戦の1945年旧暦正月、ベトミンが一斉蜂起。一時的にハノイを占領し、ホー・チミンを初代大統領とするベトナム共和国の独立宣言がなされた。
 この独立騒ぎはすぐにもフランスに制圧され、ベトミンは奥地へと逃れたが、既成事実を作ることには成功した。独立宣言を、アジアの一部の国々が承認していたからだ。承認に日本は加わっていなかったが、衛星国といえる満州帝国が行っているので日本が何を考えているかは国際的に明白だった。日本の考えとは、自らの近くに列強の植民地が有る事への不満、つまり大国意識だった。
 これに対してフランス政府は、ベトミンの掃討を実施。しかし山岳部のジャングル奥地に逃れた彼らを、当時のフランス軍では追いきれなかった。このためフランスは、1946年にベトミンとの交渉による解決のため、フォンテンブロー会談を開催。ベトミンに一定の自治を認め、植民地から保護国もしくは自由国とする事で決着を見ようとした。
 しかしこの頃には、既に中華民国がベトミン支援を開始しており、強気のベトミンは交渉を蹴ってベトミンとフランス軍の武力衝突がハイフォンで起こって、「第1次インドシナ戦争」が勃発する。
 植民地支配を継続したいフランスとそれを応援するヨーロッパ諸国と、東アジアに列強の植民地があることを自らの覇権上受け入れられ無くなりつつあった日本が、静かに対立する構図も出来上がった。この対立こそが、中華民国が望んだものだった。自らの敵同士を争わせる事は、中華伝統の戦略だからだ。
 そして中華民国にも、国際外交の影響が出てくる。ヨーロッパ諸国は自らに従順な地方軍閥に武器を送り、日本は主に正規な交渉で中華民国に武器や物資を売買し、さらに支援すら実施した。インドシナ問題もそうだが、中華地域も一定の安定状態にある方が、日本にとっても好ましいからだ。
 そして日本の混乱と弱体を好む国、その筆頭であるアメリカ合衆国が干渉してくるようになる。アメリカは水面下でフランスと接触を持ち、インドシナの独立阻止に動いたのだ。しかも、現中華民国政府に反対する勢力にも援助を開始。アメリカの言う「自由と正義」の実体が何であるかを物語る典型的例と言うべきだろう。
 その後インドシナ情勢は、泥沼の戦争状態になる。これを打開する一手として、フランスは1949年にベトナム国を樹立。フランスが植民地にする前にあったグエン朝最後の皇帝バオダイ帝を立てて、傀儡政権を作り上げた。
 しかしこれはかえってベトナム民衆の怒りを買い、内乱はさらに激化。中華民国の支援を受けるベトミンと、フランス軍の戦いになる。しかし中華民国の後ろには水面下で日本が控え、フランスの後ろにはヨーロッパ諸国ではなくアメリカがいた。つまり、日本とアメリカの代理戦争の様相を呈しつつあった。混乱が酷くなった段階で中華民国の影が薄れたのは、中華民国の内情が強く影響していた。

 インドシナ情勢が徐々に加熱している頃、中華民国では国内の混乱がいよいよ深刻化しつつあった。軍閥による群雄割拠化の進展と、軍閥討伐のため事実上の内戦状態の到来、戦いに伴う増税と紙幣増刷による経済の混乱と民衆からの酷い搾取、武器支援と引き替えに入ってきた外国商品に対する民衆の反発、全ては10年から20年前に起きたことの焼き直しような状態だった。しかも、以前とは比べものにならないほど国力と軍事力を有するようになった満州帝国との小競り合いも起きた。
 満州帝国との小競り合いは、中華に絶望した大量の流民が、地続きの満州、唯一の希望であり中華地域唯一の桃源郷である満州を目指したことで起きた。
 基本的に根無し草の移民、流民を歓迎していた満州政府だったが、1947年には年間200万を記録して、満州帝国の許容量を超えつつあった。満州国内での、漢族流民を原因とする治安悪化も深刻化しつつあった。スパイ、テロリストの流入も懸念された。このため満州帝国は、軍を用いて国境とすら言いにくい境界線を一斉に封鎖する。その上で入国のためのゲートと審査所を有する中立地帯を設けて、そこで審査に通った者のみを通すようになった。これで満州入り出来る数は計数的に激減したが、境界線付近に集まった流民が不満を溜めて暴徒化。境界線上の障害物を乗り越えたり、取り除くなどの実力行使に出る。これに満州帝国軍が発砲して、警備を名目に付近にいた中華民国軍が満州帝国軍に対して発砲。その後、戦闘規模は数百名単位の戦闘になるほど拡大した。戦闘に巻き込まれた流民にも、多くの犠牲者が出た。
 その後事態は両政府の動きによって終息するも、境界線は双方が軍を積み上げて危険な状態となっていた。
 しかしこの頃の中華情勢は、以前と逆だった。
 日本政府が国民党政府を支援し、アメリカとその他一部のヨーロッパ諸国が非公式に割拠する軍閥を支援して国内の混乱を煽っていた。満州帝国と戦闘に及んだのも、欧米から武器援助を受けた北方軍閥の一つだった。ドイツなど中華問題で中立的な国の一部は、武器やその他工業製品を売り歩くだけだったが、別に問題解決しようとは考えていなかった。旧枢軸内の了解事項として、インドより東の問題は日本が担当する事になっているからだ。ナチスが消えた後、ドイツ人はそのルールをそれなりに守るようになっていた。ただし、商売だけは例外としていた。中華各勢力も、ドイツ製兵器を好んでいた。
 中華民国政府は、一度ならず国連に自国の問題に関して訴えたが、国連の反応は思わしくなかった。中華民国への不干渉、インドシナ地域の独立を支持するのは基本的に列強以外の国で、常任理事国で明確に賛成しているのは日本だけだった。ドイツもやや日本寄りの姿勢だったが、植民地を持つヨーロッパ諸国と日本を憎むアメリカは冷淡だった。ロシアはチャイナが適度に混乱している方が、満州帝国情勢を含めて自分にとって都合が良いので、現状のままずっと推移する事を望んでいた。

 そして諸外国が望んでいる状況が、中華近隣にもう一つあった。
 朝鮮地方だ。
 朝鮮地方は、500年も続いた中世的な古い王朝が、実質的にいまだ続いていた。1895年には日清戦争の影響で清朝(中華王朝)から大韓帝国として完全独立するも、その後の帝国主義的世界の風潮と、韓国自らの外交的失敗により日本の属国化が進められる。1910年以後は、日本の保護国として長らく過ごした。
 大韓帝国と改められた国号は国内的にはそのままだったが、一定の時期を過ぎた日本ですら、朝鮮半島を通過点や資源採掘拠点の一つ、余剰食糧の獲得場所ぐらいにしか考えない状態が続いた。日本の勢力圏なので、日本以外の国が注目することもほとんど無かった。しかも1911年に満州王国が成立し、1920年代初期にロシア人が沿海州などと呼んでいた地域が満州に併合されると、本当に誰も身向きもしなくなる。日本人も、緩衝地帯としてすらほぼ不要になったので、日本利権の治安維持以外の目的で軍隊など治安維持組織を置かなくなった。朝鮮半島のための軍隊や警察も、保護国の宗主国としての権利を行使して朝鮮人の中で編成させた。
 結果、日本の支配が及び始めてから半世紀の間も、朝鮮半島は中世の中でまどろみ続けた。一部の目聡い者は、入り込んできた日本人、日本利権、縦貫鉄道などに触発されたが、多くの者は何もせず、行動を起こすにしても祖国や故郷に絶望して国外へと逃げ出すように移民するだけだった。誰も朝鮮半島を積極的に発展させようとはしなかった。特に為政者、特権階級が、国を良くすると言うことに無頓着だった。このため、日本の技術と製品の輸入で、若干の人口上昇や技術発展が見られたにも関わらず、国自体の人口増加は限られていた。
 そして1945年の停戦会議、国連の設立に伴い、日本が思い出したかのように朝鮮半島に主権を返還することになる。
 正式な主権復帰は同年8月で、自らによる国号は「大韓帝国」だったが対外的には単にコリアとされる国が、国連の末席に連なることになる。とはいえ諸外国としては、日本の票が一つ増えたぐらいにしか思わなかった。韓国自らは帝国であり君主は皇帝としたが、国際的には「キングダム」、「キング」として正式に登録されていた。歴史的経緯にも皇帝よりは王の方が正しいし、他国にどうにか独立させてもらった国が帝国や皇帝など国際的にはお笑いぐさだからだ。主権復帰の前に日本も色々と説得はしたのだが、結局朝鮮人達は受け入れなかった。それでも、国際的な条約文書では王国(国王)としての自らを、韓国側も認めざるを得なかった。
 そしてコリアが独立したと言っても、実質は日本の経済植民地のままだった。日本政府は、国際通貨もしくは円による正価なら朝鮮半島内で日本が保有する社会資本を売却すると正式に発表して一部準備までしたのだが、そんな金は朝鮮半島にはなかった。主に日本に対する対外債務も、日本側が「ご祝儀」で一部放棄しても、積もり積もって10億円(3億ドル)あった。そもそも当時のコリアには、日本が持ち込んだ以外でまともな近代的貨幣経済すらないのだから(※まともな自国通貨は、いまだ最低価値の古い中華製の銅貨しかなかった)、借金を返せる道理がなかった。
 そして当時のコリアには、日本人が建設した以外の近代的な社会資本に極めて乏しく、一部を除いて一次産業以外の産業がほとんど無かった。大韓王宮よりも、ソウルの龍山にある「総督府」とも揶揄された朝鮮縦貫鉄道株式会社の本社ビルや京城駅前の一等地に建つヤマトホテルの方がよほど立派だった。首都ソウルですら、いまだまともな道もなければ近代的建造物も乏しかった。仮にあったとしても、使っている者はともかく日本人の手で作られたものが殆どだった。一般家屋の過半は、いまだ茅葺きの平屋だった。

 独立した大韓帝国だが、皇帝(王)という中世的な君主がいて両班という世襲型の官僚貴族がいるだけで、近代国家にはほど遠かった。日本も、保護国状態のコリアには、コリア側から積極的なアプローチがあった場合だけ一定の手助けを対価に似合うだけしていたが、それ以上ではなかった。鉄道や港湾、各種鉱山の運営のために安価で現地人を雇い、個人として聡い者を見つけては教育を施して日本に帰化させる事もあったが、やはりそれ以上でもなかった。日本にとってのコリアは、他国の「陣地」にならなければよい場所だった。
 保護国化時の識字率4%、再独立時の識字率8%という数字が全てを物語っていた。しかも増えた4%のほぼ全てが、現地の日本資本が現地人を労働力として使うために教えた結果、日本語の読み書きが出来る者だった。コリアの内政を支配する両班達が自国民の無学化政策に熱心で、日本人による自国民の教育にすら強く文句を言い続けていたほどだった。
 両班以外の朝鮮民族内での出世といえば、現地の日系資本に就職する事を除けば、日本に留学して日本人に帰化するか、日本か満州に移民として行くことだった。そして日本に行くには海を越えなければならないので、満州へ移住する人が多数派となった。
 このため20世紀初頭で約1300万だった総人口は、日本からの緩やかな技術流入で徐々に上向いたが、治水事業など大切でかつ基本的な内政をコリア政府が行わないため、一定数以上で頭打ちのままだった。1940年代で概ね1400万人程度で、これは当時の朝鮮半島内で食料を自給できる上限の数字に近かった。日本側が助言した農業振興のための治水治山や植林などの基礎的な社会資本整備を、内政を握り続けた両班達がほとんど疎かにしたままだったため、日本資本が入った所以外で生産量が拡大する余地がなかったのだ。
 そしてこれより増えた分は、域内では養えないため口減らしを含めて海外流出した。数は保護国化以後毎年数万人、1930年代以後は毎年5万から10万人に上り、累計200万人に上るとも言われている。
 それでも、日本の庇護下に入って生活と人生の選択肢が増えただけ、20世紀のコリア住民は幸運だったと言えるのだろう。日清戦争以前だと朝鮮王国が強い鎖国状態のため、移民や移住の選択肢すらなかったのだ。とはいえ主権返還時でも、事実上の奴隷制度(階級)や儒教を曲解したような酷い女性蔑視の風習は未だ強固に残っていたし、韓国自治政府による国民への基礎教育も皆無のままだった。僅かな国内の知識階級も、日本の保護国になったのにいまだ後生大事に、もはや古典や考古学と化していた朱子学と漢語や漢詩を学んでいた。民族文字といわれるハングル文字は、やはりどこにも見られなかった。
 そして日本はコリアを独立させたのだが、別の見方からすれば愛想を尽かしたという方が正しいだろう。

 コリアが1945年に大韓帝国として独立すると、日本、満州両国は正式な入国審査を経た者以外受け入れなくなった。今まで両国に入り込んでいたコリア系住民についても、簡単に素性を調べた上でどこかの国籍を厳格に選ばせ、コリアを選んだ者は容赦なく強制帰国させた。治安向上と不要な外貨流出を防ぐためだ。主権国家同士となったのだから当然なのだが、これがまず朝鮮半島住民の反発を招いた。何しろこれで、安易な出稼ぎ労働が難しくなってしまうからだ。とはいえコリア国内の人々は、国からまともな教育を受けていないので、具体的に何をしてよいか分からず民衆全体の動きとはならなかった。
 これに対して発足したばかりのコリア政府は、「外貨」が入らなくなったため、旧宗主国である日本に援助や支援を求める。他の列強に助けを求めても、たいていの国はコリアという存在すら知らないし、日本が許さない事ぐらいは国際政治の一般常識として理解していたからだ。そして日本も、目の前の国に他国が入り込んでくることを望まなかったので、コリアに対しては必要十分の対応を実施した。
 そして独立後のコリアは、他の独立したアジアの国々からすれば日本からかなり厚遇されたのだが、コリア側にとって特にコリア政府や支配層にとっては不満が大きかった。このため日本は、コリア政府に軍事支援を増やして、治安維持組織拡充のための資金と装備、技術を援助した。日本ロビーを増やす費用も増やした。
 しかしこの結果、コリア側は日本の支援上積みを毎年求めるようになる。支援金のうちのかなりが、両班達の横領や賄賂に消えている事は詳細な調査をするまでもなく明白だった。何しろコリアの軍隊と警察は、投入した資金ほど強くなっていなかった。治安維持能力も低いままだった。それどころか、近代的な軍や警察組織が、日本が仕様書付きで助言したにも関わらず、まともに存在していなかった。旧来の日本資本などは、海援隊などに自らの警護を委託している有様だった。逆に、両班達は日に日に贅沢な暮らしをするようになっていた。
 このため日本は、コリア内に強固な親日派というより「媚日派」を作って彼らにコリアを支配させ、尚かつコリア国民への啓蒙活動とロビー活動の双方を行わせた。底なし沼の様相を示す相手に、全部にばらまいていてはキリがないからだ。この政策は一定の効果が見られ、コリア全体の状況にあまり変化はないが、とにかく日本の対コリア支出はかなり減った。
 しかし当然のようにコリア内で反日派、嫌日派が生まれ、そうした人々は日本を強く非難しつつ、無軌道に日本以外の国に支援や援助を求めるようになる。日本から利益を得られない一部の両班達は、無知で貧しいままの民衆に悪いのは日本人のせいだと煽った。そして本来なら、日本を怒らせる事なので誰も相手にする国はないのだが、ここに首を突っ込んでくる国があった。言うまでもないかもしれないが、アメリカだった。

 アメリカは、コリア政府の要請に応えるという形で対コリア支援を増やし、企業を進出させ資本を投下しようとした。水面下では、かなりのドルが賄賂として流れた。これに慌てた日本がコリア政府と交渉を持つと、コリア政府は日本にもっと支援と援助、資本投下を寄こせ、債務を減らせと極めて強気に迫ってきた。日本にチョットした嫌がらせをするためあえて首を突っ込んだアメリカが、大きく驚いたほどの強気だった。
 ここで日本の選択としては、国家安全保障の観点からコリアに対する影響力を極めて強固にするか、懐柔して囲い込むのが一般的な選択肢だった。アメリカに日本近在の橋頭堡を渡すことは断じて選択できないし、万が一そうなった場合の総合的な防衛コストは極めて大きくなってしまう。アメリカも相応のリスクは負うが、この場合日本の方が不利と考えられた。無論、現状のコリア政府を軍事力を用いてでも徹底的に叩きつぶして自分たちの言うことを聞く政府に作り替えるという手もあった。アメリカが何かをしてきても、朝鮮半島は容易く封鎖出来ると強気な意見も強かった。だが、既に世界的な国家である日本は、諸外国への外聞を相応に気にしなければならなかった。大国となった日本としては、まだ我慢するべき状況だった。
 そこで、もう一つの選択肢として、朝鮮問題に限りアメリカ人と妥協してしまうと言う案も出てきた。アメリカも必要以上にコリア問題に首を突っ込みたくない点で、交渉や妥協の余地があると考えられた。アメリカとの関係改善といかないまでも、今後の他のことでの交渉の切っ掛けになるのではという意見もあった。
 しかし既に覇権国家となっている日本としては、目の前で他の大国が好き勝手する事を許すわけにはいかなかった。
 そしてここで日本政府は、やや開き直って明治以来今までしてこなかった朝鮮半島への大量資本投下、つまり大規模な懐柔策を決定した。すぐにも日本と韓国政府の間に新たな互恵条約が結ばれ、これには満州帝国もやって来て北東アジアでの経済協力を約束し合った。
 しかし日本も全面的に甘い訳ではなく、コリア内の反日派を徹底的にコリアの親日派に弾圧、粛正させていた。

 1948年頃からは、日本と満州から怒濤のような企業進出と資本投下が開始され、世襲官僚の両班や一部の地方有力者をあからさまに懐柔して、朝鮮半島住民を動員させ、朝鮮半島を大改造して自らの投資先としていった。その中で日本は、今までは相応に控えていた必要外の朝鮮半島の利権を次々に買い上げていった。経済的にも、民族資本を育てずに日本(+満州)が中枢を牛耳った。
 平行して、日本又は満州企業で働かせるための、朝鮮人向けの学校も多数建設され、朝鮮内の教育制度も充実させた。教育こそが国家と民族を変革させるからだ。ついでなので、近代化教育の傍らで、徹底した親日反米教育、反中華教育も実施しておいた。コリア自身に対する教育でも、日本に刃向かわないように「自虐教育」とすら言われる朝鮮史を徹底して教え込んだ。
 当然だが、コリア政府と中央官僚組織のかなりも懐柔して牛耳り、その状態はかつての保護国時よりも強い日本の影響下となった。これでは実質的に、経済面を中心とした傀儡国家の状態だった。保護国よりも悪いという意見も強かった。

 なお、明治の朝鮮開国以来、今まで敢えてしてこなかった事へ踏み切ったのは、日本の経済発展も大きな要因だった。当時の朝鮮半島住民の一人当たりGDPは、インドの一部やアフリカ大陸の西部地域同様に世界最低レベルだった。それに対して日本の一人当たりGDPは、既にヨーロッパを全て抜き去り、アメリカに次いで世界第二位となっていた。日本国内の資本蓄積や社会資本建設はまだこれからの面もあったが、全体として余裕が出てきていた時期だった。また、今までの日本の資本投下先だった満州帝国も、途上国として一定の開発レベルを過ぎつつあったので、次の開発地、資本投下地、資材の消費先として近在の朝鮮半島を対象としたのだ。
 日本国内のシンクタンクによれば、朝鮮半島を1950年の満州並にまで国家全体を開発するのに必要な時間は、おおよそ四半世紀。さらに四半世紀後には、朝鮮半島の総人口が三倍になり、市場として有望となるだろうと結ばれていた。総人口も、1400万から最大で4000万にまで増えると予測された。そして日本としては、上記した半分も開発できれば十分だと考えていた。
 ただ、朝鮮半島の近代化政策そのものには、かなりの問題があった。日本人から出てくる利益に群がり既得権益にしがみつく特権階級の両班を、「何とか」しなければいけないからだ。だが、こればかりは500年間積み重ねられた国家の「膿」であるため、日本側が資本を出した私学の形で初等から大学に至る教育を一部なりとも持ち込み、当面の代替手段とされたのだ。
 ただし、ここで大きな問題が一つ発見された。
 ハングルと呼ばれる朝鮮独自の文字が、恐らく朝鮮開国以後の数十年の間に両班の手によって破壊され、ほぼ失われていたのだ。関連する歴史資料なども多くが紛失していた。このため、朝鮮半島での近代的教育の多くが、旧来の漢字を基礎としなければならないという予期せぬ弊害が出ていたのだ。このため、商業語、国際公用語、そして事実上の第二公用語として、中等教育以上では日本語も本格的に導入された。そうしなければ、基礎教育ばかりか産業の育成もおぼつかないからだ。だが、コリアの中ではなく日本人社会の中での出世が朝鮮半島内で出来る道が作られると、これが新たな出世の道として大いに注目され、両班以外のコリアから反発が出ることはほとんど無かった。また朝鮮半島の近代化には、今まで朝鮮半島外に出ていた移民や流民から選抜した人々を送り込み、日本や満州が他の主権国家に干渉しているという向きを可能な限り減らす努力が行われた。
 コリア民族内の「事大主義」も、今まで以上に日本を基軸とするようになった。
 両班達は結局強く反発したが、他国の威を借る凱旋してきた同族による急速な近代化の中では、いまだ中世にしがみつくような人々に出来ることはなかった。

 結果、アメリカの目論見は本格的な実施前に挫折し、朝鮮半島は今までにないほどの速度で開発が進むのと平行して、別の意味で日本の極めて強い影響下へと置かれる向きが強まっていった。大韓帝国政府は、満州の国力拡大もあってますます近隣諸国に頭が上がらなくなり、内心では反発を強めるも実力に欠けるため何も出来ないと言うジレンマに陥る事になる。だが彼らの伝統といえる「事大主義」の対象が日本しかあり得ないため、極端に大きな反発やジレンマにはならなかった。
 しかしここで外交上重要なのは、日韓関係ではなく日米関係にあった。
 東アジア各地でのアメリカの反日政策の先鋭化によって、日本とアメリカの対立が再び表面化したからだ。
 そしてアメリカにとって問題だったのは、両国の経済状況だった。アメリカは停滞しているのに、日本は外から見ている限りまるで天井知らずで経済発展を続けていた。関東大震災の頃に10倍以上の差があった日米の国力差、経済格差は既に半分以下だった。これがアメリカの対日攻撃の主な理由で、逆に日本に安易な戦争を吹っかける事が出来ないが故だった。恐れと焦りの感情が、外交、経済での対日攻勢の強化をアメリカに行わせていたといえるだろう。
 そうしてアメリカが焦りを強める中で、日本中は一つの頂点に向けての繁栄に沸いていた。

●フェイズ62「坂の上からの眺め」