●フェイズ01「南満州鉄道株式会社」

 日本とアメリカ。二つの国家は、共に19世紀後半において新興国家もしくは途上国家に過ぎなかった。共に19世紀の終末頃に列強としての頭角を現し、その後ヨーロッパ列強と肩を並べる国として発展していった点で似ている。アメリカの方が多くの面で日本に勝っていたが、世界史的に見るとそういう評価が下されることが多い。
 両国の共通点は、20世紀の特に前半においてヨーロッパ地域以外の列強だという事。共に海洋国家である事(※アメリカは別評価の場合あり)。大きくはこの二つに尽きるだろう。
 近代国家として必須事項の「民の国」と言っても、日本は天皇(エンペラー)を中心とした立憲君主国家で、アメリカは大統領という国家元首を選挙で選ぶ民主共和制国家だった。日本は山ばかりの小さな島国で、アメリカの国土は非常に広かったりと、物理的な違いも大きい。中でも最大の違いは、アメリカは基本的に白人の国であるのに対して、日本は当時世界でほとんど唯一の有色人種の近代国家だった。
 こうした似た点と似ていない点を持つ二つの国は、世界情勢もあって、20世紀のほぼ全期間を含めて百年以上も友好関係を続けていくことになる。そしてその発端は、大きく二つあると言われている。一つ目は、西暦1853年の日本で言うところの「ペリー来航」。二つ目が、日露戦争後に満州で設立された「南満州鉄道株式会社」になるだろう。
 今回は、「南満州鉄道株式会社」を出発点として、日本とアメリカの行く末を少しばかり見ていきたいと思う。

 1904年2月から約1年半にわたって行われた日本帝国とロシア帝国との間の「日露戦争」は、1905年1月の旅順要塞の陥落、同年3月初旬の「奉天会戦」、同年5月27日の「日本海海戦(対馬海戦)」によって勝敗の帰趨が決した。
 弱小国にして有色人種国家の日本は、劇的といえる勝利を白人国家に対して飾ったのだ。
 そしてアメリカのポーツマスでおこなれた講和会議では、日本軍占領地、日本軍到達点が両者の妥協点のキーワードになった。
 この時有名になった逸話の一つが、秋山騎兵団の戦死者をロシア側が弔った事が、日本が長春後の新京までの利権を獲得した事だろう。
 しかし、日本側のセコンドとして入ったアメリカ合衆国にとってより重要だったのは、日本が後に「南満州鉄道」と呼ばれる鉄道路線の権利を獲得したことだった。これによりアメリカ、というよりアメリカ資本は、日本を踏み台にする形で東アジア市場に大挙参入できる可能性が俄然出てきた。しかも満州からは、シベリア鉄道を通じてヨーロッパにも陸路つながっており、鉄道と船による世界ネットワーク(アーシアン・リング)の構築を狙っているアメリカにとって、非常に価値のある日本の権利獲得だった。
 日露戦争で日本の戦争国債を主に個人レベルながら大量に買い込んだアメリカとしては、非常に実のある投資となる可能性を突然のように発生させた事を非常に喜んだ。正直なところ、日本がロシアに対してここまで優位な戦争を展開するとは予測していなかったから、アメリカとしては万馬券に当たったような心境だったとも言われている。
 そして10億ドル(20億円)近い戦費をつぎ込んでいた当時の日本政府には、日露戦争の結果得た満州の権益を自力で経営する自信がなく、国家の舵取りを行っていた元老をはじめ桂内閣もアメリカ資本の導入を渡りに船と歓迎した。実際問題、当時の日本には金も技術も無かった。南満州の経営のためには、どこかから資金を持ってくる必要があったのだ。
 だが日本国内には、同胞が血を流して得た貴重な権益を、金だけ出した国に一部とは言え渡す事に反対する者も少なくなかった。当時の日本外交を背負っていた小村寿太郎などは、反対する筆頭だった。

 しかしここで、アメリカいや鉄道の権利を得た「鉄道王」エドワード・ハリマンにとって、一つの幸運が訪れる。
 小村寿太郎が、ポーツマスでの講和会議の疲れから過労で倒れ、しばらくアメリカで静養を余儀なくされると共に、日本に帰国するのが数ヶ月(約2ヶ月)遅れたのだ。
 そしてこの間に、一般的に「桂・ハリマン覚書」と呼ばれていた契約は、仮契約、そして正式契約されていく。
 この間、日本政府中枢の内側は複雑だった。
 最初にこの話が来たとき、ハリマンの申し出に対して日本政府は歓迎し、9月には皇族の伏見宮、桂首相、曾禰蔵相、元老井上馨主催の午餐、晩餐、園遊会にハリマンを招いた。さらに駐日米公使グリスコム主催のハリマン歓迎の大園遊会にも、元老、閣僚以下千余名が出席した。その席でハリマンは、南満州支線計画の一端を述べている。
 さらにハリマンは明治天皇にも拝謁し、 グリスコム公使の強力な支援のもとに元老伊藤、井上、首相桂らと精力的な交渉を行った。ここでハリマンは、ロシアの巻き返しを防ぐためにもアメリカ資本導入が得策だと訴え、日本側は南満州経営と防衛の財源捻出に苦しんでいたので、 ハリマンの申出を受け入れることが正式に決められた。
 しかもこの時、ハリマンの申し出に強く賛成したのが、大蔵顧問ともいうべき財政通の井上馨だった。
 そして小村が戻るまでに、井上は日本政府内での話しをまとめあげ、アメリカとの契約を果たす。
 そしてここから、日本政府内で少し混乱が見られる。
 小村寿太郎が帰国するなり大激怒して、契約を破棄するべきだと怪気炎をあげたからだ。しかも小村は、ハリマンのバックについているアメリカ資本「クーン・ローブ・グループ」のライバルである「J・P・モルガン・グループ」から資金調達の目処を立てての帰国だったため、その怒りは非常に大きかった。
 小村の視点から見れば、日本政府が自分のいない間に一大失態をやらかした事になるのだから、彼の怒りも正統なものだっただろう。
 しかし小村がいかに激怒しようとも、国家として契約したことを簡単に白紙にしたり破棄するわけにはいかない。しかもまだまだ弱小国だった日本にとって、国際的な信用は是非とも必要だった。相手が、日露戦争で日本側につき講和会議のホストを務めたアメリカともなれば尚更だ。この点、小村も日本人の政治家達を怒鳴る以上のことが出来ないことは十分に理解していた。
 かくして日本はアメリカ資本との契約を履行し、「南満州鉄道株式会社」は、資本金2億円で立ち上げられることになる。資本分担は日米半々で、完全な平等な関係だった。

 なお、この話にはさらに先がある。
 日本がどうこうと言うよりも、アメリカ国内での競争だ。
 共にユダヤ系資本である「クーン・ローブ・グループ」と「J・P・モルガン・グループ」の勢力争いは、1907年にアメリカで起きた大規模な不況を契機として、モルガンが圧倒的優位に立った。最終的にモルガンはクーンを自らの補助役に収める一方で、中国市場の再分割運動に乗り出すことになる。
 つまり、アメリカの窓口は依然としてハリマンながら、モルガンというアメリカ資本そのものが満鉄の株を有するような形へと変化したことになる。つまりアメリカという国家が、満鉄の権利を持ったも同然だった。
 そして1909年に、日露戦争当時の陸軍長官だったタフトが大統領になると、強力なドル外交を展開する。当然と言うべきか、アメリカにとってのアジアでの突破口にして橋頭堡が満鉄となった。当然とばかりにドルの奔流が満鉄に注ぎ込まれたのは、その後の歴史が示している通りだ。
 戦争で利権を得た筈の日本は、ドルという巨大な雄牛の背に乗った状態に置かれたのだ。

 「満鉄」こと南満州鉄道株式会社は1905年12月に正式に発足し、ロシア人が居なくなったターリエン(大連)に本社を置いた。そしてこれ以後、日本とアメリカ、さらに清朝、ロシア、イギリスを含んだ形でその後爆発的に発展していくことになる。
 当時の満鉄は、日米共同経営の国際シンジケートという珍しい形のため諸外国も注目し、その運営を見守った。複数の国が共同参画する植民地経営のモデルケースの一つと考えられたからだ。何しろ当時は、列強によって世界分割が終えられたばかりだった。その中で、利権を奪い合うのではなく共同歩調を取るという姿勢は、非常に貴重なケースと考えられた。
 そして満鉄という新たに誕生した国際シンジケートは、一部不安視されながらも順調な発展を遂げていく。これは満鉄経営陣が優秀だった事もあるが、日本が国際社会の優等生であろうとしてアメリカの無茶を可能な限り聞き入れた事が多きと見るべきだろう。また全てを合理的に押し進めた事も、非常に高く評価できる。
 経営に必要なもののうち、労働力と軍事力、生産力を日本が提供し、アメリカは資本と技術を提供した。日本もしくは現地で足りない技術、資源などは、イギリス、ロシアから調達される形が取られた。
 また、当初アメリカから多くを持ち込むつもりだったアメリカ側は、彼らが信条とする資本主義に則って日本で多くの材料を調達する方針としたため、当初走る機関車の多くと客車の一部がアメリカ製となっただけだった。南満州に渡ったアメリカ人も、アメリカとしては珍しく日本人の心証をおもんばかって必要最小限とされた。この点、満鉄に送り込まれたアメリカ人達の優秀さを示すものと言えるだろう。
 そしてドルの奔流は巨大だった。
 鉄道路線は、当初路線だけではすぐに収まりきらなくなった。大連や上海では、清朝の王族や役人、現地の有力者、日本人にドルがばらまかれ、次々に契約が成立していった。日本政府がアメリカ人の拡大路線に気付くのは、たいてい日本に製品の発注書や人員補充の申請が届いたときだった。
 早くも1907年には、奉天から北京、天津へと延びる独自路線の開発が決まり、ハリマンが死去する1909年には工事半ばにあった。同時に並行路線の買収も進められた。満州各所にも、いち早く支線が伸ばされていった。連動した港湾、河川交通までもが整備された。そして同年には、アメリカ大統領としてタフトが就任。彼は「ドル外交」を展開するのだが、そのアジアでの軸として満鉄を使うことを決意。アメリカの国家方針として、さらに膨大な量のドルが満鉄とその周辺部に注がれることになる。日本政府に文句を言わせないため、日本政府の国債を購入し、日本に有利なドル借款まで実施した。
 ドルの背中に乗るだけの日本人は、文句の言いようが無かった。

 満鉄と満鉄沿線は、日本本土より遙かに速い速度で開発が進み、大連、奉天、長春など沿線の主要都市は雨後の竹の子のごとく見る見る発展していった。ドルの魅力に引かれて、ロシア人も商売で大連に戻ってきた。経営開始から僅か5年で、起点となる大連が第二の上海になる日も近いと言われるほどとなった。
 そして、膨張を続ける満鉄のための生産拠点として、日本列島の工業力がいっそう期待されたため、アメリカから技術を導入した増産に次ぐ増産、設備投資が実施され、日本経済にも数字で見えるほどの好影響を与えた。これを日本では「満州景気」と呼び、日露戦争後の財政難、経済不況を和らげる大きな役割を果たした。北九州の八幡製鉄所も、アメリカの最新技術を導入して拡張に次ぐ拡張を重ねた。日本本土には、アメリカ製の鉄道用工場が新たに造られたりもした。
 このため、「アメリカのドルに屈した」、「満鉄だけが利益を得ている」、という日本国内の感情的な反発も時間の経過と共に徐々に薄れていった。満鉄は、日米友好の少なくとも日本にとっての大きな象徴となった。アメリカがアメリカ国内への日本人移民を禁じるようになっても、日本側のアメリカへの友好姿勢はほとんど変わらず、日本人の新たな移民先としても満州南部が大いに期待されるようになった。
 アメリカ式の大規模開発方式が南満州広くにも導入されていたので、蒸気を動力とする巨大なトラクターを使って大規模農業を行うことが、満州に移民した日本人移民の夢となった。日本政府も、満州開拓のため質の高い移民を送り込む努力を行うようになった。何しろ満州は、アメリカとの合弁である以上、日本にとっての世界に向けたショーウィンドーとしての向きをいっそう強めていたからだ。流れ者、食い詰め者、山師、満州浪人など送り込んでいる場合では無かった。

 一方、満鉄そのものの経営も大規模に拡大していた。当初大連から長春の1本だった路線は、先にも挙げた「奉天=北京」が1910年に無事開通した。さらにイギリス資本と提携することで、満鉄は上海にまで乗り入れた。北の方でも、ロシアと資本提携することで、便は少ないながらも大連からシベリア鉄道経由でヨーロッパに乗り入れることに成功した。ロシアなど各国と合弁した形で、「ユーラシア横断鉄道」と銘打って宣伝した豪華な国際記念列車が走ったりもした。大連=カレー間のチケット(切符)は、現在に至るも最長路線のチケットとされている。
 第一次世界大戦の勃発する前年の1913年には、アメリカの鉄道会社、船会社が協力して「世界一周旅行」が盛大に催された。そう、遂にアメリカは世界一周の交通網を手に入れることに成功したのだ。これはイギリスが既に海運によって「アーシアン・リング」を完成させた事に次ぐ快挙であり、世界最大の経済力となっていた国家の一つの頂点でもあった。
 「世界一周旅行」の途中には日本も組み込まれ、多くのアメリカ人(富裕層)が初めて日本という国を知ることにもなった。日本側もやって来る観光客を国を挙げて歓迎し、日米友好をより深めることになった。世界大戦の直前に、アメリカの上流階層で新たなアジアの顔として日本のムーブメントが来たりもした。

 無論、全てが順調だったわけではない。
 まずは、日露戦争後進んだ、日本による朝鮮半島の植民地化問題だ。
 1905年から以後数年間、日本の中枢でも朝鮮の扱いをどうするかについて政治的な対立が見られた。簡単に色分けすると、「併合派」、「保護国派」、「自主独立派」となるだろう。どれもロシアもしくは中華地域という大陸勢力から、日本列島を守るという点で共通しているのだが、当時の朝鮮半島の状態が日本側に複雑な対立を生んでいた。
 19世紀末から20世紀初頭の朝鮮半島には、日本で当時「李氏朝鮮」とも呼ばれた朝鮮王国が存在していた。とはいえ、1895年の下関会議までは清朝の事実上の属国で、本当の意味での外交能力すら持っていなかった。それ以前の問題として、近代国家からはほど遠い中世のまどろみの中にあり、近代的見知から見るとはなはだ未発達な国家だった。現地を視察したアメリカの資本家達が、鉄道路線としての地面と一部鉱産資源以外の価値がないと判断した程だった。
 下関会議以後に国名を大韓帝国と改めても、実質的に何の変化もなかった。しかも朝鮮の支配階層(=両班)は、国家を近代化させて国力を付けたり、自らの国土を開発して国を富ませるという事にほとんど無関心だった。朝鮮王国自体は、かつては優れた文化を生んでいた時期もあったのだが、500年も続いたアジア的な中世的国家の悪しき典型例と化していた。当時の朝鮮王国の総人口を見ることで、状況を端的に見ることができる。
 朝鮮半島は、日本の本州に匹敵するほどの面積がある。しかも日本列島より山間部がずっと少ない。雨量や気温、気候の問題は多少あるが、開発が難しいというわけではない。日本と比べると、自然災害だって非常に少ない。しかし当時の総人口は、約1300万人だった。現実に対して、統一王朝が長く続き明確な方針で近世的な開発を行えば、約二倍の人口拡大の達成が十分可能だったという研究結果を提示すれば、朝鮮半島の実状が少しは理解できるだろう。
 つまり数百年の間、朝鮮半島は何ら開発されないまま、為政者達の手によって意図的に放置されてきたのだ。調査したアメリカのシンクタンクは、「信じられない」という言葉を随所に使っているほどだ。

 この朝鮮半島の状況を前に、日本人達は朝鮮半島をどうするかで苦慮していた。自力で近代化する可能性は現状ではほぼ皆無で、援助する努力自体が無駄な事は既にほぼ立証されていた。植民地経営するにしても、領土として併合するにしても経費がかかりすぎる事も、視察するまでもないほどだった。それに併合する場合、朝鮮王国には莫大な借金があり、日本政府としてはそれを肩代わりしたくはなかった。
 しかし、一つの光明と可能性が日本人の前に照らされていた。アメリカ資本の存在だ。
 既に巨大なアメリカ資本が南満州に溢れているため、最大の脅威であるロシア人も安易に南に進むことが出来ない。しかもドルの威光は既に朝鮮半島にも及んでおり、ロシア人が現状を無視する可能性が激減していた。そればかりか、アメリカ人達は積極的に北満州にある東清鉄道の買収を画策していた。満州でのドル、そしてアメリカの存在そのものが、日本の盾として使えると日本人達は考えるようになったのだ。
 このため、日本が大陸に対して国家として無理をする必要性が幾分低下していた。当然ながら、朝鮮半島の受ける脅威も低下していた。つまり日本は、わざわざ苦労して朝鮮半島を自国化し、そして国防のために強化するという、非常に面倒くさい方法を採らなくても良いという事だっだ。
 だが朝鮮半島を自立させておく事は、当時の日本ばかりかアメリカにとっても既に不利益なことが分かっていた。何しろ近代国家じゃないからだ。
 だからこそ大韓帝国は1907年に日本の保護国にされ、外交、軍事、中央税制を日本が握った。他の列強も、これだけしておけば、日本が朝鮮半島で何かをしても文句を言ってくる事はない。資源も市場価値も少ない地域、しかも有力な軍隊を有する国家の獲物に文句を言うほど、列強は暇ではなかったからだ。そしてアメリカの影がちらつく日本対して、ロシアですら文句を言う可能性は大いに低かった。
 そして朝鮮王国が保護国化された段階で、日本の伊藤博文らが中心となり、アメリカ資本をバックに付けた形で朝鮮の保護国化、経済植民地化の路線を政策の主流としていく。アメリカ政府も、日本が朝鮮王国を保護国化した事は近代国家としての義務だと賞賛こそすれ、非難する事は一切なかった。
 なお、日本が朝鮮半島を併合した場合、四半世紀の丁寧な投資と開発を経た後に大きな回収が見込めると予測する研究結果もあった。だが、当時の日本には、朝鮮半島での四半世紀先の大きな収穫よりも、数年先の一定の利益の方がはるかに魅力だった。日本国内にも、開発するべき場所はいくらでもあった。当然だが、国内よりも朝鮮半島を優遇しようと言う気もないし、朝鮮民族に対して肩入れする気もなかった。そんなことをする余裕がないと言ってしまえばそれまでだが、まだ世界は帝国主義全盛の時代だったのだ。

 日本政府の決定により、1909年には(日本が敷設した)主要鉄道、重要港湾、電信の敷設権と最優先使用権、関税権、炭坑、鉱山の採掘権を日本が獲得した。さらに、釜山港湾部と朝鮮半島縦貫鉄道とその付属地は、99年契約で租借(※便宜上西暦2009年まで)された。その代わり、当時の大韓帝国の借金のかなりの部分を日本が肩代わりし、両者の新たな関係が成立する。つまり日本が朝鮮半島で得た利権は、日本が朝鮮王国を保護国化した事とは別に、借金のカタとして差し押さえたようなものだった。
 なお借金の肩代わりにはアメリカ資本も参加し、その代わりに満鉄が朝鮮縦貫鉄道の株式の一部を取得した。当然だが、満鉄の規模はさらに拡大することになる。朝鮮半島を鉄道で結んだ分、日本から満州に至る時間も短縮できたので、利権を持つ誰にとっても価値があった。
 そして奉天=北京間が開通した事もあって、1910年には「南満州鉄道株式会社」は発展的に消滅し、新たに「東亜細亜鉄道株式会社」、通称「東鉄」が発足する事になる。資本金も、初期の2億円から激増して10億円に増加した。これをアメリカは、「イースト・アジアン・レールウェイ」を略して「EAR」と呼んだ。
 同社は、二国(実質三国)にまたがる国際鉄道となることで体力は大きく強化され、そればかりか日本の支配が薄まり、純粋な企業としての側面が強まることになる。これはアメリカにとって有利な話しだったが、日本にとっても10年先はともかく半世紀先も他国に敷かれた鉄道を自分たちが国家として持ち続けられるかが疑問だったため、先見の明があったと言われる事が多い。とある日本の元老の一人は、「これで日本の行く末は安泰だ」と言ったと言われている。

 「東鉄」にとっての次の大きな事件は、1911年に中華地域中央で起きた「辛亥革命」と、続いて1912年の「中華民国」建国だった。
 清朝が呆気なく滅亡して中華民国が誕生した事で、満州での各種国際的な条約や契約がご破産になる可能性があったからだ。これは日本とアメリカ双方にとって、看過できない事態だった。
 ここで日本政府と「東鉄」加えてアメリカ政府は、中華での新国家の有力者、一時期独裁者となった袁世凱と「国際条約」の契約を交わして、全ての権益を99年契約とする約束を交わす。その対価として、袁世凱の後援と当座の資金、武器、兵站物資の援助が実施された。このため袁世凱の権勢が拡大し、そして長引いたと言われる事が多い。
 そして国家が交わした契約のため、袁世凱がいなくなっても中華民国は契約を履行せねばならなかった。日本、アメリカ、そして「東鉄」は、現地軍閥の張作霖を支援することで、満州の権益を維持、そしてさらに拡大していく事になる。
 一方で日米は、革命指導者の孫文とその同士を支援したり亡命を受け入れるなどの二重外交を行った。当然ながら、日米と中華の関係が安定化からほど遠いという状況に、変化はなかなか訪れることも無かった。
 しかし時代は帝国主義の全盛期にあり、日米の行動はむしろ控え目なぐらいだった。だが控え目で良い側面が、当時の北東アジア情勢でもあった。
 当時の周辺国との関係で言えば、日本とロシアとの関係が、日本と中華の関係よりもずっと良好になっていた。日本とロシアとの間には日露戦争後に満州、蒙古での互いの権益を認め合った協商関係が結ばれ、ロシアとアメリカの間にもアメリカ資本によるシベリア開発契約が結ばれている。東鉄、シベリア鉄道双方の相互乗り入れも、時間と共に進んだ。ロシア側の資本にも、一部アメリカ資本が参入する事もあった。1911年からは、東鉄がシベリア鉄道の黒竜江を迂回するルートの工事に参加している。
 また、南満州の急速な発展と共に、日本とロシア極東との貿易額も年々増加した。この結果「東鉄」は、実質的にハルピンまでの乗り入れを実現した。あと10年あれば、北東アジアの鉄道を支配できると「東鉄」幹部がうそぶいたりもした程だった。
 そうして、「東鉄」が次の段階へと飛躍しようと動いている頃、世界は大きな変化を迎えることになる。



●フェイズ02「世界大戦とシベリア出兵」