●フェイズ02「世界大戦とシベリア出兵」

 中華地域で「東鉄」の拡大が続く1914年夏、ヨーロッパでは「サラエボ事件」を発端として、未曾有の戦争である「グレート・ウォー(世界大戦)」が勃発する。
 「世界大戦」に際した日本人の多くは、中華進出の千載一遇の機会と考えた。欧州列強が戦争に掛かりきりなっている間に、「鳥無き里の蝙蝠」を地でいこうというわけだ。

 しかしこの時日本政府は、多少場当たり的ながら賢明だった。自ら連合軍への参戦を言い出して、強引に軍隊を各地に進めることを露骨には行わなかったからだ。
 政府の決断に対して、日本国内のかなりの政治家、政治に口を挟みたがる軍人は、即時参戦による権益拡大を唱えた。しかし、東鉄によって北東アジアに広く張り巡らされた国際的な資本関係を考えれば、それが外交的に賢明でない事は当時の日本政府の政治家の多くが理解していた。しかも自分たちの懐に直接影響を与えるとあっては、慎重にならざるをえなかった。特に後に平民宰相となる原敬らの政治家にとって、北東アジアにおける利権構造に関する行動は、積極的ではあってもごり押し過ぎてはいけなかった。
 そして日本が動くに当たっても、自分たちの行動にアメリカ(資本)を誘うことを忘れなかった。ただし日本政府の行動は、自らの権益拡大に東鉄が必要で、東鉄を使うにはアメリカに一言入れないわけにはいかなかったからだ。秘密裏に動こうとしても、物資の流れを東鉄を経由してアメリカに伝えられることぐらい、強引な傾向が見え始めていた日本陸軍も理解していた。
 そしてアメリカは、「門戸開放、機会均等、領土保全」という自らの中華政策に対する従来の方針を表向き前面に押し出す形で、日本と共同で中華市場への大挙進出を画策する。二国連携の形を取るのなら、アメリカのお題目もある程度上っ面を取り繕う事ができるからだ。しかも、中華民衆から嫌われるという泥を最初から日本が被ってくれるというのだから、アメリカにとって非常に都合がよい話しだった。
 とはいえ、日本とアメリカが連携して中華市場などへの進出を強める事とその影響について、西欧諸国も十分理解していた。
 だが、アメリカと日本は「連合軍」となった英仏の発行した戦時国債を大量に買い込んだため、英仏もあからさまに文句も言えず、中華民国に対しては有力者や軍閥に賄賂を注ぎ込む事で、当面問題を回避された。この中で、アメリカと日本は満州や華北に勢力を広げていた張作霖との関係をいっそう深めることとなる。
 そしてアメリカも日本も、全てを強引に押し進めると諸外国と当事国となる中華民国からの反発が、必要以上に強まることぐらいは理解していた。それでも千載一遇の機会に利権拡大を行いたい日本、アメリカだったが、時間の経過と共に欧州への派兵というカードを切らなければ難しくなっていった。日英同盟などの外交関係だけでなく、東鉄の影響でアメリカだけでなくイギリスとの関係もより深まっている為、外交上で大きく動かない訳にはいかなくなっていたのだ。東鉄の事業拡大には、イギリスなど連合軍側に属する国々の中華利権(特に鉄道)が必要だったからだ。また当時東鉄は、太平洋、東アジア地域の海運事業にも乗りだしていたため、いっそうイギリスなどとの関係強化とそのための外交構築が必要だった。

 そしておあつらえ向きの状況が、向こうから転がり込んでくる。未曾有の消耗戦となったヨーロッパでの戦争を前に、日本に対して英仏が大軍の派兵を求めてきたのだ。
 これで日本が英仏に「恩を売る」形ができ、自らの権益をより多く拡大できる可能性が広がることになる。
 しかも日本政府は、レートを引き揚げる行動を行う。
 連合軍からの派兵要請に対して、当初日本政府は陸軍については自らの貧弱な国家予算、移動手段の不足を理由に実現不可能だと謝絶したのだ。その上で海軍については、近隣のドイツ軍を駆逐した後ならば、条件さえ合えば限定的な派兵が可能だと打診した。
 そして日米間の水面下では、アメリカが日本に物資と資金援助する形で、アジア方面のドイツ勢力を駆逐後に、1916年内に派兵を開始する算段が取られた。国内世論が参戦に否定的なアメリカにとっては、ちょっとしたビジネスの拡大が主な目的で、日本としては自らの国威向上、国際地位向上を目指した、全ての友好国への外交的一手と言うことになるだろう。もちろんだが、中華地域での利権拡大をヨーロッパ列強に認めさせる為の手段である事も間違いなかった。また日本海軍が派兵に肯定的だったのは、日米友好という日露戦争以後の外交状況を前に、事実上第一の仮想敵となっているドイツに対する能動的な行動を行わなければ、自らの存在意義を国と国民から問われると考えた為だった。

 その後も多国間での日本軍の派兵交渉は続き、1916年2月に始まったベルダン攻防戦で色を失ったフランスの悲鳴のような要請を前に、既にヨーロッパへの派兵を承諾していた日本政府は、交渉としてかなりごねた末に陸軍の派兵を決定した。
 陸軍派兵に際して日本側は、派兵経費半分を英仏持ち、輸送の手配の多くの英仏に委託、重装備及び弾薬の現地受領(及び無償供与)、移動の便宜を図ることを条件とした。主に国内で懸念された自力での海上輸送(当時の日本の船舶量は60万トンしかなかった)も、一部はアメリカ船舶を使うことで日本の不足分を補った(ここで東鉄は多くの利権と利益を獲得している。)。合わせて、兵員輸送の船団護衛を兼ねて、大規模な艦隊を地中海にまで派遣することも決定する。艦隊の派遣については、連合軍がドイツの通商破壊戦とトルコのガリポリの戦いで大損害を受けていた事もあり、英仏から大歓迎された。特にイギリスは、開戦当初から強く要望していた《金剛型》巡洋戦艦4隻の派兵を歓迎し、これを経費全額イギリス持ちで北海にまで派遣して欲しいと要請まで行ったりもした。
 かくして日本は、自らの財布の紐を殆ど緩めることなく、兵力だけを遠路ヨーロッパに注ぎ込むことになる。この事はいわゆる「ショー・ザ・フラッグ」として、後にアメリカで日本に倣うべきだという論調を一部で醸成させる事になる。日本国内でも、政府が宣伝に務めた事もあって「世界の中での日本」という事を国民に意識させた。

 日本陸軍の初期派兵内容は、支援部隊を最小限とした1個軍(軍団)の3個師団の6万人。これに半年以内の消耗、交代用として、3万人の増援を送り込むことを決める。前線での兵力規模は、西部戦線で最も弱小だったポルトガル(日本より後で参戦&派兵)と大差ない程度だったが、それでも英仏は大歓迎した。何しろ日本軍は、近代戦を経験した訓練された軍人の群れだったからだ。
 そして英仏は、持ち前の外交力となりふり構わない姿勢の双方によって、その後日本陸軍の派兵規模を拡大させる。一度派兵にうなづいてしまった日本も、レートを多少引き揚げる以上のことが出来なかった。日本が当初問題とした、物理的に派兵できないという事が言えなくなっていたからだ。
 最終的に日本は1個方面軍・9個師団、前線戦力にして約30万の兵力派兵を行う計画となった。これに加えて支援部隊と後方支援部隊で兵員数が五割ほど増え、さらに前線での消耗と交代で同数の兵士が派遣される事になるので、総数で50万がヨーロッパに渡る計算になり、当時の日本陸軍の輜重(補給)関係者が卒倒したと言われるほどの計画になる。あまりのショックに、輜重ではなく兵站課というより上位の部署が各所に作られ、陸軍の各種学校でも兵站、補給のための学科を作り、世界中からマニュアルや教官をかき集める事となる。国内でも数字(経済、経営)に強い一般大学から、関係者が多数出向した。そして派兵を決めてからしばらくの日本陸軍は、西部戦線でドイツ軍と戦う事よりも、ヨーロッパに行った兵士達の食事(兵站)をどうするかが最大の議論の的であり、実行するに際しての大問題だった。
 そして遠隔地での50万人の遠征軍を支えるために、日本本土では250万人の兵士が動員された。戦うためではなく、文字通り派兵された兵士を補給面で支えるために、多くの兵士が必要だったからだ。また日本中では、ヨーロッパと日本の間の兵站線を維持するために大量の輸送船舶が発注され、さらに商船を護衛する航海性能を高めた護衛駆逐艦、巡洋艦が多数建造される事となった。この中で東鉄は、鞍山製鉄所とそれに連動した大連の造船部門が大きく拡大し、日本の企業は日本政府の指導で東鉄から技術を導入することで、間接的にアメリカの生産技術、概念を取り入れる事になる。日本で「マスプロ」という言葉が聞かれるようになったのは、この戦争の半ばぐらいからだった。また東鉄の船舶部門も大いに拡大し、日本政府が当時すすめた日本国内での船舶企業の統合に影を射すことになる。

 ヨーロッパへの派兵数そのものは、計画段階でも当事者の英仏の十分の一にも満たなかった。英仏が植民地のインドやインドシナから送り込んだ数より少なかった。だが、それでも訓練された「新鮮な」兵力を英仏は歓迎し、歓迎式典やロンドンやパリでの閲兵式まで行った。そして、到着するよりも早く、日本軍の配置や日本軍と交代後の自軍の配置変更を考え始めていた。
 とはいえ兵力が限られているので、日本軍が受けた物心両面の衝撃に比べると、戦争全体に対する貢献度合いは少なかった。戦場での活躍は皆無では無かったが、砲弾を文字通り山のように積み上げる戦争では、活躍するには兵力量そのものが足りなかった。
 日本陸軍が得た最大の教訓は、自分たち(の国)だけでは「こんな戦争」は出来ない、という事だけだった。日本陸軍も相応に物量戦、火力戦を信奉してきたが、本当の先進国の戦争は日本陸軍の想像を絶していた。
 しかも1917年春のアメリカ参戦後、連合軍では日本軍に対する依存度が低下してしまう。自然、日本自体の扱いもやや低くなった。アメリカの方が大軍を派兵できるし、連合軍の実質的なスポンサーがアメリカだったからだ。とはいえ、日本がアメリカを恨むという構図にはならず、むしろ日本は手のひらを返したような態度を取ったヨーロッパ諸国への悪感情を抱くことになった。当時英仏に心理的余裕が無かったとはいえ、この点は英仏の対日外交の失敗だと言われることが多い。
 そして物心両面での影響は、日本陸軍の派兵数にも大きく影響した。最終的にヨーロッパに派兵された日本陸軍は6個師団、最大派兵数も後方を含めて最大20万人強に止まった(延べ人数は別)。想定の4割程度の数だ。派兵数が予定より大きく減少したのは、スペイン風邪の影響だと説明された(※事実ではあるが、日本が受けた影響は世界でも最も少ない部類でしかなかった。)。また残り3個師団については中東にまでは派兵されており、海上交通の維持、日本からヨーロッパに至るまでの各地の派兵、海軍の派兵を含めれば当初約束した50万人の海外派兵は行っていると日本政府は連合国各国に説明した。

 なお日本海軍の派兵は、1916年5月のジュットランド沖海戦にこそ間に合わなかったが、同年の夏の終わりには《金剛型》巡洋戦艦4隻が予定通り北海に入り、ドイツ海軍を封じこめる事に貢献した。イギリスも《金剛》の「里帰り」に大いに感謝した。他にも多数の戦艦、巡洋戦艦、装甲巡洋艦が地中海を中心に派兵され、連合軍の制海権維持に貢献した。とはいえ最も直接的に貢献したのは、日本海軍が慌ててイギリスから図面を購入して量産した航洋型の大型駆逐艦群だった。最終的にはビスケー湾にまで進んで、ドイツ海軍のUボートと激しい戦いを演じる事となった。彼らの奮闘は、英本土やマルタ島など各所に残された石碑によって後世に伝えられている。

 なお日本が本格的にヨーロッパに派兵したのは、1916年の夏頃からだった。1918年11月に戦争が終わったので、約2年の間、のべ人数で35万人の兵士がヨーロッパに派兵された事になる。この間、陸軍は西部戦線の一角で大損害を受けた事もあったし、毒ガスの洗礼も浴びたし、スペイン風邪の猛威で多くの兵士を無為に失ったりもした。ドイツ軍の最後の攻勢(1918年春の「カイザーシュラハト」)では、奮闘するも大損害を受けていた。死傷者の数はのべ約10万人で、うち病死を含めた戦死者数は3万人。連合軍の中では、比率はともかく絶対数では低い数字だったのが、日本にとっては看過できない数字だった。実際、多くの損害を前にして、日本本土で撤退を求める大規模なデモも発生していた。
 一方では、最終的に日本軍が費やした戦費を合計すると、約40億円(20億ドル)となる。うち半分を英仏が負担し、さらに現地日本軍は重砲、機関銃など多くの重装備を英仏から無償で供与された。無尽蔵に使われた砲弾、銃弾についても一部を除いてほぼ同様だった。さらに、航空機、戦車などの供与も受けており、装備費用だけで3億円分に達する。日本からヨーロッパの兵士や物資の輸送も、実質7割を英仏などが負担した。このため日本政府が最終的に負担した経費は、陸海軍を一気に近代化したと考えれば、15億円程度におさまる。
 また、戦争そのものによって日本とアメリカは、戦争特需に沸き返った。これを日本の国家予算で見ると、1914年と1920年を比較すると、約2倍半の開きがある。無論、1920年の方が増えている。単純な数字で言えば、9億円が23億円になっているわけだ。経済成長率は、年平均14〜15%にも達する。
 世界中への商品の売却、運ぶための船の建造と運行、自らの戦争参加に伴う自国内での戦争特需、そうした様々なものが日本の未曾有の繁栄を作り出したのだ。

 そして戦争特需は、日米の北東アジア支配と協調の象徴でもある「東鉄」にも大きな影響を与えた。
 いくらでも需要があるため、作ったら作った分だけの商品が世界中に売れた。しかも日本軍のヨーロッパ派兵の交換条件として、連合軍は日本に優先的に発注を行うことになっていたので、日本の景気拡大はさらに加速していた。そして日本の経済植民地である南満州で生産される製品などは、アメリカのラインを入れた最新の工場であっても、日本の物産となるためアメリカで作るよりも売れた。労働コストも非常に安くついた。輸送経費の差額を考えても、満州で作る方がアメリカ資本にとっては利益があった。このため「東鉄」沿線の工業が飛躍的な発展を遂げることになり、わざわざアメリカ本土から進出してくる企業も少なくなかった。その流れはアメリカが参戦する1917年4月以後も続き、その後若干減少するも、戦争が終わるまで途切れることは無かった。
 そして巨大な需要によって日本の産業は発展し、国富も大きく拡大した。日本経済と深く連動する「東鉄」も例外ではなく、製品の生産やロシアへの物資輸送で大もうけした。アメリカ、日本双方からの追加資本投入も続き、戦争中に創立時の10倍以上の規模(1918年20億円)の資本金を抱えるようになっていた。20億円という数字は、当時の日本の国家予算を大きく上回る数字だ。
 また東鉄は、ロシアに対してもシベリア鉄道を使った輸出と輸送でも大儲けしており、ロシア革命が起きる前だとシベリア鉄道の実質的運行の半分は東鉄が行っている状態だった。
 しかも東鉄は、ロシアの足下を見る形で戦時債務を購入する条件として、北東亜細亜地域の鉄道買収(株式取得)に乗り出していた。この結果、早くも1915年夏には長春=ハルピン間の鉄道を買収して経営権を獲得し、本格的にハルピンへの乗り入れを達成する。さらに1917年の革命直前には、窮乏するロシアから「東清鉄道」全線の買収契約が5億円の即金契約で成立した。この価格はかなり安いため、代わりにアムール川方面での鉄道敷設に無償で協力した。こうしてシア革命が起きた時、満州の鉄道のほとんど全てが「東鉄」のものとなっていた。
 また一方で、東鉄は中華中央部での自らの経営拡大も進め、日本政府がやりすぎていると考えたほど各地の買収や進出を実施し、既得権益を持つ英仏からの反発を受けた。この中で中華民国も東鉄と日本に反発したが、自らの利権を侵害されたと考えたアメリカから、中華民国が強く非難されるという一幕も見られた。
 東鉄の動きについて日本政府は、アメリカ資本の尻拭いをしながらも殆ど傍観したようなものだった。
 しかし世界大戦の終わりと共に、日本、アメリカの未曾有の戦争特需も、東鉄の快進撃も停滞を余儀なくされる。

 1918年11月、「第一次世界大戦」終わった。
 その後の1919年に開催された「パリ講和会議」では、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアが実質的な主要参加国とされた。派兵数が少ない日本は名目上は主要参戦国だったが、やや格下に置かれてしまう。しかし西ヨーロッパという最も目立つ戦場に陸海軍を派兵した効果は大きく、賠償としてドイツ領の南洋諸島だけでなく東部ニューギニアの島嶼部(ビスマーク諸島)も獲得する事ができた。オーストラリア(当時はまだイギリスの自治領)が異常なほど反対したが、日本の欧州派兵に対する賠償が必要だが、日本に賠償金を割り振らないためには、この程度は与えなければならなかった。このため、イギリス本国の強い言葉によって、オーストラリアも黙らざるを得なかった。この時アメリカは、むしろ日本の肩を持った。日本がアジア・太平洋での安定を望みたければアメリカと歩調を合わせねばならず、アジアでのアメリカの意見が通りやすくなると考えられたからだ。要するにアメリカは、今後のアジア経営のために日本に恩を売ったのだ。
 その後の会議で日本は、国際連盟(LN)の常任理事国に選出され、名実共に「一等国」として認められた形となる。

 なお、世界大戦末期頃から行われたロシア革命への干渉としての「シベリア出兵」は、当初日本政府はヨーロッパでの散財もあったので各国と歩調を合わせて早期に撤兵する予定だった。実際、各国が撤退した1920年3月には、日本陸軍の部隊の撤退が始まった。しかしこれに待ったをかけたのが、アメリカというより東鉄だった。
 東鉄職員がシベリア鉄道各所で鉄道運行に当たっているため、関東軍(日本軍)には警備を行う義務があるとしたのだ。そしてこの言葉に、日本陸軍の拡張論者が乗っかかった。さらにアメリカでも、東鉄のロビー活動で日本のシベリア出兵支持が広がり、しかも反共産主義運動が合流して、日本を物心両面で強く支持する動きが出来てしまう。
 そして日本人がロシアの共産主義勢力(赤軍)に襲われて多数死傷者を出すという事件が起きると日本全体がシベリア出兵に肯定的となり、日本はシベリアへの派兵に深入りしていく。
 そしてソ連は、アメリカの支援を受けた日本の行動を恐れ、いわゆる「蜥蜴の尻尾切り」を画策して、極東地域にシベリア共和国を作る作業を進める。
 ここでアメリカ政府は、ロシアのシベリア、極東方面の白軍代表としてアメリカへの亡命経験のあるA・M・クラスノシチョコフを強く支援する方針を打ち出す。そしてクラスノシチョコフは、列強(特に干渉を続ける日本)を恐れるソヴィエト中央の意向によって極東共和国を建国し、政府首班兼外相となる。そしてアメリカと日本の武力、援助を背景に短期間で勢力と基盤を拡大。アメリカの肯定を受けた日本軍(つまりアメリカの力の代理人)とアメリカ資本と共に、アメリカ式民主主義を極東の大地に広げていく。いわゆるパナマ方式だ。日本はほとんどアメリカの動きに乗っかるだけだった。もっとも、日本の陸軍軍人達(特にエリート将校達)にとって残念だったのは、バイカル湖辺りを領土(自らの勢力圏)に出来なかった事ぐらいだった。
 そして「ポ=ソ戦争」で敗北したソ連は、極東防衛の事もあり極東共和国の独立を正式に認め、アメリカ、日本はこれを受け入れる事でソ連の主権(独立)を間接的に認めてソ連も一定の利益を得ることで契約は成立した。

 なお、シベリア共和国初の民主総選挙は1922年11月に実施され、以後の国家運営と国土防衛はソ連ではないロシア人により国家運営が紆余曲折の中行われ、ソ連、日本、アメリカから様々な干渉を受けつつ緩衝国家として歩んでいく事になる。
 領土は、初期の極東共和国から大きく減退して沿海州、アムール州のみとなり、初期の総人口は100万人に届く程度で、主要な産業も貧弱な小国だった。
 だが建国後は、日本とアメリカ、特にアメリカからの資本投下と進出、ソ連からの大量の亡命、移民により相応の発展そ示した。国内には旧ロシア勢力の多くが粛正を逃れてきており、他にも教会、貴族、富豪、コサックなど旧ロシア的なものを許容するロシアとして国家運営がされていく事になる。
 こうしてアメリカの余りにも強いアジアへの欲望が、旧帝政ロシアからもう一つの人工国家を誕生させるに至る。



●フェイズ03「軍縮会議」