●フェイズ03「軍縮会議」

 「世界大戦」後、日本は政府、陸軍、海軍の全てが、世界情勢の大幅な変更に対応するため、基本戦略の変更と同時に仮想敵の変更を行う事になった。
 だが、仮想敵が変更されるまでには紆余曲折あった。
 世界大戦前までの日本にとって、最大の仮想敵はロシア帝国だった。日露戦争後に協商関係を結んでも、この点に変化は無かった。しかしロシア海軍は一度自らの手によって撃滅されているため、日本海軍はアジアでも帝国主義政策を強引に進めるドイツを第一の仮想敵としていた。
 しかし世界大戦の結果、国際関係と各国の軍事力は大きな変更が行われた。
 ベルサイユ条約で厳しい軍備制限を受けたドイツを、第一の仮想敵と想定していた日本海軍に大きな混乱が見られたからだ。
 日本陸軍は、ロシア改め共産主義化したソビエト連邦ロシアを第一の仮想敵とする事で基本的な変化と問題はなかったが、日本海軍の場合は有力な海軍を持っているのがアメリカかイギリスになるが、どちらも外交関係が良好なため仮想敵にし難かった。しかも日本政府は、自らの海軍に対してアメリカ、イギリスを明確な仮想敵としてはいけないと強い内示を出していた。日本政府としては、今まで積み上げてきた外交努力と、大戦ではるばるヨーロッパに大軍を送り込んだ政治的得点の双方を、「つまらない事」で減点したくなかったのだ。
 当然と言うべきか、海軍に反発が見られた。理由はどうあれ、自らの仮想敵がほぼ居なくなるからだ。この一件のため、海軍が政府に反発して日本国内で政治問題にまで発展したが、その事で海軍はかえって国内での評価を大きく落とすことになってしまう。自らの利益の為、組織の為に、国益を損ねたというわけだ。そして一連のネガティブキャンペーンの結果、日本海軍の高級将校の何人かが予備役や退役を余儀なくされ、元海軍軍人の政治家も幾人かが現役から遠のいた。以後の日本海軍は、「政治に関わらず」という方針を強く持つようになる。
 だがこれには副産物があり、軍人全体が政治に関わる事が難しくなる法律が可決され、陸軍出身の政治家も政治から遠ざかる事となった。海軍としては単に陸軍を道連れにした形だが、世界的にも評価された政策となった。

 話しを戻すが、海軍は引き続きロシア(ソ連)を第一の仮想敵とするも、政府もこれだけでは今後の海軍の予算獲得に問題が出ると考えた。何しろソ連にまともに海軍がない上に、極東共和国の成立によってウラジオストクなどを自分たちの勢力圏にして、ロシア人の極東海軍力をほぼ完全に奪ってしまったからだ。
 しかし、海防こそが日本の国防の基本と言うことは、政府も十分に理解していた。このため海軍は特定の仮想敵を定めず、日本の状況に合わせた総合的視点に立脚した海軍軍備を計画・推進する事を定めた。加えて、世界大戦の教訓を反映して海上交通路の防衛こそが害軍の第一の任務だと政府、日本海軍共に宣伝に務める事で、一定の軍備維持を図ろうとした。海上護衛を行うには、一定規模の艦艇、装備、人員が必要となるからだ。
 なお海軍の仮想敵策定には、別の側面でも世界大戦が影響していた。
 世界大戦では、陸軍がヨーロッパで多くの血を流してヨーロッパ諸国から賞賛され相応の戦果も挙げたのに対して、海軍は海上護衛でこそイギリスに次ぐほどの存在感を示すも、派手な活躍は殆ど見られなかった。イギリスなどは自国の勲章を多数贈るなど日本海軍に非常に感謝したのだが、それが日本国内には十分伝えられなかった。何しろ海上護衛戦は一見地味だった。また国内では、日露戦争以来の多くの戦死者や負傷者が出た為、尚更国民には陸軍が活躍したと認識されていた。

 二つの要素の結果、日本国内での海軍への風当たりは少し強くなり、政治力学の影響で軍の予算配分も今までのような海軍重視ではなくなった。しかも大戦中は、陸軍に多くの予算を傾注せざるを得ないため、陸海軍の予算配分は海軍優位から五分五分に近くなった。
 そして大戦中は、五分の予算の中から艦隊を整備しなければならない海軍だったが、大戦が終わるまでは脅威の低下した戦艦よりもドイツ海軍の潜水艦に対向できる駆逐艦の建造、運用経費の確保を優先しなければならず、必然的に大型艦建造にしわ寄せがいった。このため日露戦争以後の半ば悲願だった「八八艦隊計画」と、それに繋がる一連の建造計画は、延期に次ぐ延期を余儀なくされた。この副産物として、《扶桑型》戦艦は建造中に設計改訂による性能改善が見られたが、海軍としてはあまり喜べる事では無かった。
 しかも大戦が終わると、日本政府は戦時の散在を戒めるかのように、陸海軍双方の軍縮と軍備の削減を実施した。当然ながら海軍の拡張計画はまたも大きな挫折を余儀なくされ、中心となる「八八艦隊計画」も縮小方向で大きな改訂を余儀なくされる。計画自体の骨子も、特に主力艦艇(=戦艦)の面で規模、建造ペース双方の面で約半分の計画へと下方修正された。
 そもそも海軍の仮想敵となるドイツ帝国、ロシア帝国が滅びた為、尚更海軍拡張の理由が薄れていた事も、海軍の望む軍備拡張を遠のかせた。そこにきての新たな仮想敵騒動で、日本国内での海軍の評価と評判はさらに下がった。もはや大艦隊建設など、国内的な理由によって夢物語でしかなくなった。
 かくして大幅に修正された「八八艦隊計画」は、「8年以内に8隻の新鋭艦(戦艦または巡洋戦艦)の整備を目指す」という当初の半分の内容へと大きく下方修正された。しかも、これですら年1隻の戦艦を建造する事になるので、国内からの批判は強く計画は遅れがちとなった。そして大戦後の国内不況のあおりを受けて、計画はさらに縮小されることが閣議決定した。戦艦、巡洋戦艦以外の補助艦艇の整備計画についても、当初目標の半分以下となってしまった。
 補助艦艇の数が大きく減らされたのは、大戦中に船団護衛用として多数の駆逐艦と駆逐艦を教導する巡洋艦(主に天龍型と球磨型、長良型)を多数建造してしまっていたからだ。当座の海上護衛戦力は、向こう五年から十年は増やす必要がなかったのだ。

 日本海軍の戦力整備計画の大幅な下方修正は、日本海軍を仮想敵の一つとしていたアメリカにも大きな影響を与えた。
 世界大戦の中盤以後は、イギリス、ドイツ、日本全ての国が戦艦、巡洋戦艦の建造ペースを大きく落としたり軍備計画を大きく縮小したため、アメリカ海軍と政治家の一部は、アメリカが世界一の海軍を持つ最大の好機と捉えた。しかし、アメリカ海軍だけが大幅に拡張することを、納税者が認めなかった。
 大戦後も、ドイツ海軍は実質的に消滅して、イギリス、日本双方の海軍も自国の経済状態を見て現有戦力と新規計画双方の大幅な縮小を発表、実行したため、アメリカ海軍もそれに倣わざるをえなかった。というよりも、アメリカ国民によって倣わされた。アメリカ海軍が世界一を目指そうとした野望は、諸外国の動きとアメリカの良識によって否定されたのだった。
 戦後の新造艦建造については、イギリスは大戦中に建造を始めた巡洋戦艦《フッド》の1隻だけで、これすら国家の面子で建造したようなものだった。日本では、1916年までに予算通過した16インチ砲搭載戦艦4隻(戦艦2隻、巡洋戦艦2隻)の建造が、ペースを大幅に落として進んでいるだけだった。1918年度の計画では、結局戦艦は1隻も計画されなかった。加えて、建造ペースのあまりの遅れのため、遅れを利用して設計改訂すら行うような状態だった。しかも日本は1920年から2隻の巡洋戦艦の建造を開始しするも、大幅に下方修正した軍備計画に従って、新規に建造する以上の数の旧式艦艇の退役処分を自ら決めていた。
 つまり拡張ではなく、代替、置き換えでしかなかった。このため、新型の16インチ砲搭載戦艦が脅威と言っても、軍拡にはかなり遠かった。日本の栄光を担った戦艦《三笠》などの旧式戦艦は、1919年秋の戦勝特別観艦式を最後に練習艦になったりして、《三笠》も記念艦となった。性能が今ひとつな準弩級戦艦についても、新型艦1隻につき2隻のペースでの廃棄を自ら行った。
 そして遂に、日本海軍が求めた形の「八八艦隊計画」は完全に流産となった。
 連動して、日本で「八八艦隊計画」が成立しなかったように、アメリカでも海軍と海軍マフィア(議員、造船業者など)が目指した「ダニエルズプラン(三年計画)」は議会を予算通過しないどころか、まともに審議すらされなかった。アメリカでは、大戦中から進められた大量の駆逐艦整備ですら過度の軍拡と判断され、半分程度でうち切られたほどだった。

 そして世界大戦後の各国の自主的な軍縮というの「異常事態」を憂慮したのが、日米双方の海軍と海軍関係者、海軍向けの造船企業だった。
 両国の関係者は頻繁に連絡と情報交換、交流を持ち、自分たちの軍備を如何にして「良好な状態」で維持するかについて協力関係の構築を行った。ここに、日米両国の海軍関係者が自らの組織維持、権益維持のために共謀するという、世にも奇妙な軍拡、建艦競争が始まることになってしまう。
 この間も日本での新たな巡洋戦艦の建造について、建造延期が何度も議論されていた。大きく修正された「八八艦隊計画」も、さらに計画を引き延ばす、つまり縮小する方向で話しが進みそうだった。これをアメリカが新たな艦艇建造を計画しているという「情報」をもとに、バランスの取れた軍備を整えるという政治的方便によって何とか建造続行にこぎ着けていた。そしてアメリカでも、日本海軍が巡洋戦艦の建造を続けると言う「情報」から、必要性の薄い大型戦艦の建造を先送りして巡洋戦艦3隻の建造が進められた。
 しかしこの地味な拡張も、個艦性能の大幅な向上と大型化、そして1隻当たりの建造価格の急速な高騰によって、過度の軍備拡張だと世界は見るようになる。何しろ日米で計画、建造が進められた大型艦は、軒並み4万トンという当時としては破格の巨体を有していた。性能も高いため、建造費用も今までになく高騰していた。
 かくして、経済の建て直しと財政の逼迫のため競争についていけなくなっていた欧州諸国の思惑で、世界初の軍縮会議となる「ワシントン海軍軍縮会議」は開催される運びとなった。この裏には、日米の動きをイギリスが知ったからこそ、自らの外交力を駆使したと言われることが多い。また日米双方の財政担当者なども、イギリスの動きに積極的に協力しており、海軍拡張こそが時代の流れに反していたのは間違いない。
 日米両国の海軍及び造船に関わる者達はともかく、他の者達にとっては日米関係者の努力の賜物だった地味な海軍拡張ですら、この当時は十分に主に国庫の面で過大と映ったのだ。
 そして軍拡と判断された日米は、海軍と海軍関係者はともかく政府、特に財務官僚達は建艦競争がやや度が過ぎていると考えていたので、ほとんど渡りに船と捉えていた。米英が日本の軍拡を抑えようとしたという陰謀論もあるが、少なくとも日本政府と日本の財務担当者、外交担当者にとって、陰謀とは遠い位置にあったと言えるだろう。
 なお、アメリカの首都ワシントンが開催場所に選ばれたのはイギリスからの要請だったが、これはイギリスがヨーロッパ諸国も誘うためアメリカがホストの方が都合がよい、アメリカを説得した為だった。

 「ワシントン海軍軍縮会議」は、必然的に大海軍を有する日英米の共同歩調で進められた。そして会議に参加した人々の殆どが、過度の軍拡には反対だった。
 そして米英共に日本と深い外交関係を結んでいるため、日本が過度の軍拡をしないのならば、ある程度認める態度を最初から示していた。初期の頃の会議の流れとしては、完全に旧式の前弩級戦艦を除く準弩級、弩級戦艦の一斉処分による若干数の新規艦艇の建造という流れだった。新規建造の肯定も、軍事技術の維持が目的のように議論された。
 そしてこの会議では、日本とアメリカが既に16インチ砲戦艦を有していることが、イギリスにとっての刺激材料となった。

 軍縮会議開催時時には、日本は16インチ砲搭載の《長門型》戦艦のうち《長門》が就役したばかりで、《陸奥》が艤装中(70%程度)だった。さらに大型の《加賀型》戦艦は、海軍及び造船関係者の不断の努力によって進水式が終わったばかりで、軍縮会議にも影響を与えた新型の巡洋戦艦2隻は船体の建造が、緩やかに進められている段階だった。建造計画自体の縮小が、各艦の建造速度そのものにも大きく影響した結果だった。
 一方他国では、アメリカは《コロラド型》戦艦の《メリーランド》が何とか会議までに就役し、他同型艦3隻が建造中で、新型の巡洋戦艦3隻の建造が始まったばかりだった。
 このため日本代表は、当初から《陸奥》の廃棄を受け入れる予定だった。一部日本海軍関係者の強気の言葉はともかく、実際の《陸奥》の完成には最低でもあと半年から一年は必要だった。つまりまだ完成していない戦艦だった。このため日本は、日本は《陸奥》を破棄するので、アメリカは同じ16インチ砲搭載戦艦の《メリーランド》、イギリスは条約排水量を大きく超える事になる高速戦艦《フッド》で妥協し合って、残りは量的調整を行うべきではないかと逆に提案した。
 この日本の大きな譲歩案に、イギリス、アメリカはむしろ焦った。このままではイギリスは16インチ砲搭載艦を保有できず、アメリカは16インチ砲搭載艦に関しては日本と対等の数となってしまうからだ。両国とも軍縮には賛成だが、軍備には面子というものもあったのだ。

 次の問題は、総量規制そのものだった。
 当初英米は55万トン〜50万トン(最終的に52万5000トン)を100%として、日本は60%〜67%が妥当ではないかと提示していた。日本側は、新造戦艦建造で譲歩する対価として70%を求めた。とはいえ日本には弩級戦艦、超弩級戦艦の数そのものが少ないので、量的規制を一層強める提案をここでも行った。日本代表は英米が認めるなら上限値を40万トンとして、自らはその70%を求めた。
 この日本側の提案は、世界安定を損なうほどに行きすぎていてると考えられた。軍縮会議に参加していない国に対する抑止効果が低下し過ぎるのではと、特にイギリスが反発を示した。フランス、イタリアも自らの割り当て予定の33%に対して、総量40万トンでは流石に少なすぎると反発が出た。このため、今回の会議では当初の数字に沿って50万トンを基準として、10年間は新規計画の禁止という項目が盛り込まれることになる。
 そして16インチ砲搭載戦艦については、アメリカ、イギリス共に追加で2隻保有が認められ、日本はバランスを取るためという理由で建造中の《陸奥》の保有を認める代わりに、60%を受け入れる事とされた。
 この結果に対して、日本の交渉勝ちとする説と、結局は軍備を大きく制限されたという二つの意見が長らく対立する事になる。しかし今日では、日本が最初に大幅な譲歩を示した事は大きな外交勝利だと言われることの方が多い。もっとも、当時の記録を紐解いても、日本が交渉として最初に自ら譲歩したわけではない事も明らかとなっており、偶然と当時の外交環境が日本に有利に働いただけというのが正確なところだろう。

 なお日本側としては、超弩級戦艦以前に建造された艦となると準弩級戦艦でしかないので、保有を続けても実質的な戦力価値が低すぎるという面が強く影響していた。そして実質戦力での不利があったので、日本側は自らを70%とした40万トン提案を行ったとも言えるだろう。
 そして30万トンの枠を埋める艦だが、10隻の超弩級戦艦を保有すると、現状では条約枠の30万トン以内で収まる。だが、近代改装として各艦3000トン大きくすると、1隻を最低でも予備役に入れなくてはならなくなる。条約を交わした状態で、違反したり黙って改装することも難しい。近代国家としての国際信義にももとる。このため、戦艦の大幅な近代改装については据え置かれることになる。先の大戦で防御力に不安が出た《金剛型》巡洋戦艦も、高角砲など装備を少し増強しただけで巡洋戦艦のままとされた。各戦艦の改装も、艦橋を中心に500トン程度の排水量増加に留められた。
 一方、空母の建造では、建造中の戦艦の流用が認められるが、保有枠は戦艦と同じ比率とされた。そこで日本は船体を作っている途中だった《天城》《赤城》を割り当てるも、保有枠そのものもすぐに使い切る気はなかった(※後に《天城》は破棄され、《加賀》が代替となる。)。そもそも、政府が建造予算を認めなかった。また空母については、1万トン以下の空母は条約対象外とされたため、日本海軍は海上護衛用の戦力として注目して整備するようになる。
 一方で日本政府は、海軍及び造船業者に対する鞭に対する「アメ」として、主力艦用の予算を以前大きく削減した補助艦建造に向けることを決め、加えて多数建造された補助艦の予備役編入を一部中止する事とする。これにより造船業者は発注を受けることが出来、海軍兵員、特に将校のリストラが緩和される事となった。
 しかし、軍縮会議により戦力を大きく抑制されたと考えた日本海軍とその関係者は多く、その後日本海軍は巡洋艦、駆逐艦の戦力強化に奔走させる事になる。とはいえ、日本国内の海軍に対する強い風当たりがあり、数を揃えるだけの予算は得られないので、個艦性能の追求へと傾いた。日本の国内世論も戦艦でなければ関心は低く、政治家も口では海上交通防衛という新たな用語を口にするようになったが具体的な事は殆ど何も知らないため、海軍は自らの中ではかなり好き勝手なことが出来た。
 その結果、条約枠内の1万トンの排水量で8インチ砲10門、魚雷発射管12門の重武装を誇る「重巡洋艦」や革新的な性能を持つ大型駆逐艦(特型駆逐艦)を産み出す。しかし、かえって諸外国の目に止まり、次の海軍軍縮会議の呼び水の一つとなってしまう。海外の声から明らかになった海軍の「斜め上」とも言える努力と姿勢には、日本国民からの理解もいま一つだった。
 そんな贅沢な艦を作るよりも、先の大戦で活躍した海上護衛に役立つ艦艇の代替、整備を求める声の方が強く、海軍も国民の声を無視出来なかった。何しろ海軍軍備の基本は日本の海上交通補保護とされ、攻撃力に特化した艦艇は不要でないにしても重要では無かったからだ。この声を無視できない海軍は、取りあえず対潜水艦装備の開発と配備を行う事でお茶を濁した。

 一方、この会議の別枠で2国間の軍事同盟である「日英同盟」が議論となるが、当初日本は同盟の維持を求めた。日本にとって、あった方が何かと便利だからだ。だが国際平和を実現する上で、二国間同盟が列強の間で存在するのは問題があるという意見が大勢だった。
 このためアメリカは、代替案として実行力を持った多国間による新たな条約締結を提案。その後、日本とイギリスの間で会議が持たれ、日本とアメリカ、イギリスとアメリカとの間でも協議が実施された。この時は、日本が求めた軍縮を受け入れた事に対する安全保障であり、イギリス、アメリカも同様だった。そして日米間の関係が比較的良好なままだったため、両者の協議が何度も行われた。
 そしてアメリカの提案で、軍縮の理念を反映させた国際条約として「太平洋安全保障条約」が、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、そして日本の間で結ばれる運びとなる。
 同条約は、東アジア、太平洋での軍事に関する多国間による国際条約で、条約締結国が条約対象地域内で他国から侵害、侵略を受けた場合に、一致団結して事態に対処することが明記されていた。この場合、武力を用いることも視野に入れられている。ただし、条約尊守、抜け駆け厳禁の条約ともされており、加盟国による通達なしの武力行使は厳しく禁じられてもいた。また条約を円滑に運用するため、各国の武官、外交官を追加で派遣しあう事になり、さらに各国持ち回りでホストを務める常設の連絡会議も常設で設置されることになった。
 条約自体は非常に進歩的とも言われ、各国の間で高く評価された。

 海軍軍縮会議はその後も開催され、1927年に開かれた「ジュネーブ海軍軍縮会議」でも、日本が英米の関係を取り持つ形で奔走した。海軍の先走りで高性能艦を作った日本自体が会議を呼び込んだ負い目もあるので、大幅な譲歩の姿勢も最初から示した。
 日本が奔走した背景には、日本が軍縮会議後に建造した革新的な軍艦の影響が強いため、自らの風当たりを弱くするために行動した結果だったのだ。
 しかし当時のアメリカとイギリスは、どのような巡洋艦をどれだけ整備するかで対立が見られた。多くの植民地を有するイギリスは、いわゆる軽巡洋艦の多数整備を目指し、アメリカは特に仮想敵もいない中で自らが乗り遅れた形の艦隊決戦主義に固執して重巡洋艦の多数整備を求めた。
 このため、会議が始まってもあまり進展は見られず、一時は英仏の巡洋艦保有率で交渉は決裂しかけたのだが、アメリカの一定の譲歩と日本代表の奔走が会議を成功へと導いた。
 同会議では、補助艦艇の保有率取り決めが中心的に議論され、特に各国で建造が開始されていた「重巡洋艦」の保有率が議論となった。このため日本は、多数の「重巡洋艦」を求めるアメリカとの間に別の協議を持ち、日本側もアメリカに合わせて建造自粛を決める。アメリカが重巡洋艦を求めたのは、日本との兵力均衡を求めたからだった。
 話し合いによって、日本は当時まだ建造中の《妙高型》以後の建造計画を凍結し、小型で8000トン級の《青葉型》《古鷹型》と合わせて8隻に重巡洋艦保有数を調整し、アメリカも日本の譲歩に合わせて拡張予定を縮小する事となる。
 アメリカも総保有数を最大12隻、イギリスとの交渉如何では10隻にまで押さえ込むことで決着を見る。そしてアメリカが重巡保有数で譲歩したためイギリスも交渉を受け入れ、他の補助艦では英米が日本に好意を示す形で保有枠(日本70%)を認め、条約締結へと結びついている。
 また、日本で多数が建造中だった「特型」と呼ばれる革新的な大型駆逐艦の追加建造計画は中止され、日本国内からの声もあって対潜水艦戦能力も高めた汎用性の高い中型駆逐艦の建造へとシフトする事になる。

 また同会議では、前回の会議での話し合いもあって、主力艦についてもさらなる縮小が決定した。保有枠は総量ではなく保有隻数とされ、5年以内に戦艦数をさらに削減し、旧式戦艦の代替艦建造は10年から15年に延長。肝心の戦艦保有数は、英米が15隻、日本が9隻とされ、日本は《比叡》を練習戦艦に格下げするも、逆に各艦の大規模な近代改装が実施できる事になるので、会議で得をした事になる。これは、日本が巡洋艦など補助戦力でのアメリカに対して譲歩した事が影響していたと見るべきだろう。
 かくして1920年代の海は、穏やかなまま過ぎていった。



●フェイズ04「大戦間の日米関係と極東アジア情勢」