●フェイズ04「大戦間の日米関係と極東アジア情勢」

・関東大震災

 1923年9月1日に日本の中枢部で発生した「関東大震災」では、アメリカは極東アジア進出で日本の情報も多くなっていた事もあって、国を挙げて日本を支援した。
 関東大震災のニュースは、アメリカ全土に号外で第一報が発せられ、その後も最新の情報が新聞のトップを飾り続けた。アメリカ市民の極東への関心の高さと一定程度の親日感情もあるが、東鉄につながるユダヤ系報道組織の活動の結果でもあった。

 なお関東大震災に際して、アメリカ本国での全国規模での募金運動や慈善団体の支援は、アメリカの半ば自画自賛ながら有史以来の人類愛がもたらしたものだとすら言われた。実際、非常に大規模で、人種偏見すら一部乗り越えるものがあった。そしてアメリカ本土からは、多数の艦艇が救援のために来日し、東京湾は日米合同の観艦式のようだとすら言われた。このアメリカ政府(海軍)の動きは、日本本土の調査が真の目的だったと陰謀論で言われることもある。だが、東京湾の奥で戦艦《長門》など日本の艦艇と並ぶアメリカ軍艦艇の姿は、震災で打ちひしがれた人々に海外からの助けの手が有ることを知らせ、この点での人々の言葉や記録が多く残されている。アメリカの水兵が日本の子供を助ける写真は、アメリカ国民にも大きな感動を呼んだ。
 また、日本が発行した震災復興債についてもアメリカは大量に購入し、日本単独の場合よりも遙かに大規模にかつ迅速行う事ができた。
 なお、このアメリカの動きでは、日米友好の象徴でもある「東鉄」の果たした役割が非常に大きかった。
 東鉄は、日本本土最大の拠点としていた横浜支店が壊滅したにも関わらず、東京など首都圏に多くの特派員、社員を派遣し、アメリカへの報道を一手に担う形で、日本での大災害をアメリカ国民に知らせた。この中には多少過剰に装飾された報道も含まれていたが、アジアの僻地の事に依然として関心が薄かったアメリカ国民の心を大きく動かした事は間違いなかった。1920年代半ばからのアメリカ国民の日本ブームは、関東大震災が契機だと言われるほどだ。
 そして東鉄の報道は、多数の寄付と援助がアメリカから日本にもたらされる一助となった。震災復興債についてもまずは東鉄が大量に購入し、日本ばかりかアメリカの企業も自らの体面もあるため、競うように購入することになる。この中で、東鉄最大の出資企業となるアメリカを代表する財閥であるモルガン・グループが果たした役割も非常に大きい。
 また、この時初めてブッシュという名が、日本史に登場する。アメリカ屈指の銀行家であるブッシュ家がハリマン一族との関係から日本の支援に加わり、当時長男だったプレスコット・ブッシュが視察などのため来日し、日本の新聞各紙も「メリケンの伊達男」として長身のアメリカ人に注目した。
 そして当時の東京市長だった後藤新平が計画した震災復興計画は、アメリカ資本の強い支援もあって、かなりの面で彼の「大風呂敷」と揶揄されたプランに従って沿って進めらた。
 帝都東京は、10年を経ずして面目を一新して近代都市に生まれ変わることになる。その中で、瓦礫撤去から建設に至るまで活躍したアメリカ製の土木機械は、帝都復興の象徴と言われたりもした。
 そして本当に「江戸」が「東京」になったのが、関東大震災以後だと言われるほどだった。

 なお、この震災の影響で、1924年にアメリカ議会で議決される「排日移民法」でも、震災被災者(※被災地(関東地方)在住が証明出来る者)に関しては、特別に5年間だけ猶予する臨時法案が平行して可決している。富裕層に多い慈善家の中には、有色人種であるにも関わらず日本人孤児の受け入れを行った者も少なくなかった。日本の関東各地にも、アメリカの援助で多数の救済所や孤児院が設立されている。アメリカの大学の日本進出も、関東大震災を契機としている。
 当然だが、関東大震災でのアメリカの援助と親日姿勢の大幅な向上は、日本でもアメリカに対する友好感情は大きな上昇を見せ、日本を襲った大災害は日米の友好促進に大きな役割を果たすことになった。
 アメリカでも、日本が派遣した復興支援の感謝を伝える船団や使節を熱烈に歓迎し、親日傾向と日本に対する関心が大きく強まった。

・1920年代の日米関係

 世界大戦以後の日米間の貿易は、比較的順調だった。
 日本が満州市場を主にアメリカに開放し続けている事と、満州や極東共和国、さらに日本に進出したアメリカ資本の存在から、アメリカも自国の市場を一定程度日本に解放し続けざるを得ない状態が続いた。競合商品が少ないことも、日米貿易の自由性を支えた。この状況は、1929年秋の大恐慌到来まで変わることはなかった。またアメリカは、1920年代は未曾有の経済的繁栄に湧いたこともあり、「満州のガードマン」である日本に対して寛容だった。この寛容さは、関東大震災の悲劇によって補強された。
 それでも様々な面で弱体な日本経済だったが、1927年に日本で起きた金融恐慌も、日本の一部企業はアメリカ資本の多大な援助を受けた。経営が傾いて一時は倒産寸前となった鈴木商店と台湾銀行は、アメリカの東鉄を介してモルガン財団系の大手銀行などが「ホワイトナイト(友好的企業買収)」となったり資金援助や借款で救済された。この結果、日本本国に外資が本格的に入り込むことになるが、それで一定の経済の安定も手に入れることになった。
 しかし、日本国内の一部国粋主義者は、アメリカ資本に反発を強めたりもした。台湾銀行が一種の国策銀行だったから当然の反応でもあるが、日本の企業や政府では救済できないのも事実であり、日本の政財界は概ね好意的に捉えていた。
 しかも、日露戦争以後アメリカ資本が日本経済に果たした役割、現在進行形でのアメリカ資本、技術の恩恵を日本が受けていることは間違いなく、それを否定出来る日本人は一部の偏狭な考え方しか持てない者以外いなかった。
 世界大戦中に、日本本土でもベルトコンベアーの流れ作業が行える日本資本の巨大工場が出現したのは、間違いなくアメリカ資本の強い影響の結果だった。主にアメリカから進出した企業や工場の下請けによって、大量生産、生産管理の概念が日本人の間に広まった事も、技術史の面では非常に重要だった。また主に東北や北海道で使用されるトラクターもアメリカ製だったし、関東大震災を契機に増え始めた土木機械、トラックもアメリカ製だった。
 そして日本とアメリカの親密化の影響を受けたのが、日本の国鉄(日本国有鉄道)だった。
 もともと日本の鉄道は、イギリス人技師の助言もあって「植民地規格」ともいわれる「狭軌」が採用された。以後、狭軌が日本中で敷設されるが、世界大戦によって経済力の増した日本の大動脈を担うには、輸送力が不足しつつあった。また満鉄(東鉄)は最初から標準軌で、北海道など遅れて敷設された地域もかなりが標準軌だった。この頃から広がり始めた私鉄も、ほとんどが標準軌だった。そして何より、東鉄がアメリカの強力な機関車を大量に持ち込んだ為、機関車自体が標準軌用の方が日本が自力生産する狭軌よりも安価なほどだった。
 加えて東鉄などとの連携を考えると、軌道の違いは様々な面で不利をもたらす。最悪、軍事や国防にまで影響を与えかねない。そうした事が加味され、1925年に国鉄は一斉に軌道の変更を実施。また、震災からの再建半ばだった首都圏は、人口や交通量が過密になると予測される地域で高架の建設も合わせて実施している。

 また主に震災後の東京、横浜、神戸、大阪などの大都市にはアメリカ人の姿も増え、連動してアメリカの文物も日本に流れ込み、文化面での交流と両者の偏見の解消も少しずつ進んだ。ジャズ、ベースボール、シネマ、洋食、洋菓子を代表として、この時期に日本で流行したり浸透したアメリカ文化は非常に多く、そして影響も大きかった。
 クリスマスの習慣が広く紹介されたのも、1920年代の昭和初期の事で、情報としてなだれ込んできたアメリカの大量消費社会と豊かな生活は、一定程度の生活を送る事ができる中流層を形成しつつあった日本人の憧れとなった。

・極東共和国の開発

 1920年代のアメリカは、日本と共謀し、実際はアメリカ資本の力で建国したようなものである極東共和国に対して、莫大な投資を実施した。
 1922年に成立した極東共和国は、国土面積こそ日本列島を越えるが、総人口はたったの100万人程度。主産業は一次産業だが、食糧自給すらままならない極寒の地だった。人口のほとんどはロシア人で、着の身着のまま革命から逃れてきたロシア人も少なくなかった。革命後も、共産主義ではないロシア人の国だとして、世界各地に亡命したロシア人が多数移り住んだ。
 そこに東鉄を経由する形で、莫大な量のアメリカ資本が降り注いだ。通貨の極東ルーブル(FER)は1924年にドルとの交換が約束された事で、日本の円よりも強い通貨と言われたほどだ。加えて、通貨制度にドルが入ったことで、極東共和国からソ連の影響がほぼ完全に払拭されることとなった。1920年代半ば以後、極東共産党は与党を維持するどころか弱小政党へと転落した。ソ連が裏から指導したテロ、パルチザン活動も、主にアメリカの経済力の前に民心を得られず消滅していった。
 そして豊富な資本を背景として、農場には巨大なトラクター、荒れ地、原生林には蒸気シャベルやブルドーザー、道路にはトラック、ダンプカーが投入され、それらを運んでくる鉄道はほぼ完全に東鉄によって運営された。鉄路を走るのは、ほとんどが日本や満州の大連で製造されたアメリカ設計の強力な蒸気機関車だった。また極東共和国内の鉄道は、建国すぐにも複線工事が精力的に実施され、満州各所の鉄道との接続も強化された。鉄道のゲージも、ロシア基準の広軌ではなく標準軌に変更された。満州からの乗り入れも積極的に行われ、路線も増やされた。
 太平洋に向けてのロシアにとっての玄関口だったウラジオストックの港は、地形から軍港として最適だったが、建国後はアメリカ、日本からの船を迎え入れる商業港として徹底的な開発と整備が実施された。ウラジオストックのロシア語である「東方を侵略せよ」という言葉は、もはやアメリカ人にとっての言葉になっていた。もちろん、ロシア人とは向かう方角が真逆になるという意味においてだ。

 極東共和国の開発に必要な資材、原料、資源は、満州や日本から運び込まれた。国内では足りない食料も、日露戦争以後大きく農場開発の進む満州南部からどんどん運び込まれた。この事は、満州南部の農業開発が、日本に運び込んでもなお余剰するだけの食料生産が出来ることを示していた。
 そして急速に国内を整備して国力を付けると、首相のクラスノシチョコフらはソ連の影響から離脱する向きを年々強め、アメリカ、日本も支援した。支援の中には軍の整備と増強も含まれ、唯一の国境線と言えるシベリア鉄道沿いには、1920年代半ばぐらいからソ連の攻撃を防ぐための永久的な要塞までが日米の援助で建設された。
 ロシア人亡命者を集めても足りない人口に対しては、日本政府が日本人の移民を奨励するなどの手助けまで行っている。アメリカからも、主にロシア系移民がかなり極東共和国へと再移民した。
 急速な開発と移民の受け入れの結果、僅か十年で人口は二倍以上に、国力は五倍以上に伸びた。
 極東共和国の動きは、ソ連にとって極めて不快だった。加えて警戒感も非常に強かった。しかし1920年代のソ連は国の基礎を固めるのに精一杯で、そもそもロシアの辺境だった地域に再度影響を強める事が出来なかった。しかも亡命者として送り込んだ共産主義者は、そのほとんどが国家の中枢から除外され、アメリカ資本により豊かになった人民(=国民)からも孤立した。極東共和国内での共産主義化、共産党の影響力拡大も全くうまくいかず、極東共和国の共産党は年々弱小政党になっていった。クラスノシチョコフが率いる与党も1925年には極東共和党と組織と名前を変更し、最大野党もロシア系の貴族など伝統階級、ロシア正教が支持する極東民主党となった。

 極東共和国の動きに対して、1920年代のソ連は対策に苦慮していた。極東共和国内で共産党の支持が落ちる一方なので、実質的には何も出来なかった。ならば力で解決と言いたいところだが、軍事的にはソ連の方が強い脅威を感じているほどで、第一次五カ年計画が終了するまでのソ連指導部は、もし戦争になった場合は東シベリア地域を一時的に切り捨てるつもりだった。
 ソ連以外にも、近隣各国は極東共和国の影響を受けた。
 特に中華民国の満州地域では、極東共和国との経済的結びつきが強まった。多くは東鉄とその後ろにいるアメリカの強い影響の結果で、満州は極東共和国の原料、食料供給地として無くてはならず、また極東共和国の影響で満州の開発はいっそう進んだ。1929年までに東鉄は満州全土の鉄道網を完全掌握し、さらには北京、天津地域の鉄道、港湾利権の実質を手にしていた。
 この裏にはアメリカと取り引きした張作霖と彼の軍閥の影が強かったが、満州、極東共和国の工業加工品の供給地となった日本の影響も強かった。
 その日本では、極東共和国と航路でつながる新潟、青森、北九州など日本海や海峡地域の発展が強まった。日本国内で作られた加工品は、国内を鉄路新潟まで運ばれるか各地の貿易港から大連やウラジオストクを目指したからだ。
 また極東共和国ばかりか満州での開発進展により、アメリカ資本の動き、アメリカから極東アジアを目指す物資の動きに連動して、北太平洋海運がいっそう発展し、日本経済とのつながりも強めた。
 1920年代は、アメリカ経済との繋がりが強まった事で、日本経済も大戦不況をある程度乗り切る事ができたばかりか、かなりの好景気を維持することが出来た。そうした中で大正デモクラシーと呼ばれる政党政治と民主化が進展した。1925年には普通選挙制度が施行され、アメリカの日本に対する評価は高まった。1920年代前半に首相となった平民宰相原敬の登場と長期の活躍も、アメリカのリベラル層から高い評価と支持を受けた。原敬は、日本でのアメリカンドリームの体現者とも見られたからだ。

・1920年代の朝鮮

 アメリカ資本の極東流入と極東共和国の発展で最も不利益を被ったのは、1907年以後日本の保護国となっていたコリア(韓王国)だと言われる事が多い。
 当初、韓王国のある朝鮮半島は、満州と日本を結ぶ鉄道による最短ルートとして、植民地的ではあるが鉄道沿線と基幹駅を中心に多少の発展が見られた。日本からの近代的な価値観や考え方、技術の流入によって、停滞しきっていた朝鮮王国時代と比べると格段の進歩があったとも言われる。
 しかし、日本から満州に人や荷物を運ぶのに朝鮮半島縦断は短いルートだが、運ぶ荷物(貨物)の量が多くなると大型の船舶を使う方がコスト面で効率的となっていった。当然だが、アメリカからやって来る船は、最初から朝鮮半島を無視していた。
 そして日本と満州、そして極東共和国の貿易は年々量が増して、朝鮮半島内での鉄道経費と時間短縮のメリットの関係が鉄道不利となって、1920年代半ばには朝鮮半島の価値が低下した。人の往来についても、1920年代中頃から主にアメリカで生産された旅客用の航空機が、日本と満州、極東共和国をより短い時間で結ぶようになり、郵便や貨物も軽いものは航空機を用いるようになる。1930年代には、プロペラを4つ備えた大型機が、朝鮮半島の上を頻繁に飛び越えるようになった。それでも日本海峡を渡る高速船と鉄道によるルートはコストで優れた面があるので相応に使われたが、年々通過する場所としての面が強まった。朝鮮半島自体に、経済的な魅力が低かったからだ。

 1910年代ぐらいまでは、日本政府は穀物の増産による日本への輸入を朝鮮半島に期待していた。だが、満州での急速な耕地開発と食料生産の増大が、日本政府が国内の人口爆発で恐れていた食糧確保の問題を吹き飛ばしてしまい、尚更朝鮮半島の価値は低下した。日本人の朝鮮半島への移民計画も、いつの間にか満州移民計画に変わっていた。その上極東移民まで加わり、朝鮮半島の価値が希薄化した。半島北部には炭田があったが、取りあえず南満州での露天掘りの方がはるかに重要だった。朝鮮半島にあるその他の鉱産資源についても、経済的には極端に重要ではなかった。アメリカ人が、どこからともなく安価に持ってくるようになっていたので、外交や国防を考えなければならない日本政府や中央官僚はともかく、資本家、商人はアメリカ人が運んできたものを喜んで買った。日本人がしたことは、朝鮮半島の地質調査をして借金のカタに利権を押さえるだけだった。
 しかも極東共和国が成立することで、朝鮮半島の政治、軍事上での戦略的価値が大きく低下した。朝鮮半島が、ロシアと国境を接しなくなったからだ。さらにその後の満州での国家成立によって、日本にとって朝鮮半島はもはや空白地帯に等しい戦略的価値になってしまう。「朝鮮半島など無くて海でも良いぐらいだ」と言い放った人物がいたほどだった。
 このため日本の国家財政から朝鮮半島への出費(投資または借款)も世界大戦の頃から大幅に低下し、日本政府は満州や日本北部の開発に、今まで朝鮮半島に向けていた予算を振り向けるようになる。しかも日本政府は、1925年に韓王国に国家としての一部の権利を返還したのだが、日本にとっての行政負担と経費節減のためであり、主にアメリカのリベラリストが賞賛したような事では全く無かった。
 結果、朝鮮半島は日本を中心とした極東地域の近代化と発展から大きく取り残され、韓王国の政治と行政(内政)を行う特権階級の無知と無理解から自主開発もほとんど行われないため、アメリカ人をして「アフリカ奥地並み」と言わせる状態が続く事になる。しかもアメリカは、日本人以上にコリア移民を拒絶し、満州への移住すら行わせないようにした。日本でも、朝鮮半島からの移民には厳しい資格審査を設けるようになり、不法移民は問答無用で強制送還した。
 1920年代半ばからは、朝鮮縦貫鉄道、釜山港の運営は完全に東鉄に任され、その東鉄は通過点として以上の価値を朝鮮半島からほとんど除外してしまう。東鉄が朝鮮民族を現地で雇用する場合も、日雇いの苦力(クーリー)がほとんどだった。
 一方、朝鮮人が鉄道や近代的な港を利用することは、金銭的な面もあってほとんど無く、移民や流民になるのも難しいため、主に日本人が作った近代的文物は、遠くから眺めるだけという状態が続くことになる。

・1930年代初期の日米本国

 世界大戦以後、日本を中心とした極東地域は政治的にも安定が進んで経済的に発展したのだが、上向きの状況はいつまでも続かなかった。
 アメリカ資本を中心とした活発な動きは、1929年秋に急制動がかかってしまう。ニューヨークのウォール街を発端とした「大恐慌」が始まったからだ。
 アメリカ経済との連動性が強まっていた日本にも大きな影響が及び、経済の混乱に伴う政治の混乱が見られるなどの悪い面がかなり見られた。
 しかし日本は、資金が豊富なアメリカからも投資を募る形で、1927年の金融危機の段階から大規模な内需拡大政策を推進して不況回避を行い、これに一定程度成功していた。震災復興や日本での産業発展に伴う工作機械、土木機械、さらには自動車などの受注を受けたアメリカも、多少は経済的に助けられることになる。震災復興から続く日本の好景気は、アメリカからの輸出を大きく拡大させた。また満州、極東共和国へのさらなる資本進出も、不景気となったアメリカには必要なため、フーヴァー政権は親日姿勢を維持した。
 この象徴として「FEA(極東アジア)はアメリカ経済の生命線」という言葉がアメリカ国内で叫ばれた。
 そして極東アジア市場を中華民国とロシア(ソ連)から守りそして維持したければ、アメリカにとって日本との協力が必要不可欠だった。何しろアメリカは、小数の駐在武官を除いて満州には軍人(軍隊)を置いていなかったからだ。
 日露戦争以後、アメリカは資本と資源、日本は高価値労働者と軍隊を出すという図式は、緊急事態に対して日本の有利に働いたと言えるだろう。このため日本の中枢では、「アメリカをいかに利用するか」が盛んに論じられた。

 そして大恐慌のまっただ中、1932年でのアメリカ大統領選挙では、フランクリン・ルーズベルトを候補に立てた民主党に対してヘンリー・フーヴァーは辛うじて勝利し、共和党が続けて政権を握ることになる。
 アメリカ市民が、現政権が推進した海外貿易政策と対日外交、極東進出が国内の不景気を緩和していると捉えた結果だとされた。共和党に対して民主党は、大規模な公共事業拡大、アメリカ単独での中華市場進出を経済再建の柱の一つとしたが、極東共和国を通じて入ってきた反共産主義的な考え方の浸透もあって、社会主義的な政策が国民からの支持を得られなかったのだ。
 しかし一部では、東鉄によるロビー活動が選挙結果に少なくない影響を及ぼしたとも言われている。しかもこのロビー活動では、目に見えないところで日本の資本も、日本人の意志によって投じられたと言われている。だが一方では、日本が共和党及び共和党関係者との関係を深めたため民主党との関係が悪化して、それが日本の政治にまで強く影響するようになったと言われる事もある。

 大恐慌以後の日本では、近代日本屈指の財政家の高橋是清による賢明な財政運営が続き、大恐慌の悪影響を最小限とする事に成功していた。また日露戦争以後のアメリカとの友好状態と、満州の発展は日本経済に良性の働きをもたらしていた。とある研究では、日米関係や満州での開発が少なかった場合と比べて、1930年代後半の日本の一年当たり総生産額は、3割から5割も違っているという論文を発表している。
 つまり、1940年に380億円(115億ドル・1ドル=3.3円)だった日本のGNPは、250億円(75億ドル)程度だった可能性もあると言うことだ。先進国経済の指標とされる粗鋼生産量も、1940年時点で最大最大力が1000万トン(※生産実績は800万トン台)を越えているものが、その6割から7割程度だった可能性もあるのだ。
 また、海洋国家の尺度となる日本が保有する船舶量も、日米の関係が良好であり続けた事が大きく影響していると言われる。特に、1920年代から30年代にかけて日本政府の精力的な活動で建造された優秀商船群の多くが、アメリカや極東地域との貿易を目的としていたのだから、良好な日米関係の効果は大きかったと見るべきだろう。友好関係を維持するため、日本政府は優秀な人材、アメリカの流儀に詳しい人材、宣伝活動に優れた人材を、アメリカ大使など要職に派遣している。1920年代半ばに関東大震災の時の支援の礼を述べるため、時の外務大臣がわざわざ渡米した事などがその象徴だった。
 また日本にとっては、極東共和国領となった北樺太の存在も無視出来なかった。いや、非常に重要となった。
 当時、日本近在でほとんど唯一のまともな油田が、北樺太の先端部に存在したからだ。油田の開発は、アメリカ、日本の合弁となって資本、技術、経験の多くの面でアメリカ(スタンダード・オイル系の企業)の比重が大きかったが、そこで採れる油を使うのはほとんど日本だった。そして北樺太では気候的に精油所を置くことが難しいので、当然精油所は日本の沿岸部に建設され多くの経験と技術を得ることが出来た。製油業に関連した製鉄技術の向上、製鉄事業そのものの拡大も、当時の小規模な日本経済にとっては非常に大きな影響があった。
 こうした経済の点から、日露戦争以後30年以上続いた友好的な日米関係での経済効果を肯定的に指摘する経済学者は非常に多い。
 アメリカでも日本との経済的連携、満州、極東共和国への投資は高い評価を受けていた。実際問題、数パーセントだがアメリカ経済に良性の効果をもたらしていると計算された。

・中華情勢

 中華民国を中心とした国際情勢に対して、日本はアメリカ、イギリスなどと歩調を合わせる事を心がけた。特に、中華民国が満州の権益回収を計ろうとすると日米が共同歩調で反発して、1920年代は一貫して自分たちが後押しする張作霖(軍閥)を支持した。
 ほとんど経済植民地としていた満州で、日米は袁世凱の勢力を引き継いだ形の張作霖の軍閥の軍事指導を行い、彼が自分たちにとって利用できると分かると武器や資金の援助を実施した。さらに張作霖は、アメリカの強い勧めで「中華自由党」を作り、蒋介石率いる国民党に対向できる組織作りに邁進した。張作霖は、長年満州を根城にして日本やアメリカの動きを見てきたため、自分が権力を握る上で何が必要なのかを学ぶようになった上での行動だった。
 そして張作霖の求めもあって、日米は軍事顧問も多数派遣し、彼の軍閥(軍隊)を強化、教育した。さらに日本は、張作霖派の人材の留学を多数受け入れ、政府設立の核となる官僚、経済人の育成にも力を割いた。この時点で日本は、満州を中華中央から切り離す計画を進めていたと考えて間違いないだろう。しかも、1920年代半ばには、満州地域の官僚の多くが張作霖の息がかかった者になっていたほどだ。
 アメリカも日本と同様のことを考えてはいたが、表向きは張作霖の勢力圏の民衆に対する啓蒙活動に力を入れ、中華自由党は満州南部を中心に民衆にも勢力を拡大した。当然だが、大量の資金援助も実施されている。そしてドルの力は偉大だった。
 ドルの前では民衆は正直であり、日本軍(関東軍)が安全を、東鉄が生活を提供する満州には、続々と流民(移民)が流れ込み、その安価な労働力を使い満州経済はさらに発展した。満州の発展には極東共和国の存在も欠かせず、単に経済的な繋がりだけでなく、極東共和国がソ連共産党勢力を守る形になっているため地域の安定性も高まった。
 中華中央部から満州に流れてきた人々は、満州を「天国」だと表現した。

 そして日米は、両国にとっての大きな利権である満州保持のため、一致団結して事に当たることが多かった。当然と言うべきか、1924年の「国共合作」で共産党と結んだ国民党を日米は強く敵視した。当時の世相として、共産主義者と手を結ぶなどあってはならない事だからだ。アメリカなどは、張作霖を「自由主義的な指導」、「チャイナの希望」と宣伝して、政党作りすら行わせているのがその例だろう。そして蒋介石の対抗者としての張作霖に期待し、彼が満州から中華中央に打って出る事も肯定した。
 しかし、1927年4月に蒋介石が共産党排除のために起こした「上海クーデター」は、一つの転機となった。蒋介石率いる国民党が、共産党と縁を切って中華統一に大きく動いたからだ。
 ここで活躍したのが、極東アジア地域最大のシンクタンクにして情報収集・分析組織となっていた「東鉄調査部」だった。いわゆる民間企業のスパイ組織でもある東鉄調査部は、設立当初から自らの勢力拡大と安定のため、満州を中心とした情報収集組織として広く活躍した。組織には日本、アメリカの公的組織の支援もあるため、能力だけでなく実行力も高かった。その分日米の政治的影響も受けやすかったが、利益が合致していれば非常に効果的だった。
 しかも情報は、日本、アメリカの政府、財界、軍部にも定期的に流され、担当官による要人へのレクチャーも行われていたため、特にアメリカ本国が極東アジア情勢を理解することに役立った。そしてアメリカ本国も、自分たちの利益に繋がることなので、熱心に言葉を聞いて理解に務めた。中には、わざわざ満州、日本に出向く者も出たほどだった。
 そうして東鉄調査部から上がってきた調査報告書は、蒋介石はイタリアのムッソリーニ同様のファシスト(全体主義者)だと結論していた(※当時ナチス政権はない。)。組織作りも共産党からノウハウを得たと言っても、組織自体が自身を中心にした政党(=結社)、軍隊、秘密警察(的な組織)を核とした集団で、基本的には蒋介石の独裁でそこに民意はほとんど無かった。しかも蒋介石は国粋主義的で、満州を牛耳り華北への進出を図っていた東鉄を擁する日本、アメリカと対立することが明白と考えられた。一時的な協力や妥協はあり得るが、共産党殲滅以外での長期的連携は極めて難しいと報告書は結ばれていた。
 蒋介石が共産党と手を切って弾圧したことは評価できるが、自分たちには蒋介石よりも制御しやすいと考えられていた張作霖と彼を中心とした組織があった。しかも日米にとって都合が良い事に、この頃の張作霖は中華全土の権力を目指すが故に以前よりも制御が効きやすく、息子の張学良は統治者、現実政治家としてどうしようもない愚か者だと既に分かっていた。

 上海クーデター当初は、蒋介石と張作霖の合流を図ろうという一派が主にアメリカにいたが、それもすぐに立ち消えとなった。アメリカが満州を中心とした利権を守るには、蒋介石は危険が大きすぎた。一方蒋介石側は、上海の宋財閥を通じて欧米の国家、企業との関係強化を求めていた。これに香港、上海に強い足場を持つイギリスが主に応えていた。アメリカも強い誘いを受け、蒋介石夫人の宋財閥の宋美麗はアメリカでのロビー活動を実施したが、アメリカの答えは「否」だった。やはり、短期的にはともかく長期的に考えると、蒋介石は満州の利権を強引に取り戻そうとする考えられたからだ。
 一方で蒋介石は、日本を侵略者の先鋒と宣伝して欧米からの孤立化を図ろうとした。だが、満州の番犬が日本であることを十分以上に理解しているアメリカは、むしろ蒋介石と国民党に対する世界規模でのネガティブキャンペーンを展開した。ここでは、アメリカ本国のユダヤ系報道組織、情報組織が縦横に活躍した。
 アメリカの報道各社は、蒋介石は中華民国の独裁を企むアジアの独裁者の筆頭であり、アジアでの民主主義の希望は、アジアでいち早く近代化を成し遂げた日本と、満州で新たな民主主義を育む張作霖だと大きく持ち上げた。
 張作霖の実際は、国粋主義者の面以外で蒋介石と似たり寄ったりだったが、そんな真実はアメリカにとって些細な問題だった。アメリカの利権を守る姿勢を見せるだけ、張作霖の方が正義だったのだ。

 業を煮やした蒋介石は、力での中華統一を目指して1927年秋に第二次北伐を開始する。
 共産主義的な厳しい訓練を受けた蒋介石率いる国民党軍と、主に日本の軍事顧問が徹底して訓練を行ってきた張作霖率いる自由党軍が華中で激突。激しい戦いが行われるも、多くの地方軍閥を自陣営に引き込んだ国民党軍が勝利する。
 しかし戦いは短期間では終わらず、張作霖軍は蒋介石の意に反して意外にねばり強く戦い、徐々に戦線を北に移動しつつ戦いが続いた。このねばり強さは、日本軍事顧問の教育と指導の結果だった。
 戦闘の結果、双方ともに消耗したが、最終的に各地の軍閥の多くを味方に付けた国民党軍が北京を占領。これで勝負が付いたかに見えたが、ここで張作霖が行動を起こした。しかも国民党軍は、北京を占領した時点で力を使い果たしており、リアクション能力を無くしていた。国民党は、戦争途中から張作霖に乗せられていたのだ。

 張作霖軍の別働隊が、天津で事実上軟禁されていた清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ出し、そのまま満州に連れて移動。旧都でもある奉天で「満州帝国」の独立を宣言した。
 この事態に対して、張作霖の後ろに付いていた日本とアメリカは大きく混乱した。しかし何をすれば自分たちの利益になるかという判断が、この時日米双方に同じ選択を行わせる。
 要するに、東鉄を中心とした満州での自分たちの利権を最大限守るには、張作霖の暴走といえる無謀な行動を支持する事だ。追いつめられた張作霖も当然日米の支援、後援をアテにしているだろうという読みもあり、日米は協議の末に満州帝国の独立を条件付きでの支持を発表する。日米が出した主な条件は、議会、民主憲法を設けた立憲君主国とする事だった。
 しかし日米政府の動揺は、巧妙に隠された真実を覆い隠すための表向きの顔でしかないとする説がいまだに強い。
 戦闘に負けた張作霖だけで、即座に満州に国家を作り上げることなど出来るはずもなく、また資金、武器、その他必要な全てのものを用立てることが出来るのは、日本とアメリカしかなかった。しかも日米は、日露戦争の頃から張作霖に大きく肩入れしており、張作霖が権力を掌握した時のために中華民国としての政府建設の手助けも行っていた。また日米は、張作霖を除外して自分たちの都合の良い満州地域の分離(+名目上の独立)も考えて古くから行動しているとも言われていたし、一部において事実だった。

 張作霖の満州帝国に対しては、欧州各国も揺れた。
 中華民国は、内戦に対する日本の干渉だと直ちに国際連盟に提訴。国際社会に対しても、中華民国は裏で日本が暗躍した傀儡国家だと口汚く罵った。ここでアメリカの名を出さなかったのは蒋介石の強かさだったが、この手にアメリカは乗らず、満州帝国が満州族などチャイナ北方民族による自決国家であるなら認めるべきだという論調を張った。その上で、改めて蒋介石は漢族という単一民族を中心とした国家建設を目指す偏狭的なナショナリストで、彼の率いる組織は全体主義的だとして批判を展開した。
 国際的な宣伝合戦で日本はあまり活発ではなく、自らも国際連盟に属しているので、独立を認める方向での小規模なロビー活動を国際連盟内で実施したぐらいだった。しかし国内での軍の準備は進め、満州帝国の求めがあれば派兵の用意がある事を内外に示した。そして日本国民は、「自分たちの権益」である満州の独立に最初は否定的だったが、日本の権益、在留日本人の保護、保障が満州帝国から発表され、日本側も確認すると賛成へと一気に傾いた。
 アメリカ世論は日本ほど単純では無かったが、アメリカも満州は自分たちの権益だと考えていたし、アメリカ政府が立憲君主制を取るなら満州を認めると表明していたので、その線が守られるのならと肯定的だった。というより、満州など極東アジアに権益を持つ人々以外にとって、アメリカからアジア極東は遠すぎて理解できなかった。
 そして国連は調査団を満州に派遣したが、清朝最後の皇帝溥儀が名目君主となり、張作霖が初代首相となって彼の下に彼の部下と元清朝の重臣が中枢を握る形を作り、張作霖の軍閥そのものが当面の国軍となるという姿勢を前に、大きく異を唱える事もしなかった。満州域内には東鉄の利権が深く根を張っていたし、日本領と日本利権の警備目的で日本軍も駐留していたが、満州帝国政府が認めると言っている以上、調査団を派遣したヨーロッパ各国としては満州の事など半ばどうでもよい事だった。

 結局、満州帝国は1928年6月に日本、アメリカ、隣国となる極東共和国などが承認。アメリカの影響が強い中南米の国々も、幾つか承認に動いた。ヨーロッパ各国は、ほとんどが今後の満州内での動きを見定めるとして保留。猛反発すると見られたソ連は、意外にも沈黙を守った。中華民国というより蒋介石と国民党は猛烈に反対したが、国連への提訴は保留とされた。ただし国連常任理事国では、当初は日本だけが承認した形になったため、情勢の安定化にはほど遠かった。

 満州での一連の事件は、ヨーロッパ世界では世界大戦以前の帝国主義的な行動と見られた。現地の有力者が日本とアメリカという二カ国の後援という以上の支援を受けているのので、実質的には日本とアメリカが安定した経済植民地の確保に動いた行動でしかないと考えられたからだ。
 そして欧州各国としては、基本的には世界大戦以前の自分たちのルールに従い、既に満州が日本とアメリカの取り分だと認めていたので、特に文句も言わない代わり応援もしなかっただけに過ぎなかった。それに、そもそも世界大戦後に植民地帝国主義に意義を唱えて反対の路線を取ったのは、アメリカであり当時のアメリカ大統領のウィルソンだった。だがそのアメリカが、すぐ後にも極東共和国を作り、また今回も満州で動いたのだから、アメリカ自身が今までのヨーロッパ列強が作ったルールを肯定しているに等しかった。一連の騒動で東鉄の株価が一時の暴落の後に暴騰した事一つだけでも、十分に帝国主義的だった。
 当然だが弱い国、弱い勢力に文句を言う資格はなく、ヨーロッパが極端に迷惑を被らない限り、日本とアメリカは好き勝手にしても問題ないと考えられた。場所がヨーロッパでないなら、尚更ヨーロッパにとって関係の薄い事だった。

 かくして中華地域での騒動は半ば有耶無耶のまま一段落し、満州はよりいっそう日本とアメリカのテリトリー、いやコロニーとして確保されることになる。当事者の張作霖は、自らの権勢を取りあえず保持するための窮乏の策を取ったのだが、結果としては日米の勢力拡大を大いに助けただけだった。張作霖としては、いずれ巻き返しを図って中華全土の支配をもぎ取るつもりだったかもしれないが、当面は無理だった。蒋介石は日米がバックにいるので満州に踏み込まないだけで、日米は中華中央で他国の利権と正面からぶつかり合う気は皆無だったからだ。万里の長城より南は、世界中の列強の利権だというのが列強間の半ば公然のルールだからだ。
 その後蒋介石は、どうにもできない満州のことは取りあえず脇に置いて、国内のもう一つのガンである共産党殲滅に力を注いだ。ここでは、国民党が雇い入れた形のドイツ軍事顧問団が活躍する。さらに、ソビエト連邦というより強大な共産党に脅威を感じている日本とアメリカも、満州や張作霖のことを脇に置いて蒋介石を支援した。ここでは武器売買でドイツと日米が商売上で衝突したが、当面は商売以上のことではないので、大きな問題にはならなかった。まさに呉越同舟で共産党を叩いたわけだが、当時の共産党は呉越同舟で叩かなければならないほど危険な存在と認識されていた証拠だった。
 ロシアの大地がどうなったのかを見れば、小さな芽でも残してはいけないものだとすら認識されていた。

 1934年の共産党殲滅後、国民党は軍事的に国内での一定程度の安定を見たため、兵器の輸入や軍事顧問の受け入れを大幅に削減する。そうして得た余力を、国内経済の建て直しに向けるようになる。主な目的は、満州を奪回するための基礎的な国力増強のためだった。しかし事が経済のため、今までのように経済、特に資本面でに弱体なドイツに頼るわけにも行かなかった。かといって最も資本を持っているアメリカは、満州の後援国であり全面的に頼るのも難しかった。このためイギリス、フランスを頼ろうとするが、国際経済の関係から英仏がアメリカを組み込もうとする。そして日本が孤立化した場合、中華民国が攻撃対象とするという予測が簡単に成立するため、アメリカは日本を誘い、日本も中華情勢での孤立化を避けるため中華民国への経済援助に積極姿勢を示した。
 かくして満州問題棚上げで、取りあえず中華民国の経済再建を英米仏日など多くの列強が加わって行うという奇妙な構図が出来上がる。この結果、中華民国内での経済の安定と、公平な税制の実施が実現され、沿岸部を中心に民心の安定も進むようになる。比例して、中華域内での共産党勢力がさらに減少した。
 この事を満州の名目上の支配者である張作霖は快く思わなかったが、結果として日米の動きが中華民国の動きを抑えたし、中華中央の安定は満州経済にも少なくない恩恵があった。
 ソ連についても、満州と中華が静かな睨み合いが続いているので、日本、アメリカの目も自然に自分たちから離れるため、一定の利益があると考えていた。
 ただしソ連は、中華民国内で共産党が殲滅されると、今度は蒋介石に接近するようになる。そして蒋介石に無償での武器援助を申し入れ、満州奪回をそそのかした。ソ連としては極東の日本、アメリカの脅威を少しでも減らす為の外交だったが、蒋介石としても日米と良好な関係を続けても満州が中華世界に戻ってくるとは考えていなかった。このため経済を再建しつつ、ソ連の軍事援助も受け入れて力を蓄え、来るべき日に備えることとした。
 結果として最も割を食ったのは、中華市場での兵器ビジネスが遠のいたドイツだった。しかもドイツは、大恐慌以後アメリカ資本が一斉に国内から引き揚げて大きな不景気に襲われており、アメリカに対するマイナス感情をさらに大きくする事になる。そうした中で登場したのが、アドルフ・ヒトラーと彼が率いるナチスだった。
 そして世界は、徐々に混乱に向けて進みつつあった。



●フェイズ05「次なる大戦の足音」