●フェイズ05「次なる大戦の足音」

 1936年秋のアメリカ大統領選挙では、二大政党の立候補者が決まるまでに波乱があった。
 政権政党だった共和党は、現職のヘンリー・フーバーが「三選を目指す立候補は慣例上良くない。当選したら、もっと良くない」とコメントを残して立候補せず、後援者にこそなるもアルフレッド・ランドンが立候補した。
 対する民主党は、今度こそと選挙運動に力を入れていたフランクリン・ルーズベルトが、当初は支持を伸ばした。時期的にも民主党が政権を執るのが「慣例」なのも、ルーズベルト支持を後押しした。だが彼は、無理な選挙運動が祟って遊説先で倒れてしまう。小児麻痺を遠因とした脳の血流が止まる病(=脳梗塞)で、一命は取り留めるも大統領選挙を続ける事が不可能となった。しかも民主党は、大きな支持を受けていたルーズベルト1択で選挙運動を行っていた中での出来事のため、大統領候補の再選出に手間取り、結局副大統領候補の一人で変節者だったウェンデル・ウィルキーが立候補する。
 そしてこの段階で、一種奇妙な選挙戦となる。
 共和党のランドンは、先の選挙と今回の選挙前哨戦でルーズベルトが掲げた大規模公共投資を自らの公約の一つに掲げ、民主党のウィルキーは大規模公共投資に反対したのだ。またウィルキーは、海軍軍縮に反対で不安定な時代に対応できるだけの軍備拡張を唱えた。要するに、景気回復と失業者対策を軍備拡張でカバーするという、ドイツのヒトラーと同じ道を示したと言える。一方のランドンも、軍備に関しては世界情勢に応じてある程度増強するべきだと考えていた。つまり、当時のアメリカ市民が忌避していた軍備、軍事は選挙の争点とは言えず、国民も最も求めていた景気対策が選挙の争点となった。

 ここで選挙の争点として、極東問題が出てくる。
 アジアの極東地域は、20世紀に入ってからのアメリカにとって西部開拓に続く「ネクスト・フロンティア」だった。
 満鉄、東鉄、極東共和国、満州帝国と次々に利権を確保し、資本を投下し、移民を送り込み、大きな利益を享受していた。日本市場すら、自らの市場の一部と捉えていた。アメリカ本意の見方に日本は大きく異を唱えるだろうが、アメリカにとっての日本とは、1905年以後は番犬やガードマン、せいぜい警察官と労働者でしかなかった。しかも大抵の場合は、「餌」つまり利益を与えれば取りあえずは黙ることが多いので、アメリカ中枢の東部からは「日本=番犬」の見方が強かった。ハリマン一族やハリマンと関係の深いブッシュ一族など現地に進出したアメリカ人、一部本国の知日家、親日家は、かなりが違う見方や価値観を持ったが、当時の世界の距離感から考えるとアメリカ本国から見た極東とは「自分たち」の植民地であり、有色人種国家の日本はせいぜい管理人や番犬でしかなかった。
 少し脱線したが、選挙の争点として満州への大規模な投資と開発を景気浮揚のカンフル剤とする考え方を、極東政策を伝統的に重視する共和党が打ち出していた。しかも本国と連動する形なので、大規模公共投資という形を選んでいた。加えて満州への投資は、ロシア人、チャイナ人から自分たちの権益を守る事にも繋がるとして、極東共和国問題以後アメリカ国内で増えた反共産主義的な考え方を持つ人々からの支持を得た。
 しかもアメリカの一部新聞が、民主党支持者ばかりか中枢の一部に共産主義者やシンパが入り込んでいることをすっぱ抜き、共産主義に否定的なアメリカ市民、中立的なアメリカ市民の票を共和党に向けさせた。ネクスト・フロンティアを脅かす共産主義は、アメリカ国内でも「敵」だった。
 かくして選挙の結果、かなりの接戦だが再び共和党が政権を担うこととなった。大統領となったアルフレッド・ランドンは、病床の身にあるルーズベルトに敬意を表して自らの政策を「ニューディール(新規巻き返し)」と名付け、大規模公共投資を実施する。そしてフーヴァー政権が回復しきれなかった景気を、一転して社会主義的政策を取り入れる事で立て直そうとした。
 一方では、満州帝国、極東共和国に対する莫大な資本投下が、ドル借款や国債購入という形で大規模に実施され、数十億ドルもの資金が極東の大地に投じられることにもなる。これは共産主義に否定的傾向が強く、帝国主義的行動に肯定的な市民が多い事への、分かりやすい政策でもあった。
 だがアジアへの投資は、満州などで甘い蜜を吸っていた日本がマネできるような規模ではなく、日本としては取りあえず「バスに乗り遅れるな」のかけ声で、アメリカの政策に追従するのが精一杯だった。

 アメリカの大統領選挙では、大統領こそ代わったが政権与党は共和党のままだった。このため基本政策に大きな変更はなかった。
 国内政策では大規模公共投資が実施され、共和党本来の「小さな政府」と経済の自由放任主義からは離れたが、外交面では全方位的な善隣外交が続いた。しかし共産主義を掲げるソビエト連邦ロシアは例外であり、ソ連が求める工業製品の輸出こそ景気対策も兼ねて実施するが、親密な外交にはほど遠かった。また共産主義と並んで危険度が増してきたと見られた全体主義国家に対しても、あまり好意的とはならなかった。
 全体主義国家といえば、一番手のイタリアはエチオピアへの侵略で国際評価が大きく落ちていた。ドイツは、ナチス政権下で奇跡的と言われる程の勢いで国内経済を立て直すも、軍備を拡張して領土回復、利権回復を実施して、さらには膨張主義の傾向を強めていた。しかも内戦状態のスペイン情勢に干渉し、全体主義者のフランコ将軍を支援するなど、国際的には問題ばかり起こしていた。このためアメリカとしては、ドイツに対して無条件に好意的ではいられなかった。またドイツも、大恐慌でドイツを見放したアメリカに対するマイナス感情が一定程度強いままだった。

 一方極東情勢は、相変わらずドルの奔流に左右されていた。
 アメリカ政府の方針により、満州帝国、極東共和国への莫大な投資(無償を含む低利借款、国債購入など)が実施され、大量の工作機械、工事車両、さらには工場のラインまでがアメリカに発注され、極めて大規模な開発が行われた。アメリカから運ぶのが面倒な加工品の多くは、近在で唯一の工業国の日本に発注された。また日本も、経済面での対米追従と言える方針に従って、満州、極東への投資を増やし、多くの移民も大陸へと渡った。
 また当時の日本は、1930年代始めから大規模な財政投資による傾斜生産で、景気の回復から大幅な拡大に流れていた。この日本での景気拡大は、フーバー政権の外交と経済政策の援護射撃となり、日本からの発注が規模は小さいながらもアメリカ経済を助けた。そしてランドン政権となった1937年に入ってからのアメリカの極東への巨大な投資は、今度は日本の景気を後押しした。しかも日本では、かなり急激にモータリゼーションも始まったため、一般の自動車用道路、高速道路建設のための工事機材、モータリゼーションそのものを支える自動車、給油所などのインフラ建設など、国内ではまだまだ不足する工業製品が多数アメリカから輸入された。民間用精油所も、最新の技術を導入して新たに建設されたりもした。だが当面は、日本だけではガソリンが足りないほどだった。
 アメリカから日本への屑鉄の輸入は1930年代半ばには無くなったが、今度は石油及び石油精製物の輸入が激増していた。
 日本は、近在の極東共和国の北サハリン油田(オハ油田)から優先的に石油の輸入を受けていたし、満州帝国で稼働を始めたばかりの北満州油田からの輸入も行っていたが、それだけでは全然足りないためアメリカからの輸入が伸びていた。モータリゼーションが始まっていた1938年の日本の石油輸入量は、年間700万キロリットルを越えていた。海軍と海運が重油を中心に消費していた少し前とは違い、半分以上が民需用だった。そしてアメリカも、国内経済のため徐々に日本市場を重視するようになっており、日本に対する否定的な意見は年々減っていた。
 日本の一部には、アメリカに依存しすぎているという声もあったが、日露戦争以後日米関係が悪化した事がないし、関係を揺るがす要因も少ないとして大きく問題視されることは無かった。
 そして、今までの外交的な積み重ねと満州での共同利権があるため、日米関係が悪化すると言うこともなかった。どちらかが満州を独り占めにでもしない限り、両国共に相手との協力関係を続けるしかなかったからだ。そして四半世紀も関係が続いてしまうと、日米双方ともに余程の事がない限り今の関係を崩す事も難しかった。
 この象徴的な事件として、日本国内では一部の急進的な陸軍少壮将校達が、軍事クーデターを画策したという罪状で未遂であるにも関わらず重い処罰を受けている。国民の多くも、暴力的、急進的な軍人には厳しい視線を向けた。これらの結果、日本軍全体の組織、制度の見直しと改革が行われ、幼年学校の廃止に象徴されるように古すぎる制度の見直しと改革が実施されることとなった。ただし、陸軍と海軍の大本営以外での合同総司令部の設置や将校養成学校(士官学校、兵学校)の統一などは、陸海軍双方の猛烈という以上の反対にあって研究段階以上に進むのは、この時点では難しかった。

 良好な日米関係と、日米による極東開発そして発展を快く思わない近隣諸国は少なくなかった。筆頭がソビエト連邦ロシアで、少し事情が複雑なのが中華民国だった。
 中華地域の共産主義勢力は、ドイツ軍事顧問団の活躍などもあり1934年内にほぼ壊滅した。中心人物だった、周恩来、蒋介石、朱徳、林彪といった名前が登場することも無くなった。だが、国内統一に成功した蒋介石率いる体制は、国家主義的とは言い切れないながらも完全に全体主義体制だった。蒋介石という独裁者を中心に、党、軍、秘密警察が組織の中核だったからだ。
 それでも欧米列強の指導のもとで経済再建を実施したのだが、中華民国というより蒋介石にとって「勝手に独立を宣言した」満州帝国は、自らの手で奪回しなければならない場所だった。「中国の皇帝」として、中華地域の勢力圏統一は必須事項だったからだ。中華民国自身も、いまだ満州帝国の独立は認めていなかった。しかし満州帝国の後ろには日本とアメリカがおり、両国共に中華民国の経済再建に大きな力を発揮していた。また極東地域の経済発展の恩恵に中華民国もあずかっており、安易に「奪回」に乗り出すわけにもいかなかった。
 軍事的行動は不可能ではないと蒋介石は考えていたが、行った場合の経済失速は確実で、日本と何よりアメリカから強い恨みを買うことは安易に覚悟出来なかった。
 そうした足元を見るようにドイツが兵器輸出、軍事顧問の派遣で接近しており、せっかく回復し欠けた国家財政のかなりを軍備に投じる愚も侵していた。蒋介石としては、機会を捉えていつでも動ける体制を整えようとしたと言えるだろうが、国家としては愚かさの方が際だっていた。
 一方の満州帝国は、日米、主にアメリカの怒濤のような資本投下と開発によって、開発に拍車がかかると同時に急速に国力を拡大していた。噂を聞きつけた中華系流民により、安価な労働力もいくらでも供給できた。質の高い労働者についても、日本、アメリカから一定数供給できた。日本からの移民もさらに増えた。そして拡大する国力と日本、アメリカの支援によって、軍備の建設も急速だった。国内には、建国翌年には日本から多数の教官を呼んだ日本式の士官学校が作られ、「軍閥」や「馬賊」を「軍隊」にする努力が行われた。この事もあり、蒋介石も安易に満州に手を出すわけにもいかなかったのだ。

 一方ソ連だが、ソ連にとっての極東情勢は彼らの建国以来誤算続きだった。もともと極東共和国は、自分たちが制御できる緩衝国家(ヴァッファー・ゾーン)の筈だった。
 しかしアメリカの強い影響力行使によって、建国早々に自らの制御がきかなくなり、数年を経ずして緩衝国家どころか圧力を与えてくる場所に逆転した。しかも、ソ連が一定の国力を有するようになる第一次五カ年計画が終わる1932年頃までは、極東情勢での圧倒的といえる劣勢が続いたため、極東共和国は完全に民主共和制の国となり、アメリカ(+日本)の衛星国となっていた。
 また境界線となっているのは、北はスタノボイ山脈という大きな極寒の山脈で、軍事的対立を持ち込むのは人の限界を超えていた。対立を持ち込めるのはシベリア鉄道でつながる、アムール川北岸の数十キロメートルの場所だけだった。とはいえここも、鉄道敷設の際の難工事が示すように山がつらなる過酷な自然環境で、まともに軍隊を並べられるような場所ではなかった。しかも極東共和国側は、ソ連が軍事力をつけるまでに境界線から縦深を持つ山岳要塞地帯を日米の援助で作り上げており、後援国の支援を考えればまともな軍事作戦は物理的に不可能だった。そして極東共和国は、もし自分たちがソ連に併合されたらどうなるかを深く理解しているため、ソ連に対して強く国を閉ざして国防にも力を入れていた。
 また一方で、ソ連にとってのアメリカは貴重な工作機械など重工業製品の輸入相手であり、そのアメリカが影響力を持つ国への過度の緩衝も賢明では無かった。

 日米関係を中心に比較的安定した極東情勢とは違い、ヨーロッパでは再び暗雲が近寄りつつあった。
 1933年、ドイツでナチス(=国家社会主義労働者党)を率いたアドルフ・ヒトラーが政権を握り、ヨーロッパ世界が混乱に陥っていく。しかし日本、アメリカは、基本的にファッショ(全体主義)化したドイツとは積極的に関わらなかった。唯一、ドイツが行う中華民国への武器輸出と軍事顧問派遣、そして政府としての接近を問題視していたが、それも杞憂に終わった。
 1935年に中華民国内で、諸外国の援助によって通貨の安定を見ると、中華民国国内はいっそうの安定を見せるようになる。経済的にも、ドイツではなく米英そして日本との関係が深まった。国粋主義的な蒋介石も、当面は国力回復に力を入れて、対外排斥に動く愚を侵さなかった。そして長く続いた混乱で深く傷ついた中華民国経済を立て直すには、一年や二年ではどうにもならなかった。東鉄のシンクタンクは、1935年の時点で最低でも10年、最大で半世紀が必要と算定していた。それに、地方軍閥はまだまだ国民党の統制がきかず、一部は軍事的な対立状態が続いた。この元凶の一つが満州帝国が存在しているからで、蒋介石、張作霖共にいずれ雌雄を決しなければいけないと心に秘めていたと言われる。
 それでも一定の安定を見たのだが、安定して困るのがソ連だった。満州の軍事力、特に満州に駐留する日本の軍事力が自分たちに向く事は、大きな脅威と考えられたからだ。万が一日本と戦争になれば、バイカル湖以東の東シベリア全域の放棄までが想定されていた。極東共和国という極東の中心地域を完全に失ったソ連には、ソ連極東地域、ユーラシア大陸北東部を守る事が物理的に不可能だからだ。
 一方で日本などは、二度目の五カ年計画の成功で大きく脅威を増したソ連に対する恐怖感を募らて軍備増強に転じているし、さらにアメリカのフィリピン駐留兵力の増強すら依頼している。アメリカも、ソ連の経済的、軍事的成功は、自分たちの不利益と考えていた。

 一方、ソ連の脅威を感じているドイツは、ソ連の後背に位置する極東地域に一定程度注目していた。
 ソ連に対して、東西からの戦略的な包囲を画策したからだ。
 しかし中華民国は、まずは軍備増強よりも国内経済回復のため米英さらには日本との関係を強化していた。当然ドイツとの関係を深める必要性も低下し、ドイツが画策していた軍需中心の「独華合作」は中華民国の謝絶という形で中止され、一部で議論されていた「独華防共協定」が結ばれる事もなかった。
 ドイツの一部組織は、対ロシア(ソ連)政策として一時期日本にも接近するが、基本的に日本の内閣や外務関係者は、高圧的で軽薄な外交を行う全体主義政権のナチス政権を危険視して相手にしなかった。それに日本が対ソ連、共産主義政策を取るにしても、主な貿易相手であるアメリカ、イギリス以外と手を結ぶ選択肢はあり得なかった。そして1936年頃の時点で、ドイツは既にイギリスとの関係を悪化させていた。

 一方世界が不穏な空気になる中、平和を求める努力が全くなされなくなったわけではなかった。
 1935年12月に、1927年のジュネーブ以来の海軍軍縮会議が、今度は東京で開催された。日本にイギリス、アメリカ、フランス、イタリアの重要閣僚が揃うのは初めてのことで、日本としては大きく面目を施す場となった。
 しかし、イギリスは既にドイツとの間に「英独海軍協定」を結んでおり、量的規制に関しては慎重な姿勢を示していた。しかもイギリスは、ヨーロッパの不安定化とドイツに対向するため、大規模な海軍増強を画策していた。フランス、イタリアも相応に海軍増強を実行もしくは画策しており、周辺環境が比較的安定していたアメリカ、日本との間に溝を作った。
 だが、不安定な時期だからこそ軍縮会議には意味があると考えられ、アメリカ、イギリス、そしてホスト国の日本が中心となって、主に艦艇の大きさや武装に関する規定が決められた。

 会議は休止期間を挟んで一年以上に及び、「東京海軍軍縮条約」の締結は1937年3月となった。
 制限基準は、今回も最も規制対象とされた戦艦が基準排水量3万5000トン、主砲口径14インチ以下。次第に主力兵器と認識されつつある空母(航空母艦)は、基準排水量2万5000トンが上限。空母については当初2万3000トンの案が有力だったが、久しぶりに少しだけ強い態度に出た日本の案が通った形だった(※日本側の主張は、主力艦扱いするなら相応の排水量(当初は3万トンを主張)を上限とするべきだという論旨だったが、計画中の空母の設計案を通したかった為だった)。
 また有事に対する備えとして、実質的に制限解除といえるエスカレーター条項が議論された。しかしここで日米英各国の意見が食い違い、自主目標4万5000トン、主砲口径16インチ以下とするが、基本的に各国の判断に委ねるという形でフリー(=無制限)で決着した。
 そして条約自体は、有事に備える事を理由として量的規制は設けられず、期限についても約5年間の1942年12月31までとされた。
 他の点では、既存の艦艇についての改装制限、排水量制限が撤廃され、唯一戦艦の主砲の換装による口径拡大が認められないだけとなった。このため各国は、新規艦艇の建造と平行して大規模な近代改装を実施する。
 また会議に参加しなかったフランス、イタリア、さらにはドイツも条約に批准することを自ら宣言したので、一定の効果はあったと言われる事もある。
 そして同条約は一応第二次世界大戦勃発まで守られたが、ヨーロッパ情勢の逼迫化を受けて1938年6月末日をもってエスカレーター条項が採用されているので、実質的な軍縮条約として実質的に機能したのは僅か1年強でしかなかった。
 しかし軍縮条約締結当初はそれなりの機能を果たし、1937年から各国は条約に従って新たな艦艇建造計画を策定した。戦艦が建造可能な列強各国は、こぞって基準排水量3万5000トンの条約型戦艦を建造した。

 なお日本海軍は、新たな海軍拡張競争の始まる1937年1月1日当時、建造中を含めて戦艦9隻、大型空母2隻、中型空母2隻、軽空母2隻、重巡洋艦8隻、大型軽巡洋艦6隻、新型軽巡洋艦6隻、旧式軽巡洋艦17隻、艦隊型駆逐艦約80隻を保有していた。空母保有枠、軽巡洋艦保有枠をようやく全て埋めようとしているところで、これですら1930年代の世界情勢の悪化がなければ実現できないものだった。
 また前の大戦で大量に建造した排水量1000トン程度の旧式駆逐艦(低性能の護衛駆逐艦)が、60隻近くも日本各地の軍港で武装を降ろした「めざし状態」で軍港や泊地の端っこで保管されていた。
 そして新たな海軍拡張時代に際しては、日本の1937年度海軍拡張計画は「第三次補充計画」と呼称され、3年間で条約型戦艦2隻、条約型空母2隻の建造でまとまる。
 条約型戦艦は後の巡洋戦艦《高雄》《愛宕》で、空母が航空母艦《翔鶴》《瑞鶴》だった。巡洋戦艦にカテゴライズされた新型戦艦は、名目上は基準排水量3万5000トン、最高速度30ノット、主砲は50口径14インチ砲3連装4基12門とされていた。カテゴリーが巡洋戦艦なのは、速力を増して装甲をやや薄くしているためだと日本海軍は説明した。しかし実際は、排水量は2000トンほどオーバーしており、最高速度も31ノットだった。装甲も公表値よりも少し分厚かった。しかも建造中に無条約化したため変更を行い、出力強化を実施した上で45口径41センチ砲連装砲に変更して就役している。もちろんだが、米英など各国にも計画変更が通達され、変更のため就役が三ヶ月遅延している。そして火力がより強化されたため、巡洋戦艦のカテゴリーもそのままとされた。しかも新開発の41センチ砲は、口径こそ日本海軍の伝統といえる45口径だったが、装填の機械化によって発射速度が向上しており、最短で20秒に1回、通常でも30秒に1回の射撃が可能だった。
 改設計の結果、1941年春の完成時は基準排水量3万9300トン、最高速度30.5ノットの高速戦艦として完成した。ただし45口径14インチ砲への対応防御のため、防御力には若干の不安があった。
 なお、日本海軍が自らの視点からだと「中途半端」な艦艇を建造したのは、このすぐ後に日本海軍にとっての「本当の戦艦」を建造しようと言う海軍拡張計画があったためだ。「本当の戦艦」の設計も《高雄型》に少し遅れる程度の早さで始められており、無条約時代になった1938年6月には、教訓を踏まえた改設計を残すのみというほど進んでいた程だった。また《高雄型》がこの形で計画されたのも、《金剛型》の代替艦という理由があったためだ。
 一方で、新型空母の方は条約排水量ギリギリの2万5000トンにおさめられていたが、一部艤装を省いた「平時排水量」としての就役であり、戦時にはすぐにも500トン程度の排水量が増加している。このため1941年年初と春に相次いで就役した時には、基準排水量で600トンほど超過して排水量2万5600トンとなった。
 戦艦と空母以外では、軽巡洋艦4隻、駆逐艦20隻、潜水艦12隻、海防艦(コルベット)8隻、他多数が計画されたが、多くは旧式化した既存艦艇の代替で、各国と比べても大きすぎる軍備拡張計画では無かった。
 しかし1938年6月の欧州での情勢変化を受け、1939年に予定より一年前倒しで計画された「第四次補充計画」では、戦艦2隻、巡洋戦艦2隻、大型空母2隻を中心とした第三次の二倍近い規模の計画となり、第三次、第四次計画艦の全てが建造を大幅に前倒しした工期短縮で建造されていく事になる。

 また既存艦艇の方は、《長門》以下10隻全ての戦艦(練習戦艦《比叡》含む)と三段空母で有名だった大型空母《赤城》《加賀》が徹底した近代改装を実施される事となった。
 高出力機関への換装、艦尾の延長、バルジの装着、各部装甲の強化、艦橋など上部構造物の大幅強化もしくは最新型への刷新、対空兵装の充実、発電力の強化、居住性の改善など、艦齢30年まで第一線で運用が可能な近代化改装が実施された。この改装では、空母には油圧式の艦載機用射出装置(=カタパルト)の設置が計画されたが、こんままでは機体側の強度が不足するため、この時点では設置可能な基礎工事を施すだけに止めている。
 なお、世界屈指の大型空母の《赤城》《加賀》だが、主戦場として想定されるのがヨーロッパで対地支援が中心と考えられた為、近代改装に際しては特徴的な三段空母からそのまま全通甲板にするのではなく、格納庫を実質的に一段減らして飛行甲板を装甲化する重防御空母への改装が実施されている。このため搭載機数は、機体の大型化もあってむしろ減っている。ただし有事は、飛行甲板にも一定数搭載する事となった。
 こうした拡張は、日本海軍としてはナチスドイツの台頭を前にして前大戦のような軍備の充実を唱え、それが政府にも一定程度了承された形だった。何しろ大型の軍艦は建造に手間がかかるので、出来る限り早く手を付けておきたいものだからだ。そして1938年のドイツの膨張外交を受けて、早くも1939年には規模をより大きくした海軍拡張が実施される。
 1939年4月に緊急的に編成された計画では、アメリカにも計画の詳細が伏せられた大型戦艦2隻を中心にして、中型戦艦2隻、大型空母2隻、巡洋艦10隻を中心とするほぼ完全に戦時計画であり、日本海軍始まって以来の大規模な拡張計画となった。しかも、建造設備の大幅な近代化と3交代24時間操業によって、非常に早いペースでの建造を開始した。

 一方アメリカは、少し複雑だった。1936年に成立した共和党のランドン政権は、公共投資の拡大を図るも議会は軍備拡張に消極的な意見が強かった。政府もまずは緊縮財政を目指した。熱心に海軍拡張を訴えるヴィンソン上院議員のような例外もいたが、1937年時点では海軍拡張派はマイナーだった。
 このため実際1937年の新規計画では、他国と歩調を合わせたような条約型戦艦2隻、条約型空母2隻の建造しか行われなかった。アメリカの国力規模、財政規模から考えたら、非常にこじんまりとした軍備拡張計画だった。日本と同程度の予算比率を海軍に投じていれば、最低でもこの時の三倍の規模に達していただろう。
 しかし、財政の締め付けすぎが公共投資の不徹底をもたらし、しかも公共投資の拡大の前に緊縮財政という形のまま不景気をもたらした。慌てたランドン政権によって、1937年のうちに臨時財政措置として、公共投資の追加拡大という形での軍備拡張が肯定され、1938年には規模を大幅に拡大した追加の計画を承認した。このアメリカの動きは少しばかり唐突で、アメリカ自身も自覚していたため、新鋭艦就役と共に旧式艦を廃棄すると日本やイギリスを説得する。また、日本に配慮するという形で、日本のように旧式戦艦の大改装も据え置くことを決めていた。加えて、日本、イギリスに自らの建造状況を詳細に知らせる事にもなった。性能の情報開示も、可能な限り行う気の使いようだった。
 しかし日本の懸念も、同年のヨーロッパでの情勢激変により霧散しする。ヨーロッパでのドイツを中心とする「ズデーデン問題」と「ミュンヘン会談」の結果、1938年7月からエスカレーター条項が採用され、戦艦、空母の制限が解除となる。さらに世界大戦勃発で全ての制限が解除され、無条約時代に突入する。
 日本海軍では、1939年9月3日の第二次世界大戦勃発に伴い、1939年計画に続いて1940年の海軍拡張計画を数ヶ月前倒しの上に、規模の大幅拡大を決定。巨大戦艦と大型空母2隻ずつを中心とする大規模な建造計画を、予定より一年前倒しで開始する。アメリカでも、他国が追随できない規模の海軍拡張を開始される事になるが、アメリカの動きは他国から一歩遅れたものだった。イギリス、日本の軍備拡張は、1939年から建造速度についても24時間操業の戦時生産に移行していたからだ。
 またイギリスは、他国よりも実質的に一年早く海軍拡張を開始し、1940年までなら世界で最も多くの戦艦と大型空母の建造計画を立案、実行した。これは全体主義国家のイタリア、ドイツが、自国の脅威となる海軍拡張を実施しているからだった。

 そして世界は、誰もが予想するよりも遙かに早く、戦乱の時代へと突入していく事になる。


●フェイズ06「戦間期の日本の軍備」