●フェイズ06「戦間期の日本の軍備」

 近代国家としての日本は「富国強兵」を最優先のスローガンに掲げて、他の列強との遅れを少しでも縮める為がむしゃらに突き進んだ。その結果、日露戦争での判定勝利を得て、晴れて列強の末席を占めることに成功する。これは国家としての一つの奇跡だと言われた。
 そして列強となった日本の、最も重視すべきは軍備だった。国力、工業力、さらには植民地に劣る日本が列強の座にいるためには、軍事力ぐらいしか無かったからだ。

 日露戦争が終了した頃、日本は国力を大きく越える軍備を有するに至った。陸軍は19個師団(うち2個は予備師団)、海軍は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻を中核とする一大戦力だった。この大きな軍備は、本来なら戦争の終了と共にかなりを削減しなければならなかった。しかし日本が列強となったからには、ある程度の維持が必要だった。また日露戦争を勝利に導いた陸海軍は、自らの軍備が維持され続けること強く望み、政府も戦争の英雄の声を無視することは出来なかった。
 結果日本は、自らに過ぎた軍備を保持し続けることになる。この流れは第二次世界大戦が終わるまで続き、日本を列強たらしめる原動力となると同時に、日本の健全な経済成長に対して常に足かせ付ける結果にもなる。
 陸軍と海軍それぞれについて見ていきたい。

・日本帝国陸軍

 日本帝国陸軍は、日露戦争までに近衛師団を含めて13個師団を編成し、戦争直前にさらに4個師団を増やし、戦争中に後備旅団という後方警備部隊を強化した後備師団を2つ編成して戦線に投入した。この後備師団は、戦後に正規師団に昇格して、19個師団体制となった。当然過剰な軍備で、せめてもの救いは当時の金食い虫だった騎兵部隊が貧弱な事ぐらいだった。
 これだけの軍備は、日露戦争後の日本には過剰だったが、列強としての地位を維持するため、実際は戦争に勝利した軍人達のポストを確保するため維持された。
 そして戦後の1907年に韓王国が日本の保護国となったため、朝鮮半島の防衛を担わなくてはならない日本は、2個師団を新たに増設する。一部には、既存師団の一部動員強化による持ち回り駐留が検討されたが、同じ事を既に南満州の関東州などで実施しているので(=関東軍)、これ以上正規師団の負担を増やすわけにはいかないとして、新規師団の増設が決まった。しかし一種の官僚組織である陸軍が、自らの組織拡大を図った結果なのは明らかだった。
 そして陸軍にとって、千載一遇の好機がくる。
 世界大戦(第一次世界大戦)の勃発と、日本の積極参戦だ。
 世界大戦で日本陸軍は、結果として常時6個師団をヨーロッパの西部戦線に派兵し、さらに3個師団を中東などに派兵した。また交代用として6個師団が派兵されているので、合計15個師団が海外に出征したことになる。また過酷な西部戦線での消耗を補うため、10万人以上の補充兵が日本各地から送り込まれた。こうして約40万人の日本兵が海外へと派兵された。
 この巨大な兵団が遠隔地で展開、活動するのを支えるため、日本本土では延べ400万人が動員(軍属、戦争協力者含む)された。陸軍の中核となる師団も大幅に増設され、最盛時で60個師団を数えた。
 しかし短期間での師団増設のため、今までいわゆる「四単位制」だった部隊編成を、重武装化による代替と部隊数増加の為に「三単位制」に移行した。歩兵の減少を火力で補い、将校の不足を補うための措置だった。
 連動して各師団の旅団も解体され、今まで「師団=旅団=連隊」だった組織が、「師団=連隊」へとシンプル化された。陸軍将校たちが心配した師団当たりの兵員減少も、重火器、重砲などを扱う兵科の増加でほとんど変化無かった。ただし専門性が高い兵科が増えたため、将校や兵士の教育には多少時間がかかるようになった。
 またヨーロッパの西部戦線まで派兵された部隊は、フランス、イギリスから当時の最新兵器の無償供給を受けており、新たに得た武装の総量は平時の日本陸軍の半分の装備数に達した。
 加えて西部戦線など世界各地で得た戦訓は、数万の将兵を犠牲にしただけの価値があると言われ、装備、軍制、戦術、そして戦略面に至るまで日本陸軍の大幅な近代化を後押しした。
 一方で、軍を支える部隊に関する理解が広がり、輜重部隊を軽視する傾向が弱まり、工兵の地位も大きく向上した。これは軍内部での意識改革だけでなく、装備面でも機械化が重視されるようになる。とはいえ、当時の日本の工業力では機械化には限界があり、全ての将校が戦場を経験したわけではないので、意識改革も十分とは言えなかった。

 世界大戦が終わると、日本政府は軍の大幅な削減を計画する。そして、これを危惧した陸軍内の一部がシベリアへの出兵を故意に拡大させた。お陰でと言うべきか、シベリア出兵が終わるまで、陸軍の規模縮小は戦時動員した師団に留められた。
 だがシベリア出兵などの結果、極東共和国が誕生すると情勢が大きく変化する。朝鮮半島の軍事的安定性が増した事を理由として韓王国の統治が緩められ、結果駐留日本軍も削減される事になった。さらに極東共和国が日米寄りの国家へと変化するにつれて、日本自体の軍事的安定性も高まったため、過度の陸軍部隊を保持する必要性が低下していった。これに対して陸軍は、極東共和国の防衛も担わなくてはならないとして、関東軍の規模拡大や極東共和国との軍事同盟による駐留拡大で組織の維持を図ろうとした。しかし一方では、陸軍内に正面軍備と兵員数縮小による浮いた予算を用いた近代化という方向性も強かった。
 そして日本政府自身は、過度の軍備は削減するべきだという考えを強く持っているため、海軍軍縮に合わせる形で1923年に陸軍の大幅な削減を断行。一気に5個師団が廃止され、21個の常設師団は16個まで削減された。その代わり航空隊の強化、各部隊の機械化、輜重兵、工兵の強化、重武装化の促進などが実施されたので、世界大戦への派兵と合わせて日本陸軍の近代化が概ね達成される事となり、実質戦力も大幅に強化された。
 兵員数は、第一次世界大戦終了後の28万人体制から20万人体制となった。将校の配属変更に伴い、教育や訓練でもかなり表向きではあったが輜重、工兵が重視されることとなった。

 1928年の張作霖を首謀者とする満州帝国建国では、日本陸軍は関東軍の出動と共に、満州帝国からの要請という形で久々に大規模な出兵を経験したが、ほとんど出動しただけに終わった。日本の邦人が多い山東地域への出兵計画も、中華民国との政治的交渉により実施されなかった。
 だが満州帝国は、建国されてすぐは軍事力が不足していた。また満州が中華中央から離された事で、日本とアメリカによる満州の経済的支配が強まった。必然的に満州への軍の駐留も増やさなければならなかった。また満州とソ連が直接国境を接することにもなったため、満州帝国が軍事力を整備するまでは、日本陸軍が国境防衛の多くを担わなくてはならなくなる。
 この結果、日本陸軍の動員体制が強化され、1931年以後数年間は5師団が満州帝国との同盟関係により駐留することになる。しかし満州への駐留は、極東共和国への駐留と合わせるとむしろ増えて、1930年代半ばには常駐で6個師団、総数で15万人に達した。これは、満州帝国、極東共和国の軍事力整備よりも、ソ連の軍備増強が大きく上回っていたためだ。まともに軍隊が駐留できないスタノボイ山脈方面はともかく、ロシア人がザバイカル方面というステップ平原地帯には年々ソ連赤軍が増えていた。

 日本陸軍が大幅な増強に転じるのは、1937年になってからだった。ソ連赤軍の脅威が増したため、対北戦備として各師団の機械化促進といっそうの武装強化が、こちらも久しぶりに増強へと転じた海軍と平行する形で開始されたからだ。
 しかし、重視されたのは航空隊と航空兵の大幅な増強で、地上兵力の戦略単位の基本となる師団の増加は、機械化装備を豊富に装備する戦車第一師団の1つだけだった。まずは、徐々に旧式化が進んでいた各師団の装備刷新が開始された。この時、各種自動車両、兵器の導入では、最初自国産業の拡大と維持のため国産兵器の導入が行われる予定だった。しかし自由競争を導入するべきだというアメリカ企業からのロビー活動を含んだ横やりにより、「重要装備」以外の競争入札と導入が実施されることになる。
 アメリカ企業の参入を日本陸軍が許した背景には、日露戦争以来の日本とアメリカの友好関係と、そこから派生した両国の軍隊の交流、そして何より満州、極東に続々と輸出もしくは現地生産される優れたアメリカ製品の存在があった。この頃には日本企業の多くもアメリカ式の生産方法や生産管理を導入するか、しつつあったが、全てに勝るアメリカ製品にはまだ敵わなかった。そして軍人を含む多くの日本人が、アメリカ製品の優秀さを日々の生活の中で直に知っていた。真冬の満州で一発でエンジンのかかるトラックや車は、当時の日本ではまだ望めないものだった。このため陸軍内からの反発は意外に少なく、優れた装備を有する事への肯定的意見の方が大かった。反対したのは、日本の軍需企業と財界と太いつながりを持つ一部の官僚、高級将校だった。
 とにかく新たな軍備増強では、各種自動車両の半分以上が、フォード社やGM社製造のアメリカ製、もしくは満州や日本でのノックダウン製となった。このノックダウン生産に関連した部品製造で、まだ弱小だった豊田自動車が深く関わり、その後の躍進の一歩としている。また満州でアメリカ企業との技術提携を進めた新興財閥の日産が、シェアを大きく伸ばした。
 そして車に連動して、エンジンプラグ、不凍液やオイルも優れたアメリカ製(もしくはライセンス品)を多く使用しているが、戦車のエンジン選定にもアメリカの影響が見られた。
 当初陸軍が押していたディーゼルエンジンではなく、容積に対してパワーのあるガソリンエンジンを搭載した中戦車が「九七式中戦車」として開発されている。
 1937年に正式化された同戦車は、対ソ連決戦戦車として開発され、当時としては大馬力の340馬力のガソリンエンジンを搭載しており、最大装甲60mm、重量20トンの車体を最高時速40キロで走らせることが出来た。ただし初期型は火砲の開発が間に合わず、従来型よりも長砲身化した37mm砲か57mm砲を臨時に搭載した。このため初期型の評価は低く、所詮海軍国が作った戦車と諸外国では見られた。だがこの車両は、1939年に日米の軍事交流の一環としてアメリカに数台が輸出され、アメリカの戦車開発の参考にもされた優秀車両だった。優れていたのは主に基礎設計の面で、砲塔や主砲、装甲の改良で多くの派生型も産むこととなるし、次世代型戦車の雛形ともなったほどだ。
 また日本での戦車開発は、対ソ連決戦戦車として、より強力な戦車、つまり重戦車の開発がこの当時から進められていた。大陸のみでの運用前提で、最大50トンという当時としては破格の重戦車の研究が行われており、九二式、九五式という習作を経て「九九式重戦車」が戦争までに完成している。同車両は、海軍の技術協力によって装甲形状、砲塔の開発が行われており、当時は「陸上戦艦」と呼ばれていた。一部、当時としては斬新だった傾斜装甲を採用しており、各部装甲の分厚さ(最大100mm)もあって被弾に対して非常に強い構造を持っていた。
 総重量は48トン。火砲も強力でヴォフォース社の75mm高射砲(ライセンス生産型の九八式速射砲(高射砲))を搭載し、当時噂されていたソ連の未知の重戦車(KV-1)への対向を目指した車両だった。しかしこれほどの重戦車の量産には困難が多く、ほぼ試作、習作の車両でしかなかった。それでも、その後の日本の重戦車開発の嚆矢となり、次の戦車の成功へと結びついている為、非常に意義のある戦車だった。
 また開発の過程で重戦車の限界に突き当たったと考えられたため、その後は中戦車と重戦車の特性を備えた大型戦車、いわゆる「主力戦車」に向けた歩みを始めるようになっている。

 いっぽう火砲についてだが、1930年代になると世界中から様々な火砲を輸入したりして入手し、次の時代に必要な能力を備えた火砲の整備を開始している。しかし冶金技術が欧米列強に比べて劣る日本では、どうしても開発が遅れがちだった。このため大型火砲、高初速火砲については、火砲開発の技術的蓄積が豊富な海軍との共同開発が、当事者達の喧々囂々の喧嘩腰なかで実施され、1930年代のうちに優れた火砲が幾つか登場することになる。早い段階で75mm口径の対戦車砲(高射砲兼用)が登場したのは高く評価出来るし、口径の長い155mm砲を師団以上の重砲の主力に据えようとした事も先見の明があったと言える。しかし予算に限りもあるため、大量生産やさらなる新型の開発は、実質的に次の大戦が始まるのを待たねばならなかった。
 なおこの頃に、車載用のみだがブローニング社のM2重機関銃が、対空機関銃も兼ねてライセンス生産の形で導入されている。同機関銃は、既に戦闘機用の機銃としても採用されていた事も影響していた。
 他にも戦車、重砲、機関銃などほとんどの兵器の開発が地道に続けられ、多くの成果が見られるようになっていた。

 そして1938年秋以後、ヨーロッパ情勢が緊迫化すると1939年度より日本でも陸軍の大幅拡張が実施されることとなる。この拡張を陸軍は「50個師団体制」と呼び、少し早く開始されていた海軍の大幅な拡張に政治的に対向した。だがこの拡張は、日本にとって必要なものであり、さらに不足する規模でしか無かった。

・日本帝国海軍

 日本帝国海軍は、強大なロシア帝国海軍の太平洋艦隊にうち勝つ事を目的に計画的に整備され、「六六艦隊」というスローガン通り戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を中心とする機動性と火力に優れた、統一の取れた艦隊を整備した。
 そして旅順攻略、日本海海戦によって、世界史的に見ても希な完全勝利を成し遂げ、ある種の伝説となった。特に日本海海戦はこの戦いは東郷平八郎提督が参内した時に奏上した「撃滅」という言葉通り、完全勝利しなければならない戦いではあった。しかし、この勝利に日本海軍は引きずられる事となる。
 捕獲したロシアの戦艦を全て賠償で加え、さらに建造中の戦艦を多数建造することで、規模的にはさらに拡大した。戦争に勝利したこともあり、海軍自身も列強の海軍としてのプライドを身につけようとしていた。
 しかしイギリスが弩級戦艦ドレットノートを就役させると、全ての戦艦、装甲巡洋艦が旧式化してしまう。技術的に未熟だった日本海軍は、この後の戦艦設計に四苦八苦し、結局初心に返るかのようにイギリスに当時としては革新的とすら言える超弩級巡洋戦艦の《金剛》を発注することで、ようやく泥沼からの脱出に成功する。
 その後《金剛》を手本にして国産戦艦の建造も軌道に乗り、そうした中で第一次世界大戦が勃発する。
 戦争では派兵が少し遅れるも、《金剛型》巡洋戦艦4隻など多数の戦艦、巡洋戦艦、装甲巡洋艦が地中海を中心に派兵して、連合軍としての日本の顔となった。
 しかし、日本海軍の期待に反して活躍したのは、当初は補助的な役割で余芸としか見られていなかった船団護衛だった。そして戦争が終わってみると、海軍が期待を寄せていた戦艦の建造計画は遅れに遅れ、その代わり多数の当時としては大型の駆逐艦と新世代の巡洋艦であるいわゆる軽巡洋艦が日本各地と鎮守府、軍港にたむろしていた。
 しかも大戦後は、政府、国民共に海軍が望んだ戦力の整備に待ったをかけ、日露戦争以後海軍が目標としていた「八八艦隊」の整備計画は大きな後退を余儀なくされた。
 それでも様々な努力が行われたが、今度は世界規模での海軍軍縮会議の開催により、日本が保有できる海軍力に制限が課せられ、「八八艦隊」は完全に破綻した。

 軍縮後の海軍は、政府が第一級の友好国と考えているイギリス、アメリカの海軍を目標とした戦力整備は諦めず、これが《妙高型》と呼ばれる新艦種類となる重巡洋艦を産み出し、小型の巡洋艦のような大きさと強大な攻撃力を持つ特型駆逐艦を産み出した。しかしこれら強大な補助艦艇は、すぐにも次なる海軍軍縮会議の呼び水となり、日本政府の強い方針もあって大量整備は諦めなければならなくなる。
 しかもこの時の会議が日本国内に広く報道されると、日本国民から海軍への不審の目が向けられる。なぜならば、世界大戦後の日本海軍は海外との貿易路となる海上交通路を守る戦力の整備を重視すると決められたのに、水上艦艇に対する攻撃力に特化した艦艇ばかり整備していたからだ。そして国民が求めたのは、先の大戦で大きな脅威だと認識された潜水艦であり、補助艦艇に多く求められるのは、潜水艦の脅威に対向できる力を有することだった。なぜなら世界の三大海軍の残り二つのイギリス、アメリカは日本の友好国であり、それ以外の国の海軍は現状での日本海軍の戦力で十分に圧倒できるのだから、優先して整備するべき戦力は潜水艦に対向できる戦力という事になるのだ。

 かくして1927年以後の日本海軍は、本心とは別に対潜水艦用の装備を重視した駆逐艦を建造し、海上交通防衛には数が求められる事もあって、大型艦よりも中型、小型艦を重視する事になる。既存の軽巡洋艦、駆逐艦も、近代改装で一部火砲、魚雷を減らしてでも対潜水艦装備を充実させることとなった。教育や訓練でも対潜水艦訓練の優先度が名目上上げられ、この状況を世界大戦で苦労した海軍将校達が利用して、質量ともに内容を充実させた。
 そして対潜水艦戦重視の象徴が、日本海軍が1930年代に実装を目処に計画を進めていた、駆逐艦などへの次発装填用の魚雷の搭載計画中止だった。
 1928年度に策定しなおされた計画では、本来は特型の予定だった《綾波型》と呼ばれる駆逐艦が16隻計画された。
 排水量は条約枠内の1500トン。後に中型として括られる船体に航続距離4000海里、最高速力33ノットの能力を与え、61センチ魚雷3連装2基6発、5インチ砲5門、爆雷投射器2対、爆雷60発を装備した。だが実際の最高速力は35ノットで、過剰性能が盛り込まれた形だった。爆雷もあくまで平時搭載量で、実際は標準で120発搭載できた。しかも船体規模に対してかなり過剰な装備な上に、軽量化のため船体設計にも無理があったため、後の改装で200トンの排水量増加を実施する事になる。
 次の《初春型》駆逐艦は、先の《綾波》型が様々な面で過剰だった反省を受けて計画・建造された。だが、海上護衛重視をより強める方針が定められたため、数を揃えることを優先して排水量1200トン規模の艦を、当初12隻の予定を改良型を含めて16隻とした。能力は、最高速力33ノット、航続距離4000海里、61センチ魚雷3連装2基6発、5インチ連装砲2基4門、爆雷投射器2対、爆雷120発を装備した。加えて、初めて実用性の高い水中聴音機を装備した。
 そして当然と言うべきか、このクラスも排水量に対して過剰性能だったため、その後の性能改善で排水量が1500トンに増加している。
 《初春型》は設計に無理があるため8隻で建造を中止し、改良型で排水量も増加させた《白露型》が建造された。《白露型》は、対艦戦闘力を強化して61センチ魚雷4連装2基8発を装備し、その他船としてのバランスを取るために大型化し、排水量の面で計画通り数を揃えると条約違反になる。だが条約違反の点は、就役が1937年になるよう遅らせる事で対応された。また《白露型》以後の駆逐艦は、建造をあえて遅らせて無条約時代に対応した大型駆逐艦として計画、建造される事となる。諸外国も、特に文句を言う事も無かった。
 これで日本海軍は、数量制限のなくなる1937年を迎えるまで駆逐艦を建造出来なくなる。そして《白露型》が全艦揃った時点で、《峰風型》《神風型》24隻、《睦月型》12隻、《特型》10隻、《綾波型》16隻、《初春型》8隻、《白露型》12隻という優れた艦隊型駆逐艦群を揃えることになる。他にも、世界大戦中に作った戦時急造型の《桜型》63隻、各種二等駆逐艦29隻を保有し、駆逐艦勢力はかなり充実したものとなった。また小型の二等駆逐艦、戦時急造艦は魚雷や火砲を一部降ろして対潜装備をさらに充実させるなど、新たな方針となる船団護衛のための対潜水艦対策を充実させている。

 一方で、小型艦が充実していた事もあって、条約時代にもこれらの代替艦建造の計画が進められる。しかしこれ以上駆逐艦が保有できない為、条約枠外の能力での計画が進められた。
 条約での排水量制限は600トンまで。必要な能力は、外洋で潜水艦から艦隊や船団を守ること。そして出来る限り長い航続距離、必要十分の対潜水艦戦能力。加えて出来るだけ安価で、有事には大量建造に応えられる構造。運用側の一部からは、魚雷など対艦戦闘能力の充実も訴えられたが、排水量に対して過剰な要求ばかりなので殆ど無視された。
 そうして誕生したのが、《千鳥型》海防艦だった。海防艦は本来第二の人生を送る旧式艦の為に用意されていた分類だが、他に適当な呼称がないため採用された。小型なので「軍艦」ではなく当然艦首の菊の御紋もないのだが、書類上で間違われるなど少なくない混乱が見られることとなった。このため護衛艦などの名称も考えられたが、結局そのままとされた。海外では概ね「コルベット」に分類された。また船体設計は価格低下と量産効果を求めた為、今までの日本海軍艦艇とは違って直線の多い簡易構造を採用していた。
 能力は、最高速力は20ノットに抑えるが、航続距離は巡洋艦並の16ノットで8000海里。これほどの航続距離を可能としたのは、ディーゼル機関を採用したからで、当時の日本海軍としてはかなり画期的だった。装備は、旧式ながら軽量な砲架型の12センチ単装砲1門、8センチ高角砲1門、爆雷投射器2対、爆雷60発だった。
 しかし600トンとしては少し大きな船体が用意され、それに対して装備は日本海軍としては軽装備だった。と言うのも、有事の際には12センチ砲か機銃をさらに搭載し、爆雷も最低でも2倍を搭載できる余裕が持たされていたからだ。しかし装備を満載した場合、排水量は条約基準を超えることとなる。
 過剰性能の駆逐艦と違って、海軍の主戦派が文句を付けなかった《千鳥型》は成功作となり、その後戦時建造の基本とされたほどだった。

 そして1937年の新たな状況になると、無条約時代を見越した計画が早速開始される。結局のところ、海軍主流を自認する将校達は重武装を好んだからだった。
 排水量は一気に2100トンに拡大され、それまでの不満を一気に解消した形になった。その上で航続距離18ノットで5000海里、最高速力35ノットの高い能力に、火力強化の為に開発が急がれた対空射撃も出来る新開発の九六式12.7cm砲(50口径)を砲塔型の連装で3基、61センチ魚雷の4連装発射管を2基、爆雷投射器3対、爆雷120発(有事には180発まで増加可能)を装備した。加えて新型高射装置(九三式高射装置)を搭載することで、高い対空射撃性能を獲得した。
 新たな脅威と認識されつつあった航空機対策も、海軍全体で導入が開始されたばかりで世界的にも最新型に属する戊式40mm機関砲(ヴォフォース社の機関砲のライセンス生産型)を単装ながら2門、武式の12.7mm機関銃(ブローニング社のM2機関銃)を連装で2基、4門装備して対応された。
 そして、これ以後の駆逐艦は対空装備、対潜水艦装備以外はほぼ同じとなり、艦隊型駆逐艦を「甲型」と呼ぶ。甲型駆逐艦は1937年に《朝潮型》として既に1934年度予算で計画が決まっている分が急ぎ建造され、さらに高性能、大型化した《陽炎型》、《夕雲型》と続いていく。

 なお機銃、機関砲に関しては、武式では1937年には連装型、4連装型が1939年に量産開始され、近距離防空用の切り札として全ての艦艇に装備が開始されることになる。しかし、艦載兵器としては有効射程距離と威力が不足するという声が徐々に強くなり、順次毘式25mm単装機銃に変更されていく事になる。
 また戊式は、単装では効果が限定されるため翌年の1938年には連装が標準とされた。さらに次の戦争が始まってからは、アメリカとの間の技術交流で1939年には4連装に強化された。そして大きな弾倉を備えた連射時間を延ばす砲塔型が日本海軍では一般化し、一部ではアメリカ海軍でも導入されている。ただしこのタイプは機械的な故障が見られた為、人力装填型の方を運用側は好んだ。

 次に巡洋艦だが、1920年代、30年代は迷走したと言っても過言では無かった。
 日本海軍が制約を課せられた、戦艦の代替もしくは補助戦力の最優先と考えた重巡洋艦は、次の軍縮会議により僅か8隻に制限された。このため、8インチ砲を搭載しない軽巡洋艦の戦力拡充を図ることになる。日本が1937年までに起工できる軽巡洋艦の総量は約9万トン。1隻当たりの排水量制限は8500トンなので、10隻程度建造できる事になる。しかし、この排水量規制の中で、1930年代に入って二線級戦力に格下げしたい軽巡洋艦の、実質的な代替艦も建造しなければならない。このため海軍は、条約いっぱいの8500トンの大型巡洋艦と6500トンの中型巡洋艦の二本立てで整備を計画する。どちらも6隻ずつ整備し、大型は重巡洋艦の代替、中型は旧式化する《天龍型》と5500トンクラスの一部の代艦とする計画だった。
 そして大型で6.1インチ砲(15.5cm砲)の3連装砲4〜5基の重武装を施した《最上型》《利根型》と、水雷戦隊指揮用の《阿賀野型》が整備される。《最上型》は列強各国が慌てて追随したほどの重武装艦を突き詰めたが、次の《利根型》は偵察能力向上を企図して、一種の航空巡洋艦として建造された。《阿賀野型》は、中型ながら水雷戦隊の突破を支援するため火力が重視され、6.1インチ砲を連装にして速射性能を高めた主砲3基を主武装として、雷装は最低限とした。また対潜、対空装備も、当時としては十分以上のものが装備された。
 ただし《阿賀野型》の5番艦、6番艦は建造が無条約時代になったため計画が最初から見直され、艦形の大型化が図られて全くの別級として完成する。だが、大幅な設計変更もあったため、就役は1940年までずれ込んだ。これが航空巡洋艦の《大淀》《仁淀》だった。
 また別枠として、条約対象外の能力で練習巡洋艦が4隻整備されている。
 そして無条約時代以後の軽巡洋艦は、《大淀型》の船体設計を流用した多数の高角砲(両用砲)を装備した防空巡洋艦ばかりとなるので、本来の意味での軽巡洋艦の系譜は実質的にこれが最後となった。これは日本海軍が、重巡洋艦の建造を優先した事もあるが、砲撃戦に特化した巡洋艦なら軽巡洋艦よりも重巡洋艦を建造するべきだと考えられた為だった。しかし重巡洋艦では全ての面で中途半端だという意見が大きくなり、最終的には超巡洋艦の建造へと流れることになる。
 このため日本海軍では、《妙高型》から約十年ぶりの1939年度計画に、超巡洋艦(《天城型》超甲種巡洋艦)の建造計画が盛り込まれる事になる。

 新時代の戦力として、手探りの中で整備が進められた空母(航空母艦)についても、海軍関係者の努力もあって精力的に進められた。ただしこの裏には、戦艦や巡洋艦、駆逐艦と違って、政府や国民の理解が低いため海軍が好き勝手し易かったという側面があった。そして日本海軍としては、たとえ友好国であっても常にアメリカ、イギリスを意識していた為、補助戦力として注目されていない空母及び艦載機(+陸上攻撃機)の主戦力化に熱心だった。
 戦艦、巡洋戦艦からの改装となる大型空母の《赤城》《加賀》、世界初の正規空母《鳳翔》、実験艦的要素もある軽空母《龍驤》と整備が続き、1934年度の計画で本格的な中型高速空母《蒼龍》《飛龍》が計画・建造された。
 しかし《蒼龍》《飛龍》整備前の段階で、日本が使える排水量枠は2万7000トンだったので、計画上は1万3500トンの空母とされていた。だが、度重なる仕様変更、設計変更で排水量は増加し、《蒼龍》が1万5000トンを越え、後から建造された《飛龍》は1万7000トンを越える中型空母となった。おかげで性能は満足しうるレベルに到達したが、条約には一部違反することになり1937年までひた隠しされる事になる。とはいえ完成が1937年以後で、既に世界情勢も悪くなっていたので、国際的に問題視されることも無かった。
 戦艦、巡洋戦艦を改装して建造した大型空母の《赤城》《加賀》は、1937年になると《加賀》、《赤城》の順番で飛行甲板に重装甲を施した重防御空母への大規模な近代化改装を実施し、1年以上の工事で新造空母と間違われたほど面目を一新している。
 そして同時期計画された新造空母、つまり《翔鶴型》航空母艦は、今までの経験を生かして排水量2万5000トン級の大型空母として設計された。同型は飛行甲板の装甲化は見送られたが、通常の20mm甲板に加えて一部25mmの装甲を飛行甲板に施したり、弾薬庫の防御を分厚くするなど、準装甲空母と言える仕様になっている。これも日本の仮想敵、作戦地域の想定の結果であり、日本の航空母艦は洋上から沿岸部を強襲するという向きがほぼ完成する事になる。
 なお《翔鶴型》は、建造中に大戦を迎えた為、新思想を反映するため途中で建造を中断してまでして設計を改め、単段式(一部二段型)の格納庫にして重心を下げて飛行甲板の主要部に75mm装甲を施し、油圧カタパルトを装備した、計画時とはかなり違う姿で就役する事となる。

 排水量1万トン以下の俗に言う「軽空母」については、ジュネーブ条約でも条約対象外のままだった。当時は、空母という新たな兵器に対して評価が出来なかったからだ。
 このため《龍驤》の後も1931年、34年計画で建造され、《祥鳳》《瑞鳳》《龍鳳》として相次いで完成した。軽空母の整備目的は、海軍の思惑としては英米に対して劣勢な大型、中型空母の補完だが、表向きは対潜水艦戦を目的とした整備と位置づけられ、装備や艦載機についても一通り考慮されていた。しかし排水量は艦載機の発展もあって徐々に増加し、おおむね1万2000トンの排水量を持っていた。この軽空母については、全てを満足させるには最低でも1万3000トン、できれば1万5000トン程度の排水量が必要と考えられ、研究として《蒼龍》に匹敵する簡易構造空母が設計されたりもしている。だが防御力に難点がある点は変わらず、日本海軍は大型の正規空母と、支援任務用の軽空母(護衛空母)の整備に二極化する事となる。
 また、1930年代は自らの設営能力にまだ不安があったため、海上護衛や迅速な水上機基地設営を目的とした大型で高速の水上機母艦も計画され、34年計画、37年計画で建造されている。
 こうした戦力整備のため、1930年代後半の日本海軍は「空母王国」と呼ばれるようになっている。

 潜水艦については、軍縮条約で対米英同比率を得ていたので、過不足無い戦力の整備が行われた。しかし潜水艦戦術については、1920年代前半までに就役した潜水艦と、それ以後に完成した潜水艦ではかなりの違いがある。1920年代前半までは、偵察と共に艦隊決戦時の補助戦力として期待されており、敵艦隊に追随できる水上速力や攻撃力の大きさが求められた。しかし海軍の戦術が変化して以後は、艦隊決戦よりも通商破壊戦を重視し、過度の性能を求めるよりは、戦力単位の増加、つまり数を揃える事を重視するようになった。ただし広い太平洋が主作戦海域のため、大型化は避けられなかった。
 また技術面では、1930年代になると電気溶接が広く採用されるようになり、連動するような形で潜水艦の騒音防止対策にも力が入れられるようになっている。なお、騒音防止策については、アメリカ海軍との意見、技術交換などで明らかになった日本軍潜水艦の欠点、さらには合同軍事演習での惨敗によって、日本海軍が慌てて対策を講じたという経緯がある。
 なお、日本海軍が第一次世界大戦に深く関わった事も、潜水艦の運用と改良に大きな影響を与えた事は留意すべきだろう。

 以上のように、日本海軍は世界大戦後は従来の艦隊決戦重視から海上交通防衛重視へと戦略、戦術双方の方針を変更した戦力整備を心がけていた。だが、海軍内に艦隊決戦への固執、アメリカ、イギリスへの拭い去れる警戒感から、正面からの戦闘に備えた重武装の艦艇も一部で整備が続けられた。このため統一された艦艇群とは言い難く、一部にバランスを欠いた攻勢になっていた。

・陸軍航空隊、海軍航空隊

 日本での空軍は、陸軍、海軍双方の航空隊と言う形で発足、発展した。加えて海軍では、航空母艦や艦艇の航空隊という、ある意味別種の航空隊まで誕生、発展する。
 発足は共に第一次世界大戦中で、英仏から機材や技術を供与されることで一気に肥大化した。そして大戦で得た機材と自分たちの教訓を元に独自の育成を行おうとしたが、当時の航空機はまだまだ発展途上で能力も限られていたため予算は限られ、発展は抑止された。この流れは1930年代前半まで変わらず、陸海軍の航空隊共に小規模に止まった。しかし小規模な紛争、軍内部での演習、などで有効性が着目されるようになり、新技術の開発によって一気に発展するようになる。
 また人材育成、機材の技術の双方で、アメリカの影響が大きかった。
 アメリカは広大な国土を持ち、高い技術力を持つため、世界中で最も航空機が利用され、そして発展も速かった。そしてアメリカ人は、満州などでも航空機を日常的に運用し、日本にも売り込んだ。日本の航空機企業にとっては、少ない市場のライバルだが、一面では優れた技術を手に入れるまたとない機会のため、ノックダウン、パテント購入、部品の購入などでアメリカの技術を取り入れた。
 そうした中で中島飛行機は、アメリカのエンジンメーカーP&W(プラット・アンド・ホイットニー)社と技術提携して自社のエンジン開発に利用している。三菱もアメリカ製の模倣(コピーに近いリバース・エンジニアリングなど)だけではなく、正式に技術提携する事を1930年代に日常化して中島に対向している。川崎飛行機は、アリソン・エンジンと提携して日本では珍しい液冷エンジンを生産した。この液冷エンジン開発では、アメリカも知識と経験が十分とは言えないため、アメリカ側にも大きなメリットを産むことになる。
 そうして大きな航空機メーカーを中心として、日本の航空機開発は進み、優秀な機体が次々に作られていくようになる。水上機開発が中心の川西飛行機などは、自社の機体にP&Wのエンジンを採用したこともあるほどだった。
 アメリカとの親密な技術交流や提携がなければ、1930年代後半から1940年代前半の日本の航空機は、最大で20〜30%も能力が低かっただろうと言われるほどだ。
 そうした技術交流と独自開発の成果が明確に出てくるようになったのは1930年代も半ばを過ぎた頃からで、無条約時代を迎えて軍事費が一気に拡大した1937年以後、航空機予算も大幅に増額され、研究、開発、そして量産にも一気に拍車がかかることになる。航空機各メーカーも潤沢な予算を投じて、精力的な新型機開発を実施した。

 その中で海軍が出した条件の一つに、大型の油圧カタパルト射出が可能な艦載機の開発があった。
 技術自体はアメリカからもたらされたもので、従来の水上艦用ではなく空母の飛行甲板に据え付けて、低速でも艦載機の発進が出来るようにする装置だった。しかし現行機種では、油圧カタパルトの射出に耐えられない為、こうした条件が出されたのだ。
 丈夫な機体に十分な性能を与えようとすれば、馬力の大きなエンジンが必要だったが、この条件が出た時には十分に対応できるエンジンが登場し始めていた為、各メーカーもこぞって開発した。この結果、「零式艦上戦闘機」、「一式艦上爆撃機」、「一式艦上攻撃機」が相次いで登場する。
 どの機体も今までの日本海軍にはない丈夫な機体構造を持ち、油圧カタパルトの射出にも耐えられた。それだけでなく、被弾にも強く、機体が丈夫なので翼を大きく折り畳む構造を採用する事が出来た。これらは、十分な馬力のエンジンが開発されたからこそ出来た事だった。性能も当時の世界水準に達するか越えていた。
 これらの開発の結果、海軍は優秀な艦載機を多数空母に搭載できるようになり、当初の予測よりも20〜30%も搭載できる艦載機数が増えることになる。単純な数字だと、当初は常用機57機を搭載予定だった《蒼龍》は、1941年中頃の実数で69機を定数としている。
 艦載機だけでなく、技術の向上は他の機体にも大きく影響した。陸軍の重爆撃機、海軍の陸上攻撃機の双方ともに、「一式陸上攻撃機」として登場した機体は共に四基のエンジンを搭載し、最大4トンという大きな搭載量と作戦行動半径1500キロメートル以上という長い航続距離を持つ大型の機体となった。
 そうした機体は開戦時には間に合わなかったが、それでも1939年秋を迎える頃には変化の片鱗を見せ始め、日本の空軍力が十分世界に通用する事を証明するようになる。


●フェイズ07「第二次世界大戦(1)」