●フェイズ07「第二次世界大戦(1)」

 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻に端を発し、「第二次世界大戦」が勃発した。
 この時点では、戦争の脅威を感じているのはヨーロッパ世界だけだった。日本やアメリカは、「ついに起きた」という感覚はあったが、ヨーロッパの戦争に対する危機感は非常に薄かった。

 当時の日本は、ドイツはもちろんイギリス、フランスとも特に強い外交関係を結んでいないため、開戦当初は局外中立を表明した。自らにいらぬ火の粉がかかることを警戒して、緩やかに軍備増強と念のための戦争準備を進めるに止まった。ヨーロッパでの戦争で日本が期待したのは、25年前同様の戦争特需ぐらいだった。普通に考えたらイギリス、フランスが負けるとは考えられず、前の戦争のように長期戦となると予測された事も、日本の危機感を低くさせていた。
 そして欧州での開戦よりも日本が警戒したのは、開戦の一週間前にドイツとソ連の間で突然のように締結された「独ソ不可侵条約」だった。
 この条約によって、ヨーロッパ方面の安全保障を確保して後顧の憂いのなくなったソ連が、満州帝国や極東共和国に大挙攻め込んでくる可能性が極端に拡大したと判断されていたからだ。実際、当時の日本は政府、軍部ともに「独ソ不可侵条約」への対応に右往左往しており、英仏の対独開戦どころではなかった。だから、ドイツがポーランドに攻め込んだすぐ後にソ連がポーランドへ軍を進めたことは、自分たちにとっての当面の安心材料だと考えられた程だった。独ソ不可侵条約が、当面であれドイツとソ連による東欧分割条約だと考えられるからだ。

 ソ連の動きに対しては、日本と共に満州に大きな利権と資産を持つアメリカも同様に強い危機感を持ち、アメリカ政府は日本政府に対して極東アジアでの軍事に関する事実上のフリーハンドを認めていたほどだった。特に防衛戦に関しては、何をしても容認すると水面下で伝えていた。
 また、国内世論を気にしつつではあったが、自らの軍備増強も開始した。万が一の時に、満州に少しでも兵力が送り込めるように、フィリピンの軍備が増強がすぐにも決定され、中継点となるハワイの拠点化も精力的に実施されることとなった。フィリピンのマニラ、ハワイ諸島のオワフ島のパールハーバーはこれまでもアメリカ軍の拠点となっていたが、戦争勃発に伴う決定で大規模な基地への改造が開始される事になる。どちらも戦闘のための要塞ではなく、主に後方支援や中継を行うための補給、兵站拠点であり、アメリカ軍が勃発した戦争で何を考えていたかを端的に示すものだった。アメリカの動きを日本政府も支持した。
 そうした中で、既に退役していたアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーがアメリカ陸軍に中将として現役復帰し、東アジア方面軍司令官として就任した。彼は非常にあくの強い人物だが、当時のアメリカでは最も有名な軍人だった。長らくフィリピンにいたので、日本でも名の知られた人物で交流を持つ日本の軍人、政治家もいたので打ってつけと言える人事だった。
 また、日本軍、アメリカ軍の間で多数の観戦武官、連絡将校が交換派遣されることとなり、さらに1940年に入ると共同の軍事演習が実施されるようになる。日米間の政治交流も活発になり、互いに有力政治家が訪問したり重要な会議を何度も行った。
 マッカーサー将軍も、彼にとっての本拠地のフィリピンのマニラでは日本との連携に支障が出るため、1940年春にはアメリカ政府が日本の東京にあるホテルを一つ借り切って、そこを仮の司令部とした。
 全ては日米共通の利権を守るためだった。
 とはいえ、日米が行ったのはあくまで予防的な措置で、戦争準備や、ましてや攻撃のためのものではなかった。マッカーサー将軍は、軍と共に満州に行く事を望んだと言われるが、流石にこの時点ではアメリカ政府が止めていた。実際問題としても、当時のアメリカ陸軍は現役兵は15万人程度で、ほとんど国内警備用の装備しか持たなかった。戦闘力という面では、身近にロシア(ソ連)の脅威を感じている日本陸軍の方がはるかに強力だった。
 なにより日本軍は海軍の方が強力であり、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンはシベリアでの日本軍を恐れていたため、日本が行った数々の措置は必要十分としては妥当なものというのが現状となっていた。
 このためアジア極東は、戦争とは無縁の無風状態でしばらく過ごすことになる。

 一ヶ月もかからずに終わったポーランドでの戦いが終わってからの戦争初期の大きな事件は、同年11月末にソ連がフィンランドに理不尽な侵略戦争を仕掛たのが最大級だった。
 この時日本は、国連常任理事国として英仏と共にソ連の国連からの除名を行い、既に活動不可能となっていた国連での自らの最後の任務としている。日本としては、ソ連の反応を見るための行動でもあった。そしてこの時点でのソ連の反応が鈍かった事もあり、フィンランドに対する援助を行う用意があると発表する。この事は、日本がヨーロッパの戦争に介入する意志があることを示した最初の例であり、既にドイツと戦端を開いていたイギリス、フランスなどからも好意的に見られた。また伝統的にロシアの脅威を感じている世界中の国や地域からも、日露戦争でロシア人を敗った日本の行動に期待が集まった。
 とはいえ日本からフィンランドは遠すぎるし、日本政府としても態度表明程度の行動でしか無かった。武器を送るなどの何かをしたくても、実質的にはほとんど何も出来ないのが実状だったからだ。
 他の中立国だが、アメリカはかなり大胆に動き、ソ連との貿易の停止などの強い制裁措置を実施した。この行動も、アメリカがヨーロッパの戦争に介入する意志があるという表明であり、孤立外交の傾向が強いので国際的に高く評価された。
 中華民国は、当時密かにソ連から軍事援助を受けて日本などに対向する準備を少しずつ水面下で進めていたので、慌てて関係の冷却化を進めている。欧米と日本の支援で国内経済を再建中の蒋介石としては、外交的には当然の決断だったが心理的には苦渋の決断だった。満州を奪われた形の中華民国としては、独ソ不可侵条約で日本が窮地に追い込まれるのに、満州に対する(ソ連をアテにした)実力行使に出るチャンスを逃す事になるからだ。
 だが、既にドイツが開戦して英仏と戦争状態に入った以上、独ソ不可侵条約を利用してソ連に接近するのは国際外交上で論外だという事ぐらい理解していたし、ドイツもソ連も国際的信用が自分たちと同じかそれ以上に低い事もある程度は理解していた。
 中華民国のように、列強の関係が(戦争で)大きく変化しない限り、中立国も安易に動けない状態に陥っていたのだ。

 そして既に宣戦布告した戦争当事者だが、イギリス、フランスは、アメリカと日本に対する参戦と言わないまでも協力を求めてきた。これに対して日本は、ドイツの一方的侵略は黙視できないと前置きして、英仏とは今までの外交的な繋がりや国連のしがらみもあるので、英仏との関係強化に踏み切る。さらに英仏の要請を受ける形ながら、ドイツとの事実上の貿易凍結に出る。
 貿易凍結は実質的に戦争参加の一歩なので、かなり軽率な行動とも取れる。だが当時の日本は、何よりも「独ソ不可侵条約」に怯えており、英仏との連携強化に大きく舵を切った形だった。日本としては、満州はともかく極東共和国へソ連軍が攻め込む可能性が高いと考えていたからだ。
 しかしソ連は、当面は極東アジアには関心が薄かった。まずはバルト海諸国、東欧、そしてフィンランドへと興味を向け、ドイツと共にそれらの地域の分割を実施していった。このため日本は一服つけたわけだが、戦争は徐々に加熱しつつあった。

 いっぽうのアメリカだが、アメリカはヨーロッパでの戦争勃発に対して、戦争特需以外への関心が薄かった。政府はイギリスへの支援ばかりか時期を見ての参戦も考え行動に移していたが、国民のほとんどは戦争特需の恩恵がアメリカ全土に降り注ぐことを期待していた程度だった。ヨーロッパの戦争への関心は日本より低く、対岸の火事以上には見ていなかった。そしてそれ以前の問題として、アメリカ市民は自国が戦争を行うこと、アメリカの青年が戦場に送り出される事に対して非常に否定的だった。
 そして民意を重視したアメリカ政府も、軍に対して警戒態勢と即応体制の若干の強化を実施するも、参戦に向けた動きは表面上では低調だった。一部議員や軍人は戦時体制の強化を訴え、政府は次の予算で軍備の増額を認めて海軍の拡張をさらに行うことを決めたが、これもどちらかと言えばアメリカに戦火が及ばないようにする為の措置でしかなかった。国民に対しても、国防の強化の為だと説明されていた。
 そしてポーランドでの戦いが終わるとドイツの動きが低調になったため、アメリカの戦争に向けた動きも停滞した。日本はソ連の脅威が増していたので、陸軍(+陸軍航空隊)を重視した軍の動員と兵器の増産に拍車がかかったが、これもソ連を刺激しすぎない事を野党や民意のかなりが求めたため、政府が策定しようとしたほど十分には行えなかった。しかも当時の近衛文麿内閣は、首相の人気で内閣を作った事から見られるように大衆迎合型だった。しかも首相当人が無定見もしくは優柔不断なため、政府としても統一した動きではなかった。近衛文麿は平時なら問題も少ない人物だったが、戦時にはまるで向かない人物だった。彼の戦争に際しての功績は、半ばソ連に怯えた形での軍備拡張計画を動かした事ぐらいと言われるほどだ。
 それでも日本は、ヨーロッパに向けた参戦の準備をゆっくりながら進め、イギリス、フランスとの協議を重ねた。東南アジアの欧州各国の軍事力も、日本に一部役割を肩代わりしてもらう事でヨーロッパ本土へと戻っていった。
 しかし英仏は、日本が極東アジアでソ連と対立し、戦争状態になる事を警戒していた。もしそうなれば、日本は自国周辺のことにかかりきりとなり、ヨーロッパへの派兵どころではなくなってしまう。それどころか日本が英仏側で参戦していたら、ドイツとソ連が自動的に同盟関係になり、より強大になる可能性を危惧していた。ソ連と強く対立する日本としては「何を今更」な事だったが、歴史的、伝統的に西ヨーロッパ諸国はドイツ、そしてロシアを当方の蛮族として恐れるのだから、仕方のない心理と言えるだろう。
 そうして英仏と日本、アメリカが腰の定まらない外交を展開している間に、時間は過ぎていった。その間フィンランドがソ連の猛攻に屈したが、変化と言えばその程度だった。
 しかし、1940年春になると、本格的な戦争準備を整えたドイツ軍が積極的に動き始める。

 1940年4月8日、ドイツはデンマーク、ノルウェーへの侵攻を開始する。
 ドイツの動きがポーランド以後半年以上も低調だったのは、そもそもドイツはポーランドとだけの戦争を考えて戦端を開いただけで、イギリス、フランスが宣戦布告してくるとは考えていなかった為だった。この事は、戦後かなり経ってから分かったことで、この時はヨーロッパの気候的な問題と、西欧と北欧に対する大規模な侵攻の準備に時間がかかっただけだと考えられていた。実際、動きを再開させたドイツの動きは迅速で、イギリス、フランスの動きは殆どの場合後手後手にまわった。
 そして1940年4月以後、急速にドイツ軍が西ヨーロッパ、北ヨーロッパに戦線を拡大すると、英仏からの日米に対する参戦を求める声が一気に強まる。その声は5月10日を境にして悲鳴に変わり、同月27日には半ば脅しとなった。
 この間、日本政府の行動はかなり鈍かった。
 「独ソ不可侵条約」が結ばれた1939年8月23日以後、日本はソ連が極東共和国や満州に侵攻した時に備える準備で大わらわだった。このため日本軍の戦争準備はそのものは、かなり進められていた。陸軍師団の常設師団の兵員が準戦時状態にまで充足され、陸海軍共に全ての兵器の弾薬は戦時配給となり、各兵器工場の弾薬生産は一気に跳ね上がった。国内相場では、軍需、鉄鋼、機械など戦争関連株が連日高騰した。
 しかし全て平時状態の中での事であり、しかも日本近辺での戦闘しか考えていなかった。また日本近辺での戦争、特に満州や極東共和国での戦争を考えての動きだった。
 日本にとっては、ヨーロッパよりも満州が大切だったからだ。しかもアメリカ、中華民国共に、ソ連軍が大挙侵攻した場合の満州防衛は日本に頼る他ないため、日本に文句を言うどころか、もっと満州防衛に本腰を入れろと水面下で言う始末だった。アメリカの強硬論者などは、日本は何故戦時動員を行わないのかと文句を言ってきたほどだった。
 しかし、西ヨーロッパが極めて危機的状況に陥った事で、日本政府としてもより旗幟を鮮明にする必要は感じていた。このためドイツが北欧諸国に侵攻した4月半ばの時点で、ドイツの対外資産凍結を実施。貿易も完全中止し、邦人の本格的引き上げも開始された。これらは、ほとんど戦争に向けた下準備だと諸外国からも見られた。
 イギリス、フランス、オランダとの間にも頻繁に協議を持ち、日本が東南アジアやインド洋東部での治安維持を実質的に請け負う事が急ぎ決められ、戦時物資の貿易の促進、物資の優先的供給などが急ぎ取り決められた。中には兵器の売却だけでなく日本による輸送まで含まれており、これらは広義には戦争行為に当たる事だった。
 実際5月16日には、日本海軍の護衛艦艇の東南アジア出動が早くも開始され、東南アジア防衛を肩代わりするための海上護衛活動が一週間後には開始されている。
 当然、ドイツなど枢軸側も日本の行動を非難したが、枢軸の側から日本に宣戦布告することはなかった。ドイツは日本の事を劣った有色人種として無条件に侮っていたが、日本が世界第三位の海軍を保有していることは、軍事に少しでも明るければ知っている事だからだ。日本の陸軍はものの数ではないと考えられていたが、日本が参戦してくればイギリスは北大西洋と北海に艦隊を集中できるし、日本単独でイタリアを押さえ込むぐらいは出来ると認識されていた。何しろ日本は、世界三大海軍の一角なのだ。劣等人種なので兵器の性能も劣るとしても、最低限の要人ぐらいは必要だと考えられていた。
 実際、東南アジアやインド洋の西欧諸国の軍事力は、日本艦隊が到着する前に急ぎ本国に戻っていった。それだけでも十分に脅威だった。
 そして西欧諸国が慌てたように、戦争は急展開した。
 しかも西欧諸国にとって、非常に悪い形で推移した。

 事の発端は、1939年10月30日にイギリスの戦艦《ネルソン》が、Uボートの雷撃を受けて沈没した事件だった。
 当時戦艦《ネルソン》には、海軍大臣だったウィンストン・チャーチルが乗艦していた。そして《ネルソン》は潜水艦から雷撃され、片方に3発の魚雷を受けてかなり短い時間で沈んでしまう。そこでチャーチルは脱出途中で海に投げ出され、幸い救助されるも重油を飲むなどで負傷し、その後は長期入院を余儀なくされた。これで彼は、当分政治家として活動することができなくなった。この事をチャーチル自身は、後の回顧録で生涯最大の痛恨時と記している。
 そして1940面5月10日にドイツ軍が大挙西欧侵攻を開始したとき、イギリスでは新たな内角が発足したのだが、首相にはウッド・ハリファックスが就任した。この時チャーチルが健康だったなら、彼が選ばれただろうと言われた首相の座だった。
 ウッド・ハリファックスは、保守党に属してインド総督、外相などを歴任して外交に強い人物と見られていた。有名なところでは、1937年にはヒトラーと会談して、宥和政策の頂点とされるチェコスロバキア・ズデーテン地方のドイツへの割譲を決めたミュンヘン協定(1938年)の締結に外相として尽力していた。
 大きな期待はされていなかったが、妥当で無難な人選だった。親ナチで旧世代のロイド・ジョージなどが選ばれるよりはマシな人選だった。しかし彼は、融和外交を進めた過去の経歴にもあるように、戦時の宰相としては力不足だった。
 首相就任後、日本とアメリカに即時参戦を要請したのだが、イギリスの新内閣の態度に日本とアメリカが逆に心配したほどだった。日米がイギリスやフランスに派遣した武官からは、イギリス政府の言葉以上に悪い状況(戦況)が伝わっていたからだ。だがイギリス新内閣は、ヨーロッパの均衡外交上で戦争を進めるべきだという感覚が強かった。これには、「日本、アメリカが参戦しても、すぐにヨーロッパに大軍を派遣できるわけでもない」という現実問題もあったが、視野が狭いと言うべきだろう。それに、ヨーロッパ的均衡外交とはいまだに融和外交に一縷の望みを託しているに等しく、極端な傾向が極めて強いイデオロギー国家への理解が足りなさすぎていた。
 結局、政治的に動いたのは日本政府で、5月20日にドイツに対して「これ以上の戦争行為は断固許せない」という事実上の最後通牒を突きつける。しかし、日本がヨーロッパにすぐに大軍を派遣できないのを見透かしたドイツは、日本の言葉を完全に無視。政治的リアクションすら、全く起こさなかった。
 これに対して日本政府は、5月24日の閣議決定で参戦を決断。翌25日には、早くもドイツに対して最後通牒を突きつける。そして最後通牒に書かれた通り、48時間後の27日に日本はドイツへの宣戦布告を実施するに至る。
 既に東南アジアに進んでいた艦隊も、さらにインド洋に進ませ、本国からはより大規模な艦隊の出撃準備を急いだ。また、航空隊など展開しやすい戦力のヨーロッパ派兵を一ヶ月以内に実施する決定行い、部隊の移動準備とイギリスなどとの調整を開始した。
 この時点で、日本の動きは非常に早かったと言えるだろう。
 しかし戦争展開は、誰もが予測しえなかったほど早かった。

 日本が宣戦布告した5月27日には、英仏海峡の港町ダンケルクで連合軍の撤退作戦が実施されていた。つまり、西部戦線は戦争開始から3週間も経たずに総崩れだった。しかもイギリス政府の対応が中途半端だったため、ダンケルクからの撤退作戦は「奇跡の作戦」と言われるも、半数程度の約20万人程度しかブリテン島への撤退は叶わなかった。残り10万人以上がドイツ軍への投降を余儀なくされ、その後の戦争に大きな影を落とすことになる。
 6月4日にダンケルクでの一連の戦闘は終わったが、ハリファックス首相の指導力に疑問が出て、それはそのままイギリスの戦争に対する様々な方面からの不信となった。特にイギリス本国の国民の内閣に対する不信は強まり、政府の鼓舞にも関わらず国民の士気は低下した。
 6月14日にパリが陥落し、同22日にフランス降伏したが、もはや事後処理に近く、あとはイギリスがいつ白旗を振るかと言われるようになる。
 ドイツもイギリスの状況を見透かしており、イギリス攻撃の準備を宣伝しつつ、6月の中頃からイギリスに対する停戦もしくは降伏させるための政治工作を開始する。
 そして7月1日、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは「イギリス政府の理性的反省にもとづく和平交渉に臨む用意がある」としたうえで、「この提案を無視すればイギリス本土での全面戦争も辞さない」と宣言するに至る。
 実際、ブリテン島南部を射程距離に収めるべく、ドイツ空軍の展開が実施されていた。

 イギリス政府の動きは、日本、アメリカ共に掴んでおり、一日も早く援軍や援助を送るので、降伏だけはしないよう説得を続けた。
 日本などは、補給を後回しにして戦艦や空母を含む大規模な艦隊派遣を開始したほどだった。制海権さえ渡さなければブリテン島は守られるのだから、日本の大艦隊が到着すれば守れる可能性はさらに高まるので、非常に正しい行動と言える。
 アメリカも高純度ガソリンなど、すぐに役立ちそうな物資の供与に踏み切った。
 しかし既に戦意を喪失していたイギリス政府は、フランスが降伏した時点で既に態度を決めていた。ドイツの提案のあった翌日にはどの国にも内密でドイツに特使が派遣され、早くも7月5日にハリファックス内閣はドイツとの停戦に合意至ってしまう。
 イギリス本国政府は交戦国全てとの停戦に合意し、英連邦各国にも本国に倣うよう通達した。ドイツに宣戦布告した国々に対しても、合意の前日ではあったが自らが停戦する旨を伝えた。

 これで政治上でヨーロッパでの戦争は一旦終了した。1939年9月1日から1940年7月5日の約9ヶ月間行われた戦争は、「欧州戦争」と呼称される事になる。
 戦争自体は19世紀半ばから後半にかけて行われた、ヨーロッパ各地での戦争に似たスピーディーで分かりやすい戦争となった。勝者はドイツ一国と言える状態で、ドイツ軍が新たに産み出した「電撃戦」が勝敗の鍵を握ることとなった。
 そしてドイツが、イギリス、フランスを極めて短期間で下した事により、ドイツによる「ユーロ・エンパイアー(欧州帝国)」の成立や、「ゲルマン・コンクエスタ(ゲルマンの征服)」と騒がれる事となる。

 だが戦争は、まだ第一幕を終えただけだった。
 本当の総力戦は、始まってもいなかった。


●フェイズ08「第二次世界大戦(2)」