●フェイズ08「第二次世界大戦(2)」

 ドイツの勝利で戦争は終わったかに見えた。だが、交戦国はまだ残されていた。ヨーロッパの雰囲気とは別に、世界はまだ「第二次世界大戦」にもなっていなかった。

 1940年7月18日に、パリのベルサイユ宮殿でドイツ(+イタリア)を戦勝国とするイギリス、フランスなどとの講和会議が開催されたが、フランスと違ってイギリスは大揺れとなった。フランスは海外に多くの植民地を持っていたが、自治領と言えるほどの場所は無かった。またパリ陥落に代表されるように国土の半分近くを蹂躙されたため、国民の戦意も多くが失われていた。これに対してイギリスは、世界の4分の1の陸地を支配し、白人のみによる事実上の独立国や自治領が多数あった。また戦争自体も、海外で負けただけで英本国のブリテン島には上陸すら許していなかった。
 このため、英本国と各自治国、植民地に温度差があった。本国内はもっと激しく、簡単に降伏してしまった政府に対する反発が非常に強かった。しかも英本土には、ヨーロッパ大陸から逃げ出したばかりの西欧、北欧各国の亡命政府や王族が多数いて、英本国に対して非常な失望を感じていた。
 そしてハリファックス政権は、混乱を収拾できないまま講和会議に臨むしかなかった。

 ベルサイユで開催された歴史上何度目かの講和会議だが、開始前から波乱状態だった。ドイツの鮮やかすぎる勝利の余韻があったのであまり目立たなかったが、何よりも交戦国を残したままの会議だったからだ。
 会議前に出されたドイツ側の条件は、基本的に「穏当」なものだった。特にイギリスに対しては、基本的に枢軸同盟への参加と「旧に復すこと」だった。古い表現だと白紙講和に近いほどだ。フランスに対しても、第一次世界大戦前までドイツ領だった本国地域の返還が大前提で占領も見送られる予定だった。占領したばかりの他の西欧、北欧の国々に対しても、自由政府が本国に復帰して全ての植民地が本国に従うのなら、全てをもとに戻す用意があると公式に発言していた。
 ただし、勝敗を分かりやすく示すためという名目で、軍艦など一部兵器が賠償とされた。また戦費賠償も含まれたが、額は常識的な範囲でドイツが欧州的外交条件を提示した事にむしろ英仏をホッとさせた。
 問題だったのは、実質的に参戦しただけの日本に対してだった。まず驚くべき事に、ドイツ政府は日本に対して講和会議への参加を正式に求めなかった。この行動を突き詰めてしまえば、劣等人種の国家なのだから「自ら進んで会議に来るのが当たり前」という態度だった。これはホスト国として完全に失格であり、国際常識にも大きく欠けていた。そのくせ日本に対して、基本的に賠償金を支払う以外の事は求めないと発言していた。
 ただしこれは、当時のドイツ政府、特に外務大臣のリッペントロープの殆どスタンドプレーであり、ドイツの優位を世界に示すためのパフォーマンスの一環だった。ヒトラー総統も追認し、宣伝省も日本が進んで講和に来るべきだと煽った。
 当然と言うべきか、日本の世論が激高した。日本政府もドイツの無礼に対する日本の怒りを世界中に発信した。そして「ドイツ政府からの正式な要請が無い限り、日本は決して代表を送らない。当然ながら停戦にも応じられない」と発言するに至る。対してドイツは、日本は戦争を続けようとしていると非難するだけで、正式招待する事は無かった。
 もはや子供の喧嘩だが、国家の面子、特にドイツの傲慢な面子が、全てを台無しにしていた。

 世界の世論、特に新大陸の世論は日本に対して同情的で、尚かつ日本の高潔な態度を賞賛する向きが強かった。だがドイツは、日本を支持するのはドイツに敵対するのも同じだと宣伝したが、かえって世界の反ドイツ感情を高めただけに終わった。そしてこれで焦りを強めたドイツは、日本を無視して講和会議を進めてしまう。既に集まった各国代表を待たせるわけにもいかなかったからだ。
 7月16日よりパリのベルサイユ宮殿で開催された講和会議は、基本的には圧倒的勝利を飾ったドイツによる「欧州帝国」化を確認する会議となった。
 フランスは、ドイツとの間に改めて領土条約を結び、占領地からの撤退との交換条件に近い形で枢軸陣営にも参加する事となった。エルザス・ロートリンゲン(仏名アルザス・ロレーヌ)をドイツに割譲する事で、主要部からのドイツ軍撤退と領土復帰を認められたのだ。また別交渉では、捕虜の解放、軍備の再建も認められる。
 フランス降伏後にフランスを離反した植民地や軍の多くも、元のフランスに戻った。だが反ドイツ、さらには反イギリス感情の強いフランスは、一部亡命組織や人物がアメリカへの亡命を続けた。また一部の海外フランス領が、亡命したフランス人達が作った「フランス救国政府(亡命政府)」に属することを表明し、フランスは分裂する事になる。
 そしてアメリカ政府は、「正統なフランス勢力」への支援を約束。このフンランス組織は、フランス降伏時に陸軍次官だったシャルル・ド・ゴールが代表となっていた。
 フランス以外のベネルクス三国(ベルギー、ネーデルランド、ルクセンブルク)、ノルウェー、デンマークは、枢軸国への参加と親枢軸政権樹立を事実上の条件に独立復帰した。また全ての植民地も、本国に倣うことに合意した。主にロンドンに亡命していた欧州各国の自由政府は、ドイツによる主権復帰の公約を受けて、ほとんどが解散して王族なども帰国した。だが一部は、さらにアメリカなどに亡命する。
 イギリス側が講和条件の一つとしたポーランドの独立復帰については、ソ連も関わるため事後の案件とされている。
 そして会議の中で新たな軍事同盟の締結が行われ、ドイツ、イタリアにイギリス、フランスなど欧州諸国を加え、大防共同盟、通称「枢軸連合(アクシス=ユニオン)」が成立した。もっとも一般的には、「欧州枢軸(ユーロ・アクシス)」と呼ばれた。
 この同盟には、ほとんど全てのヨーロッパ諸国とその植民地が参加し、ドイツによる「欧州帝国」の成立や、「ゲルマン・コンクエスタ」を体現する存在となった。そしてこの条約により、ドイツ軍はドイツ軍の望む国、望む場所への無条件駐留が認められることになり、駐留費用も基本的には駐留される国が支払うというかなり過酷なものだった。

 そして問題だったのが、イギリス及び英連邦だった。
 イギリス本国では、講和会議に代表が到着するまでに、玉座の主が代わっていた。敗戦の責任を取るという建前でジョージ六世が退位して、親独派としても知られていたエドワード八世が緊急帰国して再度即位したのだ。しかもジョージ六世は、隠遁するという発表の後に姿を一時的に消して、その後カナダで「静養中」だと発表されてから再び姿を見せることになる。
 英国王が代わることはドイツも了承済みで既定路線ですらあったが、先王となるジョージ六世は最低でも英本国で実質的に軟禁できると考えていた。この点ドイツは、イギリス人を甘く見すぎていたと言えるだろう。イギリス政府は、既に私人となったので止めることは法に反するので出来ないと言う態度だったが、真意がどこにあるのかは明白だった。
 そして首相自らが会議に乗り込んできているので、イギリスの体面を傷つける事を特にヒトラーが拒絶した。ヒトラーとしては、今後はイギリスと手を携えてヨーロッパの覇権構築に邁進する予定だったので、英国の「多少のわがまま」は寛容な態度で対応するつもりでいた。
 このため会議で「英国内の問題」について触れられることはほとんど無く、リッペントロープの嫌味と取れる言葉をヒトラーが制したほどだった。
 おかげで講和会議での英国は、ドイツに対して程度問題の賠償金と兵器(主に軍艦)を渡すだけで済んだ。軍艦が賠償に含まれたのは、先の大戦でのドイツの雪辱を果たすためで、これだけはヒトラーも譲る事が出来なかった。ただし、軍艦はもらっても他国のものを使いこなすのには時間がかかるため、ドイツとイギリス双方の協議の後で決めるとして事実上先送りされた。

 そうして7月28日に会議は終了したのだが、全く平和は訪れていなかった。
 やはり問題は、イギリスとそして日本だった。さらにイギリスの問題に、アメリカが大きく介入してきた。
 ベルサイユ講和会議では、イギリスと英連邦各国は基本的に一つと考えられ、主権を持つ国の中には宣戦布告した国があるにも関わらずオブザーバー参加に等しかった。これは主にカナダに対する政治的配慮だった。カナダは北アメリカの国家で、北アメリカとヨーロッパが国際会議を持つことは、アメリカにとって伝統の「モンロー主義」に触れるので、英連邦も英本国の一部として扱うことで、出来る限りアメリカとの政治問題化しないようにしたためだ。
 また英本国と、各自治国、植民地にかなりの温度差があった。このため英連邦諸国の事は、イギリスの内政問題とされた。
 だが、英本国と各連邦の溝はドイツが考えたよりも深かった。カナダ、アンザックの白人連邦国では、イギリス本国に対する強い失望感があり、賠償割り当てにも強い不満があった。一方インドでは、イギリスが敗北した事で独立の気運が盛り上がるも、イギリスは実力で独立を抑え付けた為、不満はいっそう高まった。そこにアメリカが介入してきた。

 アメリカ合衆国政府は、かなり積極的な政治姿勢で参戦準備を進めている最中の突然の戦争終了に大きく混乱した。既に参戦してしまった日本ほどの混乱ではなかったが、日本以上にイギリスに「裏切られた」と感情的になった。これは歴史的な感覚で、イギリスから独立した歴史がイギリスへのマイナス感情となった。
 また純粋に政治的にも、イギリスの事実上の裏切りにアメリカ政府は激怒した。アメリカ政府を中心とした政財界は、ヨーロッパの戦争に大挙参戦してヨーロッパ経済を牛耳る事を画策していた為だ。だが目論見は露と消え、アメリカは世界戦略の大幅な練り直しを迫られる。
 そして目の前に材料は揃っていた。
 当面戦争状態を維持している日本を頼ろうとしていた、ポーランド自由政府、チェコスロバキア自由政府に対して、表だって手を差し伸べたのだ。これは「弱きを助ける」という行動が大好きなアメリカ国民に大受けだった。さらにアメリカの手はフランスのド・ゴール将軍にも向けられ、そして核心であるイギリスの「心ある人々」へと伸びた。そして「国家の魂」を保つためナチス・ドイツに屈してはいけないと考えるイギリスの人々は、意図が分かりながらも敢えてアメリカを頼ることにした。
 だがアメリカの行動の多くは、ベルサイユでの会議が終わるまでは水面下で、終わるが早いか実質的な行動に移った。アメリカとしては根回しも必要だっからでもあるが、陰謀史観上でもよく言われるように、アメリカにとって都合の良い戦争を作り出すための行動だった。

 イギリスでは、戦闘停止と共に多数の船が国外へと旅立つようになった。主に客船で、貨物船などの商船も多かった。これらの船の多くは、貿易や旅行を名目にした、人と物の英本土からの脱出だった。
 そしてこの「エグゾダス」を、ドイツもガス抜きと考えて最初は意図的に放置していた。特に、ユダヤ人など劣等人種が、ヨーロッパから出ていくことについては歓迎すらしていた。体の良い厄介払いだった。
 だが、あまりにも大規模な事と、重要人物や資産、知識が大量にカナダに流れているという情報を前にして、日を増すごとにイギリスに呼びかけ、統制の求め、そして中止とイギリス政府への要求を強めた。だがイギリス政府は、へたに止めると混乱を助長することが分かり切っていたので、表向きの対応を行うに止まった。それでもイギリス本国は、カナダに有力な艦艇を派遣するなどの動きは実施しており、ドイツもあまり強く文句は言えなかった。
 しかし、イギリスから新大陸に簡単に亡命できるという情報は短期間で知れ渡り、戦争状態が終わった事も手伝って、ヨーロッパ中からナチスの支配を恐れる人々が新大陸へと旅立つようになる。特に、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)の亡命数は多かった。大西洋航路の船は、どの船も満員御礼だった。
 そして7月末には規模が大きくなりすぎたとして、ドイツが直接統制を開始すると発言。これにイギリスが反発して、自ら渡航の禁止と既に出航した船を艦艇を用いて引き替えさせる行動に出る。
 そしてこのイギリス海軍の行動に難癖を付けたのが、アメリカだった。
 アメリカ合衆国は、1940年7月30日に移民及び亡命者受け入れと保護のため、ヨーロッパ近くまで海軍艦艇が出動する事決定。同時に、大西洋の半ばにまで艦艇を進める。これをアメリカによる強い干渉だとして、面子を潰された形のイギリスがさらなる艦艇を投入。
 そして8月8日、客船を停船させようとしたイギリス艦艇(駆逐艦)に対して、アメリカの巡洋艦が急接近して睨み合いに発展。しかも双方ともに近在する友軍艦艇を増援に呼んだため、事態はエスカレート。互いに接近して、ついにアメリカ海軍重巡洋艦《オーガスタ》が、イギリス軍駆逐艦と客船との間に割って入る。この場合船がイギリス船籍だったため、イギリス海軍は発光信号で内政干渉だと抗議。アメリカ側は難民保護の要請を受けたと応えるのみで、話しは平行線を辿る。
 そこに潜水艦が発射したと考えられる魚雷4本が《オーガスタ》に殺到し、うち3本が命中。弾薬庫に直撃した《オーガスタ》は轟沈してしまう。
 奇襲攻撃を受けた形のアメリカ側は、《オーガスタ》に随伴していた駆逐艦がすぐにも戦闘速度に上昇。潜水艦を警戒しつつ戦闘態勢に入り、威嚇の砲撃を実施する。
 幸い戦闘はそれ以上拡大しなかったが、《オーガスタ》轟沈にアメリカ世論が激高する。報道各社も、ここぞとばかりに世論を煽った。偶然客船の乗員が撃沈の瞬間の写真を撮っていたので、その画像がアメリカそして世界中に広がっていった。そしてアメリカでは、いまだドイツと唯一戦争状態にある日本と共に、ドイツに蹂躙された国々を助けるべく、ヨーロッパの悪逆な帝国と戦うべきだという声にまで高まった。
 そしてすぐにもアメリカは、イギリスに対して厳重抗議を実施。受け入れられなければ戦争も辞さずと脅しを賭けた。これにイギリス本国は強く反発。ドイツもイギリスを擁護して、アメリカを悪し様に非難した。
 そして緊急開催されたアメリカ議会は、与党野党の多くの連名による宣戦布告の議案が提出され、8月15日に宣戦布告が可決。48時間後に正式に交戦を開始する旨を通達するに至る。
 ただし、アメリカが宣戦布告した国家はドイツであり、戦闘に及んだイギリス本国ではなかった。
 そしてその理由は、すぐにも分かることになる。

 その後、戦闘なきまま戦火は拡大を続けた。
 アメリカ本国では、「オーガスタを忘れるな」がスローガンとなった。しかし一方では戦争に否定的意見も強く、戦争を拡大した政府を非難する動きもかなり見られた。しかし政府が決断して宣戦布告した以上、アメリカという巨大な国家は戦争に向けて本格的に動きだすことになる。議会は、戦時財政の立案に動き、巨大な軍備建設計画の策定が始まり、アメリカの青年達を兵営へと追いやる徴兵制に向けての法整備も始まった。またアメリカ各地の募兵事務所は、当面の兵士に困らないぐらいの志願者が殺到しており、一つの方向に動き始めたアメリカという国家を象徴していた。
 だが、当面アメリカが力を注いだのは外交だった。
 特に戦争状態を維持している日本との調整を急ぎ、緊急会議が何度も開かれ、日本からも外相が空路でアメリカへと至って、主にサンフランシスコで日米の様々な会議が行われた。
 そして9月2日には、アメリカ史上初となる軍事同盟の「日米軍事同盟」が締結される。
 しかし、それ以上の衝撃が世界を襲った。

 1940年9月15日、カナダのオタワにて「英連邦自由政府(=英自由政府)」が成立したのだ。英自由政府の国家元首には王位を退いたばかりのジョージ六世が復位の形で即位。首相には、戦争初期に負傷したウィンストン・チャーチルが就任した。
 政府成立の発表では、ジョージ六世が高らかに成立を宣言したあと、チャーチル首相の言葉が有名となった。
 「今の英国は少し前の私と同じように病んでいる。しかし諦めさえしなければ、私のように病はいつか完治する事が出来る。そして我々は決して諦めることはない」
 最も有名な一説がこの言葉で、以後英本国を逃れた人々を中心にして、イギリスは「祖国奪回」を旗印に戦う事になる。なお、初期の英自由政府にはカナダなど南北アメリカの英領土が参加したに止まっていった。オーストラリア、ニュージーランドは態度を決めかねており、全てに対する中立を宣言したまま動かなかった。インドをはじめアジア各地、アフリカ各地は、経済、軍事の影響もあって英本国に従っていた。
 しかし日本とアメリカなど主に南北アメリカの国々が、英自由政府を承認した。アメリカと会議をしている筈の日本の外相も、オタワに滞在して歴史的な写真に収まっている。そしてこの段階で、アメリカは英自由政府と共に英本国政府に対して宣戦布告を実施。英自由政府が英本国政府を認めたのは、正当性の問題ではなく戦争規定に則ったもので、ドイツ宣伝省が喧伝したように最初から敗北を認めたわけではなかった。

 なお、英自由政府の成立宣言により、それまでイギリス連邦各地にいた軍隊の多くも自らの去就を決めた。そしてカナダ軍を中心として英連邦自由軍も成立した。当面は陸での戦い、空での戦いは遠いので、この時点では英本土へ進むことの出来る海軍が重要だった。
 英自由海軍の主要艦艇となったのは、「たまたま」カナダなどにいた、巡洋戦艦《レパルス》、空母《フェーリアス》、重巡洋艦2隻など十数隻の艦艇だった。また英連邦各地にいた艦艇のうち、数は限られていたか何隻かがアメリカや日本を頼りつつ合流している。そうした合流の中での一大事件は、ナチスに組みすることを拒んで英本国を脱出した艦隊だった。
 英自由政府成立後、英本国政府は海軍の出動に対して非常にナーバスになって、出動禁止どころか一時的な活動停止すら命令していた。だが反骨心の強い人々を止めることは出来ず、戦艦《ウォースパイト》《クィーン・エリザベス》などが隙を見てスカパ・フローなどから脱出を図った。洒落っけのきいた艦の中には、自らの乗艦を最初の「獲物」として海賊旗(ジョリー・ロジャー)を掲げたりもした。実にイギリス人らしいと言うべきだろう。
 そしてこれに呼応して、北米のニューファンドランド島にいた英自由海軍も最初の出動を実施。さらにアメリカ大西洋艦隊の任務部隊も出動し、「友軍救出」作戦が実施された。
 この時北大西洋上で発生した海上戦闘こそが、戦争再開を告げる号砲となった。

 「北大西洋海戦」は非常に複雑な海戦だった。参加した艦隊だけで、脱出した艦隊、追撃する英本国艦隊以外に、英自由艦隊、アメリカ大西洋艦隊、ドイツ艦隊と5つの艦隊がほとんど独自に動いていたからだ。だが全ての艦隊が戦艦を含み、空母も属する艦隊もあるため、最大規模の戦闘ともなった。
 最初に「敵」を見付けたのは、空母《イーグル》を有する英本国艦隊だった。彼らが見付けたのは見付けたのは「裏切り者」の艦隊だったが、ここで躊躇が見られた。「友軍」となるドイツ艦隊に報告せず、自らは距離を詰めるだけで航空機の攻撃隊を放つ事もなかった。しかも追加でソード・フィッシュ雷撃機を出すも、それは追跡用であると同時に発光信号で降伏を促す為の機体だった。この時英本国の追撃艦隊は巡洋戦艦《フッド》、《レナウン》を中心とした高速艦隊で、追撃速度をあげるためにあまり速度が出ない《イーグル》は護衛をつけて後方において追撃した。本国艦隊としては、可能な限り戦闘をせずに翻意させたかったのだった。
 そして次に「敵」を発見したのは、ドイツ艦隊だった。ドイツの場合は潜水艦による発見で、見付けたのはアメリカ大西洋艦隊の任務群だった。こちらは圧縮通信のやり取りのため、ドイツ艦隊以外は情報を知らなかった。ドイツ艦隊は、ノルウェーの戦いでの傷を急ぎ修理した巡洋戦艦《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》、重巡洋艦《ヒッパー》の大型高速艦のみの編成だった(ただし修理は完全ではなかった。)。
 アメリカ艦隊は、無線封鎖をしている英脱出艦隊から事前に受けた航路を目指していた。また自由艦隊からの情報も得ていたが、敵の動きは把握していなかった。同艦隊は戦艦《アリゾナ》《ネヴァダ》を中心にしており、重巡洋艦から偵察機を放ちつつ敵との戦闘よりも脱出艦隊の保護と護衛を最優先としていた。
 そしてその日の戦場となった場所は、やや高緯度に位置していたためか靄がかかって視界が悪かった。北太平洋ではありがちな天気なのだが、まだレーダーをどの陣営も搭載していないため、誰もが目視が頼りという状態だった。
 そして多数の艦隊が入り乱れて行動しているので、不意の遭遇戦が発生した。
 最初に火蓋を切ったのは、相手が脱出艦隊だと思いこんでいたドイツ艦隊だったが、砲撃を受けたのは護衛を兼ねて脱出艦隊の東側に回り込みつつあったアメリカ大西洋艦隊だった。アメリカ戦艦は既に特徴的な篭マストから三脚楼に改装していた為、《クィーン・エリザベス級》戦艦と誤認しての戦闘開始だった。
 先制攻撃を受けたアメリカ艦隊だったが、噴き上がる水柱と少し後で捉えた艦影から相手がドイツ艦隊だと認識。ただちに戦闘態勢に移行した。この時慌てることはなかったが、相手の主砲が自分たちの戦艦の重装甲を貫くことはないと考えていたからだ。さらにアメリカ艦隊は、脱出艦隊とは違う方向に進路を取りつつ、急速に距離を詰めてくるドイツ艦隊に反撃を開始する。
 ただし高速と視界の悪さから、アメリカの砲撃はドイツ艦にほとんど命中しなかった。一方のドイツ艦隊は、先制した事と手数の多さから命中弾を出すも、戦艦相手には55口径とはいえ11インチ砲では威力が不足していた。有効打を与えるにはさらに接近するしかないが、それは危険だった。また距離1万5000メートルを割った時点で、ようやくドイツ側は相手が脱出艦隊ではなくエスコートに出撃してきたアメリカ艦隊だと気付く。思いこみが判断を狂わせていたのだ。
 しかもたった1発の砲弾を受けた《シャルンホルスト》が、2番砲塔に直撃を受ける。誘爆はなかったが戦闘力は大きく殺がれ、《シャルンホルスト》に座乗していた艦隊司令のクメッツ少将は後退を命じた。かすり傷程度のアメリカ艦隊も、戦闘よりも護衛を優先して進路を西に向けた。
 だがドイツ艦隊への追撃は続き、英自由艦隊の空母《フェーリアス》から出撃した雷撃隊が砲撃戦終了の約2時間後に攻撃を実施し、《グナイゼナウ》と《ヒッパー》にそれぞれ魚雷1発を命中させ、これで出撃したドイツ艦隊は全ての艦が傷つけられた。そして帰投後、何の戦果も挙げずに損害だけ受けたことをヒトラー総統から激怒される事になる。またかなりの期間、出撃することも出来なくなった。

 戦闘はまだ終わりではなかった。
 今度は、英本国艦隊がアメリカ艦隊が護衛に入るより早く脱出艦隊に急接近したからだ。
 英本国艦隊は、先行した駆逐艦が発光信号を出して、後方の戦艦も無線封鎖を解除して、脱出艦隊に降伏と本国への帰投を促した。だが脱出艦隊は、「ナチスの蛆野郎へ、我らの君主はジョージ六世なり」と返答しただけで砲塔を「敵」へ向けた。この時点で発砲は無かったが、本国艦隊も本格的に戦闘態勢へと移行した。
 そしてそこに、周囲を警戒していた偵察機からの報告を受ける。戦艦2隻を中心とするアメリカ艦隊が、急速に接近中というものだった。
 しかも報告があって10分もしないうちに、距離を詰めてきたアメリカ艦隊は距離3万ヤードを切ると砲撃を開始する。
 砲撃を受けたのは脱出艦隊に近づいていた本国艦隊の駆逐艦だったが、この砲撃で本国艦隊はアメリカ艦隊との戦闘を決意。進路を変えて、アメリカ艦隊への突撃を開始する。
 この戦いは両者正面からの対決となり、反航しつつ急速に距離を詰めた。互いの戦力は、アメリカ側が45口径14インチ砲22門、イギリス側が42口径15インチ砲14門。装甲でも火力でもアメリカ側が優位だった。イギリスの巡洋戦艦は15インチ砲を搭載していたが、42口径と砲身の短い砲で砲弾も比較的軽い為、アメリカの45口径14インチ砲と同程度の威力しかなかった。だがイギリス側の巡洋戦艦の1隻は、「世界で最も強いく、世界で最も美しい」とイギリス海軍が自画自賛した基準排水量4万トンを越える巨大巡洋戦艦「マイティ・フッド」だった。
 それを知っていたアメリカ側も積極的に戦闘に及び、イギリス艦隊は思わぬ苦境に追いやられた。しかし《フッド》が放った5度目の斉射弾のうち1発が、《アリゾナ》の三番砲塔脇を貫き弾薬庫で炸裂した。
 《アリゾナ》爆沈。
 船体は後部で二つに折れ、乗組員全てを飲み込む渦巻きの中で船体を前後に屹立させつつ、《アリゾナ》は艦隊司令部を道連れにしてその場で沈んでいった。
 これで大混乱に陥ったアメリカ艦隊だが、それでも牽制雷撃と煙幕展開を実施して後退しようとした。脱出艦隊の援護ならもう充分の筈でもあったので、この選択は間違っていなかった。
 だが追撃しなければならない英本国艦隊は、敵戦艦轟沈の戦果で士気が大きく昂揚している事もあり、持ち前の高速を全開にして追撃戦を続行した。この中で《ネヴァダ》は2隻の巡洋戦艦の猛烈な射撃を浴びて、辛うじて生還するも主砲弾20発以上を受けて大破する。だが牽制攻撃と献身的な戦闘が功を奏して、脱出艦隊の離脱を十分に助けると共に、英本国艦隊にも追撃を断念させるだけの損害を与え任務を全うした。
 一連の戦闘の最後は、英自由艦隊の空母《フェーリアス》と英本国艦隊の空母《イーグル》のソードフィッシュ雷撃機による、双方の艦隊に対する攻撃だったが、特に大きな戦果を挙げることもなかったので、戦艦同士の砲撃戦が実質的な終幕となった。

 「北大西洋沖海戦」の結果、アメリカとイギリス、ドイツは互いを敵と認識せざるをえない状態になった。特にアメリカは、世界一有名な戦闘艦に自国の戦艦を沈められた事で、かえって戦意を昂揚させた。一方のイギリス本国は、脱出艦隊の亡命は阻止できなかったが、「植民地人」の戦艦を「マイティ・フッド」が見事に仕留めた事で、こちらも戦意を昂揚させた。どちらかと言えば蚊帳の外だったのが、良いところの無かったドイツだが、ドイツはドイツで文字通り水面下でアメリカ攻撃の準備を進めた。アメリカが海上戦闘で敗北したことで、ヒトラーなどナチス中枢の多くの者は、いっそうアメリカを侮るようになっていた。
 そして英本国からの亡命騒ぎがこれで一旦収拾したが、ヨーロッパ世界が失ったものは意外という以上に大きかった。戦闘艦の離脱はむしろ取るに足らない傷であり、英本国政府の降伏から約二ヶ月の間に、主に英本土とポルトガルなどの中立国からヨーロッパを脱出した人々と彼らが持つ知識や技術の方が、大きすぎる損失だった。特にナチス・ドイツが民族差別を進めていたことが、イギリスに逃れていたユダヤ系の大量脱出を引き起こしていた。この脱出した中には、著名な科学者や学者も多数含まれていたからだ。また英本国の心ある人々、ナチスを憎み嫌う人々による手助けで新大陸へと移った英本国の技術、会社、そして人材は、その後戦争に大きく影響するほどだった。
 しかしこの当時、事の重大さを実感する人々はごく僅かで、多くの人は英本国から「厄介払い」が出来たと思っていたほどだった。

 なおアメリカでは、1940年11月に大統領選挙が行われたが、海戦での敗北はむしろ政権政党の共和党にとって追い風となった。新たに大統領となったのも、二期目となるアルフレッド・ランドンだった。彼は一期目の大統領に選ばれる以前からナチスに批判的だったし、社会主義的な政策を認めていたように大きな統制を必要とする戦時の大統領としては向いていた。一期目の指導力はそれほど高く評価されていないが、4年間を無難に乗り切りアメリカを参戦へと導いた事で指導力も認められるようになっていた。また戦争が始まったばかりで大統領を新しくすることをアメリカ市民が嫌った点も、彼の勝利に大きく貢献したと。
 そして二期目に入ったランドン政権は、翌年2月に大規模な軍拡政策(両洋艦隊法案=スターク案の大規模拡大法案)を議会で可決させ、さらに翌月には「レンド・リース法(武器貸与法)」も可決した。日本や自由英連邦とも頻繁に接触を持ち、いっそう太いパイプを作った。
 しかし世界中を舞台にした戦争が本格化するのは、まだもう少し先だった。なぜなら、誰もが「容赦のない戦争」への準備に追われていたからだ。


●フェイズ09「第二次世界大戦(3)」