●フェイズ09「第二次世界大戦(3)」

 1940年7月、日本帝国はイギリスに梯子を外された状態だった。

 イギリスのほとんど相談も無かった早期単独講和の政治的衝撃は非常に大きく、日本の参戦時に「大演説」を行った政権首班の近衛文麿は、その舌の根も乾かないうちに「信じられない」、「想定外」と公式会見場で話してしまい、世間から隠れるように政権を投げ出してしまう。
 この時期の日本の政治的行動が鈍かったのも、主に突然の内閣総辞職とそれに伴う混乱のためだった。
 急ぎ決められた新たな内閣総理大臣には、海軍の政治畑出身の軍政家で人格者としても知られた山梨勝之進が選ばれた。
 1877年生まれで、軍令部総長を務めるなど軍政面で大いに活躍した。既に海軍は退役していたが、退役後も非常に優れた能力と見識と、誰も非難しないほどだと言われた人望を買われて各所で活躍していた。また、退役後に学習院大学の学長を務めたこともあるため、昭和天皇の信頼が非常に厚かった。晩年の昭和天皇の言葉では、最も信頼する軍人として躊躇無く山梨の名を挙げたほどだった。現役退役を問わず海軍軍人、海軍関係者も、彼の首相就任を損得勘定抜きに後押ししたし、陸軍にすら賛成者が多かったと言われたほどだった。
 ただし彼も万能ではなく、海軍将校としては不味い事に操艦はすこぶる下手だったという記録が多く見られる。実際、艦艇乗り組みは最低限しかしていない。

 なお、山梨のもとで成立した新たな内閣は、戦時の挙国一致内閣として編成された。日本の軍事力の総司令部となる「大本営」も常設とされた。このため軍人の入閣も特例ながら行われることになり、陸軍大臣には英才を謳われる永田鉄山、海軍大臣に山梨を次ぐ者と言われた堀悌吉、外務大臣に外相経験が豊富で元首相でもある幣原喜重郎が請われる形で選ばれた。元首相が外相に就くという点に、新政府の外交重視の姿勢を見ることができる。さらに軍需大臣という、戦時生産を総合的に行う大臣が設置され、満州経営で辣腕を振るった岸伸介が選ばれた。
 また諸外国との交渉、特にアメリカとの折衝が増える事を鑑みて、政府特使も兼ねたアメリカ及び連合軍全権大使に吉田茂が抜擢され、吉田はアメリカにほぼ常駐する事になる。

 新内閣発足前後、日本はかなり悲壮な決意を固めていた。ドイツの権高で無礼な態度に屈することを国家として強く拒んだのよいが、ヨーロッパ世界を全て敵に回したと考えられたからだ。この事は山梨首相のラジオ放送によって日本国民全てにも伝えられ、「明治維新、日露戦争に匹敵する国難」だと国民の多くも意識を持つようになる。
 幸い日本の孤立は2ヶ月ほどで済んだが、日本にとっての当面の環境は楽観できる状態ではなかった。
 1940年7月時点での日本の交戦国は、ドイツとイタリアだけだった。だが8月になると、状況がいっそう悪化する。
 西欧での勝利が見えた頃からドイツが中華民国に急接近し、それに蒋介石が飛びつくように応えたからだ。外交的には親日、親米と見られていた中華民国だが、力関係から従っているに過ぎないと言うのが中華民国側の本音だった。
 中華民国の動きは、日和見と変節だと言ってしまえばそれまでだが、中華民国を率いる蒋介石にとっては満州奪回の千載一遇の機会と考えるのも無理はないだろう。しかも蒋介石は強かで計画性も見せており、既にソビエト連邦ロシアと通じて、多くの武器弾薬をモンゴルルートから入手して共産党討伐の名目で奥地に進んでいた軍隊を訓練し、日米に対して密かに軍備を増強していた。ソ連にとって共産党を叩きつぶした中華民国本来は敵なのだが、ソ連にとっての脅威であり領土を奪った相手が日本でありアメリカである以上、まずは日本を叩くため中華民国を利用するのはパワーポリティクス上で当然の事だった。
 だが8月の時点では、中華民国は動かなかった。アメリカの動きを気にしたからだ。
 しかし中華民国がドイツと結んで、武器援助の約束を取り付けた事が判明し、ソ連のシベリア鉄道経由で援助や支援が俄に開始されたことは、満州の東鉄調査部を通じて判明した。
 重大な情報を得た事で日本も安易に動くことができず、また発足したばかりの山梨政権は、国内での体制作りと諸外国との調整に力を入れざるを得なかった。
 そして9月2日の日米同盟締結と同月15日の英自由政府成立によって、外交が大きく動く。
 さらに日本の外交活動もあって、アメリカなどに亡命したフランス救国政府との間に協定を結び、インドシナ地域での警察活動(軍の運用)を政治的に行えるようになる。また英連邦自由政府との間でも、英植民地の進駐許可が出された。アメリカも同様だったが、当面アジアでは日本が中心となる為、この決定は重要だった。
 しかも、伝統的に反英、反独が強い欧州から遠いフランスの各植民地は、日本軍歓迎を自ら表明していた。
 しかし、アジアのイギリスの植民地のほぼ全ては、英本国政府に忠誠を誓っていた。オーストラリア、ニュージーランドは中立だが、戦争展開によってはどう動くか分からなかった。アメリカが参戦したが、誰もがアメリカの初戦の無様な敗北に失望していたので特にそう考えられた。この当時はアメリカの国力や生産力が殆ど知られていなかったので、アメリカという国は開拓国家で成金の軟弱者と見られる向きが強かった。
 実際、イギリス内での引き込み工作は、英本国政府が有利に運んでいた。マレー連邦やインドなどの各総督府は、「敵」が来れば侵略者として断固攻撃すると表明していた。
 また、オランダ政府は全て枢軸側に組みしているため、東南アジアでも事は単純では無かった。
 だが、当時の東アジアにヨーロッパの軍事力はほとんどないので、ヨーロッパから増援するまでの時間稼ぎが必要だった。そしてその時間を稼ぐ役割を担うことになったのが、ドイツが急接近した中華民国だった。中華民国としても、ヨーロッパとの海路を維持することは重要だし、恨み昔年の日本、アメリカに対して遂に反撃できることを強く期待していた。
 そしてヨーロッパ、特にイギリス本国の当面の戦争方針は、アメリカが戦争準備を整える前に、日本を出来るだけ叩くことだった。与しやすい敵を相手にするのは当然で、しかもイギリスなどにとって植民地を守る行動にもなるため、合理的な選択だった。

 イギリス本国は、シンガポールに東アジア防衛のための大艦隊を派遣すること決定し、「日本の脅威を受ける」中華民国への無制限の支援を行う準備があることも合わせて発表した。支援物資を満載した船も、すぐにも英本国を出発した。
 これに対して日本は、台湾の防備を固めると共に、先遣艦隊をフィリピンのマニラに入れてアメリカとの共闘態勢を強化した。既にアメリカがイギリス本国にも宣戦布告した後だった為、アジアでの戦機も熟しつつあると世界に印象づけた。
 ただし日本の戦争準備は、どちらかと言えば中途半端だった。
 戦争準備自体はアメリカよりもかなり進んでいたが、これは早期のヨーロッパ派兵を目的として全て海軍優先で進めていたからだ。陸軍の本格的な戦時動員はまだ準備段階で、兵器の増産も海軍を最優先にしていた。航空戦力についても、航続距離は進出の問題で海軍の方が優れているため海軍航空隊が優先されていた。しかも海軍では、新型戦闘機(零戦)の量産が開始されたばかりだったので、製造元の三菱だけでなく中島飛行機にも増産が命令され、夏が終わる頃から続々と新型機がロールアウトしつつある所だった。
 そして日本の不備な点を、6月時点では予想だにしなかった場所から突かれることになる。

 1940年9月5日、中華民国は宣戦布告もせずに突如満州国境を突破した。突破した先鋒部隊は、ソ連からの供与や支援で送られた武器で武装した機械化部隊だった。機械化部隊は「BT-7」など主にBT系の戦車とソ連製の装甲車、自動車、トラックを多数装備しており、火砲などの装備も日本軍より優良なほどだった。また歩兵部隊の多くは、今まで通りドイツ軍装備で固めた精鋭部隊が主力で、徒歩がほとんどながら機械化部隊の後を追った。その後も続々と後続部隊や補給部隊が続き、総数は第一波で50万人を越えた。その後ろにも、大軍が集結して侵攻準備を進めていた。航空機も、主にソ連の援助で日本軍が予測していた以上に飛んで、現地日本空軍戦力は苦戦を強いられた。
 また別方面では、上海租界の一部が包囲された。包囲を受けたのは、共同租界と呼ばれる主に日本とアメリカが使用している地域だった。上海以外でも、天津、重慶の日本、アメリカの租界が包囲されたり攻撃を受けた。
 日本、アメリカから見れば、中華民国の突然の裏切りだった。
 ただし中華民国は、満州は自国領の反乱勢力でしかないと改めて表明し、宣戦布告は行わなかった。

 これに対して満州や中華各地の日本軍だが、まったく劣勢だった。
 当時の日本陸軍は、自動車化された師団が15個に加えて、重編成師団の近衛師団、戦車第一師団、第一挺身団という名の空挺旅団を中心に編成されていた。全ての師団が戦車連隊を持ち、重砲も新型に更新しつつある、今までより格段に強化された部隊編成を取りつつあった。他の列強に対して遅れがちの自動車化も、師団の半数近くが行われていた。
 また各師団の後備旅団を中核として、最初の戦時師団の編成の半ばにあった。現役師団の全ては準戦時状態での動員を完了しており、平時20万人だった陸軍は最初の徴兵と志願兵を受け入れて60万人にまで拡大していた。兵器や弾薬の増産も、海軍に大きく遅れるもそれなりに進んでいた。
 そして現役師団のうち、通常編成の15個師団のうち6個師団が満州に配備されていたが、うち5個師団は満州里、ハイラル方面でソ連軍に睨みを効かせていた。国内に残る9個師団のうち3個師団は、即時移動が可能な準備を完了して、本来なら今頃はヨーロッパに向かっている筈だった。また別の3個師団は、ソ連の状況次第ですぐにも満州に送る準備が整えられていた。
 中華民国方面にいたのは、急ぎ移動した装備改変を受けたばかりの日本陸軍第八師団と若干の支援部隊だけだった。同方面の主力は、張作霖軍閥のなれの果てとも言える満州国軍だった。
 この頃の満州国軍は、主に日本の指導と日米の支援により、一定程度の規模と練度の陸軍を有するようになっていた。当時の師団数は12個で、うち6個が中華民国方面にあり、2個師団が満州鉄道主線あたりで待機していた。残りは日本軍と共にソ連軍と睨み合っていた。また各所に重武装の国境警備隊を配備しており、総数は5万人ほどで多くが中華民国国境に配置されていた。
 合計すると15万ほどの部隊が中華民国と向き合っていたが、侵攻を受けるまではほとんど国境警備隊だけだった。師団や軍団級の部隊が配備されたのも、中華民国の動きが急におかしくなった為だった。
 だが、必要十分と考えられた兵力は、まったく不足していた。
 航空偵察などで敵戦力が判明するが早いか、国境を守る部隊には遅滞防御戦闘が厳命された。陣地を固守していたら、「人の海」に飲み込まれて孤立してしまうからだ。

 中華民国軍の初期目標は、日本軍が防衛体制を固める前に満鉄主要部を一部でも占領してしまうことだった。これで満州を中央で分断できるので、その後の戦争展開が容易くなるからだ。
 そして作戦をより確実とするためにソ連に働きかけ、満州に攻め込まないまでも満州国境、極東共和国国境への圧力を増やしてもらった。このためそれぞれの地域の日本軍などは動けなくなり、それどころか増援すら必要となった。
 中華民国軍の進撃は、初期の段階は順調に推移した。しかし進撃時の補給能力に大きく劣るため、機械化部隊は一週間もせずに動きを鈍らせてしまう。燃料だけでなく、整備能力も低かったからだ。それでも歩いて進めばよく、日本軍、満州軍のねばり強い遅滞防御戦闘を押しのけつつ着実に進撃した。この結果、侵攻開始二週間で、最も進んだ部隊は満州鉄道主線まであと50キロメートルの所まで進撃する。だが、敵地での遠距離進撃能力のない中華民国軍は、その時点で前線部隊が深刻な補給不足に陥り、前進速度は非常に遅くなった。だが日本軍、満州軍の約三倍の数の戦力であり、日本軍、満州軍はもう引き下がれる場所がなくなりつつあった。満州鉄道の側なので補給だけは潤沢になったが、喜べることでも無かった。
 予期せぬ窮地を前に、日本軍はまずは侵攻している中華民国軍を止めるための戦闘に努力を傾けた。主な手段は、既に進出準備を進めていた航空隊による大規模な阻止攻撃だった。
 この侵攻に際して、中華民国は戦闘機200機、爆撃機など100機を用意し、そのほとんど全てを満州国境の戦場に投入した。おかげで侵攻開始から一週間ほどは、自軍頭上の制空権を維持することが出来た。機械化部隊と共に、ドイツがすでに実施した電撃戦をデッドコピーながら再現した形だった。
 これに対して満州の日本の航空戦力は、ソ連国境を除くと200機程度だった。このうち約半数が戦闘開始から一週間で失われ、他からの増援は逐次投入にならざるを得なかった。だが海軍航空隊は無傷で、しかも欧州進出に備えて空母艦載機共々、陸軍より多い数が稼働状態にあった。全てを合わせると第一線機だけで600機以上。この当時の東アジアでは最強の航空戦闘集団だった。そして窮地に立たされた日本軍は、これを躊躇無く全力で投入する決意をする。幸いヨーロッパでの戦いを想定していた為、出撃準備は緊急であってもすぐにできる戦力が多く、問題は基地航空隊の展開程度で、集結と展開に一ヶ月も必要としなかった。
 まずは満州内陸部、朝鮮半島などへの移動を行い、その間稼働状態にある全ての空母は佐世保に集められ、緊急出撃の準備を行った。この時臨時に「第一航空艦隊」が編成され、当時日本海軍で稼働状態にあった全ての航空母艦を中心とした、空母を主力とした革新的な艦隊が編成される。
 この当時の日本海軍は、大型装甲空母となった《赤城》《加賀》の近代改装工事が完了して既に実働状態で、新鋭中型空母の《蒼龍》《飛龍》も配備されていた。他、軽空母が4隻あり、軽空母のうち3隻(《鳳翔》《龍驤》《瑞鳳》)もこの時艦隊に合流しているので、空母の数は大小7隻、艦載機総数は300機を越えていた。これを大型軽巡洋艦《利根》《筑摩》と他艦に先立って防空巡洋艦に改装されていた《五十鈴》、対空、対潜能力に優れた駆逐艦各種合計が12隻が護衛した。
 非常に実験的要素の強い艦隊で、武部鷹雄提督(当時中将)が指揮していた。彼は日本海軍の航空戦の泰斗で、先の大戦ではヨーロッパの空でも戦った経験を持っていた。さらに配下には、二航空戦隊司令の山口多聞提督(当時少将)など航空機に明るい人材も多くいた。
 陸上に展開する基地航空隊も第一連合航空隊にまとめられ、こちらも航空機の経験豊富な塚原二四三提督(当時中将)が指揮した。基地部隊は、臨時編成を含めて戦闘機、攻撃機を各100機前後有する2個航空戦隊が集結し、偵察機、輸送機などを含めると、こちらも稼働機数は300機に達した。
 日本海軍がこのとき集めた航空戦力は、当時の日本海軍の全力であり、日本軍全体の60%にも達する戦力だった。
 そしてその巨大な航空戦闘集団が、中途半端に近代化されただけの「人の海」に空から襲いかかった。

 9月27日に開始された日本海軍の大規模空襲は、戦闘開始から3日で中華民国空軍に「殲滅」と言えるほどの大打撃を与え、完全な制空権を獲得する。
 中華民国空軍の主力機は、ソ連製の「I-15」、「I-16」で若干数だけドイツ製の「Bf-109」のC型またはD型があっただけだった。爆撃機は、ごく僅かにドイツ製の機体(主に「ユンカースJu86」)があったが、ほぼ全てがソ連製の「SB-2」だった。機体のほぼ全てが旧式機だったが、相手の戦力が少なかったので開戦初期は活躍できたといえる。
 対して日本の海軍航空隊は、当時の主力は単翼だが風防のない「九六式戦闘機」で、陸軍も既に旧式化しつつあった「九七式戦闘機」だった。どちらも「I-16」より運動性が高い以外で優位な点はなく、当時としては格闘戦能力以外では辛うじて及第点の機体だった。しかし対ドイツ戦を強く意識していた海軍は、急いで多数の新型機を配備しつつあった。それが「ゼロ・ファイター」と敵味方から言われた「零式艦上戦闘機」だった。
 機体設計から発動機に至るまで三菱製で、それまでの日本軍の戦闘機用としては少し大きな金星発動機を搭載し、カタパルト発艦にも耐えられる丈夫な機体と、大きく翼を折り畳む構造を持つ艦載機として開発された。それまでの日本海軍からしたら、「とんでもない重戦闘機」だった。火力も従来からは大幅に強化され初期型は武式の12.7mm4門、7.7mm2門で、増加燃料を積まない場合は投下装置を付ければ250kg爆弾も搭載可能だった。最高速度は560km/hで当時の空冷式エンジンの機体としては速い方で、エンジンの換装でさらに強化する計画も既に進んでいた。機銃についても20mm砲2門の重火力型が既に存在した。
 しかもこの時期になると、数年前と違ってオクタン価99又は100の高純度ガソリンを航空燃料として一般的に使うようになっていたので、速度などの性能は当初予定よりも5%程度向上していた。燃料の多くはアメリカから輸入されたものだが、日本でも生産量は急速に拡大されていたので、十分に使用できるようになっていた。
 問題はこの時の機体数だが、空母機動部隊、基地航空隊共に50機程度が配備されて十分な戦力だった。爆撃機や攻撃機はまだ対ヨーロッパ戦に向けた機体は揃っていなかったが、中華民国軍が相手なら十分以上に強力だった。

 日本海軍の航空撃滅戦及び対地攻撃は熾烈で、最初の一斉攻撃が終わると、空母機動部隊は艦隊を二分して、ローテーションを組んで補給しながら継続的な爆撃を実施した。全て合わせて600機の航空集団とはいえ、相手が多すぎたからだ。
 しかし短期間での連続出撃では疲労は避けられず、一度だけ中華民国空軍の反撃を許すことになる。襲来したのはドイツ製の「Ju87」の初期型で、ヨーロッパでは「スツーカ」として既に有名な急降下爆撃だった。
 わずか6機が襲来しただけだったが、雲を利用して接近した事と、日本側が相手の空襲はほぼないと考えて、上空哨戒に3機しか戦闘機を配置していなかったのが攻撃された主な原因だった。レーダーを装備していればという論もあるが、この当時レーダーを搭載した艦艇はイギリス本国に若干数あるだけで、日本海軍では地上配置の初期型の開発・実験段階に過ぎず、現実的な意見とはいえないだろう。
 この空襲では、空母《加賀》と《蒼龍》が3機ずつの逆さ落としを受けることになる。そして共に500kg爆弾が1発命中したのだが、好対照の結果となった。不意打ちのため対空射撃はほとんど出来ず、投弾後待避する敵機を艦隊丸ごとの防空射撃で半数打ち落としたのみだった。
 《加賀》のど真ん中に命中した爆弾は飛行甲板上で炸裂したが、《加賀》の飛行甲板中央部は75mmと20mmの装甲版を張った上に木甲板を施した構造を持っていた。このため木が剥がれて装甲化された飛行甲板が若干波打った状態になっただけで、大きな損害は受けなかった。そればかりか、その後も特に問題なく航空機の発着が行えた。(ただし、帰投後に被弾した装甲の張り直しを行っている。)
 対して《蒼龍》は、艦後部に大穴が穿たれ、炸裂した格納庫の中から激しい黒煙を吹き上げた。たった1発の被弾で戦闘不能に追いやられ、そればかりか一時は危険な状態となって放棄、沈没すら考えられた程だった。
 幸いにして炸裂した格納庫がほぼ空だった事、《蒼龍》乗組員の献身的努力、さらに寄り添った護衛艦艇の消火活動により事なきを得たが、日本海軍は空母の脆弱さを思い知る事になる。また、対空戦闘に対する様々な面での不備や未熟さも痛感させられ、今後も予想される状況だったことも手伝って、大いに研究、改善される端緒となった。
 なお、日本艦隊を空襲した機体のパイロットは、日本では長らく教官として派遣されたドイツ軍パイロットと思われていたが、実際はドイツ人教官から厳しい訓練を受けた中華民国のパイロットだった。

 空母《蒼龍》の被弾と後退はあったが、その後も日本海軍による激しい空襲は継続され、満州主要部に向けて突進する予定だった中華民国軍は大混乱に陥った。
 戦車や自動車は的でしかなく、対空装備を持たない地上部隊は逃げまどう以外なかった。しかも彼らが進んでいたのは、たいして遮蔽物のない満州西部の平原地帯で、進むにしろ逃げるにしろ日本軍の空襲の餌食となるより他無かった。このため彼らは、その場で塹壕を掘り始め、穴籠もりしてしまう。
 しかも空襲が本格化すると、それまで遅滞防御戦に徹していた日本軍、満州軍が体制を立て直して、重砲による継続的な阻止砲撃の密度を上げた。
 その状態で膠着状態に陥ったのだが、後方にも大軍の進撃を予定していた中華民国軍は、空襲と前線の停止により、兵力と物資の移動に大きな混乱を引き起こしてしまう。
 そしてそこに日本海軍が出現する。
 1940年10月1日に日本艦隊が出現したのは二カ所で、沿岸部の都市の秦皇島(チンホワンタオ)には戦艦《扶桑》《山城》を中核とする艦隊が出現して、激しい艦砲射撃で物資集積所、鉄道網や道路を破壊した。
 もう一カ所には戦艦《長門》《陸奥》《伊勢》《日向》などより多くの大艦隊が出現し、さらに多数の輸送船舶を伴っていた。輸送船団の中には3個師団が乗船し、彼らはほとんどの抵抗のない海岸に続々と強襲上陸を実施した。
 近くの都市の名をとって錦州(チンチョウ)上陸作戦とも言われた作戦は、この戦争が始まって以来最大級の上陸作戦であり、多くの教訓を日本軍にもたらした。敵がまったく警戒せずほぼ無血上陸だったのに、上陸作戦は不慣れと不手際から齟齬と遅延ばかりだった。特に、重装備の機械化部隊の上陸には苦労が伴われ、人によっては連れてくるんじゃなかったと言ったほどで、このため、急ぎ揚陸専門艦艇が研究、建造される事になる。
 それでも上陸作戦は大成功をおさめ、満州に侵攻していた中華民国軍主力の後方を一気に遮断してしまう。
 そして時を同じくして、内陸部に移動していた満州西部に展開していた日本陸軍の機械化部隊が、戦車、装甲車を先頭に立てて急速な進撃を開始した。どちらの戦場でも日本軍機が乱舞しており、中華民国などとは格の違う本格的な電撃戦を実施した。この戦場では、旧式の「八九式戦車」はほとんど使われずに、機動力のある「九五式軽戦車」と当時は新鋭戦車と言える「九七式中戦車」が活躍した。歩兵支援の速度の遅い戦車では、広い地域を戦場とする電撃戦に不向きな事が、訓練などからある程度理解されていたためだ。そして九七式戦車は、機動性という面で日本陸軍の期待に十分応える事となった。ただし、ソ連軍が供与した戦車と戦闘になった場合、予測した以上に苦戦を強いられた。「BT-7」に対しては火力の大きな不足が見られるばかりか、機動性の面でも劣勢だった。幸い中華民国軍が未熟な兵士ばかりなので事なきを得たが、思わぬ損害を受けた。なお戦車戦では、侵攻した中華民国軍が装備した奇妙な戦車がいくつも捕獲された。ほとんどは、動くことが出来なくなって放棄されたものだった。全長が異常に長く砲塔が背負い式に二つ搭載された車両、砲塔を二つ縦に重ねた車両、砲塔に同じ主砲が二つ横並びで搭載された車両など、非常に変化に富んでいた。中には、多数の砲塔と銃塔を備えた陸上戦艦とも言われた多砲塔戦車もあった。しかし火砲、エンジン、装甲など個々の技術はともかく、戦車として評価すべき点はなく、5年ほど前に日本軍も重戦車として試作して「役立たず」の烙印を押したのと同種の車両だった。だが技術的に見るべき点はあり、その後の日本陸軍の戦車開発に大いに活用されている。
 だが中華民国軍は、戦車を有効活用する事に非常に乏しかった。
 そして1週間を待たずして満州に侵攻した50万の中華民国軍は、日本軍によって分断包囲され、中華民国本土から完全に孤立してしまう。前は復讐に燃える満州国軍、西と後方は日本軍の機械化部隊、東は上陸した日本軍の一部と大艦隊、そして空には日本軍機が舞っていた。
 完全に戦意が萎えた中華民国軍は、包囲されてから僅か3日で白旗を掲げ、呆気なく降伏してしまう。
 陸上戦力で劣勢な側が華麗な包囲殲滅戦を実施したことに、日本国民ばかりかアメリカも熱狂した。厳しい状況ばかりた伝えられる戦況の中で、この勝利が唯一の光だったからだ。なおこの時の包囲殲滅戦と強襲上陸作戦は、数年前アメリカ軍と日本軍の合同軍事演習の時に、アメリカ軍を率いたダグラス・マッカーサー将軍がとった作戦を雛形としていると言われる。

 満州での戦いを短期間のうちに勝利した日本軍だが、そのまま中華民国領内に向けての逆襲とはならなかった。そればかりか、満州国領内からも完全に駆逐出来なかった。
 大軍を包囲殲滅したとはいえ、さらに百万人以上もの大軍が前面に展開していた。日本軍の方も、航空隊が短期間で疲弊した上に当座の弾薬のかなりを消費していた。それ以前の問題として、百万の大軍に対して攻め込むだけの戦力が不足していた。さらに、日本軍と中華民国軍の睨み合いは上海租界でも行われており、こちらの状況も改善する必要があった。このため上陸支援した艦隊だけでなく、第一航空艦隊も上海方面に移動したので、満州方面の戦力はさらに低下した。幸い陸軍航空隊主力が入れ替わりに活動を活発化させたが、それでも戦力は低下していた。
 加えて中華民国軍以外にも、北ではソ連軍が虎視眈々と狙っており、兵力を動かせないばかりかさらなる増援すら必要だった。
 そして何より、日本軍が中華民国に力を入れている間に、イギリス本国から大艦隊と各地への増援兵力を乗せた大船団が東南アジアに駒を進めつつあった。
 イギリスの先遣部隊は、日本軍が満州に係り切りなのを突いて香港にまで艦艇と兵力を進めており、香港と広東方面からは中華民国への大量の支援物資も届けていた。
 日本にとっては、一難去ってまた一難という状態だった。

 1940年10月までに英本国が船団で広東と香港に届けた物資は、すぐにも現地の中華民国軍に受け渡され、地上装備の過半は上海近辺の中華民国軍が装備したが、航空機はほぼ別だった。航空機については英本土から一緒にパイロットと整備兵も伴われていた。他、弾薬、整備用品など、継続的に戦闘できるだけの物資も付随していた。その事を日本軍が知るには、もう少し時間が必要だった。
 その前に、日本軍は上海で窮地にさらされる事になる。
 中華民国は、満州での主力部隊が壊滅的打撃を受けたので焦りを強め、失点を取り返すべくすぐにも上海で行動を開始する。
 上海は既に日本人が多く滞在する租界を包囲した状態だったが、首都南京の近辺に留め置かれていた国民党の最後の直属部隊に、届いたばかりのイギリス軍装備を与えて約300キロしか離れていない上海に向かわせた。
 当時上海は、中華民国を除いて考えても、敵味方同士が呉越同舟の状態だった。このため共同租界、フランス租界は各国の海兵隊や陸戦隊が駐留しても、基本的に中立地帯という協定が暫定的に結ばれていた。地の利は日本にあったが、日本も中立国の領事館などが犇めく上海での戦闘や混乱は避けたかった。日本軍が行動を起こすとするなら、圧倒的戦力を揃えた状態での無血占領ぐらいだった。
 だが、全てを横紙破りするように、中華民国が動いた。

 この時上海には、日本軍は海軍の陸戦隊が駐留している艦船からの臨時を含めても総数5000名程度しかなかった。中華民国との戦争状態で艦艇が何隻か派遣されたが、空襲を警戒して有力な艦艇は旧式の軽巡洋艦と完全に時代遅れな装甲巡洋艦ぐらいだった。
 9月5日に中華民国との間に戦争が始まると、日本は租界からの疎開という洒落にならない疎開を開始していた。だが、同盟国のアメリカ人の租界も主に日本が行っていたため遅れていた。疎開用の船舶はアメリカもフィリピンなどから派遣していたが、統制すべき司令部が立てられていなかったからだ。その後疎開船団司令部が作られたが、その頃には優秀な装備を持った中華民国の精鋭部隊が上海に到達しつつあった。
 なおこの時日本陸軍の主力は満州方面に集中しており、当時の日本陸軍の半数以上が投入されていた。日本本土ですぐに動けるのは近衛と戦車を除いて2個師団あったが、満州での上陸作戦を行った後で、それらを転用するにしても物資の積み込みから始めなければいけないので、まだ時間が必要だった。
 だが、10月半ばに散発的に始まった中華民国軍の攻撃は、基本的に現地の日本軍を挑発して誘い出す戦闘に終始した。租界で市街戦を行えば、日本以外に自らの同盟国となったイギリス、フランス、イタリア、さらにまだ敵ではないアメリカへも被害を与えることになるからだ。
 だが日本軍は、安易な挑発には乗らなかった。このため中華民国軍は、主力が満州で壊滅して激減した空軍を使い、日本租界を中心に爆撃を行う。しかし精鋭パイロットを失った中華民国空軍の爆撃は稚拙で、味方となったフランスの租界を誤爆するなど、小規模ながら無差別爆撃の様相となった。一説には、川にいる日本軍艦艇を狙ったとされるが誤爆は続いた。

 10月末までに、上海方面の中華民国軍は20万人に達した。以前から購入していたドイツ軍装備と、供与されたばかりのイギリス軍の装備などにより装備も比較的優良だった。対する日本軍は、海軍陸戦隊を中心に逐次上海租界方面に増援を送ったが、その数は全て合わせても6000名程度だった。装備も重火器はほとんどなく、市街での持久戦を前提としていた。ただし、海軍陸戦隊用の装甲車を多数送り込んだので、これは現地の中華民国軍を躊躇させるには十分だった。
 また航空機も、数は少ないが投入され始めた。当時主力は満州方面にいたのだが、本土待機の小数の部隊が台湾に進出して渡洋爆撃を実施した。爆撃は市街は避けて、郊外の中華民国の陣地を狙った。
 だがその間、日本軍の後方は大忙しだった。満州での上陸作戦から戻ってきた船団や艦隊は、佐世保や呉などに戻るが早いか、燃料弾薬、そして待ちかまえていた陸軍部隊と彼らが使う物資が搭載されていった。連続した作戦による疲弊には一時的に目をつぶったもので、政治的に短期間で中華民国の動きを抑えることを目的とした行動だった。
 ただし、香港方面で活動を活発化させているイギリス本国の東洋艦隊に備えねばならず、移動に一定に時間が必要な基地航空隊主力の投入は不可能だった。しかし濃密な航空支援は欠かせないため、満州での作戦を切り上げた形の第一航空艦隊が当座の補給を受けただけで投入されることになった。
 また上海での反撃では、フィリピンのアメリカ軍も戦列に参加可能で、英自由政府も形だけの兵力を北米から送り込む事が決まった。

 11月13日、揚子江河口部に船団を引き連れた日本艦隊が到着した。
 これに対して中華民国は、イギリスに対して日本艦隊の撃破、それが無理なら妨害を要請した。しかし台湾の高雄とフィリピンのマニラに日米の艦隊が展開しているため、上海方面に進みたければ戦闘を覚悟しなければならなかった。
 だがイギリス本国としても、同盟国となった中華民国の要請を無視する事は、特に中華民国が参戦したばかりのこの時期には避けるべきだった。またイギリス自身が中華中部沿岸で作戦行動中のため、何もしないわけにもいかなかった。
 このため、香港の艦隊が形だけ出撃して日米の動きを牽制した。とはいえ、香港のイギリス艦隊は巡洋艦中心の小規模な艦隊で、東洋艦隊主力は到着したばかりと言うこともあってシンガポールで待機していた。対して台湾の日本艦隊は、《金剛型》戦艦4隻を中心にした大艦隊で、マニラのアメリカ・アジア艦隊は小規模だが日本海軍の重巡洋艦を中心とした艦隊が合流していた。
 結局イギリス艦隊は、日米海軍の牽制に成功するが、上海方面の戦況には何ら影響しなかった。そればかりか、日米の目を中華南部と東南アジアに向けさせる事になってしまう。

 上陸に際して日本の大船団は、最終段階で二手に分かれた。1個師団を乗せた船団が上海の南方の揚子江河口部から上陸し、主力の3個師団が上海の北東部の杭州湾に上陸した。
 1個師団の方は敵を足止めする役割で、主力3個師団は敵を背後から包囲殲滅するのが目的だった。
 これに対して現地中華民国軍は、上海南部の上陸は確定と考えてそれなりの準備を進めていたが、杭州湾への大軍の強襲上陸は完全に奇襲となった。このため杭州湾上陸は、日本軍が艦砲射撃支援に戦艦複数を派遣したのに、完全といえるほどの無血上陸となった。対して上海方面では、艦砲射撃支援は《足柄》などの重巡洋艦までだったが、第一航空艦隊による激しい空襲が実施された。また中華民国軍に対して広く浅く空襲が実施され、特に移動を妨げるための阻止攻撃が重視された。
 さらに現地中華民国軍は、日本軍の艦艇と空軍(陸海軍航空隊)が満州に集中していると考えていたため、空襲に対しても激しい混乱が見られた。
 日本軍は、上陸初日に先遣の機械化捜索大隊が包囲のための進撃を開始したが、ほんとど抵抗らしい抵抗は無かった。上海南部に重厚に作られた陣地群での抵抗は激しかったが、この段階での日本軍の目的が上海の危機を救うことにあるため、塹壕陣地群に誘い込むという中華民国軍の戦術は空回りしていた。
 そして中華民国軍は、その場その場で散発的な戦闘に終始するだけで、日本軍が急速に包囲網を狭めつつあるという噂(事実だった)が広まると浮き足立ち、激しい弾幕、空襲、艦砲射撃がさらに士気を砕いた。
 あとは満州の状態と大きな違いは無かった。しかも日本軍包囲下では、国民党の督戦隊(旅団規模)と逃げ出した部隊が同士討ちを始め、現地中華民国軍の混乱は拡大する一方だった。しかも薄いとはいえ既に包囲下なので、背を見せて逃げる事が難しく、その場で降伏するか軍服を脱ぎ捨てて周辺の農村に隠れる、という行動が目立った。せっかく供与されたイギリスからの兵器は、ほとんど何の役にも立たなかった。
 上海での戦闘は11月中に決着し、中華民国軍は上海に派遣した20万の兵力が、半数に満たない日本軍に包囲殲滅されてしまう事になる。そして本来なら日本軍の追撃戦となるのだが、ここでも兵力の不足、進撃のための物資不足のため、追撃は物理的に不可能だった。また、追撃すると言うことは首都南京を攻略するのと同義のため、追撃は限定的で南京への進撃は決して行わない事が政府及び陸軍の双方で決められていた。現地部隊もこの点は良く守り、軍事的にはやや中途半端な戦闘となった。

 上海での戦闘の結果、中華民国軍は総崩れ一歩手前に追い込まれてしまう。そして中華民国政府は、危険を感じて首都を南京から重慶に移転。要するに逃げ出した。
 だが、彼らが稼ぎ出した形の時間を、中華地域に進出してきた枢軸軍は無駄にしなかった。
 

●フェイズ10「第二次世界大戦(4)」