●フェイズ10「第二次世界大戦(4)」

 1940年11月18日の深夜、イギリス軍の国籍識別マークを描いた爆撃機の群れが突如日本列島に襲来した。
 戦争が新しいステージに進んだ象徴だった。
 襲来したのはヴィッカース・ウェリントン爆撃機。双発で4000ポンド(約1.8トン)程度の最大爆弾積載量を持つ、当時の世界水準にある中型爆撃機だった。胴体に羽布を張るなど既に旧式化している構造を持つが、その最大の特徴は長大な航続距離にあった。最大で7000キロメートルを誇る航続距離は、日本海軍の九六式陸上攻撃機と並んで大きな航続距離だった。
 同機体は、持ち前の長い足を利用して英本土からユーラシア大陸を横断して、一気に中華大陸内陸部の武漢周辺に用意された基地に展開した。そして事前に船で送り込まれた爆弾と、燃料を同じく船で来た整備兵に搭載してもらい、この時日本の不意を突く形で日本本土爆撃を実現した。武漢は揚子江中流部にあり、巨大な揚子江はこの辺りまで5000トン程度の船が遡行できるため、拠点にかなり向いていた。
 襲来した数は約30機。イギリス本土を飛び立った数はこの約二倍あったのだが、武漢まで到着できたのが約40機、そのうちすぐに飛行できた数が、この数字だった。
 わずか30機で、投下した爆弾の総量も50トン程度だった。だが、この時日本に与えた衝撃は非常に大きかった。日本本土が直接攻撃を受ける可能性は、英本国が中華民国に派兵したとしても限りなくゼロに近いと思い込んでいたところへの爆撃だったからだ。
 当然と言うべきか、日本本土の防空体制はほとんど取られておらず、一部の基地などに申し訳程度に高射砲が置かれていたぐらいで、都市はまるで無防備だった。都市防空用の戦闘機も事実上皆無で、イギリス軍機が飛来しても「蛇の目」と言われる国籍マークを軍人が日の丸と誤解した程の油断ぶりだった(※夜間なのでそれはあり得ないが)。
 幸いと言うべきか、イギリス軍も急な爆撃だったため、主に九州北部の各地が爆撃されるも殆ど見当違いの場所に爆弾を投下して、戦略的に見て被害らしい被害は無かった。また九州西部の佐世保に襲来した編隊は、当時演習中だった海軍の駆逐艦2隻から待避中に対空射撃を受け、2機が撃墜されていた。さらに帰路を予測した情報が各地に送られ、上海方面に展開していた第一航空艦隊の一部艦載機が夜明け前のインターセプトに成功し、3機を撃墜し2機を撃破した。合わせて、爆撃した機体のうち20%以上の大損害を与えた事になる。また3機がエンジンの不調などで不時着を余儀なくされた。これら損害は、イギリス空軍にとって予想以上の数字だった。イギリス空軍は、日本本土が完全に無防備だという事前情報を信じていたからだ。
 だが、本来日本の空を守る日本陸軍航空隊の面子は丸つぶれとなった。日本海軍も半ば同罪であり、日本陸海軍内では泥縄式に急ぎ日本本土の防空体制を整える事になる。陸軍は新型機の増産と航空隊編成を慌てて行ったほどだった。

 日本本土空襲を成功させたイギリス軍だったが、日本を大陸に進ませない戦略目的を優先したあまりにも急な作戦だったため、その後の爆撃は低調となった。また予想以上に損害を受けたことも、現地イギリス軍の行動を低調とさせる要因となった。このため日本本土爆撃は増援が到着するまで見送られ、中華民国を支援するという目的のもとで台湾への空襲が実施される。だが台湾には、既に日本陸海軍の航空隊がある程度展開し、日本本土が爆撃された事を受けて警戒も大きく上昇していた。しかし、目視や音でしか襲来が分からず、しかも夜間爆撃しか行われなかったので、当面は探照灯(サーチライト)や高射砲を配備して対処するしかなかった。
 なおイギリス本国の目的は、日本に対して積極的に攻撃することで防備の手間を取らせ、能動的な行動を取らせないことにあった。また日本を攻撃する事で、中立を維持しているオーストラリア、ニュージーランドを自陣営に引き入れる事にあった。実際日本は無防備の本土防空に多くの努力を割くことになる。
 しかし日本に対する行動は、政治的には大失敗だった。
 日本では爆撃に対して大きな衝撃を受けたが、厭戦気分の上昇や非戦傾向には結びつかなかった。むしろ激しい怒りとなり、日本政府に早期の反撃を迫るようになる。この点で重要なのは、日本人達が日本本土が攻撃されたことで戦争の現実に直面して戦争に対して本気になった事と、ヨーロッパに対する憎悪の感情を強くした事だった。
 これ以後日本は、「欧州を目指せ」を合い言葉に、容赦のない総力戦へと傾倒していく事となる。
 しかしこの時点での日本は、まだ守りを固める時期だった。
 攻勢に使う海軍についても、空母機動部隊は最低でも3ヶ月は使用不可能で総動員に近かった他の艦艇も整備と補給が必要で、攻勢が取れるのは早くても1941年2月だった。陸軍についても、戦時動員師団が一部であれ本格的に動かせるようになるのは、やはり1941年の春頃だった。
 このため日本政府は、中華民国の不意の参戦のため、「予定していた」東南アジア地域の開放と進駐の延期を決定。まずは、中華戦線の整理と、中華地域に入ったイギリス軍の撃滅に力を入れる事となる。

 11月に始まった東シナ海を挟んだ空の戦いは、初戦は英本国空軍が優勢に進めた。大陸横断の補給のため英本国空軍も、十分な日本本土爆撃は行えなかったが、当初のうちは日本各地を小数機で爆撃するなどして日本軍を大いに翻弄した。
 だが、12月に入ると日本軍が防空体制を少しずつ整えるようになり反撃を始める。満州に居た主力の一部が移動した事もあるが、1937年に始まり1939年秋から本格化した航空隊の大幅な増強が、多少形になり始めたからだった。海軍航空隊でも、空母艦載機以外でも零戦の姿が一般的に見られるようになり、中華内陸部の攻撃に随伴するようになった。ここで初めて、イギリス本国空軍と日本の戦闘機同士の空中戦が行われる。
 この戦いを「バトル・オブ・チャイナ」と呼ぶ事もある。
 当時のイギリス空軍の東方派遣軍は「ホーカー・ハリケーン」を主力戦闘機としていた。この戦闘機はどちらかと言えば一世代前の機体で、最新鋭の「スーパーマリン・スピットファイア」戦闘機は、まだ数が少ないこともあり遠方まで派遣されていなかった。また数は少ないが、後方の旋回機銃のみが武装という変わり種の戦闘機「ブラックバーン・ロック」も配備されていた。
 日本側は「三菱・零式艦上戦闘機」、「三菱・九六式戦闘機」、「中島・九七式戦闘機」が主力だった。このうち遠距離進出が可能なのは「零戦」だけなので、侵攻は「零戦」、防衛は「零戦」と他の戦闘機とされた。陸軍の新型機が戦列に参加するのは、一部試験部隊を除いて翌年春を待たねばならなかった。
 そして、「零戦」は圧倒的だった。
 熟練パイロットに優先して配備された事もあるが、やはり当時としては性能が高かったからだ。「ブラックバーン・ロック」では相手にもならず、「ハリケーン」も3対1以上の撃墜率を示した。「ブラックバーン・ロック」は数が少ないため、その変な姿も相まって、撃墜報告に対して虚偽ではないかと疑問視されたほどだった。
 また日本海軍は、当時まだ増加試作で試験段階を抜けていなかった新型爆撃機を投入する。
 当時の日本海軍は、「九六式陸上攻撃機」という華奢ながら非常に航続距離の長い爆撃機(攻撃機)を主力としていた。しかし元が偵察機に近い機体のため、機体が脆く武装も貧弱で搭載弾薬も800kgと少なかった。このため「零戦」が守りきれなかった場合、簡単にイギリス軍機に落とされた。現地の中華民国空軍機にもかなり撃墜されており、少し前に日本海軍で言われた戦闘機不要論までも吹き飛ばしていた。
 このため12月に急ぎ戦線に投入されたのが、「一式陸上攻撃機(深山)」だった。「深山」は三菱の火星発動機4基を搭載した大型爆撃機だが、非常に運動性が高く洋上で低空飛行しながら雷撃が出来るという非常に珍しい特徴を備えていた。開発にはボーイング社から招いた技術者の意見も参考にされ、大型機開発能力の優れたアメリカから有償無償で得た技術も多く採用されていた。このため、九六式で見られた華奢さはなく、今までの日本機にない重厚さを見せる機体に仕上がっていた。4基合わせて6600馬力に達する大馬力によって得られた余裕で、十分な強度を持つ機体を持ち、初期型でも武式12.7mm機銃を6門搭載していた(後に各種10門となる)。それでいて爆弾の最大積載量は4トンに達し、搭載量2トンの場合は航続距離6500kmに達した。似たような姿と性能のアメリカの「B-17・フライングフォートレス」と比較されることがあるが、防御力は「B-17」が速度と運動性では「深山」が優れていた。ただし製造コストは「深山」が高く、工場設備の関係もあって量産効率もやや低かった。三菱は専用の巨大工場を新たに造ったが、それでも生産効率はアメリカに及ばなかった。
 最大の特徴は雷撃ができる4発大型機という点で、通常の航空魚雷(800kg)なら最大で4本搭載できた。試作では、特注で艦艇に搭載する61cm魚雷の航空機用が開発、試射されたが、技術的に無理があるため実用化にまでは至っていない。それ以前の問題として、高度10mの海面を飛行できる4発機という時点でかなり異常であり、開発はかなり難航したという逸話が残っている。そして旧式化して以後は対潜哨戒機となり、高い洋上作戦能力と相まって「サブマリン・キラー」と呼ばれることになる。
 バトル・オブ・チャイナでは、初期型の12機が初陣を飾り、今までにない爆撃量を見せつけ敵に大打撃を与えた。また初陣では迎撃に出たハリケーンを撃墜しており、九六式とは違う防御力の高さも証明している。「深山」は日本海軍が送り出した「空の要塞」だった。

 バトル・オブ・チャイナは、日を増すごとに日本軍が有利になった。これは当たり前の話しで、1万キロメートル以上遠方から機体から爆弾、燃料、整備、修理部品など全てを持ち込まなくてはならない枢軸側(イギリス空軍)に対して、日本軍はほとんど本土からの作戦だったからだ。しかも短期戦だから、尚更日本が有利だった。枢軸側は、年を越す頃にはドイツ、イタリアの航空隊も慌てるようにチャイナに送り込んだが、規模など全てが中途半端だったため日本軍に撃墜数を増やさせるだけに終わった。
 ただしイギリス軍は、1940年の末に現地にレーダーを現地に持ち込んで稼働させ、優れた航空管制を実施することで、日本軍に対する戦いをかなり押し返す事に成功している。戦況を完全に覆すには至らなかったが、数が少ないはずの枢軸側が効果的な迎撃をしてくる事に、日本軍はかなりの苦戦を強いられた。この事は、日本軍の空での戦いに、その後大きく影響したほどだった。
 なお、1941年春にほぼ終わった約4ヶ月間の戦いの総決算は、日本側の約100機の損失に対して、枢軸側は200機以上を喪失した。そしてそれ以上に、枢軸側は遠隔地の補給作戦で大きく疲弊する事になる。前後して始まった東南アジアの戦いでの体たらくが、チャイナでの戦いのツケを物語っている。
 だが、日本軍の最初の反撃といえる東南アジア侵攻はもう少し先の話しであり、東アジア以外の戦線も動き始めていた。
 もちろん、アメリカと枢軸陣営の戦争だ。

 アメリカ合衆国は、1940年8月15日にドイツ、イギリス本国に最後通牒を渡し、48時間後の8月17日に戦争状態に突入した。日本と満州が中華民国に攻め込まれると、間髪入れず宣戦布告も実施した。
 東アジアでは、フィリピン軍司令官のマッカーサー将軍が日本と中華民国の戦いに日本側に立って参戦したが、規模は非常に限られていた。マッカーサー将軍が上海乗り込みの際に報道各社に発言した「ウィ・マスト・ゴー(We must go)」の言葉はその後のアメリカ軍の合い言葉の一つとなったが、1940年のうちはアジアではほとんど何もしなかった。というより出来なかった。
 9月末頃から、アジアどころでない状態にアメリカ本土近海が危機に瀕したからだった。
 危機の原因は、枢軸側の潜水艦による無制限無差別通商破壊戦だった。
 一般的に戦前アメリカ海軍は、輪形陣という戦術を組み上げるなど、潜水艦対策が進んでいると思われがちだった。大海軍国なので、駆逐艦の数も多かった。自国海軍内だけでなく、アジア、太平洋での事だが、日本海軍との間の合同訓練すら実施していた。(もっとも対潜水艦訓練はほとんどせず、日米共に水上戦闘の訓練を好んだ。)
 しかし蓋を開けてみると、何も出来ない赤子に等しかった。なぜなら、アメリカ海軍には商船と航路を守る戦術がほとんど何も無かったからだ。しかも戦術がないだけでなく、駆逐艦以外に対潜水艦用の護衛艦艇にすら事欠いていた。水上艦の通商破壊艦に対しては、アメリカ海軍も水上艦を動員することで対応できたが、潜水艦に対してはほとんど何も出来ないに等しかった。潜水艦キラーの筈の駆逐艦も、かなりの時期まで対潜水艦用爆雷の数が全く足りず、慌てて太平洋艦隊の有するものを大西洋艦隊に回しても全く足りていなかった。空母艦載機はある程度の対潜水艦攻撃力を最初から持っていたが、全ての面のコストを考えると安易に投入できる戦力ではなかった。
 これに対して枢軸側は、イギリスはアメリカのせいで亡命者が増えたと憎悪を増していた事もあり、ドイツ、イギリスの潜水艦隊のほとんどが大西洋側のアメリカ航路に作戦展開させた。枢軸側の潜水艦は、カリブ海ばかりかメキシコ湾にまで侵入し、カリブ海でもパナマ運河近辺にすら出現した。支援船舶が大西洋各所に派遣されたため、潜水艦の活動は非常に活発だった。
 11月に入るまでの約二ヶ月間に沈められたアメリカ商船は、総量1200万トンのうち実に200万トンにも達した。ほとんどが鈍足の経済性を優先したタンカーで、しかも航路が遮断されたに等しい状態のため、アメリカの東部ではガソリンなどが不足する事態となった。

 アメリカの窮状を見かねた日本は、まず簡単な「アドバイス」を行った。まずさせたのは、とにかく陸軍機でもいいので洋上で飛行機を飛ばして、潜水艦の行動を妨害、牽制することだった。第二次世界大戦当時の潜水艦は、常時潜る事が実質的に不可能なので、航空機が海上を飛び回るだけで一定の効果があった。次に、小型で命中率が悪くても航空機から爆弾や爆雷を落とせばよいとアドバイスしたが、当時のアメリカ軍には航空機用の対潜水艦機材が絶対数で大きく不足していた。
 他の事象についても、駆逐艦に爆雷を搭載して護衛する以外にほとんど手だてがなく、その爆雷すら不足していた。数が確保できる「めざし」状態で保管されている旧式駆逐艦を戦線に投入して数を補うには、最低でも三ヶ月の準備期間が必要だった。乗組員の訓練などを考えると、最大で半年もの時間が必要だった。
 そして、たまりかねたアメリカ政府は、自国より対潜水艦戦術に優れている日本の助力を要請するに至る。
 これに対して日本政府は、「遣米艦隊」の派遣を急遽決定する。全ては、日米友好を初戦の段階から実現するための政治的判断だった。このため手抜きは許されなかった。
 日本海軍は、自分たちが東シナ海で運用する予定で戦闘状態に持ち込んだばかりの第三水雷戦隊に、艦攻を満載した軽空母《祥鳳》、道中用の高速補給艦をつけて一路大西洋をめざさせた。また後発組として、現地での補給用の高速弾薬運搬船と交代の為の第五水雷戦隊と軽空母《瑞鳳》が、半月の時間を空けて出発した。当時6個の水雷戦隊を有していた日本海軍だったが、実に三分の一がアメリカに派遣されたのだ。艦隊規模が大きくなるため、遣米艦隊旗艦用の練習巡洋艦《香取》が後発組に含まれたほどだった。
 「遣米艦隊」の先発組は10月第二週に日本本土の横須賀を出航して、早くも三週間後にはカリブ海での対潜水艦活動を開始、さらに翌週にはアメリカ東部沖合での対潜水艦活動を開始する。
 この「遣米艦隊」は、もともと日本海軍が対潜水艦戦を重視して改装した駆逐艦を中心としていた。旗艦となる軽巡洋艦も旧式艦を改装して、対潜水艦戦用に特化していた(電探も早期に搭載予定だったが、この出撃には間に合わなかった。)。随伴した軽空母《祥鳳》の航空隊も、対潜水艦戦の訓練を行っていた部隊の一部だった。実験性の高い艦隊で、本来は実戦での評価試験を兼ねて東シナ海の制海権獲得に活用する予定だった。各駆逐艦には、開発されたばかりの零式水中探信儀(アクティブ・ソナー)、零式水中聴音器(パッシブ・ソナー)が新たに搭載され、爆雷搭載数も180発まで可能とされていた。
 日本海軍が、当時の世界水準を超えるほどの装備を有していたのは、何を置いても第一次世界大戦での苦戦の影響で、さらに海軍休日時代の対潜水艦戦術重視の方針のためだった。また、かなり官僚組織的だが、予算消化のために新装備開発に予算が毎年投じられた事が、新装備開発と新戦術実現にはかなりの効果があった。
 また、これも試作段階だが、一部の駆逐艦には迫撃砲を応用した対潜弾発射装置が付けられていた。これは前方に対しての攻撃手段であり、今までの演習での結果開発が進められていたものだった。ただし、当時は開発というよりもまだ技術的、経験的にも模索段階のため、非常に心許ない装備でもあった。
 だが乗組員達の努力もあり、短期間の内に着実に成果を挙げた。洋上哨戒を大幅に増やしたアメリカ陸海軍機との連携もあって、油断もあったイギリス本国、ドイツの潜水艦を次々に撃沈した。しかも1隻は、航空機と駆逐艦で追い回した末に浮上降伏に追い込んでいた。
 一ヶ月後に第五水雷戦隊に交代するまで、第三水雷戦隊と《祥鳳》が沈めた敵潜水艦数は7隻で、毎週2隻を沈めた計算になる。当時としては、非常に大きな戦果だった。
 このため、補給と整備のため日本艦隊がノーフォークに入港すると、アメリカ市民が大挙押し掛けて絶賛した。戦隊旗艦の旧式軽巡洋艦《那珂》は一躍アメリカ中で有名になり、新聞各紙の一面を飾ったほどだった。
 なお、軽空母と駆逐艦戦隊を組み合わせた専門部隊は図に当たり、その後アメリカでも「ハンター・キラー」部隊としていくつも編成されていく事になる。しかも日本海軍の場合は、状況によっては高速発揮も可能のため、多少贅沢ではあるがその後出現したアメリカの同種の部隊よりも有効性と柔軟性は高かった。
 また、日本海軍が前の世界大戦から今まで地道に培ってきた対潜水艦戦術は、その後連合軍の対潜水艦戦術の基礎となっている。

 1941年を迎えてもアメリカの東部沿岸の混乱は続いていたが、アメリカは徐々に冷静さを取り戻していった。
 潜水艦キラーの「遣米艦隊」は部隊をさらに増強し、その後アメリカ東部やカリブ海で活躍することになる。艦隊の目的が日米の結束を高めるという、主に政治目的の為だった。
 だが日米の共同作戦の舞台は、すぐにも東アジアでも開かれることになる。

 1940年12月初旬、日本は予想外の戦場となった中華地域を舞台に戦わざるを得なかった。だが、日本本土にも近い中華民国とばかり戦っていては、いつまで経ってもヨーロッパへ軍を進めることは出来なかった。故に中華民国との戦いを一日でも早く終わらせる作戦の第一弾として、欧州枢軸軍から伸びる中華民国への輸送路の遮断を目的とした作戦が、かなり前倒しで実施される事になる。
 だがこの時動員できる艦隊は、水上砲撃戦部隊ばかりだった。戦艦を中心とする艦隊は、満州、上海で船団護衛と艦砲射撃任務を行ったが、簡単な整備と補給ですぐにも再出撃が可能だった。対して空母はしばらく使用できないので、制空権を確保できない遠隔地へいきなり攻め込むことは出来なかった。
 このため主な作戦目標は、台湾からの空襲も可能な香港を中心とする広州地域が選ばれた。香港を起点とした広州地域が、欧州から伸びる補給路の船での終着点になっていたからだ。
 しかも香港は英本国に属しており、阿片戦争以後イギリスの東洋支配の象徴であるため、政治的にもここを攻略することには大きな価値があると考えられた。
 なお香港近辺には、有力な欧州枢軸軍(地上軍)がいなかった。航空隊用の基地が急ぎ建設中だったが、まだ造成中だった。現地の中華民国軍も希薄で、少ない戦力を奇襲的に投じることで電撃的に広州地域を占領し、その後で防備の固い香港を攻め落とすことになった。
 しかしイギリス本国も、日本軍がすぐにも香港そして東南アジア地域を目指すことは分かっていたので、まずは艦隊を派遣して日本軍の動きを抑止しようとした。これが秋に大挙増援された「東洋艦隊」だった。
 それまでの東洋艦隊は、旧式の軽巡洋艦、旧式駆逐艦が五本の指で数えるほどしか配備されていなかった。そして6月には、日本海軍の南下を警戒して一旦姿を消していたほどだった。だが8月に情勢が変わると、イギリス本国で編成された強力な艦隊として復活した。

 この時点でのイギリス海軍は、7月までの戦争で戦艦、巡洋戦艦は《ロイヤル・オーク》、《ネルソン》を失い、8月までに《ウォースパイト》《クィーン・エリザベス》《レパルス》の3隻が離反していた。最新鋭の《キング・ジョージ五世》はこの年の12月就役なので、合計数は10隻となる。
 空母は《フェーリアス》が離反し、戦争で《カレイジャス》《グロリアス》が沈んだので、旧式の《ハーミーズ》《アーガス》《イーグル》と新型の《アーク・ロイヤル》、就役したばかりの《イラストリアス》があった(※《イラストリアス級》の3番艦、4番艦はドイツへの賠償予定になっていた。)。
 他大型艦だと、重巡洋艦は戦没はまだなく3隻が自由政府に属していたので、残り9隻あった。さらに大型の軽巡洋艦10隻のうち8隻が英本国に属していた。
 これらを中核とした英本国海軍は、陣営としてドイツを中心とする通称「欧州枢軸」に属しているため、基本的に7月まで重視していた地中海は、取りあえずガラ空きでもよくなった。インド洋も警備程度でよく、艦隊は本国を含む北太平洋方面と東南アジアに集中すればよかった。
 なお、ドイツへの戦時賠償は、戦艦の賠償は他国での運用の難しさから見送られ、建造中の装甲空母2隻と既存の軽巡洋艦4隻、駆逐艦20隻が当てられることになり、この時期順次ドイツに引き渡されているので、離反を含めるとイギリス本国海軍の台所事情が良いわけではない。

 この時英本国海軍は、《ロドネー》と巡洋戦艦を自らの手元に置き、思い切って残り全てをアジアへと派遣した。旧式戦艦の群れで、あわよくば日本海軍の東南アジア侵攻を止めるだけの損害を与えられればよいという割り切った考えでの派遣だった。このためか、空母は旧式で小型の《ハーミーズ》しか随伴していないし、巡洋艦や駆逐艦も比較的古い艦艇が多かった。これを、日本人に対する人種差別からくる侮りと取る説も多い。旧式艦で十分、というわけだ。
 そして派遣当初は、艦隊主力はシンガポールに入って調整に入り、香港まで進んだのは巡洋艦を中心とする小規模な艦隊だけだった。だが、日本軍が香港方面へと駒を進めるとなると、面子もあるのでイギリス側も応えざるを得なかった。しかし、この時イギリスが要請したオランダ東インド艦隊の参戦及び出撃は、オランダ本国政府が拒否。ドイツも支持したため、英本国東洋艦隊が期待した増援戦力は加わらなかった。
 シンガポールから香港沖へと進んだ英本国東洋艦隊は、《クィーン・エリザベス級》戦艦《バーラム》《マレーヤ》《ヴァリアント》、《ロイヤル・ソヴェリン級》戦艦《ロイヤル・ソヴェリン》《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》、軽空母《ハーミーズ》、軽巡洋艦4隻、駆逐艦10隻だった。
 シンガポールからの大艦隊出撃の情報が伝わると、既に台湾を中心に主力が前進していた日本海軍も活発な活動を開始した。またマニラのアメリカ・アジア艦隊も動き始め、アジア方面での大規模な海上戦闘への機運が高まった。
 日本側は艦隊を第一艦隊と第二艦隊の二つに分け、多数の戦艦、巡洋艦を各1個の水雷戦隊が護衛していた。しかし空母は最古参の軽空母《鳳祥》しか稼働艦がなく、臨時に防空と制空権獲得を目的に特化させて、12機の零戦を搭載して随伴しているだけだった。

 香港の南方、南シナ海の北側で両軍は会敵し、12月5日に「南シナ海海戦」が発生する。
 互いに旧式の軽空母1隻ずつだったが、アジアで初めての空母対空母の戦いは、日本側に軍配が挙がった。イギリスの《ハーミーズ》は、6機の攻撃機を偵察爆撃の形で出撃させるも全機失う大損害を受け、12機乗せてきた「フェアリー・フルマー」戦闘機は、零戦に対してダブルスコア以上の大差で撃退され、制空権まで失ってしまった。なお「フェアリー・フルマー」は複座の戦闘爆撃機で、緩降下爆撃ができる重武装ながら多くの面で中途半端な機体だった。8門装備された7.7mm機銃も、日本軍搭乗員から重戦闘機と言われた零戦の高い運動性の前には、無駄に弾をばらまくだけだった。
 一方で、多数の戦艦が参加した戦艦同士の砲撃戦は、結果として締まりのないものに終わった。
 日本海軍は、日露戦争の時の日本海海戦の再来を狙うかのように、保有する戦艦10隻全てを海戦に投入した。にも関わらず、思惑は完全に外れてしまう。
 原因は主に二つあった。
 一つは、優勢な日本艦隊を前に、イギリス東洋艦隊が消極的な戦闘に終始した事。もう一つが、両者共に大規模な洋上艦隊決戦の経験が無かったという事だった。特に日本艦隊は、大規模な艦隊を動員しすぎた為、統一した行動が取りにくく艦隊運動は混乱ばかりが目立った。主力の第一艦隊と高速戦艦を中心とする第二艦隊に分けて挑んだが、演習のようにはいかなかった。また、イギリス側がまともに組み合わなかった事もあり、両者3万メートル近い遠距離での遠距離砲撃戦に終始し、しかもイギリス側が自らの砲撃よりも回避を優先した為、ほとんど命中弾は得られなかった。
 見敵必殺からはほど遠い戦闘だった。
 そして大遠距離射撃は、命中率が非常に悪くなるが砲弾が高い角度で降り注ぐため、万が一命中した場合は一撃で致命傷を受けやすい。実際、戦艦《長門》の放ったたった1発の砲弾が、戦艦《バーラム》の機関部を打ち抜いて大損害を与えた。そして日本の第二艦隊がイギリス艦隊に迫りつつあった事もあり、イギリス艦隊は後退を決意する。後はイギリス側によって敵の追撃を阻止するための雷撃と煙幕展開が実施され、戦闘は中途半端なまま終幕した。
 お互いの距離を詰める前に戦闘が終わった為、日本の水雷戦隊はまともに雷撃する機会も得られなかった。重巡洋艦は突撃しつつ2万メートル以上の遠距離から砲撃戦を挑んではみたが、数発の命中弾を得るも敵艦撃沈にはほど遠く、弾をばらまくだけに終わった。
 だが、機関部に大打撃を受けた戦艦《バーラム》は撤退もままならず、艦隊司令部の命令もあってキングストン弁を抜いた上で浮上降伏し、その後日本軍の雷撃によって沈没している。
 戦闘自体は、イギリスが撤退した事と戦艦1隻を失ったので、日本海軍の勝利に終わった事になる。
 しかし戦闘は終幕ではなく、日本艦隊が広州方面の上陸作戦を開始すると、東洋艦隊に属する潜水艦の襲撃が相次ぎ、輸送船複数が撃沈される大損害を受けた。さらに艦砲射撃支援に当たっていた戦艦《陸奥》も被雷し、それが3番砲塔の弾薬庫近くだった為、現場にいた日本海軍将兵をヒヤリとさせた。しかも対潜水艦用の新装備を持つ部隊を優先してアメリカに派遣していた為、ごく小数と思われる潜水艦にも十分に対処出来なかった。
 また、散発的ながら地上基地からの空襲が相次ぎ、輸送船や艦艇への損害も出た。加えて、上陸部隊の予想以上の遅延も発生し、地上の敵が大きな戦力だったら大変な事になっていたと、簡単に予測させる事態となった。

 かくして、1940年内に得た一連の戦訓から、日本軍、特に日本海軍は新時代の戦争に必要な事を数多く学び、そして早急に反映させることを決める。
 北米で得た対潜水艦戦術(群狼戦法への対処まで)、航空戦に必要なレーダー、高性能無線機を組み合わせた管制能力が主なところで、さらには全ての兵器に高性能無線機を搭載することも重要視された。レーダーについても、一部で言われた電波を出すことの弊害よりも、敵を見付けて正確に捉える事が重要だと理解された。「南シナ海海戦」で、制空権を奪われたイギリス東洋艦隊の行動が常に日本海軍を上回っていたのは、日本側で試験的に搭載されたレーダーの逆探知装置の結果から、イギリス艦隊がレーダーをかなりの数装備して活用していると考えられたからだ。
 だが「南シナ海海戦」の戦略的勝者は日本海軍であり、大規模な修理能力のない英東洋艦隊は出撃したくても安易な出撃は出来ず、抑止を目的としてシンガポールに後退せざるを得なかった。
 だが日本にとっての中華での戦いは、まだ途中だった。


●フェイズ11「第二次世界大戦(5)」