●フェイズ101「科学の時代」

 1950年代は日本では「科学の時代」と言われることがある。
 とはいえ、軍事面がやや目立つ。各国での原爆、水爆の開発、日本から始まった原子力潜水艦の登場、ソ連の大陸間弾道弾の実用化など枚挙にいとまない。アメリカとソ連をそれぞれの中心とした政治的、軍事的対立が、軍備増強を促したからだ。一方では、純粋な科学技術の成果もたくさんあった。
 軍事技術の応用にもなる原子力発電の登場は、未来のエネルギーを予感させた。大陸間弾道弾開発の技術を応用した宇宙ロケットと人工衛星も、華々しさという点で抜きん出ていた。
 そしてロケットと人工衛星による宇宙の解明が始まる頃、地上でも一つの大きな科学的イベントが世界規模で行われた。
 1957年から58年の「国際地球観測年」に行われた南極観測だ。

 南極は他の地域から孤立し、気象条件が極めて厳しい大陸で、有史以来人が入り込むのを拒んでいた。現在でも定住する人類がいない唯一の大陸だ。
 日本の南極大陸の探査は、1910年の白瀬矗(しらせ のぶ)による探検に始まる。日本政府はこの探検を承認するも冷淡で、白瀬は資金の多くを民間に頼った。この援助では日本国民が熱狂的に募金を行ったが、満州の東鉄が世界中から情報や必要な機材集めも支援しており、南極に赴くための船も東鉄も支援した。このため、純粋には日本による観測ではないと言われることもあるが、東鉄の支援と途中にオーストラリアへ立ち寄った時の現地での支援がなければ、日本初の南極探検は実行自体が不可能だった可能性は高い。日本初の南極探検はそれほど貧弱な体制で行われた。なお東鉄が支援したのは、白瀬との間に南極の情報入手の約束を交わした事と、日本国民への宣伝のためだった。
 その後日本では、南極のことはほとんど忘れ去られた。しかし1920年代になると、大型母船を中核とした大規模商業捕鯨で南極海(南氷洋)に赴くようになり、再び南極という文字が日本人認識されるようになる。生活、所得の向上で鯨肉の需要が伸び続けた為、日本の商業捕鯨は他国が鯨油だけを取るのと違い食用として拡大した。そうした捕鯨の最中に捕鯨船にペンギンが迷い込み、日本の水族館に初めて南氷洋から連れ帰ったペンギンがやって来たのは1930年代初頭の事だった。
 その後、日本でのペンギンの数は増えるが、戦争もあって南極とは鯨とペンギンの海という認識以上にはならなかった。
 次に日本人が南極に赴いたのは、大戦後の1948年の事だった。
 アメリカとの合同南極調査「オペレーション・シャングリ・ラ」で、日本からは軽砕氷艦《大泊》や緊急改装でヘリコプター搭載能力を持った巡洋艦《酒匂》など4隻が参加した。軍艦が参加したように軍事色が強い調査で、一説にはナチスドイツの残党が潜んでいないかの調査だったと言われるほどだ。しかし何事もなく、日本は南極半島の一角に一時滞在の観測所と物資備蓄拠点を設けるも、南極の夏が終わると引き揚げていった。またこの時の調査は、国民にはあまり知らされてもいなかった。
 そうして1957年の国際地球観測年を迎えるが、南極に赴くに当たり問題となったのが砕氷船だった。

 当時有力な砕氷船を保有するのは、主に北極に面する国だけだった。アメリカ、ソ連、カナダ、北欧諸国だけで、北欧諸国の場合は冬に凍り付くバルト海用に砕氷船を有するスウェーデンのような例もあった。そして日本の場合は、オホーツク海での活動に砕氷船が必要だった。
 国としては、ソ連と国境を接するので航路護衛と国境警備用に砕氷船を有していた。また樺太北部のオハ油田から、冬でも石油を運ぶタンカーの航路開削用に中型の砕氷船があった(※厳冬期除く)。他には、本州北部、北海道と南樺太を結ぶ貨客船が砕氷能力を有している。また、北樺太などを有する極東共和国向けに、中小の砕氷船を建造した。ウラジオ=新潟航路に従事する貨客船なども一部がそれに当たる。(※ウラジオも真冬は流氷が来る。)
 これら、それなりの質と量の砕氷船を建造・保有してはいたが、基本的にはオホーツク海の薄い氷を割れるだけ能力しか無かった。船の中には、技術向上のため最新鋭の技術が使われている場合もあるが、それでも連続砕氷能力は1メートルだった。南極に行くためには1メートル以上の氷が割れる方が望ましく、最低でも1,5メートル必要と考えらえた。また、荒波で知られる南極海を越えるには、大型船の方が好ましかった。
 国の威信をかける計画なので予算、人材は潤沢だったが、とにかく時間が無かった。大型の南極観測専門船の新造が決まったが、その登場は早くて3年後だった。そしてそれなりに数のある砕氷船だが、南極観測船として引き抜くと地域経済に影響を与えてしまうため、民間用の砕氷船を簡単に引き抜くわけにもいかなかった。
 そこで白羽の矢が刺さったのが「宗谷(二代目)」だった。
 「宗谷」は海軍保有つまり政府保有の公用船なので、すぐにも任務に充てることが可能だった。
 「宗谷」は、日本の北方と極東共和国の沿岸部警備を主目的に建造された中型の砕氷船で、満載排水量8000トンと日本が保有する砕氷船の中では比較的大きかった。艤装も凝っており、砕氷船としての機能の他にソナーや電波測定装置(後のレーダーの原型)を搭載するなど、冬の視界の悪い海での行動が容易になっていた。さらに有事には北の海での仮装巡洋艦としての能力を求められたので、過剰な能力が盛り込まれた。
 もっとも、建造当初は戦時徴用を目的としていた為、就役後は民間の貨客船としてオホーツク海などで行動した。戦争が始まると予定通り徴用され、戦争初期は仮装巡洋艦に改装されて6インチ砲、水上偵察機などを搭載して出撃。初期はソ連を警戒してオホーツク海で行動するが、その後インド洋ではかなりの戦果を挙げ、被弾した魚雷が不発だったりと幸運にも恵まれた。だが、もとが砕氷船のため最高速力が限られ、しかも仮装巡洋艦自体の役割も無くなったため、戦争中盤以後は海軍保有の輸送船として過ごす。船団護衛では、ソナーやレーダーを装備することから重宝されて輸送よりも船団護衛に活躍し、共同戦果ながらドイツのUボートも撃沈している。冬の間は、北極圏での作戦行動に重宝された。
 戦後になると、戦中に輸送船(=戦時輸送船)が大量に増えすぎたため民間での使いどころが無かったが、装備が優秀だった事もあり海軍の海上警備、海上警察用としての運用が行われた。主に砕氷船としての能力を活かして北方での哨戒活動と、灯台など軍、政府施設への人員、物資輸送に活躍し、北の海では有名な船となった。
 そうして近代改装か代替艦の建造が考えられていた頃に、南極観測船の話しが舞い込む。しかし南極に行くには能力不足が明らかなので、砕氷能力の強化、ヘリコプター搭載能力の獲得など当時できる限りの改装が突貫工事で実施され、何とか任務に間に合っている。
 なお、日本の南極観測は二段構えで、「宗谷」だけが南極観測に参加したわけではない。日本政府は、1948年にも赴いた南極半島の一角と大陸本土の二カ所に恒久的な観測基地を建設する予定で、本格的な砕氷船は宗谷1隻ながら、途中までの補給を含めて6隻の船が計画には関わっていた。
 日本の南極観測そのものは大成功で終わり、最低でも南極半島の基地は恒久的に運営されるようになる。国民も大喝采し、大陸本土に建設された「昭和基地」の方も、大国としての威信を維持するために継続して維持される事が決まり、米ソに次ぐ科学的成果を挙げていくことになる。南極での樺太犬の活躍も、観測初期の頃の事だ。

 一方、科学の発展の象徴として見られる事の多い宇宙開発だが、日本も国家の威信をかけて追いかけられる限り米ソに食らい付いた。
 日本でのロケット開発は、実のところ戦争前の1930年代から始まっている。主に軍事利用が目的で、辛うじて気象観測ロケットが後を追いかける形で登場している。
 開発を推進したのは日本海軍で、当初は「空中魚雷計画」と言われていた。1930年代に急速に技術が向上する航空機から、艦艇に有効な打撃を与える攻撃を行う一環として計画が開始されたが、当初の規模は小さかった。海の物とも山の物とも分からない新規技術に、日本人は保守的な場合が多かったからだ。当初は、日本陸軍での無誘導ロケット弾の方が開発が盛んになったほどだ。しかし、第二次世界大戦の勃発で状況が一変する。科学技術に優れたドイツを中心としたヨーロッパの全てを敵とした事で、何でも良いから戦力の急速な強化が目指されるようになったからだ。新規技術開発の予算も潤沢となり、「空中魚雷計画」は「誘導弾計画」へと名を変えて、規模をそれまでの数十倍にして行われるようになる。
 当初利用された推進剤は固定燃料で、要するに火薬による推進力が利用された。精密な制御は難しいが、管理が簡単で短時間なら簡単に大きな推力が得られるため、無誘導ロケット兵器として1941年頃には試作され、続々と様々なロケット兵器が前線に配備されるようになる。そうした中で、有人ロケット戦闘機計画も加わり、ロケット開発の規模はさらに大きくなる。
 戦争中には、ドイツを真似た液体燃料ロケット推進の「五式奮進戦闘機 秋水」などの試作のロケット戦闘機が開発され、「五式対艦誘導弾」などの対艦誘導ロケットも実戦配備にこぎ着けた。しかしロケット戦闘機は実戦配備するには危険も多く、ほとんど実験段階で開発は中止されて、ジェット機開発計画に吸収された。
 一方の誘導ロケット兵器の方は、一時はドイツの同種の兵器に触発されて開発が進むが、1945年夏以後は標的とする敵艦艇の激減によって計画も縮小してしまう。それでも、終戦までに有効射程20キロメートルでレーダー誘導型の長距離対艦誘導弾の「六式対艦誘導弾」が開発された(※ただし、実用性は低かった。)。
 そして今までの様々な研究開発の成果を応用して、空中発射による高々度に対するロケット実験も行われた。ドイツなど欧州本土上空の気象観測が目的で、かなりの成果が出た。

 戦後になると、ロケット開発は兵部省として軍全体で統合的に行う事になる。しかし気象観測など軍事以外のロケットの開発と運用の方は、文部省、気象庁など別の省庁で行われた。開発も、それまでの慣例から東大が主導した。そして気象観測用ロケットなど学術目的のもの、は予算不足の影響と飛翔体が小型でも問題ないため、戦争中に大量に生産して余った固体燃料ロケットが材料として用いられた。
 一方軍の方は、航空機メーカーを中心に軍需企業が大規模に参加して、より大きな威力の弾頭をより遠方に飛ばす事を目指すようになる。遠距離攻撃手段を戦略空軍に独占させない為で、戦略空軍以外の海軍、陸軍が共同歩調をとなるなど、今まで見られなかった競争と対立構造が見られるようになった。加えてこちらには、大阪に陣取る経済系の省庁が、文部省、東大中心の技術開発を嫌がって大挙参画していた。
 そして開発に関わったのは大学よりも企業で、主に西日本の航空機メーカーが開発に携わった。エンジン開発では石川島播磨重工(1960年合併)が全面参加したが、この影響で一時三菱財閥と石川島播磨の関係が悪化したと言われる。三菱は日本政府の求めで東大と協力関係にあったため、軍の誘いを中途半端にした受けられず、それが西日本のメーカー(川崎、川西など)が中心になった最大の理由でもあった。三菱は、日本の官僚組織の争いのとばっちりを受けた形だった。世界初の原子力潜水艦に搭載された巡航ミサイルも軍が製作し、企業は関わらせてもらえなかった。
 そして軍が大型ロケット用として目を付けたのが液体燃料だった。

 液体燃料ロケットの草分けと言えばドイツで、ナチスドイツは戦争中に「A-4(V-II)」と名付けた準中距離弾道弾を大量に実戦投入していた。
 その現物と生産工場のほぼ全てを占領したソ連が手に入れたが、一部現物を日本も手に入れることに成功していた。
 どうやったかと言えば答えは意外に簡単で、ソ連軍の占領地をロシア人の(賄賂込みの)了解のもと我が物顔で動けた満州帝国軍とその支援に当たる東鉄(東アジア鉄道)が、ソ連の次に生産工場などを訪れて帰りの専用貨物列車に乗せて満州に持ち帰ったのだ。そしてその一部を、日本やアメリカは大金を積み上げるか、匹敵する対価と交換で手に入れた。一部の機材は、フランスにあった発射施設などからも接収されたが、多くはアメリカが持ち去った。
 さらにアメリカは、ドイツでのロケット開発の第一人者のフォン・ブラウン博士とその周辺の者の亡命を受け入れるなど、幸運もあって人材面でもソ連に負けない成果を得ている。
 旧ドイツのロケット開発は、戦争末期はチェコ国境に近い山岳地帯に疎開しており、フォン・ブラウン博士らも防空壕を兼ねたトンネル施設で開発と生産を継続していた。そして終戦前後に冒険活劇さながらの逃避行で、オーストリア国境付近にいたパットン将軍の部隊に亡命のため投降していた。
 なお、契約金の兼ね合いと博士らがアメリカがダメだった場合の保険として、彼らの一部がアメリカから移民の形で日本にも亡命している。また日本は、他にも満州帝国経由でドイツのロケット技術者の一部を亡命で受け入れ、さらにかなりの技術情報も入手していた。
 そして日本は、米ソに劣る国力、軍事力で世界の多くの部分を背負わねばならない不利を少しでも縮めるべく、新兵器の開発に勤しんだ。開発の規模や予算はともかく、熱意と革新性は一時期アメリカを上回り、実際かなりの成果を挙げた。
 そしてこれに一番焦ったのが、米ソではなく日本の戦略空軍だった。

 戦後日本での核戦力、遠距離攻撃戦力の独占を狙う戦略空軍は、重爆撃機から発射する各種誘導兵器の開発を熱心に進めていた。一部大型誘導ミサイルは日本海軍とも協力したが、戦略空軍としては自分たちの立場を確保するためにも独自の戦力確保に力を入れざるを得なかった。そして陸海軍(+各省庁)が大型ミサイルの開発に力を入れている状態で、政治的、資金的、さらには人材、予算の劣勢は免れなかった。重爆撃機からの空中発射型は、陸海軍の目指す大型ミサイルよりも開発予算や費用対効果は安く済んでいたが、人材面での開発の遅れは確実に存在した。しかも、東大中心の学術重視の開発と共同歩調を取ることも難しかった。
 そこで戦略空軍が目を付けたのが、隣国の満州だった。近隣の同盟国で日本の新興メーカーも多く進出しているので、兵部省や各省庁、さらには内閣も説得しやすく、比較的簡単に満州帝国空軍と満州のメーカーとの共同開発が決まる。
 そして戦後の満州帝国空軍と軍用機メーカーは、ジミー・ドーリットルを頂点とした合理主義集団と化していた。
 ドーリットルは、第二次世界大戦で満州帝国空軍を率いた人物で、戦後は元帥に昇進するも若くして後身に譲って軍を退役(※名目上元帥位は維持される。)。1948年には、大きな航空機生産部門を持つようになっていた満重の経営顧問に就任する。他にも東鉄、日米の航空機メーカーにも役職を持ち、極東の空での最重要人物と言われていた。特に満州の軍民を問わず、空に関する全てに影響力を有していた。その彼と日本戦略空軍は手を結び、巻き返しをはかった。
 そして戦略空軍のロケット兵器開発は進むが、満州の方では重爆撃機から衛星軌道にロケットを打ち上げてしまおうという、当時としては野心的な計画が満重のロケット開発部門を中心とした民間企業主導で進んだ。合理性を突き詰めて小規模、低コストで、しかも最短ルートでの開発を狙い、他国を出し抜いて宇宙開発のトップランナーに瞬間的でも躍り出ようという目論見だ。そして一度センセーショナルな成果を挙げれば、その後は勝手に人と物、金が集まってくるという考えだった。最初から軍事ではなく商業、特に未来のビジネスに目を向けている点が、満州らしいとも言えるし、非常に革新的と言えるだろう。しかもこの目論見に皇帝溥儀が大いに関心を示し(ドーリットルが熱心にプレゼンしたと言われる)、皇帝お墨付きの国家事業として進められた。
 この満州の目論見は、核弾頭を搭載することを目指して大型誘導弾開発を進める日本戦略空軍と開発項目が重なる部分が多く、両者は短期間で多くの成果を挙げた。

 流石にソ連、アメリカの人工衛星打ち上げを出し抜くことは出来なかったが、日本、イギリスを差し置いて1960年11月に満州帝国が世界で三番目の人工衛星打ち上げに成功してしまう。
 しかも米ソと違い、日本製の新型重爆撃機「轟山」からの空中発射による衛星軌道への到達で、さらに他国に比べて経費、人員双方の面で低コストという特徴を備えていた。重爆撃機に搭載するのでロケット自体の大きさの制限は受けるが、打ち上げは高度1万5000メートルで初期加速の一部も母機が行うので、有人機や大型の人工衛星でもないかぎり、かなりの優位を確保していた。
 ただしそのロケットは、核弾頭搭載長距離ミサイルとしては精密機械に過ぎたため、日本戦略空軍の目的とは合致しなかった。そこで技術を応用した大型誘導ミサイルが開発され、日本(戦略空軍)は核戦力に大きなアドバンテージを得る事に成功している。日本戦略空軍が1960年代初頭に実用化した「二一式巡航奮進弾」は、世界屈指の性能を有した核弾頭搭載型ミサイルだった。
 日本戦略空軍の言うところの「空中艦隊」は、腹と翼に多数の核弾頭装備の長距離巡航ミサイルを装備することを、世界で初めて可能としたのだ。そのアドバンテージの大きさは、一時期アメリカが共同開発を持ちかけたほどだった。そして多くの技術パテントを有する満州の企業に、多くの利益をもたらすことになる。(※結局、アメリカは大枚をはたいて技術を購入している。)
 ロケット自体の打ち上げも、その後ロケット打ち上げ能力のない国へのセールスで一定の成果を挙げ、世界に先駆けて相応の利益をもたらす事に成功した(※主に「○○国初の人工衛星」というものだった。)。何より大きいのは、宇宙開発黎明期にソ連、アメリカ以外の国が人工衛星を保有したという点で、ソ連の面子を潰すばかりかアメリカからもかなり非難されたりもした。

 一方で、日本でのロケット打ち上げは、補助ロケットに固定燃料型を使う以外は、アメリカと同様の一般的な打ち上げ形式で行われ、他国に遅れること数年後の1962年にようやく打ち上げに成功する。この頃には、既に米ソとも有人宇宙飛行を実現していた。競争という点では、かなり致命的と言えた。
 しかし各省庁の対立、軍内部の対立、企業間の対立、学閥の対立と内部対立だらけの日本でのロケット開発はバラバラだった。後年の宇宙開発事業団(NASDA)の発足まで、軍事面以外は大きな停滞を余儀なくされてしまう。この間に日本に見切りを付け、商業的宇宙開発を目指す満州に乗り換えるか二股をかける企業も少なくなかった。
 一方の満州は、何をするにしても徹底的に合理性を突き詰めるため、その後も限られた枠内ながら着実な成果を挙げ、徐々に国力の拡大と共に宇宙開発の規模も大きくしていく事になる。宇宙は先端産業の最前衛でもあるため、満州が目指すべき産業でもあったからだ。

 そして、この時期の科学技術の開発で忘れてはいけないのが、兵器としてロケットとの関連がある核関連技術の発展になるだろう。
 日本は1950年12月に、中部太平洋上のビキニ環礁で原爆実験に成功。ソ連を出し抜き、アメリカに次いで核兵器保有国となった。
 ビキニ環礁の実験場は、第二次世界大戦後にアメリカが日本に莫大なレンタル料を支払う形で日米共同の核実験場となっていた。とはいえ、1950年12月まではアメリカの実験を日本は眺めるだけだったのが、ようやく自らも使えるようになったものだった。同実験場は、1954年から58年にかけての日米の原爆、水爆実験で重度に汚染され、環礁自体の物理的な破壊も進んだ事もあって閉鎖されるまで、主にアメリカの核実験場として有名な場所となっている。
 ただし世界初の水爆実験は、ビキニ環礁より前に日本がアメリカに提供した近在のエニウェトク環礁で行われ、事実上この環礁をほぼ一撃で廃墟にしている。
 続いて日本の水爆実験は1955年に実施されたが、アメリカばかりかソ連の後を追う形になってしまっている。ソ連との開発の規模と予算の違いの影響だった。また科学者、技術者の不足も影響しており、追い抜かれた日本は物理学など科学者、技術者の育成にいっそう力を入れるようになっている。いわゆる理系分野の育成と支援に、国が非常に積極的になったのにも大きな理由があった。
 そして核戦力が「安上がり」な国家安全保障政策という見方が年を経るにつれて広まり、その後の日本軍の兵器体系の多くに核軍備が整備されていく。米ソ同様に、戦略空軍の重攻撃機、大陸間弾道弾をはじめとする各種弾道弾、海軍の潜水艦発射型弾頭弾、航空機搭載型の各種爆弾、巡航ミサイルなどが多くの兵器が開発された。
 いっぽうで日本は、1952年1月17日に世界初の原子力潜水艦「伊401」を就役させていた。開発は第二次世界大戦中から行われ、途中からアメリカとの共同開発となったが、あくまで日本主導で行われ、日本が世界初の原子力潜水艦保有国となった。この半年後にはアメリカでも原子力潜水艦「ノーチラス」が就役し、その後はリッコーヴァー博士のもとでアメリカの方が質、量共に大きくリードするが、大型、高速潜水艦を好む日本海軍は、その後も他の予算を削減してでも原子力潜水艦の開発と建造に力を入れる事になる。
 この頃の日本の潜水艦開発の目的は、ソ連海軍の撃滅に絞られていた。開発の柱は大きく二本あった。

 一つ目の柱が、核弾頭を搭載した各種ミサイルを搭載すること。
 日本の国土の問題から、隠密性及び生残性の高い核攻撃手段の開発は米ソ以上に重要度が高く、場合によっては兵部省の予算以外からも特別会計が出されたほどだった。「伊401」が最初から核弾頭搭載可能な巡航ミサイルを主武装としたのも、単なる偶然ではなく求められた結果だった。「伊401」のような核ミサイル搭載潜水艦を、後に戦略型潜水艦などと呼称した。(※「伊401」の場合は、厳密には巡航ミサイル原子力潜水艦(SSGN)になる。)
 もう一つの柱が、ソ連軍艦艇の撃破。
 ソ連が大量整備を進めている潜水艦を沈めるための戦術型潜水艦については二系統が必要とされ、待ち伏せによる不意打ちが重視された事もあり通常型潜水艦の静粛性の向上などに重点が置かれた。それ以外に、機動部隊への海中随伴、水中での長期活動、圧倒的速力が発揮できる事などから、水中戦闘に秀でた原子力潜水艦の整備も行うことになっていた。
 また、ソ連が大戦後になって積極的に整備を進める水上艦艇への攻撃も重要だった。こちらも二つに用途が分かれ、一つが空母機動部隊に随伴して海中から艦隊を護衛する巡航型の潜水艦と、ミサイル兵器により遠距離からソ連艦艇を撃破する攻撃型の潜水艦に分かれる。当時の日本海軍は多数の空母、戦艦を保有していたので、旧ドイツ海軍の艦艇と技術を吸収して膨張したソ連海軍とは言え、アメリカと組めば水上戦、航空戦では圧倒的優位と考えられていた。
 しかし想定戦場が主にヨーロッパ北部の海域なので、日本海軍は余程の有事でない限り艦隊を北大西洋や北海などに送り込む事が、主に予算の都合で出来なかった。また地中海でも、アメリカ海軍のような贅沢な運用はしたくても無理だった。
 こうした戦術的要請を受けて、日本海軍での「攻撃型原子力潜水艦(SSN)」の開発が進んでいくことになる。

 なお、この時期(1940年代終盤から1960年代初頭にかけて)は海軍冷遇の時代とも言われ、第二次世界大戦で活躍した空母、戦艦は実戦力としては無用の長物とすら言われていた。核兵器が安価な国家安全保障になりうると考えた国は、海軍には潜水艦の整備こそ認めるも、戦略空軍を重視して予算を傾注し、戦争中にあまり活躍していない重爆撃機の整備を熱心に進めた。
 このため戦後も何とか生き残った艦艇も次々に予備役、さらには退役・解体となっていった。しかも、戦場が内陸だった支那戦争では、海軍はほとんど活躍の場がなかった為、海軍の大型艦は予算を食うだけの存在とすら言われていた。そして支那戦争終戦後はさらに水上艦艇の縮小に拍車がかかり、多くの艦艇が姿を消していった。それでも、自由主義陣営の主要国としての立場を維持するため、必要最小限の艦艇、見た目に目立つ艦艇についてはそれなりに生きながらえることはできた。
 そしてソ連海軍は相応に脅威であり、日本近在でもソ連海軍はカムチャッカ半島の潜水艦基地を軸にして潜水艦の整備にはそれなりに熱心だったため、日本海軍は対潜水艦戦力の整備として航空隊や対潜艦艇の整備を行った。同時に、平行して金のかかる原子力潜水艦整備にも力を入れたが、その中に他の艦艇の予算をこっそり盛り込むことも行われた。原子力潜水艦の開発、建造は金がかかるが、国民の理解も得られたからだ。
 そして潜水艦への意識が、海軍内はもとより国民の間でも変化した事を受けて、「伊401」のような味気ない名称は1950年代半ばには変更され、原子力潜水艦の艦名は古典(万葉集など)に登場する地名、つまり日清、日露戦争時代の武勲艦の名前を主に名付けるようになる。「伊401」も、1958年には「千早(ちはや)」へと改名している。

 原子力潜水艦に連動する核関連技術の開発によって、日本は世界初の原子力発電にも成功していた。
 早くは戦争中の1945年に「原子力基本法」が制定された。そして戦後すぐの47年に、民間発電を目的とした日本原子力研究所が茨城県東海村に設置され、民間の電力会社が連合した日本原子力発電が設立されている。
 日本初の原子力発電は、あくまで実験や試験だが1953年に行われ、これも世界初のタイトルホルダーを得ることに成功している。全ては大戦中から精力的で広範な開発を目指していたお陰で、非常に先見の明があったと言えるだろう。
 しかし原子力発電の商業発電は、なかなか広まらなかった。開発当初は、見た目上の発電コストの異常な低さから、日本のエネルギー問題の救世主とすら言われたが、建設費、維持費、さらには発電所周辺に対する補償費などが、予想以上に必要な事がすぐにも暴露されたからだ。しかも日本列島とその周辺部は、世界随一の地震多発地帯であり、沿岸部だと津波を始めとする水害の心配もしなければならず、危険度の高さと危険に対する経費の高さも強く指摘された。
 暴露したのは、日本政府の省庁内での対立の結果で、主に軍部と通産省などの対立の影響と言われる。また軍部は、原子力発電所の危険性についても当初から広め、人口地帯の近在に建設する事は敵に格好の攻撃目標を与えるようなものだと強く警鐘を鳴らした。このため軍部は、緊急時には移動可能な洋上プラットフォームの建設を提案したりもしている。この移動発電所については、原子力発電実験船「むつ」という形で実現し、多くのデータを後世に残している。
 しかし、日本の官僚組織内での対立の原因は軍部と他の省庁ではなく、東京と大阪に分散した省庁間の対立だった事が数年後に暴露された。原子力開発で主導権を握ろうとする通産省、建設省などと、内務省、文部省などが対立した結果だった。軍部は危険性に警鐘を鳴らしたことこそ本当だが、自前の施設などを既に有して安全管理も他より余程厳重にしていたので、むしろ省庁対立の被害者でしかなかった。このため兵部省などは、主に文部省などを酷く恨むことになった。
 しかし有事の際の危険性については事実だった。何しろ日本は、米ソなどよりずっと国土が狭く、人口も密集していた。有事に攻撃を受けたらどうなるかは、考えるまでもないほどだ。そこに日本独自の自然環境の危険度についての話しが加わり、日本での商業原子力発電については、政府は長らく安全基準の調査や原子力発電所建設予定地の説得に時間を取られた。建設予定地への実質的な補償費、安全対策費についても鰻登りで、普及が他国に比べて大きく遅れることになる。また、あまりにも厳格な基準作りをしていったため、安価な発電を目指していた西側世界各国から非難に近い苦言を何度も言われる事になる。
 だがそのお陰で、世界一と言われる安全基準が早々に制定されて、これは後に世界各国でも規範とされていった。また、地震や地形、自然災害の研究が副次的に大きく進み、全般的な点での地震などの自然災害時の対応についても大きく進歩する事になる。一般を含めた建造物の耐震基準についても、関東大震災後の過剰さはなくなり、より科学的で安全性を求める基準が設けられている。
 実際の原子力発電所建設に際しても、人が多く住む場所から極力離れた場所、地震、津波など自然災害に対して可能な限り安全な場所が選定された。だが、そうした事がいっそう建設予算、運用費を高騰させる事になり、原子力発電の商業利用を遠ざけることになる。

 原発(原子力発電所)普及遅延の副次効果として、火力以外の発電、戦前のかなりの時期まで発電の主力だった水力発電が大幅に計画拡大されている。
 この結果、富山の黒部渓谷のダム群など多くのダムと、大規模な水力発電所が日本全国で精力的に建設されている。中でも最大規模なのが「沼田ダム」だった。関東平野奥地の利根川水系に作られた日本最大の多目的ダムで、今後の関東平野の人口増加に備えた貯水池として、沼田周辺の開拓、そして発電と複合的な国土開発を目的としていた。まさに国家プロジェクトだった。
 建設は短期間のうちに精力的に進められ、人工湖に沈む多くの村落への莫大な補償と、主に満州帝国への移民斡旋、周辺への補償を強引とも言える短期間で終えると、1958年には建設が開始され6年の歳月をかけて1964年に完成。一時は完成の是非を問う反政府的な運動にまで発展したが、1973年のオイルショックで再評価され、現在では必要な事業だったと理解されている。また現在に至るも、関東の水瓶として無くてはならない存在になっている。水道事業関係者などは、関東の守護神と評するほどだ。
 そして多数の大規模水力発電を建設したことで、その後も水力発電に対する研究や投資が続けられ、日本の電力の重要な一翼を担い続ける事になる。特に夜間に安価な余剰電力を使って揚水し、そして昼間に放水して発電する方式は1970年代に一気に拡大している。
 また火力、水力、原子力以外の発電についても早くから注目され、中でも日本の特殊な自然環境に合致した地熱発電が、1960年代くらいから精力的に開発されるようになっている。
 要するに地熱が生み出す水蒸気を利用して発電する方法で、多くは火山の近くの温泉の湧く場所に建設された。この建設では、もう5年か10年開発が遅ければ、温泉観光とぶつかり合って地熱発電の発展と拡大が大きく遅れたと言われている。

 とはいえ1960年代に入る頃の日本では、極端な燃料資源獲得の危険性はないと判断されていた。最重要の資源とされる石油は、満州、北樺太、さらに1960年代に入って開発の始まった黄河河口域の油田も利用できた(※採掘コストの面から本格採掘は1970年代。)。ブルネイの石油などは、実質的に日本のものだった。開発と増産の進むインドネシア地域からの輸入もあった。さらにペルシャ産の良質で安価な石油が安定して供給されていた。加えてペルシャ湾岸での、極めて安価な石油も望めば望むだけ手に入れることが可能だった。
 それだけあれば、当時の日本では十二分な量だった。まだ1950年代は石炭が燃料の主力の時代で、その石炭は日本の各所でかなりの量が採掘されていた。露天掘りがないなど採掘コストの問題から、国内産の石炭が安価に採掘できる時代は残り少ないと考えられていたが、石油の需要も極端には伸びていないし電力についても同様なので、様々な電力確保手段の開発はこの頃はまだ後の時代のためという側面が強かった。
 加えて、日本でのモータリゼーションはアメリカや西欧諸国、さらには満州よりも遅れているため、ガソリン需要もそれほど伸びていないため、石油単体で見ても資源確保面での深刻度合いは低かった。

 そして国民の多くは、ようやく戦争中の借金返済の目処が見えて「戦後」というものが終わりつつあると感じ、その象徴として科学技術の発展を見ていたと言えるだろう。また別の視点で言えば、個人が豊かと感じる時代は到来しておらず、国の発展などに目を向けなければいけなかった時代と言えるかも知れない。



●フェイズ102「第三世界と欧州世界の再編」