●フェイズ102「第三世界と欧州世界の再編」

 1955年4月、「アジア・アフリカ会議(AA会議)」が、タイの首都バンコクで開催された。
 会議には、この時点で独立を勝ち取っていたアジア、アフリカ地域の首脳もしくは首脳級の人物が集った。
 会議を主導したのはインドのネルー首相、エジプトのナセル大統領、満州の鮎川首相、イランのモサッデグ首相だった。

 タイは会議開催のホスト国となったが、それは帝国主義全盛の時代に独立を守り通した事への敬意を現したためで、強い指導力を持つ首相がいたわけではなかった。(※同様の理由でエチオピアも候補に挙がったが、当時政情不安があるため選ばれなかった。)
 また、植民地独立運動で忘れることの出来ない人物であるインドのマハトマ・ガンジーは、1953年に84才で老衰で死去していた。満州では、鮎川首相ではなく康徳帝(溥儀)が出席するという噂もあったが、周囲の強い反対もあって実現しなかった。その代わり康徳帝は、後日インドやイラン、タイ、サラワクなどアジア諸国を、絢爛豪華な帝室ボートで時間をかけて歴訪している。日本にも長期滞在して、存在感を発揮した。
 また、主に支那地域にある共産主義陣営に属している国は、ほとんど招待されていない。支那共和国も、戦争再開の切っ掛けになりかねないとして招待されなかった。さらに日本も首相級の招待はされず、ほとんどオブザーバー参加にとどまった。
 共産主義陣営の国と日本が招待されなかったのは、日本は会議の趣旨に反する国際影響力の大きい大国であり、共産主義陣営に属する国はまさに共産主義陣営に属していたためだ。逆に満州が招待されているのは、大戦後に日本、アメリカの衛星国から脱却した国だと見られていたからだ。
 しかし会議自体は、今まで自分たちを虐げてきたヨーロッパ、アメリカに対する反発が強い国がほとんどのため、反ヨーロッパ、反アメリカ色がどうしても強くなりがちで、共産主義国家の総本山であるソ連と関係の近い国も少なくないなど、完全な中立、完全な第三の陣営とは言えなかった。

 なお、会議開催の時期は少しばかり微妙だった。
 それまで続いていた欧米諸国による植民地支配の綻びが本格化して、いよいよ由来で独立の機運が高まっていたからだ。実際、会議に参加したスーダンは、会議の時点ではまだ正式に独立していなかった。
 東南アジアは、混沌としていた。
 インドシナ地域では、ベトナムで共産主義勢力によるゲリラ活動を中心とした独立運動が第二次世界大戦末期から長年続き、それが1954年にようやく沈静化したばかりだった。
 特に支那戦争が終わった直後に、中華人民共和国(自称)がウンナン共和国を強引に通過してベトナムの共産主義勢力(ベトミン)を支援した事で情勢が悪化しかけた。しかしアメリカ、日本などが断固とした態度をとってウンナン共和国を支援した事もあり、ベトナムの共産主義勢力に大量の武器が渡ることもなかった。しかも副産物として、ウンナン共和国、コワンシー共和国での共産党狩りと漢族系住民の強制移住がさらに進められ、混乱は見られたものの結果として政治的安定性は増す事になった。
 そして支援のないベトナム共産主義勢力は、日本などの支援も受けたフランス軍に軍事的に押しつぶされ、一部の生き残りが何とか共産圏の国に亡命して内乱は鎮圧された。一時期激戦の行われたディエンビエンフーは、結果としてベトナム共産主義勢力の墓標となった。
 だが、インドシナの植民地維持に疲れ果てたフランスは、インドシナ地域を放り出して、以後の事を国連に委任。そして日本などの支援のもとでベトナム王国、ラオス王国、カンボジア王国が正式に独立し、国連に加盟したばかりだった。
 また、近在のインドネシア地域(蘭領東インド)では、まさに独立運動が燃えさかっていた。独立に至っていないのは、本格的な独立運動が起きたのが1954年に入ってからだという事と、民族(ジャワ人と非ジャワ人)、宗教(イスラム教と非イスラム教)、そして共産主義とそれ以外という複雑な状態で強く対立しているためだった。独立運動の中心人物も、主に民族主義と共産主義に別れており、統一性に欠けていた。
 今までインドネシアでの独立運動が低調だったのも、戦後のオランダがインドネシア内の対立をうまく利用していたためだった。

 インド連邦共和国でも、国内での宗教対立と民族対立のため、この時期はやや不安定だった。特にガンジー(初代大統領)の死去で、ネルー首相の権力が強まっていた事が影響していた。と言うのも、ネルー首相は強硬ではないにしてもヒンズー至上主義者で、他を冷遇する政策が多くなった為だ。二代目大統領には宗教的調和を求めてイスラム系のグラーム・ムハンマドが選ばれたが、それでもネルーの実質権力は非常に大きくなっていた。
 しかし既に建国から十年近く経っていたおかげで、インド全土での政治的安定性は既に高まりを見せていた。またヒンズー優位の状態も、「ガンジー派」とでも呼ぶべき中道勢力の成長でかなり緩和されていた。イスラム教勢力も、ヒンズーとの混在地域に根を張る共存派と穏健派が中心となって、何とか激発することはなかった。
 そしてこの時期の混乱を乗り越えて以後のインドでは、ヒンズー系政党と非ヒンズー系(イスラム系中心)+中道勢力系の連合政党による二大政党時代へと流れ込み、多少不安定な状態を続けつつも世界最大規模の民主共和制国家として大成するための動きを強めていくようになる。
 この政治構造では、優位にあるヒンズー教に対して、世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教(+ラマ教))が連合するという非常に珍しい光景を見ることができた。
 そしてインド中心部ではヒンズーが強いが、他国と接する地域に近いほどヒンズー以外が強くなるため、インド全体としてヒンズー以外の宗教を疎かに扱うことも難しかった。また、少数民族、少数宗教を必要以上に冷遇すれば国内問題になるため、穏健な政治が心がけられるようにもなった。
 ちなみに、日本は旧イギリス領インド帝国を中核に、隣接する多くの地域を内包したインド連邦共和国の建設に尽力した。日本にとっては大きな市場だったからだ。しかし民族の自主独立に反すると国内外の一部で非難もされたが、この時は国連委任統治とする事の面倒と、統治能力の低い小国の早期の軍国主義化を嫌った事、分立した場合に隣国となった国同士の対立、などを原因としていた。だが宗教的に見ると、インド連邦全体としての安定につながっていたため、日本の深謀遠慮があったと言われることがある。
 しかしインド地域全体が一つの巨大国家となった影響で、インド自身が「外の世界」を気にする傾向を強めたと言われる。当時は覇権主義はなかったが、1960年代以後のインドはアジアの大国として近隣に対する傾向を強め、また各地に影響力を拡大するようになっている。分立していたら、隣国同士となったことによる内輪もめで、影響力拡大を外に求めるどころでは無かったと言われる事も多い。だがそうなると、今度は地域全体の安定性が低下する可能性が高いため、インド周辺の安定を求める国々にとっては一長一短と言えた。

 もっとも、この頃のアジア、アフリカ世界にある主権国家は、君主国か立憲君主国が非常に多かった。君主国の中には、サラワク王国の白人王族のような変わり種までいた。アラブ地域も王政(絶対王政)がほとんどを占めていた。
 参加国で戦後安定していたのはイラン、満州、シベリア、タイぐらいで、インドは世界最大規模の民族問題と宗教問題を抱えながらも、随一の大国という事とネルーの指導力によって会議の中心にいる状態だった。エジプトも、各国に利権が切り刻まれたスエズ運河の国有化問題を巡って主にイギリス、フランスと対立し、第二次世界大戦後に運河会社の株式の半分を持つようになったアメリカとの関係も思わしくなかった。
 シベリア共和国は、戦後はいっそう日本、アメリカ、満州など自由主義陣営の国々との関係を深め、ソビエト連邦からの決別の決意として国名も極東共和国からシベリア共和国に変更。国内で一応は共産主義が認められるも、完全な民主共和制国家となった。同会議にも独立国として参加したが、ほぼ唯一の白人国家のため終始控え目な態度を通すことになる。
 満州は、企業国家と言われるほど合理的で強引な経済発展で躍進を開始していたが、ソ連と直接国境を接して軍事力を向け合って、さらに日本、アメリカとの同盟関係にあるため、会議を主導できる立ち位置にはなかった。
 イランも直接ソ連と向き合う点は満州と同じだが、戦後日本の支援と指導による「イラン・モデル」とも言われる少し特殊な民主制の導入によって、政治的な安定を得ていた。また、日本が長期的に安定した資源供給に力点を置いて、イラン石油会社(旧アングロ・イラニア石油)とイランの関係を通常の国家と企業の関係に順次置き換える事で、経済的な安定と発展の道が開かれていた。しかもイランは、石油で得た資金を一部の者が牛耳ったり安易に国民にばらまいたりせずに、公教育の普及、社会資本の整備、循環型産業への投資、近代産業の育成など国家の土台作りに投じることで安定性をさらに増しつつあった。しかも日本が全面的に支援しており、その発展速度は近隣諸国が警戒感を高めざるを得ないほどだった。
 そしてイランは、イスラム教の中では他と違う宗派(※スンニー派とシーア派の違い)と、宗教要素を残すも民主共和制を取り入れた事で、アラブ諸国との関係が悪化とは言わないまでも冷めていた。特に隣国イラクの警戒は、国内にイランと同じシーア派イスラム教徒が多い事もあって年々高まり続けた。
 アジア・アフリカ会議で失笑レベルの失態を演じたのは、誰も注目していなかった韓王国だった。同国は現王朝だけで550年以上の歴史と伝統を持つ国と自ら宣伝してリーダーシップを取ろうとしたが、歴史と伝統ならギネスブックにも記録される世界最古の皇族を持つエチオピアと日本に太刀打ちできるはずもなかった。また、国力もなく指導力のある首脳級の人物もいないため、同国の行いは全て空回りするだけに終わっている。この時の空回りが、その後の混乱に影響したと言われるが、全ては自業自得とも言えるだろう。

 以上のように、それぞれの国が大なり小なり問題をかかえながらも会議は成功裏で終わり、米ソ両大国を中心とした対立構造が色濃く見える中での「第三世界」の存在を世界に印象づけることに成功した。
 また会議では、米ソを中心とする大国主義に対抗して反植民地主義と平和共存を基調とする「平和十原則」を採択。しかし、10年後の第二回会議は、開催予定国だったアルジェリアで政変が起きたため実現せず、その後も開かれなかったため会議はこの一回限りとなった。

 ◆

  AA会議で存在感を増した第三世界以外の国や地域だが、基本的にはアメリカ合衆国を中心とした自由主義陣営もしくは西側陣営と、ソビエト連邦ロシアを中心とした共産主義陣営もしくは東側陣営に分かれて対立していた。
 そしてその対立場所の中心は、大きくはヨーロッパ世界と東アジア世界に分けることができる。
 両者の対立が最初に「冷戦」から「熱戦」になったのは、東アジア、正確には北東アジアだった。「支那戦争」と呼ばれ、中華地域のさらなる分立を作り上げると同時に、膨大な数の死傷者を発生させた凄惨な戦争となった。一説には「支那戦争」によって、飢餓を含めて1000万人以上が死亡したと推定されている(※推定値でしか分かっていない。)。また「支那戦争」は人類史上二度目の核戦争であり、今のところ最も多くの核兵器が使用された戦争でもある。
 同時に、核兵器を使用しなければならないほど、激しい対立を世界に示した戦争ともなり、「東西対立」や「冷戦」を完全に鋳型に嵌める戦争ともなった。
 そしてこれ以後、中華中原奥地では両陣営がDMZ(非武装地帯)大軍を並べて睨み合う状態になり、「休戦」の間にも何度も紛争や戦闘が起きる不安定な状態が続く事になる。このため「20世紀の春秋戦国時代」などという歴史学者もいる。
 また東アジアでは、さらに大陸奥地で満州帝国とシベリア共和国がソ連軍と直接対峙していた。しかしシベリア共和国国境は、地形が険しい場所がほとんどで、さらに冬季は世界最高レベルの厳冬に見舞われるため、大規模な戦争ができるような場所ではなかった。満州国境はユーラシア中部の大平原の東の端当たるため、大規模な機械化部隊を駐留させるのに向いていた。このため満州軍、ソ連軍共に大軍を展開して直接睨み合っていた。
 日本も海を挟んでソ連と接していたが、ソ連のオホーツク海沿岸や東シベリアの東端部にはソ連本国から伸びる交通路や補給路がないため、ソ連側の都合で対立は低いレベルに止まっていた。国境の島となる占守島の監視基地が、日本にとってのソ連の監視場所の最前線だが、海峡通過する艦船(潜水艦含む)や付近を飛行する航空機を監視する以外の事が起きる場所ではなかった。

 一方で、戦争や実際の戦闘には発展しないまでも、より激しく、より多くの軍隊が睨み合っていたのがヨーロッパ地域だった。
 大きくはライン川を挟んだ地域、バルト海と北海地域、アルプス山脈からジルナアルプス山脈にかけての地域の三カ所での軍事的対立になる。しかしライン川以外は間に中立国を挟んでいるため、直接の軍事的対立は比較的穏やかと言えた。
 ドイツ民主共和国では、ソ連のための大型艦艇が多数建造されたりもしたが、そうして誕生した艦隊は北海を慎重に通過するとソ連領の北の海へと行ってしまうので、第二次世界大戦直後に言われたほど北海の緊張は高くはなかった。無論、イギリス、ノルウェー、デンマークが受けるプレッシャーは非常に大きいが、アメリカが後ろ盾になっていれば、何とか耐えしのげるものだった。だがそれでも、イギリスは本国近辺での制海権維持にほとんど総力を傾けざるを得なくなり、戦後急速に旧来型の植民地帝国からの脱却を計らねばならなかった。ソ連の脅威の前に、植民地を維持する能力を無くしてしまったのだ。
 植民地の維持能力が無くなったのはフランスも同様だったが、フランスは地中海の対岸の北アフリカ(仏領西アフリカ)地域の維持を懸命にはかった。しかしそれが限界でもあり、徐々に各植民地の支配権を失っていった。
 ヨーロッパで最も安定していたのは地中海地域で、主に日本軍がイタリアを中心にしてパワープロジェクションを投げかけ、さらにアメリカが後方から支援することで何とか軍事的安定を維持していた。そしてそれ以上に、ソ連が地理的、物理的に大規模な軍事力を向けるのが難しい点が、地中海の西側による確保を容易にしていた。
 しかし西側が全く安心できないのが、最も重要と考えられたライン川正面だった。
 ライン川は、第二次世界大戦で連合軍とソ連軍が握手した川だった。必然的に東西両陣営の境界線となり、旧ドイツはほぼ全てがソ連の勢力圏となった。

 ドイツは第二次世界大戦で滅亡と言えるレベルで敗北し、国土のほとんどがソ連の占領下となった。また同時に、中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの多くがソ連の勢力圏となった。バルカン半島には一部例外もあったが、軍事的にはソ連の圧倒的優位にあった。しかしソ連から見れば、アメリカという圧倒的国力を有する国が西側陣営の盟主として存在する以上、自らの戦略的不利を感じざるを得なかった。また、純粋に世界規模での視点で見ると、東側陣営はソ連領を除けばヨーロッパでしか優位がなかった。しかし当時の最も重要な地域がヨーロッパであり、そこでの優位を得ることは他の不利を大きく補えるとも考えられた。
 だからこそソ連は、自らの陣営の地盤固めを急いだ。
 1949年にはアメリカの圧倒的という以上の経済力に対抗するため「COMECON(経済相互援助会議)」を作り、1955年にはドイツをドイツ民主共和国として再独立させ、そしてNATO(北大西洋条約機構)に対抗する安全保障組織(軍事同盟)として、「ワルシャワ条約機構」を作り出した。
 もっとも、西側陣営のヨーロッパ世界に突きつけられた橋頭堡といえるドイツの復興は、意図的に行われなかった。農業国家もしくはソ連や東側世界で不足する軽工業の復興こそ行われ、さらに1950年代からは人口の回復を目的とした多産政策が実施された。しかし本来ドイツが得意としていた重工業や先端産業の復興もしくは振興は、1960年代以後を待たねばならなかった。
 同様に、軍備の再建も意図して遅らされた。再独立が遅れたのも、戦災や経済の停滞などを理由とするが、ソ連がドイツ復興を恐れたが故だった。しかもアメリカなど西側陣営の国々も、ドイツの復興を恐れておりソ連の行動を肯定した。しかも西側陣営としては、東側陣営としての「強いドイツ」など悪夢でしかないのだから、復興されないならそれに越したことはなかった。
 独立復帰後のドイツ軍(通称:共産ドイツ軍)は、復興当初は重装備をほとんど持たず、逃亡したり西側陣営に内通する可能性を考慮して、国境警備隊も実質保有を禁じられていた(※国境警備は秘密警察(シュタージ)の任務とされた。)。部隊規模も、当初はソ連軍編成の師団単位で数も少なく、しかもソ連軍ドイツ駐留軍集団の厳重な指揮下に置かれ、師団どころか細切れ状態でライン川東岸の各地に薄く配備されていた。流石にそれでは軍隊として機能しないので、1960年代になると師団規模で配備されるようになるが、意図してソ連軍の間に置かれ、監視下にある点も変化無かった。首都ベルリンの近くには、ソ連軍の1個機械化軍団がいつでも動ける状態で配備され続けた。
 それでも1950年代で総人口5000万を越え、しかも相応に経済復興をしている国家が東側陣営の最前線にある事は、西側陣営にとって大きな脅威だった。しかもそこに西ヨーロッパ配備の西側陣営の軍隊を一撃で蹂躙できると言われるソ連軍が駐留するとなると尚更だった。西側陣営は「ラインの防壁」などと宣伝していたが、大きな期待をかけている者は少数派だった。
 ヨーロッパ世界では、西側陣営は明らかに劣勢だった。

 一方西側世界として、残されたライン川西岸のラインラント地区には、アメリカ軍が軍政を敷くも国連委任統治領という形で西側陣営としてドイツ人のテリトリーが少しばかり存在していた。
 一般的には「ラインラント地区」や「西ライン地区」と呼ばれる地域は、軍事的にはあまりにも狭い事が逆に幸いして、政治的な問題に発展する事は少なかった。皆無ではないが、ソ連が軍事力で少しばかり恫喝しただけで、西側陣営が蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまうのが確実だからだ。
 本当に事が起きるとすれば「第三次世界大戦」以外に存在せず、だからこそ偽りの安定が確保されていた。しかし逆を言えば、ソ連が本気になれば一瞬で消えてしまう場所でしかなかった。そしてそれは、西側陣営に残された西ヨーロッパ地域も同列と考えられていた。
 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクがそれに当たるが、強大なドイツ駐留のソ連軍に対して、自力での防衛はとうてい不可能だった。アメリカ軍は、1個軍(3個軍団)の大軍を1国の空軍に匹敵する大部隊と共に西欧各地に駐留させていたが、それですら焼け石に水に近かった。イギリスには、1960年代まで本国以外に大軍を駐留させるだけの財政的ゆとりがなく、イギリス・ライン軍団の登場は1960年代半ば以後を待たねばならないが、これを足したとしても不足していた。このためアメリカは、1950年代からアメリカ本国から短期間で大軍を送り込む研究を続けていたが、当時はソ連が戦争準備を始めてから動き始めていたら間に合わないものでしかなかった。このためアメリカなど西側陣営は、宇宙ロケット時代になると早期警戒衛星や偵察衛星の打ち上げと配備に大きな努力を傾けるようになる。

 しかし、戦争の兆候を見つけるだけでなく、抑止のための軍事力の整備が欠かせないため、基本的にはアメリカからの供与、同盟国価格での購入以外に、西ヨーロッパ諸国間で兵器の共同開発が数多く進められるようになっている。
 主にフランスが中心になるが、1950年代後半以後はフランス、イギリス、イタリアの三カ国共同で戦闘機、戦闘爆撃機が何度か開発されたりもしている。ただし、重爆撃機(戦略爆撃機)の開発はイギリスだけが行っている。イギリスは第二次世界大戦中にも多数を保有していたし、戦後も辛うじて開発する余力を残してもいたからだ。そして何より、自力での核兵器開発と保有を1950年代に行えたのが、西ヨーロッパではイギリスだけだったからだ。
 イギリスは国防を制海権、制空権の確保と独自の核兵器の保有に絞り込んでおり、陸上戦力については自由主義陣営としての最低限に押さえ込めるように外交努力していた。このためアメリカのヨーロッパでの負担が増えたが、自由主義陣営全体としてもイギリス本土はヨーロッパ最後の牙城となる可能性を考慮していたため、多くが容認されていた。それだけライン川方面での不利を自覚していたからでもあった。
 にも関わらずと言うべきか、陸戦兵器の主役とされる主力戦車(MBT)開発に関しては、西ヨーロッパ諸国は遂に完全な共同開発計画にはなかなか成功しなかった。開発も失敗とは言わないまでも、ソ連に対して劣勢と見られていた。

 イタリアは、基本的にアメリカからの同盟国価格での供給に甘んじていた。駐留する日本軍との装備の共同化のために、日本(の企業)から装甲車などを購入する事もあった。イタリアで国産の装甲車(※主力戦車ではない)が登場するのは、1970年代以後を待たねばならなかった。
 イギリスは、第二次世界大戦末期に登場した「センチュリオン」系列の戦車の改良で凌ぎ、研究以外で主力戦車の開発及び導入には踏み切らなかった。ようやく戦車開発を再開するのは、ライン川西岸地区への本格的駐留の計画が動き始めた1960年代に入ってからだった。同時期にフランスが中心になって新型戦車を開発中だったが、イギリス軍が納得する性能には達していなかった。しかし一時は新型導入の遅れから数が不足したため、アメリカから「M48 パットン」をある程度導入している。
 そしてドイツのソ連軍のプレッシャーを最も受けるフランスだが、どうしても植民地維持が頭から離れなかった。このためパナール社などは、植民地警備用の装甲車を色々と開発している。この装甲車開発は兵器産業としては成功を収め、主力戦車を必要としないような国に輸出されるようになる。
 そして問題の主力戦車開発だが、自力開発まではイタリアなどと同様にアメリカの「M47」を使用していた。戦後一時期は日本が残していった「三式」重戦車なども併用していたが、50年代になると第二次世界大戦時の戦車は自国製を含めて姿を消していた。
 そして「M47」の後継車両となるので、35トン級で105mm砲装備の車両開発が目指された。ソ連の戦車(「T-54」「T-55」)が35トン級で100mm砲搭載だからだ。
 当時日本・満州が共同で開発を進めていた55トン級、120mm砲装備の車両にも興味を示したが、機動性、価格などで折り合いが付かなかった。50トンを越える「M48」も、主砲が90mm砲なのと重すぎるとして導入しなかった。だが、ライン川正面での戦闘では、機動力よりも防御力を重視した方がよいと言われることも多く、「M48」か多少無理をしてでも日本製重戦車の後継車両を採用するべきだったと言われる。実際イギリスは、自らの戦車開発の際に日本の重戦車も参考としている。また、フランスの戦車開発に際しては、ドイツからの亡命技術者がもっと重い戦車できれば重戦車を勧めていたが、この意見もほとんど受け入れられなかった。それでも戦車の製造経験が豊富なドイツ人亡命者の意見は幾つか参考にされている。
 結果、1960年代半ばに登場した「AMX-30」戦車は、重量わずか36トンとアメリカの同種の主力戦車と比べてもかなり軽量で軽防御だった。もっとも、その後にエンジンの換装や砲塔新造による装甲強化を行っているので、技術面や生産面で大きく重い戦車の量産が難しかったのではないかと言われている。
 また「AMX-30」戦車は、平時だと比較的使い勝手が良いこともあって、その後ベルギー、オランダ、デンマークでも採用されており、西ヨーロッパの標準戦車的な存在となった。もっとも、ソ連は「AMX-30」に低い評価しか下しておらず、抑止力としての戦力的価値は低かった。逆に言えば、ソ連軍に心理的余裕を与えた事で、軍事的衝突の可能性を下げたと評価できるかも知れない。
 なお、今挙げたような戦車が登場するのはもう少し後の事で、1950年代末から60年代前半にかけてのヨーロッパは、航空機開発にこそ力を入れるも、他はアメリカもしくは日本に頼る傾向が強かった。そして、そうしなければいけないほど、世界では共産主義の脅威が高まっていた。

 西側諸国、特に西ヨーロッパは軍事的には東側陣営に対抗が難しい事の補完として、国力の向上にも力を入れた。軍事的劣勢な上に経済面でも不利を強いられたら、それこそ共産主義に飲み込まれてしまうからだ。しかも1950年代は、ソ連を中心として共産主義陣営の経済が躍進している時期だった。共産主義の経済的躍進に関しては、公開されている統計数字はまさにその通りだったし、一部事実でもあった。事実の多くは戦災復興による経済回復と、ソ連が強引に進め続けた「計画経済」の「数字上」での成果だった。
 対して西ヨーロッパ諸国、北ヨーロッパ諸国は、第二次世界大戦での戦災と国力の消耗から回復できないでいた。
 アメリカの「マーシャルプラン」などの西ヨーロッパ経済復興政策は大きな成果を挙げていたが、それだけでは不足だった。各国で精力的な人口回復及び拡大政策も行われていたが、同じ事は東ヨーロッパ各国でも行われていたので、相対的には大きな成果は得られなかった。しかも西ヨーロッパ諸国の多くが植民地を失うか失いつつあり、アメリカ主導の国際政治上でも今まで行われた植民地からの富の収奪という手段も難しくなっていた。
 そうした苦境の中で考え出されたのが、国境を越えた経済的結びつきと、さらに資源の共有と効率的な利用だった。
 1948年には早くも「ヨーロッパ経済協力機構」が設立され、スペインを除く西ヨーロッパの国々が参加した。その後も1952年「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」が作られ、これにアメリカ軍政下のラインラント地区も特例で参加する。
 そして1958年「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」が成立する。
 一方で、イギリスが中心となって、北欧諸国全てが加盟する「ヨーロッパ自由貿易連合(EATA)」が成立した。
 東側陣営に対して苦況なのに二つの組織が作られたのは、基本的にはイギリスとフランスの関係が良いとは言えないからだ。また国家安全保障面では「北大西洋条約機構(NATO)」があるため、国家間の組織がそれ以上必要性が薄いという点もあった。
 ただし資源の有効活用という点では、西ヨーロッパ、北ヨーロッパ共に石炭の採掘量が少なかった。相応の量はあるが、自分たちの世界を満たせるほどではなかった。それだけの石炭は、旧ドイツなどヨーロッパ中部、東部にあった。
 また、1960年代になるとイギリスなど北海沿岸諸国が海底油田の採掘を開始するが、北海に面しているのは東側陣営のドイツ民主共和国も同様であり、軍事的な脅威にさらされながらの油田開発と採掘になるため、安全保障費が高くなると言う欠点を抱えての開発になってしまう。
 こうした燃料資源面での不利が大きいため、自由主義陣営に属するヨーロッパ世界の半分は、輸入という形で資源面での不利を背負い、さらに豊富な資源を有するアメリカへの依存度を高めざるを得なかった。
 一方で依存されるアメリカにとって、共産主義陣営に対して弱いままのヨーロッパは、徐々に重い負担になりつつあった。

●フェイズ103「共産主義の拡散」