●フェイズ103「共産主義の拡散」

 第三世界が世界、特に欧米及び日本に認識されると同時に、イデオロギーで対立するアメリカ合衆国とソビエト連邦は、その第三世界をも自らの陣営に組み込もうと画策した。
 主にアメリカは、自らの圧倒的な経済力を背景にした進出や援助という名の干渉を行い、広大な植民地を有したヨーロッパ列強に成り代わって、自らの価値観の押しつけと資本主義的拡大を行った。そして即物的な金銭は大きな効果を発揮し、アメリカの影響力は最も広がった。
 対するソ連は、共産主義との親和性が非常に高い「虐げられた人々」への思想浸透と軍事的なものを中心とする支援や援助で、影響力の拡大と共産主義革命の輸出を積極的に行った。特にソ連の方が国力的、勢力的に大きく劣勢なため、勢力拡大への熱意は高かった。
 そして共産主義陣営の努力は、1959年に相次いで実を結んだ。

 1959年は、共産主義陣営にとって躍進の年と言われた。
 韓王国、キューバ共和国、蘭領東インドの三カ所で、共産主義革命が成功したからだ。また、共産主義が関わる騒動は日本でも起きた。
 順に見ていこう。

 韓王国は、西暦1392年に成立した朝鮮王国(日本側通称:李氏朝鮮)が、近代国家として完全独立した後に名乗った国名だ。
 長い歴史の中である程度繁栄した時期もあったが、19世紀半ばの帝国主義全盛の頃は、酷い衰退と停滞の中にあった。あまりにも停滞し過ぎているため、自力での近代化の能力も無かった。それ以前の問題として、長らく清朝の属国状態にあった。欧米列強が食指を伸ばさなかったのは、あまりにも経済的価値がなかったからに過ぎない。清朝がこだわったのは、彼らに残された最後の属国だったからだ。そして日本が自らの勢力下としたのは、ロシア帝国から日本を守るためだった。
 そして1910年に韓王国と改名したうえで日本の保護国となり、1947年に完全独立を果たした。しかし独立自体が「与えられた独立」でしかなく、国の実権を握る権力層は旧態依然とした統治以上のことをする気がほとんど無かった。抜本的な近代化政策に手を付けると、権力層の既得権益、権力が民衆に強く脅かされるためだ。
 しかしその結果、自然環境面では比較的暮らしやすい北東アジア地域にある国家としては、技術発展や近代化がひどく遅れたまま放置されていた。
 日本と同程度に開発が進んでいれば4000万人に達していたと評価された総人口は、1955年の時点で約1500万人。この数字も、日本などからの多少の技術や概念の導入と、一部の心ある人々、祖国に革新をもたらしたいと考える人々の努力があっての数字だった。開国以前よりも、疫病などがあっても200万人ほど人口は増えていた。また毎年数万人が、朝鮮の発展の遅れ具合に絶望して、主に満州に流民として流れていたのも停滞に影響していた。
 総人口が少ない原因は、国土開発が中世レベルのまま放置されていて農業の生産性が非常に低く、医療技術と衛生観念が非常に悪いなどから、平均寿命が驚くほど低くかったからだ。特権階級以外の教育程度が低すぎる事も、平均寿命の短さに強く影響していた。医者の数も驚くほど少なかったし、西洋医学を修得した者となるとアフリカ並みとすら言われた。20世紀初頭で識字率4%という数字は、とても独自の文字を持つ国家とは思えなかった。
 だからこそ日本やアメリカは、発展の基礎となる公教育の普及を強く勧めたのだが、権力維持に汲々とする両班と呼ばれる世襲官僚達は、聞く耳を持たなかった。善意に満ちたキリスト教の牧師が庶民に教育を施そうとしても、その牧師を投獄したり国外追放するのが常だった。
 しかも特権階級は、ごく僅かに上辺だけ近代化された恩恵を自分たちだけが受けて、日本などから無理矢理ねだって得た支援で私腹を肥やすことしかしなかった。特権階級の優秀な人の一部も、祖国に絶望して国外へと活路を見いだした。
 そしてこうした状態は共産主義の温床になるため、日本などは韓王国に警察と軍隊の強化を支援して行わせたのだが、結局、イデオロギーの時代にあっては、独立から10年も保たなかった。 

 ソ連にとって、第二第三の仮想敵である日本、満州の間にあり、裏切り者のシベリア共和国(※極東共和国より改名)の裏側にある朝鮮半島は、非常に魅力的な場所にあった。しかもそこにある国が、共産主義が浸透しやすい環境にあるのだから、手を出さない筈がなかった。
 早くは第二次世界大戦前の1920年代から共産主義浸透の工作が行われたが、当時は保護下に置いていた日本が目を光らせていた事もあり、うまくはいかなかった。また、第二次世界大戦中は、日本、満州への配慮としてソ連の側から浸透を中断していた。
 だが、韓王国が完全独立すると、官憲の質の低下から締め付けが甘くなった。しかも国内の経済状況が悪化し、特権階級への富みの集中がいっそう進んだ事も重なって民衆の不満が高まり、一気に共産主義の浸透が進んだ。
 1950年の支那戦争の間は、特に日本などの目が緩んだこともあり、朝鮮半島内の共産党勢力は拡大した。とはいえ支那戦争中は、ソ連の民間船舶が朝鮮半島に行くことが政治的に難しかったので、問題が深刻になることもなかった。だが、支那戦争が休戦して北東アジア地域が表向き平和になると、ソ連の貿易という名の支援も再開されて共産主義勢力の浸透と拡大が進む。賄賂で懐柔された朝鮮の官憲は、本来なら入港拒否すらしなければならないソ連の船を貿易船として招き入れた。

 内政的な政情不安の決定打は、「アジア・アフリカ会議」での「失墜」にあるとされる。歴史と伝統に裏打ちされた存在感を発揮するはずが、諸外国にまったく相手にされなかったからだ。これが民衆に知れ渡ってしまい、さらに他国との比較情報が広く伝わり、特権階級の言う「世界に冠たる大韓国」や「優れた統治」が嘘だと暴露された。この「情報漏洩」は、ソ連がバックとなって朝鮮国内の共産主義勢力が行ったことだった。
 そして約2年の混乱を経た1957年3月1日、金聖柱率いる朝鮮共産党が蜂起する。
 金聖柱は、長らく韓王国国外で共産主義活動をしていたとされる人物だが、今ひとつ素性は分かっていない。
 第二次世界大戦が終わってすぐぐらいに誕生したとされる朝鮮共産党は最初は小さな勢力で、韓王国政府はもちろん日本や満州も事態を楽観していた。日本や満州そしてアメリカは、頑なに近代化を拒む韓王国政府、特に権力や権威を笠に着て国民に対して悪事の限りを尽くす特権階級の官僚たちには、丁度良い薬だと考えていたほどだった。
 しかし、事態は極めて短期間のうちに深刻化し、貧民階層と農村部を中心にして共産主義勢力が大きな広がりを見せた。しかも広がったのは「原始共産主義」であり、共産主義の中でもたちが悪い思想だった。原始共産主義が急速に広まるほど、当時の朝鮮半島の発展が遅れていた証拠でもあった。
 そして枯れた野に広がる野火のように、革命と言うよりも歴史的な意味での反乱が広がっていった。そして内乱であるため、近隣の日本、満州も簡単には干渉することが出来なかった。しかも韓王国政府は、武器の無償供与や資金援助こそ求めるも頑なに直接的な支援や救援の要請を出さないため、事態は短期間のうちに悪化の一途を辿った。
 内乱鎮圧の軍隊は、特権階級である将校(武班)を殺害して兵士が寝返る事件が頻発し、瞬く間に共産党軍の規模は膨れあがった。状況としては、フランス革命の初期に少し近かった。フランス革命で離反した中心が下士官、下級将校だったのに対して、朝鮮半島での場合は階級がさらに低い兵卒が離反勢力の中心だった。故に統率は取れず、無軌道に混乱を拡大していった。
 王族が空路で首都京城(ソウル)を脱出したのは1958年2月で、取りあえず確保されていた済州島へと逃れた。しかしそこには、既に救援の日本軍の姿があった。もっとも、王族などは最初は日本に逃れようとしたのを、日本の航空機(戦闘機)が強引に済州島に行かせるために進出したと言われている。
 そしてしばらくの間、朝鮮半島全土では数百年間たまりに溜まった膿が吹き出したかのような、民衆による特権階級への凄惨な復讐と殺戮が繰り広げられた。その間日本を中心とする近隣諸国は、海軍と空軍を総動員して朝鮮半島を海外の共産主義勢力に対して封鎖。陸続きとなる北の半島の付け根も、満州帝国軍とシベリア共和国軍が封鎖して、誰も入らせないようにした。逆に韓王国から逃げ出した者は、国境近辺の収容施設に留め置いた。共産党のスパイの可能性もあったからだ。
 当然ながらソ連など共産主義諸国が強く非難したが、日本などは一歩も譲らなかった。朝鮮半島に近づこうとした国籍不明の潜水艦に、威嚇のソナー照射や遠距離からの爆雷投下までしたほどだった。この封鎖では上記したような海軍の活躍が目立ち、大戦後不遇な扱いを受けていた海軍復活の切っ掛けの一つともなった。

 日本、満州が本格的に動き出したのは、革命という名の反乱がいよいよ共産主義国家誕生に傾いた時だった。
 まずは、潜入させていた特殊戦部隊が突き止めた共産党勢力の中枢部を、韓王国軍に所属を変えていた機体が奇襲攻撃で空爆。混乱を狙ったものだったが、外国勢力の干渉はないと考えていた為、朝鮮の共産党はほとんど何の対策も取っておらず、この時点で朝鮮共産党幹部の多くが死傷。金聖柱も、以後姿を見せることはなかった。独立準備のため、京城の中枢に集中していたのが徒になった形でもあった。さらには朝鮮国内に放たれた「暗殺部隊」の手によって、さらに多くの幹部が殺害された。また少し前からは、内輪もめをさせるために様々な欺瞞情報を流して、共産党内に内紛と不協和音をもたらす。このため内部での粛正、権力闘争も少なくなかった。
 そして空爆と同時に、すでに進駐準備を終えていた満州帝国軍が、国内で待避中の韓王国政府の要請を受ける形で、朝鮮北部国境を流れる鴨緑河を渡河。その際に、満州帝国旗だけでなく皇帝旗である龍旗(黒旗)を高らかに掲げて進軍した。そして依然として中世の中に生きていたに等しい朝鮮半島の人々は、共産主義的情熱で外国の干渉に敢然と立ち向かうどころか、俄作りの赤い旗をその場で棄てて共産党委員、赤軍将校を殺害し、恭しく皇帝旗に深く跪いた。
 一通り両班など特権階級への復讐をちょうど終えた今、実現されるかどうかも分からない公平や平等を唱えながらも、かつての官憲(両班)のように掠奪や蓄財に励む何だか良く分からない連中よりも、皇帝旗こそが自分たちには必要と感じられたのだ。歴史上でまともな統治を施してくれるのが、大陸中央からやって来る皇帝旗を持った者達だからだ。
 満州が中華帝国ではないと言う反論もあったが、既に中華帝国と呼ぶべきものは他に存在せず、中華帝国最後の皇帝を担ぐ国なのである程度の資格があると見られていた。
 日本軍が主力となった南部からの「韓王国救援部隊」も、形だけ満州帝国が参加してこちらでも皇帝旗を前に押し出して進んだ。日本の旗には形だけは跪くだけの朝鮮半島の人々も、皇帝旗には心から跪いた。
 そして俄赤軍となった筈の朝鮮半島の民衆は、皇帝旗とその旗を掲げた軍隊が持ってきた物資と外貨になびいた。独立一歩手前までいった筈の朝鮮共産党軍は、夏の日差しに晒された氷のように消えていった。もはや新国家建設や革命、反乱どころではなく、僅かに残った生き残りの共産党員は北部の山奥に逃れるより他無かった。そしてその後は細々とゲリラ活動を続けるも、民衆からの支持を得ることはついに無く、小規模な「共産党ゲリラ」以上に発展する事は無かった。
 そしてソウルに返り咲いた韓王国の王族と政府は、日本、満州、特に満州の指導のもとで、ようやく数百年ぶりの大改革と近代化を始める事になる。とはいえ、近代的な統治体制の構築は当然として、初歩的な治水地山、公教育普及など近代国家の土台から作らねばならない朝鮮半島では、これ以後半世紀以上かけた西側世界で標準的とされる立憲君主国建設の長い長い旅が待っていた。
 しかしあまりにも酷い国内状態のため、まともな国家だと日本などが認めるまで朝鮮住民の海外渡航の大幅制限などを実施するなど、大きな制約下に置いた。内乱と粛正の嵐で識字率が1%台にまで低下しており、旧来の官僚組織も壊滅しているため、自力ではほとんど何も出来なくなっていたのだ。一時は国連の介入も考えられたが、国連を介したソ連の干渉を警戒したため満州、日本主導となった。特にこれ以後、朝鮮半島の世話は満州が見るようになっていく。
 事態の進展に唖然としたのはソ連など共産主義陣営だったが、その後彼らの公式文書には朝鮮半島での共産主義運動は無かったことにされ、単に韓王国の腐敗した特権階級に対する民衆蜂起に過ぎないと記録されるに止まった。
 何にせよ、これほど見事に民意によって共産主義革命が完全に失敗したのは、後にも先にも朝鮮半島だけだった。

 朝鮮半島情勢が一瞬で沈静化した頃、アメリカのすぐ側にあるキューバで革命騒動が起きた。
 キューバは、米西戦争後の1898年にアメリカ手によって一応は独立していた。しかし扱いは実質的に保護国で、植民地も同然だった。アメリカにとってのキューバは、砂糖と南洋のフルーツ、タバコ(葉巻)の生産拠点にすぎなかった。キューバ市民も実質的に農奴でしかなかった。経済植民地という言葉がこれほど相応しい場所もなかった。
 しかし、第二次世界大戦中盤では激戦地の一角となったため、アメリカ政府はキューバに慰撫を兼ねてかなりの援助を実施する。加えて戦争協力の報償も兼ねて、奪っている形の自治権の幾つかも手放していた。このおかげで、特に第二次世界大戦中はキューバの国民感情はある程度親米的となった。
 親米的状態は戦後もある程度続いたが、1950年頃にはアメリカ政府はキューバへの慰撫はもう不要だと考えるようになった。しかも全ての期間において、アメリカによるキューバの経済支配が緩んだわけではなかった。戦争中と戦後は、政府の働きかけもあって多少は労働者への還元も行われた。だが、ほとんどが形だけで、民衆の経済的不満の解消は実質的にアメリカ政府の援助だけとなった。
 しかもアメリカは、キューバの民主化を進める事はなく、むしろ親米独裁政権を後押しし続ける。この点は、アメリカのアジア政策と対象をなしているが、これはアメリカにとってのカリブ海地域が「裏庭」に過ぎず、侵される事のない自分たちの利権だと考えていたためだ。
 しかも戦後のアメリカ合衆国は、ジャマイカ島、小アンティル諸島全域など旧欧州枢軸陣営の島々を国連委任統治領の形で支配下に置くことで、キューバだけでなくカリブ海地域への支配欲とでも言うべきものを強めてしまい、戦争中に緩和されたキューバでの親アメリカ感情を急速に悪化させてしまう。
 そして1952年の軍事クーデターで独裁色のより強いバティスタ政権が成立すると、アメリカの政権への支援と平行してアメリカの経済支配がさらに強まった。しかも軍事政権は、アメリカが緩和を求めるほど刃向かう民衆を容赦なく弾圧したため、プランテーションで虐げられる農村部を中心に共産主義的な反バティスタ運動が広がった。
 1953年から始まった革命運動は最初は失敗した。しかし諦めることなく続けられ、1959年の新年にバティスタが突如辞任と亡命をすることでキューバでの革命は成功する。あまりに突然だったので、アメリカも干渉する事が出来なかった。
 この時点で革命を主導したフェデロ・カストロらは、アメリカと交渉を持とうとした。革命を行った組織のかなりが共産主義的だったが、カストロ自身は革命を起こしはしたが共産主義政権を作るつもりはなかった。だが、アメリカと言うより、それまでキューバを経済的に支配していたコングロマリット、シンジケート、マフィアたちは怒り狂い、キューバの革命政権に共産主義のレッテルを貼り、アメリカ軍を大挙出動させて革命を押しつぶそうとした。今までキューバに散々悪行を行ってきた彼らに相応しい行動だった。同時に、アメリカの対キューバ政策を失敗させたのは、間違いなく強欲極まりないアメリカのコングロマリット、シンジケート、マフィアたちだった。
 ここでカストロらキューバの中道勢力も腹を括り、ソ連が助けの手を差し出すことで社会主義国家キューバの道筋が一本道となってしまう。
 同じ民衆の手による革命ながら、その結末は朝鮮半島と正反対の結末となった。そして以後のキューバは、巨人アメリカにとって喉に刺さった小骨のような存在となり、数年後には世界を揺るがす事件へと発展していく。
 そしてもう一つ世界を変えたのが、インドネシア(蘭領東インド)での共産主義革命だった。

 1959年春、東南アジアのインドネシアで共産主義革命が燃え広がり、世界にもう一つ赤い国が誕生した。
 インドネシアは、17世紀からオランダ(ネーデルランド)王国が徐々に植民地化を進めた地域で、最終的にオランダが領有した総面積は日本本土の約5倍に達する。
 オランダでの反植民地運動は第一次世界大戦後に始まり、スカルノやハッタを中心として主にジャワ人を中心とするグループによって行われた。しかし彼らは投獄され、一旦は運動も下火となった。
 第二次世界大戦でのオランダは、本国は選択の余地もなく枢軸陣営に与したが、インドネシア地域の蘭領東インドは日本、アメリカを中心とする連合軍が進軍してくると連合国側に付いた。その後も、蘭領東インドは現地のオランダ総督府が統治するところとなった。しかも連合国諸国は、インドネシア地域の石油、天然ゴム、錫、キニーネが必要なため、自由オランダ政府ともなった蘭領東インドの総督府に手厚い支援を行った。支援は戦後も続き、何とか自由主義陣営に残ったオランダ本国の国力が大きく低下していることもあり、日本、アメリカは蘭領東インドの支援を続けた。特に日本は、資源の安定供給のため手厚い支援を実施した。
 そこにソ連に亡命していた共産党勢力が戻ってきて、左派勢力を糾合して反植民地運動を展開する。これに対してオランダとオランダを支援する自由主義諸国が鎮圧を行うが、その隙にスカルノら民族組織の活動が活発化し、さらには左派と民族派が合流。反植民地運動は、ジャワ島を中心にして反乱や革命戦争へと拡大していく。反植民地組織に不足する武器弾薬も、民間船に紛れる形でソ連などが供給することで解消され、オランダは徐々に劣勢に追いやられる。
 そこでオランダは、左派と民族派の分断を画策する。左派だけを攻撃する一方で民族派と水面下で接触して、穏健な形でのインドネシア独立を吹き込んだ。オランダとしては、社会主義国家が誕生して国有化で全てを失うよりも、企業の経営権の維持や影響力の確保ができる民族派を選んだ構図だ。
 しかし、戦後経済が低迷するオランダの本意は自治の拡大程度で、独立まで認める気は無かった。そしてしばらくしてこの事を民族派に見抜かれてしまい、事態はより悪化していく。

 そこで今度は、島と島の対立、ジャワ人とそれ以外の民族の対立を利用しようとした。左派も民族派もどちらもジャワ人中心で、他の民族や島から見れば、支配権がオランダ人からジャワ人、ジャワ島に移るだけというわけだ。そしてそれは真実であり、しかもオランダの方がマシという風に誘導が行われた。ジャワ島以外への慰撫も積極的に行われた。
 オランダとしては今までの統治方針を破壊するような変更だったが、自らの弱体化もあって最早なりふり構っている状態ではなかった。
 この謀略はうまくいき、インドネシア各地域の団結は乱れて、反植民地運動はジャワ島中心に絞られることになる。民族派はもちろん、共産主義勢力まで幾つにも分裂した。そして少数勢力となったジャワ島以外の勢力は、鎮圧されるか勢力を縮小させた。だが、峻険な山岳地帯で構成されるジャワ島は、熱帯では珍しい農業に適した土壌を持つ事などから人口が他より飛び抜けて多いこともあって、簡単には反植民地運動は鎮圧できなかった。しかも左派と民族派が、ジャワ人によるインドネシア統一という点で団結し、1957年に内乱は完全に紛争状態となる。
 オランダは日本、アメリカから支援を受けつつ軍隊を本格的に投入し、大規模な兵力をジャワ島に送り込んだ。しかしこの動きは、オランダの財力不足、西欧正面でのソ連軍の圧力強化でうまくはいかなかった。
 結局、1958年にオランダ人は戦闘で負けてもいないのにジャワ島から逃げ出して、他でも勢力を最低限にしたうえで事態を国連に放り出した。統治コストが酷い赤字になりすぎて、恥をかく方がマシと判断したのだ。そこまでなら、この頃世界各地の植民地で起きていた植民地独立や独立運動と大差なかった。問題なのは、独立を主導した集団のかなりが共産主義者で、ソ連が裏から援助していた事だった。
 オランダが逃げ出した時点で、民族派はジャワ島以外での活動を拡大したのだが、左派は同じ動きをすると見せかけて、民族派の中核を一気に攻撃して殲滅。戦力が分散していた民族派は、不意を突かれてスカルノら幹部の多くが殺害されてしまう。
 また、民族派を支援していた蘭印の華僑もこの時に多くが犠牲になり、その後も共産主義に反する富裕層が多いことと、外来の異民族である事から強く弾圧されるようになる。
 これで蘭領東インドのジャワ島を中心とする地域が共産党勢力下となり、彼らは「インドネシア人民共和国」の建国を宣言。1953年から指導的地位にあったディパ・ヌサンタラ・アディットが初代書記長に就任した。そしてソ連など他の共産主義国家の承認と後押しを受けて、旧蘭領東インド全土へとその手を伸ばそうとする。
 しかし、自由主義陣営も黙って見ているわけではなかった。

 ジャワ島でジャワ人中心の民族派が殲滅された時点では、介入していた各国はインドネシア共産党を正統な政府とは認めず、各地に軍を進めた。
 またインドネシアの「正統な政府」として、辛くも暗殺を免れたモハマッド・ハッタを中心として、ハッタの故郷でもあるスマトラ島で政府の再編成が進められた。これを「インドネシア臨時政府」と呼称した。しかし臨時政府には実行力がないため、臨時政府の承認という形で西側陣営の各国が積極的に介入した。
 ボルネオ島(カリマンタン島)には、形だけサラワク王国軍が先頭を切るも、サラワク王国軍の多くが傭兵で、実質的には日本軍が主力となった部隊が進駐した。スマトラ島には、日本軍、アメリカ軍、満州軍が進駐した。西部ニューギニア島には、島の東部を持つオーストラリア軍とニュージーランド軍、アメリカ軍が進駐。北東部のスラウェジ島、モルッカ諸島などにも、現地の民族派の手引きで日米軍が進駐。その他の小さな島々にも、そこが共産党支配下でない限り、少数でも部隊が派遣された。場所によっては共産党との戦闘も発生したが、各国軍は武力で圧倒した。
 臨時政府が自力で何とか統治できたのはスマトラ島だけだが、それすら西側各国の援助がなければ厳しかった。それだけ当時のインドネシアの政治、軍の中心が、人口地帯のジャワ島に集中していた証拠だった。しかも共産主義者にはスンダ海峡を越えられ、海峡を制御できるスマトラ島の南端部一帯が共産主義陣営の実質的支配下となった。この事は、後々まで大きな影響を及ぼすことになる。
 この失点を挽回するべく、共産党が支配するジャワ島自体には日本軍などの手により実質的に海上封鎖され、ジャワ島の共産党軍が他の島に軍隊を送り込むことが非常に難しくなる。少なくとも、大規模な派兵は不可能となった。
 この出動では海軍や海兵隊(陸戦隊)が改めて見直され、日本、アメリカでの海軍及び海兵隊復権の大きな一歩ともなった。
 その後、各地での民族自治政権が武装して、進駐した各国部隊と共にそれぞれの地域の共産党殲滅を行う。だが、介入した各国軍もそれほど大規模な軍隊を派兵したわけではないので、ジャワ島へ攻め込む事は難しかった。
 そしてジャワ島以外で「インドネシア連邦共和国」の建国が進められると、インドネシア人民共和国政府はソ連などの仲介を受けて事態を国連に持ち込む。
 しかし会議は国連本部のあるニューヨークで行われず、米ソの勢力境界とも言えるスイスのジュネーブで行われる。ニューヨークでは、ソ連が不利すぎたからだ。
 そして1959年、アメリカ、ソ連、日本の三大国の思惑によって、ジャワ島を中心とした「インドネシア人民共和国」が承認される代わりに、それ以外の地域にはスマトラ島のパレンバンを首都とした「インドネシア連邦共和国」の成立が認められることになる。しかし西部ニューギニアは、連邦共和国の統治能力不足を理由にオーストラリアの国連委任統治領に変更された。
 共産主義陣営としてはジャワ島だけでも共産化できたことで、取りあえずは成功と判断していた。この後、徐々に勢力を広げればよいし、東南アジア共産化のこれ以上ない橋頭堡が確保できたからだ。一方の自由主義陣営は、ほぼジャワ島だけに封じ込めた事で一応は満足していた。また、特に日本が求めていた現地の資源が共産党支配下の地域にはない事も、この時の妥協に大きく影響を及ぼしていた。要するに、地下資源とマラッカ海峡以外、インドネシアに興味が無かったと言うことになる。
 しかしこの中途半端な決着は、その後当然のように大きな問題を引き起こすことになる。

 なお、日本においては、ジャワ革命、キューバ革命に呼応するという名目で、1959年に国内の共産党勢力、反政府勢力が蜂起して帝都の一部が争乱状態に陥った。これを「34年争乱」や「帝都争乱」などと呼ぶことがある。
 今まで治安維持法で「弾圧」されていた人々(※ほぼ全員が日本人)が、第二次世界大戦での囚人動員(とその犠牲)の恨みも重なって争乱を起こした形だったが、日本人達が本気で「革命」や「反政府活動」をしたかは疑わしいと言われている。争乱で逮捕された多くも「政治活動」としか証言していないからだが、何か事を起こすには何もかもが不足していた事が大きな理由だった。また原因の一つに、扇動に乗せられやすかった貧困層の問題があった事は間違いない。
 しかし争乱と言っても、政府施設への武器、手製爆薬を用いた攻撃、要人暗殺などのテロ行為は、事前に情報が漏洩した事もあってほぼ全て失敗していた。これは日本政府の対応が水際立っていたからでもあるが、事を起こした日本国内の共産党およびそのシンパ、反政府主義者の者達で仲間割れを起こして密告が多発したからだ。特高が主要人物を事前逮捕できたり、憲兵隊によって爆弾製作現場が制圧された事例もあった。
 争乱では、数十名の死者と数百名の負傷者、数名の亡命者、そして千名を越える逮捕者を出したが、日本自体の何かが変化することも無かった。アメリカ、西欧諸国の市民は配信された映像を見て日本の赤化を心配したが、国民のほぼ全ては共産主義には毛ほどもなびかなかった。むしろ共産主義への嫌悪感、忌避感を強め、日本国内での共産主義活動に類する活動がなお一層やりにくくなっただけだ。同年の選挙でも無産党、社会党は惨敗を喫し、政治的影響力をほとんど無くしてしまった。

 この時期の総理大臣は自由党の岸伸介。公選制で最初の総理大臣となって支那戦争を指導した民主党の山本五十六と接戦の末に国民から選ばれた。
 岸は、1953年の総理選挙の際に二期目を狙った山本五十六と競い合ったため軍(海軍のみならず陸軍含む)からの政治的反発もあったが、この時は軍からも協力を取り付けた事態を乗り切った。また世論も、この時の総理が軍人出身の山本では無くて良かったと見ている。軍人出身の山本が総理だったら、暴動鎮圧に軍が大量に動員されていたと考えたからだ。
 なぜなら文官出身の岸ですら、警察だけでなく軍(憲兵隊)にも治安維持活動に出動させる事で速やかに鎮圧に成功し、一週間ほどで情勢は沈静化したからだ。
 しかし、警察がテロリストや暴徒相手とは言え国民に対して銃を向けた事件ともなり、しかも編成されたばかりの重武装警察、通称「機動隊」が活躍した。
 そして日本では、この争乱を切っ掛けに警察の重武装化、暴徒鎮圧組織が本格的に編成されたのが変化と言えば変化であり、軍と警察(内務省と兵部省)が協力したことは日本の近代官僚制度上で大きな前進と言われた。また、テロ・暗殺対策として要人警護体制が大幅に強化され、要人警護隊(SP)も発足している。
 さらには、「左派史観」上では近代日本史上で初めて民衆が国に対して反旗を翻したと言われる事もあるが、行ったのは一部の共産主義者と煽られたごく一部の大学生などの若者だけだった。しかも日本人に共産主義の脅威を印象づけただけに終わり、日本人全般に対してはむしろ逆効果の方が強かった。
 しかしこの事件では、「岸の草刈り」と言われたほど報道各社、報道関係者、大学・学識経験者、さらには政財界、官僚など多くの人々への「アカ狩り(レッドパージ)」が官民あげて行われたことは、異常な数の逮捕者もあり行き過ぎていたと言われることも多い。
 その影響で、治安維持法の見直しが行われたほどだった。そして今まで行き過ぎていた点を改めると共に、共産主義、全体主義以外の広い範囲を含んだ反社会的勢力に対する法律として見直され、過激な新興宗教にもその矛先を向けるようになってもいる。警察組織も、特高(特別高等警察)の事実上の解体と広域警察としての再編が行われた。
 また、この時期には大規模な凶悪事件が多数あったが、従来の刑法では裁ききれないため刑法の大幅改訂にも大きなメスが入れられ、時代に合わせた厳罰化が行われた。
 そして岸内閣は、国内の混乱こそ見事鎮圧するも、国内外での共産主義の奔流に流された事そのものについては国民に不安視されてしまい、次の選挙で自由党が勝利するため連続二期については諦めざるを得なかった。

 そして日本人が共産主義の脅威を間近で感じたように、世界中での自由主義陣営と共産主義陣営の対立は、いっそうの強まりを見せるようになっていく。


●フェイズ104「キューバ危機と海軍拡張競争(1)」