●フェイズ104「キューバ危機と海軍拡張競争(1)」

 1959年1月1日、キューバで革命が起きた。それだけならまだしも、アメリカ政府も強硬姿勢と頑なな態度もあって、アメリカ合衆国のすぐ隣に共産主義国家が誕生する。
 同時期東アジアでも、朝鮮半島、ジャワ島で共産主義者による反乱や独立運動が激化しており、自由世界の危機が強くいわれた。アメリカが頑なだったのも、キューバを支配する企業などの強欲だけではなく、政府の焦りの現れと見ることも出来るだろう。
 指導者のフェデル・カストロ自身は共産主義者ではなかったが、アメリカがキューバ革命を拒絶したことから、キューバはアメリカの対抗国であるソビエト連邦ロシアへの傾倒を強める。その後もアメリカの謀略による関係悪化もあって、キューバでの共産主義化は進み、1961年5月には体制がほぼ固まってしまう。
 そして「キューバ危機」のお膳立てができてくる。
 
 当時のアメリカ合衆国大統領は、ジョセフ・P・ケネディ。
 ケネディ一族の長男で、父親と同じ名前(ジョセフ)を持っていた。彼は、第二次世界大戦中ではパイロットとして従軍して少佐で終戦を迎えた。戦後すぐに軍を退役し、その後は政治家としての道を歩む。そして若いながら下院議員、上院議員、1956年の民主党の副大統領候補と経歴と経験を積んで、そして1960年の選挙で勝利して、1961年に第36第アメリカ合衆国大統領に若くして就任した。
 しかもこの時のスタッフとして、次男のジョン・F・ケネディは急速な経済発展で国際的な存在感を増していた満州帝国の大使となり、三男のロバート・ケネディは司法長官に就任していた。
 なお、次男のジョンが最有力同盟国の日本ではなく満州大使となった事は、後に日米満の間で大きな意味を持ったと言われる。
 というのも、満州のアメリカ利権は、ER(旧東鉄)や日本の福岡に本拠を移して早々に多国籍企業化した鈴木コンツェルンを経由して、モルガン財閥が中心となっていた。そしてモルガン銀行を経てアメリカ有数の投資家となったプレスコット・ブッシュが、強い影響力を持つようになっていた。着道楽でも知られたプレスコット・ブッシュはブッシュ一族をのし上がらせた立て役者で、その後彼の息子の中から大統領二人、副大統領一人など、多くの政治家を輩出している。また、満州とも縁の深いハリマン一族とも昵懇の間柄だった。モルガンについては言うまでもない。
 さらにブッシュ一族は、プレスコットの活動の経緯から親日、親満家としても知られ、日満の政財界との関係も深かった。後に大統領となる息子のジョージも、第二次世界大戦中は攻撃機のパイロットとして従軍し、戦争終末期から戦後すぐの時期には日本海軍に連絡将校として出向したりもしている。後に日本の総理となる中曽根康弘、満州の首相となる瀬島龍三とは、第二次世界大戦中に軍務の中で最初の交友関係を持ったりもしている。
 これに対してケネディ一族も、アメリカで最も知られた政治家一族であり、次男のジョンの駐満大使就任はケネディ一族とブッシュ一族の戦いの幕開けとされるためだ。もっとも、当時の駐日大使は、長期に渡って大使を務めた日本生まれのアメリカ人エドウィン・ライシャワー博士なので、ジョンが駐日大使になることはどれほど政治力学をねじ曲げても不可能だったので、駐満大使になったのは半ば偶然と言われている。

 話しが少し逸れたが、1961年はケネディ一族が政治家一家、「アメリカの王族」として華麗にデビューを果たした年でもあったのだ。
 ただし父のジョセフ・ケネディは、ハル政権時代(1944〜48)に国務長官に周囲を驚かせた抜擢をされるも、党内での対立とハル大統領との国連設立に関する意見の食い違いなどから早期の交代を余儀なくされており、息子の大統領就任でようやく本懐を成し遂げたと言えるだろう。
 そして当然だが、この時のケネディ大統領も何よりもまずアメリカ人の利権を第一に考えなくてはならなかった。キューバ革命とその後の危機的状況は、例え誰が大統領であっても大きな変化は無かったと断言すらできるだろう。もしあった場合、それは第三次世界大戦という全面核戦争を意味していたからだ。
(※当時のソ連に、それだけの核戦力は無かったが。)

 1962年10月〜11月に起きた「キューバ危機」は、一般的にはアメリカ合衆国を中心とする自由主義陣営とソビエト連邦ロシアを中心とする社会主義陣営の争いであり、社会主義陣営の攻勢だといわれる。しかしソ連にしてみれば、アメリカがトルコにミサイル(※核弾頭搭載可能な中距離弾道弾)を配備していることへの対抗措置で、基本的には防衛、つまり守ることを考えての行動でしかなかった。
 ソ連というよりロシアは典型的な大陸国家で、基本的な行動基準は海洋国家からの圧迫をはね除ける事にある。つまり受動的であり防衛的といえる。攻勢に出る際でも、決定的に有利な状況か逆に余程不利な状態でしか行われない。
 ソ連のキューバ危機でのキューバへの弾道弾配備も、その変形でしかない。しかしヨーロッパでの優位を確信した、その次の行動と言われることが多いのも事実だった。実際、自由主義陣営はそう受け取って、カリブ海からヨーロッパにかけての軍事緊張を極度に引き上げた。

 第二次世界大戦をアメリカとソ連のヨーロッパ進撃競争だけを見ると、一般的にはソ連の勝利と言われる。ソ連がドイツのほぼ全土を占領したからだ。
 しかし、アメリカの心理的な政治目的は、白人世界の盟主としての地位を継承そして確立する事にあり、白人世界そのものである「ローマ帝国領」を勢力圏とする事にあると言われる事も多い。その視点から見ると、アメリカはほぼ目的を達成している。ローマ帝国の視点から見ればドイツは蛮族の領域に過ぎず、勢力圏とするに値しない場所でしかなかった。また、地中海が完全に自由主義陣営の勢力下にある点から見れば、ロシアの伝統政策(南下政策)完全な失敗とも言える。
 しかし戦争の結果、ソ連は勢力圏を大きく西に伸ばしてドイツを勢力下として、ライン川にまで達した。ロシア人が夢にまで見た西ヨーロッパ文明に手が届いたわけだ。スターリンがロシア人達から称えられるも、ロシア人的視点からみれば当然の事だった。ここに「共産主義的賞賛」は全く存在しない。ドイツ征服を達成したスターリンは、間違いなくロシア史上での歴史的偉業を成し遂げた英雄だった。

 そしてロシア人は、史上初めて北海に面した港を手にすることになる。
 ドイツ海軍の拠点だったヴィルヘルムス・ハーフェンは、コムソモリスク・ポールトと名を変え、「真の道」に目覚めたドイツ人から自発的にソ連に無期限で無償貸与されていた。
 さらにソ連は、ドイツの資産を本国に持ち帰り、さらに重工業を解体する傍らで、ドイツが保有していた造船所とその関連施設を接収し、自分たちが使うように改めた。
 加えてソ連は、旧ドイツ海軍の艦艇を可能な限り接収し、ドイツ人が自沈させた艦も浮上復帰していった。巡洋戦艦《グナイゼナウ》、空母《グラーフ・ツェペリン》、重巡洋艦《プリンツ・オイゲン》などが、名を共産主義的に改めてソ連海軍に編入された。加えて、イタリアからも賠償として戦艦《ヴィットリオ・ヴェネト》《インペロ》などを得ており、合わせて少しばかりスターリンを満足させたという。
 また、ドイツから連れ出した海軍関係の技術者、工員も動員して、戦前からソ連各地で建造中だった《ソビエツキー級》戦艦の建造工事を強引に再開しようとした。ソビエツキー級戦艦は、主砲をドイツから輸入もしくは技術輸入することが前提だったので、建造は簡単にできるとスターリン書記長は考えたと言われる。
 しかし戦争中に、ドイツの侵攻で建造施設ごと捕獲された。当然建造は中断し、そればかりか資材がむしり取られた状態で、さらに黒海沿岸で建造中の2隻はドイツ人が去り際に酷く破壊していた。このため建造再開を断念せざるを得なかった。レニングラードで建造中の1隻は、ドイツ人に占領こそされなかったが、他に必要なものを作るためにはぎ取られて、こちらも建造再開は不可能に近く、数年間の努力の末に結局断念された。
 一方で、戦争末期に接収したドイツ全土の造船施設及び造船に関連する施設は、かなりが破壊や解体をせずにそのまま保持され、さらには造船関係者を連れ去ることも最小限とした。一旦はソ連各地に連れて行った者達も、必要な者については順次もどされてきた。そればかりか、ドイツ各地から技術者、工員経験者が集められた。
 なぜなら、スターリン書記長が望んだソ連のための艦艇の建造が大規模に開始されたからだ。

 この結果、早くも1947年から旧ドイツ海軍が戦争後半に建造したものとよく似た、大型戦艦2隻、大型空母2隻を中心とする艦艇の建造が開始されている。
 さらに数年後、主にドイツからの強引な費用と労働力の拠出で、キール運河の拡張工事を3年がかりで行っている。運河の拡張は、表向きは次世代の大型船舶運航のためとされたが、本当の目的が大型戦闘艦艇の通過のためなのは間違いなかった。
 しかもスターリンは、1950年にさらなる海軍の大拡張を命令し、ソ連各地とドイツの造船施設を総動員して、大型戦艦3隻、超大型空母4隻を中心とする大規模な計画を開始した。特に世界一に拘ったため、雄大な規模の巨大戦艦の建造を強く命じた。
 もっとも、計画は主に予算面でソ連と共産主義陣営にとって大きな重荷だったため、スターリン没後に計画は大幅に縮小。その時点で工事の進んでいた4隻の大型艦を完成させるも、残り3隻は4隻の資材や部品として建造を中止し、日本海軍を越えるほどの規模だった計画全体も半分以下になっている。
 しかし、ドイツ、イタリアからの賠償(もしくは接収とスターリンの海軍大拡張計画によって、1956年にはソ連は戦艦7隻、空母5隻を保有する、アメリカ、日本に次ぐ海軍の保有を実現している。つまりイギリスを抜いて、ヨーロッパ最強の海軍を遂に手に入れたのだ。
 このソ連海軍の時代錯誤とも言われる大幅増勢は自由主義陣営を刺激し、アメリカ、日本共にヨーロッパ駐留艦隊の増強と一部艦艇の建造(再開)もしくは復活につながっている。
 日本が第二次世界大戦中に建造を中断した巨大戦艦の建造を再開したのも、ソ連海軍の戦艦に対抗するためだったし、アメリカが戦艦戦力の維持枠を拡大したのも同様だった。第二次世界大戦での決定的局面での活躍が、ソ連と言うよりスターリンを戦艦に固執させ、世界の列強に戦艦の保有と維持を主に政治的に求めたのだ。
 しかし当時のソ連の国力、経済力では、大小12隻(戦艦7隻、空母5隻)の大型艦を建造そして維持するのは重荷で、他の戦力を一部縮小するなどの悪影響も与えている。それでも何とか保有できたのは、ヨーロッパからの搾取があればこそだった。この点ドイツ全土を事実上押さえていた事は、この時期のソ連にとって大きな恩恵があったと言えるだろう。この時期作られたソ連の巨艦群は、ドイツ人の犠牲無くして作ることは不可能だっただろう。

 しかし、自由主義陣営が最も恐れたソ連の洋上戦力は、戦艦や空母ではなく潜水艦だった。ドイツと言えば潜水艦の先進国で、ソ連がその全てを手に入れたからだ。対してアメリカなどが手に入れたのは、欧州枢軸に属していた英仏などが戦争中にドイツから得ていた技術と、何隻かの最新鋭潜水艦(※水中高速型の「XXII型」)、亡命してきた一部の技術者だけで、旧ドイツが有していた先端技術では劣勢だった。
 一方、大型艦艇を愛したスターリン書記長ではあったが、大洋海軍を目指すソ連海軍にとって必要な戦力は、潜水艦だと定義していた。スターリンの海軍大拡張でも、潜水艦の建造予定数は実に1700隻にも上る。しかも晩年近い頃(1952年)には、誇大妄想としか言えないながらも原子力潜水艦を1000隻建造する構想まで持っていた。
 そして接収したドイツの施設を修理した上で動員し、自国の施設を合わせてまるで戦時のような勢いで、猛烈に潜水艦を建造し始める。
 ソ連が潜水艦を重視したのは、言うまでもなくアメリカ、日本など自由主義陣営に対して海軍力が大きく劣るためだった。ドイツと同じような考えだが、海軍力に劣る側が採れる手段はひどく限られているためだ。そして劣勢な側の海軍が対抗可能な戦力は潜水艦で、これからの時代の事実上の主力艦艇が潜水艦になると予測しての事だった。(※後者は後付解釈で、主力になるとは考えていなかった可能性が高い。)
 しかし1952年に、潜水艦に大きな変化が起きる。
 日本そしてアメリカが、相次いで原子力潜水艦を開発してしまったのだ。これにより既存の通常動力型潜水艦は、「可潜艦」に格下げされてしまう。しかも、原子力潜水艦が潜ったまま北極海すら航行できるとなると、戦力価値の違いは大きすぎた。実際、通常動力型潜水艦の戦力価値がそれほど落ちたわけではないのだが、少なくともスターリンにはそう感じられた。
 それに加えて、念願の巨大戦艦や空母を何隻も浮かべても、水上戦力での劣勢はほとんど変化無かった。技術開発が遅れていた事も影響していたが、基本的な海軍力が違いすぎたからだ。それでも新造した戦艦は、日米の戦艦など有力な洋上戦力を吸い寄せる役割を果たしたので、劣勢な海軍力としては十分な成果だったと言えるだろう。
 とはいえスターリンを始めとしたソ連指導部は、潜水艦を洋上占領の中核に据えることを決める。こうして、アメリカ本土を攻撃できる戦略ミサイル搭載潜水艦と、日米の空母機動部隊を水中から撃滅できる巡航ミサイル搭載潜水艦の開発が急速に進められるようになる。
 だがそれらの兵器には、必要な要素が二つあった。
 核兵器と原子力潜水艦だ。

 ソ連での原子力潜水艦の開発は、日米と同じく原子炉の開発から始まる。ソ連で初めて実験型原子炉が作られたのが、スパイからの情報などを応用して1947年だった。これを受けて潜水艦用の原子炉開発がスタートする。
 しかし開発は難航し、安全性の極めて低い小型原子炉のため、人体に強い放射線障害が出るのを承知で囚人を動員するなどすらしている。
 それでも1954年に初期設計案がまとまり、1958年12月にようやく「K-3」と命名された原子力潜水艦が誕生する。
 しかしこの時点で、アメリカ、日本共にさらに原子力潜水艦の開発を進め、アメリカは早くも次世代型の攻撃原子力潜水艦と世界最初の戦略原子力潜水艦の整備を開始していた。
 日本海軍も原子力潜水艦建造には熱心で、最初の《伊401》の流れを汲む巡航ミサイル搭載型の大型潜水艦《伊500型》、アメリカ同様新しい形(涙滴型)の水中高機動型原子力潜水艦《伊200型》の試作建造を連続して進めていた。日本の場合は、量産するほど予算がないため贅沢な仕様の試作艦を作り続けることで、予算を得ると共に技術的問題をクリアしていっていた。しかもアメリカと日本は、お互い有償ながら技術協力も行っているため、開発速度は非常に早かった。(※この頃の日本海軍の潜水艦は、まだ名称変更前。)
 ソ連も黙って見ているわけには行かず、いまだ手探りながら次々に原子力潜水艦の建造を実施した。だが、初期のソ連の原子力潜水艦では、技術不足から冷却水の蒸気漏れの事故が多発していた。しかも連続稼働時間も短く、機械的信頼性は非常に低かった。加えて、冷却の問題から温かい海では運用できないと言う欠点まで抱えていた。このため「キューバ危機」では、保有する原子力潜水艦を派遣できなかった。キューバ危機の頃には、日米の海軍が多数の原子力潜水艦を実戦投入していたこととは大きな違いだった。
 ソ連海軍が「キューバ危機」で出動させたのは、熱帯の海に全く対応できない通常型潜水艦とそして水上艦隊だった。

 キューバ危機が第三次世界大戦の瀬戸際までいったのは、アメリカがキューバの海上封鎖を決意したときから約10日間の間だった。
 キューバ危機は、現在ではそれほど大きな事件だと認識される事は少ないが、少なくとも当時の世界の上層に属する人々、政治家、軍人にとっては第三次世界大戦、全面核戦争の一歩手前まで行った大事件だった。
 政治家と軍は、人々に見せないようにしながらも最大限に軍を動員し、ほぼ実戦状態で待機していたほどだった。アメリカ戦略空軍は平時ローテーションを無視して、当時保有していた約1000機の戦略爆撃機のうち常時500機が上空待機していたりしたのだ。しかも実弾、つまり核弾頭を搭載した状態で、である。
 日本でも「轟山」など全ての重爆撃機が、アメリカ軍同様の状態に置かれ、硫黄島、択捉島など戦略空軍の基地は大忙しだった。
 NATO諸国など自由主義陣営の軍事的緊張段階を示すデフェンスコントロールでは、5段階のうち戦争状態を示す「デフコン1」に限りなく近い「デフコン2」とされ、米ソどちらかが一発でも撃てば両陣営の為政者の意志に関わらず自動的に全面核戦争に突入していたほどだった。
 それほどの緊張状態が生まれたのが「キューバ危機」だった。

 この時アメリカは、キューバ近海に海軍主力を集結させ、10隻の攻撃空母を中心として約200隻の艦艇を集めた。またイギリス海軍と共同で、北海とバレンツ海のソ連海軍を抑え込もうとした。さらに日本海軍は、地中海での活発な活動を開始する。日本本土からは、急ぎ増援艦隊もヨーロッパに向けて出発した。
 北太平洋方面でも、ソ連が戦後になって苦労して建設したペトロパブロフスク・カムチャッカスキーの潜水艦基地から出撃した潜水艦(※弾道弾搭載型が主力)に対して、日本海軍とアメリカ太平洋艦隊は、総力を挙げて追跡と抑え込みに入った。ここで日本海軍は、第一次世界大戦から続く対潜水艦大国である事を改めて世界に示した。北太平洋方面のソ連軍潜水艦のほとんどは、出撃時点から察知され行動を監視され続けた。そして万が一ソ連の潜水艦が攻撃の素振りを見せれば、日米両軍は即座に撃沈する行動をとり続けた。
 しかし、これほどの全面展開となると、流石のアメリカ海軍も戦力が不足した。
 戦争終了からしばらく、アメリカ海軍は大戦中に建造した8隻の《NA級》大型空母、14隻の《エセックス級》空母、ソ連海軍の軍拡の影響で交代ながら現役続行が決まった9隻の大型戦艦を中心とした戦力で編成された。さらに《NA級》の改良発展型の《フォレスタル級》大型空母4隻が大戦中から建造中で、これらは建造延長に伴う近代化を受け入れて、1950年代前半に相次いで就役した。
 また、大型化の一途を辿るジェット艦載機の全面採用に伴い、1950年頃から既存の大型空母と一部の空母は交代で近代改装工事に入り、アングルド・デッキ、サイドエレベーターの増設、蒸気カタパルトへの換装、エンクローズドバウ化、対空兵装、電子装備の刷新など全面的な近代改装を実施する。
 そして支那戦争以後の1961年からは、20世紀後半の超大型空母の原型とも言える次世代型大型空母の《キティホーク級》攻撃空母の整備が始まる。同タイプは1961年に2隻が相次いで就役しており、さらに特徴的な姿を持った世界初の原子力空母《エンタープライズ》が就役している。これらの就役で、《エセックス級》空母は対潜空母に格下げされたり、旧式のままの一部が予備役編入となった。

 以上、キューバ危機の頃のアメリカ海軍は、15隻の攻撃空母と8隻の対潜空母を現役艦艇として保有していた。しかし全体の2割程度は近代改装などで戦列を離れ、さらに2割ほどは長期整備などで動けなかった。しかし長期整備中の2隻は、全面戦争の危機に際して強引に稼働状態に持ち込まれ、キューバ封鎖に参加していた。
 この時、準戦時状態で稼働状態の空母の数は、攻撃空母11隻、対潜空母6隻だった。つまり稼働する攻撃空母のほとんどが、キューバの海上封鎖をしていた事になる。太平洋も、自国近海に対潜空母1隻を置いているだけで、北太平洋全域は日本海軍に任せていた。そして残り1隻の攻撃空母が、北大西洋上のヨーロッパ近海に配備されていた。これに加えてイギリス海軍の大小3隻の空母がヨーロッパ近海に展開しており、ソ連海軍に対抗していた。
 さらにソ連海軍が4隻の巨大戦艦を北極に近い海域で稼働させているため、アメリカ海軍3隻、イギリス海軍1隻の戦艦が前線に配備され、他の艦艇と共に警戒配置に就いていた。当時、アメリカが9隻、イギリスが4隻の戦艦を現役に止めていたが、予算と人員の問題さらには長期使用のため、うち半数が実質的に予備役に置かれているため、常時動かせる戦艦の数には限りがあった。

 対するソ連海軍だが、就役させた大型艦は基本的にバレンツ海またはその奥の白海に配備されていた。かつてのドイツ海軍のように、身動きが封じられるのが分かり切っているバルト海、北海のドイツ沿岸は、基本的に建造場所でしかなかった。このため、ドイツで就役した艦艇が北極圏に移動するのを西側陣営が遠巻きに眺めるというのが半ば慣例になっていた。象徴的に旧ドイツ海軍の《グナイゼナウ》改め《エストニア》がバルト海に、《ヴィットリオ・ヴェネト》《インペロ》改め《グルジア》《モルドバ》が黒海に置かれていたが、この頃には旧式化と整備不良で戦力価値が大きく下がったため、米英日の艦艇や航空戦力を引きつけておくのが主な役割だった。
 この時期ソ連海軍大西洋艦隊には、編成表上では大型空母4隻、大型戦艦4隻が配備されていた。
 以下が、その名称になる。

 戦艦《ウクライナ》、戦艦《ベラルーシ》
 戦艦《ソビエツキー・ソユーズ》、戦艦《ソビエツキー・ルーシ》

 空母《モスクワ》、空母《レニングラード》
 空母《キエフ》、空母《ミンスク》

 戦艦《ウクライナ》《ベラルーシ》は、1947年から建造開始された旧ドイツ海軍の《フリードリヒ級》に準じた戦艦で、全長277.5m、基準排水量5万4500トン、16インチ砲連装4基8門と内容もほぼ同じだった。ドイツの設計より重量が2000トンほど増えたのは、戦訓を反映して各部の上面装甲を可能な限り増厚しているためだった。艦橋など上部構造物と主砲以外の装備をソ連海軍用に改めているが、シルエットは非常によく似ている。しかし装甲増加によって、若干喫水が下がり、さらに若干トップヘビーになってしまっていた。
 《ソビエツキー・ソユーズ》《ソビエツキー・ルーシ》は、世界最大最強を目指しさらには日米の戦艦を圧倒するべく、総力を挙げて建造された大型戦艦だった。基本的な姿と性能は、旧ドイツが戦前に設計試案を進めていた「H級」戦艦の後継艦に似ていた。
 基準排水量10万4500トン(満載12万トン以上)と、人類が建造した軍艦史上最大級の重さを誇る。
 基礎設計と建造施設の関係もあって見た目は旧ドイツ海軍の戦艦に似ているが、艦橋をはじめ上部構造物の一部がソ連風(ロシア風)で、装備の多くは《ウクライナ》同様に戦後ソ連が開発した最新鋭のものを搭載していた。
 330メートルに達する巨大な船体に、47口径19インチ(48cm)砲を連装4基8門装備していた。スターリンは20インチ砲の開発を命令したが、当時東側陣営にあった(つまりドイツに残されていた)最大の工作機械(プレス機)では、多少の無理をしても19インチ砲の製造が限界だった。そして28万馬力もの機関が搭載され、10万トンの巨体を30ノット以上の高速が発揮できた。(※公称32ノット、実質はリミッター解除でも30.5ノットが限界と考えられている。)
 雄大な船体を有するため装備も多く、艦橋の高さは海水面から50メートルを超えていた。何もかもが破格の規模だが、それに対して主砲は少し小さいというのが専門家の判断だった。実際、18インチ砲を有する《モンタナ級》、《大和型》は6万トン級だったし、装甲防御の点でも直接的な装甲厚は、「小さい分だけ」日米の巨大戦艦の方が優位だった。大きいと「的」としても大きくなってしまうからだ。
 旧ドイツ系列の技術では、船体全体を防御する重防御方式のためだと評価する向きも強いが、試案をそのまま採用したような船体を有する《ソビエツキー・ソユーズ級》は、大型すぎて設計段階での完成度がむしろ低下していると見られている。それでも空前の巨体の印象は強く、政治的要素から建造されたとも言われている。
 就役は1955年、56年で、世界で最後に就役した戦艦でもある。

 空母の方は旧ドイツの《アトランティス級》の改良型である《モスクワ》、《レニングラード》と、さらに大型化した4万トン級の《キエフ》、《ミンスク》になる。つまり、イギリス由来のドイツ空母のソ連版になる。
 しかし4万トン級という大きさに反して、この頃(1960年代)のソ連空母の戦力価値は低かった。空母の運用理論や技術が西側に追いついておらず、ほとんど第二次世界大戦時のままだったからだ。アングルド・デッキ、サイドエレベーターはいまだ研究段階で、カタパルトは油圧式のままだった。このためジェット機の運用がほとんど不可能で、レシプロの戦闘機爆撃機と攻撃機、限定的能力しかない対潜哨戒機を搭載していた。また、艦載機の開発経験が乏しいため、西側の艦載機には到底太刀打ちできるものではなかった。しかも多くが旧ドイツ軍同様に空軍機からの改造や発展型で、洋上の運用には向いていなかった。さらに言えば、当時のソ連軍パイロットは洋上飛行の経験に乏しかった。
 このため西側陣営にとっての一番の脅威は、西側が「時代錯誤」と一度は笑った巨大戦艦だった。しかも1960年代に入ってからのソ連海軍は、戦艦に随伴する一部の艦艇に長射程の大型対艦ミサイルを搭載するようになり、核弾頭を搭載すると言われていた。戦力の劣る空母も、戦艦を支援する役割を与えられていた。ドクトリン的には旧ドイツに近いと言えなくもないが、西側の海軍と比べると大きく違っていた。
 そして戦艦4隻が、アメリカのキューバ封鎖に呼応する形で、西側風に近代改装したばかりの空母2隻の支援を受けながらバレンツ海を出て、ノルウェー海に出動してきた。(※残る空母2隻は、様々な理由で出撃不可能だった。)

 かくして世界大戦の脅威が迫る中、時代錯誤と言われる戦艦部隊同士による、両陣営の威信を賭けたつばぜり合いが始まる。



●フェイズ105「キューバ危機と海軍拡張競争(2)」