●フェイズ105「キューバ危機と海軍拡張競争(2)」

 1962年秋、キューバで一触即発の事態が進む中、ソ連海軍の虎の子の戦艦部隊の出動に対して、二つの面から西側陣営は動揺した。一つは、ソ連が全面戦争を決意した可能性がまた一つ高まった事。もう一つは、ソ連艦隊に対抗するためカリブ海の戦力を回す必要性が出てきた事。
 人類滅亡すら言われた全面核戦争については、さらに大きな戦略上の事なので、政治家や軍の総司令部の考えることだった。だがその総司令部は、ソ連の戦艦部隊が出てきたヨーロッパ方面に対して、決してこちらから攻撃を仕掛けないように厳命し、可能な限り現有戦力で行動を拘束するように改めて命令した。

 この時点でイギリス海軍は、戦中から保有していた大型空母3隻、軽空母3隻のうち各2隻の合計4隻を稼働状態に置き、戦艦は何とか現役に止めている16インチ砲搭載戦艦の《ライオン》と《サンダラー》のうち《ライオン》が出動していた。他は、様々な要因から出したくても出せない状態だった。
 フランス海軍、イタリア海軍は、NATO全体の方針として主力を地中海に展開していた。
 これに加えて、アメリカ海軍が戦艦《モンタナ》《メイン》《ルイジアナ》、改《NA級》空母の《サラトガ二世》を欧州北部の洋上に展開していた。
 《モンタナ級》戦艦の初期型3隻は、多少強引な近代改装で16インチ砲12門を後期型と同じ18インチ砲8門に換装していた。また改装に際して、20mm機銃、40mm機関砲を殆ど降ろして3インチ連装砲に載せ換えたり、レーダーなど電子装備を最新に改めるなどの近代改装も合わせて実施している。しかも戦艦の主砲弾の一部は、核砲弾だったと言われている。
 さらにアメリカ海軍は、攻撃型原子力潜水艦を各所に展開しており、万全と言える迎撃の布陣を敷いていた。
 つまり戦力的には、洋上戦力だけだと西側が航空戦力で優越していたが、見た目で目立つ戦艦戦力ではやや劣勢だった。しかもソ連海軍の随伴艦艇のうち1隻は、最新鋭の《キンダ級》ミサイル巡洋艦《グロズニィ》だった。同艦は、当時最新鋭の「SS-N-3」対艦誘導ミサイルと「SA-N-1」対空ミサイルを搭載していた。さらに《ウクライナ級》戦艦の2隻も近代改装を終えたばかりで、同じ対艦誘導ミサイルを搭載しているため、艦隊戦だけだと西側が不利と見られていた。しかもソ連軍は、空軍の洋上作戦部隊(攻撃機隊)も洋上展開できるように配備していた。
 そしてソ連海軍の意図としては、ヨーロッパの自由主義陣営の海軍を1隻でも多く引きつければ十分だった。そうすれば、キューバを目指す兵器を積載した様々な輸送船が到達しやすくなるからだ。
 しかし一方で、可能ならばヨーロッパの西側艦隊を突破して北大西洋上に展開し、キューバ近海で鉄壁の封鎖陣を敷いているアメリカ海軍主力部隊を牽制しようという意図も持っていた。そして何より、最終局面(=全面戦争)に至った場合、最低でもヨーロッパの自由主義陣営の艦隊を撃滅しようと意図していた。
 これに対して自由主義陣営は、当面のディフェンス・ラインであるスカンディナビア半島沖合での戦力が十分ではない事を危惧していた。そこで地中海を根城としている日本海軍ヨーロッパ方面艦隊、通称「遣欧艦隊」に援軍を要請する。

 地中海は、自由主義陣営のものだった。
 トルコのボスポラス海峡を、ソ連海軍が強引に突破する可能性は極めて低かった。もしそうした事態が発生すれば、日本海軍の海軍艦載機部隊と、イタリア南部を根城とする日本戦略空軍の通称「空中艦隊」が、自慢の対艦誘導ミサイルの集中攻撃(※この頃は飽和攻撃とはあまり表現しなかった。)で、狭い海にいるところを一気に殲滅する予定だった。そもそも突破しようと動いただけで、全面戦争が確定となってしまう。
 他の自由主義陣営は自国の防衛で手一杯なので、万が一の事態が発生したとき、ソ連を地中海に出さない事は日本軍の一番の役割とされていた。そしてソ連に好き勝手させないためにも、迅速に目的の地域の制空権を確保することが求められた。イタリア軍では、装備と規模の点から不可能な事だった。
 このため日本海軍としては、地中海に必ず1個航空戦隊を配備して置かねばならなかった。遠距離から大規模核攻撃も可能な「空中艦隊」は、全面戦争を決意して以後の最後の手段に近く、可能ならば他の手段でソ連海軍の動きを抑え込まなければならないからだ。だが、常時地中海に艦隊を配備する事は、日本海軍のみならず日本全体にとって重荷とは言わないまでも簡単では無かった。

 日本のGDP(国内総生産)は、終戦時に1946年度が320億ドルが十年後の東京オリンピック開催の年の1956年度には720億ドルと二倍以上に拡大していた。この結果、世界第三位の経済力を有するまでになった。さらに6年経過した1962年の時点でも、世界第三位を維持していた。しかし日本のGDPは、依然として高い出生率による人口拡大に支えられている面も強かった。戦後から10年は年率3〜2.5%、その後十年ほども2%近くの人口増加率で推移していた。途上国並の人口増加率で、1960年に総人口は1億人を超え、1962年統計で1億500万人に達していた。(※台湾などはこの頃の統計数字から外れている。台湾などを足すと約1億2000万人)
 キューバ危機の頃は、日本政府も流石に野放図な人口拡大政策に危惧しはじめていた頃だ。国内で人が増えすぎた為、満州を中心に移民の数も年々大幅に増加していた。
 つまり日本は、アメリカ、西欧諸国に比べて一人当たりGDPが低いことを示している。また相応にGDPが高いのは、新興国で国内に作るもの(=社会資本)が沢山あったお陰だった。1962年の時点で大国ではあったが、一人当たりGDPではいまだ正式には先進国には含まれてはいなかった。
 そしてその大国日本は、自由主義陣営の重要な一角、アメリカの無二のパートナーとして巨大な軍備を維持し続けなければならなかった。巨大な軍備こそが、日米同盟の最重要項目だったからだ。
 そして中でも戦力移動が簡単な海軍の艦隊は、遠隔地に大軍を常時展開しなければならない日本にとって都合がよいと判断されていた。海軍冷遇の時代でも海軍が一定以上の規模があったのは、こうした戦略的判断があったためだ。

 1950年時点で定められた日本海軍の大枠は、海軍軍人数16万、戦艦4隻、空母12隻、巡洋艦32隻、駆逐艦112隻、潜水艦40隻、艦載機900機。この体制が出来てすぐに支那戦争が起きて多少規模は大きくなったが、兵員規模では陸軍はまだしも二つの空軍の合計とほぼ同じだった。それでも軍事費の約4割を消費する、相変わらずの金食い虫だった。
 兵力も一見多いように見られる事が多いのだが、常時海外に兵力を展開することを考えると最小限ですらあった。
 なるべく簡単に見ていくと、日本海軍の主戦力は空母機動部隊だった。そして空母機動部隊は、1個航空戦隊を基幹戦力としていた。そして平時に常時前線に配備するには、最低でも4個航空戦隊が必要だった。1個が前線で作戦中、1個が移動中もしくは待機、1個が休養・整備中、1個が改装や再編成で実質的な戦力外となるからだ。そして日本の場合は、地中海に1個、できればインド洋と本土近海にそれぞれ1個の戦力を稼働状態で配備したいので、6個必要となる。欲を言えば後方でのローテーションに余裕を持たせるためもう1個欲しいが、アメリカのような裕福な国ではないので高望みだった。そして空母機動部隊を6個保有することも、1950年代の日本には高望みだった。
 1950年の時点で、大型空母《黒龍》《白龍》《雲龍》《剣龍》《瑞龍》《仁龍》《大鳳》《神鳳》、空母《天城》《葛城》《翔鶴》《瑞鶴》を保有していた。このうち《翔鶴》《瑞鶴》は、この時点で練習空母と実験空母枠で辛うじて保持されていた。
 当時は空母2隻で1個航空戦隊扱いなので、辛うじて日本海軍が求めた数が保有できていた事になる。

 しかし、支那戦争がおさまった1954年になると、これでも過ぎた戦力と判定された。そして技術の進歩、航空機の発展などを踏まえた上で、新たな戦力査定が海軍と主に大蔵省の間で行われる。この結果、大型空母1隻で1個航空戦隊とする編成が考案される。とはいえ、最低限の戦力を維持しつつ金食い虫の空母を減らす為の方便でもあった。
 当然と言うべきか海軍も抵抗し、その結果アメリカで新たな艦種として誕生した「攻撃空母」と「対潜空母」に対応して、日本の場合は「大型空母」、「支援空母」として保有することになる。
 「支援空母」とは、対潜水艦用空母、各種ヘリ搭載空母としての運用が目的ながら、さらに大型空母の支援も任務とされた。この時点では、ヘリ搭載空母、強襲揚陸艦としての要素は非常に低く、一定程度の数の戦闘機や攻撃機も搭載予定で、大型空母の支援という意味合いでの「支援空母」だった。だがそれを認めさせるため、大型空母を中心とする主力航空戦隊の数は1つ減らさざるを得なかった。代わりに、支援空母を1個戦隊(1隻)常時稼働状態とするため、3隻の支援空母の保有が認められた(※海軍は5隻を求めた。)。
 そしてソ連が潜水艦しか太平洋に置いていないので、日本本土近海に常時展開する空母部隊は支援空母を中心とした部隊とされ、大型空母の戦闘配備が廃止された。
 この結果1956年以後の国防大綱で、大型空母5隻、支援空母3隻、練習空母1隻が配備枠となる。
 大型空母は、他艦のテストケースとして格納庫の短段化や飛行甲板の大幅拡大、艦尾延長、バルジ装着、艦首のエンクローズ化など非常に大規模な近代改装が施された《雲龍》と、大戦最後に就役したアメリカの《NA級》に匹敵する《黒龍》《白龍》が同様に大改装された。さらに、大戦中に建造が始まるも戦後一時工事を中断し、ソ連の海軍拡張に合わせる形で新技術を全面的に受け入れて建造された《蒼龍》《飛龍》が1950年代後半に相次いで就役した。(※大戦中に予定していた本来の艦名は《青龍》《赤龍》と言われる。)以上が1962年での大型空母の5隻枠となる。アメリカ海軍のように、完全な新造艦は1隻も無かった。
 他の大型空母は、1960年までに最低でも予備役とされた。ジェット機運用のための改装にかかる金額、運用経費に対して大きさが中途半端とされた《大鳳》《神鳳》は、改装されることなく予備役に編入され、その後除籍解体されていた。《雲龍型》の他の3隻については、同様にコスト面がネックとなり大規模改装される事がないまま次世代型空母が揃うと予備役に編入され、ほとんどがそのまま退役している。
 支援空母の方は《天城》《葛城》《瑞鶴》が当てられた。超大型巡洋艦から転用した《天城》《葛城》は、元から天井の高い短段格納庫だった事が幸いして、《瑞鶴》に準じた近代改装が施されて生き残ることができた。そして《天城》《葛城》の改装完了を待って、《翔鶴》はジェット機対応の改装の上で完全に練習空母とされた。
 アメリカ海軍のように、次世代型の大型空母の新規建造の話しは度々持ち上がっていたが、新造できるだけの予算が付かないため、贅沢な大型空母は建造したくてもできないでいた。
 そして日本海軍の空母保有を妨げたのが、原子力潜水艦の整備もそうだが意外にも戦艦だった。

 戦艦は第二次世界大戦での活躍から、ソ連のスターリン書記長が戦後も共産主義の拡大と国威発揚を理由に熱心に整備させた。この結果ソ連は、1950年代後半には賠償艦3隻、新造4隻の合計7隻の戦艦を保有した。そして地中海に艦隊を常駐させる日本は、黒海にいる元イタリア戦艦2隻に主に政治的に対抗するため、最低でも1隻の戦艦を駐留させなければならなかった。
 日本政府としては、イタリアかフランスに既存の戦艦を維持させようとしたが、両国が戦艦を維持できたのは大規模な近代改装をしないでも済んだ1950年代半ばまでだった。しかもフランスは早々に戦艦保有を諦めて、多目的に利用できる空母の整備に力を入れていた。そうして1956年には、大戦中から建造していた《ガスコーニュ》を完成させたが、日本としては戦艦を保有し続ける方が有り難かった。
 そして日本は、1950年代半ばまでに最低1隻の戦艦を地中海に常駐させなくてはならなくなる。
 戦後の日本は、《大和型》戦艦2隻、《鳥海型》戦艦2隻を現役としてローテーションを組んで運用し、有事に備えて《高雄型》2隻も予備役に止めた。だが、基準排水量4万トンに満たない《鳥海型》1隻の欧州常駐では、力不足は明らかだった。フランス、イタリアの戦艦が何とか頑張っている間はまだよかったが、いなくなった場合《鳥海型》1隻でソ連の戦艦を政治的に抑え込むだけのカタログデータ上での戦闘力がなかった。それでは政治的に意味が無かった。日本が戦艦を維持し続けるのは、抑止力として有効だからであり、抑止力として機能しなければ意味がなかった。
 そこで日本政府は、1隻で地中海の制海権を政治的に維持するべく、強力な戦艦のために特別予算を計上する。この時の戦力査定の過程で、ソ連の巨大戦艦に匹敵する戦艦を新造する案も出されたが、主に予算の問題から初期計画以上にはならなかった。
 もし新造されていれば、45口径51cm砲を9門搭載した満載10万トンを越える巨大戦艦が最低でも2隻建造されていただろう。
 だが予算という現実を前にして、《大和型》戦艦2隻の大規模近代改装を決定し、さらには第二次世界大戦中に建造途中のまま半ば放置されていた《改大和型》戦艦2隻の建造再開を決定する。空母への改装の検討という言い訳で、実際は解体する費用すら捻出できないので放置されていたのが、思わぬ形で戦艦として復活したのだ。

 《改大和型》戦艦2隻の《信濃》《甲斐》は建造開始から10年以上の歳月を経て1953年、54年に無事就役し、日本で最後に就役した戦艦となった。そして強化された《信濃》《甲斐》の能力に合わせる形で、《大和型》戦艦の《大和》《武蔵》も1954年、55年に大規模近代改装工事を完了した。
 4隻とも基準排水量6万7000トン、満載排水量7万5000トンに拡大し、50口径46cm砲3連装3基9門を主武装とした。《大和型》は、もとの主砲の砲身長が45口径なので、主砲威力は5口径伸びた分だけ威力が増し射程距離も伸びていた。しかも砲弾(+砲弾庫)も全面的に変更して、「十式徹甲弾」というタングステンなどレアメタルを多用した1発当たり約1,800kgの超重量砲弾が新たに開発された。カタログデータ上の威力は、かつてドイツへの対抗のため試作された45口径51cm 砲に匹敵した。
 攻撃力が強化されたのは、万が一の事態つまりソ連海軍の巨大戦艦に正面から対抗するのが目的だった。そしてこの時主砲を新たに生産したことで、生産に携わった技術者、工員が最大で20世紀末頃まで現場に残ることにもなった。
 また《改大和型》の主砲以外では、副砲が対空射撃も可能な非常に発射速度が早い自動装填式の6インチ両用砲、同じく高角砲は自動装填式の5インチ両用砲とされた。逆に機銃は大幅に減らされ、比較的スッキリした外観となった。時代に対応して、ブリッジも新設された。もちろんだが、艦内の最も強固な場所に戦闘指揮所も備えていた。また水上機の搭載はしなくなったが、もとの設計が後部甲板が広いことを活かして、今後大きな発展が見込まれる回転翼機の搭載ができるようになっていた。当然ながら、電子兵装はアメリカからの技術供与も含めて最新のものが搭載され、この点ではソ連海軍を圧倒した。
 また《改大和型》は、乗組員の大幅削減も狙って機関の半分をディーゼル機関として、さらに蒸気タービンと主機も出力を向上しており、最高速力は30ノットに達した。そして燃料積載量を増やしすぎても仕方ないので、ディーゼルを乗せて軽くなった分だけ区画の細分化や各部装甲の見直しが行われた。また、日本人全体の生活の向上も鑑みて、居住性も大幅に改善された。全員ベッドに戻り(※就役時の《大和型》がそうだった。)トイレの数が格段に増えたと、乗員からも好評だった。大きな専用食堂も、特徴の一つだった。逆に、艦隊旗艦として施設や居住区は減らされており、戦艦が主力ではないという時代も反映していた。
 実質戦闘力は《大和型》で第二次世界大戦頃の30%増しと言われ、黒海にいる元イタリア戦艦を圧倒するばかりか、白海にいるソ連海軍主力艦隊にも十分以上に対抗可能だった。何より、ソ連の新造戦艦のもととなった《フリードリッヒ級》を屠ったのは改装前の《大和》《武蔵》であり、自由主義陣営としては有事の際の切り札的な側面が強かった。
 そして「キューバ危機」は、その切り札を使うときだと理解された。
 なお、日本政府が戦艦の整備を比較的熱心に行ったもう一つの背景には、戦艦の維持費の方が空母よりも安く、それでいて政治的な存在感が高いという点を評価した為だった。何しろ知名度の点での《YAMATO》は、世界最強の戦艦だった。そして見た目でも「強そう」な戦闘艦艇は、国内外に存在感をアピールし易かった。もっとも、この時の近代改装では予算の都合から《大和》《武蔵》は最低限度とされた為、「大戦中の方が強そうに見えた」と言われる姿となっている。実際、改装内容も、砲撃力の強化以外はあまり手間と予算をかけられていなかった。この時の「屈辱」が、後の異常なほどの改装につながっていると言われるほどだ。

 1962年10月時点の地中海には、大型空母《雲龍》と戦艦《信濃》を中核とした日本艦隊が駐留していた。そしてもう少しで交代時期だったので、日本本土からは前倒しの形で大型空母《飛龍》と戦艦《大和》を中核とした新たな艦隊がヨーロッパを目指した。日本本土でも戦争の危機のが迫るにつれて次々に艦隊が出動し、アメリカ同様に改装中で動けない艦艇を除きほぼ総動員状態になっていた。総動員されたのは、万が一全面核戦争が開始された場合に、港湾に停泊して核兵器を浴びないためだ。
 そして《大和型》《改大和型》戦艦は、当時のスエズ運河を通過できない為、日本を出発した艦隊はインド洋から喜望峰回りで向かった。
 その頃北太平洋の欧州近海では、北海沿岸でも旧ドイツの戦艦《グナイゼナウ》改め《エストニア》がかなり強引に再稼働されていたため、イギリスの戦艦1隻が北海から動けなくなっていた。
 このため、アメリカ海軍の3隻でソ連主力艦隊を抑え込もうとしたが、ソ連艦隊は艦隊を2分。どちらにも19インチ砲搭載の巨大戦艦を配置したため、抑さえることが難しくなる。そして睨み合う海域は、西側陣営が自らの空軍の制空権下に持ち込もうとしたため、かなり南西に移っていた。もうスカンディナビア半島から北海の出口付近まで近づき、英本土北部海域にさしかかっていた。
 そして空軍、空母艦載機、潜水艦、さらに戦艦でソ連艦隊を抑え込もうとしたのだが、この時は周辺海域の気象が大きく悪化していた。空母は艦載機の発着が難しくなり、しかも広い海域で霧や靄などで視界が悪化して航空機の偵察能力が低下した。潜水艦も大きく荒れた海では、浅い深度での完璧な運用は難しい。こうなると、戦力が未知数の長射程の対艦ミサイルも大きな脅威だった。このためソ連艦隊の突破が強く懸念されている状態だった。そしてソ連艦隊がカリブ海に向けて突進を始めた場合、西側陣営としては戦闘状態に入らなければならないと考え、決断を迫られていた。
 そこにイベリア半島沖合で合流した日本艦隊が、米英艦隊に合流する。
 日本艦隊は、それぞれの艦隊の空母を十分な数の護衛艦で守って後方に置いて、戦艦2隻と砲撃戦、ミサイル戦を重視した艦艇を中心とした艦隊で北の海へと突進する。そこは《大和》にとって、かつてドイツ艦隊を破った海域に近かった。
 そして《大和》《信濃》の現場海域の到着で、両者の戦艦数は数の上で西側優位となる。しかも西側陣営は日米の戦艦が長砲身18インチ砲を搭載しており、ソ連が人類史上最大最強と豪語した巨大戦艦2隻に対しても実質的に優位となる。巨大戦艦に対しては、かつて日本の巨大戦艦に元となったドイツ戦艦が轟沈させられている事が、強い心理的圧迫となっていた。実際問題、カタログスペック上だとソ連の巨大戦艦は、日米の長砲身18インチ砲に対して十分な防御力では無かった。しかもソ連海軍は、技量と機材双方の面で遠距離射撃にかなりの不安を抱えていた。40キロも先への砲撃は、実質的に不可能だった。
 また、この時日本から来援した艦隊には、最新鋭の艦艇が含まれていた。《大井》《北上》というかつての軽巡洋艦の名を引き継いだ満載排水量10000トンを越える新鋭巡洋艦には、日本海軍が実戦配備を開始したばかりの「二一式艦対艦誘導弾」が16発ずつ搭載されていた。能力は《キンダ級》ミサイル巡洋艦と少し似ていたが、ミサイルはソ連ほど大型ではなく性能もかなり優れていた。しかも全てのミサイルを一斉に発射可能だった。そして、ソ連の艦と違って対空ミサイルは搭載していないため、日本海軍では非公式ながら打撃巡洋艦と呼称していた。しかもこの時は、弾頭の一部に核弾頭を搭載していた事が、後の情報公開で明らかになっている。
 こうして戦力は西側陣営が有利となり、そして何より戦艦数が五分という点がソ連側に欧州海域突破を躊躇させた。

 互いが睨み合っているうちに周辺海域の天候が回復に向かい、しかも西の海から順次回復していった。そしてアメリカがキューバの海上封鎖を決断して2日目には、北の海に陣取るソ連艦隊のレーダーには自由主義陣営のジェット艦載機の影が頻繁に映るようになる。数と場所から、米英仏だけでなく日本の空母も現場海域に到着していることを伝えていた。しかも東側陣営のレーダーは、ヨーロッパを横断してはるばる地中海から飛んでくる機影まで捉える。この機影は、東側にも公開情報として兵力の移動と通告されたが、移動しているのが日本戦略空軍の「空中艦隊」という時点で、西側陣営が何を考えているのか明白だった。
 「空中艦隊」の対艦兵装の「轟山」重爆撃機は、1機当たり8発、12機編隊で最大96発もの空対艦ミサイルを一斉に放つことが可能だった。
 もちろん地中海方面の戦力はさらに低下するが、この頃になると黒海にいるイタリア製の戦艦は主に整備不良から身動きできないほど老朽化してしまい、稼働状態にないことが西側にも知られていた。注意するべきソ連軍は海軍以外だが、現地の艦隊以外の日本軍も総動員状態にあり、イタリア軍などの動きもあって短期間ならソ連も迂闊には動けなくなっていた。だからこそ、日本の欧州戦力が大挙して北の海にやってこれたのだ。
 そして、瞬間的でも北大西洋での戦力バランスが大きく変化してしまえば、ソ連海軍には兵力積み上げの競り合いですら勝ち目が無かった。キューバを目指す船の為に、戦力を引きつけ続ければ十分とも言えるのだが、それでもキューバを封鎖するアメリカ海軍の大艦隊を動かせなかった時点で、ソ連にとってはゲームオーバーだった。
 それまで海域突破のため強い示威行動をとり続けていたソ連艦隊は、現場海域に止まるも強引な動きを行わなくなった。
 あわせて、キューバを目指していたソ連もしくは東側陣営の様々な船舶も、進路を逆に向けて引き返し始める。
 世界の終わりの危機の去った瞬間だった。

 この時点でソ連は、キューバから弾道弾と核弾頭を撤去し、これと交換条件にアメリカは海上封鎖を解除すると共に、トルコに存在する中距離弾道弾を撤去するというものだ。一見すると表向きは西側陣営の勝利、実質はソ連の判定勝ちと言えなくもない。だが実質でも、アメリカの勝利と言えた。
 と言うのも、トルコに配備された旧式の弾道弾の代わりに、新たに配備されたばかりの潜水艦発射型弾道弾のポラリスミサイルを搭載したSSBN(戦略原子力潜水艦)を北大西洋に配備すると西ヨーロッパ各国に約束していたからだ。また、イギリス本土にあるアメリカ軍の戦略爆撃機基地がそのままとされていた事も影響していた。日本軍が持つ地中海の戦略爆撃機基地も同様だ。
 それでもソ連としては、いつでもアメリカに挑戦できる姿勢を示したことで満足し、西側は現状維持という事で妥協しようというものが事件の結末ではあった。
 しかし完全に終息するには、また幾つかの事件を経なければならなかった。一番の危機は10月27日で、「暗黒の土曜日」と呼ばれた。この日、アメリカのU-2型偵察機を、ソ連のキューバ派遣軍がキューバ東部バネスで地対空ミサイルで撃墜した事からこう呼ばれた。
 キューバでの緊張を受けて、北の海でも再び両陣営の大艦隊が接近して激しい示威行動をとった。この時両軍は互いを目視出来る距離まで接近し、砲門こそ向けてはいなかったが、いつでも砲撃戦を開始できる状態にあった。これは、日米の超望遠カメラがソ連艦隊を捉えた映像及び写真が残されているので、実際どれほど接近していたかがキューバ危機の一幕として後世にも伝えられている。
 世界中でも、両軍の兵士達が極度に緊張しつつ睨み合った。
 しかし人類はそれほど愚かではなく、翌日にはソ連のフルシチョフ書記長がキューバからの核ミサイルの撤去を発表した。また、アメリカ、ソ連、キューバの名誉を保ったうえでの核ミサイル撤去を確認するため、洋上で臨検することで調整が行われる事となった。
 これで「人類滅亡1分前」と言われた事件は終わり、後は急速に事態は改善していった。11月9日にはミサイルを搭載したソ連の船舶がキューバを出港、これを認めたアメリカ軍艦艇が併走してミサイル撤去を確認。
 キューバ危機は、完全な終わりを告げた。

 なお、この後ジョセフ・ケネディ大統領は、1963年11月に世界初の衛星放送が行われているパレード中に暗殺され、ニキータ・フルシチョフ書記長は1964年に失脚した。どちらもキューバ危機での対応と結果が関わっていると言われるが、ジョセフ・ケネディの暗殺の真相は未だに闇の中だ。
 日本では危機後すぐの総理選挙で、戦後日本を完成させ経済、外交でも活躍し辣腕宰相として人気も高かった池田勇人が、国民からも期待されていた3期目の選挙に出馬することなく勇退を表明。これも権力闘争や陰謀論が囁かれた。何しろ次の総理となったのは、池田の前に1期だけ総理となった岸信介だからだ。
 もっとも日本の場合は、党として連続した政権獲得を目指した自由党内での単純な権力闘争でしかなかったのだが、当時は陰謀論が多く囁かれ、剛腕で知られた岸にダーティーなイメージがつきまとうようになっている。いっぽうで、池田は64年にはガンを発症して入院し、その2年後に死去しているので、3期目を務めていたら政治の混乱が見られていただろう。

 その後世界は平穏を取り戻し、翌年の1963年3月にはアメリカとソ連の間にはホットラインが繋がる事が決められる。さらには、核保有国を中心として「部分核停条約」が調印された。
 これで大国間の直接的な破滅的戦争は少しばかり遠のく事になったが、破滅的ではない戦争と両陣営の対立はさらに激しさを増していった。

●フェイズ106「第三世界の混乱」