●フェイズ106「第三世界の混乱」

 第二次世界大戦から十年も経過すると、約100年ほど続いた一つの時代が終焉を迎えようとしていた。
 終焉を迎えたのは、いわゆる「植民地帝国主義」の時代だ。
 そして新たに登場したのが、「第三世界」と言われるそれまで欧米列強に虐げられていたアジア・アフリカ世界だった。

 「第三世界」の時代は、第二次世界大戦での欧州枢軸に属したヨーロッパ諸国の敗北によって大きく扉が開かれた。同じ枢軸陣営の中華民国の滅亡も、中華周辺部の自立を促した。そして1955年の「アジア・アフリカ会議」によって本格的に始まったと言える。
 その流れは、完全に植民地維持の能力を無くしたイギリス、フランスなどから多くの植民地地域が独立していった。
 カリブ各地の植民地は、ほぼ全てがアメリカの信託委任統治領とされてしまった。フランスの北アフリカ植民地のかなりは、一時的という建前ながら枢軸に与したフランス本土への懲罰として約、3年間はアメリカの軍事占領下に置かれた。イギリスはアジアを実質的に手放し、さらに自由英連邦政府の主力として戦った、カナダ、オーストラリアの事実上の完全独立と自立を認めざるを得なかった。この流れでカナダ、オーストラリアの双方は、1950年代半ばまでに英連邦のオブザーバーとなって国家元首に英国王(または女王)を戴くことはなくなり、大統領を頂点とする民主共和制を敷くことになる。ニュージーランドは国民投票で連邦残留が決まったが、「英連邦」を構成していた白人国家はほとんど無くなる事になる(※南アも1961年に離脱。)。ただしカナダでは、英連邦から離れた事でケベック州のフランス系移民の独立運動が激化してしまい、深刻とは言い切れないながらも慢性的な問題と化していた。
 加えて1960年は、多くのアフリカ諸国が独立した事から「アフリカの年」と呼ばれた。また同じ年、「石油輸出国機構(OPEC)」が成立しており、産油国が大きな発言権を持つようになる始まりとなった。アジア地域も、この頃までにはほとんどが自主独立を達成していた。
 そしてイギリス、フランスが植民地帝国としての力を完全に無くした事件が、「スエズ危機」もしくは「第二次中東戦争」と呼ばれる事件だった。

 1958年に勃発した「スエズ危機」は、スエズ運河の利権を巡って起きた混乱だった。
 スエズ運河は、1869年にフランスのレセップスによって建設され、その後イギリスがエジプトが保有する株式を購入することで英仏の共同利権となり、ヨーロッパ列強のアジア進出の橋頭堡となった。そして第二次世界大戦で連合軍が占領し、自由英とアメリカとの協定によって英本土の権利(株式)が実質的に白紙化され、アメリカが自由英から多くの権利をレンドリースの代金の形で獲得。その後フランスとアメリカの間にも正式に株式の譲渡が行われ、アメリカが最大の株主となった。
 そしてアメリカは、戦後しばらくするとエジプトに自らの持つ株式を、エジプトに安価で売却しようとする。アメリカとしては、地理的に重要なエジプトを自陣営に留め置くための外交政策だった。しかしイギリス、フランス、さらにイスラエルが猛反発。アメリカの世論までが、株式売却反対に傾いた。アメリカ政府は、仕方なく正価での売却を計ろうとするがエジプトに購入能力はなく、スエズ運河利権はそのままでエジプトの恨みだけが残る結果となった。
 しかしこの時、スエズに若干の兵力を置いていたアメリカ軍が、エジプトのと間に協定を結んで撤退を決定。これをエジプト民衆へのガス抜きとした。だが、エジプト民衆のスエズ運河問題に対する怒りは収まらず、1952年のエジプト革命によって王政から共和制への移行が行われる。そしてエジプトのナセル大統領が歴史の表舞台に登場する。
 共和制となったエジプトは、当初こそ東西両陣営に対して中立を取っていたが、英仏の横やりに業を煮やして1955年に東側のチェコスロバキアからの実質的にソ連の武器購入を決定。これに英仏が反発。さらに英仏の反エジプトの動きに反応して、ついに運河の国有化を宣言して事態は大きく悪化する。
 しかし、いきなりの国有化は、なるべく穏便に事を運ぼうとしていたアメリカを驚かせた。そしてそれでも、スエズ運河の株式はアメリカの企業ではなく政府が保有していた為、アメリカ国内から極端に強い反発は起きずにすんだ。これが民間がスエズの株式を有していたら、即座にアメリカ軍は動かざるを得なかっただろう。そして動かざるを得なかったのが、なけなしの利権を「奪われた」イギリス、フランスだった。
 もっとも、本国近辺でソ連の強大な軍事力に怯えるイギリス、フランスに、多数の軍事力を遠隔地に派遣する国力は既になかった。この事はエジプトも折り込み済みだったため、エジプトとしては交渉相手は実質アメリカ一国と考えていた。エジプトとしては再び中立路線に戻る対案として、スエズの国有化を認めさせようとしたのだ。
 そしてアメリカも、エジプトとの交渉を穏便に進めようとしたのだが、それを認めるわけにいかないのがイスラエルだった。

 イスラエルは、アラブ諸国の中でも国力の大きいエジプトとアメリカが接近することは、国防上避けなければならなかった。
 当時のイスラエルは、建国当初から軍事力に不安があった。何しろ周りは敵だらけで、民族問題から国境線は安定せず、しかも国自体が国際的に承認されているとは言い難かったからだ。1955年には「中東条約機構」という、実質的に対イスラエル同盟までが出現した(※ただしトルコ、イランが加盟するなど、理想主義が目立つ呉越同舟で、イラクの共和革命で実質的に崩壊。)。
 いつ滅ぼされてもおかしくない状態であり、自らの安易な攻撃は避けなければならなかった。だがそこに、スエズを奪われたイギリス、フランスが、利権奪回もしくはエジプトから少しでも代金を回収しようと、イスラエルに有力な武器をかなり売却。この事は発覚後すぐに国際世論から非難されると、今度は第三国を通じて中古兵器もかなり横流しをした。中古兵器は第二次世界大戦中のものがほとんどだが、中には新型の火砲なども含まれていた。そしてこれでかなりの兵器を手に入れたイスラエルは、シナイ半島にエジプト軍が入ってきたのを自国防衛を脅かすとして軍事行動を開始する。
 「第二次中東戦争」の勃発だ。
 戦争は、有力な戦車や戦闘攻撃機を手に入れたイスラエル軍の一方的といえる有利で進み、イスラエル軍は短期間でスエズ運河のすぐ近くまで進撃する。しかしエジプトの危機に他のアラブ諸国も色めき立ち、中東での全面戦争の気配が漂い始める。
 だがそこで、アメリカのアイゼンハワー大統領が動き、自らの下腹部とも言える中東での大規模な戦争を望まないソ連も共同歩調を取り、即時停戦とイスラエル軍のシナイ半島からの撤退を、国連安全保障理事会の決議の形で突きつける。流石にイギリスも、これには文句を言わなかった。
 これで「第二次中東戦争」は終息し、中東世界でエジプトの存在が際だつことになる。また同時に、旧植民地型帝国の最右翼だったイギリス、フランスには、もう植民地を維持する力が無いことが表にさらけ出される事になった。
 そして1960年の「アフリカの年」へと続く事になる。

 そしてこの頃、アメリカ、ソ連そして日本の動きが鈍い理由が別にあった。
 中華地域で大きな混乱が見られた為だ。
 中華地域の混乱の最初の原因は、中華人民共和国だった。
 中華人民共和国(西支那)の主席林彪は、1957年に新たな国家の産業開発計画を立ち上げた。それは国家の重工業化を目指すものだが、たった10年で満州ばかりか日本を越える重工業化率の達成を目標としていた。特に重視されたのが重工業化の指標とされる粗鋼生産で、自国産業の実状、市場原理、経済原理など全てを無視して非常に強引な命令を全国民に実行に移させた。
 この命令は林彪主席の「最優先」という言葉によって、農業生産の実質的な放棄すら意味しており、農民にすら家庭の竈のような原始的な炉での鉄の生産すら積極的に行わせた。しかも製鉄のため、手段を問わない木材の入手を実施させる。この時の伐採は単なる森林伐採を越えており、果樹園など農業用の樹木にも及んでいた。これは実質的な農業放棄と重なり、農業生産を大きく低下させる原因となる。しかも北部は乾燥した気候のため、森林破壊は現代に至るも悪影響を与え続けているほどだった。
 さらに炉を作る為の煉瓦獲得の手段として、各地にある古代の遺跡や史跡、宗教施設が乱暴に解体されている。万里の長城も例外ではなく、多くの場所で遺跡が失われ廃墟となっていった。しかも、国家が宗教や古いものを否定する共産主義政権の為、奨励する者こそいても止める者はいなかった。
 また、鉄鋼と共に重視された農業については、「人民公社」というソ連のソフホーズ(国営農場)、コルホーズ(集団農場)をモデルにした集団農業を取り入れる。今までの伝統的な農業体制の否定となるため、これも大きな混乱と反発をもたらした。さらに、常識を無視した無理な農法(密植、益鳥の駆除など)を行って、大規模な凶作を誘発させた。
 そして1958年も秋が近づく頃になると、惨状が露わになった。
 全土で作った鉄は、そのほとんどが屑鉄の価値しか無く、他の製品への加工は無理だった。作った多くが農民だった為、農業生産も激減した。しかも無理な農地改革のため、農業生産はさらに落ちた。ソ連の援助で作った小規模な製鉄施設なども、経済効率を無視した過剰生産のため、採算は全く採れていなかった。
 農業生産は激減して工業生産も実質的な伸びは大きなマイナスで、林彪たちの思惑とは真逆に国力、経済力は大きく低下した。しかも農業生産の激減は、全国規模での極めて深刻な食糧不足、つまり大飢饉を意味していた。ソ連などから輸入したくても、そのための資金、外貨が無かった。バーター取り引きできる天然資源も少なく、食糧の交換に出せるのは人的資源、無償の労働力の輸出、つまりは実質的な奴隷の提供ぐらいしかなかった。
 しかも同政策については、ソ連が強く反対したにも関わらず強引に実施されており、ソ連と西支那の関係が冷え込んでしまっていた。食料援助を受けることはできず、正規の貿易でしかソ連も対応しないため、西支那は窮地に追い込まれる。
 しかも西支那は、周辺のプリ・モンゴル、東トルキスタンから支援や援助が断られると、あからさまな恫喝外交を実施。友邦の国境線に軍隊すら並べる。これはソ連が一言言う事で西支那もしぶしぶ引き下がったが、両者の関係はいっそう悪化した。
 彼らにとって反乱勢力によって不当に占拠されているチベット、ウンナンに対しても、国境線近辺での越境掠奪が横行した。越境掠奪は、少しでも食糧を得ようとした現地軍、住民がほぼ独断で起こした事だが、西支那政府が止めることも無かった。これは重大な国際法違反であり、また軍事行動ではなくても軍隊が越境したことそのものが国際問題だった。しかし、当時の中華人民共和国(西支那)は、ソ連など東側諸国しか承認していないため、アメリカ、日本など西側諸国は国境を接する国への支援を厚くする程度の対応しかとれなかった。
 一方で、中華人民共和国(西支那)の醜態を千載一遇の好機ととらえた国があった。
 言うまでもないが支那共和国だ。

 支那戦争で、ただでさえバラバラに分裂している国土をさらに分裂させられたと考える北京の支那共和国政府は、西支那に対する再戦の機会、西支那を滅ぼす機会を狙っていた。そして二度と国土を蹂躙されないためという理由で、主にアメリカから支援、援助を受けて軍備を増強していた。アメリカとしても自国の武器産業を一部支える手段として、支那共和国への支援と援助を積極的に行った。支那共和国への武器の輸出では、アメリカ企業のノックダウンやライセンス生産もしている満州帝国も関わった。
 そうして休戦以後に蓄えた軍備は、5年後の1958年には西支那軍に拮抗するか越えるほどとなっていた。少なくとも支那共和国政府及び軍はそう考えていた。
 そこに西支那の愚かな惨状が伝わり、しかも軍の一部が自分たちの国境線を離れているという情報も手にする。
 これを受けて、軍事行動の準備が秘密裏に進められた。
 支那共和国政府および軍の動きは、行動直前にアメリカの知るところとなり、アメリカ政府から特使までが飛んで自制を求めた。
 止める手段として大規模な支援と援助が約束され、アメリカ政府としては支那共和国の動きは支援と援助を引き出すことが目的だったのだと理解した。支那共和国も一旦は活動を停止させ、軍隊の動員体制をある程度は解除した。
 しかし1959年春になると、西支那の大飢饉が決定的となった。
 西支那の政府と軍は、飢饉に伴う国民の暴動や激発を抑えるのに懸命で、国防が疎かになった。民衆によるチベット、プリ・モンゴル、東トルキスタンに対する越境掠奪も酷くなり、西支那と近隣東側諸国の関係はさらに悪化した。
 そこで支那共和国は、昨年よりも秘匿度合いを強化した上で軍の動員と戦争準備を進め、記念日とも言える6月25日に一斉攻撃を開始する。もちろんだが、支那共和国内に駐留するアメリカ軍に対しても秘密裏に進められ、事が巧妙に進められたためアメリカも気付く事はなかった。

 この時の戦闘は「第一次支那戦争」とも呼ばれるが、互いの政府を認めていない事などから宣戦布告などの戦争手続きが行われていない為、一般的には「紛争」でしかない。このため国際公称も「第一次支那紛争」と呼ばれている。
 戦闘は、幅2キロの国境線代わりの非武装地帯(DMZ)と黄河によって分けられている支那共和国と中華人民共和国の境界線を、支那共和国軍が大規模越境攻撃により発生した。四川方面でも軍隊同士が激しい睨み合いとなったが、こちらは最後まで散発的な小競り合い以上には発展しなかった。
 だが、攻撃開始直前に現地アメリカ軍も流石に気付き、アメリカ本国に情勢を伝えると共に可能な限りの阻止行動に出ようとした。しかしそれは支那共和国も予測済みで、現地アメリカ軍に対しては兵営から出られないように、実質的な基地の封鎖を実施。空軍部隊にも事実上の妨害工作で、飛行できないようにした。そしてアメリカ政府に対して、支那戦争の「再開」とアメリカ軍及び自由主義諸国の参戦及び支援を求める。基地封鎖なども、事態が止められなくなった48時間後には解除された。
 支那共和国は「再統合の千載一遇の機会」と唱えた。
 しかしアメリカは、現地軍、政府共に強く拒否。支那共和国の説得を続けた。そして支那共和国は、既成事実を積み上げる目的でアメリカ政府との交渉に入り、現地軍が暴走の形で作戦行動を開始する。アメリカは、支那共和国に完全に出し抜かれた形だった。

 攻撃は四川地方には行われれず、黄河流域を西安方面に集中された。目的は西安の奪回ではなく、一気に首都蘭州を攻略する事にあったのは間違いない。支那共和国の国家としての基本目的が、国土の再統一にあるからだ。
 しかし現実問題として、非常に難しいと言わざるを得ない。
 愚かな政策により国力と軍事力が大きく弱体化したとはいえ、中華人民共和国の抵抗力は極端には低下していなかった。軍である人民解放軍も、一部を西部などに引き抜いたと言っても、主力は支那共和国国境にあった。
 その事は支那共和国側も理解しており、攻撃を人民解放軍に集中して、市民の解放を当面の政治目的とした。このため進撃する部隊は、可能な限り食糧を持って進撃し、住民に分け与えることで当面の民心を得ることに努力した。食糧の威力は意外に大きく、規律の緩い人民解放軍の地方部隊(旧軍閥)の中には寝返る者も出た。西支那が飢饉でそれほど困窮していた証でもあり、支那共和国の進撃は当初は順調に進んだ。
 しかし、戦闘開始から約1週間後、西安を包囲した時点で進撃が鈍る。
 人民解放軍の抵抗が増したのも大きな理由だったが、支那共和国軍が100万都市の西安に十分な食糧を供与する能力が無かった事も大きな原因だった。食べ物なら本国にあるが、進撃してきた地域の鉄道が西支那軍によって破壊されているため、それを前線まで輸送する事が出来なかったのだ。
 またこの段階で、アメリカだけでなく国連(安全保障理事会)が動き、全会一致で双方の即時戦闘停止と支那共和国軍の休戦ラインまでの撤退を極めて強く勧告。米ソの軍事介入すら視野に入れた言葉は、国連の歴史の中でも非常に珍しかった。
 泥縄式に戦乱を拡大しようとした支那共和国の思惑は外れ、このままでは国際的孤立となるので撤退勧告の受け入れを受諾。しかし撤退準備などを理由に動くのを故意に遅らせ、戦闘停止も完全には実施しなかった。アメリカとしても一応は同盟国相手なので、軍事行動など極端な制裁に動くこともできなかった。それでもアメリカの怒りと焦りは大きく、援助、支援の停止や貿易の停止などをちらつかせる。
 これでようやく支那共和国軍も撤退を開始。
 この時点で、一度支那共和国に降伏したり寝返った西支那の人々や勢力が、自分たちの保護を支那政府に求める。残れば粛正されることが分かり切っているからだ。また彼らの多くは飢えているため、残って西支那政府に許されたとしても、食べるという基本的な点で生き残れるか怪しかった。とはいえ支那政府には、大量の難民となる者達を養う財政的ゆとりはなかった。当然と言うべきか、問題を国連とアメリカに丸投げする。そして国連とアメリカも、支那共和国をDMZまで下がらせるためにも、救援要請を受けざるを得なかった。

 撤退に際して支那共和国政府は、西安への進撃により「匪賊集団への軍事的懲罰」という政治目的を達成したと国内向けに宣言を発表。また、国連とアメリカが救援を開始した人々を、共産主義の圧政から解放して救出に成功したと発表し、今回の「遠征」の意義を国民に説明した。
 対する西支那(中華人民共和国)には、停戦を受け入れたこともあったが、物理的に追撃するゆとりも、自分たちの側からDMZ を越える力もなかった。敵が引き返すのに合わせてDMZ に戻るのが精一杯で、その後しばらくはDMZ の鉄条網や地雷原の再接地すら行うゆとりも無いほどだった。
 紛争後、支那共和国は勝利宣言をまともに受け入れる国民は極めて少なかった。国民が感じたのは、無駄な出兵、戦費乱用、無用な難民の増加だった。実際、一時的という建前で、戦費を補うために大幅な増税が実施された。しかもアメリカが援助した難民援助の物資や資金は、その多くが支那共和国の上層部や役人の懐に消えていった。
 当然ながら国政も大きく乱れ、政府の統治能力も大きく低下してしまう。それでも孫科が大統領の座を維持できたのは、その下の権力闘争を行っている政治家の勢力がほぼ拮抗しており、成り代われるだけの人材が居なかったからに過ぎない。逆を言えば、人材がいないので今回の暴発が起きたのであり、また国内の治安低下や国政の乱れを防げなかったのだ。
 そしてチャイナを実質的に支配していると自認しているアメリカだが、今までの「統治」が誤りであり、緩かったことを痛感させられた。
 形だけは支那共和国に与えられた軍の作戦指揮権が、在支米軍のもとに集約という形で取り上げられた。合わせて米支統合司令部が作られ、支那共和国軍のアメリカ軍による統制が強化される事となった。さらに簡単に軍事行動が起こせないように、相互連絡体制の強化という名目で監視体制も大幅に強化された。紛争を起こした支那共和国は、弁解すら許されなかった。
 また、今まで支援や援助だった支那共和国軍の武装については、大幅に改訂されて同盟国価格ながら正規の売買(貿易)のみとされる。これは弾薬、燃料、諸々の物資についても同様で、以後支那共和国の財政を強く圧迫していくようになる。この点については、アメリカだけでなく日満など他の国々も同じ措置を取った。
 そしてこの点で問題なのは、第一次支那紛争で支那共和国軍は弾薬、燃料、物資の備蓄のほとんどを既に使い切っていた事だった。当然補充しなければいけないが、自力での生産能力はないので購入するしかなかった。当然国庫を圧迫したので支那政府はアメリカに泣きついたが、勝手に行動したばかりの支那政府にアメリカは極めて冷淡だった。次に助けを請われた日満も、ただ呆れるばかりだった。しかも今の西支那に攻撃能力がない事が分かっているだけに、西側諸国はいっそう冷淡だった。
 さらに勝手に戦闘を開始して国際環境を悪化させた事で、支那共和国の国際的信用は無くなった。危機管理の観点から貿易を自粛する国も多く、食糧以外の多くを輸入に頼っていた支那共和国の経済状況は短期間で悪化していった。
 1959年の経済成長は、マイナス5%以上を記録。インフレも激しくなり、民衆の不満は一気に高まった。そこに政府は、戦費の回収と備蓄弾薬などの購入のために大規模な増税を発表。しかも不公平な増税のため、民衆や華北以外の地域の反発が強まった。
 そして今まで積もってきていた、地方の不満がここで噴き出してしまう。

 支那共和国での地方の不満とは、北京を中心とする華北を重視している事と、国家の統制の強化と国力増強を理由に、言語の事実上の統一を行った事だった。
 首都重視はどの国でも見られるが、中華地域の場合は重視=権力の集中と「金」の集中を意味する。しかもこの場合の「金」とは賄賂や横領、不正蓄財であり、国庫の多くが権力者達の懐に消えていた。ある程度は「有史以来の伝統」なので許容されるし、地方でも権力を持つ者は同じような行動に出るので問題も少ないが、国全体が貧しい状態で、しかも国庫が尽きたような状態でも改めない点が不満の温床となった。
 また「金」よりも問題なのが、言語だった。
 この頃、支那語もしくは中華語(チャイニーズ)は、他国から見れば漢字を文字とした一つの言語と捉えられがちだった。そして他国にとっての支那語とは、歴史的な経緯から香港のある広東語、上海のある上海語が主流だった。
 にも関わらず支那共和国が重視したのは、北京を中心とする地域で普及している北京語だった。同じ漢字でも発音が違う場合があり、それ以外にも違う点が見られ、もはや違う言語とすら言える場合もあった。ヨーロッパで言えば、文字はアルファベットだが言葉が違う状態に似ている。ヨーロッパほど違いは少ないが、それでも違いは違いだった。そこに支那政府により、北京語の「強要」さらには義務教育化が実施され、反面各地の言葉を公教育では行わなかったので、年々不満が溜まっていた。
 そうした不満が、この時の増税で一気に噴き出した。
 最初は小さなデモ行進、暴動だった。それが各地に広がり、政府への攻撃に変化するまで時間はかからなかった。そしていまだ貧弱な警察組織では鎮圧できないため、支那政府は軍隊の大量投入を実施。そこから軍隊の発砲、大量の死傷者の発生へと繋がり、事実上の内乱状態に陥ってしまう。
 諸外国が事態を把握できないまま半ば呆然としている間に事態は進んだが、政府が国民を攻撃しているのでアメリカなどは支那政府を非難して、支那政府が求めた支援は行いたくても出来なかった。
 そしてここで、支那地域独自の地方情勢と支那共和国の弱体が分裂を呼び込んでしまう。
 国家の分裂だ。

 支那地域は、ヨーロッパに匹敵する広大な地域を一つの国家(帝国)がそれぞれの時代に治めてきた。しかし、力のある中央専政政府が存在しない時は、広大であるだけに分裂している事が多かった。
 支那の支配構造を簡単に書くと、士大夫と呼ばれる地主もしくは土豪が農村に根を張っており、その上に地方政府が乗って、さらにその上に中央専政政府が統治を行う。地方組織が勢力の大きな士大夫の場合もあるし、中央の有力政治家が士大夫出身というのもよくある。裕福な者が高度な教育が受けやすく、中央政府の官吏になるには非常に難しい試験を合格する必要があり、勉強する時間と金があるのは裕福な者だからだ。
 そうした一人に、トウ小平(トウ=「登」の右にこざとへん)がいた。

 トウ小平は、生まれは四川の客家の裕福な家の生まれで、フランス留学中に共産主義に出会うが、フランス政府から危険視されて国外追放される。その後、何とか帰国して中華共産党に合流するが、1934年の共産党壊滅で行き場を失う。
 しばらく中華民国に投獄されるが、共産主義思想を棄てる事を誓い社会に復帰。その後は才覚を発揮して出世した。だが、もと共産党員ということで中央政府には参画できず、地方官僚として過ごさねばならなかった。第二次世界大戦では滞在場所が早々に連合軍占領下となり、その後は能力を買われて連合軍統治下の官僚となる。そして素性を深く掘り下げない連合軍のもとで便利がられ、支那共和国政府成立頃には政府中枢で重要な役職を任されるようになっていた。
 大戦終盤頃には、大陸奥地で復活しつつある中華共産党から復帰の誘いがあったと言われるが、国と国民を豊かにする為なら主義を問わない政治姿勢となっていたので、共産主義に戻ることは無かった。
 そして戦後は国家の中枢で活躍(※最高位は財務大臣)するが、支那戦争ではもと共産主義者ということを理由に政敵から事実上の粛正を受けて、地方に左遷されてしまう。
 その後は左遷先の広東省で自らの勢力の再構築を行い、客家の多い現地で中心的人物となり勢力を再び拡大していった。支那紛争の頃には、実質的に広東など中部、南部沿岸部の最有力者となっており、新たに形成されつつあった「広東閥」、「上海閥」の実質的な指導者となっていた。
 そこにきての内乱騒ぎで、トウ小平は中部、南部を豊かにするべきだと考え、華北(支北)との決別を決意。「支那連邦共和国」の建国を宣言して、宣言に従う華中(支中)、華南(支南)沿岸地域の勢力を糾合した新たな国家を作る。
 境界線は支那中部の准(ホワイ)河。ちょうど稲作地帯と小麦地帯の境目辺りになり、風土的、文化的な境目でもあった。首都は暫定首都ながら上海に定められた。
 支那連邦共和国側には、四川で人民解放軍と睨み合う部隊以外の域内の軍事力全てが参集しており、先の紛争で物資のない支那共和国軍に鎮圧や制圧する力は無かった。それ以前に、軍主力を西安方面から引き離すことは無理だし、華北(支北)地域も事実上の内乱状態で残りの軍も動かせなかった。
 対して支那連邦共和国側は、建国に反対する勢力を事前に割り出して、最初に制圧していたおかげで混乱は最小限で、民衆の多くも新政府、新国家を支持したので、四川方面以外の軍事力を新たな境界線に置くことができた。そればかりか義勇兵まがいの志願兵が続出し、軍は満員御礼状態だった。
 そしてこれに慌てたのが、西側陣営だった。わけても、チャイナ主要部を自らの経済勢力圏を自認していたアメリカの焦りは大きかった。既に当時レームダックと言われていたアイゼンハワー大統領の特使が北京に飛び、上海にも水面下で接触が行われた。しかもアメリカにとって意外だったのは、日本、満州をはじめ近隣諸国の動きが、冷静とはいわないまでも落ち着いており、当初から分裂を歓迎する向きすら見られた事だった。
 支那共和国の事実上の分裂状態は、西側陣営としては決して受け入れられない事の筈だが、東アジア世界はそうとは考えていなかったからだ。それに支那連邦共和国政府も、支那共和国とは決別するが敵対する意志はなく、自分たちも西側陣営の一員として行動すると公式に明言していた。

 自力解決が難しい支那共和国政府は、事態を国連に持ち込む。国連やアメリカの圧力で分裂状態を解消して、国家の再統合を計ろうとした。支那共和国としては、アメリカが自らを市場化している事を逆手に取ろうという考えでもあった。そして市場の半分以上は、分裂したトウ小平らの手にあった。自分たち以外に国が分裂して困るのは、アメリカだと考えたのだ。
 もっともアメリカは、国土の半分以上の分裂を許したばかりか、残された領域すら満足に安定化させられない支那共和国政府に強い失望を抱いていた。逆に短期間で分裂と域内の安定化に成功した、支那連邦共和国政府を高く評価した。しかもトウ小平の政治手腕、外交手腕は、支那共和国を大きく上回っていた。客家のネットワークを使い、海外の華僑や移民と繋がりが深いのも連邦共和国中枢の方だった。しかも支那の最も人口の多い、つまり市場価値があるのは支那連邦共和国政府統治下にある長江流域であり、アメリカにとって最も価値があった。
 その後、国連を舞台に分裂か再統合かで争われたが、その間に支那連邦共和国の既成事実化が進んでいった。そして政治、外交、軍事、全ての面で強引な手法が取れない支那共和国は、自力での解決ができない事からアメリカを頼らざるを得なかった。
 そしてアメリカは、このまま情勢が安定化するなら、得られる経済利益はむしろ大きくなると判断を下す。分かれている方が、支那共和国も政治的にコントロールし易いと判断された。この判断は、第二次世界大戦での中華民国の裏切りへの悪感情も重なり、完全な分離独立に向けて動くようになる。
 もっとも支那連邦共和国は、なかなか正式独立を国際的に認められる事は無かった。トウ小平が強く望んだ海外資本の導入についても、企業の方が近隣地域との政治的不安定さから嫌い、また連合軍によるチャイナの非工業化という半ば伝統化していた政治目的もあるため、すぐに叶うことはなかった。
 いっぽう沿岸部の混乱から無視された形の西支那(中華人民共和国)は、敵が二つに分かれた事で当面の安全を手に入れたが、大躍進と第一次支那紛争での傷は深く、ソ連からの援助を受けても大躍進前の現状回復すらままならなかった。当然ながら、分裂した二つの敵の両方もしくは片方に対する攻勢など出来る筈もなかった。しかも敵が二つに分かれた事で、自分たちの国内でも四川盆地への統制が弱まるという影響が出ていた。

 その後支那中央部は北支那(支那共和国)、南支那(支那連邦共和国)、西支那(中華人民共和国)の三つに分かれる形で固定化され、1969年の支那連邦共和国の国際承認によって確定的となる。
 なお、支那沿岸部での分裂劇は、支那の歴史上でよく見られる、強い中央集権体制が存在しない場合の伝統的と言える政治的動きでしかなかった。

 そして南の地でも、国土の混乱と分裂が進んだ地域があった。


●フェイズ107「インドネシア戦争(1)」