●フェイズ107「インドネシア戦争(1)」

 世界最大の島嶼のインドネシア地域は、1950年代前半ぐらいからオランダからの反植民地運動が独立運動となった。だが他の地域と違い、民族勢力と共産主義勢力が対立した。そして結果として、最大の人口地帯のジャワ島では共産主義勢力が勝利し、ディパ・ヌサンタラ・アディットを初代書記長とする「インドネシア人民共和国」が成立した。だが、共産主義の拡大を防ごうとした日本とアメリカは、ジャワ島以外の地域を切り離して「インドネシア連邦共和国」を作って対抗。
 こうしてインドネシア地域は、東西冷戦のバトルフィールドとなる土台ができあがってしまう。
 そして1961年1月20日、アメリカの第36代アメリカ大統領にジョセフ・P・ケネディが就任した。同時期ソ連ではニキータ・フルシチョフ書記長が政権を掌握し、さらに宇宙開発、大陸間弾道弾開発などで軍事的に優位に立ったことで超大国としてアメリカに挑戦する向きを強めた。
 この二つが、インドネシア戦争の新たな始まりであるとされる。

 この頃インドネシア地域は、大きく二つのインドネシアに分裂して数年が経過しており、ジャワ島を中心とするインドネシア人民共和国は、ソ連など東側陣営からの援助を受けてかなりの安定を見せるようになっていた。そしてジャワ島が安定化した事を受けて、他の島への干渉、圧力、勢力の拡大を強めた。宗教、文化共に独自のバリ島への干渉と、それに反発したインドの政治介入が有名だろう。
 対するインドネシア連邦共和国は、各地で分裂の危機と不安定さを増していた。
 オーストラリアを中心とする実質的に国連の委任統治領化していた西ニューギニアは、オーストラリア領の東ニューギニアと連携を強めて、日に日にヨーロッパ列強により分断されていた過去を清算する「統一ニューギニア」の機運が高まっていた。同時に、移民の形となるジャワ人、華僑の排斥が進んだ(※と言ってもジャワ人、華僑自体の数が少なかった。)。
 モルッカ諸島、スラウェジ島、小スンダ列島の東部も、民族、習慣、宗教(比較的キリスト教徒が多い)などの差から自立の向きを強めていた。ただしジャワ島から連なる形の小スンダ列島は、西部から徐々にジャワの共産陣営の圧力が強まっていた。このため、西側諸国に助けを求める向きが一番強いとも言えた。
 ボルネオ島では、日本の強い影響下にあるサラワク王国の影響が強まっていた。サラワク王国は初代国王の方針を守り、外国資本の搾取から民衆を守る善政を敷いていたが、それをボルネオ全土に広げることで共産主義の浸透も防いでいた。ただしボルネオも、民意は連邦共和国からも離れていった。しかも、ボルネオ島全体でのアイデンティティーすら求め始めるようになっていた。「ボルネオ連合」という言葉すら聞かれ始めていたほどだ。
 そしてインドネシア連邦共和国の中核となっているスマトラ島だが、北西部のアチェ族と他の部族や民族との対立が深まり、それぞれの反目が広がっていた。しかし連邦政府としては、断固としてアチェの独立を認めるわけにはいかなかった。独立を認めれば、すでに大きな綻びが見えている連邦共和国としての枠組みが、一気に崩れてしまうと容易に予測されたからだ。また「南緯5度」で人民共和国との暫定的な境界線(DMZ)が引かれており、不安定さをもたらす一番の要因となっていた。島ごとに分かれていたら、混乱ははるかに小さく済んだだろう。

 そして双方ともに苦慮していたのが、イスラム教対策だった。
 人民共和国側は共産主義が宗教を否定するため、形だけでも宗教を否定しなければならず、ジャワ島の完全な安定化をなし得ずにいた。スマトラ南部に軍や党員を進めて確保したのも、宗教意識の強い同地域の宗教弾圧の副産物だった。連邦共和国は、地域、民族、部族によって宗教に対する姿勢が微妙に違い、ごく単純に言っても穏健派と強硬派の対立が見られた。
 また各地には、少数だがキリスト教徒もおり、バリ島のようなヒンズー教の地域もある。仏教徒も皆無ではない。インドネシアは日本列島の約5倍という面積と広大な地域に広がるだけに、宗教の種類も多かった。
 他にも、連邦共和国は資本家や地主と民衆の貧富の差、外国資本の富の占有が問題だった。特に鉱山労働者、プランテーション労働者の不満は強く、容易に共産主義になびく恐れが高かった。先祖伝来の土地をプランテーションの経営者などに取られた、民衆の不満については言うまでもないだろう。
 人民共和国も、ジャワ島に犇めく熱帯らしからぬ大人口に対して国が非常に貧しいため(※富を生む各種資源は他の島にある)、民衆への「共産主義的分配」が出来ずにいた。
 当然民衆の不満は高まり、互いに相手への攻撃によって民衆の不満を逸らそうという雰囲気が高まる。何より、お互いにインドネシアの統一が最終目標だった。

 戦後のインドネシア情勢に、最初に深く介入した外国は日本帝国だった。
 地理的にも比較的近いし、日本が欲しい天然資源が豊富で、インド、ヨーロッパへと抜ける最短ルートのマラッカ海峡にも隣接していたからだ。
 しかし日本が一番深く介入した期間は短く、東西冷戦の舞台となることが確実視されると、アメリカが一気に介入度合いを強めた。
 最初は援助の拡大、軍事支援、特殊部隊による軍事指導などに止まっていたが、連邦共和国政府の統治力の弱さからアメリカは直接介入を決めたのだ。そして日本は、インドネシア問題の主導権をアメリカに委ねる。
 インドネシア連邦共和国大統領はモハマッド・ハッタ。第二次世界大戦前から、スカルノら同様にインドネシアの自立を目指した運動を行っていた。共産主義勢力が武力でスカルノらを暗殺、排除したときには半ば偶然から助かり、その後は西側陣営に立ってインドネシア連邦政府大統領となった。
 謹厳な人柄で信仰心に篤く人々に慕われていたが、統治力が未熟な政府、国家に付き物の独裁には否定的で、政府による強行的な態度も否定していた。それを弱腰と国内から突き上げられ、人民政府にも付け入られた。連邦共和国が分裂の危機に常に晒されていたのも、ハッタの穏健さを求める姿勢にあったともいえる。

 そして統治の弱さ、海外資本による経済支配、貧富格差、民族対立を突かれて、人民共和国の共産主義の浸透を許した。その結果、スマトラ島南部を中心として、共産主義的反政府運動が盛んになっていく。この反政府組織が、最終的には「インドネシア民族解放戦線」を結成する。同組織は、一般的には「民族解放戦線(NLF)」とだけ呼ばれた。
 しかしNLFにも誤算はあった。生ゴム、サトウキビなどのプランテーション農場は、アメリカ軍の支援で作られた「戦略村」によって完全に外の世界から隔離されてしまっていた。しかもアメリカのドルの威力によって手厚い福祉政策が施されると、ゲリラの温床もしくは潜伏地として機能しなかった。「ゲリラは魚、民衆は水」というゲリラの基本戦術が、分厚い資本主義の壁を前にしてほとんど機能しなかったのだ。むしろジャングルの中に点在するプランテーション群は、西側陣営の安定した拠点として活用される事になる。
 また、錫鉱山はスマトラ島近在の別の島にあり他と隔離しやすく、プランテーションと同様の状態に置かれた為、ゲリラの供給地と拠点にはならなかった。油田については、主な採掘企業のロイヤル・ダッチシェル社と政府、さらには日米が厳重に警備及び管理しているため、攻撃対象ではあってもゲリラの活動場所にはなり得なかった。また、外国人技術者が多く、現地労働者は少なかった。労働者に対しても、単に隔離するだけでなく慰労と懐柔に努められた。
 そして主戦場となるスマトラ島は、総面積47万平方キロもある南北に伸びた巨大な島だが、当時は熱帯にあるだけに人口密度は低かった。東部には広大な平地が広がっているが、東に行くほど巨大な湿地帯となり、そうでない場合も熱帯ジャングルに覆われていた。湿地や熱帯雨林の平地は、現在では各種耕作地に開拓されているが、当時はあまり畑のない未開同然のジャングルばかりだった。
 比較的人口が多いのは北部の東部沿岸と、西部に背骨のように伸びる巨大な山脈地帯と平地の中間辺りに位置する、比較的過ごしやすい地域だった。
 島の人口は、まだ先進国の医療や衛生観念が十分に浸透せず、アメリカなどからの豊富な食糧が供給されていないため、人口爆発が始まったばかりだった。1960年頃の島の総人口は、1000万人を少し越える程度。1平方キロメートル当たりの人口密度は20人ほどしかなかった。しかも人口は、安定地域の北部に多かった。
(※現在は約4500万人で、当時の1000万でも半世紀前に比べると大きく増えている。)
 最大都市はアチェ族の中心都市でもある北部のメダンだが、中心都市はインドネシア連邦共和国の首都でもあるパレンパン。近在で採掘された石油を精製する街として20世紀に入ってから大きく発展しており、少し内陸部にあるが中型の外航洋タンカーが川を遡行してくる。
 そしてパレンパンの石油と近在のバンカ島などで採れる錫は、人民共和国が何よりも獲得したい資源であり、連邦共和国の中心地でもあるため主攻略対象とされていた。

 1963年9月、スマトラ島南部を中心とするインドネシア各地での共産主義の浸透に対して、アメリカのジョセフ・ケネディ大統領は「インドネシアからアメリカが手を引けば、共産主義の東南アジア全域への拡大を許すことになる」と発言。だがケネディは、その発言の二ヶ月後には暗殺されているため、実質はケネディの後を継いだジョンソンが実施し、インドネシア全土への様々な行動を命令。実質的に戦争を始めようとした。
 その結果の一つが、1964年8月の「スンダ海峡事件」だ。
 スンダ海峡はジャワ島とスマトラ島の間にある海峡で、両岸を有する人民共和国が実行支配していた。幅が狭く最も狭い場所で幅24km、水深も浅く最も浅い場所で水深20mしかなかった。このため、1960年代に登場する大型タンカーなどは実質的に運行できない。日米の保有する超大型空母も、通り抜けることはできなかった。大スンダ列島を越えたければ、マレー半島の間にあるマラッカ海峡かバリ島の東側のロンボク海峡を使うしかない。
 そのスンダ海峡は、他国の船が通過しても構わない国際海峡でもあるので、以前よりも数は減ったがそれなりの数の他国船籍の船が往来していた。しかし人民共和国が監視したり、時には嫌がらせのような艦船の接近、さらには臨検すら行う場合すらあった。このため海峡の近く公海上で日米、主にアメリカ海軍の艦艇が「警備活動」していた。
 事件は、アメリカ軍駆逐艦が哨戒活動中に、NLFの高速艇もしくは魚雷艇が攻撃した事で起きた、とされている。しかし人民共和国政府は、戦闘になったのは人民海軍のアメリカ軍駆逐艦が挑発した為だと発表。当然アメリカは否定したが、もう事件の真相は関係なかった。
 アメリカ議会は、大統領にインドネシア及び東南アジアでの軍事的権限を認めたことだった。これは事実上の宣戦布告に等しく、事件はアメリカ軍が本格的介入を行うという「のろし」でしかなかったからだ。

 一方、インドネシア情勢に深く関わっていた日本だが、問題への本格的介入には少しばかりで遅れた。
 ケネディ就任頃の日本の総理大臣は、自由党の池田勇人(総理期間1956〜62年)。非常に指導力と行動力のある人物で、政治家たちの制御、中央官僚の統制が非常に巧く、日本経済の建て直しと発展に貢献した。「もはや戦後ではない」という言葉は彼が発した言葉ではあるが、彼なくしてこの言葉が多くの日本人の共感を呼ぶことはなかっただろう。そして2期6年続けた彼の後を継いだのが、再選を果たした自由党の岸信介だった(総理期間1962〜68年)。副首相には血縁の佐藤栄作、通産大臣に星野直樹を充てており、縁故内閣と一部では言われるも、こちらも軍事よりは経済を重視した内閣だった。
 そして経済を重視するため、インドネシアへの直接の軍事介入には消極的だった。
 その逆に、兵部省以外の軍(=制服組)はインドネシアへの直接介入に積極的だった。と言うのも、キューバ危機で活躍した海軍は、政府(及び国民)に存在価値を再認識され、遅れていた装備の大幅更新が認められていた。これに対して陸軍、防空空軍は、依然として軍人達の視点から見れば緊縮財政下に置かれていた。例外は政府の核戦略に乗った戦略空軍で、戦略空軍は当時の日本の財政規模から見れば湯水のように予算を投じて、高価な重爆撃機や巡航ミサイル、核弾頭を装備していった。
 しかし日本政府の消極姿勢にも政治的な戦略があった。
 「嫌々」兵力を派遣することで、無二の同盟国であるアメリカから援助なり支援なりを得ようと言う魂胆だった。こうした事を臆面もなく出来るところが、「昭和の妖怪」とまで言われた岸信介らしいともいえるだろう。

 またインドネシアへの軍事介入に強い興味を抱いていたのが、日本の隣国の満州帝国だった。
 満州では、15年間首相を続けた1963年に鮎川義人が引退し、新たに辻政信が軍部、在郷軍人会の強い支持を受けて勢力争いを勝ち抜き首相の座を射止めていた。
(※当時の満州の首相には、実質的な選挙や任期はない。皇帝勅撰という形の独裁に近い。故に宰相と言われる事も多かった。)
 そして軍部の支援が強い事と、辻自身が公約として「満州帝国の国威発揚」と「満州帝国の国際認知度の向上」を掲げていたことが相まって、インドネシアへの派兵を狙っていた。しかも辻も抜け目無く、すぐには声を上げずにアメリカから声がかかる機会を伺っていた。
 「国家資本主義」と言われる満州帝国にあって、やはり軍事よりも経済が優先だった。ソ連と直説対峙するので軍事国家と見られがちで、実際精強な軍隊を保有するが、経済発展と成功こそが国是であり、軍事優先の辻政権と言えども曲げることはできなかった。(※もっとも辻のアメリカに対する一番の目的は、満州の核武装を認めさせる事だった。)
 そして同じ東アジアの日満が一見消極的なため、まずはアメリカが自由主義陣営の盟主としてインドネシアの戦乱に直接介入していく事になる。

 「スンダ海峡事件」のすぐあと、アメリカ軍は報復としてジャワ島の人民共和国海軍の基地を空爆。この空爆に対して、ソ連及び東側陣営はアメリカが予測したほど反発を示さなかった。このためアメリカは、次にインドネシア人民共和国もしくはNLFが行動を起こした際には、大規模な報復もしくは攻撃を行うべく準備を開始する。陰謀史観を重視する人々は、この時点でアメリカは共産主義陣営の罠にはまっていたと言う。
 そしてその頃、スマトラ島南部ではNLFの活動が活発化していた。政府や強引なアチェ族への反発から南部の一般農村の多くがNLFの勢力下か協力状態になり、NLFの現地米軍施設や「植民地的収奪」を行う外国資本への攻撃が激化していた。しかもNLFは、人民共和国勢力圏のスマトラ島南端から、条約違反の中立地帯(DMZ)越えの兵器の供与を含めた各種支援を受けて大幅に強化されていた。
 1960年頃は少数でのゲリラ戦が主体だったが、1965年頃になると連隊規模で活動するまでになっており、大隊規模のインドネシア連邦共和国軍(=連邦軍)部隊が各個撃破で壊滅させられるまでになっていた。しかも人民共和国は、年々スマトラ島南端部の軍備を増強し、ジャワ島から兵器、物資、そして兵士を送り込んでいた。
 さらに人民共和国政府は、ジャワ島からの事実上の移民すら送り込んで支配の強化を急いでいた。この移民政策は、スマトラ島各地のNLFや反連邦、反西側派から反発を受けていたが、NLFは支援が必要なため容認していた。
 そしてアメリカは、ケネディ暗殺後の後を継ぎさらに次の選挙も勝利したジョンソンが大統領になると本格的に動きだす。
 いわゆる「ジャワ爆撃」の開始だ。

 最初のジャワ爆撃は、「スンダ海峡事件」の報復として小規模に行われた。だが、1965年から開始されたジャワ爆撃は、準備を進めていた事もあって本格的で大規模なものだった。
 アメリカ空軍によるジャワ爆撃の拠点は、大きく3カ所。スマトラ島のパレンパン近郊とボルネオ島南部のパンジャルマシン、そしてグァム島には、第二次世界大戦中に建設され戦後に拡張されていた基地が「B-52」戦略爆撃機の出撃拠点として使用された。加えて、アメリカ海軍の空母機動部隊による遊撃的な爆撃が加わる。
 しかし爆撃自体は、各所にソ連軍及びソ連人が確認されていた為、そうした場所の爆撃は避けた。そしてそうした場所とは、戦略的に重要な拠点がほとんどだった。また主要な港湾には、ソ連もしくは東側陣営の船舶が必ずと言っていいほど常時停泊しているため、爆撃することができなかった。また、中立国の船舶という可能性があるため、スンダ海峡を航行する大小の船舶に対しても攻撃は行われなかった。
 なお、ジャワ爆撃と言われるが、人民共和国が有するスマトラ島南端部も激しく爆撃されている。当然ながら、連邦共和国内のNLFに対しても爆撃が行われた。
 そして1965年頃から、ソ連が本格的にインドネシア人民共和国への軍事支援を行った事からアメリカ軍の損害が続出した。
 人民空軍には、「ミグ21」「ミグ19」「ミグ17」の各戦闘機や地対空ミサイル、高射砲が大量に供与された。しかもソ連軍のいる拠点を米軍が攻撃しないため、ソ連製機体の損害は最小限に抑えられた。そしてミグ戦闘機は安全な基地から出撃するため、アメリカ軍の不利が続いた。
 アメリカ軍の不毛で戦略的意味の薄い爆は1965年春から約3年半続き、これを「第一次ジャワ爆撃」と呼ぶ。
 爆撃開始から2年目には、政治、軍事など様々な要因からアメリカだけでは戦力が不足するようになったため、日本に事実上の参戦が要請された。そして日本も、西側陣営の主要国、「アジアの盟主」としての役割を果たすため、実際はアメリカからの支援と引き替えに軍の派兵を決定する。

 当時の日本軍のトップ、軍令参謀本部長は、第二次世界大戦で活躍した海軍出身の神重徳大将(※元帥相当官で当時は退役間際)で、第二次世界大戦における彼同様に政府及び海軍への強引な調整の後に派手な号砲を放った。
 1965年12月8日、最初にインドネシア方面に派遣された日本軍は、江草隆繁中将を指揮官として臨時に連合艦隊編成を取った空母機動部隊で、大規模な近代改装を終えたばかりの大型空母《蒼龍》《飛龍》、支援空母《瑞鶴》《葛城》を中核とする、大小4隻の空母を揃えての大規模な空襲を実施したのだ。
 しかしアメリカからの「政治的要求」を、日本の存在感を世界に見せるべく半ば無視した日本は、問答無用でジャワ島の重要港湾を徹底して爆撃。日本海軍機は、支那戦争以来の久しぶりにフル装備の全力出撃を実施し、量産配備が開始されたばかりの赤外線誘導爆弾、誘導ミサイルなどを大量に使う精密爆撃により、首都でもあるジャカルタの港湾施設とそこに停泊する船舶および一部艦艇に大打撃を与えることに成功した。
 まるで第二次世界大戦を彷彿とさせるような鮮やかな奇襲攻撃だった、と言われるほどだった。使用された爆弾やミサイルは、アメリカほど贅沢に弾薬を使えない日本が、第二次世界大戦後に全軍を挙げて精力的に独自開発を続けていたものばかりだった。
 この攻撃には、補助として潜水艦からの巡航ミサイル(通常弾頭型)も加わっていた。
 当然ながら戦術的には大成功で、反復攻撃まで実施したことから戦果はさらに拡大した。しかも人民共和国及び現地ソ連組織は、日本軍の「国際政治の常識」を無視した攻撃を予測していなかったため、なおさら日本軍が挙げた戦果は大きかった。
 日本軍の攻撃隊指揮官は、迎撃の対空砲火もまばらな敵地上空から、高らかに「トラ・トラ・トラ(我奇襲二成功セリ)」と勝利の凱歌をあげたという。

 この攻撃は、その後の戦争展開に影響を与えたとも言われ、特にソ連及び東側陣営の心理の奥深くに「何をするか分からない日本軍」という思いを刻みつけた。
 アメリカ軍の古い軍人達や退役軍人は、第二次世界大戦の「キャプテン・マッドいまだ健在」と感慨深げに思ったという。
 しかし日本の空母機動部隊が意気揚々と「大戦果」を報告すると、アメリカは色を失った。日本としては自らが目立つためと、ソ連の見え透いた「政治的行動」を看破した上での確信犯的行動であり、「慎重すぎる」アメリカの目を覚まさせるために行った攻撃だったのだが、結果は日本側の思惑とは正反対となった。
 アメリカは、自軍だけでなく日本など同盟国の軍隊に対しても自らの政治的要求を強く求めるようになり、現地での命令系統の一元化という名目で、全てを自らの指揮下に置いてしまう。つまりこの戦争が、戦争より政治を優先した局地戦争だという事の証明だった。そしてアメリカは、日本に言うことを聞かせるため、さらに日本への援助を増やさざるを得なかった。岸政権も、本当はアメリカから援助を引き出すために横紙破りな攻撃に許可を与えたのではと言われたりもした。
 もっとも、この時のジャカルタ空襲で、ソ連が何か強い反応を示すことは無かった。幸いと言うべきかソ連の艦船は被害を受けず、ソ連の軍・政府の高官が死亡もしなかったからだと言われる。実際は、日本軍の予想外の行動に度肝を抜かれ、呆気にとられたまま対応できなかったからだという事が、後年明らかになっている。ロシア人達としては、ツシマ海戦の日本軍を思い浮かべたのかもしれない。

 一方では、日本軍の無差別といえる攻撃に対してソ連軍がそれほど強い反発を示さなかった事は、アメリカ軍が自らに課している政治的制限を取り払う大きな切っ掛けとなった。加えてアメリカ軍パイロットからの要望と、日本軍からの政治的制約を課されては爆撃など出来ないという声に対して、1967年春にはアメリカ軍はほとんど無制限に爆撃を実施するようになる。
 「B-52」戦略爆撃機が翼を連ねて大挙ジャワ島に飛来するようになったのもこの頃で、日米の航空機はジャワ島並びにスマトラ島南端部を手当たり次第に爆撃するようになった。
 1968年頃からは日本の戦略空軍も爆撃に参加するようになり、アメリカ軍の「B-52」に匹敵する能力を有する「三菱 一五式戦略攻撃機 轟山」を大量投入して、アメリカ戦略空軍同様の無差別爆撃を実施した。
 もっとも「轟山」は、戦略空軍の機体ながら戦術任務の要素も十分に有していた。故に戦略爆撃機ではなく重爆撃だったのかもしれない。高々度もしくは低高度の双方で、多数の空対艦誘導ミサイルを搭載する事も可能だし、丈夫な機体構造を持つため低空での戦術爆撃任務も可能だった。少し無理をすれば緩降下爆撃すら可能だった。ただし、先代(連山系)のような超低空での襲撃機まがいの攻撃能力(雷撃能力)はなく、流石の戦略空軍も発注時の性能要求からは最初から外していた。
 そして本機のその機体形状だが、戦術任務が可能という特徴を裏切らない攻撃的な外観を有していた。世間には「B-52」などのビジュアルが広まっているため、重爆撃機と言えば細長い胴体に細長い主翼が特徴と思われがちだが、「轟山」は中型以下の機体に多い三角翼を有していた。正確には三角形の先からさらに細長く翼が伸びているが、非常に広い翼面積を有していた。そして翼の後部付け根に4基の大型ジェットエンジンを装備している。ただし主翼は機尾までなく尾翼も持っているので、主翼がデルタ型というだけになる。そしてアメリカの機体に比べてエンジン推力が不足するため、主翼面積の広いデルタ型の主翼を採用したというのが実状でもあった。
 似たような機体としては、イギリス空軍が保有した大型ジェット爆撃機がある。「轟山」はもう少しスマートな姿なので、アメリカ軍が後に開発する「B-1 ランサー」の参考になったとも言われる事がある。
 また、イギリスの機体よりも大きく性能も高かった。緩降下時ならば音速を超えることも可能で、通常爆撃型は低空爆撃でもその威力を発揮した。そしてその特徴的な姿から、20世紀後半以後は「日本の爆撃機」の代表となっている。
 なお「B-52」はグァム島を根城としたが、日本の「轟山」は近隣のテニアン島もしくは、戦略空軍の本拠地とすら言われる硫黄島を根城として出撃を繰り返した。

 日米連合による激しい爆撃の結果、インドネシア人民空軍はソ連からの手厚い支援があっても迎撃に息切れをするほどとなった。また、ジャワ島の主要都市を中心とする社会資本は大打撃を受けており、戦争中はもちろんだが戦後も長らく悪影響を残すほどだった。
 ただし、米軍がもくろんだ兵站の破壊、後方支援体制の破壊は叶わなかった。当たり前の話しだが、ジャワ島には爆撃目標となる軍需工場が存在しなかった。軍需物資、武器弾薬は、船でソ連などから流れてきていた。赤いドイツの工業生産が再生を始めたのも、このインドネシア戦争が契機になっている。
 人民軍のスマトラ島南端部への補給についても、中立国を攻撃する危険性があるため空かの無差別攻撃はできず、公海上での臨検しか無理だった。連邦共和国と人民共和国の境界線であるDMZの監視強化によるNLFへの補給途絶はある程度成果を挙げたが、これも分厚いジャングル全てを抑えるなど物理的に不可能であり、効果は限られていた。
 そして米軍、日本軍などによるインドネシアへの軍事力投入は、海空軍だけではなかった。


●フェイズ108「インドネシア戦争(2)」