●フェイズ112「月レースの頃の日満の宇宙開発」

 1960年代は、アメリカ合衆国とソビエト連邦ロシアが、それぞれの国家の威信を懸けて宇宙開発を行った年代だった。また、人々が最先端の科学技術である宇宙開発に大きな夢と希望を抱いた時代でもあった。
 そして国家の威信を賭ける政治的行動なだけに、付いていく事ができる国にとっても宇宙は目指すべき場所だった。
 そうして日本帝国、満州帝国、フランス共和国、イギリス連合王国、インド連邦が順番に宇宙開発競争にエントリーしていった。

 もともと宇宙開発は、開発当初からソ連がアメリカより優位にレースを運んでいた。開発の中心のコロリョフ博士はもちろんだが、宇宙に賭ける熱意の差が違っていた。ソ連にとってはイデオロギーの向くべき先であり、アメリカに勝てる可能性の高い数少ない競争であり、そして核兵器の運搬手段として欠かすことの出来ない兵器だったからだ。
 一方のアメリカは、第二次世界大戦の終わりから10年ほどは、圧倒的という言葉すら不足する国力と経済力、工業生産力を背景として、まさに「アメリカの時代」と言えた。だからこそ一つの分野に大きな努力を傾けなくても、普通にしているだけでソ連に勝てた。この米ソの宇宙開発競争を、初期の段階で「兎と亀」の寓話に例える事もあるほどだ。
 そしてソ連が先にロケット打ち上げに成功しても、アメリカの上層部はほとんど焦りはなかった。いずれ追い越せる事が分かっているし、無理をする必要もないからだ。軍事面でロケットを転用した大陸間弾道弾の開発競争で遅れたとアメリカ国民は騒いだが、命中率の低い不確定な兵器など、為政者が持ちたい兵器ではなかった。それにアメリカには、核兵器を運搬できる1000機もの戦略爆撃機があった。さらに同盟国の日本やイギリスも、アメリカの前線基地となるばかりか、自ら戦略爆撃機を保有していた。
 そして人が操縦することで正確で場合によっては途中で引き返すことも出来る兵器を多数保有する事は、もはや圧倒的に優位な要素と言えた。
 しかしアメリカ政府も、ソ連の人工衛星打ち上げを脅威と考える市民の声を無視することは出来なかった。空の彼方から、スパイ衛星(偵察衛星)で空からのぞき見される可能性も、新たな脅威として認識された。
 加えてイデオロギー対立の片方の盟主として、アメリカが競争に負けることはやはり許されなかった。このためジョセフ・P・ケネディ大統領は、1960年代のうちに人類を月面に到達させると演説するに至る。こうして宇宙開発は、国家の総力を傾けるべき東西冷戦構造下での一大プロパガンダ事業となった。
 ちなみに、各国の初の人工衛星打ち上げ成功は、ソ連が1957年10月4日。これが人類初の人工衛星打ち上げ成功になる。続いてアメリカが1958年2月。さらに1960年11月に満州、1962年3月に日本と続く。
 西ヨーロッパ勢の独自の打ち上げはさらに遅く、フランスが1970年、イギリスが1971年となる。フランス、イギリスは軍事面(自前の大陸間弾道弾)を重視したロケット開発を行っていたが、第二次世界大戦とそれ以後の国力の退勢に歯止めがきかず自力での開発が難しかった。このため1970年代以後は、西ヨーロッパ全体で宇宙開発を行うようになっている。
 一方で、遅れたゲームプレイヤーの代表であるインド連邦は、当初は国是に従って自力開発を行おうとしたが、あまりにも技術基盤がなさすぎた。このため1950年代半ばからは主に日本からの技術援助を受けたり、ロケット自体の輸入を行うことで技術と経験を蓄積し、1975年に入って人工衛星の打ち上げに成功している。そしてその後は、国のイデオロギーの向け先として宇宙開発を、いっそう熱心に進めるようになった。

 超大国の米ソに追いつくのが難しい日本の宇宙開発は、初期の頃はまさに「船頭多くして船山に登る」の状態だった。一致団結して他国との競争に挑まねばならないのに、国内での勢力争い派閥争いに汲々とした。これは第二次世界大戦で航空(宇宙)産業が大きく拡大したことと、官僚組織が東京、大阪に分散した事が影響していると言われる事が多い。
 大きくは、兵部省=軍需企業中心の軍事優先派、文部省=東大ラインの学術重視派、通産省=関西企業連合の商業派が対立していた。
 しかも兵部省(+通産省、建設省)と文部省が原子力開発でも対立しているため、犬猿の仲といえる状態だった。と言うよりも文部省=東大ラインは、明治以来の東大中心主義の科学技術開発に頑なまでに拘り、1950年代から以後四半世紀ほどは日本国内で害悪扱いされるほどだった。このため軍部も通産省、科学技術庁、気象庁、そして西日本を中心とする企業は、京大(京都帝国大学)など首都圏以外の大学との関係を深めて技術開発を行った。
 そして政府としては、学術よりも軍事を優先しなければならないため、戦前まで重視し続けてきた東大の頑迷さに頭を痛めた。しかも東大は、中央官僚の供給源であることを利用して各中央省庁に大規模なロビー活動を実施し、さらに混乱を拡大させた。この副産物として、政府によって国公立の東大以外の帝国大学の重視と、私立大学の育成に一層力が入れられることになる。
 そしてその軍事だが、ロケット打ち上げ競争で日本が満州に追い抜かれる切っ掛けの一つとなった戦略空軍の抜け駆けは、軍内部で対立と言わないまでも不協和音をもたらしていた。戦略空軍と母体となった海軍の関係は比較的良好なまま維持されたが、この状態を陸軍と最も不遇な立場に追いやられていた防空空軍が良い感情を持たなかった。官僚組織として兵部省があるため1930年代の陸海軍の対立ほど酷くはないが、団結して一つの方向に向かうには障害が大きかった。

 日本でのほぼ唯一の救いは、日本の民間企業でロケットエンジンを開発できる企業が石川島播磨重工(IHI・1960年成立)しか無かった事だった。石川島播磨重工は何でも作るがやはり軍需系企業で、日本のエンジン開発の根幹を成す存在とすら言えた。兵部省や各軍にもジェットエンジンやロケット開発能力を有する開発部門や研究施設はあったが、企業としてはほぼ唯一だった。三菱重工や川崎重工などの例外はあったが、それもジェットエンジン開発に限っており、一定規模以上のロケットエンジンはIHIの独断場とすら言えた。しかもIHIは、満州にもロケットを納入しており、事実上世界第二位のロケットエンジン開発企業といえた。(※ダントツの首位はアメリカのプラット・アンド・ホイットニー社だが、IHIは造船(主に軍艦)や大型構造物なども作る総合重工業企業という違いがある。)
 しかし日本の宇宙開発の混乱しており、その混乱を見るのに端的なのがロケット打ち上げ施設だった。軍(兵部省)、東大(文部省)、科学技術庁(通産省)で違っていた。
 当初軍は、戦争中の兵器開発の延長で日本各地で行っていた。それを兵部省の成立と共に整理して、九州の新多原基地とその沿岸部に発射上を設けた。ロケットを打ち上げる際には、海に向けて安全性を確保するためだ。しかし緯度が高い事と、すぐにも近くの内之浦に東大系の打ち上げ施設が作られた事が影響して、一気に沖縄の嘉手納基地へと移動。さらに軍は嘉手納の周辺部、特に海岸沿いを用地買収してそこにかなりの規模の打ち上げ基地を作った。
 大陸間弾道弾、潜水艦発射型弾道弾、中距離弾道弾、準中距離弾道弾、さらには諸々の軍事衛星の打ち上げや実験、試験の為には、大規模な施設が必要となったからだ。
 また、ロケットの運搬は製造工場から船で運ぶための岸壁など、周辺施設も整備された。そして核軍備による国防が政府の方針でもあるため、潤沢な予算を使うことができた。
 なお嘉手納基地は、大戦中に主に航空機の中継基地の一つとして大規模に整備されるも、戦後はあまり使い道がなく広大な土地が余っていたので転用は簡単だった。
 東大の方は文部省が躍起になって活動するも、政府は東大主導のロケット開発には否定的だった。様々な人工衛星の価値については、日本の国威昂揚と米ソの競争に付いていくためある程度必要と考えたが、人工衛星だけなら既にある既存のロケットで打ち上げればよいと言うのが政府の方針だった。しかし東大としては、糸川博士中心のロケット打ち上げこそが本命であり、そこを曲げることが出来ずに政府や他の組織との溝を深めた。
 この時期には、文部省とは事実上袂を分かっていた科学技術庁(※後の科学技術宇宙省)は、文部省の旧態依然としたやり方、東大中心の頑迷な学閥主義に反旗を翻した文部省関係者(※技官や理系出身者中心)と通産省など大阪の省庁が中心となって開発を進めたため、最初から商業ロケットを目標としていた。このため満州帝国と宇宙開発で提携したり、軍の中でも浮いている戦略空軍との関係も深めた。戦略空軍以外の軍とも、協力できる限りは手を結んだ。またこの派閥のバックには、後に「昭和の妖怪」とすら言われる大物政治家の岸信介がいた。岸信介と鮎川義介の「二介」の関係があればこそ、満州との繋がりも簡単に出来たのであり、岸の圧倒的と言われた政治力があったおかげで、日本と満州が協力することも可能だったのだ。
 しかし最も後発であり、また軍も東大も頼れないので、地方大学と民間企業の力を利用するしかないという側面もあった。

 日本での初のロケット打ち上げは、1962年に政府が旗振りする形で軍の手によって行われた。打ち上げも設備の整っている嘉手納基地からとなった。打ち上げられた衛星自体は、米ソ同様に小型でごく単純な構造のもので軍事的では無かったが、これで東大系はさらに態度を硬化させてしまう。一方で科学技術庁系は、実利を求めて軍との関係を深めることにする。科学技術庁系が狙ったのは、軍と民間での協力と棲み分けだった。そして軍の力を利用することで東大系を圧倒していき、いずれは軍事系以外の打ち上げを自分たちに一本化する事を目指していた。また気象衛星での観測さえできれば良い気象庁は、なるべく短期間の静止衛星軌道への気象衛星打ち上げを行うべく、科学技術庁と歩調を合わせた。
 しかし。科学技術庁が初動の遅れを覆すのは容易ではなく、打ち上げ施設も種子島の南端部という中途半端な場所となった。種子島には土地はあったが、施設は一から作らねばならず、ロケットを運び込む岸壁や道路の整備までしなければならなかった。そうしたことは大阪の省庁が得意としていたが、だからといって有利な要素とは言えなかった。

 米ソを追従しようとした日本が次に狙う宇宙開発事業は、自力で人を宇宙に送り込む事だった。イデオロギー、プロパガンダの二つの要素を満たすには、自力で日本人を宇宙に打ち上げるしかなかった。米ソは既に月面に向けて全速力で走り出していたが、人を宇宙に送り出せなければ月どころでは無かった。
 加えて言えば、日本が割くことのできる宇宙開発予算を全てかき集めたとしても、10年どころか20年経っても月面に日本人を自力で降り立たせるのは無理というのが、初期の研究段階での結論だった。当時の月ロケットには、文字通り天文学的な予算が必要だった。
 そこで日本としては、多少の背伸びで実現可能と見られた、自力で日本人を宇宙に行かせることを目指した。しかしこの段階でも、学術派は反発した。宇宙に行くことの過酷さと求められる技量を考えると、厳しい訓練を積んだ軍人が最初に宇宙に行くのが当然の選択肢なのだが、日本人で最初に宇宙に行くのは科学者、最低でも民間出身であるべきだと譲らなかったのだ。しかも東大は官僚の東大閥を利用し、文部省などと協力して反対運動を起こし、影響の強い報道各社を利用してまでロビー活動を展開した。この東大の異常とも言える動きでは、裏で共産主義陣営の工作があったと言われている。実際、検察と憲兵が、内定を進めている。
 だが、この時は首相の岸信介が動き、文部省から実質的に科学技術庁を切り離して、事実上の政府直轄にした。しかも長官には兄弟の佐藤栄作を拝み倒した末に就任させ、完全にコントロールを握ってしまう。そうした上で、改めて日本としての宇宙開発組織作りを行った。しかもこれ以後文部省と東大閥は、宇宙開発に限り出過ぎない限りは無視する事になり、文部省側も意固地になって状態が長らく固定化される事になる。
 そして1968年に日本人が世界で三番目に自力で人類を宇宙に打ち上げ、そして無事生還させることに成功。アメリカが月面に降り立つ前だったので、国民にもかなり受けは良かった。
 搭乗者は戦略空軍出身で、ロケットは軍と科学技術庁の共同開発という総力体制で挑んでの成功だった。実際は薄氷を踏むような状態の連続だったと言われるが、打ち上げを主導した科学技術庁の宇宙開発部門(※当時は「宇宙開発推進本部」)にとって、この成功により新たな宇宙開発組織設立の道が大きく開かれる事になる。

 1969年に「宇宙開発事業団(NASDA)」が設立されて日本の宇宙開発が比較的順調に進むようになっても、NASDA、軍、文部省(東大)という三つに分かれた宇宙開発が続く事になる。
 もっとも、宇宙開発事業団と軍は、可能な限り連携を強めた。軍としては独自でやりたかったが、あまりにも米ソから遅れてしまった現状を前に、なりふりを構っていられなくなったのだ。そしてNASDA設立との協力の前に、軍内部でも戦略空軍の独自行動を何とか止めさせたりと、軍なりに大きな努力も行った。
 またNASDA設立の2年前に、東大でロケット開発を主導してきた糸川英夫博士が東大を退官して第一線から去ったのだが、影響力は没するまで及んだ。そして東大時代の頑なさもあって、21世紀に入るまで日本のロケット開発が一本化される事はなかった。
 一方で、NASDAにとって朗報となったのが、日本が大規模にインドネシア戦争に派兵したアメリカからの報償の中に、航空宇宙開発の先端技術が幾つか含まれていたことだった。月ロケット開発で湯水のように資金を投じていたアメリカの最先端技術の供与は、NASDAにとって日本にとって宇宙開発を進める上で大きな力となった。
 しかし日本の宇宙開発の主力がほぼ一つに向いた同じ年、アメリカ合衆国は圧倒的国力と技術力を全力投入する事で、人類を月面に降り立たせる事に成功する。ソ連も、何とか月面周回までは実現しており、米ソと日本の差は1969年の時点では天と地ほどの差が開いていた。それでも自力で打ち上げ能力を有しているだけマシで、バラバラに行っていた副産物として広範な技術も育っており、全くの無駄だったわけではない。中でも個体ロケット技術は米ソに並ぶか追い抜いており、固定燃料型が好ましい軍用の弾道弾開発での大きなアドバンテージとなった。

 一方で、無駄なく宇宙へと突き進んだのが満州帝国だった。
 満州帝国は、1960年に世界で三番目に人工衛星打ち上げに成功した。その後も、独自の航空機からのロケット打ち上げを続け、主に低高度軌道ながら何基もの人工衛星を送り出した。安く、早く、確実にがモットーと言われ、西側世界の企業や第三世界の国々からも注目を集めた。
 宇宙開発の中心は民間に移ったジミー・ドーリットルが主導したが、「満州宇宙局」で国としても完全に一本化されていた。軍(特に空軍)の反発はあったが、ドーリットルの決めたことに逆らえる(空軍)軍人は居なかった。
 一見順調な満州の宇宙開発だったが、問題は皆無では無かった。
 一つは国防。一応は衛星軌道に偵察衛星や通信衛星を打ち上げることを目指していたが、軍事面で切っても切れないのが、ロケットに核弾頭を積むかどうかだった。
 1960年代前半の満州では、日本、アメリカからの技術導入によって、商業原子力発電に向けた動きは進んでいた。そして原子炉を持ってしまえば、核兵器の重要なハードルを越えたのも同じだった。だが満州は、軍事的にはアメリカ、日本から独り立ちを許されているとは言えない状態だった。
 この日米に首輪を嵌められた状態からの脱却を目指したのが、鮎川の次に首相となった辻政信だった。
 辻政信の在任期間は満州の首相としては短く、1963年秋から1967年春までのわずか3年半に過ぎなかった。その間に、満州の国際影響力拡大を目指して、インドネシア戦争に積極的に介入して、アメリカにも恩を売ることで技術などの支援を得たたが、彼が最も求めたのは独自の核軍備だった。自前の核兵器によって、大国としての満州の地位が確保できると考えたからだった。
 しかし日米共に、既にロケット打ち上げ能力を持つ満州に対する政治的、軍事的コントロールを手放したくなかった。しかし日本は既に国力で追いつかれるか、分野によっては追い越されつつあるため、あまり強い態度には出られなくなっていた。満州への大規模な日本人移民では、満州と持ちつ持たれつながら、既に加工貿易面などでは日本が完全に押されており、日本としては満州の力を借りることで自らの覇権を維持しなければならない状態だった。だからこそ辻は、残るアメリカに強い働きかけをして、対価としてインドネシアに大軍を派兵した。
 そして辻は、アメリカとの賭には勝利するも、ソ連との駆け引きには失敗してしまい、国防を危うくした責任を取る形で早期に首相の座を退いた。
 しかし辻によって核兵器開発は満州帝国の既定事項となり、新たな首相のもとで核兵器の保有宣言が出される。そして1972年に、満州帝国は、アメリカ、日本、ソ連、イギリスの次に核兵器を保有する国となった。このため日本から輸入した大型巡航ミサイル以外にも、大陸間弾道弾、中距離弾道弾などが兵器体系に組み込まれ、僻地の荒野に弾道弾発射基地が建設されていくことになる。
 そして核保有宣言を出した次の首相は、日本出身の田中角栄(首相在位1967年〜1978年)だった。田中首相については後に触れるとして、彼の時代の宇宙開発についても見ておきたい。

 満州の宇宙開発の最大のネックは、国全体の緯度が高いという点だった。初期のロケット打ち上げ施設は、遼東半島の西部南岸に置かれた。と言っても、1960年代半ばまでは航空機からの発射ばかり行っていたので、緯度の高さはあまり問題では無かった。飛び立った打ち上げ母機は、東シナ海の沖縄に近い緯度から打ち上げを行っていたからだ。一度だけだが、実験として赤道近辺まで進出して打ち上げた事もあった。もちろん全て近隣諸国、主に日本から許可を得ての打ち上げだった。そして他国近辺で許可が下りるように、満州のロケット打ち上げは軍事に関わらない打ち上げしか行わなかった。1960年代前半だと米ソ以外はまだ偵察衛星や通信衛星の時代では無かったし、気象観測などは自らの頭上に打ち上げないと意味もないし、軍事以外でどうしても必要な分は日本に出資して共同計画で事足りた。日本側も、満州への自らの影響力を少しでも維持するため、満州の依頼には甘い事が多かった。
 また満州の打ち上げはビジネスを見据えての事なので、他国に見てもらう為にも他国近辺での打ち上げには大きな意味があった。
 しかし将来的なロケットの大型化を見据えると、打ち上げは他国同様の地上発射に切り替える必要があった。小型の軍事衛星程度ならともかく、各種弾道弾となると話しも全く違ってくる。流石に弾道弾は、間借りした場所で打ち上げ実験する事は不可能だった。
 また、もともと空中発射は短期間で他国を出し抜くことを目的としていたから、別に地上発射の準備も1960年代前半から進められていた。しかし発射基地の緯度が高いのは、やはり大きな問題点だった。ソ連の秘密発射場(※現在のバイコヌール宇宙基地)より緯度は低いが、満州の打ち上げ施設が日本の東北辺りの緯度では慰めにもならなかった。
 このため、満州も参加している国連委任統治領の海南島の一角を取得する事が検討されたり、日本が委任統治する西部太平洋、中部太平洋の島の一つを借り受ける計画が検討された。
 満州の宇宙開発で風向きが変わったのは、日本でNASDAが作られてからだった。今までバラバラすぎた日本の宇宙開発に大きな軸が出来たことで、協力関係が結びやすくなった。
 満州は、米ソの月面競争が終わり衛星軌道での競争に変化した事もあって、日本のNASDAへの急接近を行う。日本と密接な協力関係、できれば統一された大規模な組織を作り上げることで、米ソに肩を並べることが出来るのではないかと考えるようになったからだ。しかも満州自体は高度経済成長で急速に拡大し、世界第二位の経済力となった満州には分かりやすい国威発揚が必要と考えられた。
 そして1970年代に入って経済の低迷、国力の衰退に直面していた日本は、自らの国威を維持するためにも他者の協力を必要としており、両者の協力関係は互いに必要だという目的から進んでいった。

 日本と満州が、宇宙開発で本格的な協力関係を結んだのは、1972年の事だった。そして以後関係を深めていき、日本と満州の宇宙開発の統合へと進んでいく。日本は軍事衛星と弾道弾技術で進んでおり、満州には商業衛星の打ち上げに大きなアドバンテージがあったため、互いに足りない部分を補うという点で優れており、さらに米ソという大きすぎるライバルが居たことが、協力と組織の統合を急速に進めさせた。
 同盟国であるアメリカの政治介入もあったが、同盟関係を事実上の盾に取ることで押し通し、1978年に「東亜宇宙機構(EASA)」が成立し、軍事以外の日本と満州の各宇宙開発組織は統合される事になる。この組織には軍も関わっており、各種弾道弾といわゆるスパイ衛星、有事の際の通信衛星の緊急打ち上げに関しては、軍が嘉手納で行い続けることになる。
 EASA本部は日本の福岡に置かれ、NASDAと満州宇宙局は発展的に解消。同時に日本の科学技術庁は「科学技術宇宙省」と名を改め規模を拡大し、文部省と完全に袂を分かった。
 そして1960年代で最も大きかった嘉手納基地を軍が使い続けた事、種子島が手狭になった事、満州の打ち上げ基地の緯度が高すぎる事、主に3つを理由として早期に新たな打ち上げ基地の選定がすすめられる。
 そうして組織が統合する1978年に、新たなロケット打ち上げ施設の場所として白羽の矢が立ったのが北マリアナ諸島のサイパン島だった。隣のテニアン島の方が土地の取得は容易だったのだが、ロケット運搬船や燃料船が安全に接岸、停泊できる環礁とレーダーやアンテナが設置できるそれなりの高さの山がある事が大きな決め手となり、一面にサトウキビ畑が広がる島の南部を中心にして広大な敷地が買収され、米ソの打ち上げ施設に準じるほど大きな発射施設の建設が急ぎ進められる事になる。サイパン島はアメリカ領グァムに近い点が懸念材料の一つとされたが、日本とアメリカの関係から問題は最小限とされた。
 そうして建設が決まったのが「アスリート宇宙基地」だ。
 しかし基地の稼働はもう少し先の話しで、アメリカが月面に降り立ち、ソ連が月レースでの敗北を挽回するべく次なる目標を火星に定めた頃、日本と満州の宇宙開発はまだまだ米ソより随分後ろを歩いているだけだった。
 アメリカとは国力が違いすぎたし、ソ連とは熱意が違いすぎた。

 また当時の日本には、先に進めるより前に行うべき事が山積していた。


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