●フェイズ113「ダブルショックと日本の斜陽」

 第二次世界大戦後の日本帝国は、米ソに次ぐ大国、アメリカと対等のパートナーを目指して国際外交と軍事に非常に大きな努力を傾けた。特に軍事費はソ連に次ぐほどの国家予算比率で、日本の国庫を常に圧迫し続けた。しかもそれだけでなく、民間企業の多くが軍需の受注を受けるべく、本来は民需や軍需以外の広範な分野に投資するべき研究費や設備投資、さらには人材を軍需に向けていた。だからこそ、ソ連と同様に優れた兵器が幾つも開発された。
 さらに日本の場合は、第二次世界大戦が終わった時点では大国ではあっても先進国ではなかった。産業構造(技術ではない)は、極論1930年代で止まっていた。人口が多い事を理由の一つとして労働生産性は低く、国土の社会資本整備も十分とは言えなかった。
 要するに、冷戦構造崩壊後に明らかになったソ連(ロシア)と似たり寄ったりの状態だった。しかもソ連と違って、国内に安価な天然資源は乏しく、天然資源のほとんどを輸入に頼らなければならなかった。
 その上1960年代後半は、インドネシア戦争の戦費が国庫を大きく圧迫していた。
 日本が目指すべきは加工貿易を主軸とした産業立国なのだが、その道を先に突き進んだのは隣国の満州帝国だった。しかも満州帝国の方が、本国の国土は広く、農地も多く、天然地下資源も比較的豊富だった。しかも満州の場合は、安全保障の一部を日本もしくはアメリカに託すことが許されていた為、過剰な軍事費を投じずに済んでいた。
 しかし日本は、主要戦勝国、国連常任理事国となった対価として、多くを背負い続けなくてはならなかった。
 それでも1960年代までは何とかやっていくことができた。
 GDP(国内総生産)もアメリカ、ソ連に次ぐ数字を維持したし、本国近辺から地中海に至る広大な地域の安全保障も提供し続けた。
 しかし破局は、2つの外的要因によってもたされる。
 1つ目は、原因は敵であるソ連ではなく、盟友である筈のアメリカ合衆国が震源地となった。
 「ニクソン・ショック」だ。

 1971年8月15日、アメリカはドルと金(純金)の固定比率(1オンス=35ドル)での兌換を一時停止し、西側世界の通貨は変動相場制へと大きく変化した。
 原因はアメリカが保有する金(純金)が減少し、ドルの金交換に応じられなくなったからだ。このため「ドル・ショック」と言う事もある。
 これがなぜ「ショック」なのかと言えば、第二次世界大戦後に成立した「ブレトン・ウッズ体制」を、ドルを基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきた。そして共産主義体制、社会主義体制以外の国々は、価値の固定されたドルを基準に通貨体制を維持していた。にもかかわらず、アメリカは突如ドルと金(純金)の兌換を停止し、一夜にして変動相場制へと移行した。
 原因は色々あるが、極論すればアメリカ経済が衰退したからだ。もしくはアメリカ以外の西側諸国の経済力が強まったからだった。
 ショックの直接の引き金は、フランスが大量のドルと金の兌換を求めた事にあるし、ショックの十年ぐらい前からフランスが、自らの経済及び財政維持のためドルと金の兌換により金の保有率を増やしていた。日本、満州もフランスのことを大きい声では責められず、フランスほどではないが同じ事を行った。日本の場合は傾いた自国経済を維持するため、満州は経済的躍進で国庫も金の保有量を増やさなければいけなかったからだが、無罪というわけではない。
 そしてアメリカは、自らの国力、経済力よりも高い為替レートを強いられる事になり、1971年にはアメリカの貿易収支が初めて赤字に転落した。

 変動相場制に移行した結果、貿易が好調で高度経済成長を続けていた満州帝国は、交換レートの大きな上昇が見られた。対して日本では、今までの無理が世界中に暴露される形で通貨の下落が起きる。
 ブレトン・ウッズ体制下で、日本の通貨「円」は1ドル=3円60銭、満州の通貨「両」も1ドル=3両60分で固定されていた。それが変動相場制への移行により、たった数ヶ月で「円」は1ドル=4円20銭、「両」は1ドル=3両5分に変化した。日本の価値は85%に下落し、満州は118%に上昇した事になる。(※満州通貨:1両=100分)
 円安になれば、加工貿易を産業の主軸にしている日本は、輸出に有利になると安易に考えられがちだが、1970年頃は21世紀ほど日本製品は世界、特にアメリカには受け入れられていなかった。安価な労働力を武器に繊維製品や軽工業製品は売れていたが、高度な工業製品や重工業製品はアメリカが買うほどではなかった。重工業分野で日本が得意だったのは造船だが、主に建造していたのはタンカーや貨物船で、これもそれほど高い技術を求められない労働集約型の産業に過ぎない。当時の日本にとっては、石油、石炭、各種工業原料、さらには食糧を購入する事での外貨流出の方が、はるかに大きな打撃だった。
 なお、日本の通貨「円」と満州の通貨「両」は、満州帝国の建国後の満州での通貨制定時に等価として固定化され、ドルとも連動することで安定した通貨となっていた。戦後は「円」と「両」は切り離されるも、ブレトン・ウッズ体制のもとでは価値自体は同等とされた。
 ちなみに日本「円」の通貨記号は「¥」で、満州の通貨「両」の通貨記号は「M¥」でこれは初期に制定された「(満州)圓」制定時から変化していない。「圓」もしくは「円」は漢字表記の通貨の事を現し、北東アジアでは共通となる。違って思えるのは、漢字が同じで呼び方が違うためだ。
 しかし戦後の満州では、国家として自立を図る象徴の一つとして通貨の変更を実施。清朝時代に使われていた「両」を復活させ、呼び方も清朝時代そのまま海外呼称を「テール」と定めた。しかし国際表記の変更は各国が面倒がった事もあって、そのまま「M¥」とされた。
 そして通貨制度を定めて以後ずっと日本の「円」が上位で有り続けたのだが、ニクソンショックによりその関係性に逆転が起きることになる。

 満州帝国は、もととも日本とアメリカの経済植民地として出発し、日本とアメリカ、特に日本の経済発展の拠点として重視されてきた。しかし第二次世界大戦で政治的自立を果たし、切り離されたロケットの上段のように経済成長を加速していった。
 満州の高度経済成長は1950年勃発の支那戦争による戦争特需によって開始され、支那戦争後若干の停滞を挟むも、その後約20年にかけて続いた。支那での混乱も、武器輸出などで満州経済に有利に働いた。
 総人口も4100万人から年平均3%で増加していき、1971年には8000万人に達した。人口増加分のうち3分の1(1年で約40〜80万人)は移民で、初期は主に華北地域の漢族だったが、1960年代からは日本からの移民が一番となっていた。アメリカからの移民も、有色人種を中心にして伸び続けていた。
 そして1970年のニクソンショックで、当時約1億4000万人(※台湾など外郭地含む)の総人口を有していた日本に対して、GDP(国内総生産)で一気に肉迫する。
 満州のGDPは、1966年の時点で一人当たりGDPで日本を追い抜いていたのだが、総人口の差が大きくて相対的に見て37%の上昇だけでは追い抜くには至らなかった。
 しかし西側世界にとっての悲劇、特に無資源国である日本にとっての悲劇はこれだけではなかった。
 次の大きな衝撃は、1973年10月の「オイル・ショック」だった。

 「オイル・ショック」の直接的原因は、「第四次中東戦争」だった。
 中東ではイスラエル建国以来、それこそ10年を置かず戦争が行われてきた。建国当初からイスラエルがある程度の力を持っていた事、イスラエルを構成するユダヤ民族の世界ネットワーク、アメリカの支援などから、イスラエルの優位で進展していた。特に1967年の「第三次中東戦争」では、「六日戦争」と言われるようにイスラエル国防軍の機甲部隊による電撃的侵攻でシナイ半島が占領された。それ以後アラブ陣営は、イスラエル軍(イスラエル国防軍)と軍備に圧倒的格差が付けられたことを理解し、戦略を変更してイスラエルに消耗戦を仕掛けるようになる。そうして戦争準備を行いイスラエル側の油断もあって、第四次中東戦争は初戦では大きな成功を勝ち取る。結果として第四次中東戦争もアラブ側が敗北するも、これでイスラエル不敗神話は霧散し、以後アラブ諸国とイスラエルは対等の外交を展開するようになる。
 そして第四次中東戦争でアラブ諸国が仕掛けた外交戦略の目玉として、アラブ諸国もしくはOAPEC(アラブ石油輸出国機構)による原油公示価格の値上げおよび原油生産量の段階的削減を発表する。
 これにより原油価格は、三ヶ月後には今までの4倍にも跳ね上がった。
 そして、今まで極めて安価だった石油に依存していた国々の経済を直撃。特に、自前の大規模油田を持っていない国々には大きな打撃を与えた。
 その中の一国が、日本帝国だった。

 1973年の日本は、ニクソン・ショックの打撃から立ち直れていなかった。1971年に総理になった大平正芳のもと大規模な構造改革が叫ばれたが、旧弊と既得権益にがんじがらめにされていた日本社会は、旧態依然とした産業構造、低い労働生産性、多額な軍事費と軍備偏重の産業構造、さらには一部の老朽化が進んでいた工場施設群など、良いところがなかった。先進国ではないにも関わらず、内需の伸びも鈍かった。
 ニクソン・ショックの時の総理だった佐藤栄作は、当時政界第一の重鎮となっていた岸信介の助けも借りて大規模な改革案を提案・実行しようとしたが、保守勢力、既得権益から強い反発を受けてしまう。その反発は、岸の政治力でも押しとどめられなかった。特に経済対策と改革のための予算確保のため軍事費を大幅に削減しようとしたため、軍部、軍需産業からの風当たりが強まった。このため1期3年しか総理を務めることが出来なかったほどだ。(※岸の後押しがあるので、最低でも2期すると当初は見られていた。)
 そして軍部、在郷軍人会、軍需産業を大きなバックとしていた野党民主党が、1971年の選挙では15年ぶりに政権を獲得するのではないかと言われた。世間は、昭和の妖怪と言われた岸信介が黒幕となっている「岸王国崩壊」とはやし立てた。このため与党自由党としても、改革路線を縮小もしくは断念せざるを得ず、大胆な改革、経済政策は行われず小規模なものに止まった。おかげでというべきか自由党の大平正芳が次の総理になり、彼のもとで漸進的でもよいので日本にたまっている問題を解決していこうとした。そうした矢先での「オイル・ショック」だった。
 ただでさえニクソン・ショックによる円安で原料輸入費が大幅に高騰していたところの原油価格の高騰は、日本経済の血流を止める一撃となった、といわれる。
 1960年代半ばまでは日本のエネルギーの主力は、何だかんだ言っても石炭だった。コスト的にも折り合ったので、国内での採掘も盛んに行われていた。だが、中東での大油田稼働による極めて安価な原油の登場は、遅ればせながらも日本にもエネルギー革命の決断をさせるには十分だった。安価で扱いやすく熱効率も良い石油は、モータリゼーションが十分ではなかった日本でも大きな広まりを見せて、特に暖房や炊事の燃料として旧来のもの(※薪、木炭など)に取って代わっていった。発電の主力も石油へと移行していった。
 オイルショックは、そうしたエネルギー資源の大変革の最中に起きた。
 そして日本には、有望な油田は存在しなかった。

 1973年統計で、日本は2億トン近い石油を消費するようになっていた。10年前は5000万トンにも達していなかったので、急速な拡大といえる。このため日本各地の造船所では、他国向けを含めて多くの巨大タンカーが建造された。
(※神の視点より:史実日本だと同時期に2億7000万トンを消費。この世界の日本が史実日本と同じぐらいに経済発展していれば、単純に人口比からだと3億6000万トン程度が必要になる。)
 日本の石油供給先は、近い順に国内の小規模油田、シベリア共和国の樺太北端にあるオハ油田、満州の康徳油田、支那共和国の渤海沿岸油田、ブルネイ油田、インドネシア地域各地の油田、イランの油田、そしてイラン以外の中東湾岸の油田となる。
 10年ほど前まではアメリカからも輸入されていたが、アメリカ国内での消費拡大とアメリカ政府による国内油田の温存戦略のため、中東油田の産油量拡大でほぼ無くなっていた。また満州からの輸入も、1960年代に入ると無くなっていた。
 そして国内や近在の油田はどれも小規模だった。当時は日本の油田と言えたブルネイ油田(※ブルネイは1984年に独立)も、21世紀初頭の優れた採掘技術を用いても年産500万トン程度しかない。インドネシア各地の油田も、当時は政情不安があるため安定した供給先とは言えなかった。
 このためオイル・ショックが起きると、日本政府は特使を友好国のイラン共和国に派遣して、原油価格の据置、それが無理でも公示価格よりも低い価格での輸入を維持しようとした。しかしイランもOAPEC加盟国で、宗派は違ってもイスラム教国家なので、いくら国としての恩が有ると言っても日本だけを特別視や重視するわけにはいかなった。それに国際公示価格を無視する事は、イラン自体の国際的信用にも関わってしまう。このためイランも、日本に対して可能な限り配慮を示すも、今まで通りというわけにはいかなった。
 そして宗派と政体の差からイランをあまり良く思っていない他のアラブ諸国は、日本に冷たいとは言わないまでも厚遇は無かった。また、それ以前の問題として、日本はイスラエルを支援するアメリカの無二の同盟国であるため、敵視と言わないまでもイスラエルの支援国家に指定しそうだった。そうなっては、アラブ諸国からの安価な石油の輸入など不可能だった。辛うじて長年の友好関係があるイラン、そしてイランと関係が深い幾つかのアラブ諸国の働きかけで石油の禁輸には至らなかったが、石油価格の高騰だけで日本にとっては大きすぎる打撃だった。
 なお、オイルショックの副産物として、当時急速に衰退していた日本国内の石炭と木質エネルギー(木炭など)の利用が一時的に盛り返している。政府も数年を限り支援したことから、産業自体の若干の延命が計られることになる。そしてこれらの古い産業に従事していた人々の一部は、他業種に転業、転職する猶予期間を得ることになった。こうした新旧の逆転が一時的に起きたのは、日本の発展が先進国各国に比べて遅れていたことで、旧来の産業が完全には廃れていなかった為で、発展していなかったことが逆に幸いしたと言えなくもないだろう。

 ニクソン・ショックに続いてオイル・ショックは、疲弊し弱体化していた日本経済にトドメの一撃といえるほどの打撃を与えた。二つのショックは西側諸国にそれぞれ大きな打撃を与えたが、中でも日本が受けた打撃は群を抜いて大きかった。
 しかし日本が受けた打撃の原因の半分は日本自身にあったので、ある意味自業自得でもあった。
 先述したように旧態依然とした産業構造、低い労働生産性、多額の軍事費と軍備偏重の産業構造、一部老朽化の進んでいた工場施設というマイナスが横たわっていた。無資源国というのは、半ば言い訳に過ぎなかった。
 今までは何とか凌げていたし、1950年代までなら工場の老朽化や産業構造も致命的とは言えなかった。1930年代から第二次世界大戦頃にかけて重工業が大きく拡大したこともあり、アメリカよりも新しい工場がかなりあったのも、設備投資の面では安心材料とされていた。このため更新や革新が蔑ろにされていたのだが、1960年代になると簡単には大胆な改革や変更ができなくなっていたので、仕方のない状態と言えなくもなかった。1960年代の経済成長率は、まだ経済的に先進国になっていないのに平均5%を割っており、インドネシア戦争介入による戦争特需が発生した筈の1960年代後半になると、戦費調達のための増税によって逆に成長率は3%台に低下していた。そこにきてのニクソン・ショックで大きな打撃を受けて、1971年には第二次世界大戦後初めてのマイナス成長を記録。金融緩和や公共投資の増加で何とかしようとしたのだが、そこにオイル・ショックが襲いかかった。
 政府がインドネシア戦争で活躍した軍人を英雄として民衆のガス抜きを図ったのも、不景気から少しでも目をそらせるという目的もあったのだ。

 石油の高騰を発端とする流言飛語もあって物価の高騰が起きるも、事態のあまりの大きさに政府は初動で失敗してしまう。そして1974年に入っても混乱は続き、1973年でマイナス3%だった経済成長率は、74年にはさらに低いマイナス5%を記録。たった数年で、一割近くも経済力が衰退した。世界は、このまま日本経済が沈没し、先進国になれないまま没落する国のリストに加わる可能性が高いと予測した。
 この未曾有の不景気は、出生率にも大きく影響した。本来なら、1974年が第二次ベビーブームのピークになる筈が、1972年〜77年ぐらいまで10%以上も出生予測値を押し下げた。その分、数年遅れで出生数は長期予測値を5%ほど上回ったが、この時期の低下を補うほどでは無かった。このため政府は、健全な人口構造の維持を目的として、長期的な視野での人口維持政策と出生計画を立てて行くことになったほどだ。
 それほどに大きな不景気なので、当然国民に大きな不安がまきおこり、人々は強力な景気対策を政府に求めて国会前に殺到した。副都の大阪を中心とした地方でも、同時多発的に大規模なデモが発生。国会前、大坂城のデモ隊の数は、総数100万人に達した。あまりの混乱ぶりに、未曾有の不況から一気に社会主義革命に発展するとすら言われた。
 また一方では、日本での生活に絶望して移民する者が一気に増加した。それまでも主に満州への移民が、数多く日本を旅立っていた。移民先の一番は満州だが、アメリカ、ブラジルにもかなりの数の移民が海を渡っている。日本が戦勝国や友好国なので受け入れ側も好意的だったため、移民は伸びる一方だった。
 1974年の移民は特に多く、遂に100万人の大台を越えてしまう。その翌年にはある程度沈静化するも、以後10年ほどの間は日本から毎年50万人以上が主に満州移民していった。
 なお、1950年代後半ぐらいからの日本では、政府の勧めもあって地方(主に農村)から国内の大都市圏を目指すのではなく、海外移民、特に日本語が一般的に通じる満州への移民が奨励されていた。日本国内の都市にあまりにも人口が集まりすぎると、都市機能が麻痺してしまうことを嫌っての事だった。実際、東京、大阪の二大都市圏の鉄道、道路などの整備は、人口増加に追いついていなかった。名古屋、博多などの地方の100万都市も同様だった。
 これは6大都市と言われる以外の、中小の地方都市外縁の農村(=大地主、名主)が安易に土地を売り払わない為、都市化、住宅地の拡大が遅れている事も原因していた。各地方の都市で余剰人口が吸収できないため、農村の余剰人口は大都市圏に行くしかないが、それでは日本の大都市が簡単にパンクしてしまうのだ。
 それにしても、移民数とデモ隊の数が同じというのは、皮肉と言えば皮肉な数字だろう。
 しかしここで政府は、日本全国で100万人を優に越えると見られるデモ隊に対して、警察の投入のみに止めて冷静になるように説得による沈静化を開始。この時のジュラルミンの盾を並べた警察の機動隊と放水車によるデモ隊鎮圧の情景はリアルタイムで全世界に流れ、世界は固唾を呑んで日本の混乱を眺めると同時に、軍隊を投じず国民に安易に銃を向けない日本政府の姿勢に強い感銘を受けた。
 さらに警察組織と一部の軍の憲兵隊は、裏で混乱を煽っている共産主義組織、シンパ、一部過激派団体の捜査と検挙に総力を傾けた。この中で、海外勢力による干渉やテロの準備も発見され、法曹界、報道界、教育界に入り込んでいた者達も一斉に摘発、パージされた。そして以後、日本国内の法制度と警察体制自体の強化が進むことになる。まだまだ貧富の差が残されていた日本では、共産主義、社会主義へ傾倒する人々が途絶えていなかった。

 そして当時政権を担っている内閣と、このままでは日本が駄目になってしまうと危機感を強めた人々による、政治を舞台とした「戦争」が始まる。
 一説には、1930年代の政治の混乱期よりも、第二次世界大戦初期の頃よりも強い危機感と決意で、為政者達は日本復活の為の道筋を見つけようとしたと言われる。
 危機感は、ほとんど全ての心ある政治家の共有するところとなり、国会では喧々囂々の議論を重ねつつも、一つの方向性をもって話しが進められていく。この時国会は、厳重な身体検査有りの許可制ながら報道各社のカメラを入れることを許可し、日本史上で初めて生放送による国会中継が時間無制限で実施された。NHKは、議会が開かれている限り、夜通し中継を行い続けた。未曾有の国難に際して、政治家達が何を話し実行するのかを国民全てに見せることで、当面はデモを沈静化し、さらには少しでも明るい見通しを感じさせるためだった。
 水面下でも活発な活動が行われ、与党自由党、最大野党民主党だけでなく、少数野党の社会党、無産党なども加えた会合、密談が日本中で行われた。政治家だけでなく、高級官僚達も多くの政治家達との間に話しを持った。また、改革で当面大きく割を食う事になる財界(経団連)、特に大規模な財閥に対しても、真摯にそして命がけの説得が行われた。同じく割を食う軍人達にも、政治家達は自ら足を向けて説得に当たった。地方限定の有力者に対しても、精力的な説得が行われた。
 しかし既得権益を持つ者達の反発は非常に強く、一部政治家に対しては暗殺未遂や政治家の家や事務所にダンプトラックがぶつけられるなど過激な事件があった。死者も出たし、逮捕者の数も一人や二人では済まなかった。
 改革を進めようとする政治家への個人攻撃、誹謗中傷なども後を絶たなかった。既得権益寄りの新聞など報道各社は、政府の改革を連日非難した。しかし、あまりに過激な行動に対しては政府も断固とした態度で臨み、国民にありのままを暴露したり、一罰百戒で厳罰に処した事もあった。
 この時の副産物で、要職にある政治家などへの個人警護が大幅に強化されたほどで、以後要人の個人警護が一般化する大きな切っ掛けともなった。それだけこの時の混乱と反発が強かった証拠と言えるだろう。

 そうして日本国内での意思統一をある程度計った上で、次の段階としてアメリカ、満州、インド、イランなどの間に何度も話し合いを持った。日本が決定しようとしている事は、特にアメリカ、満州から何としても了承を得なければならない事だったからだ。
 「大福同盟」とも言われた総理の大平正芳、副総理の福田赳夫は、この時の事を後に述懐して、「山梨さん(第二次世界大戦時の総理)もこんな気持ちだったのかなあ」という同じ言葉を残している。それだけ当時の為政者達は、ダブルショックと言われた日本経済の混乱を何とかするために力を尽くしたのだろう。
 なお大平正芳総理は、戦後の総理としては吉田茂と並ぶ外政家と言われるように、その後の日本の外交政治に大きな足跡を残した人物だ。しかし、もともとは大蔵省出身で財政が専門であるため、この時の日本の総理になるべくしてなった人物と言われる。また、政治家の中では穏健な知性派で知られていた事も、暴力的ではない改革と相まって彼の印象を強める事になった。

●フェイズ114「日本再編と日満経済の逆転」