●フェイズ114「日本再編と日満経済の逆転」

 1974年10月、オイルショックから丁度1年後に日本政府から重大な決定が発表され、世界に大きな衝撃をもたらした。
 日本政府が決めた事は、大幅な軍備削減と抜本的な経済の再編だ。これを日本政府は「改革解放政策」と言った。

 いったい何を「改革」して「解放」するのか。
 第二次世界大戦の少し前からこの時まで、日本は軍事偏重の財政で知られていた。いや明治維新以来、近代日本は常に軍事偏重であり続けた。完全な平時で国家予算の5割に迫った事すらあるほどだ。戦前は強い軍隊を持たなければ自主独立が許されない時代であり、戦後は日本が世界の列強、世界の大国と認められなかったからだ。同時期は経済も大きく発展はしていたが、常に莫大な軍事費、民間の軍事に対する研究開発費が、健全な経済発展、技術発展を阻害し続けていた。
 これを東西冷戦構造が続いている中で抜本的に改めると、日本政府が決めたのだ。これを著名な評論家の一人は、近代日本が現代日本に変化するための改革だと言った。
 過剰な軍事費を大幅に削減し、合わせて軍備を徹底的に査定、再編。そうして余剰した国家予算と国力、経済力、人的資源を、循環型経済に投入して長期的に日本経済を立て直すことが一番の方策だった。公共投資による大規模な社会資本の建設というカンフル剤も、限られた形で実施する予定はあったが、あくまでそれは現状に対する緊急措置にすぎず、長期的視野での国家経済の再編成を目指していた。
 また、1930年代以後一部財閥(コンツェルン)に産業全般が集中する傾向が強すぎて、主に満州へと流れる企業、人材が後を絶たない事から、経済の自由化の断行化が決まり、独占禁止法などが大幅に強化される事となった。さらに、旧態依然としていた保守層を守るために存在していた各種規制、既得権益の多くが、撤廃もしくは大幅に緩和、さらには健全な形に変更された。
 さらに税収拡大の為、今まで守られてきた累進課税と相続税が大幅に強化され、庶民からではなく金持ち達から資金をかき集めた。
 また、今まで欧米各国に比べて大きく遅れていた、女性の社会進出、特に政治への積極参加と登用が促進される事となり、憲法上でも銘記される事となった。当然ながら、女性が社会進出しやすいようにするための社会資本の整備、国民の意識改革の為の啓蒙なども大幅に進められる事になった。
 なお、女性の社会進出促進は、労働生産性の向上の一助という副次目的もあった。
 まさに改革解放政策だった。

 この改革で一番大きな打撃を受けるのは、一部の金持ちを除くと軍事に関わる人々だった。政治家、官僚(軍政家)、軍人、軍需産業の全てが、今までの放漫経営状態、丼勘定状態の軍事費から、徹底した査定による再建を求められた。
 ただし損ばかりさせては、まとまる話もまとまらない。日本は全体主義でも共産主義でもないからだ。
 故に以後の日本は、国力に対して肥大化していた軍需産業を救うため、武器の海外輸出を今までとは比較にならないほど積極的に行うようになる。兵部省はもちろん外務省も通産省も、大蔵省までもが、積極的に海外に兵器を売り込むようになった。一連の共同作業で、東京と大阪の省庁の対立、兵部省と他の省庁の対立が大幅に緩和するという副産物がもたらされたほどだった。
 しかも日本の軍需産業にとって幸いな事に、日本製兵器の受け入れ先の国が大きく育つか、育ちつつあった。経済発展が著しい満州帝国には一部を除いてあまり売れなくなっていたが、インド連邦、イラン共和国という日本と密接な関係のある国は、日本からの様々な技術供与や各種支援と引き替えに、今まで日本が背負い続けていた安全保障を一部であれ自ら背負うことになる。
 依然として共産主義国のある東南アジア地域での、日本製の武器需要も低くは無かった。他にも「白人以外の旗手」として日本を見る国々は、半ばステイタスとして日本製の武器を持ちたがった。また、依然として不安定な状態の続く支那地域は、どの国にとっても優れた武器輸出先だったが、引き続き日本も関わることができた。
 また民間企業は、今まで軍事にばかり向いていた研究費、開発費、人的資源など莫大な投資を、民需、民間開発に回すことができるようになるので、むしろ長期的な利益は非常に大きいと考えられた。
 そして日本全体としては、以後10年ほどをかけて今まで自ら作り上げてきたものを大きく改め、新たな経済構造の再構築を進めていく。
 一方で改革で最も割を食うのは軍人達となった。

 日本政府は、日本軍全体の抜本的な改革と縮小を決定。日本政府は無駄を削って、より効率的な軍事力を整備するとしたが、軍縮規模は第二次世界大戦直後に匹敵するとすら言われた。
 なお、日本独自の軍縮の表立っての理由は、米ソ冷戦構造のデタント(緊張緩和)と、インドネシア戦争に区切りがついた事が主な理由とされた。また主に米ソ間で進められた核兵器に関する様々な取り決めに日本も準じるという点も、軍縮の大きな理由とされた。
 またインドネシア戦争で引け目のあるアメリカは、日本の改革や軍縮に何かを言うことができなかった上に、むしろ日本の負担を一部肩代わりし、さらには技術面などの支援すらする事を了承した。
 軍縮自体は日本とソ連単独で見れば、日本自らが軍事的に一方的に不利になると宣言するに等しいのだが、実際はそうはならなかった。満州帝国は経済の躍進にともない国防を重視させ、さらには核保有まで実現した。インド、イランも、今までと比べると有力な軍事力を保有できるようになっていた。
 また1975年には、アメリカも参加した「アジア条約機構」(通称は本部のあるシンガポールにちなんで「シンガポール条約機構」)が成立。日本からイランにかけて、ソ連を封じ込める新たな体制を作り上げる。
 しかも今までと違って、日本の軍事負担が大きく軽減されており、実際日本はインド洋方面の軍備を大幅に削減する。
 日本軍全体としては、第二次世界大戦から続いていた徴兵制度を事実上廃止(※殆どの時期で実質的に選抜徴兵制だった)し、志願制を中心とした軍制に移行する。
 第二次世界大戦後は70万人体制として、支那戦争、インドネシア戦争では一部徴兵の強化が行われ、特に1974年の時点ではインドネシア戦争の影響で軍人数は85万人に増加していた。
 と言っても、日本自体の総人口が大きく伸びていたので(※第二次世界大戦頃だと総人口は7500〜8000万人。)、兵士のなり手に不安はなかった。特に1960年代終盤頃からは、戦後の第一次ベビーブーマー世代が大人になる頃だった。1968年から以後十年ほどの出生数は、300万人前後で推移していたし、戦後の日本は若者で溢れかえっていた。1940年代終盤から以後四半世紀ほどの徴兵は2年で、軍人には志願兵と職業軍人が多く含まれるため(約半数に達する)、実際徴兵される若者は10人に1人もいなかった。
 そこにきての大幅な軍縮と兵員の削減で、徴兵制を維持する必要性が低下しているという現実もあった。
 少し軍縮の程度を見ておこう。

 一番の削減対象となったのは、組織の特性から多くの兵士を抱える陸軍だった。
 陸軍は、第二次世界大戦後の動員解除で、一般12個、機甲4個、空挺1個の17個師団体制となった。その後支那戦争で機甲部隊が若干強化され、インドネシア戦争でも機甲部隊とヘリ部隊が強化された。特にヘリは全軍に配備されるようになり、各部隊の規模も増えた。
 1974年の軍縮では、戦略単位とされる各軍(軍団)を従来の3個師団体制から2個師団体制として、各師団の重装備化で師団数の減少による戦力低下を補うものとされた。
 結果、機甲師団3個、機械化歩兵師団4個、歩兵師団3個、空挺旅団1個、空中突撃旅団1個、教導機械化旅団1個に縮小、再編成される。欧州駐留軍も、3個師団体制から機械化歩兵師団1個、機甲師団1個に改変され、支那大陸有事の際の即応部隊は欧州向け即応部隊と統合される形で実質的に廃止された。内地(本土)で即応体制を維持するだけでも、大きな予算が必要なためだ。
 また、常時内地に駐留する3個歩兵師団は、有事に即応の予備役召集で兵員数を満たす体制を大幅に強めて、師団の3分の1を士官のみで兵士を配置しないスケルトン化で兵員数を大幅に削減した。その他、インドネシア戦争で膨れあがっていた組織、部隊、兵員数も整理、削減され、73年に平時定数45万人(即応予備役5万人)だった兵員数は定数28万人(即応予備役8万人)に削減された。

 他の軍も削減と縮小が実施されたが、一番割を食ったのは戦略空軍だった。もっとも戦略空軍の場合、今までの行き過ぎた独自行動が過ぎてしっぺ返しを受けただけという見方も強かった。
 戦略空軍が独自行動が強かったのは、1950年代から60年代半ばまで戦略空軍の頂点に君臨した源田実将軍がいたからだった。彼は戦略空軍の独自性という建前で自らの軍の拡大を行い、政治家、他省庁、企業へのロビー活動も積極的に行って、一時は日本の核軍備の独占すら狙った。しかも一時期は政府が、通常軍備より核軍備の方が国家安全保障の費用が安上がりになると考えたため戦略空軍を優遇。加えて、日本という国土が大陸間弾道弾(ICBM)、中距離弾道弾(IRBM)など各種弾道弾の配備に向いていない為、なおさら戦略空軍への核軍備集中が進んだ。重爆撃機の基地は、硫黄島、択捉島など人口が希薄か無人の離島に設置できるからだ。主に割を食ったのは防空空軍と海軍で、二つの軍からは源田将軍は酷く嫌われた。海軍にとって裏切り者に等しいので、もはや憎まれるレベルだったと言われる。
 結果として戦略空軍は肥大化し、ソ連の同種の空軍部隊に匹敵する規模を有するまでになるかに見えた。当然、湯水のように軍事費を使っていた。
 しかしこの時の軍縮で、「鉈」のような大きなメスが入れられる。参議院議員となっていた源田実(※この頃は70才で、軍は退役している。)らは激しく反発したが、日本中の政治家、軍人、その他様々な方面から抑え込まれて反対は許されなかった。戦略空軍自体も反発したが、同じように抑え込まれた。あまりの強硬姿勢に対して、戦略空軍の全廃と防空空軍への空軍統合という話しすら出てしまうと、流石の源田議員も引き下がざるを得なかった。そしてこの時の反発のため、源田議員は総理大臣どころかこの頃には手が届いていると言われた兵部大臣にすらなれないまま政界を引退する事になる。
 戦略空軍は、今までとは大きく違って戦略爆撃機(重攻撃機)と戦略偵察機(超長距離偵察機)、その他関連の装備のみに再編・縮小。戦術機部隊は防空空軍に合流・統合。合わせて防空空軍も組織を大幅に改変し、名称も防空を取って単に「空軍」と改めた。今まで防空空軍と戦略空軍で重なっていた部隊も統廃合し、合理的な編成と配置の実現が可能となった。
 だが、防空空軍は旧陸軍航空隊を母体としてているため、戦略空軍の実質的な合流は反発も多いと言われるた。しかし、もともと地上配備の広域防空部隊(対空ミサイルなど)も組み込まれていた事で、空軍は他国よりも合理的な組織となり、この時の軍縮で一番恩恵を受けたと言える。
 日本全体の核軍備については、敵の目標にされやすい地上配備型の各種弾道弾サイロは全廃。戦術用の移動可能な準中距離弾道弾は残されたが、核弾頭配備は常設では廃止される事になる。地上配備型巡航ミサイルについても同様とされた。そして核弾頭の搭載は、既に導入が進んでいる潜水艦発射型弾道弾(SLBM)と艦載型巡航ミサイル(SLCM)、戦略爆撃機の空中発射型巡航ミサイル(ALCM)に集中される事になった。そして、運用経費のかかる戦略爆撃機の数についても大幅削減された。それでも爆撃機自体の耐用年数が残っている機体が多いため、一部が通常爆撃型、空中給油機型、電子戦型など各種タイプに改造される事とされた。
 この核軍備の改変により、軍縮で本当に一番割を食ったのは各種弾道弾部隊も無くなった陸軍と言われる事もある。

 一方で、気分的に一増一減だと言われたのが海軍だった。それでも新型ミサイルの導入と戦略原潜の増強も行われているので、全く削減一方というわけでもなかった。むしろ核戦力、核抑止力という面では重要性は非常に高まっていた。
 常に金食い虫と言われる海軍は、インド洋常駐艦隊の廃止が決まった。これを受けて、大型空母(攻撃空母)は5隻体制から4隻体制に削減される。その代わり、時期を見て老朽化の進む支援空母(対潜空母)の代替新造が認められ、しかも大型空母と同じ4隻体制とする事になった。ただし、既存を含めて純粋な支援空母は固定翼機の運用を止め、今まで配備されたり有事に配備される航空隊は削減された。また、戦艦については全て予備役編入し、保守要員もほとんど配置しない保管艦(モスボール)状態に置かれる事になる。
 この変更は、ソ連海軍が水上艦艇よりも潜水艦重視になっていた影響だった。当時は理由が不明だったが、ソ連海軍では予算が少ないのか能力がないのか理由は分からないが、大型艦維の持能力が低かった(※理由は両方だった。)。このためスターリン時代に建造された大型艦の稼働状況は悪くなる一方で、1960年代後半には実質的な脅威が大きく低下していた。インドネシア戦争にも大型艦の出動はなく、近代改装すらされない4万トン級の空母に至っては練習艦という名の廃艦状態だった。一時は西側を驚かせた新造空母も、見た目の割に戦力価値は低く、しかも稼働率も低かった。(※艦載機開発で失敗した影響も大きい。)
 そして日本海軍では、大型空母と支援空母を1隻ずつ一つの任務群にまとめて運用する方式を正式採用することになる。アメリカなら1隻の大型空母(攻撃空母)で機動群の全てが賄えるのだが、当時の日本の空母はアメリカの主力空母より少し小さい母艦がほとんどで、また空母を攻撃力として使いたいため、支援任務用の機体をなるべく攻撃空母に載せたくなかったためだ。ただし、海軍が望んだ老朽化の進む大型空母の代替艦建造までは叶わなかった。

 また一方では、核軍備自体の大幅な変更により、戦略原子力潜水艦の増勢が決まった。
 日本の戦略原子力潜水艦は、1960年代半ばまでは巡航ミサイル潜水艦が主力だった。巡航ミサイルの開発が進んでいる反面、潜水艦発射型弾道弾(SLBM)の独自開発が遅れていたからだ。発射実験自体は継続的に行っていたし、潜水艦自体の研究・開発もアメリカ並みに進んでいたのだが、肝心のミサイルの技術が未熟だったのだ。そうして1960年代後半に、ようやく「25式潜水艦発射型弾道弾」が実用に耐えうるまでに完成度を高めて量産配備が実現し、この軍の改革が決まったときは同弾道弾を12発搭載する《薩摩型》戦略原子力潜水艦の整備が進められていた。当初は8隻建造の予定だったが、この時の変更により12隻への増勢が認められ、より完成度を高めた後期型として4隻が追加建造されている。これにより、北海道などにあったミサイル基地が破棄されている。
 そして合理化のため4軍全ての統合運用がいっそう進められる事になり、軍令参謀本部の機能が強化され、4軍の相互交流と合同訓練を一般化し、より効率的な体制が目指される事になる。この統合運用では、既に同じ事が先に進んでいた欧州駐留軍での経験が生かされ、比較的短期間で進められる。

 こうして軍の統廃合と削減、合理化により、日本軍は大きく変化した。軍事の数も、平時で70万人から55万人と15万人も削減される。インドネシア戦争直後だと、30万人もの削減となる。
 各軍ごとだと、陸軍:28万(予備8万)、海軍:14万(予備3万)、空軍:9万(予備1万)、戦略空軍:4万(予備5000)になる。軍人数だけで見れば、アメリカ軍の20〜25%程度にまで減ったことになる。(※今までは3分の1が目安だった。)
 兵士の方は徴兵を止めればそれで済んだが、多くの職業軍人が不要になるため、兵部省が中心になるも政府はあぶれる職業軍人達の再雇用を進めた。もしくは配置転換や早期退官を進める事にもなる。そしてこの過程で、後に生まれるいわゆる「天下り」を行った事が、後々にまで尾を引いたと言われる。
 また志願制採用に平行して、女性の士官学校入学、第一線への配備も進められる事となる。今までは、後方、医療などにとどまっており、全体の比率も3%程度だったが、この時の改革で軍は女性に大きく開放される事となった。
 一方で余剰した大量のパイロットが民間に流れ、日本での民間パイロット供給が容易になるなど経済面でプラスの面がないわけもなかった。また、退役軍人を中核とした大規模な民間警備会社が作られ、以後除隊した兵士、退役軍人の受け皿の一つとなった。そしてその一派がその後さらに発展して、傭兵組織のちのミリタリープロバイダーとなったりもしている。
 そして単なる兵員や部隊の削減より重要だったのが、それまでの他国の防衛負担をそれぞれの国に任せた事だった。これによる経費削減は、兵員削減よりも軍事費の削減に効果があった。
 軍事費自体も、平時でGDPの6%近くインドネシア戦争の最盛時は8%にまで高まっていたものが、一気に3%台後半にまで削減された。数年前の半分以下、以前の平時の6割程度に削減された事になる。国家予算(赤字国債含む)で言えば、30〜40%を直接の軍事費が占めていたのが、20%以下になった事になる。
(※この時期の西側主要国の軍事予算は、対GDP比で4〜6%程度。)
 この結果世界は、日本が米ソ軍拡競争から脱落したと伝えた。また、最初に「冷戦」に「敗北」したのは日本だとも言った。

 当然軍需産業に大きな影響が出るのだが、この後の日本は同盟国を中心とした武器輸出を今まで以上に進めるようになり、しばらくすると「日本=兵器輸出国」という認識が国際的にも広まり、ソ連・東側陣営や西側のリベラルから「死の商人」と言われるまでになる。実際、最も武器を輸出しているのはアメリカなのだが、この時期から西ヨーロッパ諸国も完全に圧倒するようになったのだから、ある意味仕方のない評価と言えるだろう。
 なお、この時の副産物として、輸出を前提として他国にも分かりやすくするため、兵器の固有名に使う年号を「皇紀」から「西暦」に変更する事が決まった。実施は1975年からで、以後は1940年を「零」とするのではなく1975年を「75」とするようになる。このため、かなりの期間日本の兵器名は分かりにくいと言われた。
 なお、日本が潜在的ライバルと見ていた満州は、武器輸出にはそれほど興味を示さなかった。皆無では無かったのだが、満州の企業は武器を輸出をするよりも、他に輸出するべき商品、開発しなければならない製品が山積みだったからだ。
 当時の満州は、軍需を無視できるほどの高度経済成長をしていた証であり、その象徴こそが「コンピュータ付ブルドーザー」とも言われた田中角栄首相だった。

 満州帝国は、戦後国家資本主義と言われるほどの国家体制を構築し、日米を利用して凄まじい勢いで経済発展を開始した。日米から技術と知識を安価もしくは無償で導入し、国内での各種社会資本の建設、加工貿易の促進を、移民など安価な労働力で行い、国力、GDPを短期間で一気に成長させていった。その結果がニクソン・ショックでの為替レートの対ドルレートの大幅な上昇だった。
 そしてオイルショックでも、満州の経済成長はそれほど鈍化しなかった。日本と違って年産6000万トン以上の油田(※康徳油田と遼河油田の合計採掘量)と、露天掘りが出来る大規模な炭田、有望な鉄鉱山、大きな農業生産力があるためだと言われた。豊富な資源は、第二次世界大戦までの日本にとって極めて有用でもあった。しかしそれだけでは、当時の満州には足りなくなりつつあった。食糧生産はアメリカからの技術導入もあってまだ余裕があるが、鉱産資源特に石油はすでに多くを輸入に頼っていた。国産の石油は、質の悪い石油ばかりが消費量の4分の1ほど賄えているだけにすぎない。石油の多くは、日本同様にインドネシア地域やペルシャ湾岸諸国から購入していた。
 満州と日本の決定的な違いは、国内経済と産業体制にあった。そしてそれを実現したのが、歴代首相と機動性と柔軟性を持った官僚団だった。そして日本ダブルショックの時期に満州の首相の座にあったのが、「札束宰相」とも言われた田中角栄だった。

 この頃の多くの日系満州人と同様に田中角栄は移民一世で、満州に渡ったのは1941年だった。ツテを作った日本の理化学研究所(理研コンツェルン)の仕事で満州に渡り、そこで彼のその後の人生を決める鮎川義介と偶然に出会う。
 当初は鮎川のもとで秘書のような仕事をしてさらに評価を高めるも、満州全体の人材不足から鮎川に依頼される形で将校待遇の軍属として東鉄の現地顧問に就任。シベリアへの派兵当初は現場では若造だと舐められていたが(当時24才)、持ち前の能力と行動力、指導力を発揮。そして人心を掴むことで、短期間のうちに満州帝国陸軍の特務少佐として後方の兵站、工兵を切り盛りするようになった。
 そして東鉄職員よりも手際が良く、旧日本軍将校よりも頭が切れる、何より凄まじい行動力を持つため、いつしか周囲の中心的人物になっていた。終戦時には特例で将官相当官の特務大佐(※戦時任官)にまでなっており、周りは「札束将軍」などと呼んでいた。また戦争中は、後方の兵站、工兵関係で「あの少佐」とだけ言った場合は、多くは田中の事を指したと言われる。もっとも当の田中は、「私は戦争が大嫌いだ」と公言していたという。
 そして戦後すぐに、鮎川の勧めで議員選挙に立候補。
 田中は満州では政治地盤のない根無し草になるが、同じような議員は当時幾らでもいたので、既にかなりの人脈を持っていた田中は十分に議員になれる下地を作り上げていた。しかも最初から、莫大な資金もしくは資金源を持っていた。
 なお、当時の満州には実質的に民主政治も政党政治も無く、立憲君主制という建前の独裁に近かった。それでも政党も議会もあり、支那戦争後には上下院の二院制の議会も作られた。しかし与党自由党は圧倒的な与党で、少数野党はほとんどヘゲモニー政党のような状態だった。このため与党自由党内の調整と運営、政府による官僚の統制が大切だが、田中は党の運営も官僚の統制も得意だった。
 そして1957年に39才で通信大臣に就任し、そこでも辣腕を振るうことで報道機関の掌握にも成功。当初は東鉄と「通信戦争」と言われる暗闘を繰り広げたと言われるも、情報通信広報を半ば独占していた東鉄の支配力を弱めて、国家、政府への集中を実現する。この「通信戦争」は、満州帝国としては国家資本主義体制の強化であるとして政財界からも非常に好評だった。しかし実際は、東鉄の裏にいる日本とアメリカ、特にアメリカの情報通信ネットワークからの自立という点で非常に重要だった。しかも巧みな事に、完全に日米を切り離すことを敢えてせずに、その後の利益を保持させると共に一定の服属姿勢を残すなど強かな面も見せた。
 そして短命で終わった辻政権では財務大臣を務めて、1967年についに首相の座を射止める。

 田中政権時代の満州は、一般的には「日本的」だったと言われることが多い。それは彼が「人たらし」であり、主に彼の政権の間だけとは言え、利益誘導や金権体質をもたらしたからだ。しかも彼の利益誘導は徹底しており、その手は彼の故郷である日本の新潟にまで及んでいる。新潟港がシベリア共和国を経由して満州東部と日本の中継点として発展し、東京=新潟間の鉄道が強化され新幹線が整備されたのも、田中が満州の首相でなければ日本政府も動かなかったと言われ、多くは事実だった。しかし日本海を極東の物流網の中核として重視した事自体は、満州の東部、シベリア共和国、日本の日本海側地域の発展に大きな貢献を果たしているため功績の方が大きい。
 だが彼はトップダウン型の政治家であり、そうした点では日本的ではなく欧米的と言える。トップダウンでなくボトムアップでは、トップは調整に奔走しなければならず、心身共に長期政権の維持は難しい。一人の為政者の長期政権が難しいのが、ボトムアップ型政治の日本政治の大きな欠点でもあるが、満州では基本的にボトムアップは許されず、欧米型のトップダウンこそが正しい姿であり、田中もその類型から外れる事はなかった。
 そして田中首相のもとで強力に推し進められたのが、満州での高度経済成長だった。1967年に、軍事力による国威発揚を狙った辻正信が実質的に失脚したのも、一般的には満州財界の意志と言われるが、田中の政治力が無ければ実現しなかったのは間違いない。
 田中首相は、軍事に偏りすぎていた状態を是正し、軍事費に傾きかけていた国家予算配分を、再び経済優先に引き戻した。軍部の反発は弱くはなかったが、既に大きな政治力を持っていた田中に太刀打ちできる筈もなかった。しかし、彼の内閣で国防大臣に就任していた軍人出身の瀬島龍三の力が無ければ、完全に抑えきれなかったと言われる。国家資本主義と言われながらも、満州帝国で軍の勢力は小さくなかったからだ。また、田中首相の時代に実際に核軍備は整備されているので、軍備を軽視しているわけでもなかった。
(※瀬島龍三は満州左遷組の旧日本軍将校ではないが、ロシア戦線に従軍してその後満州に帰化している。)
 そして田中は、インドネシア戦争の戦費、ニクソン・ショックによる通貨高、オイル・ショックというマイナス要因を外需と内需双方の拡大ではね除け、満州経済をさらに躍進させる事に成功した。1974年には、ついに日本のGNPを抜いて、満州帝国が西側世界第二位の座を掴むことに成功した。これを聞いた康徳帝(溥儀)は、大清国の復興が成ったと殊の外喜んだと言われる。
 また、日本時代のコネクションも用いて、日本と満州の宇宙開発統合に大きな影響を与えたりもしている。
(※神の視点より:溥儀は常に最高の医療を受けているので、腎臓ガンは早期発見されて事なきを得ている。)

 1974年度の各国の所得(ドル)
 国名   GNP  一人当たりGNP 総人口(万人)
アメリカ  1兆2,443億    5,580    22,300
満州    1,291億      1737      8,700
日本    1,260億      806      14,300
イギリス  1,146億      2,012     5,700

 以上がこの頃の西側陣営の1〜4位の国になる。この下にフランス、イタリアが続き、さらに少し離れてカナダが並んで、1975年にサミット、先進国首脳会議が開かれる。(※カナダの参加は2回目から)
 そして見て分かるとおり、1974年は僅差で3つの国が並んでいるが、満州がアメリカに次ぐGNPに上昇していた。しかも各国の経済成長率を見ると、満州が最も高かった。当時の各国の産業状態、景気動向、人口増加率などを見ても、満州が最も良好な状態だった。つまりこの年以後、満州帝国が日本、イギリスを引き離していくことをになる。
 また日本については、一人当たりGNPで見ると先進国ではなかった。1974年度だと1,200〜1,500ドル程度で先進国と見なされるので、日本は先進国未満となる。数字だけ見れば、中進国というのが正しいだろう。しかしGNPと軍事力は大きく、しかも自由主義陣営ではアメリカに次ぐ第二の大国という政治的立ち位置でもあるため、サミット(頂上会議)に呼ぶのが当然と判断されていた。(※アメリカは規格外に近い存在)

 日本の事はともかく、満州は世界第二位の経済大国に躍り出たのだが、そのからくりは日本が目指していたもののをずっと効率よく進めた結果と言われる。
 無資源国の日本は、加工貿易と内需拡大の両輪で経済を拡大しなければいけなかった。加工貿易で付加価値を付けた製品を海外に売って、自分たちが必要とする食糧や燃料、原料資源を輸入する形だ。さらに一定以上に国内の人口規模があるので、貿易さえ順調ならば内需拡大を計ることも可能だった。
 満州の場合も似ていたが、スタート時点で日本以上に低賃金労働者が多く、国内に社会資本を作るべき場所もあった。加えてある程度の天然資源もあり、国土の開発で豊富な農作物も収穫できた。そして国が解放路線を強く進めたことと既得権益が少ないため、日本とアメリカからは多くの企業進出と投資もあった。日本とアメリカからの多くの移民も重要だった。国境を隣接する支那共和国、韓王国の移民は、低価値労働者すぎて1960年代には不要になっていたが、ある程度の価値を付与された、つまり初期教育を受けた移民は必要だし、高価値労働者なら尚更だった。それに国力拡大の為にも、人口の拡大は必要だった。
 そして効率的で合理的な産業体制を作り上げ、さらに安価で一定水準の製品を供給することで、アメリカへの輸出をどんどん伸ばした。1950年代ぐらいまでは日本にも同じ事をしていたのだが、一人当たり所得が並び始めると無理になった為、一時期は貿易が停滞。しかも日本に輸出する農作物や原料資源が、国内で消費されるようになって輸出も難しくなった。このため日本との貿易が一時停滞したが、1960年代半ばからは所得や賃金の逆転で、日本に高価値商品を輸出し、日本からは低価値商品や主に軽工業製品を輸入するようになる。

 そしてさらに以後十年ほどは、満州は高い比率の経済成長を続けていく事になる。それに一時的であれブレーキがかかるのは、1985年の「プラザ合意」を待たなければならなかった。


●フェイズ115「支那の混乱(1)」