●フェイズ115「支那の混乱(1)」

 支那地域もしくは中華世界は、極端に言えば1840年の「阿片戦争」から混乱が始まった。そして約百年後の第二次世界大戦で、枢軸陣営側に組みすることで決定的と言える敗戦国となる。連合国から、単なるファシズム政権だけでなく、加えて旧来型の覇権国家だと厳しく断罪され、今まで辛うじて一つの地域だったものを二度と一つになれないようにバラバラに解体された。
 しかもその直後に共産主義国家が誕生し、地域自体も自由主義陣営と共産主義陣営に色分けされた。これでは混乱が収まるものも収まらず、さらなる混乱が続く事になる。その混乱度合いは、イスラエルとアラブ世界の対立よりも、ある意味で悲惨だった。支那中央部で対立しているのは、広義的には同じ民族とされる漢族同士だったからだ。
 まずは、第二次世界大戦後から1950年代までの大きな事件を箇条書きにしてみよう。
 
・第二次世界大戦終戦(1946年)
・支那戦争(1950年〜53年)
・中華人民共和国、大躍進政策(1958年〜)
・第一次支那紛争(1959年〜)
・支那共和国と支那連邦共和国の分裂(1959年)

 以上のように、安定している時期の方が少ない。一番の原因は米ソを中心とした東西冷戦の影響で、支那地域の国々が共産主義国と自由主義国に分裂していたからだ。しかも双方の陣営の国家が地域による格差や違いを蔑ろにする為、地方の反発が強かった。支那共和国から支那連邦共和国が強引に分かれたのも、原因は事実上の独裁政権である支那共和国の中央政府の強引さにあった。
 なお当時の為政者は、支那共和国が孫化、中華人民共和国が林彪、支那連邦共和国がトウ小平。それぞれの指導者の特徴は、孫化が支那民主化の父である孫文の子供。それ以上でもそれ以下でもなく、政治家としては凡庸だった。林彪はゲリラ戦を主体として実際の戦争には無類の強さを見せるも、政治家としては凡庸以下で、酷い評価だと無能を通り越して害悪とすら言われた。トウ小平は、支那世界で10年に一人、100年に一人の逸材と言われるほど有能な政治家で、世界中からは支那地域で最も手強いが最も信頼できる人物と見られていた。しかしトウ小平の支那連邦共和国は、アメリカなど西側陣営が支持する支那共和国から強引に分裂しているため、政治的な不安定状態が続く。しかし1970年に、ようやく支那連邦共和国の国際承認によって確定的となった。だがこの承認は、支那地域で新たな混乱が起きた為、少しでも安定化を図ろうとアメリカなど国際社会が動いた結果だった。
 そして上記した時系から約10年後、1960年代後半になると支那地域に再び大きな混乱が起きる。

 西支那もしくは共産支那と言われる「中華人民共和国」では、建国以来林彪が国家主席の座にあった。しかし彼は政治力や統治能力に乏しく、政治や政権運営の実際は彼以外の者が行う事が多かった。それでも建国以来独裁者で、独裁者、権力者としては相応の能力を有していたので、彼以外の者が取って代わることはできなかった。
 しかし、1958年の大躍進制約による強引な産業開発の致命的な失敗によって実質的に失脚し、1962年に国家主席を辞任せざるを得なかった。辞任が1962年なのは、この間に支那共和国軍が軍事侵攻して「第一次支那紛争」が起きたためで、林彪自身は復権を賭けて軍事指導するも、権力を維持できるほどの軍事的成果は挙げられなかった。
 そしてその後、西支那の国家主席には劉少奇が就任する。劉少奇は、今まで副主席などの要職にあって国を実質的に運営してきていたので、林彪とその取り巻き以外の誰にとっても妥当な選択だった。
 なお劉少奇は、1934年の共産党壊滅の折りに捕縛されるも、その才覚を惜しんで投獄に止められ、その後国の混乱の最中に共産党残党によって救出され、ソ連の元で再建された中華共産党に合流している。そして救出した部隊の長が林彪であるため、この時まで林彪の下の地位に甘んじてきた。だが、林彪が余りにも愚かな政治をしたため、周りに推される形を作った上で国家主席に就任した。
 そして劉少奇のもとで、西支那(中華人民共和国)の再建が進められる。その間北支那(支那共和国)は、南支那(支那連邦共和国)の分裂で西支那どころではなく、西支那はしばらくは国力の回復に努めることができた。
 しかしそうなると、劉少奇の権勢が強まっていった。そして彼の権力が強まることに林彪は我慢ならなかった。とは言え彼自身は政争も党争も苦手で、流石に軍事クーデターは警戒されていた為、林彪自身としては打つ手なしだった。
 しかし劉少奇らは、経済の建て直しのため限定的に市場経済を導入した事を、政治的な攻撃材料にした。
 こうして林彪らの権力奪回を目的とした内政的行動として「文化大革命」が始まる。

 「文化大革命」は正式名称を「プロレタリア文化大革命」と言い、一般的には「文革」と呼ばれた。名目は「古いもの封建的なものを批判して新しい社会主義文化を創る」というものだ。だが実際行われたのは、その時目に付いた文化、伝統の破壊と少数民族への弾圧ばかりだった。そして本当の目的は林彪らの復権と政権奪取で、為政者達による極めて利己的な権力闘争でしかなかった。
 しかし復権を目指すのが林彪とその取り巻きであり、彼らの多くは軍人や軍人上がりの政治家だった。林彪自身も実質はゲリラ屋でしかなく、政治家としての資質には乏しかった。それでいて権力には強く執着しており、その執念が「文革」を引き起こしたと言えるのかも知れない。
 また「文革」では、1934年に壊滅した初期の共産党指導層、特に毛沢東と周恩来を神格化し、それを利用することも行われた。ある意味懐古的な行動で、より古いものに価値を与えるという点で、文革の理念とは相反だった。しかし林彪らにとっては全ては復権のための道具でしかなく、劉少奇を始めとした政権を奪った者達を粛正し、権力を奪回できればそれでよかった。
 そして意外と言うべきか、林彪には扇動の才能があった。今まではする必要がないので分からなかったのだが、この時は存分に隠された才能を発揮する事になる。だが林彪には、扇動の才、扇動を拡大する才はあっても、制御も沈静化もできなかった。
 このため林彪らによって組織された大学生や一部の下級兵士を中心とする「紅衛兵」と呼ばれた人々は、暴走しても為政者達が制御できなかった。そして粛正しなくてもよい者達まで断罪し、無軌道に文化財を破壊し、あげくに全ての知的な者を攻撃対象として、社会そのものを破壊していった。さらには知識習得そのものが断罪され、国中の全ての教育機関は約2年ものあいだ、完全に機能停止に追い込まれる。特にこの国家規模での教育の停止は、その後の西支那地域全体に暗い影をなげかけたほど悪影響を与えた。
 そして全てを無軌道に主導した紅衛兵は、もはや実態すら掴めないモンスターでしかなかった。

 そしてその紅衛兵達も、各派に分裂して抗争を繰り広げる有様で、もはや混沌とした状態に陥ってしまう。しかも一部兵士が参加しているため、武器を用いた抗争に陥っており、臨時首都蘭州など都市のほとんどは、実質的に無政府状態に陥るほどだった。
 このため林彪らは、紅衛兵を混乱の中心となる都市部から、実質的に何も出来ない地方に追い出した。これで都市部の混乱は沈静化したが、このあと紅衛兵に兵士が参加していることが徒となってしまう。林彪らにとっては、紅衛兵に参加した兵士達は事態を自分たちがコントロールするための手段だったのだが、紅衛兵の一部学生に扇動された兵士達は、攻撃性を高めただけのアメーバーのようなもので、目に付く全てを攻撃し始めた。
 それでも紅衛兵が中途半端な地方に放り出せた場合はよかったのだが、これが国境近辺となると彼らは攻撃対象を国外に求める。しかも西支那(中華人民共和国)が国境を接する半分以上が、アメリカを中心とする資本主義陣営に属しており、紅衛兵にとっては敵であり、単なる攻撃対象でしかなかった。しかもここに、不当に占拠された「国土奪回」という大義名分まで加えることができるので、紅衛兵の士気はいっそう高まってしまった。もし支那地域が、かつて蒋介石がとなえた領土を有していれば、このような事態だけは無かっただろうと言われる事も多い。
 そして紅衛兵の暴走を抑えるべき国境近辺の各人民解放軍部隊とその指揮官達は、ほとんど止めることが出来なかった。彼らの部下にまで同調者が出て、場合によっては止めた指揮官が即決裁判で処刑され、そうでなくてもリンチされた上に指揮権を「剥奪」されていった。そういう話しが伝わると、逃げるか同調するより他無く、曲がりなりにも軍隊なので逃亡は組織の性格上許されず、同調するより他無かった。
 かくして、無軌道な人々のうねりが、「第二次支那紛争」と呼ばれる無責任な「革命戦争」を誘発してしまう。

 最初の戦闘は、チベット国境で発生した。
 1969年春の事で、紅衛兵たちは臨時首都蘭州に近いチベット国境を無造作に越えていった。
 チベット国境は山岳地帯、人口希薄地帯なので、どちらの国もほとんど軍備を置いていなかった。主要街道に、僅かに国境警備隊を配備する程度だった。特にチベットの方は、国防を日本、インドに頼るような貧弱な国家財政なので、国境警備は検問程度しかできないほとんど形だけだった。
 しかしチベットの国境警備を本当に担っていたのは、地形を知り尽くしている現地の兵士と、世界最強の兵士と言われるインドのグルガ兵達だった。
 グルガ兵はインド連邦ネパール州(自治国)の山岳民で、ネパールはチベット仏教の教えも信仰されているので、このチベット警備にはうってつけだった。しかも日本やアメリカからは、最新鋭のヘリや重火器を供与されており、世界的に見ても精鋭の兵士達と見られていた。チベットでの欠点は兵力の少なさだが、時間さえあればインドから増援を送り込むことも可能だった。
 そしてこの時、チベット高原の山岳地帯へと無造作に入ってきたのは、紅衛兵に属する人民解放軍だった。彼らは情熱こそ高かったが、装備は貧弱で統制もなく山岳戦の準備もほとんどしていなかった。しかも兵士だけでなく、足手まといでしかない学生も多く含まれており、軍事的にはほとんど価値がなかった。
 しかもグルガ兵による隠れての狙撃、遠距離からの射撃、軽迫撃砲、擲弾筒(グレネード・ランチャー)による砲撃など、散発的で小規模な攻撃でも簡単に混乱を起こした。
 それでも数が多く複数箇所から侵入してきたため、少数の国境警備隊では対処不可能だった。しかし高山地帯に準備不十分な状態でまともな進軍ができる筈もなく、また訓練を受けていない学生も多いので、すぐにもへたり込んでしまう。その間にチベット側は、インドから支援を受けて増援を国境沿いの各所に送り込み、敵を翻弄するには十分な戦力で対処する事ができた。

 チベット国境での戦闘は国際社会にも伝えられ、西支那の無法が世界に知らされると同時に、統制のとれていない攻撃は西支那国内の混乱を伝えた。
 このチベット国境からの知らせは、当時西支那国内の事がほとんど分からない状態だったので、西支那国内の混乱を伝える第一報と言っても過言ではなかった。諸外国は、西支那が政治闘争で内乱同然の混乱状態にある事までは何とか知ったが、当時国交がないので(ソ連すら大躍進以後は大使館を引き払って断絶状態だった。)素人集団の兵隊の群れは西支那国内の混乱を伝える十分な情報だった。
 そして紅衛兵が無様に逃げまどう様は、西側メディアを通じて西支那の林彪らの知るところとなった。この時点では蘭州など政府中央は地方や国境の事を把握できてなく、しかも虚偽の景気のいい報告が上げられる為、「チベット侵攻」は順調に進んでいると思っていた。そこに無様な紅衛兵の映像が入ってきたのだから、衝撃は小さくなかったと見られる。
 支那世界の中心を自負する彼らとしては、辺境蛮族にいいようにあしらわれている状態は、彼らのプライドが許さなかった。
 このため政府中央が制御下に置いている軍部隊の一部を動員し、少なくともチベットの傭兵達に勝利するように、派遣する部隊に厳命した。
 一方でチベットを守る国々も、西支那の行動予測は付いていたので、急ぎ増援を送り込んだ。インドはもちろん、日本、満州、イランからも急ぎ空輸で兵力と装備、物資が送り込まれた。少し遅れてアメリカ、イギリス、フランス、イタリアからも部隊が派遣され、ほとんど西側オールキャストの兵士達がチベット高原に入った。
 しかも「特殊部隊」と言われる部隊が必ず含まれていた為、「特殊部隊の博覧会」や「特殊部隊のオリンピック」などと言われたりもした。状況を見るために、ソ連が極秘にスペツナズを送り込んでいたとすら言われたし、赤いドイツの国境警備隊、イスラエルの特殊部隊も来ていたと言われる。そして世界の精兵達は、世界最高峰の高原の自然環境に苦しみつつも、貴重な山岳戦闘の経験を得る機会を得ている。
 当時インドネシアで戦争が続いているにも関わらず、これほど迅速に各国が精鋭と言える兵力を派遣したのは、予め準備していたのもそうだが、支那情勢を強く警戒しているためだった。
 派遣された兵力は、基本的に高度な山岳戦ができる部隊ばかりで、小規模の攪乱戦を主体としていた。空爆は考慮されず、ヘリコプター以外の航空機はインドから日本軍の長距離偵察機が入ったぐらいだった。しかもこの頃は武装ヘリ(戦闘ヘリ)は、インドネシア戦争で配備が始まったばかりで、チベット方面にはいなかった。
 なお、チベット入りした西側の兵士達は、普段チベットに駐留するグルガ兵達がチベット政府が正式に雇った傭兵扱いだったため、指揮系統の統一のため同じ傭兵扱いとされたが、念のための東側からの政治的な批判回避の目的もあった。
 ただしラマ教の僧侶や貴族を守る際には、グルガ兵が「傭兵(マーセナリー)」ではなく便宜上「召使い(サーヴァント)」扱いされている場合があったため、通常の傭兵とは違うという意味を込めてサーヴァントと言われる事があった。そして英語に疎い国では、最強の兵士の事をサーヴァントと勘違いするような誤解を生んだりもしている。

 そして西支那側は、中央から増援を受けたとはいえ、依然として数の上での主力は烏合の衆どころか半数以上が素人の群れの紅衛兵なので、数は少ないとは言え世界中の精兵に散々に翻弄されて壊乱していった。
 それでも西支那中央は、雪辱を果たすためさらに増援を派遣して攻撃を続行しようとしたが、彼らのいる臨時首都と蘭州での混乱が酷くなったため、チベットどころではなくなっていた。
 だが、事態はこれで終わらなかった。
 チベット国境は守られたが、この混乱中に西支那領内に住んでいたチベット族が逃れてきて、多数が難民として保護された。そして彼らは、西支那で起きている事を伝える生き証人になると同時に、西支那に住むチベット族など少数民族がいかに激しく残酷な弾圧にさらされ、そして虐殺されているのかを訴えた。
 これで国際世論が、西支那で虐げられている少数民族や国民を救うべきではないかという向きになった。とはいえ1969年は、インドネシア戦争でアメリカでは反戦運動が渦巻いており、日本や満州はインドネシアに力を入れなければならない状態だった。
 そして日本やアメリカが身動きできない状況で、支那の情勢は悪化の一途を辿った。

 西支那(中華人民共和国)は、諸外国から一時期中央政府が崩壊しているのではと疑われる状況だったにも関わらず、チベットでの失敗をどこかで取り返そうとする。内政上の問題として、政権奪取したばかりのこの時期の外征失敗は、単に政治的劣勢を意味するだけでなく、政権どころか命すら失う失点になりかねなかった。しかも紅衛兵もまだ勢いを完全に失っておらず、彼らの存在も為政者達にとっては大きな恐怖だった。
 このため権力を奪取(奪回)したばかりの林彪らは、矛先を変えることにした。当然だが、同じ共産主義陣営の東トルキスタンやプリモンゴルではない。最初の矛先は、四川方面で国境を接する国々だ。
 西はチベット、南はウンナン、東は支那連邦共和国がある。
 チベットには、負けたばかりだし西側諸国が警戒を強めている。西側諸国も、今度は四川方面の山岳地帯を狙うのではと警戒していた。
 ウンナンは一番弱いが、弱いことは西側諸国も承知しており、ウンナンを自分たちの「盾」という事を理解している東南アジア諸国に資金援助することで防衛を任せていた。特にベトナムは、インドネシア戦争で強兵として知られるようになっていたし、鉄道でウンナンと直接結ばれているため、西支那としてもあまり相手にはしたくはなかった。
 選択肢は南支那(支那連邦共和国)しかなかった。
 しかも南支那は国際政治上で不安定なままで、北支那とも対立状態だった。西側諸国も表だって支援は難しかった。一応、四川盆地から伸びる長江流域に支那戦争後に設定されたDMZ(非武装地帯)があったが、山を挟んだほとんどの境界線は特に何もされていなかった。
 西支那としては、陽動で各所のDMZに一般の紅衛兵を送り込んで各地の軍を引きつけている間に、紅衛兵に属する兵士達に山越えさせて多少の軍事的成果を挙げれば、主に政治的問題はクリアできた。「勝った」という名目があれば、内政的な言い分が立つからだ。

 1970年春になると、まずは北支那方面のDMZに一定規模の紅衛兵が集まる。当然ながら北支那と駐留するアメリカ軍が警戒を強めた。警戒を強めたのは日本、満州も同様で、動員の為の予備命令が各国で発せられた。
 しかし四川方面の長江流域では睨み合いをするだけで、越境などの行動にでる事はなかった。だが、南支那や日米などが気付きにくい山岳部を選んで、多数の兵士達が越境していた。この越境は、西支那の兵士達が山麓の村落に出現し、それが報告されて来るまで気付かれる事はなく、しかも複数箇所で多数の兵士が越境に成功していた。
 越境した西支那の兵士達は、村落を適当に攻撃しつつも占領地を広げることもなく移動しながら戦った。南支那が一番に警戒した未知の補給路があるわけでもないので、占領したところで掠奪物資以外での補給が続かない為だ。特に武器弾薬の補給は望めなかった。このため、南支那が本格的な撃退の部隊を派遣する頃には、掠奪、虐殺された村落だけを残して越境した兵士達は西支那へと引き返していった。
 そして西支那の林彪ら指導部は、越境して一方的に暴れ回った記録を「戦果」として派手に宣伝する。

 南支那では、越境されて国境近辺の村落が荒らされた事に少なくない衝撃を受けた。そして民衆への目に見える対策として、四川方面の西支那国境近辺の兵力を大幅に増強し、国境パトロールも大幅に強化した。
 これに対して西支那は、「不当に領土を占める反乱軍による軍事的挑発」と激しく非難するが、それ以上攻撃する事は無かった。
 そして南支那の戦力の多くが西に向く事は、北支那にとってチャンスだった。軍事侵攻などしなくても、軍事的圧力をかけるだけでも大きな政治的効果があるからだ。そして北支那が南支那に戦力を向ければ、西支那の黄河方面の受ける軍事的圧力が下がる。内乱寸前の社会の混乱で軍事力も大幅に低下している西支那としては、大きな成果が得られた軍事的行動となった。
 しかし西支那の林彪らは、相手が積極的に動かないという前提で組み上げられた謀略であったのだが、相手側も自らの内政の問題から簡単には弱腰を見せられないと言う事を軽く考えすぎていた。

 次に行動を起こしたのは南支那だった。北支那も臨戦態勢を強化したが、駐留するアメリカ軍に行動を監視された状態のため、前回のように自分たちの側から安易に戦端を開くことは無理だった。
 南支那(支那連邦共和国)の行動は、ある意味で国家として正統な権利の行使だった。
 要するに報復攻撃を実施したのだ。
 攻撃方法は空爆。相手がまともに空軍が機能しなくなっている事を見透かしての行動だった。南支那空軍も、北支那から無理矢理分離した事と、分離時点で軍の主力は北支那の領域にいたため、あまり有力な戦力は無かった。さらに分離後は、北支那やその他多くの国が独立を認めないため、他国から武器を買うことも難しかった。
 このため最低限の防衛戦力すら不足する状態で、仕方ないので第三国経由で中古を密輸したり、闇ルートで武器を手に入れているような状態だった。だからこそ西支那も、安易に南支那を攻撃したとも言える。南支那は、第二次世界大戦中のプロペラ機を世界の中古市場で買い集めて運用していたりもした。
 しかし政治的に安定していない上に軍事力が不足していることを内外に知らせる形になった事は、南支那にとって政治的に受け入れられる事ではなかった。また最初に攻撃してきたのが西支那というのは、南支那にとって非常に都合がよかった。すぐに引き揚げたのはむしろ残念なほどで、この時の空爆は防衛力がちゃんと存在することを内外に知らせると同時に、軍事的緊張を高めてアメリカに肩入れさせる事を目的としていた。また自らが被害者であることを国際社会に印象づけるために、被害を受けた村落に海外のメディアを積極的に引き入れた。
 そして南支那の空爆に西支那も反応せざるをえず、報復の空爆を実施。後は、散発的な空爆や越境砲撃の応酬となり、国境紛争は長期化の様相を示した。
 当然ながら両軍は国境線の軍備を増強させ続け、北支那方面の軍を引き抜き、後方の予備兵力を投入していった。
 そして北支那と南支那の境界となっている支那中部を流れる准河の、南支那の軍事力は首都など主要な都市部を占める沿岸地域以外でがら空きとなり、装備の劣る国境警備隊だけになってしまう。
 南支那としては、この状態でも北支那は現地駐留軍を含めたアメリカが押さえ付けるので、軍事的状況が悪化しても北の威圧までだと想定していた。
 しかし、自らの国境線の西と北での軍事力の大幅な減少を前にして、主に准河に面する地方軍事組織(旧軍閥)が我慢できなくなってしまう。しかも、これらの地域は北支那の大人口地帯に属しているため、国内での政治的権限も大きく、北支那中央も国内的理由からある程度行動を黙認せざるを得なかった。
 そして支那の大地において、これで動かない理由はどこにも無かった。
 彼らは依然として前近代の精神世界に活きていたからだ。


●フェイズ116「支那の混乱(2)」