●フェイズ116「支那の混乱(2)」

 1970年10月、北支那(支那共和国)の河南省駐留軍(旧軍閥)が、突如准河近辺の境界線を越えて南支那(支那連邦共和国)の武漢方面に向けて進撃を開始する。
 相手が弱体なのが分かっていたので事前空爆、事前砲撃は行わず、戦車や装甲車(米軍の旧式装備のお下がり)を先頭に立てたうえでいきなり進軍を開始した。そして北支那の軍隊は、地方は中央政府からの統制が弱いだけでなく、採算や補給も自力で行う傾向が強いため、当面の進軍に必要な兵站物資も持っていた。しかも彼らの旧来の戦争ルールに従えば、進軍で不足する物資は現地で調達、つまり掠奪すればよいだけだった。それが彼らが数千年積み上げてきた「伝統」だからだ。
 彼らに「近代」や「現代」という言葉まだ早かった。時の軍事評論家達は、そうした言葉を多く残した。

 そしてこの異常事態に、支那に関わる全ての国が慌てた。
 今までは内乱と国境紛争だが、本格的な侵略行為だったからだ。しかも一応は西側陣営に属する国もしくは勢力同士の戦闘で、東西冷戦構造という米ソが中心になって作り上げた対立構造を、真っ向から否定する状態だった。さらに当時は、インドネシア戦争が西側不利の状態だったので、西側陣営としては軍事的に身動きが取り辛い状態での大規模戦闘の発生は、もはや悪夢と言えた。
 西側諸国が、北支那だけでなく支那中央に内心で愛想を尽かしたのはこの時だと言われるほどだ。
 アメリカは日本、満州など連名で、北支那に即時戦闘停止と境界線までの後退を、事実上の様々な制裁を行うと脅すほど極めて強い態度で求めた。本当は国連も動かしたかったが、当時は南支那が正式に独立国と認定されていなかったため、例え形式でも北支那内での戦闘と扱わざるを得なかった。西支那も、南支那との紛争は、あくまで北支那への軍事的懲罰という姿勢を崩していなかった。
 そして北支那政府だが、アメリカなどに対しては現地軍が中央の統制を離れて暴走しているため、即時停戦は極めて難しいと返答。北支那の外交特使も、詳細を説明するためアメリカ(+国連)に緊急派遣られた。実際、北支那政府としてはその通りで、前線となった現地に派遣した中央政府の大臣や官僚は相手にされていなかった。場合によっては派遣された中央政府の者が、軟禁されたり酷い場合は殺害されてすらいた。このため、中央の統制がきく警察や軍隊を用いて強引に解決しようにも、現地の中枢部もそれを見越して自らの近辺の防備を固めていた。こうなると大軍を用いて鎮圧するしかないが、そんな事をすれば進軍している部隊がどんな行動に出るか予測がつかなかった。そしてそうなれば、今度は内乱の危険が大きかった。
 しかも政府・軍中央も方針が分裂しており、一部強行的な政治家と軍の多くは、現状で起きつつある混乱を南支那との「再統合」の千載一遇の機会と捉えていた。このため軍は、現地に実質的な増援部隊や武器弾薬、物資を送り、密かに進められるだけ進めるように指示を出していた。アメリカの求めるシビリアン&コントロールなど、紙の上にしか存在しない状態だった。
 この状態にアメリカなどは、支那共和国(北支那)政府に責任能力がないという自らの判断を突きつけて、南支那への支援を決定。すぐにも兵器や物資の供与などの緊急支援を開始する。また西側陣営は、国連を中心に国際社会での活動を急速に活発化し、北支那を無視して1970年9月には支那連邦共和国(南支那)の正式承認へと踏み切る。南支那の承認は、アメリカなど西側諸国が倣ったが、ソ連など社会主義陣営の国々とソ連寄りの第三国の一部は行わなかった。これで内戦ではなく、国家間の戦争もしくは紛争状態が成立し、各国が政治的に介入しやすくなる。
 南支那の承認に対して、北支那はアメリカなど極めて強く非難。即時撤回を求めるも、アメリカは北支那に対して戦争状態の即時停止、境界線への全ての軍事力の撤退を逆に求める以上の行動を取らなかった。水面下の交渉では、北支那政府が撤退と承認取り消しをバーターにしようと動いたが、アメリカは北支那政府が軍の全てを統制化に置く事が第一とした。それどころか、軍を引かない場合、最悪侵攻している北支那軍を攻撃するとまで伝えていた。
 また場外では、米ソの間に何度も秘密交渉が持たれ、後ろで互いの核兵器や「全面戦争の危険性」をちらつかせつつ従来通りの境界線の確認が行われた。しかしソ連もアメリカの足を引っ張る行動に怠りはなく、西支那に秘密裏に援助を贈ったりしている。

 そして西側陣営の混乱につけ込もうとしたのが、国内で混乱が続いている筈の西支那(中華人民共和国)だった。
 黄河方面の北支那軍の多くが南へと移動したため、彼らの戦線正面の兵力は大幅に低下していた。現地アメリカ軍は動いていないが、長いDMZに兵力を配置するには北支那の大量の歩兵が必要不可欠だった。だが、黄河方面の西支那の軍事力が以前の状態に戻ったという情報もなく、西支那での粛正から国外逃亡や亡命した多数の人々からの話を総合しても、内政も乱れたままという噂しか届いてこなかった。このため北支那政府は、安心して南支那への進撃をなし崩しながら強化できた。
 9月には自然境界線から200キロ近く進軍し、武漢前面までの前進に成功する。南支那にとっては、存亡の危機に等しい状態だった。もし武漢が陥落して長江が遮断されれば、四川方面の西支那軍と対峙している軍主力の一つに対して、南京方面からの補給ができなくなる。南部の内陸側からの道は残されるが、それでは不測の事態には対応できない。それ以前の問題として、武漢陥落は大動脈である長江の分断で、そして国家分断に等しい。内政的に安定しているとは言えない状態なので、地方の軍閥が北支那に寄りを戻そうとする可能性も十分に考えられた。弱体を見せれば、四川方面の西支那軍が本格的な軍事侵攻をする可能性も懸念された。
 こうなると三つどもえの争いに等しいが、武漢方面での戦火拡大は西支那の共産主義国家が求めていた状態の到来でもあった。
 南支那への進軍にのめり込んだ北支那に対して、積年の恨みを晴らす千載一遇の機会だと考えた。そればかりか、支那戦争で果たせなかった北京への進軍すらできるのではないかと目論んでいた。
 西支那にとっての懸念は、黄河戦線(DMZ)のやや後方に配備されているアメリカ軍の陸軍1個軍団(機甲師団、機械化師団各1個師団が中核)と満州南部に配備されているアメリカ空軍の2個航空団(F-4など新鋭機ばかりが100機程度)の存在だが、アメリカが守るべき北支那自体が無茶苦茶をしている状態で、本気で戦争をする可能性は低いと考えられた。そして西支那側から攻める場合は、なるべくアメリカ軍を相手にしない事を念頭とした作戦が計画される。
 国内では西支那政府の努力により、北支那と南支那が本格的な仲間割れを起こしたと宣伝され、国土統一の好機到来として国境への参集を呼びかけた。これに各地の軍だけでなく紅衛兵も応え、続々とDMZへと集まった。そして今までとは違って、宣伝が始まった頃から国外脱出する者はいなくなり、諸外国は西支那の情報は得られなくなった。
 一方では、四川方面での北支那軍の活動が非常に低調になっており、一部の境界線やDMZでは軍の引き揚げが確認された。このため南支那軍は、武漢に迫る北支那軍の迎撃のために四川方面から増援を送り込んだ。そして武漢方面の戦線は膠着するのだが、この時点で西支那軍が一気に行動を開始する。
 誰もが他者を利用し続けた結果だった。

 だが結果として、1971年春の西支那の人民解放軍の北支那への大規模な軍事侵攻は実施されなかった。
 復権した林彪は、自らの力を発揮するには軍事に訴えるのが近道だと言うことを自覚していた。だからこそ、この時の混乱を引き起こしたとも言える。しかもインドネシアでのアメリカ軍の醜態を見て、アメリカは大きく動けないと楽観していた。
 しかし林彪以外の多くの者は、アメリカにだけは本気で戦争を仕掛けてはいけないと考えていた。今度こそ、核爆弾が自分たちの頭上に落とされると考えていたからだ。一定程度以上の年齢の者は、支那戦争での米軍の所行を忘れてはいなかった。しかもこの混乱で、アメリカも余裕を無くしている事は十分に理解できていた。だから米軍は、必ず核兵器を使うと考えていた。
 だから林彪らの行動を止めようとする者は多かったのだが、彼らの多くはすぐにも紅衛兵らによって弾圧や粛正の対象とされた。もしくは、何も出来ない状態に追いやられていた。そして一旦は反対する者がいなくなったので、林彪らは攻勢を発動する直前まで持ち込むことに成功する。
 しかし反対する者達も必死だった。しかもここに、「文革」で林彪らに失脚させられたり親族を粛正されたりした人々が合流し、行動を起こせるだけの人材と手段が揃うことになる。
 一方で林彪らは、攻勢に努力と注意を注いでいた事もあって足者が疎かになっていた。

 1971年9月5日、林彪と彼の側近らは前線司令部へ特別列車(装甲武装列車)で移動中のところを列車ごと爆殺されてしまう。しかもこの爆破は、単に線路に爆弾を仕掛けるというのではなく、密かに配置していた152mmの野戦重砲1個中隊6門を用いた砲撃で全てを吹き飛ばすと言う徹底したもので、その後の調査で林彪の死体はまったく発見されなかった。このため一時は暗殺が失敗したと考えられたほどだった。しかし暗殺は成功しており、その後林彪が出てくることはなくなった。しかも列車に同乗していた林彪の側近や政権幹部の多くも死亡しており、暗殺は完全という以上の成功を収めた。
 林彪も暗殺は警戒して飛行機など脆弱な移動手段を極力取らず、しかも十分に護衛を付けた装甲列車を利用したが、敵対者達はそれ以上の行動に出た結果だった。
 しかし林彪暗殺は、同時に西支那(中華人民共和国)の国家元首以下、国の主要な大臣や軍幹部の多くも居なくなった事を意味していた。何しろ多くが列車に同乗していたからだ。しかも林彪ら以外で政権を担える者の殆どは、林彪らが粛正したばかりだった。
 そして暗殺を企てた者達は、一応はクーデターを企図していたのだが、そもそもの目的がアメリカ軍と戦争しない事を目的としての行動だったため、クーデター準備の多くが不十分だった。しかも国を率いていけるほどの人材はおらず、とにかく林彪を排除しようと言う人々の集まりに過ぎず、悪く言えば呉越同舟でしかなかった。
 そしてその後の行動でも現政権を担っていた林彪派の生き残りの排除にも失敗し、西支那は内乱状態のまま為政者不在に陥ってしまう。文革の中で官僚の多くも失われていたため、中央政府はもはや崩壊寸前だった。
 この時点での一番の問題は、政権中枢が失われた状態で北支那の境界線辺りに大軍と多数の紅衛兵が集中している事だった。林彪らの攻勢計画が最終段階にまでさしかかっていたので、物資の備蓄もほとんど終わっていた。これを直接制御する軍中央は、軍の最高司令官が林彪で、その他幹部も同時に殺害された彼の側近達だったため、統制能力は大きく低下していた。

 要するに、まともな中央政府は存在せず、軍と暴徒(紅衛兵)は暴走可能な状態で放置されていた事になる。幸いと言うべきか、彼らは北支那とのDMZには向かわず、西安そして臨時首都蘭州へと向かった。紅衛兵らの多くはもともと都市部の若者が中心だったし、軍の多くは命令でDMZに移動しただけで、命令系統が事実上無くなったので、取りあえず駐屯地なりに戻ろうとしたのだ。これだけ書くと意外に冷静と言えなくもないが、まず彼らは移動するために攻勢のため備蓄していた物資の奪い合いを始める。
 そして権力闘争ではなく武力闘争になると、軍人達の方が圧倒的に優勢だった。虎の威を借るだけの我がまま勝手な紅衛兵は真っ先に倒す対象とされ、紅衛兵は今までのツケをその身で払うことになる。その暴力の中で軍人達は、かつての軍閥の私兵のようになってしまう。そしてそうなれば、彼らは武器を持った野獣でしかなかった。
 一時期は落ち着きを見せていた西支那国内は、これでさらなる破壊と荒廃が進んでいく。臨時首都蘭州には中央の制御下の軍隊がいたが、彼らは権力者達ではなく自らを守るために蘭州とその周辺の食糧備蓄基地、社会(都市)の維持に必要な場所、軍事拠点を守ったが、それは生存本能で行ったようなものだった。
 そして無政府状態が出現すると、西支那側のDMZは有名無実化。西支那から各地に向けて、国内での暴力と混乱から逃れるために難民の群れが押しよせる。それまでの文革で農村の多くが荒廃しており、酷い場所は放置された畑で野生状態となっていた僅かな食糧を入手して飢えを凌いでいる有様だった。しかし、長いDMZは境界線の鉄条網の両側2キロメートルにわたって地雷原となっており、誰も入れない状態だった。このため無理に越えようとした西支那の市民は、地雷の餌食となってしまう。
 この事態に北支那政府は、アメリカに対してDMZを越えてくる者の受け入れよりも、すでに無政府状態の西支那の領域に入っての救助活動を求める。しかしアメリカは認めなかった。そんな事をすれば、収拾がつかなくなるのは目に見えていたからだ。完全に西支那を飲み込めるだけの国力と軍事力がない限り、決して行ってはいけない事だった。誰も何が起きているのか分からない以上、放置して封鎖するのが一番正しかった。また東側の勢力圏にアメリカ軍が入ることは、米ソ冷戦構造を考えると極力避けるべきだった。DMZの向こう側は、ソ連のテリトリーだからだ。
 不十分な状態のまま介入しても駄目だという事については、ソ連も同じ事を考えており、可能な限り周辺国の国境を封鎖した。しかしアメリカよりは干渉しやすい政治的環境だったため、万が一の事態に備えての近隣友好国への支援を行い、さらに西支那国内に対しては輸送機を使って食糧や医薬品を文字通りばらまく事で、難民が国境に向かうのを阻止した。加えて、徐々に出はあるが体制を整えて、西支那に介入する準備を進めた。

 一方、西支那の中でもある程度マシな状態の四川地域では、自衛のため北部の西支那の本土と言える地域とのつながりを拒むようになる。紅衛兵も北部からやって来ていた者は事実上排除、粛正し、北部との数少ない交通路を遮断する。そうした上で、政治的自立性を高めた。そうすることで生き残る可能性を高めようとした。
 これを可能としたのは、大きな山に囲まれた地形と四川盆地の巨大な人口だった。
 四川は西暦が始まるより以前から支那地域有数の穀倉地帯にして大人口地帯で、だからこそ歴史上でも注目されてきた地域だった。そして山で囲まれて他と隔離されている事から自立心も強く、この時も自立へと大きく舵を切った。そして大人口からひねり出した資金で事実上の私兵を整えて、数少ない西支那中央との連絡路を実力で封鎖。これらの行動に、四川の全ての旧軍閥、地方政府が賛同。事実上の半独立地帯へと変化する。
 そして翌年の春まで、全ての地域での西支那中央部の封鎖状態が維持される。
 冬が来ると、DMZに溢れた民衆も助けがないと諦めて散り散りとなり、四川以外の西支那では飢えと冬の寒さが、人々を静かに殺戮していった。ソ連の空中投下も焼け石に水で、投下物資を巡った凄惨な奪い合いを助長するばかりだった。
 そして春になると、ソ連軍を先頭として東側陣営が「救援」の名目で本格的な介入を開始。事実上の「占領軍」となった膨大な数のソ連軍(※最盛時30個師団以上)の「指導」によって、残骸の中から再建された中央政府を取りあえずの中心として、中華人民共和国は何とか統制を取り戻していく。
 しかし今まで支配してきた中華共産党は一度解体され、中華社会党が新たに編成される。連動して人民解放軍も国防軍として再編成しようとしたが、組織の性格上完全に解体する必要があったため当面は諦められた。それでも憲法を大幅に改定させて、人民解放軍は党の軍隊ではなく国家の軍隊と定義された。
 そして飢えと殺戮に疲れ果てていた人々は、新たな支配者と統治体制を歓迎して受け入れた。
 これをアメリカは、ソ連との間の裏取引もあって終始静観。政治、軍事双方から、北支那にも一切手を出させなかった。

 問題は、西支那中央から政治的に自立していた四川地域だった。一時はソ連の指導で西支那への再統合が進められるが、再生されたものとはいえ西支那政府への不信が消えない四川は、少なくとも中華人民共和国(西支那)からの自立を図ろうとした。ソ連に対しては、社会主義陣営に止まる事は問題ないとするも、無理矢理再統合を図ろうとするなら西側に走ることも辞さないと脅す。
 そして現実問題として、国家と文明の残骸になりかけた西支那中央に、自立心の強まった大人口地帯は統治できる場所でも無かった。
 そして政治的、軍事的にソ連に押さえ付けられた西支那は、四川自立の動きを止めることができなかった。と言うより、許されなかったし、そんな力は微塵も残されていなかった。
 結局、1978年に四川地域は、四川人民党を中核として四川民主共和国として独立。西支那(中華人民共和国)も無理矢理認めさせられ、新たに社会主義国家が誕生する運びとなる。
 そしてこれを、意外にも国境を隣接することになる支那連邦共和国(南支那)が承認。支那共和国(北支那)は自ら以外全て認めないのでそのままという、西側にとっても複雑な政治状態をさらにもたらしてしまう。
 アメリカなど西側諸国も当初は承認したくは無かったが、1984年にソ連など東側の支那連邦共和国承認を半ば交換条件として受け入れ、四川民主共和国は国際的にも認められて国連の席を確保した。

 なお、1960年代半ばぐらいから、古くさいままの農業機械や農法の問題(※ソフホーズやコルホーズ(集団農業や国営農業)の問題ももちろんある。)からソ連では農業生産全体が停滞しており、自らの国民を養えなくなりつつあった。このため西側諸国、特にアメリカからの食糧輸入をする必要性があった。これがソ連の側から「デタント(緊張緩和)」を求めさせた大きな原因の一つで、この支那地域の混乱でもソ連が大人しい態度を取った大きな原因ともなっていた。ソ連には、西支那の混乱を本当に統制する力も無ければ、民衆を救う食糧を十分に用意する能力も無かったのだ。遅れる形で介入したが、それは同地域の人口が飢餓で自然減少した事を確認したからでもあった。
 
 これ以後の支那中央は、北支那(支那共和国)、南支那(支那連邦共和国)、西支那(中華人民共和国)、四川民主共和国と四つに分裂。中華世界の統合はさらに遠のき、それどころか漢民族はさらに分裂し、より複雑に対立していく事になる。
 この時点での国力は、大まかに北支那:南支那:西支那:四川=3:4:1:2で、ほぼ人口に比例していた。経済力はどこも途上国でも最貧国かそれに近いため最低ランクだった。その上多くの場所が戦火や難民で荒れており、強いて言えば軍事的に一番消極的な南支那が国力で見ると一強だった。
 このため戦乱が一応落ち着いたに過ぎない状態で、地域の安定にはほど遠かった。
 しかも北支那の国家元首だった孫化が、81才で1973年に没してしまう。これ以後北支那は権力闘争に入るが、誰も抜きん出ることが出来なかったため、結果として高級官僚を中核とした集団指導体制による疑似独裁が進んでいく。これは皮肉にも、ソ連が再生を進めた西支那の中央政府と似ており、体制が違うはずの北支那と西支那が、経緯は違うが共に同じ政治形態を取るという皮肉をもたらした。しかもどちらでも軍に対する不信が非常に高まったため、軍の権限が非常に制限されるという独裁体制では珍しい状態になった。反面、内務省管轄下の警察力が非常に高められ、軍に準じるほどの組織にまで強化、拡大されてもいった。
 そして北支那では中央官僚専政の形で独裁が急速に進むが、アメリカにとって都合の良い政府とはならなかった。勝手なことばかり言って支援や援助ばかり求め、しかも周辺諸国とは外交的に衝突ばかりするようになった。そしてアメリカの言葉に、北支那は反発を強めて反米意識も強まった。当然と言うべきか、アメリカ製品の売れ行きも落ちた。
 このためアメリカにとっての北支那の市場価値はさらに下落し、西支那の極端なほどの大幅な国力低下と一応の混乱収拾を機会として、休戦状態だった支那戦争の終戦宣言が米ソの間で決められる。1975年の事だった。ただし両国の衝突を避けるため、DMZは国境線として残されることになった。
 そして終戦を受けて、北支那駐留のアメリカ軍の多くが両者合意の形で撤退が決まり、第一次支那紛争で取り上げられた軍の指揮権も北支那政府に返還された。アメリカとソ連との間にも、この件に関して様々なやり取りが行われる事となった。
 正直なところ、米ソ両国共に支那での外交に疲れ果ててしまったのだ。

 なお、支那の混乱が一つの結末へと向かう時期、アメリカの大統領はロバート・ケネディだった。
 キューバ危機の頃のジョセフ・ケネディ大統領の弟の一人で、1968年に兄の一人のジョンが選挙活動中に暗殺されて以後は、民主党の期待の星とされていた。そして二人の兄の死を糧として、1972年の選挙では二期目を狙う共和党候補のリチャード・ニクソンを破って勝利。共和党政権を一期で終えさせ、再び民主党に政権をもたらした。
 しかし1972年秋の選挙は、アメリカ全体が混乱した中で行われた。インドネシア戦争でのアメリカの政治的な敗北、国内での公民権運動に伴う社会的混乱の継続、さらにはニクソン・ショックとそれをもたらしたアメリカ経済の衰退、問題を上げればキリがなかった。
 ニクソン・ショックがらみでは、20世紀に入ってからずっと友好関係だった日本との関係が悪化。さらに自らの経済植民地と思っていた満州の躍進と自立促進が重なり、アメリカのアジア外交が大きく揺らいだ。加えてインドネシア戦争では、アメリカ軍が実質的に逃げ出したのに、日本軍などアジア各国は踏みとどまって優位に戦争を終えることができたので、さらに日本との関係がおかしくなった。
 そしてインドネシア戦争で日本、満州などに大きな借りを作った為、その後アメリカは日本などに気を遣わねばならず、日本の大規模な改革と軍縮に伴う軍備負担のシフトでは、アメリカの負担が大きくなった。
 だがこの時期のアメリカは、インドネシア戦争の反動とソ連とのデタント(緊張緩和)もあって、軍備を抑えている時期だった。このため一見穏健な、逆の見方をすれば弱腰な動きが続いた。デタントはロバート・ケネディだからこそ出来たと高く評価される反面、彼は「弱いアメリカ」の代表と徐々に見られるようになった。それでも76年の大統領選挙にも勝利したが、政策自体はさらに消極的にならざるを得なかった。支那地域での動きが弱く後手後手だったのも、ロバート・ケネディ政権だからだと言われた。
 サミット(先進国首脳会議)の開催も、アメリカ市民には西側の結束の強化よりはアメリカの弱体化を印象づけた。
 そこにきて2度目の中間選挙で大敗して以後は完全なレームダック状態で、急速に台頭してきた満州と、不死鳥のように復活し始めた日本の「アジア・ペア」に政治的に押されるままとなってしまう。79年に成立したイギリスのサッチャー政権からは、もっと強気にアクティブに動くように注文を受けてしまう始末だった。
 このためロバート・ケネディ政権も遅ればせながら巻き返しを図り、支那地域に対する政治的姿勢を大きく転換する事になる。だが遅きに逸しており、アメリカとしての本格的な動きは次の政権に委ねられる事となった。

 そして1980年代以後のアメリカは、北支那よりも余程話しの分かる南支那(トウ小平)との関係を強めるようになる。それは満州、日本も同様で、南支那との関係強化と進出を進めた。そしてこの事が余計に北支那の反感を買い、北支那と西側諸国との関係が冷え込む事となる。
 このため北支那は西側世界の中で孤立していったが、西支那が経済的、国力的に壊滅した上にその後も酷く停滞を続けたため、北支那の孤立はソ連にとっても都合がよかった。反面、西支那の力が無くなったので、アメリカなど西側諸国は北支那を放置しても問題ないと捉えた。
 合わせ鏡の状態ではあるが、こうして支那中央部の混乱とその結果生まれた新たな分裂構造の固定が世界的にも受け入れられ、そして人々は支那の事を徐々に気にしなくなっていく。
 誰もが支那にだけ構っている場合ではなかったからだ。


●フェイズ117「イスラム世界の混乱(1)」