●フェイズ117「イスラム世界の混乱(1)」

 第二次世界大戦後から1970年代まで、アラブ地域での混乱と言えば、全ての面で異分子であるイスラエルが原因となっていた。スエズ運河が原因となった事もあったが、これも問題の根本はイスラエルにあった。
 しかしアラブ諸国が何をしようとも、イスラエルを倒すことはできず、あまつさえ戦争には負けっ放しだった。イランが対イスラエルで他のアラブ諸国と連携するようになっても、結果は変わらなかった。イスラエルの国力、軍事力も年々増加し、もはやアラブ側からの正面からの軍事的挑戦は不可能となりつつあった。このため今までアラブの盟主を自認してきたエジプトは、現実路線の選択を取るようになり、1979年には「エジプト=イスラエル平和合意」が成立する。しかしエジプト独自の行動で、エジプトは他のアラブ諸国から強く非難され、エジプトは外交的にアラブ世界から一時的に孤立化する。
 そしてアラブ世界自体だが、この時期から混乱がより大きくなっていく。

 1980年代のアラブ世界の混乱と言えば、やはりソ連による「アフガン侵攻」と「イラン・イラク戦争」になるだろう。しかし混乱の予兆は、もう少し前から始まっていた。
 アラブ世界もしくはイスラム世界の不協和音は、基本的にはイランが原因していると言われることが多い。
 同じイスラム教でも多数派のスンナ派(スンニー派)とは違うシーア派と言われる宗派で、しかもイランはペルシャの名で世界的にも知られた古代から続く古い歴史を誇り、ペルシャ人として民族のアイデンティティーが強かった。自分たちはイランもしくはペルシャという意識が強かったのだ。地域的にも、西アジアではあってもアラブではなかった。
 加えて隣国イラクには、イランと同じシーア派の住人が多数派で、イラクとは国境問題も抱えていた。さらには、近隣諸国と同様にクルド人問題も抱えていた。
 そして日本帝国が導いた形のイランの近代化と経済発展が、皮肉にもイラクとの戦争の最後の切っ掛けとなった。経済発展の続くイランに、イラクやシリアからシーア派の移民の流れが出来つつあった。さらにはイラン側から市民レベルでの影響力の拡大までが広がりつつあった。
 そしてイランの近代化政策が、アフガニスタンの混乱を呼び込んだ原因の一つと言われることがある。
 時系列ごとに順に見ていこう。

 古代から近代に至るまでペルシャと言われたイランは、第二次世界大戦でイラン帝国(パフラヴィー朝)が、欧米列強の勢力圏の関係から欧州枢軸側に荷担したが、かなり積極的に欧州枢軸側に協力した事で連合軍の怒りを買い、軍事占領の後に王朝の打倒と民主共和制の導入が行われた。王朝打倒の真意は当時の国王に原因が多いとも言われるが、連合軍の総意は王政から共和制への移行だった。
 そして日本帝国の勢力、分担とされると、日本はかなり真面目にイランの新国家建設と近代化に力を入れる。日本としては遠隔地から安定して質の高い石油を大量に手に入れるためだったが、結果としてイランは後に「イラン・モデル」と言われるほどの近代化が実現される事になる。出光佐三率いる鈴木財閥などは、石油開発の傍らで私費を投じてイランの近代化にも尽力して、一時国際的にも注目されたりもした。
 しかも日本は、1954年に石油利権をイランに実質的に返還したので、イランは豊富な資金を用いて国造りを進めることができた。この油田国有化では、当時欧米各国からも強く非難されたのだが、日本には実質的な植民地支配の為の金がない事からくる苦肉の策だった。だが結果として、日本とイランの安定した友好関係構築に非常に貢献した。その後を含めて、日本経済にとってもプラス面の方がはるかに多かった。さらには「イラン・モデル」を求める国々とも、日本は関係を深めることができた。インド連邦ですら、頑ななまでの何でも国産化しようとする動きを一部改めたほどだった。
 そしてイランは、主に日本から技術指導を受け入れながら、日本の明治維新以後の近代化政策を自国風に改めて進める。
 またイランは、安定した政治、経済運営のおかげと、スンナ派に対する融和外交(※反イスラエル政策での共闘も含む。)によって近隣のイスラム国家との関係構築に成功しており、OAPECの参加も実現するなど多くの成果を挙げている。しかし成功したのは、イランが歩み寄ったからであり、それをイランが行えるほど政治の近代化が進められた大きな成果と言えるだろう。他のアラブ諸国からイランへの人の流れこそが、イランが発展してつつある何よりの証だった。人は富める場所へと集まるからだ。

 なお、イランの政治の特徴は、民主化、共和化を進めるも、完全な政教分離を行わなかった点にある。政教分離は欧米の民主共和制の基本ともされるので、かなりの期間にわたり日本、イラン共に欧米諸国から非難にさらされたほどだ。アメリカの微妙な反イラン姿勢も、根本は政教分離問題にある。
 国の最高指導者は、国民から選ばれる形ながら宗教の最高指導者で、最高指導者が権威面、精神面で国の元首となる。一方でイスラムの教えはあくまで宗教の面に止められ、民主選挙で選ばれた首相と議会と司法を加えて、近代的(西欧的)な三権分立の民主共和制政治を行う。形としては立憲君主制に近く、しかも国家元首、国家権威が宗教家ながら世襲でないという点で画期的とすら言えた。個人による長期の独裁が行われる可能性が低くなるからだ。
 1963年に国家元首でもある最高指導者となったルーホッラー・ホメイニは、1979年に老齢を理由に最高指導者の座を自ら退くも、イランのイスラムを尊重した形の民主主義国家を支えた代表的人物だった。彼のもとでイラン型民主主義制度(立憲宗教制とも言われる)は完成したと言え、カリスマ性の高い指導者を得たイランは内政的に安定して発展していく事ができた。
 と言うのも、発展途上の民主主義国家や共和制国家にありがちな事に、イランでも初期の議員選挙では不正が多かったからだ。加えて強固で頑迷な地方権力も、イランの内政上では大きな問題だった。しかし、最高指導者に率いられた貧しい者たちが過半を占める国民が政府を強力に支持する事で、既得権や旧弊を打破した上での近代化を進めることが出来た。
 イランの近代化は、政教分離をしていないという点で、西欧やアメリカからは批判も多かったが、後押しした日本はあまり気にしていなかった。あまりにも欧米諸国が五月蠅く言う場合は、「我が日本帝国は、古代の神権の体現者である天皇を国家元首としているが、ただの一度も問題となったことはない」と言い返してさえいる。
 話しが少し逸れたが、イランの近代化は日本の明治維新以後の近代化を参考にしている事あり、国民全ての公教育にも大きな努力が割かれた。そして日本の近代化の資料が少し古い考えだったことが、イランにとっても受け入れやすかった。と言うのも、日本ではかなりの時期まで初等教育以外は男女別の場合が多く、しかも女性の高等教育はあまり奨励されていなかったからだ。日本自身は第二次世界大戦後に大きく変更したが、イランに渡された資料はあえて明治の頃の古いものだった。これは日本側が自らの変革を省みて、急激すぎる近代化は心理的な摩擦や反発が起きやすいと考えての事だった。そして日本側が考えた通り、イランでもその後徐々にだが女性への教育も広がりを見せている。

 教育による人材育成と自力での産業の勃興、社会資本の運営など、自立した近代国家に必要なものを次々に作り上げていった。自力での重工業化は次の段階で、この点はイラン側から不満も出たが、日本側は何よりも先に足元を固めることを重視させた。
 日本は留学も非常に多く受け入れ、日本国内で頭にターバンを巻いた人と言えばインド人(シーク教徒)と並んでイラン人を思い浮かべるほどだった。
 近代化と国土建設は順調に進み、1970年代に入ると石油産業を中心とした重工業の建設にも手を広げられるようになった。近代化の指標の一つとも言える自力での鉄鋼生産量も、日本からの技術輸入もあって順調な伸びを見せた。日本、満州の企業進出も行われるようになった。
 さらにオイルショックでは、日本などへの輸出継続などでアラブ諸国の石油禁輸措置にはあまり従わなかったが、それでもオイルマネーで莫大な外貨の獲得に成功。それを国民全般の所得向上につながる再生産を生み出す産業と社会資本への投資、そして軍備の増強へと投じていった。
 軍備の増強は、隣国イラクとの関係が思わしくなかったからでもあったが、1974年の日本との約束でイランも対ソ連包囲網に積極的に加わるためだった。
 イランにとってソ連は北の隣国であり、帝政ロシアの時代からロシア人には恨み辛みもあるため、イランの仮想敵として国民も認識しやすい相手だった。しかもソ連は宗教を否定する共産主義国だった。だから国民も、ソ連に対する一定程度の軍備増強は受け入れたのだが、一部ではあっても大きく向上した税収と莫大な資金が同時に軍備増強に回った事から、イランは短期間で地域随一の軍事力を保有する事になる。東の隣国インド連邦が脅威に感じたほどだった。1970年代後半からの日本の兵器輸出拡大の成功も、イランからの大量発注がなければ中途半端な形にしかならなかっただろう。
 しかも兵を指揮し兵器を操るのは、日本人武官の厳しい教育を受けた現代のペルシャ騎士である職業軍人達であり、近隣が受ける脅威は日増しに高まっていった。
 特に、イランが強くなったことに脅威を覚えたのはソ連だった。

 ソ連にとってイランは、目の上のたんこぶのような存在だった。
 第二次世界大戦の結果イギリスから日本の勢力圏となるも、日本はイランを民主主義国家に作り替えてしまう。そこまではまだ良かったのだが、年を増すごとに成長して国力を増していった。当然軍事力も強まり、イラン国境から300キロ程度しか離れていない場所にバクー油田をかかえるソ連としては気にせざるを得なかった。中央アジアの長い国境線も気になるところだった。
 しかもイランは、民主主義国家ながら政教分離を一部しておらず、国家元首のシーア派最高指導者の権威はイランの国力増大に比例して増していった。
 この「イラン・モデル」の近代化と宗教を政治に残す形は、周辺のイスラム国家ばかりかソ連のイスラム教が残されている地域にも成功の話しが広がっていった。
 そしてソ連が自らの勢力圏と考える場所の一つが、イランとも国境を接しているアフガニスタンだった。

 アフガニスタンは、ヒマラヤ山脈から続く世界有数の高山地帯にあり、しかも国土のほぼ全てが山岳地帯にあった。数少ない都市も山々の合間の小さな盆地に点在する程度で、その都市を結ぶ鉄道を引くことが非常に難しい地形をしていた。交通手段は山間を縫うように走る道路だけで、山々に隔てられた各所に独自の文化や習慣を持つ少数民族、部族が数多くあって、アフガニスタン全体としての統治を非常に難しくしていた。統治の難しさは古代から現代に至るも変わらず、古代の英雄アレキサンダー大王もアフガニスタン統治には手を焼いたほどだ。
 20世紀のアフガニスタンは、取りあえず一つの王国としてまとまっていたが、基本的にはロシアの勢力圏となっていた。近くにパワープロジェクションできる国は大英帝国しかなかったが、最盛時の大英帝国と言えどもインド帝国からはイランの半分に影響を及ぼすのが限界だった。このためアフガニスタンは、ゆくゆくは中央アジア地域のようにロシア領もしくはソ連領になると言われていた。
 そしてアフガニスタン自体の不安定な状態は第二次世界大戦後も続き、1973年にはクーデターで王政が廃止された。だが混乱はさらに広がるだけで、1978年にはそのクーデター政権も倒されて社会主義政権のアフガニスタン民主共和国が誕生する。しかもその後は、同じ社会主義者の政敵同士が内ゲバの権力闘争を始めて、政権が二転三転。この内ゲバと民衆への弾圧で政府は国内各地から反発を受けて、ついにムジャーヒディーンとの対立が決定的となる。
 そして国内の反政府派であるムジャーヒディーンが抑えられないアフガニスタン政府は、ソ連に泣きつく。ソ連も中央アジアに影響が広がることを警戒して、アフガニスタンへの電撃的な進駐を実施。ついに「アフガニスタン紛争」が始まる。
 これが、現代におけるイスラム原理主義台頭の始まりとされ、一種の革命的な出来事だった。

 ソ連の「アフガン侵攻」は、アメリカを盟主とする西側諸国にとっては、ロシア人の南進が南アジアもしくは西アジアで再開されたと捉えられた。また、アメリカにとってはインドネシア戦争での意趣返しという側面もあるので、インドやイランを通じてムジャーヒディーンなどへの積極的な支援が開始される。
 とはいえ、イランとアフガニスタンは主な宗派が違うため、当初はインドのパキスタン地域からの支援が中心だった。だがイランは共産主義、社会主義の敵視政策に従って、宗派を越えた支援を行う事を決める。アフガニスタンにはシーア派もいるので、イランにとっては尚一層介入する理由があった。
 そしてイランに近いアフガニスタン地域は首都から遠い地方に当たり、地形からもソ連が手を出しにくい場所も少なくなかった。このためソ連は、イランのアフガニスタン支援が本格化する事を酷く嫌った。実際、イラン国境のイスラムゲリラに、政府軍やソ連軍は手を焼いた。しかもイランが使った援助ルートは、古代の昔から近東からインドに至る二つ限りのルートのうちの一つで、かのアレキサンダー大王も使った道だった。
 インドについては、親日だが反欧米傾向が強いという点でソ連が多少なりとも付け入る事もできたが、イランはソ連もロシア人も敵視しており、敵の敵は味方の理論からもアフガニスタンへの積極介入を防ぐ手だてがなかった。アフガニスタンの反政府側がイランと妥協した時点で、問題はさらに深刻になるのは確実視された。
 このためソ連は、イランをアフガニスタン情勢に深く介入させない謀略を積極的に進める。
 その結果が「イラン・イラク戦争」だった。

 「イラン・イラク戦争」は、1980年9月22日にイラクの攻撃によって始まった。
 根底には、イスラム教世界でのスンナ派(スンニー派)とシーア派の対立、アラブとペルシャの対立があった。イラクがソ連の誘いに乗ったという点も見逃せない。しかしイラクが激発したのは、順調に近代化を果たし、国力と軍事力を大幅に拡大させたイランに対する恐怖心だった。イランとは単に国境を接するだけでなく、イラク国内にはイランと同じシーア派が非常に多いため、他のアラブ諸国よりも受ける脅威は弱くはなかった。イランがスンナ派諸国に融和外交を展開するのもイラン側に余裕があるからで、アラブ諸国が受動的に受けたに過ぎない。
 そしてイラクが感じた恐怖は、主にペルシャ湾岸のアラブ諸国の多くが感じた恐怖(脅威)でもあり、イラクはアラブ世界を代表してイランと戦端を開いたとも言える。
 この場合、イランがシンガポール条約機構に属している事は、あまり関係なかった。シンガポール条約機構は、反共産主義を目的とした安全保障条約で、共産主義国、社会主義国以外の1国同士での戦争には機構参加国は参戦しない事になっていた。これは加盟国同士、第三国同士の不和が全くないわけでなく、また共産主義陣営の謀略を避けるための措置だった。アジアはヨーロッパほど二色に分けられているわけではないからだ。それをイラクは逆手に取った事になる。
 イラクの開戦理由は、古くからペルシャ(イラン)の侵略を何度も受けた地域の失地回復とされ、一応は外交決着していた約束(アルジェ協定)を無視していたが、それも当事者にとっては些細なことに過ぎなかった。開戦理由は、ほとんど建前や名目に過ぎなかった。上記したようにイランが怖かったからだ。
 またイラクは、無策のまま戦端を開いたのでは無かった。戦争までに、主にソ連からほとんど秘密裏に多数の兵器を購入して部隊を整えた。
 一方でイラン軍に対しては、近隣で最も大きな軍事力を保有している事が分かっていたので、ソ連がアフガン侵攻に合わせるという形をとって中央アジアに軍備を集中的に配備し、イラン軍の関心とかなりの兵力をイラン北東部国境に集めさせた。しかもイランは、ソ連のアフガン侵攻に反対していた為、イラン側としても示威を兼ねた軍備の北東部への集中を行った。

 イラク軍の攻撃は、奇襲で始まる。
 イラク軍は近代戦の定石通り、航空兵力を用いて敵の空軍基地を奇襲攻撃し、敵の空軍力を殺ごうとした。そしてその上で準備していた地域から地上侵攻し、短期間で敵戦力を撃破すると共に戦争目的を達成しようと構想していた。この時点では、長期戦など全く考えていなかった。そもそもイラクに、長期戦を戦うだけの国力も軍事力も無かった。
 しかし戦争には相手がいた。
 イラン軍は、第二次世界大戦後主に日本軍の指導を受けて順次近代化が行われた。そして日本がアメリカを中心とする自由主義陣営の有力国であるため、日本軍が指導したイラン軍も多くが日本風ながら西側に準じた軍制が導入された。シンガポール条約機構にも所属しているので、日本、満州などの駐在武官も多く滞在していた。
 またイラン軍は、特にソ連に対して純粋な国防軍である事が第一とされているため、防衛のための軍事力の建設に力が入れられた。そして巨大なオイルマネーによって、主に日本から大量の武器を購入した。さらには1970年代には、国内での産業の発展によって一部兵器の自力生産にまで取りかかり始めるほどとなっていた。兵器の輸入は日本が過半を占めるも、アメリカ、イギリス、フランス、満州など西側の有力国の兵器も購入しており、1980年の時点ではインド連邦を上回り近隣で最も装備の整った巨大な軍事力を有するようになっていた。
 必要性の低い海軍はおざなりに等しかったが、主にソ連軍と対峙する空軍の精強さは、イスラエル空軍に匹敵するとすら言われていた。このためアラブ諸国の一部には、宗派の違いを越えてイランをイスラエルに向けるため友好関係を深める向きも強かった。何しろ、中近東でも最強の軍事力を持つことにもなるからだ。

 そしてイラク軍の奇襲に対してだが、イランの国内の各所に設けられたレーダーサイトが、明らかに戦闘行動を取る多数の未確認機を確認する。イラン軍のレーダーサイト網は北部のソ連軍に対して分厚く設置されていたが、主にソ連の遠距離攻撃を警戒して南西部の油田地帯にも濃密に建設されていた。またレーダーサイトと連動して、広域防空を行う地対空ミサイル部隊も配備されていた。しかしこの時は、ソ連軍の行動に対抗するため移動可能な対空ミサイル部隊の半分以上が、アフガニスタンに近い北東部に集中されており、イラクが依頼したソ連の謀略は成功を納めていた。
 しかしイラン国内と国境近隣を隙なく覆うレーダーサイト網は、確実にイラク軍機を捉えていた。
 その数100機以上。
 第一線機を450機以上保有しているイラン空軍が相手なので、イラク空軍としては総力を挙げて攻撃を仕掛けていた。
 イラン空軍の保有する機体のうち輸送機や偵察機を除く70%以上が戦闘機で、大半がソ連に備えた配置が行われていた。イラクに向けられているのは、油田地帯を守る航空隊とソ連のコーカサス山脈方面を担当する航空隊になる。また首都テヘランから近いカスピ海がソ連との境界にもなるため、首都防空隊として精鋭の戦闘機隊が配備されていた。残りの25%は基本的には戦闘攻撃機なので、補助的に戦闘機としての役割を果たすことができたが、これらも多くはソ連に向いていた。
 このためイラク空軍が当面脅威とするべきイラン空軍機は、約150機程度になる。
 しかしイラン空軍は、西側の列強特に日本と同じ状態の維持を心がけていた。兵器の調達はもちろん、補給、整備部品の用意、そして兵士の訓練も高い水準にあった。このため平均稼働率は最低でも50%以上、この頃は平均70%を越えており、自力での兵器生産能力を持たない国、途上国もしくは新興国としては非常に高い水準を持っていた。(※冷戦時代は兵器数を多めに装備するので、先進国でも稼働率は総じて高いとは言えない。)
 そしてイラン空軍の一番の特徴が、日本、満州と同じ警戒網と航空管制システムを持ち、航空機は地上からの正確な情報に従って効率的に任務を行える点だった。当たり前と考えられがちの事だが、統合的で有機的な司令部組織、レーダーサイトなどの設置と維持には、意外に経費と手間がかかるし兵士の訓練も必要なので、列強と呼ばれる国以外ではほとんど保有していないのが一般的だった。だがイランは、ソ連と国境を接する事と隣国インド連邦と対ソ警戒で連携すること、場合によっては日本軍とも共同作戦することを考え、時代時代の最新鋭の情報通信システムを揃えるようにしていた。極東での負担軽減のためにも日本、満州も熱心に指導した。特に1975年以後は、イランの防衛力は格段の向上を見せつつあった。

 イラン空軍の数の上での主力は、日本の中島飛行機が輸出用として開発した「二〇式戦闘機(隼II)」だった。
 「隼II」は、当時日本国内で三菱に大きく押されていた中島に、政府が開発させたものだった。この経緯は「隼II」のライバルである、アメリカの「F-5 タイガーII」と似ている。戦闘機の性能や用途も「タイガーII」と似ており、途上国でも比較的容易く運用できるの軽戦闘機というのが売りだった。「タイガーII」よりも主翼が大きくほぼデルタ翼の形状を持つのが違いだが、小型の双発エンジン装備だったりと似ていた。別にマネをしたわけではなく、結果として似ていたのだ。ただしデルタ翼なのは、アメリカの機体よりもエンジンが非力な証拠で、アメリカの機体に及ばない点なのは大きな違いと言えるだろう。
 それでもアメリカの「タイガーII」より低価格だった事もあり、主にインドなどアジア諸国を中心にして輸出を伸ばし、後に性能を大きく向上した改造型も開発され、一時期の中島の経営を支える主力輸出機に育っていった。
 その「隼II」を、イラン空軍は約150機保有して数の上での主力に据えていた。他には日本の三菱製の「二四式艦上戦闘機(剣風)」を75機、アメリカの「F-4D ファントムII」約75機を戦闘爆撃機として、旧式の日本の「閃光改」を約75機、そして日本の西崎が開発して間もない最新鋭の「78式戦闘機(紫電)」を約75機装備していた。戦闘機の種類は多いが、補給品や部品も十分買い込んでいたし、整備兵の育成にも力を入れていた。
 また攻撃機としては、中島が格安価格で販売したばかりの新鋭機「76式攻撃機(嵐竜)」約50機を装備している。導入までは「流星改」を使っており、1980年頃はまだ一部の「流星改」が格納庫の奥に残されていた。

 当時「紫電」は、まだ日本軍にもほとんど配備されておらず、ほとんど幻の戦闘機ですらあった。また、アメリカで生産が混乱した「F-14 トムキャット」とは、イランへの売り込み合戦の逸話で一躍有名になった。しかしイランは、自前のレーダーサイト網を持つことと、適正な性能、価格、さらには日本との長年の友好を重視して「紫電」を選んだ。
 「トムキャット」は複座戦闘機で優れた長射程レーダーを持つため、単独でも高い管制能力を有する。だが、自前のレーダー網を持つイランにとっては、無用で贅沢すぎるものだった。そもそも「トムキャット」は、イランの要求に対して高性能すぎたし、何より高すぎた。しかしこの売り込みに失敗したグラマン社は、アメリカ政府が緊急支援しなければ倒産していたほど経営が悪化してしまう。このためアメリカ海軍への「トムキャット」の配備まで混乱したし、アメリカがイランを嫌う理由の一つとなった。
 また、グラマン社が一番最初に一括で納入するという条件を出していたため、西崎も日本空軍が全面協力する形で日本空軍より先に1979年に一括納品されるという経緯があった。このため日本空軍向けの機体もイランへの輸出に回され、日本より先にイランに配備が一気に進んだのだ。そして「紫電」は、1976年に川崎重工の飛行機部門と川西飛行機が合併した「西崎飛行機(NZA)」が最初に送り出した戦闘機でもあり、川西、川崎双方にとって久しぶりに正式化された戦闘機というだけでなく、新たに発足した会社の社運を賭けた機体とも言えた。しかし戦争勃発当時は配備されたばかりで、パイロットの配置転換や訓練が十分進んでいなかった。
 「紫電」は当時の典型的な制空戦闘機で、日本空軍にとっての主戦場のイタリア北部の空、オホーツクの空でソ連空軍機に優位に立つために作られた機体だった。だが汎用性は高く、単に寒い地方での運用にも向いているだけでは無かった。ライバルとしてはアメリカの「F-15 イーグル」が挙げられるが、流石に「イーグル」ほどのエンジンパワーは無く、機体の空力特性を活かすことで格闘性能は匹敵するものがあった。
 そして同機の開発は、一応は西崎飛行機が行った事になっているが(※2基搭載されたエンジンは他と同様にIHI製)、実際は満州の東洋エアクラフト(旧:九州飛行機が母体)などとの共同開発だった。レーダー性能が高いのは、日本より技術力の高かった満州の企業が開発した装備を搭載しているためだった。
 そしてアメリカが日本、満州に購入を迫っていた「イーグル」の70%の値段で90%の役割が果たせるというのが売りといわれた。また機体の拡張性が確保されているため、その後大幅に改良して性能を向上させた「紫電改」、「紫電改二型」が生み出されたりもしている。
 もっとも、満州は満米経済摩擦解消の一環として「イーグル」を大量購入せざるを得なくなり、「紫電」の採用は当初予定の半分以下で、主に日本空軍の機体となった。
 また「紫電」は、イラン・イラク戦争の活躍で有名になったおかげもあり、その後インド、支那連邦共和国でも採用された。一時期イタリアも食指を伸ばしたほどだった。最終的に「紫電」および「紫電改」は、日本、満州、イラン、インド、支那連邦などでライバルとされた「イーグル」に匹敵する合計1000機以上が生産・装備されている。このため「20世紀終盤のアジアの主力機」とも言われた。

 もう一つのイラン空軍の特徴として、当時最新鋭の攻撃機「76式攻撃機(嵐竜)」を挙げることもできるだろう。
 「嵐竜」は、急降下爆撃も可能な戦術爆撃を主体とした多用途型攻撃機で、純粋な戦術爆撃機だった。対空戦闘能力は米ソの極端な性能を与えられた対戦車攻撃機よりも高いが、敵戦闘機から逃げる為の能力でしかない。このため、一部で言われる戦闘爆撃機という表現は間違っている。
 用途としては、少し前に米ソが作った戦術爆撃機と似ているため、「遅れてきた戦術爆撃機」と言われることがある。もしくは英仏など西欧各国が共同開発した「トーネード IDS」に、開発時期的にも近いだろう。また、愛知が作った海軍向けの「天狼」とも似ているため、「天狼」を近代改修してさらに地上機型すれば十分だったとも言われることも少なくない。
 実際は、日本空軍がインドネシア戦争での苦戦を教訓として開発された戦術爆撃機で、日本の機体としては珍しく可変翼を持つ。低空任務も得意としているため、米ソが開発した対地攻撃機と比較する向きもあるが、米ソの機体ほどの重装甲や頑健さはない。汎用性は高く機体の拡張性もあるため、かなりの期間改修を続けながら使われた。オプション装備を付けることで洋上作戦能力が与えられており、対艦ミサイルを運用できるなど戦術の幅は広い。しかしこのイラン・イラク戦争では、対艦ミサイルを用いたタンカー攻撃で悪名を馳せることにもなってしまっている。なお輸出に際しては、「ストームドラゴン」という英名が使われたりもしている。

 イラクの空爆は、奇襲の効果とイラン側の迎撃が間に合わなかった事から、レーダーサイト、空軍基地への空爆はかなりの成功を納めた。この後の地上侵攻が出来たのも、初戦の空爆が成功したおかげだった。しかし防爆シェルターに格納されている航空機はほとんど無傷で、しかも謀略で有力機がソ連に向いていた事から、イラン空軍が受けた損害はかなり少なかった。また、司令部組織の破壊は全て失敗しており、開戦当初からイラク軍の限界を示していた。
 それでもイランが奇襲を受けた影響は少なくなく、かなりの期間はイラク空軍の勝手を許すことになる。だが、油田地帯上空と首都上空の制空権は維持し続けたし、逆にイラク北部のキルクーク(イラク有数の油田がある)を空爆したりしている。さらに開戦から一ヶ月程度で、バクダッド空爆も実施している。
 空襲の成功を受けて、イラク軍は開戦すぐにも地上侵攻を開始する。大量に輸入していたソ連製の戦車、フランス製の装甲車などで重武装したイラク軍の精鋭部隊は、戦争目的でもあるペルシャ湾岸の油田地帯に主力が投入された。また北部キルクークが脅威を受けるのを阻止するため、北部でも予備的な侵攻が行われた。
 空での戦いは、イラク空軍の数の上での主力は「Mig-21」で、改良型も装備していたため「隼II」相手だとそれなりの勝負が可能だった。旧式の「閃光改」は圧倒的、やや旧式の「剣風」、戦闘爆撃装備の場合の「ファントムII」にも何とか挑むことはできた。しかし当時最新鋭の「紫電」には一方的に叩かれた。
 当時「紫電」と互角と言われた「Mig-25」は、バクダッドの首都防空隊に少数しか配備されていない迎撃専門の戦闘機なので、「紫電」と対戦の機会がなかった。もう一つの数の上での主力機はフランス・アルゼナル製の「F-1 ミラージュ」で、これも「隼II」や「タイガーII」と同じコンセプト、同じ世代の機体だったので、ソ連国境から移動してきた「紫電」の敵ではなかった。
 イラン空軍の「紫電」隊は、日本軍退役後に軍事顧問としてイラン入りしていた菅野直もと提督(退役時中将)の指導のもとで奮闘し、冷戦時代最盛期に多くの戦果を記録していくことになる。なお菅野もと提督は、「紫電」の開発に関わっていた事からイラン行きを志願しているが、戦闘機パイロットとしては年を取りすぎているにも関わらず「紫電」の操縦桿を握ったこともあると言われる。
 イラク空軍の頼りは可変翼を持つ「Mig-23」の輸出型だったが、開戦頃は数が十分では無かったのであまり活躍もできなかった。しかも「紫電」との対戦は、他の機体よりマシという程度でしかなかった。この事はソ連空軍は「輸出型はモンキーモデル」と言うも少なからずショックを受けており、ソ連は新型機の開発を急ぐことになる。それでもイラク空軍としては最も頼りになるため、この後にソ連から「Mig-23」の改良型を大量に輸入している。そしてその後は、「Mig-25」の後継機の位置付けもあって「Mig-29」まで輸入するが、当初の戦闘ではソ連にすらないものだった。

 開戦初期の戦況全体は、当初はイラク空軍が有利だったが、イラン空軍の主力がソ連国境からイラク国境に移動し、そして攻撃された各地の基地の稼働状況が改善すると、戦況は一気にイラン空軍に有利になっていった。そして制空権を失う事は戦争自体を失うことに等しく、この時も例外ではなかった。
 しかも戦争は、まだ始まったばかりでしかなかった。


●フェイズ118「イスラム世界の混乱(2)」