●フェイズ118「イスラム世界の混乱(2)」

 イラン陸軍の主力も、空軍同様にソ連国境に集中配備されていた。それでも近年のイラクとの関係悪化を受けて、イラク国境にも一定程度の軍隊が配備されるようになっていた。
 この時点でのイラン陸軍とイラク陸軍の総数は、イラク軍が19万に対して、イラン軍は28万あった。しかし開戦時のイラン軍は、このうち80%近くをソ連国境方面に配備しており、イラク国境には5万ほどしか配備されていなかった。師団数で言えば4個師団で、機械化率の低い歩兵部隊が中心だった。イランとしては、イラクとの軽度の国境紛争に備えた配置になるが、イラン政府、軍はイラクと戦争になるとは考えていなかったからだ。また、抑止力も兼ねて兵器を揃えることを重視していたので、備蓄の弾薬が本格的戦争をするには全然足りていなかった。
 このため地上戦が開始されると、イラン陸軍は国境線を守ることができず、即座に遅滞防御戦に入った。そして対ソ連軍備を出来る限り減らして、急ぎ増援部隊を国内各所からイラク国境へと移動する。また国中から、イラク方面に弾薬などの輸送が実施された。
 このイラン軍の移動に対してソ連軍は一応の牽制を行ったが、具体的行動は国境周辺で航空機を少し活発化させただけで、実際はソ連にとっての本命のアフガニスタンに力を入れた。ソ連の行動はイラクの侵略を受けているイランにも見透かされてしまい、イランの精鋭部隊、俗に言う「ペルシャ騎士団」が続々とイラク国境に殺到した。
 そして開戦から三ヶ月もすると、戦線が膠着してしまう。イラク軍は総力を挙げて戦争目的の場所でもあるアバダン(アーバーダーン)などがある油田地帯を奪ってしまおうと攻勢を強めたが、日を増すごとに前進は難しくなった。しかも制空権が得られない為、損害も増えていった。

 なによりイラク軍の進撃を妨げたのが、「イエロー・タイガー」こと「二一式戦車」(通称「ジム(地武)」)だ。
 全備重量62トン、120mmライフル砲装備の世界で最も重い第二世代主力戦車で、ソ連の戦車を防御戦か突破戦で撃破することを最優先に開発されただけの事はあった。また、日本陸軍の指導を受けた影響からかイラン陸軍は重戦車好きで、イギリスからも「チーフテン」(55トン・120mmライフル砲装備)を購入して副主力に据えている。アメリカがイランへの輸出を打診した際も、「M-60」以上を求めた。このためアメリカでは、120mm砲装備の「M-60」や計画中だったMBT-70を正式化して限定量産するかの話しが真剣に行われたりもしている。また、この頃の日本陸軍が装備する「二一式戦車」は実質的な改良型の「三四式」とも呼ばれるタイプで、イラン軍の車両の一部も「三四式」の輸出型を装備していた。
 イラン軍の重戦車群に対して、イラク軍はソ連製の「T-54」、「T-55」は正面からでは歯が立たず、戦車戦になるとほぼ一方的な戦闘となった。イラク軍は戦争前にソ連から「二一式」と同じ第二世代MBTの「T-72」も購入していたが、戦争開始の頃は数が少なかった事もあり、投入されてもほぼ撃破されるだけに終わった。しかしこの「T-72」は輸出型(モンキーモデル)で、この時イラク軍は少数しか投入せず、その後も損害を恐れてなかなか投入しなかった為、「T-72」の大量喪失には繋がらなかった。このため輸出もとのソ連が受けた衝撃は少なかった。
 そしてイラク軍は戦車戦の不利を挽回するべく、かつてのエジプト軍同様に歩兵が運用する対戦車ミサイルを活用した。だが、安価な小型ランチャータイプ(RPG-7など)では、「二一式戦車」の正面装甲を貫くのはかなり難しかった。それにイラン軍は、戦車だけを単独で突出させる事はなく、各種装甲車、歩兵を随伴した諸兵科統合運用を行うため、逆にイラク軍の方が練度の不備を付かれて、イラン軍の歩兵のロケットランチャー(カールグスタフなど)の餌食となった。さらに車載型の中型以上の対戦車ロケットも双方投入したが、やはりイラン軍に軍配が挙がった。しかも開戦すぐ以外は制空権を持つのがイラン空軍の場合が多いので、イラク軍は空からも撃破される事になる。
 このため進撃から三ヶ月を待たずして戦線が膠着し、年を越えてしまう。そして翌年2月、準備を整えたイラン軍が総反抗に転じ、侵攻したイラク軍は主力部隊の一部が、移動してきたイラン軍の機甲部隊の前に包囲殲滅されてしまう。後はイラク軍はイラン領内から逃げるより他無く、開戦から半年でイラク軍はイラン領内から叩き出されてしまう。しかもイラク軍は、この時点で陸軍の半数を事実上失い、空軍も3分の1程度が撃破されていた。これに対してイラン軍は、イラクに投入できる戦力のうち陸軍、空軍共に80%以上の戦力を残していた。
 イランにとってはいい迷惑でしかない戦争だったが、実力でイラクとの係争地帯も押えられたので何とか我慢も出来る状態だった。そこでイランは、イラクに停戦を求める。

 イランは停戦と講和の条件として、侵略側のイラクに対してイランに有利な領土の確定と損害賠償金を要求した。イランとしては、そこから講和会議で条件を詰めていこうとしたのだが、イラクは講和会議どころか停戦、さらには休戦すら最初から拒絶する。
 イラクが拒絶したのは、一番の理由は攻め込んで惨敗しただけではサダーム・フセイン大統領とバース党の独裁体制に大きなヒビが入ると考えたからだ。ソ連からは援助や支援、安価での武器売買の話しが引き続き来ていたことも、イラクの戦争継続を後押しした。ただしソ連の思惑は、アフガン侵攻が徐々に泥沼化しつつあるので、もう少しイランに別の方向を向いて欲しかったからに過ぎない。イラクは体よく利用されただけだった。イラクのなりふり構わない兵器の求めに、世界中の兵器企業も応える向きを強めた。
 そしてソ連などからの兵器購入費や戦費については、主にペルシャ湾岸の豊かな産油国が全面的な支援を行う交渉がイラクとの間で行われた。アラブ諸国から見れば、イランもイラクも共和制国家だが、イランでは民主選挙が進んでいるだけ絶対王政のアラブ各国の王朝にとっては脅威だった。そしてイランは、攻め込んだイラク軍に対して戦争で圧勝しており、近隣諸国が受ける潜在的な軍事的脅威はもはや現実のものだった。
 しかもイランはシーア派であり、最終的には相容れない相手だった。隣国クウェートなどは、最終的に当時で100億ドルもの援助をイラクにしたほどだった。

 徹底抗戦を訴えるフセイン大統領のテレビ映像は、アラブ湾岸諸国と東側陣営のメディアを通じて全世界に流れ、イラクはイランの軍事的脅威が大きくなりすぎる前に予防戦争を仕掛けたに過ぎず、実際にイランの軍事力増大の懸念が現実だったと訴え続けた。しかもフセイン大統領は、イランの軍備増強は隠された覇権主義を実現するためだと訴えた。そしてイラクの言葉を、アラブ諸国は積極的に世界に発信した。
 イラクの根も葉もない話しに対して、イランも友好国などと連携して反論し、イラクを独裁者に率いられ、その上ソ連にそそのかされた愚かな侵略国家だと訴えた。しかも政治的、宗教的に気を遣って、最高指導者が訴えるのではなく、あくまで政治家や官僚をテレビの前に立たせるようにした。イランとしては、イラクがソ連の援助を受けている事から、あわよくば東西陣営の対決に持ち込んで西側諸国の支持を固めようとしたと言える。
 しかし国際政治上では、イランが不利だった。
 イラクのバックに付いたアラブ湾岸諸国は、石油を武器にして世界各国にイラクに有利になるように積極的に動いた。ロビー活動でオイルマネーもばらまいた。このためイランのセコンドといえる日本ですら、イラクを責めきれないでいた。
 しかも1981年6月7日に、イランにとってさらに不利な事件が起きる。
 アラブ世界の仇敵のイスラエルが、イラク空軍の力が弱まった間隙を突いて、イラクの原子力発電所を戦闘機を用いて破壊したのだ。この原子力発電所はフランスの支援で建設されていたもので、核兵器製造に必要なプルトニウムの精製ができた。当時は完成直前で、イスラエルは強い懸念を示していた。それを戦争を利用する形で、物理的に解決してしまったのだ。
 イスラエルの攻撃で、イラン対イラクの図式が、アラブ(スンナ派)対「アラブの敵」になってしまう。これでアラブ諸国は表だってイラクを支援するようになり、イランを敵視するようになる。アラブ以外の国の一部も、イランとイスラエルが水面下であれ連携したと考え、イランとの貿易を自粛したり石油の輸入を減らしたりした。
 イランはイスラエルとの関係性を全面否定して、自らの友好国と共に一方的な被害者だと訴えるも、国際的には一方的に攻め込んだイラクの方が被害者として見られる向きが強くなってしまう。

 これでイランも性根を据えることを決め、イランが非難されつつも支援に徹した日本などへの輸出を増やし、得た外貨を惜しみなく軍備増強に投じた。イランとしては、イラクとソ連の双方に対向できるだけの軍事力を作って自国に籠もり、国際的には自らの潔白を示す動きを行い、イラクが音を上げるのを待つ事を戦略として選んだことになる。
 イランが怒りに任せて下手にイラク領内に攻め込んだ場合、イスラム教内の宗派の問題から泥沼化する可能性が高いことを十分に熟知していたためだ。そして自制ができるほど、イランの政治と民主主義は熟成が進んでいたと言える。
 イラン国民も大幅な軍備増強に肯定的で、むしろイラクへの復讐を叫ぶ声を政府が抑えた。この国民への説得では、すでに最高指導者の座を降りて一人の信徒となっていた既に老齢のホメイニ師が大きな役割を果たした。
 イラクの方は、イランからは叩き出されて自らの軍隊が壊滅状態なので、とにかく石油の売り上げとアラブ各国からの支援で、軍備の再建、増強を行う事に専念した。
 このため両者暗黙の了解で、国境を挟んでの睨み合いになる。その後かなりの期間は散発的な空中戦や長距離砲、ロケットの砲撃が行われるだけで、大規模な軍事衝突は沈静化してしまう。
 このため国際社会も、あとは自然終息するだろうと見るようになっていった。しかも1982年になると、近東のレバノン内戦が激化してアラブ諸国の関心はそちらに向かう。ソ連はアフガン紛争がいよいよ泥沼化していて、もはやイランどころではなかった。イラクへの武器輸出は外貨獲得もあって積極的に続けたが、もうそれ以上は動けなくなっていた。西側諸国は、1982年に「フォークランド紛争」が起きて、イギリスが面子にかけた戦争にのめり込んだ。アメリカは、ソ連との対立激化、1983年のグレナダ侵攻、86年のリビア爆撃などで中東地域への関心を下げてしまう。
 その間アラブ諸国の調停をしようとしたのは、主にペルシャ湾岸から多くの石油を購入する日本と満州だった。日本と満州は、イランと他のアラブ諸国の双方から大量の石油を購入していたため、積極的にイランとイラクの停戦を進めた。またイランの隣国になるインド連邦も、国内のスンナ派とアラブ地域から目を付けられないように注意しつつ、イランとイラクの停戦、最低でも休戦にできないかと積極的に動いた。

 この間、世界的にも注目されたのが、両国によるいわゆる「タンカー攻撃」だった。
 両国共に石油の輸出が生命線であり、しかも産油地帯が隣接しているため、開戦当初から両軍による相手国の石油施設、油田、さらには積出港などへの攻撃が一定程度続いていた。イラクなどは航行禁止地域を定めたが、これはイランを海上封鎖するためだった。一部を封鎖しても意味がないように思えるが、油田と積出港はイラクに近いペルシャ湾の奥にあるため有効な戦術だった。しかもイラクは、パイプラインを使って地中海側からも石油を輸出できるため、一方的にイランを苦しめることができた。もっともイランもやられっぱなしではなく、イランの外交戦術によりイラクはシーア派の多いシリア経由のパイプラインを止められている。
 そして日本船籍のタンカーが攻撃を受けると、にわかに日本世論が沸騰。イラクは封鎖地区に入った日本が悪いと逆に非難したが、日本政府はEAFTA、シンガポール条約機構加盟各国に強く働きかけて、一時的ではあったがイラクとの貿易停止にすら踏み切っている。
 だがイランも対抗上イラクに対して同じ事をしているため、国際世論としては両国のタンカー攻撃を止めたかった。このため日本やアメリカは、ペルシャ湾に安易に軍事力を進めることができず、日本のディエゴガルシア島に空軍部隊を待機させたり、緊迫度が増した時にインド洋に空母機動部隊を配備する程度で我慢しなければならなかった。
 両者の船舶攻撃は戦争のほぼ全期間にわたって続き、フランスの「エグゾゼミサイル」(空対艦ミサイル)、日本の「三〇式対艦誘導弾(ヤブサメ)」(空対艦ミサイル型)が有名になった。しかし両者の攻撃はエスカレートし、イランのペルシャ湾封鎖の脅しで世界中が怒り、これがイランへの強い非難へとつながった。しかもイラクは、ソ連から大量の地対艦ミサイルを購入したという噂が出ていた。
 また、両国がペルシャ湾の奥にばらまいた機雷の除去の為、日米西欧の海軍が掃海艇を派遣し、その護衛で遂に日米の戦闘艦艇がペルシャ湾へと入る。さらにイラクのミサイルが、アメリカの駆逐艦を誤爆。国際問題になると同時にアメリカを本気にさせてしまう。そしてそれは国際世論を大きく動かす切っ掛けにもなり、戦争終結の大きな要因となった。

 一方、戦争の再燃は1984年に入ってからとなる。
 再燃したのは、要するに両国共に一定の軍備増強が行われ、再び戦争できる状態になったからだった。
 とはいえ、攻めるのはイラク軍、守るのがイラン軍という図式に変化はなかった。イラクはイランが怖いから攻めてイラン軍を潰すしかなく、イランは国土を守りきれば良いと考えていたからだ。だが、この時先に仕掛けたのはイランだった。イランとしては、守ってばかりでは国民の不満もたまるし軍の士気にも関わるし、イラクへ脅しをかけて休戦に持ち込めないかと考えたのだ。
 イラン空軍機は、南部のバスラ、北部のキルクークの各石油施設と、象徴的意味合いで首都バグダッドを空爆した。空襲には主に日本製の機体が使われ、高い攻撃力を有する「嵐竜」攻撃機が爆撃の主力となった。この頃イラン空軍はさらに規模を大きくしており、600機以上の第一線機を配備していた。しかも日本などから可能な限り新鋭機を導入しており、強力な制空能力を有する「紫電」の数は150機を越えていた。新型の試作機まで導入したという噂すらあった。
 爆撃はイラク空軍の激しい抵抗(対空射撃)の前に成功とは言い難かったが、イラクに大きなプレッシャーを与えることには成功した。だがイラクの答えは、ソ連から大量に取得していた準中距離弾道弾の「スカッド」ミサイルと独自に改良した「アル・フセイン」による報復攻撃だった。国境線に配備されたスカッドとアル・フセインは、主にイランの都市に向けた発射された。また報復として、テヘランへの空爆も行われた。そしてイラン軍は、さらに報復として日本から余分な大金を積み上げてまでして購入した「82式巡航ミサイル(雷切(ライキリ))」(Type-82 CM (RAIKIRI))を用いて、イラクのバグダッドを爆撃した。「ライキリ」巡航ミサイルによる攻撃は、湾岸戦争に先立つ精密ミサイル攻撃の先駆けともなり、世界的にも注目を集めた。
 両軍散発的な空襲とミサイルの応酬は続き、不毛な殺戮戦が止む気配はなかった。

 均衡を破ったのは、またもイラク軍だった。
 イラク軍は万全の防衛体制を敷くイラン軍に対して、スカッドやアル・フセインを多数発射。このうちかなりに毒ガスが詰め込まれていた。また前線では重砲弾の一部に毒ガス弾が用いられ、イラクが突破しようとした戦線一帯で毒ガスが使用された。第一次世界大戦以来と言われる、軍事上でも大事件だった。
 これにはイラン軍もたまらず、毒ガスを警戒していたにも関わらず防衛網が大混乱に陥った。戦車や装甲車は冷戦時代に対応したNBC防御対策が施され、兵士にはガスマスクが支給されていたのだが、本当に必要になるとは思っていなかった隙をつかれた形だった。
 イラク軍はイラン軍の混乱を突いて攻撃し、再び戦争目的でもあるイランの油田地帯に向けて進撃する。
 毒ガス攻撃にイランが激怒。イラク軍が毒ガスを大量使用したことを世界中に暴露し、毒ガス(主にマスタードガス)で負傷した将兵や市民の映像や写真を全世界に向けて公開してイラクの非道を訴えた。そしてイラクに対してはいかなる反撃も許されると宣言し、国民に徹底した反撃と復讐を約束した。イランのあまりの怒りぶりに、日本が特使を送ってやりすぎないように求めたほどだった。
 一方イラク軍の進撃は、毒ガスを使わなければ二週間程度で停滞してしまう。軍備を大幅に増強したとは言え、それはイラン軍も同じだったからだ。しかも、装備の点ではイラン軍の方が勝っている場合が多かった。制空権についても、イラク軍はよほど戦力を集中しない限り奪うことはできなかった。このため一時的に戦場とした地域の制空権を奪うことには成功したが、イラン空軍がソ連を無視するかのように総力を投入して航空撃滅戦を仕掛けてくると、1週間とたたずにイラク空軍の戦力は低下していった。
 この戦力低下は、撃墜・撃破されるよりも、連続稼働を前に整備の不備、補給品の不足などで稼働率が大幅に低下して起きたものだったが、損害の方も無視できなかった。ソ連製もしくはフランス製の機体よりも、日本製、満州製、アメリカ製の機体の方が優秀だった。
(※イランは、満州からは満州に装備する予定だった「78式殲機(紫電)」(※「紫電」の満州型)、アメリカからは「F-16」をさらに購入していた。)
 イラク空軍の虎の子である「Mig-25」は、航続距離などの関係で依然として首都防空以外で使えない機体で、イラクがソ連から催促していた新型機「Mig-29」(輸出型)は、まだこの時期は輸出されていなかった。「Mig-23」の後期型は奮闘したが、「紫電」や「F-16」には太刀打ちが難しかった。しかもイラン空軍は、軍事顧問などのコネを使い西崎の「紫電改」の試作型を評価試験の形で試験導入し、イラク空軍と交戦したと言われている。
 戦車戦では「T-72」がついに大量投入されたが、所詮は輸出型の低性能型なので、対戦車陣地で待ちかまえるイラン軍の重戦車の群れとそれを支援する対戦車部隊、野戦銃砲部隊には劣勢を強いられっぱなしだった。ソ連の戦車は、相手を大きく上回る数を投じることを前提としているので、当たり前の結果でしかなかった。しかもイラン軍は、対戦車ヘリ「81式戦闘ヘリ(炎竜)」を満州から大量購入して、これを反撃の際に地上戦に投入してイラク陸軍に大打撃を与えた。
 しかし今度はイランがイラク領内に逆侵攻を開始すると、地の利が無かった事とイラク軍がある程度体制を立て直した事もあって、イランの攻撃は失敗する。しかもかなりの惨敗に終わってしまい、挙げ句に足回りの強い二一式でも抜け出せない湿地に誘い込まれ、十数両もの戦車を棄てての敗退となった。(※しかもイラク軍がその後回収して使用している。)
 この反撃で「イラク軍侮り難し」の評価が世界でも再評価の形で行われ、イランは防衛軍として優秀だが侵攻能力は低いという評価がされるようになる。またこのイラク軍の反撃で、イラク軍の共和国親衛隊の名が世界に轟く事になった。
 また世界中から購入した武器は、戦争中ばかりか戦後も続々と届いたので、イラク軍は戦争末期から戦後にかけての方が大量の軍備を抱えるようになる。武器だけで見れば、特に陸軍の総量はイラン軍を超えるほどだった。
 しかもイラクは、イランへの恐怖心からその兵器を抱え続けた。このため1989年には、イラク軍は瞬間的に世界第四位の通常軍備を持つ国になったほどだ。これは全て、精強なイラン軍の恐怖に怯えたアラブ諸国のオイルマネーが動いた結果だった。しかし大量の武器は、イラン軍の進撃を躊躇させるには十分であり、戦争中も効果はあったのは間違いない。

 なお、イラク軍がまた攻め込んで、また負けて叩き出された事は、戦争全体にはそれほど大きな要素ではなかった。
 今度こそイランの怒りの限界を超えてしまった事だった。
 イラクへの爆撃を強化するのはもちろんだが、イラクに協力する国、イラクから石油を買い付けている国へも強い非難を浴びせかけ、ペルシャ湾からイラクに石油を買い付ける国の船舶への攻撃を宣言したのだ。しかもペルシャ湾岸の他のアラブ諸国が依然としてイラクを支援しているため、ペルシャ湾全体の攻撃すら示唆した。この攻撃には、ペルシャ湾口での事実上の海上封鎖すら示した。つまり世界の「石油の栓」を閉めると脅したのだ。
 さらにイランは、これまで自ら禁じていた手にも手を染める。
 イラクに住むクルド人、一部シーア派を支援して、イラクの内政に大打撃を与えようと動いたのだ。
 クルド人に対する動きには、イラクは国内にも関わらず毒ガスすら投入することで強行的に鎮圧し、これにショックを受けたイラン側が手を引くことでクルド支援は無くなった。シーア派に対しても、厳しい弾圧で対応した。だがペルシャ湾を航行するタンカーへの攻撃は、半ば脅しとしてだが行われ続けた。
 しかしこのイランの攻撃の一つがアメリカのタンカーを攻撃し、アメリカはその報復でイランの石油施設を攻撃。これが国際的な石油価格の一時的な暴騰を呼び、さらには「ブラック・マンデー」と呼ばれる瞬間的な株価の大暴落すら引き起こしてしまう。
 これには流石に世界も動かざるを得ず、国連の安保理で即時停戦などを求める決議が採択される。これにはイランを支援する日本も賛成せざるを得ず、日本は主に水面下でイランに自制を求め、停戦するよう働きかけを強めた。イランの側も、支援する日本などの声には耳を傾けざるを得なかった。

 イラン・イラク戦争は、安保理決議を受け入れる形で1988年8月に合意が成立。あしかけ8年にも及んだ不毛な戦争は、何とか終わりを迎える。
 しかしこの戦争は、イランにとっては甚だ不本意だった。
 イラクから一方的に攻撃を受けた被害者の筈なのに、なぜかイランが悪者扱いされる向きが強かったからだ。確かに事実上の無差別攻撃は非難されても仕方ないが、そもそも戦争を仕掛けたイラクの方が遙かに悪いのに、攻め込んでは負けてばかりのイラクの方がまるで被害者のようだった。
 こうした国際的な雰囲気があったため、その後イランはアラブ諸国におもねるように動いた欧米諸国に強い不信感を抱き、特にアメリカを憎みすらするようになる。日本に対しても、今までほど親密な状態とはいかなくなる。しかも日本は、他のアラブ諸国からイラン側と見られていたので、その後日本はアラブ諸国との関係修復にも大きな努力を割かなくてはならなくなっていた。こうした点から見ると、日本もとばっちりを受けた被害者であり、戦争を起こしたイラクへの恨みを募らせることとなった。満州も日本とほぼ同様で、イラクへの不満を強めた。
 なおこの戦争で、意外にポイントを稼いだのがインド連邦だった。
 インドは第三世界の代表として振る舞い、国連でもうまく動くことで、イラン、アラブ諸国双方との関係を深めることに成功し、以後アラブ世界の問題に対して国際政治上で大きな存在感を示していくようになる。
 またイラクは、自らの力が足りていないと痛感させられた事もあり、戦後も続々と軍備増強に力を入れた。対してイランは、イラクよりもずっと民主政治が進んでいた事もあって、戦後は減税と軍備の整理(事実上の縮小と兵士の復員)を進めている。
 このため急速にイラクの軍事力が相対的に高まってしまい、しかもイラク自身は抱えすぎた軍備と軍人の処理に困るようになっていった。
 世界はこれを第二次イラン・イラク戦争への道標と捉えたが、事実が大きく違っていたのは歴史の示すとおりだ。
 
 一方で、ソ連にとってイラン・イラク戦争を起こす大きな原因となったアフガン紛争だが、両国が不毛な戦争をするのと平行するように、ソ連も不毛な戦いを続けた。
 「アフガニスタン紛争」は、1979年にソ連が攻め込んでソ連が全面撤退するまで約10年にわたって続いた。
 山岳部での戦いは、前線の軍隊を支える補給、兵站の戦いの中でも、最も過酷な戦いと言っても過言ではない。コストパフォーマンスが非常に悪いトラックによる補給しか行えず、しかもトラックが走る道は山間部を縫うように走る細い道ばかりだった。しかも山道はアフガン全土にわたっており、その細い山道を走るトラックにアフガンゲリラが容赦なく襲いかかった。
 ソ連軍は、正面からの一定規模以上の戦いで負けることはほとんど無かったが、日々の小競り合いと補給の戦いで見る見る消耗した。スペツナズと呼ばれた特殊任務部隊は屈強な兵士達だったが、彼らの戦いも賽の河原での石積に似て不毛でしかなかった。特にイランに近い地域で、ソ連軍、政府軍共に苦戦を強いられた。ソ連が恐れていたイランによる影響は、多少規模を小さくしてだが起きたことになる。
 ソ連がアフガンに投じる戦費は莫大な額に及び、今までの様々な国家の散財で無理が重なっていたソ連の財政を一気に蝕み、そして傾けていった。
 訓練された兵士も、数百万人いる筈のソ連赤軍だけでは足りず、東側各国の兵士も精鋭と呼ばれる部隊を中心に多数が投入された。その中では、皮肉な事にソ連が搾取して冷遇したドイツ民主共和国が派遣した山岳猟兵が活躍したりもしている。
 だが何をしても、ソ連がアフガニスタンの大地を鎮める事はできなかった。
 アフガンでの戦いは、当時のソ連にとっては必要だったのかもしれないが、何もよいところは無かった。一般的には、ソ連の財政破綻を加速させて命脈を縮めただけだと言われる事が多い。莫大な戦費、ソ連赤軍の士気低下、モスクワオリンピックの実質的失敗など、本当にマイナスばかりだった。侵攻開始だけでもモスクワオリンピックの後にしておくべきだったと言われる事があったほどだ。
 ソ連が懸念したイランによるアフガンゲリラの支援も、杞憂だったと言われる事が多い。もしそうだったのなら、イランはとんだとばっちりを受けた事になるだろう。
 アフガンでの戦いは、アメリカなどが現地ゲリラ(ムジャーヒディーン)を支援して、ソ連を紛争の泥沼に引きずり込んだだけだった。結果として、アフガニスタンは国民も国も大地も無茶苦茶になったが、アメリカなどからすればソ連を苦しめたので、元手のかからない効率的な外交(=戦争)の一つでしかなかった。
 その後アメリカは痛いしっぺ返しを喰らう事になるが、この時点では効率よくソ連を苦しめる最も効果的な手段だった。 

 結局アフガニスタンでの戦いは、ソ連が音を上げて逃げ出す事で1988年8月に終わった。完全撤退は翌年2月だが、実質的な終戦がイラン・イラク戦争の終戦とほぼ同じというのは皮肉と言えるだろう。


●フェイズ119「復活の日本経済」