●フェイズ119「復活の日本経済」

 1977年秋の総理大臣選挙は波乱含みだった。
 衆参同日を合わせた最大級の統一総選挙で、1974年の大改革の当面の結果についても是非を再び問う選挙でもあった。そして大改革では民主党も大きな存在感を示した為、民主党にとっては24年ぶりの総理奪還を狙った選挙となった。
 そして民主党が選挙の顔として選んだのが、平岡公威という名を持つ人物だった。この本名よりも、選挙中に公然として使われた別名の方が知名度は遙かに高いだろう。
 別名を三島由紀夫という。

 三島由紀夫(平岡公威)は、昭和を代表する作家の一人だった。ノーベル賞候補と言われるほど、世界的にも知られた作家だった。そしてもう一つ、彼には特技があった。演説が巧かったのだ。平岡は国防への関心を強める中で軍人達との交流を持ち、その流れで民主党の政治家とも交流を持つようになった。しかし政治自体には興味は持たず、日本の将来を憂いていただけだとも公言していた。
 しかし知名度の高さから世間から注目され、また彼が日本の国防について強い意見を持っていた事から、軍からの支持の高い民主党が彼を説得して引き入れ、議員にはならない、筆は休めないと言う約束のもとで、民主党の「応援」に引っ張り出されてくる。これを世の中は、いずれ総理選挙に出る始まりだろうと捉え、議員に立候補しなかった平岡だが、いつしか民主党の顔になっていた。
 選挙での民主党の支持率は大きく伸び、選挙の争点がいつもの経済と軍事ではなかったことも自由党の不利に働いた。75年の改革では自由党、民主党共に経済の再建を最優先にして、選挙でもどちらもが改革の継続を唱えた。この中で自由党は、それ以上の訴えをする事が難しく、民主党は経済の再建と共に経済力に似合った軍事力の整備を訴えることで、在郷軍人会などからの強い支持を得た。
 選挙結果は、総理大臣こそ大平正芳のもとで副総理を務めた福田赳夫が、改革での活躍を評価されて民主党候補の三木武夫を破って当選したが、衆参議員選挙では民主党が久しぶりに与党に躍り出てしまう。
 今までは問題視されなかった総理選挙と議員選挙を分けていた事が、ついに弊害となって現れた形だった。この時の選挙を教訓として、総理公選制度と議員選挙の見直しが計られるようになるが、それはまだ少し先の話しだ。
 この時の問題は、現実問題として総理が野党所属となった事だ。幸いと言うべきか、経済問題では自由、民主共に同じ方向性を打ち出していたが、軍事力の再整備の面では難しい舵取りを余儀なくされる。だが、軍事より経済を大幅に優先するべきだという民意もあり、軍備に関してはほぼ据え置きのままとなった。
 一方では民主党や軍、軍需企業が望んだ、軍需企業対策で兵器貿易に力を入れざるを得ず、この政策はある程度功を奏して、日本にかなりの外貨をもたらすと共に日本経済の復活の大きな一里塚ともなった。

 またこの時の選挙経験の為、以後の民主党は党内の政治力学よりも、国民からの支持の高い者を総理候補に推すようになっていく。一時は平岡を本当に総理にしてしまおうと動いた程で、実際に衆議院選挙出馬を何度も打診した。だが平岡自身が強く固辞したため、平岡が政治家になる事はなかった(※説得にきた有力議員達を、武士が切腹の際に着る白装束(死に装束)で出迎えたと言われる。)。しかし彼が説いた国防の重要性については国民の理解を得られ、その後の軍備の再建につながっている。
 一方で民主党は、1968年の石原慎太郎、1978年の福田定一など、有名作家など政治と関係の薄かった人物が有力議員、有力政治家となる道を大きく開いていく事にもなった。そしてこうした所にも、1974年の大改革の影響があったと言える。
 また、与党となった事から議会は民主党主導となり、中曽根康弘、石原慎太郎らによって動かされ、今までになく民主党の存在は国民の間でも強く認識されるようになった。
 だがこの時の政治のねじれ状態は、国政全体から見ると不利益が大きいため、制度改革の大きな切っ掛けにもなったのだ。

 その次に総理大臣となったのは、民主党の中心で辣腕を振るっていた中曽根康弘だった。山本五十六以来27年ぶりの民主党の内閣総理大臣であり、27年ぶりの軍人出身の総理でもあった。(※中曽根は第二次世界大戦中だけ海軍将校として従軍。最終階級は大佐(万歳大佐)。)
 またこの時期は、民主党が議会などでも非常に強い勢力を持っていた事もあって、強力な内閣を形成することにも成功している。
 彼の内閣は、当時の民主党の勢いを現すように近年にないほど強力な布陣で、中でも有名なのが後に総理大臣となる石原慎太郎が副総理、福田定一が兵部相をしていたことだった。このため「文人内閣」と自分たちは言ったが、周りからは「超タカ派内閣」と言われた。
 福田定一は、良く知られているように中曽根以上に軍人だった。彼は第二次世界大戦末期に従軍して、その後も本人曰く「退役しそこねて」陸軍将校としての道を歩んだ。実際は、日本の重戦車(※司馬言葉で「陽気な乗り物」)に惚れ込んだ為、退役したくなかったと晩年に述懐している。しかも、戦後世界を代表する戦車将校の一人であり、戦後世界を代表する戦争英雄ですらあった。
 その傍らで最初は趣味、そしてその後はプロとして作家にもなり、作家軍人、作家将軍などとも呼ばれた。そして支那戦争、インドネシア戦争では世界的にも著名な戦車将校として活躍するが、インドネシア戦争では少しばかり活躍しすぎてしまった。
 彼の直接の活躍が、戦争全体に大きく影響したと世間には見られてしまい、日本ばかりか自由主義陣営全体から戦争の英雄と見られた。そしてそれだけなら昇進や勲章で済む話しなのだが、彼の経歴が邪魔をした。というのも、彼は生粋の将校ではなく、一般大学から将校になっていた。このため陸軍士官学校を出た生粋の陸軍軍人から見ると、本来なら出世競争には関わりなかった。だが、度々大きな戦功を挙げた優秀な軍人だったため、出世競争で生粋の将校達を追い抜いていった。しかも花形の機甲科、さらに戦車将校でもあった。このため陸軍将校の中では、一般出の将校からは期待の星と見られ、士官学校出の将校からは嫉妬された上に出世の邪魔として疎まれた。
 こうした状態に嫌気がさしていた福田は、既に作家活動が順調だった事もあり、インドネシア戦争から帰ってくると、すぐにも予備役願いを出してしまう。軍もこれを受け入れ、退役前に半ば報償として中将に昇進させた上で退役させた。
 だがこれは一種のスキャンダルだとマスコミに取られ、一躍時の人ともなってしまった。そしてこの時点で戦争の英雄、有名作家という事も重なって世間からも強く注目され、その人柄にまで関心が集まってしまう。そしてテレビの前の福田は、世間の人々が想像したような常勝将軍やエリート軍人ではなかった。彼は作家であり、見方によっては口べたな大学の講師のようにも見えた。彼がインドネシアから帰ってから出した本は、知名度もあってどれもベストセラーとなった。
 そしてこの状態に民主党が目を付ける。
 福田の側も、一般出の将校達の期待を裏切ったという負い目もあるため、民主党の誘いに乗る形で1978年の選挙で民主党の顔として衆議院議員になった。そして本来ならすぐに要職に就く事はないのだが、第二次中曽根内閣(1983年)の時に兵部大臣に抜擢されている。この人事は、第二次世界大戦、支那戦争、インドネシア戦争に関わった国の軍人や軍に関係の深い人々から好評で、彼の知名度をさらに高める結果となる。軍人としての彼の海外での知名度と人気の高さのため、外務大臣にした方が良かったと言われたほどだった。

 そして中曽根康弘自身だが、久しぶりの民主党政権という事で諸外国から注意深く見られるも、彼自身も第二次世界大戦で将校だった経歴が国際政治上で有利に働いた。
 と言うのも、アメリカ中から期待されるも期待に応えられなかった民主党のロバート・ケネディ政権のあと、1981年〜89年のアメリカ大統領となったドナルド・レーガンのもとで副大統領だったジョージ・ブッシュとは戦友で、日米の関係を深めるのに都合が良かったからだ。
 ジョージ・ブッシュはその後89年〜97年に大統領となり、同じく第二次世界大戦にも従軍した福田とも関係を深めることになるが、戦争中に交流のあった中曽根とブッシュは、戦後も時折会っていたので関係の深さが違った。中曽根とレーガンは「ロン・ヤス」と言い合うほど仲が良かった為、中曽根とブッシュの関係はなるべく表立たないようにしていたほどだ。
 そして中曽根政権の時代は、アメリカのレーガン政権がソ連、共産主義陣営と全面対決の姿勢を見せ、「スター・ウォーズ計画」、「海軍600隻体制」など景気の良い軍拡の方向性を世界中に示したが、日本も最も重要な同盟国、アジア最強の国家として同じ流れに乗ることができた。それも1970年代に大きな痛みを伴う改革が成果を挙げつつあったからであり、国力、GNP(もしくはGDP)そして軍事費が伸びつつあったからだった。この点が、先の福田政権との大きな違いだったとも言えるだろう。自由党政権時代は、軍拡をしたくてもできないのに対して、中曽根政権の特に第二期はかなりの大盤振る舞いをする事ができるようになっていた。

 中曽根政権での軍拡スローガンとして有名なのは、「日本列島不沈空母」と「新八八艦隊計画」になるだろう。
 「日本列島不沈空母」は、戦略原潜と戦略空軍を用いた全世界規模での核戦力展開能力の向上を目指した「世界展開できる不沈空母」とされ、さらにアメリカの「スター・ウォーズ計画」と合わせる形で大規模な宇宙開発にも連動していた。
 「新八八艦隊計画」は、東西両陣営の主戦場がヨーロッパなので、ヨーロッパ特に日本の防衛分担となる地中海への強力な兵力展開を行う表看板として海軍の増強をうたったものだった。
 この時期の軍拡では陸軍と空軍があまり目立っていないが、日本の陸軍は西側陣営全体で見ると主戦力足り得ないのは明らかなので仕方のない面が多く、これは70年代後半の軍縮も強く影響していた。この時期の陸軍は、欧州派遣部隊、緊急展開部隊と平行して国土防衛軍としての性格を強めるようになっていた。同じ事は空軍にも言えたが、空軍の方は戦略空軍との役割分担がうまく機能している証でもあった。日本の空軍は、本土北辺とイタリア北部での防空以外は、緊急展開部隊と合わせて各地への増援という向きが強かった。
 この時期の日本の防衛分担でいうと、満州方面、支那方面の主力は完全に満州帝国になっていたし、西アジア、インド方面はイラン、インドの役割が強まっていた。80年代のイランはイラクとの戦争でソ連どころではなかったが、軍事力自体はこの時期に非常に大きくなっている。
 またヨーロッパ方面では、日本軍の駐留する北イタリアは枝戦線、副戦線でしかなく、西側陣営がライン川正面で総崩れにならない限り、あくまで抑止力でしかなかった。地中海全体も似たところがあった。
 このため日本軍全体としては、全世界に展開しやすい戦略空軍と海軍を重視したのだ。
 とはいえ軍事を整えるには、国力と経済力が不可欠だった。その事を10年ほど前に思い知らされたばかりだった。このため中曽根政権も、経済重視の方向性も強く持っていた。

 1980年時点での日本の総人口は、約1億5200万人。うち内地や本土とも言われる旧来の日本列島地域の人口は1億3300万程度。戦後長らく野放図な人口政策が続いた結果だった。
 しかも1946年以後40年間の平均で、毎年30万人以上の日本人が満州など海外へと移民しているので、移民人口が日本に止まっていたと仮定するとさらに1000万人から1500万人ほど人口が多かった可能性もある。日本人移民の約90%が移民した満州帝国では、1946年で400万人程度だった日本人、日系人の総数は、1980年の時点で日系人以外との混血を含めると3000万人を越えている。
(※神の視点より:史実1980年の総人口は約1億1700万人。日本列島だけで約14%多い。また蜜月日本の出生率低下は、昭和30年代前半まで野放図な人口増加(※実質的な妊娠中絶禁止と半ば無自覚な多産政策の推進)を行った影響もあり、史実より10年〜20年遅いペース。)
 この時期の日本の領土は、日本列島を構成する4つの大きな島を中心とした島々以外だと、北から順番に千島列島、南樺太、台湾、内南洋諸島、外南洋諸島(ビスマーク諸島地域)になる。1977年に国際的に「200海里水域制限」という200海里(約370km)内では無断で外国漁船が漁をできない取り決めが行われたが、日本は北太平洋の西部一帯を覆い尽くすほどの広大な海域を勢力圏にする形になっていた。海洋大国という言葉があるほどだ。
 千島列島、南樺太は人口は少ないが、ほぼ日本本土と同列になっていた。台湾も自治権の拡大こそ求めるも独立という向きは無かった。使用言語も、日本語が主流だった。一応は国連委任統治領扱いの内南洋、外南洋も、長年の統治で「日本化」が進みすぎていたせいか、少数民族の保護や伝統文化の尊重、さらには自治の拡大こそ求めるが、現地からの独立の動きは乏しかった。
 また一部の島に日本軍の基地、大きな宇宙基地があるため、そうした場所では完全な日本領化の動きも年々進められていた。
 また国連委任統治領として、当時はブルネイ(1984年独立)、ディエゴガルシアの領有権も有していた。シンガポールは1964年に完全独立しているが、この時期はまだ日本軍の基地が置かれていた。他にもアジア各地、イタリア、フランスに日本軍基地があった。
 支那地域の海南島は、日本、アメリカ、満州の無期限の共同国連委任統治領のままだったが、徐々に自治独立地域としての性格を強めていた。
 そして日本の領土=日本列島+台湾というのが一般認識に近く、経済自体の中核も同じだった。

 日本経済の再編と再生は1975年に開始され、大幅に削減された軍事費から得られた資金が主に国内開発への投資に回され、大規模な公共投資、再生産を伴う経済活動へと活発に投じられた。企業の投資も、今までの軍事偏重が嘘のように、活発な民間投資へと大きく舵を切った。
 日本の景気は、早くも1976年には大きな回復基調を示すようになり、雇用の創出、所得の向上、そして税収の拡大、次への再投資という好循環を作り出すことに成功した。これは日本がまだ先進国ではなかったからこその成功でもあった。また、当初は得られる外貨のかなりが兵器輸出によってだったが、日本人の誰も気にしなかった。
 1974年の改革では、大幅な規制緩和と旧弊を打破する為の法制度改革が極めて大規模に行われた事もあり、国内各所では巨大な雇用を生み出す国内開発が開始されている。東北・上越新幹線、主要地域以外の高速道路網、日本各地の巨大空港、東京、大阪の副都心建設、湾岸開発を中核とする都市改造もこの時期に開発が本格的にスタートしている。
 日本は、一時期強く言われていた「中進国の罠」をくぐり抜け、明らかに良性の変化、真の先進国への道を進みつつあった。
 しかし、簡単に民需の貿易拡大ができるわけではなく、武器貿易以外の貿易は伸び悩んでいるのが実状だった。民需への投資を増やしたからと言って、すぐに優れた製品が生まれてくるわけではないからだ。
 また1970年代、80年代は、満州帝国の企業が西側世界の市場を席巻しており、80年代になるとアメリカとの間には深刻な貿易問題を引き起こすほどとなっていた。日本と満州の経済関係も逆転してしまっており、日本から満州に相対的に安価になった製品が輸出されるようになっていたほどだ。
 このため改革以後しばらくは、日本は先進国になれなかった国の一つと言われ続けていたほどだ。この事は、1970年代半ばから満州の企業が日本に工場を置くようになったので、さらに強く言われた。

 1975年から1980年にかけてのGNP拡大は、アメリカが170%、満州が210%に対して、日本は150%程度に止まっていた。しかし依然としてドルの価値が下落する傾向にあり、満州の両(テール・M¥)は2両60分あたりにまで高騰していた。GNP増加が大きいのもドルベースのためだ。
 日本円も1977年以後は円高に転じ、1980年には1ドル=4円を切るようになっていたが、それでもアメリカの成長にはまだ追いつけていなかった。円高になったのは、この時期のアメリカが今までの圧倒的経済力に比べて低迷していたからに過ぎない。
 また、1979年の第二次オイルショックは、成長率を一時的に落とすほど復活途上の日本経済は冷や水を浴びせかけていた。満州同様に経営の合理化、省エネルギー対策を進めたかったが、経済の再生がまだその段階にまで到達していなかったため、経済発展と輸出戦略は後退を余儀なくされた。それを補完するべく、さらなる武器輸出に精を出すことになり、これは折からのイランへの好調すぎるほどの輸出によって予想以上に成功し、その後もイランへ膨大な武器が石油を買うよりも多く輸出されていく事になる。
 しかし改革から以後十年ほどは、日本にとって軍事優先から経済優先、軍需から民需への転換期であり、世界経済に大きな影響を与えるほどではなかった。この時期の日本に文句を言ったのは欧米の軍需企業ぐらいだが、それが相手なら国際影響力が強く軍需産業の大きい日本なら、どうとでも対応できる事だった。
 第二次世界大戦後の日本が苦手としたのは民需の経済面であり、1974年以後の日本はその苦手を克服するための準備期間だったと言えるだろう。
 そしてそこに、日本にとっての大きな追い風と言える変化が訪れる。
 1985年9月の「プラザ合意」だ。

 「プラザ合意」はニューヨークのプラザホテルで行われた、先進5カ国蔵相会議での為替レート安定化の総称となる。5カ国とされるアメリカ、満州、日本、イギリス、フランスの蔵相(財務相)が集まった。
 特にアメリカと満州の為替の変動容認が大きな特徴だった。反面日本は、まだ先進国とは言えない一人当たり所得だった事、経済再建の途上だった事、東西冷戦に勝つ為にも立ち直ってもらわないといけない国だったことなどから、満州とは逆に円安誘導が決められた。この結果ドルベースでの日本の所得、GNPはまた大きく下落したが、この時は15年前の日本とは違っていた。しかしアメリカの真の意図は、日本と満州の扱いを真逆にすることで、両国の連携に楔を打ち込むことだったとも言われている。だがこの時の決定は、日本にとってまさに「神風」だった。この時の好景気も「神武景気」と言われた。
 円安によって劇的に安価になった日本製品が、アメリカ、満州、西欧、さらには全世界へと続々と輸出され、日本の貿易黒字が凄まじい勢いで増えていった。所得の向上も急速だった。15年前とは違い、国内の頑迷な既得権益を守るだけの古くさい規制が撤廃され、生産体制が刷新され、労働生産性が大幅に向上し、品質が国際水準を超え、優良で安価な日本製品が世界中に輸出されるようになる。
 しかも当時は、満州の輸出の方が世界的にも目立っていた為、日本は誰にも文句を言われることなく自由貿易の真の恩恵に与ることが出来た。1987年から90年の経済成長率は良性な経済発展で年平均で10%を越えるほどで、長らく旧態依然としていた日本を根底から変えていくほどの勢いがあった。
 もちろん、日本の急速な経済成長に伴い為替の円安も是正されていったが、これ以後の日本経済の成長にとって非常に良い再スタートとなった。これ以後日本は、長期間の順調な経済発展、しかも高度経済成長のレールへと乗っていく事になる。「プラザ合意」は、日本が大国から真の先進国となる大きなターニングポイントだった。
 しかし日本としては74年の改革で発射台を作り、プラザ合意でようやく打ち上げられたロケットのようなもので、経済的な本格的発展はまだこれからの事だった。当時の総人口がアメリカの3分の2近い1億5000万人という事が、これ以後大きく活きてくることになる。かつてのドイツ帝国の皇帝が見れば、黄禍論を叫んだ事だろう。

 一方で、1970年代〜80年代は経済の浮き沈みが激しかったのに対して、生活や文化は一時的な困窮があったことを踏まえても、順調に発展していたと言えるかもしれない。
 食糧自給率を見ると、おおまかだが生活水準が見えてくる。
 日本は1920年代から食糧輸入国だった。とはいえ、世界規模で物流が大きく拡大するのは1960年代以後の話しで、それまでは他国から食糧を輸入すると言っても限られていた。当時の世界での例外はイギリス(本国)ぐらいで、日本の食糧輸入も準本国といえる満州からの輸入に限られていた。
 日本が満州以外から食糧を輸入するようになるのは、第二次世界大戦が契機となった。徴兵による国内での食糧生産量の低下と、イギリス本国との連絡を絶たれた英連邦諸国の余剰食糧がうまく噛み合って、日本はカナダ、オーストラリア、インド、さらにはアルゼンチンから食糧を輸入するようになる。
 戦後もその流れは続き、そこに食糧生産力をさらに向上させたアメリカが加わってくる。満州からの食糧輸入も、満州が人口拡大で輸出力を大きく減少させる1970年代まで続いた。
 日本の食糧自給率は、戦前がおおむね90%程度。戦後は徐々に低下したが、1970年代まで70%程度を維持した。維持するために、政府は農業経営の大規模化と企業化、労働集約から資本集約への転換をさらに押し進め、特に主食の米の増産に力を入れた。欧米諸国は、これを現代のエンクロージャー(囲い込み農業)と言ったりもした。
 食糧自給率が60%を切ったのが1980年。その後は、今日に至るまで何とか50%を維持している。日本人の食生活の変化で米の生産は徐々に減少したが、競争原理と市場原理に従い、(日本としては)大規模経営化、企業化が進んでいた農業は、かつての名主達が柔軟に生産物を変化させていった。
 食費に占める割合(エンゲル係数)も、長らく35%を挟んで推移していたものが、1980年前後から大きく低下していっている。
 そして食生活の変化があったということは、それ以外の分野でも生活に変化があったことを現している。

 いわゆる衣食住の充実は、国民所得と強く関連している。日本での食糧自給率の低下は、単に人口が増加しているだけでなく、所得が向上して人々が贅沢な食事を徐々にするようになっていった事も示していた。それでも巨大な人口に対して自給率50%程度が維持されたのは、政府と生産者が努力したからであるが、政府のもう一つの努力も見逃せない。
 日本の地形は平地が少なく、狭い土地をどのように有効活用するかは大きな課題であり続けた。沿岸部の都市の臨海部が大きく埋め立てられるようになったのは、都市の発展に伴い少しでも平たい地面を確保しようとする努力の結果の一端だ。しかし生活の向上は、一人当たり住宅面積の拡大も促してしまう。だが、狭い日本で広い床面積の家を沢山造ろうとすれば、今まで農地だった場所を犠牲にするしかない。一方で大都市では、限られた土地を巡って地価の高騰が避けられない。これらを少しでも緩和するため、政府は土地の価値を下げる政策を行う一方で、住宅地の供給を一戸建てや低層の木造集合住宅ではなく、中層以上の団地(マンション)の大量供給で対応しようとした。そして日本人一人当たりの所得が大きく向上したのが1970年代終盤以後となった事もあって、1980年頃から日本中で高層もしくは超高層マンションが無数に林立していくようになる。
 地方都市外縁部を中心とする既得権益に固執する層(※主に名主、自作農)に対しても、大規模な政府主導による土地買収が進められた。大都市中心部もしくは周辺部の古い人口密集地帯に対しても、都市整備のため同様の集団買収が精力的に実施された。ニュータウンと呼ばれる、山林を切り開いた大規模団地が各所に建設されたのも、1970年代後半以後のことだった。また、主に都市部に多かった銭湯が本格的に衰退し始めたのも、家庭用の風呂が一気に増えた1980年代になってからの事だ。
 結果、庶民にとって一戸建住宅はまだまだ高嶺の花だったが、「兎小屋」とアメリカなどから言われた一人当たり居住面積の狭さは劇的に改善していく事になる。モダンなマンションでの暮らしは、1980年代の日本の庶民の一つのシンボルとなった。(※それまでは精々低層「団地」だった。)

 一方、デジタル化時代以前の庶民向け耐久消費財と言えば、家電製品と自家用車(乗用車)になる。家電製品の代表はテレビ(時代によっては白黒テレビ)、電気冷蔵庫、電気洗濯機になるだろう。以上3つの家電の普及率が95%以上を越えるのは1983年前後になり、カラーテレビと洗濯機の普及は1970年代までは遅れがちだった。家電の普及率は先進国に遠く及ばず、先に所得面で先進国入りした満州帝国にもかなり遅れていた。
 乗用車の普及に関しても、他の先進国に比べて大きく遅れた。1980年代終盤でようやく50%を越えるが、それも農村や小規模事業主の仕事で使う業務用車を足した数字でしかない。日本での車と言えば、長らくオート三輪か、その派生型の小型車だった。この経緯があるため、現在に至るも「軽自動車」と呼ばれる他の先進国国にはあまり見られない小型の車種が大きな勢力を占めている(※国土の平地面積の狭さも影響している。)。そして小型車以上に普及していたのが、自動二輪車、いわゆる単車もしくはバイクだ。
 日本は長らく自動二輪車大国で、現在では大量生産される自動二輪車メーカーの上位を占めている。ホンダのカブ(スーパーカブ)は、世界の産業史に残るほどの名車で、世界中に広く普及した事でも知られている。ホンダ、カワサキ、スズキ、ヤマハの4大メーカは、気が付けば世界中のバイクメーカーを抜き去って、世界中で最も売れている大衆向けバイクを生産する企業になっていた。それも日本国内での競争と淘汰、開発のおかげであり、現在に至るも日本は世界一のバイク生産大国である。(※21世紀以後は、アジア各地など海外での生産が主力。)

 一方で乗用車の生産では、先進国に一歩遅れていた。東京、大阪などの大都市で、古くからの水路と水運が使われ続けたのも、自動車普及率の低さを物語っている。国内航路の客船(連絡船)も、長らく盛況だった。一般道、高速道路を行き交う車も、乗用車よりはトラックなど産業車の方が多かった。しかも飛行機産業の大きい日本では、各メーカー、旅客会社が競ったため、遠距離移動として安価な飛行機移動の普及が所得や国家規模を考えるとかなり早かった。おかげで、自動車の普及ばかりか高速道路の拡大も遅れ、さらには高速鉄道の新幹線整備までが遅れたほどだった。
 なお、乗用車を一から自力生産できるかどうかは、先進工業国としての一つの指標と言われる。日本の場合は、第二次世界大戦以前に一応達成されていたが、製品の質や性能となると欧米先進各国に一歩劣っていた。そして戦後も、国内市場が今ひとつ成長しない状態が長らく続いた事もあり、今ひとつな状態が続いた。日本国内のメーカーはアメリカなど海外輸出を伸ばそうとしたが、日本より一歩先を進んだ満州に追い抜かれてしまう状態だった。日本の自動車メーカーの多くが乗用車で大きく飛躍するのは1990年代以後の話しで、日本が本当の先進工業国になったのが1990年代だと言われる理由の一つとなっている。
 日本を代表する自動車メーカーは、バイクメーカーでもあるホンダ、スズキ、何でも作る三菱、川崎、専門メーカーのトヨタ、マツダ、ダイハツ、日野、イスズなどがあるが、ほとんどの企業が大きく海外に飛躍するのは1990年代以後の話しだ。
 そしてそうした時期に経済面で日本より前を進んでいたのが、満州帝國だった。

(※神の視点より:スバル(富士)は、前身の中島が飛行機メーカーのままで、日産は主力が満州に移転しているので、どちらも日本の自動車メーカーとしては存在していない。)


●フェイズ120「躍進の満州帝国」