●フェイズ120「躍進の満州帝国」

 1977年、満州帝国では建国50年の祝賀行事が盛大に行われた。その前年には、康徳帝(溥儀)の70才を祝う行事も盛大に行われる。康徳帝70才の年には日本から昭和天皇が訪問し、建国50年の時は総理の福田赳夫がそれぞれ祝賀行事に列席している。
 二つの行事は、満州が西側世界第二位の経済力を達成し、さらに躍進している最中の行事でもあるため、世界中に満州の勢いの大きさを示すことになった。康徳帝の言葉よりも、当時の首相の田中角栄の「満州は今後もますます躍進するでしょう!」と独特の口調で国の祝賀を言葉の方が世界に満州の現状を印象づけた。
 そして満州の躍進を支えていたのが、主に日本からの豊富な移民もあって高い数字を示し続ける人口増加と、人口がもたらす大きな内需の拡大と、そしてアメリカに対する貿易黒字だった。

 1980年頃のアメリカは、貿易赤字と財政赤字という「双子の赤字」に苦しめられるようになっていた。
 国家財政が赤字なのは世界中でよくある事なのだが、ダントツで巨大な経済力を持つアメリカで起きたことが問題だった。しかも当時のアメリカは、前のロバート・ケネディ政権からの高金利政策を受け継いでおり、その上で政権の表看板である「強いアメリカ」を目指した大規模な軍拡を行うのに、共和党の伝統と言える減税政策も行った。財政が悪化するのは当然の状態だった。
 そこに満州、西欧諸国などに対する貿易赤字が、アメリカの状態を酷く悪化させたと考えられていた。
 アメリカでは、1970年代にいわゆる「生産業の壊滅」が起きた。これはアメリカ国内で製品を作ると賃金の問題から高コストになるためと、かつて作った生産設備が老朽化した事が重なって起きた。20世紀前半で世界一を誇った鋼鉄の街のピッツバーグが、20世紀が終わる頃には大きく異なる産業構造を持つようになっていたほどだ。そして新たにアメリカ国内で設備投資するよりも、海外から同じ製品を安く買う方が当時慢性化していたインフレが抑えられた。そしてアメリカの生産国となったのが、満州帝国だった。

 満州帝国は、国家資本主義、企業国家と言われるほど資本主義の一面を突き詰めた国家だった。他の資本主義国と違うのは、企業や株主、従業員に還元する形が強い事だった。従業員が株式を持つ事も多く、社会主義的と言われる事もあった。
 また、財閥一族という既得権益も、大きなものは存在しないに等しかった。また一方では、世界平均から見て法制度が上位者に対してかなり厳しく、同様に賄賂、横領などを行った者に対しても厳しかった。これは、国民の半数以上を占める漢族のDNAレベルに浸透している体質に対する国としての防衛策だが、基本的には良性に作用していた。もっとも富裕層にも厳しい面は、伝統階級と伝統的富裕層の多い西欧からの批判も強かった。
 一方で「国民=社員」も、国内での競争と淘汰を強いられ、重度の脱落者(※特に若年無業者)への国の社会復帰事業は、徴兵制度とセットで先進国としては非常に厳しいと言われた。
 それでも働いた分だけ報われる社会なので国民の大多数は満足し、主に日本からの移民も多かった。技術者、研究者も世界平均以上に優遇されていたので、理系の強い国としても知られていた。
 また一方で、移民の国であるアメリカからの移民が多い事でも有名で、特に1960年代の公民権運動までのアメリカからは、有色人種の移民が非常に多かった。このため、1920年代から以後半世紀の満州のアメリカ系移民と言えば黒人というイメージがあったほどだ。
 反面、年金制度、健康保険制度には一時期以降のアメリカ並に厳しい面はあったが、国民も国家が余計な負担を抱えるべきではないと言う認識があった。そうした意識を持たせるほど、満州帝国には経済面での勢いがあった。
 そうした国を率いるのが、社長宰相とも言われた満州帝国の首相だった。

 この時期に満州帝国の首相だったのは、日系満州人の瀬島龍三。もと軍人だが、軍人から財界人、政治家を経て田中角栄内閣での活躍から首相へと上り詰めた。
 経済人というよりは軍人であり政治家で、あまり満州らしくないと言われることもあるが、経営者のセンスも十分に持ち合わせていた。財界との関係も良好で、何より強い外交センスを持っていた。
 瀬島は、前首相の田中角栄が1980年に脳溢血で倒れた時、副首相になっていた。このため田中が倒れ政務不能になると、首相を代行。そして田中の政務復帰が不可能と分かると、議員投票の形で首相に就任した。
 瀬島龍三は日本出身で、第二次世界大戦でロシア戦線に従軍して、その後満州に帰化した移民一世。終戦後には講和会議に参加し、世界中の軍人達とも交流を持ったエリート軍人だった。
 前述したように軍人、財界人を経て政治家になり、田中内閣では初期は国防大臣だったが、その後副首相へと出世して、戦後5人目の首相となった。この頃満州では、首相も民主選挙で選ぶべきだという国民の声が高まっていたが、まだ制度が整っていない事と田中角栄が急に倒れた事もあり、旧来の専制的な決め方で瀬島が首相となった。
 しかし瀬島も他の政治家達も、国民の声と日米など諸外国の声を無視できなくなっていたので、瀬島が首相の時代に民主的な議員選挙が行われる制度が作られた。それでも政党の中では満州自由党は圧倒的に強い為、あまり変化が無かったと言われる事も多い。
 瀬島の首相時代は冷戦最盛期であり、また満州では彼が首相の間に冷戦を終えている。このため瀬島内閣は、西側陣営の重要な一角として冷戦時代最後の軍拡を指導する傍ら、相変わらずの経済の拡大に邁進した。そして冷戦構造が終焉を迎えると、いち早く軍備の縮小とそれに伴う各種改革を断行している。このため満州は、冷戦終結後もさらなる経済の拡大路線を進むことが出来た。
 もっとも満州には、ソ連がいなくなっても支那中央の国々とは関係が思わしくないのは昔から変わらない為、冷戦終結後の西欧各国のような極端な軍縮は行わず、拡大した経済力に似合った軍備を持ち、そして軍事力も自らの国際影響力の拡大に有効に利用している。

 次に1980年頃の満州の国力データを見てみるが、総人口は1978年に一つの目安とされる一億人を超えて、1億500万人にまで増加していた。第二次世界大戦後すぐで4000万人ほどだったので、いかに人口が増加したかが分かるだろう。満州の人口増加が多いのは、出生率が高かったのもあるが、主に日本からの移民が多かったからでもあった。戦後日本から満州に移民した数は1000万人を優に越えており、満州が受け入れた移民の過半数に達していた。
 民族構成も、日系が大幅に増えていた。支那戦争以後は支那系(漢族系)移民を事実上禁止し、韓王国からの移民(流民や難民含む)も事実上の国境封鎖で禁じていたので、国内の自然増加以外では増えていなかった。故に主に増えたのは日系で、混血を合わせて3000万人を越えていた。終戦頃が400万人だったので、その増加はもはや計数的と言えた。満州としては、初期教育が施された程度の高い移民が欲しかったが故だった。
 アメリカ系及び欧米系は、終戦頃の250万人から1000万人近くに増えていた。と言っても、アメリカ移民の黒人系など有色人種を含めるので、白人系(※ハーフ以上の混血含む)にすると700万人ほどになる。土着の満州系、モンゴル系、大陸朝鮮系を合わせても1000万に届かないので、漢族抜きでも土着系のマイノリティー化が進んでいた。
 また国内での混血も進み、「○○系」とは言い難い状態も進んだ。そして国民の半数以上が漢族系になるが、世代を重ねた事もあり最早支那中央とはかなり違っていた。
 主に1950年頃までの華北部からの流民が多かったが、1980年代の彼らの多くは公用語の日本語か英語を話し、生活習慣の多くも日本や欧米のものを取り入れた文化的生活を送っていた。二世以後だと、支那系言語を話せない者もほとんどだった。国が支那系言語の公教育の必要性を全く認めていなかったからだ。
 そして自らの事を「満州人」と捉えており、支那中央との関係はもはや断ち切れていると考える者がほとんどだった。満州帝国が、移民の条件として遠い血縁との関係の希薄化を強く求め続けた結果だった。
 当時の国民所得は、1人当たりで8000ドル程度。総生産は8400億ドル程度となる。当時アメリカは総生産で約2億4000万ドルなので、ほぼアメリカの3分の1の経済力を有していた事になる。ドル安もあるが、満州の経済がいかに高成長だったかが分かる数字だ。満州の通貨両(テール)で計算しても、ドルベースで3倍以上も所得は向上していた事になる。しかもこの後も、満州経済の躍進は続いた。
 しかもドルベースでの所得は、「プラザ合意」で大きく跳ね上がる。当時1ドル=2両60分程度だったものが、わずか半年ほどで1両近くも急騰した。このため満州の所得は、ドルベースで一気に160%以上も上昇し、満州の企業は両高に対応するため生産合理化と海外進出を加速するようになる。しかもプラザ合意後も、国と中央銀行が「模範的」と言われるほど適切な対応をとった事から満州経済の勢いはそれほど衰えなかった。
 しかもドル安を利用し、ドルベースで巨大化した資産を用いて海外資産を増やし、今なお国内で不足する文物を購入したり、海外の企業買収や株式取得、特許買収に動いたりもした。人材のヘッドハントも盛んに行われた。そして1990年代ぐらいからは重工業国家からの転換も精力的に開始され、単なる産業国家から次世代の先進国としての脱皮も開始する事になる。
 ただし急速な海外展開を行った事にもなり、一時期は産業の空洞化が言われる事にもなる。
(※国内には十分な土地もあるので、低金利政策をしても史実日本のような不動産バブルは起きにくい。)

 所得の急速な向上に比例して、人々の生活の変化、大衆文化の成長も急速だった。
 満州は、満州族が数百年間あえて更地のままにしていた何もない平原に、日本とアメリカが作り上げた人工国家で、大衆文化は日本文化を中心としてアメリカ文化が濁流のようになだれ込んできた。しかし、主要民族は主に華北部から流れてきた漢族の為、華北部の漢族の文化が本当の意味での下地となった。本来なら土着の満州族が一番の下地となるべきだが、数の面で少数派のため、満州固有の文化と言えば皇族や貴族のものという向きが強かった。清朝の記憶もあるため、なおさらそうした向きが強かった。
 そして漢族の文化があくまで下地にしかならなかったのは、現代的、近代的な文化が古い文化を押し流してしまったからだ。さらには、支配民族が日本人とアメリカ人で、公用語が日本語と英語という点も文化の方向性を決定的とした。
 さらには、長い間近隣の日本が国力的にも文化的にも先を進んでいて強い波及力を持っていた為、古い文化を押し流していった。
 そして1960年代になり、満州帝国全体の国力と国民全体の所得が大きく向上し始めると、満州帝国としての独自色を強めていくようになったが、それでも日本、アメリカの影響は強いままだった。

 人気スポーツ一つを見ても、ベースボール(野球)が日米双方で人気があった為、満州でも人気となった。欧州や南米のように、フットボール(サッカー)が盛んになる事もあまり無かった。日本よりもアメリカの影響が強いため、アメリカンフットボール、バスケットボールの人気も高かった。寒い国なので、冬の氷上競技も人気だった。満州でサッカー人気が出るのは、1980年代以後の事だった。
 いっぽうで、日本の格闘技も人気が高かった。これは満州に集中して移民していった旧日本軍人達の影響が強く、彼らが剣道、柔道、相撲を精力的に広めたからだ。そして大衆娯楽としての相撲を求める声は国民の間からも根強く、日本に莫大な寄付金などのロビー攻勢を行ってまでして、1954年には満州独自の「満州大相撲」を開くようになっている。剣道、柔道も、国際大会では日本を凌ぐほどの強さを誇っていた。プロレスも、日本、アメリカと同じように長い間人気スポーツだった。アメリカ由来では、ボクシングがかなりの人気だった。
 そして1970年代後半以後、野球と相撲は日本との交流が一般化された。野球は、両国のリーグを戦い抜いた4リーグから上位8チームの強豪同士が、毎年秋に競い合う「アジア・シリーズ」が行われるようになった。このため日本シリーズ、満州シリーズが事実上形骸化したほどだ。しかも2000年代になると、日本、満州以外の国々のトップチームも加わるようになり、東アジアの覇者を決める世界規模のシリーズに進化している。
 大相撲は、長らく日満それぞれの国だけで巡業が行われたが、80年代ぐらいから交流が活発化し、互いの国で巡業を行う交歓興業が開かれるようになった。相撲の交流が遅れたのは、日本側が満州の相撲を自らの格下と見る向きが強く、態度の軟化が遅かったためだ。
 格闘技以外だと、映画産業の発展では日米より遅れたが、経済発展の差からテレビ産業は日本より満州の成長の方が早かった。このアドバンテージは長い間変わらず、電子化、電脳化の時代に入っても満州のリードが21世紀に入っても続いたほどだ。メディアの力、情報発信力も、国際的に見ても高い水準にある。またテレビ産業に関連して、映像面での大衆娯楽の発展も日本を凌ぐようになり、特に「サブカルチャー」の発展は20世紀後半の全期間を通じて満州がリードする事になる。
 また国に勢いがある証拠の一つとして、他にも様々な分野での活躍が見られた。さらに平均所得が大きく向上したことで、育成に時間のかかるような分野での人材の活躍も目立つようになった。音楽分野では、それまでアジアでの国際コンクールや発表会と言えば日本が中心だったが、1970年代以後は満州での開催が増えたりもしている。ポップスも、一時期は満州の活躍が日本よりも目立っていた。

 そして経済の躍進、文化の発展と比例して、第二次世界大戦以後ずっと満州企業の活発な活動が見られた。
 満州帝国を代表する企業と言えば、ER(旧:東鉄=東亜細亜鉄道)とMI(満業=満州産業)が二大コングロマリットとして有名だ。この二つの企業(もしくは企業体)は満州そのものと言っても過言ではなく、日本人は皮肉も込めて「公団」と揶揄した。しかし国家団体や国策企業のような官僚的な面は見られず、どちらも腐敗官僚がよく行う横領、不正蓄財などにも非常に厳しかった。二者に限らず満州の企業は、企業・国家の利益と個人の利益が、絶妙のバランスの上に保たれていた。
 二つのメガコングロマリットは産業の棲み分けが行われており、ERは交通、流通、情報、通信を中核として、先端産業の多くもカバーしていた。MIは20世紀の間は機械産業、重化学工業、鉱業に特化していた。そしてERはアメリカ系、MIは日系という違いもあった。食糧生産系以外の軽工業は満州全体での不得意分野で、衣料・繊維関係は長らく日本などからの輸入に頼っていた。しかも国が日本より先に先進国化していったため、生産コストの問題から遂に繊維産業が発展しないままとなった。しかし、後に炭素系などの先端繊維の素材開発で日本の後塵を拝する事にもなったため、満州の産業育成の失敗の一つと言われる。
 重工業化の一つの手段である造船業については、隣国日本に乗っかる形で1970年代に拡大したが、簡単にできる船の組み立てが中心で作るのが面倒な船首、機関などはあまり作らず、一から全て作れるというわけではなかった。しかも造船業については、2000年代以後は事実上整理されて、場合によっては手本としてきた日本の企業に吸収合併されていっている。満州の国家としての産業育成には、そうした事業者に対して非常な面も見られた。

 そうした中で満州が重視したのが、20世紀の機械産業の一つの完成型となる乗用車の一貫生産だった。
 生産技術は1930年代に日本の日産(満業)の事実上の全面移転によって、一通りの技術と基盤を導入。第二次世界大戦の中で、ノックダウンやライセンス生産でさらに技術を伸ばした。しかも満州では、主に日本からの企業移転の形での技術輸入をさらに押し進め、日本の自動車メーカーも日本より先にモータリゼーションが進む満州国内での販路拡大にのめり込んだ。
 満州を代表する自動車メーカーと言えば、MI系列のMIM(マンチュリア・インダストリアル・モービル=満州産業輸送機器=ミム)になる。そして満州単体となると、日本と違って自動車製造メーカーの数は少なかった(※日本が多すぎるとも言える。)。ここに日本企業進出の隙間が存在した。とは言え満州での自動車販売では、アメリカの各自動車メーカーが第二次世界大戦以前から大きなシェアを誇っていた。このため日本のメーカーが満州に進出する場合は、満州の側から提携を持ちかけられた場合が殆どだった。そうした日本企業の中で最大勢力となっていったのが、福岡に本拠を置く鈴木グループだった。

 鈴木グループは、鈴木商店から発展した鈴木商事を中核とした多国籍企業(コングロマリット)だ。鈴木商店の時代から、創業一族ではなく会長や最高経営責任者(CEO)をトップとした合理的な企業経営をモットーとしていた。
 有名なCEO(番頭)としては、鈴木商店時代に大きくした金子直吉と、鈴木を建て直しさらに大きくした出光左三がいる。1970年代以後は長期にCEOに就く者はなくなったが、企業理念は守られ続けている。
 鈴木グループは日本国内では長らく新興財閥に当り、経営が大きく傾いた時にモルガン・グループなどからの援助を受けているため、半分国外の財閥と見られがちだった。また三菱との関係が悪く、長年対立に近い状態が続いていた。このため鈴木自身も、日本国内で勢力を伸ばすよりも、アメリカとの関係の深さを活かして満州、アメリカでの拡大を計った。また国内では、台湾での勢力も大きかった。
 福岡をグループの拠点としたのも、日本の中央から遠く満州、台湾に近いからだった。
 二代目番頭とも言われた出光は、日本の為に奮闘した企業家としても知られ、特にイラン油田の開発と輸送は鈴木(出光)抜きに語ることは出来ないのだが、鈴木と欧米企業の繋がりが深かったからこそ、イランの油田開発が順調に進められたのも事実だった。
 鈴木を代表する日本企業としては、何と言っても石川島播磨重工(IHI)は外せないだろう。ただし、合併した片方の播磨造船所が鈴木系なだけなので、厳密に鈴木グループの企業とは言い難い。鈴木を代表する日本国内の企業としては、他に昭和シェル石油、神戸製鋼、帝人などがある。また1960年代以後だと、基幹銀行となる鈴木銀行や鈴木保険も代表する企業と言えるだろう。
 IHIは、造船、造機、軍艦建造を中心とした重工業企業で、日本のタービン系パワープラント及びロケットエンジン開発の中核を担う為、ある意味三菱重工よりも日本にとっては重要な企業だった。
 同時に鈴木グループは、満州にも大きな勢力を持っていた。特に船舶関連など重工業部門では大きな勢力を持っており、自動車産業はその中核だった。
 鈴木グループは自動車部門への進出が遅れたが、それを満州で巻き返そうとした。当初の社名は、「鈴木輸送機器」。アメリカ車のノックダウン、下請けから始め、第二次世界大戦で業績を拡大。1960年代には、堂々とした自動車の一貫生産会社となった。そして同時期に「北斗」という車がヒットしたことで有名となり、その後社名も「北斗自動車」に変更し、社章も「北斗七星」をモチーフとしたものに変更した上で、満州を代表する自動車会社としていち早く世界進出に成功している。
 鈴木は、他にも満州の海運と造船を担っており、その後造船部門は実質的に日本に統廃合で合流しているが、それでも満州の政府や軍が必要とする中型以上の船の建造に関わり、大連、旅順に造船ドックを抱えている。当然ながら旧播磨造船所(現IHI)が深く関わっていた。
 一方の海運業は、鈴木グループ自体が海運に強いこともあり、満州の海運としてはERを越えて満州随一を誇る。このため日本と満州双方の石油、天然ガスの輸送、販売では、無くてはならない企業となっている。
 そしてMIB、北斗自動車が満州での二大自動車メーカーになるが、他にもERの鉄道製造部門から派生していった産業車、大型車中心の東亜自動車、重機・軍用車メーカーでもある小松重工がある。しかし後者二つは乗用車よりも産業車、特殊車両が中心で、二大メーカーと競合する事は少ない。そして何より、自動車単独メーカーと言える企業がないのも特徴となっている。満州単体で見れば北斗自動車が当たるが、北斗は日本の鈴木系列の企業の一つなので、やはり違っていると言える。
 こうした単事業化しない傾向は満州の他の大企業にも言える傾向なのだが、一方では国が新規産業、新規企業を強く振興していたので、一つの産業に特化した企業も少なくなかった。と言うよりも、国内に財閥やコングロマリットの数が少なく、ごく一部の産業分野を除けば、産業の中心はそれぞれに特化した企業群の方だった。

 そうして時代と共に国家規模、経済が大きく広がるにつれて、様々な産業が育ち、多くの新興企業が生まれては消え、成功した中の一部が巨大化していった。日本から移転してきた東洋エアクラフト(旧 九州飛行機)、小松重工(日本の小松製作所から分社)なども、一からではないが新興企業群に含まれるだろう。アメリカの製造業が斜陽していくに従い、アメリカからも企業の進出や移転は増えていった。アメリカや日本で倒産や廃業しても、満州で生き残っている企業も一つや二つではない。
 そして成長産業には、国も大企業も惜しまず資金と人材を投入するため、何をするにも他国より動きが早いことが多かった。
 そうした企業の代表の一つに、「ハイテク満州」の象徴と言える「ソニー(SONY)」がある。
 ソニーは、日本人の盛田昭夫と井深大が一代で作り上げた世界的な企業で、満州の大連に本拠を置く多国籍企業だ。創業は第二次世界大戦が終わってすぐの1946年で、1950年代後半のトランジスタラジオの販売で一気に躍進した。アメリカ、日本へといち早く進出して、その後は世界初のビデオテープレコーダーを開発するなど映像、音響面を中心として家電業界の革命児となっていく。中でも1979年発売の「ウォークマン」は有名だろう。なお、満州の家庭用ビデオ規格を「ベータマックス」一種に染め上げさせたのは満州政府(商務省)の意向であり、必ずしもソニーが強引に進めた事ではない。
 またソニーは次世代の電子機器産業も非常に重視したため、満州の「シリコン半島」の特に発展段階で無くてはならない企業であることも忘れるべきではないだろう。
 そして自動車産業、家電産業と並んで、1980年代の満州の発展の柱の一つとなったのが、「珪素(シリコン)半島」でのデジタル産業の躍進と言える発展と大規模な海外展開だった。
 シリコン半島は早くから世界中で注目され、ソ連など東側陣営もココムをくぐり抜けるため、産業スパイとしてシリコン半島に多数の産業スパイを送り込んでいたと言われる。また満州政府は、デジタル通信網(いわゆるインターネット環境)の整備に早くから熱心で、現代に至るも更新速度でも世界最先端を走り続けている。

 そしてソフト面で「シリコン半島」の旗頭の一人となったのが、アメリカ人のスティーブ・ジョブズだった。
 ジョブズは、アメリカでアップル社を起業して成功したことで知られているが、1985年に社内での衝突などから同社を退職。
 この時、アメリカにヘッドハントに来ていた、ER(東鉄)系列の電子機器機企業「国際電脳」のスカウトマンと接触。満州に飛んで得意のプレゼンを展開することで、破格の条件で環境を整えて満州で起業した。
 ジョブズは一時期世界中を旅して回り、日本や満州にもかなりの期間立ち寄っていた為、満州への渡航自体はまったく躊躇しなかったという。それに満州はアメリカ移民も多く、英語が公用語の一つだったことも影響していると言われる事も多い。特にシリコン半島とも言われた遼東半島(大連)には、古くからアメリカからの移民が多く住んでいたので尚更だ。アメリカ人にとっては、満州もアメリカの延長線上の一つだった。「少し寒いカリフォルニア」「少し遠い西海岸」と言う者もいたほどだ。
 そしてジョブズは、すぐにも「NeXT(ネクスト)」を創設し、企業や学校向けのワークステーションを開発したが、これはあまり販売が振るわなかった。さらに数年後、旅順のポートアーサー工科大学(PIT)(※旅順高等学校の理科学科が前身)の講師の一人が半ば私的に開発していたと言うOS(オペレーションシステム)を一本釣りですくい上げ、それを基本として自らの会社の技術を組み込み、新たなOSとした個人向けパーソナルコンピュータを販売する。
 これが「i(アイ)-os」で、当時のアップル社のMacを越えるGUIを備えていた。そして以後満州、日本を中心にしてソニーの基幹PC「VAIO」と合わせて、アジア圏で急速に普及する。日本語(アルファベット以外)に対応し易いこともあり、「i-os」は日本でも日本電気などが全面的に採用するようになり、アメリカが強い危機感を持った頃にはアジア各地でアメリカが簡単に巻き返せないまでに浸透していた。
 そしてその後アメリカに乗り込んで、アメリカとの間に「OS戦争」と「パソコン戦争」を引き起こしていく。さらに1996年には、もといたアップル社(※この頃業績が酷く低迷していた。)を実質的に飲み込んでしまう事で、「NeXT」は携帯端末分野での世界企業となっていく。しかもアップル社自体は残したので、「NeXT」は間接的にアメリカの企業という事にもなり、アメリカが攻撃し辛い相手ともなった。
 またシリコン半島からは、「NeXT」以外にも世界的なIT企業として、ネットサービス会社「SET-TEN(接点)」なども90年代に誕生していく事になる。満州企業群の中核であるERからも、国際電脳のネット通販部門から分離発展した「ジャムチ」が、東アジアを中心に世界展開でも大きく成功している。
(※SNS系企業の台頭は21世紀に入ってから。)
 ちなみに、「i(アイ)」の由来はインターネットの頭文字と漢字(日本語読み)の二つだとされるが、ジョブズは最後までその漢字が何であるかは明かされなかった為、今日でも議論が止まない。

 そして主にアメリカと満州が貿易摩擦を激化させる中で、その解決手段としてアメリカの兵器を満州が大量に購入する。そしてそれは、当時の西側世界が必要とした事でもあった。


●フェイズ121「軍拡競争下の満州帝国軍」