●フェイズ122「満州帝国軍(2)と周辺国」

 この時代の満州帝国陸軍の主力戦車は、小松重工が開発していた「80式戦車(鉄虎)」になる。世界で2番目の第三世代戦車に当たり、その特徴を最初から全て兼ね備えていた。(※アメリカの「M1」と開発年は同じだが、正式化と量産開始が一年遅い。)
 60トンに達する巨体と120mm砲は先代の「21式戦車」とほぼ同じだが、装甲の大きな変化から戦車自体の形状も内容も大きく変化していた。だが設計の基礎は「21式戦車」を踏襲しており、他国と比べても堅実で信頼性の高い主力戦車の開発を実現した。
 満州の戦車は、第二世代型の「21式戦車」が日本との共同開発とはいえ日本の比重が大きく、ライセンス生産に近く国産戦車とは言えなかった。それまでも同様で、純国産戦車の開発は満州陸軍の悲願でもあった。これは国の威信としてもまた兵器売買の面でも重視されたため、古くから国産を目指した動きは続いていた。
 しかし当時は、満州への影響力を保持したい日本の意向を無視できない為、「21式戦車」は日本主導の共同開発となった。またこの時期は、パワープラント、トランスミッションの開発に自信が持てず仕方のない面もあった。この事が、小松重工の社内で「打倒三菱」の雰囲気を強めたと言われる。
 だが、その後の満州は経済力と国産技術双方の大きな発展により、様々な技術の国産に成功していった。早くも1960年代には完全国産の装甲車が開発され、十分に国際水準に到達していた。70年代には、世界に先駆けて戦闘装甲車が開発された。それでも重戦車の自力開発には足りない面もあるため、完全な国産は諦められていた。
 そして培ってきた技術とアメリカから満州への戦車輸出の話しを取引材料に、アメリカとの間に共同の戦車開発計画を起こす。これが「MBT70」で、開発自体は失敗に終わるも満州、アメリカの第三世代戦車開発に非常に大きな影響を与えた。
 なお、アメリカに話しをする前に、一応は日本との共同開発も模索されたのだが、日本は21式の実質的にはマイナーチェンジである34式の開発が進んでいた事もあり、早々に満州はアメリカとの話しに転換している。
 だが、アメリカとの共同開発は両者の考え方の違いからまとまらず、アメリカからの輸入も国情に合わないと断り、結果として完全国産戦車を開発する運びとなった。(※満州はライフル砲でもいいので、断固として120mm砲を求めたが、当時120mm滑空砲はまだ開発中だった。)

 満州の第三世代戦車も、60トンを越える巨体に複合装甲(チョバム・アーマー)、120mm滑腔砲(初期型は新型の長砲身120mmライフル砲)、1200〜1500馬力級のエンジン、軽快な足回りを備えているが、開発は苦労の連続だった。
 まず問題となったのが主砲だった。銃、砲の開発には、冶金技術を中心として非常に長い技術と経験の蓄積が必要で、非常に長い兵器開発の歴史を持つヨーロッパ諸国が得意としていた。ベルギーやチェコに銃器メーカーがあるのがその影響だ。隣国日本もあまり得意ではなく、しかも日本の場合は古くから艦艇の火砲開発に特化していて、先代の「21式戦車」も海軍砲の概念や設計を流用していた。
 このため新たなコンセプトに基づく主砲の開発に対して、純国産は断念せざるを得なかった。しかも新機軸ともいえる滑腔砲の開発の遅れもあり、半ば妥協の産物として初期型は保険として開発していた長砲身の120mmライフル砲を搭載した(※同タイプは俗称で「剣虎」と呼ばれた。)。
 そして結局、多数の亡命ドイツ人及び亡命ドイツ企業のノウハウを抱えるアメリカとの名目上の共同開発となり、何とか滑腔砲の完成にこぎ着けている。とはいえ満州は、ほとんど金を出しただけで、ライセンス生産も少し遅れたためライフル砲搭載型の数が予定より増えている。
 なお、新型戦車の正式化がアメリカより1年遅かったのは、自前の新型ライフル砲の開発の遅れなどが原因している。しかし通説として、滑腔砲のライセンス生産認可の遅れなどアメリカの嫌がらせ説が流布した。
 エンジンとトランスミッションの経験は既にかなり積んでいたが、60トン級の重量を中戦車並に動かす1500馬力級のエンジンとなるとやはり困難が伴った。同じように、足回りも相応に苦労した。それでも第二次世界大戦頃から多数の装甲車両を運用し、多くの車両を何らかの形で開発、生産してきた事もあり、時間をかけることで克服できた。ただしアメリカのようなガスタービンエンジンではなく、ディーゼルエンジンを搭載している。またエンジンや足回りの開発では、一部日本の企業との共同開発となっている。同じ技術は、日本での車両開発にも活かされている。
 照準システムなどは自力開発できたが、一部は日本が有していた技術をライセンスしていた。

 そうして完成したのが「80式戦車(鉄虎)」だった。
 1980年に本格的量産が開始され、年産400両以上のハイペースで生産され、1992年までに5000両を超える数が生産された。これだけ一気に生産されたのは、1980年代の満州帝国陸軍の第一線の戦車定数が約5500両で、「21式戦車」の旧式化がそろろそ深刻化していたからだ。また、少し遅れてだが、シベリア共和国、支那連邦共和国にも輸出されていった。さらに余剰となり退役した「21式戦車」の一部は、再整備の後にメンテナンス請負の形で、内蒙古、シベリア共和国などに安価で輸出されたりもしている。配備当時戦争中だったイランも、500両近くも中古戦車を購入している。
 「80式戦車」が開発されるまで、そして配備開始後も足りない分は従来の「21式戦車」か「21式戦車」の改良型が使われた。しかし満州帝国陸軍の場合は、日本が「21式戦車」を大幅に改良した「34式戦車」を新規開発したのに対して、「21式戦車」はあくまで既存の車両を必要最小限の改修に止めてそのまま運用し、一気に第三世代型の「80式戦車」を開発している。このため70年代半ばは満州陸軍の危機とも言われたが、イラン・イラク戦争での「21式戦車」の活躍から、心理的余裕をもって「80式戦車」の配備を進めることができた。

 また、満州帝国陸軍は、戦車以外の装甲車両も豊富に装備していた。戦車と共に行動する装甲車の主力は、日本軍も「三一式装甲車」として使用している「72式戦闘装甲車」で、最終的に改良型を含めて2000両以上を保有した。スイス・エリコン社の25mm機関砲を砲塔に搭載し、車体各所の銃眼、追加装備の対戦車ミサイルを装備するので、非常に戦闘力が高かった。また、砲塔を大型化して主砲を35mm機関砲とした派生型の「75式偵察装甲車」も、500両近く保有している。当時のそれ以外の装甲車は、インドネシア戦争の頃にアメリカから供与されたり安価で買い込んだ「M113」装甲車とその派生型がほとんどだが、合計4000両近く有していた。また1990年頃には、次世代の装甲戦闘車両といえる、装輪式の重武装装甲車の開発が始まっていた。
 他にも様々な装甲車両があり、化学戦対応の特殊車両なども豊富だった。自走重砲も500両以上あり、その他支援用の車両も出来る限り装甲車化して軍全体で非常に機械化が進んでいた。切り札のMLRSも、最終的に200両近く導入されている。中には、戦術目的の巡航ミサイル発射用の車両まであった。

 そして満州陸軍のもう一つの特徴は、対空戦車だった。
 満州陸軍は、第二次世界大戦の連合軍の中では珍しく、自軍上空の制空権確保に苦労した経験を持っていた。大戦後半にはそれも覆されたが、戦争序盤から中盤の苦境が骨身にしみていた満州帝国陸軍の日本人将校達は、戦場を機動する部隊に随伴できる高性能の自走高射砲が必要不可欠だと痛感していた。実際、戦争中は高射砲、高射機関砲に何度も窮地を救われた経験を持っていた。
 このため第二次世界大戦後も、対空戦車の開発には熱が入れられた。戦後に、敵手だったドイツ人を開発のため招き入れたほどだった。
 大戦中から、M2重機関銃を4門束ねた通称「ミートチョッパー」を装備したハーフトラックを保持したり、新たに中古のM4シャーマン戦車にヴォフォース社の40mm砲を単装で装備した「48式自走対空戦車」を開発したりした。「48式」は支那戦争に投入され、相応の戦果を記録した。
 戦後になると、アメリカから「M42ダスター」の供与を受ける前に、自力で「62式自走対空戦車」を開発したが、捜索レーダーと光学照準のかけ合わせでは満足にはほど遠かった。他にも近接防空用に「ミートチョッパー」を「M113」装甲車に据えて捜索レーダーを付けた「69式自走対空戦車」を開発してみたが、こちらはレーダーを外した光学照準のみとした上で、万が一の際の「人の海」に備える対歩兵装備とされ、支那方面の部隊に配備されたに止まっている。ただし「69式」は一部がインドネシア戦争に投入され、対地制圧に用いられるだけでなく、航空機撃墜の戦果も記録している。
 そうした失敗を経つつも、対空戦車の開発に力を入れていき、1975年に「75式対空戦車(雪豹)」として正式化された。
 装甲を大幅に軽量化した「21式戦車」の車体に、独特の形状を持つ砲塔を配置。車体には、価格低下のため一部中古車両も使われた。
 スイスのエリコン社の35mm機関砲を砲塔を挟み込むように2門装備し、これを測距機能付きの捜索レーダーと追尾レーダーで射撃する。射撃統制装置もアナログながら当時の最新を搭載し、後の近代改修でデジタル化とレーダーの改良を行ってさらに精度を上げている。また改修型は、最大で4発の短射程の撃ちっぱなし誘導ミサイルが搭載可能なハイブリッド型とされた。
 高価な車両だったが、演習での結果は上々だった。さっそく量産に移され、全軍の機械化高射砲大隊への配備が開始される。
 一方では、砲塔とそのシステム自体のみをまとめ、艦載対空砲用の「78式近接対空砲 ディフェンダー」として艦艇へと搭載する。満州海軍は小規模で中古艦艇が多くさらに小型艦艇ばかりで、自力での兵器開発能力は無きに等しい為、大所帯の陸軍からこうして装備を共有する流れが強かった。
 海軍では陸軍の高射砲を、旧式化著しい装備の近代化に用いることとした。70年代なので、まだアメリカでCIWSは開発途上のため、ある程度の艦艇攻撃も可能な自己完結した35mm砲塔は非常に魅力的だった為だ。
 同時期日本にも売り込みが行われたが、その時点での日本海軍は、駐留先のイタリアとの関係もあってイタリア企業が開発していた軽量な76mm砲を軽艦艇用の砲や対空砲として多用していた。35mm砲塔にはCIWSとして興味は向けたが、アメリカが開発中だったものに比べて嵩張るし重い為、当初は採用は見送られた。しかしその後、80年代半ばになると超近距離と近距離の間の防空手段として注目し、装備一式を輸入して各艦艇に搭載するようになった。
 さらにその後、高価な対空射撃システムを外した簡易型が、日満の沿岸警備隊用の艦艇にも搭載されている。
 「75式対空戦車」自体は、重戦車を車体としたことが仇となったのか、他国への売り込みはあまり成功しなかった(※そもそも、大型の砲塔なので大型の車体が必要だったが、全重量は50トン以上あった。)。逆に日満の「21式戦車」を運用する国からは興味を示され、日本を最多購入国としてインド、イランなど数カ国へのセールに成功している。イラン・イラク戦争では、早くも戦果を記録していた。だが、そもそも兵器体系の違う西ヨーロッパにはあまり売れず、イタリア、クロアチアが購入したに止まっている。そして西欧での例のように高価な対空戦車なので販売規模は小さく、兵器セールとしては成功とは言い難いだろう。

 戦車と並んで20世紀後半の陸軍の代表的兵器と言えばヘリコプターだった。中でも獰猛な姿を持つ戦闘ヘリは目立つ存在だった。そして陸軍国家である満州も、戦闘ヘリの整備に力を入れていた。
 1980年代半ばの編成で、満州帝国陸軍は16個中隊を編成していた。1個中隊は4個小隊編成で、1個小隊は斥候ヘリ1、攻撃ヘリ4から編成され、20機で中隊を成す。加えて各師団所属の合計14個の小隊、教導旅団、教導ヘリ旅団の各2個小隊16機分を合わせて、328機が第一線機数になる。これに予備機を含めて、約350機が保有数となる。戦闘ヘリ市場としては巨大であり、満州としても輸入よりは国産で賄いたかった。とは言え、戦闘ヘリが登場してしばらくは、日本からの輸入に頼った。川崎(西崎)の「Ninjaシリーズ」は、80年代半ばまで満州軍の主力戦闘ヘリとして活躍した。しかし満州軍、満州の企業技術を蓄積し、1981年に国産の「81式戦闘ヘリ(炎竜)」を実用化する。
 「炎竜」開発はインドネシア戦争中に始められたが、技術不足から開発は難航した。このためアメリカのシコルスキー社から技術導入を行うなどして、10年の歳月を経てようやく東洋エアクラフトが開発に成功した。
 見た目は他国の戦闘ヘリと比べるとやや流麗で、開発中は高速型の偵察ヘリか汎用ヘリではないかとも言われていた。しかし自重4トンを越え、アメリカの「AH-64」に匹敵すると言われる性能を有していた。複座で双発ジェット搭載で、各種対地装備の他、対空ミサイルも搭載できた。搭載機関砲は当初30mm機関砲が求められたが、銃器開発が苦手だった満州では叶わず、3銃身型の20mm機関砲が搭載された。
 1982年から年産30〜40機ペースで量産され、さらにイラン、インドなどにも輸出され、最終的に400機以上が生産される事になる。

 陸軍、空軍と違って地味なのが、満州帝国海軍になる。
 国土で言えば、浅瀬の渤海と黄海の一部しか海に面していないので、当然と言えば当然だった。
 海軍の主な役割も、北支那(支那共和国)、韓国(韓王国)に対する国境警備で、部隊の大半は沿岸警備隊に近い。20世紀初頭に激しい攻防戦が行われた旅順港は依然として軍港として使われていたが、港内に停泊する艦艇は小型艦が殆どだった。
 潜水艦、空母は保有せず、80年代までは艦艇の海外派兵もほとんど考えられていなかったので、揚陸艦、補給艦すら有していない。インドネシア戦争は予算不足もあり日米からの支援と民間船のチャーターでお茶を濁し、イラン・イラク戦争でのタンカー攻撃では、派遣したくてもできる艦艇がない事が問題視されたりもした。
 大型の水上艦は、象徴的な旗艦として旧式の巡洋艦が在籍していたが、初代、二代目共に日本海軍の旧式艦を譲り受けている。それ以外の水上艦も、艦自体は日本からの譲渡艦か安価での購入ばかりで、それも第二次世界大戦型の駆逐艦に限られている。装備はある程度新型に改装しているが、限定的な能力しかない。
 それでも海外との貿易が国の経済の大きな柱となっているため、70年代ぐらいから少しずつ海軍の近代化が進められるようになった。万が一の際の商業航路防衛を想定したもので、ソ連海軍との正面からの戦いを想定したものではない。日本に依頼して建造した艦も、艦の規模は長期の航海にも耐えうる大きさを有していたが、船体規模に対して装備は軽くされている。一応は追加搭載できる設計が行われていたが、ほとんど追加搭載された事例はない。数は次期によって異なるが満載排水量3000〜5000トン程度の汎用フリゲート艦を4〜8隻程度で、イラン・イラク戦争以後に12隻体制が目指されるようになった。
 また現在に至るも、潜水艦は保有していない。一方では90年代半ば以後になると、小規模な海外展開を想定した揚陸艦艇と複合的な能力を備えた大型補給艦の整備が1隻ずつ程度行われるようになっている。

 最後に核戦力を見ておきたい。
 満州国は、アメリカに承認を受けて1973年に自力での核軍備を実現した。しかし当初は、独自に人工衛星を打ち上げるロケットは持っていながら、大陸間弾道弾を保有していなかった。それどころか、中距離弾道弾、準中距離弾道弾も保有していなかった。満州の開発したロケットは、そうした軍用向きではなかったからだ。
 あるのは航空機搭載型の巡航ミサイルと、日本から中古を買い入れた戦略爆撃機の「轟山」が2個中隊あるだけだった。
 しかも当時満州が保有していた巡航ミサイルでは、搭載できる兵器(機体)に大きな制限もあった。
 これでは宝の持ち腐れになりかねない。
 ソ連に対する抑止力としても、先進国、大国としての威信を維持するためにも、一定程度の運用能力の保持が目指された。将来的には、戦略核と戦略的に運用できる兵器も保有したいとも考えていた。「轟山」は一応戦略的能力を有していたが、新型機を買うことが難しいので、寿命が尽きる前に次の手段が是非とも必要だった。
 とはいえ、満州帝国は大陸国なので、大きな海軍を保有せず、潜水艦に搭載するという選択肢が無かった。そもそも、潜水艦を保有したことが無かった。先述したように、各種弾道弾も保有していなかった。戦略爆撃機を新たに保有するという選択肢も、取得もしくは開発の難しさから候補にすらならなかった。
 当面は「轟山」に載せる以外だと、使い勝手の少し悪い巡航ミサイルに搭載するか、爆弾として航空機に搭載するしかなかった。また当初から一部の核弾頭は、前線後方の陸軍部隊にも砲弾もしくは近距離弾道弾の形で配備されていた。
 そして日本からの「76式攻撃機 嵐竜」導入に合わせる形で、新型の「78式巡航ミサイル」を開発し、これで一定程度の効率的な運用が可能となる。機体の航続距離と合わせて国境から最大で1500キロ程度を射程とした事になり、ソ連に一定程度の脅威を与えた。とはいえ「嵐竜」は戦術目的の機体なので、あくまで戦術核としての運用しか無理だった。だが「轟山」が耐用年数を超えていたので、代替手段とされた。
 しかし、満州軍も手をこまねいている訳ではなかった。ロケット開発も進め、宇宙開発を統合した日本からの技術導入もあり、順次各種弾道弾を開発していった。核大国のような高性能(長射程)の大陸間弾道弾や潜水艦発射弾道弾の保有にはなかなか至らなかったが、準中距離弾道弾、中距離弾道弾、大陸間弾道弾と順番に開発を重ねた。十分な抑止力を有する大陸間弾道弾の正式配備は、1980年代を待たねばならなかった。しかも満州軍の場合は、最初から移動発射型の弾道弾開発が行われた。固定配備は敵からの攻撃に脆弱で、その分だけ抑止力が低下するからだ。
 列車型、車両型が複数開発され、主に満州北部山岳地帯(朝鮮半島に近い辺り)の地下基地に配備された。当然ながら複数の基地が用意され、一部は尾根を挟んで山裾の双方にトンネルで接続されるという大がかりな基地もあった。また車載型の巡航ミサイル発射システムも開発され、一部兵器体系に組み込まれたりもしている。
 核戦力のうち弾道弾部隊は全て軍直轄で、陸軍と空軍配備は戦術核に限られており、これも中央から完全に制御されていた。そうした点は、他の核保有国とあまり違いは見られない。

 次に、日本以外の満州の隣国を見ていこう。
 軍事面では、特に満州とセットに考えられるのが、北と東に位置するシベリア共和国になる。
 お互いに長い国境を接しているが、両国が深い絆で結ばれている限り、両国共に防衛負担を大きく軽減する事ができるためだ。
 実際満州は、東部、北東部をほとんど丸裸にしていて、密入国、密輸対策以外で国境警備隊すらほとんど置いていない。そうした任務も主に警察組織の任務とされている。
 シベリア共和国も同様で、防衛力の全てを北部と僅かな西部国境に集中している。言うまでもないが、ソビエト連邦ロシアに対抗するためだ。
 シベリア共和国は、1980年代で総人口350万人程度。多くがロシア系民族で、一部が先住民系である他は2割程度が日本や満州からの移民で構成されている。しかし優れた移民を受け入れる国家方針から移民にはかなり厳しい審査があり、隣国となる韓王国からの移民は事実上受け入れていないなど、国や地域に対して差別が行われている。
 主な産業は、石油、石炭、そして少し後に天然ガスと、鉱産物の輸出になる。1990年代からはかなりの量(※年産200億立方メートル)が産出される天然ガス輸出が重要な輸出品目になっている。極寒の土地柄なので、農業には限界があった。オホーツク海沿岸での漁業も行われているが、冬のかなりの期間は流氷でできなくなる。林業もそれなりに盛んだ。
 国としては、鉱産物の輸出で得た外貨を元手に国の社会資本の建設、産業開発に力を入れているが、人口規模が限られている事もあり、満州、日本の援助や企業進出があってもあまり成功していない。
 それでも人口に対して多い鉱産物はかなりの外貨になるため、相応に豊かな国となっている。

 しかし総人口350万人では、多少豊かであっても国防には限界がある。このため国防の多くを、満州帝国、日本帝国に頼っているのが現状となっている。満州帝国がアムール川流域、スタノボイ山脈を、日本が北樺太、オホーツク海を担当している。
 しかしシベリア共和国も防衛を完全に隣国に頼るのではなく、出来る限りの防衛力整備を行っている。
 陸軍はスタノボイ山脈の長い国境線の警備隊が、冬季山岳兵として世界的にも有名で、日本、満州ばかりかアメリカ軍からも冬季共同訓練の兵士達がやって来るほどだ。重装備部隊は西部国境のシベリア鉄道接続地近辺に集中されているが、主に遅滞防御用の陣地戦主体で、機甲戦力は限られている。逆に遅滞防御部隊は充実しており、機動重砲部隊は陸軍規模に似合わないほどある。また、敵が攻めてくるまでに、道路や鉄道を破壊するのが主な任務と言われる事もある。
 空軍は重視されて、2個戦闘機隊を保有しており、一定程度の空軍能力を有している。とはいえ80年代に保有していたのは軽戦闘機の「二〇式戦闘機(隼II)」で、あくまで平時の制空権維持に限られている。80年代半ばに新型導入計画が進んでいたが、90年はまだ選定中で実現していなかった。
 海にも面しているため海軍も保有するが、基本的には限られた沿岸警備隊以上の能力はない。しかしオホーツク海のソ連海軍も、水上部隊は装備が多少重装備なだけの沿岸警備隊に近いため、平時に問題になるような事はない。小型の軽砕氷船を保有するのが、唯一の特徴と言える。

 満州にとって国防に深く連動するもう一つの国が、西側にある内蒙古王国だった。
 内蒙古王国は共産圏のモンゴル人民共和国、プリ・モンゴル人民共和国と隣接し、さらに北西部は関係の良くない支那共和国とも接していた。
 だが内蒙古は、建国から第二次世界大戦の頃に漢族を実質的に追い出すなどした事もあり、国土に対して人口は希薄(約50万程度)で、経済力もなく、当然ながら軍事力も貧弱だった。このため満州が内蒙古の国防の一部を肩代わりしていた。特に空軍は、満州だけなら配置しなくてよい配置を行っていた。
 しかし特にプリ・モンゴルとの間に摩擦が多く、日本と共に兵器、資金の援助が恒常化しており、それで何とか国防を行っていたが、満州の国防のアキレス腱と言われて続けていた。冷戦時代は、ソ連が嫌がらせをするお馴染みの場所となっていたほどだ。
 一方では、年々満州との経済関係が強まっており、かなり強引に満州が実質無償で建設した満州=内蒙古間の縦貫鉄道敷設によって、満州による経済的影響力は一気に強まっていた。石炭、鉄鉱石など資源の入手のため、満州としても内蒙古の存在は無視できないものがあった。
 なお内蒙古王国軍には、半ば伝統という建前で騎兵部隊(騎馬部隊)が編成上に存在している。この部隊は、当初は徴兵制や伝統階級を満足させるための苦肉の策だったが、徐々に在郷部隊として整備されていった。そして各地に薄く広く配備されており、儀仗や儀典用としてだけでなく実戦部隊として存在しているのが特徴の一つと言えるだろう。国境警備隊としても、地元の地理を知り尽くしている者が任務に就く事が多いのでかなり優秀と言われる。また、ほとんど空軍を保有しない内蒙古にとって、騎馬の機動力は現代に至っても有力であり続けていた。

 そして満州の隣国としては、南の国境の向こうに朝鮮半島の韓王国があるが、必要性がないため1980年代の韓王国軍は基本的に国内警備軍以上の能力をほとんど有していなかった。
 それも国自体が本格的な近代化を始めたのが1960年からで、80年代だと近代化を始めてから四半世紀しか経過していないため、近代国家としてはまだ発展途上にあった事が大きな原因といわれる。国自体の近代化の度合いは、制度面では近隣の内蒙古より遅れていた。
 近代化のための元手となる外貨獲得手段も、多少の石炭や一部鉱産資源を日満に輸出するぐらいなので、自力では全然足りていないのが実状だった。外資に対して文句を言うことが多い事もあり、開発もあまり進んでいなかった。朝鮮人参が、いまだに有力な輸出品目だったほどだ。加工産業は、日満の援助があっても若干の衣料生産と食糧加工程度しか育っていなかった。フィリピンのように、出稼ぎ労働の仕送り金が一番の外貨獲得手段という状態だった。
 また、朝鮮民族に対する様々な面倒を嫌った日本、満州が、可能な限り国内に封じ込めた上で支援や援助を東側陣営に付け入られない最低限としていた影響もあり、あまり発展は見られなかった。
 近代化や発展の基礎となる公教育の普及も、国の支配層の思惑によって遅れていた。しかも韓王国国内では民主政治、共和政治とともに近代政治家が十分育たず、共産党による内乱から20年を過ぎても民主選挙はできていなかった。歴史的経緯から、かつての官僚や軍人(=両班)は民衆から酷く嫌われていたが、清廉で優秀な官僚団、忠実な軍の育成にも成功したとは言えなかった。今まで搾取されていた者達の一部が、新たな支配層や官僚になったのだが、官僚になると今度は自分たちが搾取を始める場合が多かった。しかも新たな支配層は、かつての支配層同様に国民の無学化に熱心だった。つまるところ、歴史の繰り返しをしていた事になる。
 そして国全体としては、実戦力を有する軍人が力を握る傾向が強くなり、軍人による独裁に近い政府が固定化して、ますます近代化の速度を落としていた。立憲君主制の上で元首となる国王と王族も、古い歴史を誇る国家の表看板として残されているという面が強く、国民から慕われてるとは言えなかった。(それでいて、海外に向けては「500年の歴史を持つ王朝」を言い立てる事は非常に多い。)
 にも関わらず、韓王国から他国に対しては、新たに形成されたり一部生き残っていた特権階層や上流階層が、横領や着服を目的とした援助ばかり日満に請うばかりで、日満の援助機運も下がりっぱなしだった。
 そして国の法の上で身分差別が撤廃されたと言っても、あくまで表向きに過ぎず、所得面では貧困層(※かつての実質的な奴隷階級を含む、国民の半数以上)がほとんどを占めていた。大多数の国民とごく一部の富裕層との対立が日常で、軍隊は警察組織と共にその鎮圧に力を入れざるを得ないし、それ以上の能力を与えられるほど国も豊かではない。多額の警察予算も貧弱な国庫を圧迫していた。
 軍事面では、保有する兵器の全ては日満からの輸入か払い下げ、もしくは援助により賄われているが、必要性がないため重装備はほとんど有していない。また供与したところで、運用する能力もほとんど有していない。持っていても、中古の型落ちだった。象徴的意味合いで無償供与された日本製の中古艦艇が、軍港で虚しく係留されているような状態だった。陸軍、空軍共に日満どちらかの中古兵器が供与されているが、稼働率は低くかった。兵器市場としても、魅力は低かった。
 総合的な状態は、近隣だとフィリピンが比較的近く、経済的に貧しい中南米の国々と少し似ていると言えるだろう。
 そして隣国の直接の脅威のない国なので、日本、満州も赤化の阻止以外では韓王国の状態を放置し続けていた。

 他に、西には支那共和国があるが、支那共和国は一応は西側陣営になるが軍部独裁政権が強い上にあまり親満、親日ではなく、特に満州に対してはマイナス感情が強い為、満州にとっては敵ではないにしても中立に近い感覚があった。
 日満にとっては、当時の支那連邦共和国の方がよほど同盟国、友好国として親近感と信頼があった。とはいえ、基本的に支那中央部で4つに分かれてそれぞれが睨み合っている為、外の世界に力を向ける能力はどの国も全く無かった。
 それに支那地域は基本的にアメリカ利権、アメリカの担当とされているので、国土問題すら抱える満州からのアプローチは常に最低限とされている。

 以上のような近隣諸国の状態から、日本を例外とすると極東の守りは満州帝国の双肩にかかっており、実際の満州帝国の巨大な軍備はその自負を現した形と言えただろう。

●フェイズ123「1980年代の日本軍(1)」